『山口県史講演録』

1999年3月

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軍事から見た明治の山口


表紙

古屋 哲夫

はじめに
1 指導勢力の創出―藩閥と軍閥
2 伊藤博文と山県有朋
3 徴兵制度の形成
4 明治の軍隊と山口県民



はじめに


ただいまご紹介にあづかりました古屋でございます。

  私が担当しておりますのは近代部会であり、山口県というものが成立する廃藩置県から第二次大戦の終了までを守備範囲としております。この間の史料を五冊にまとめることを目標といたしまして、現在はその第一巻として、明治十年代までの政治・社会・文化に関する史料集の編集、校正などの作業を行なっている最中であります。

  そこで今日は、政治史の面からみた明治の山口というものを考えてみようと思うのでありますが、まず一般的にいいますと明治の山口というと藩閥の本拠地といういい方がなされる場合が多いわけであります。すでに明治時代から「薩長土肥」とか「薩長藩閥」といったことばが流布しておりますが、いずれにしても「長州=山口」を抜きにしては、藩閥を語るわけにはまいりません。そしてこの藩閥という基礎のうえに、さらに軍閥というものが発展してくるのであります。

  近代日本は一面からいえば、軍国主義社会であったと特長づけられております。軍国主義と申しますのは、軍事力の維持発展を国家の基本とし、そのために軍事的な価値を最重要と考えるような思想や行動や制度などを指しているわけでありますが、それは欧米に対抗できる軍事力をつくり出そうとする明治維新の根本にある目標と深くかかわっております。従って藩閥が軍国主義を形成する過程で軍閥を生み出してくるのは必然であったと考えられるのであります。

  そこでまず、藩閥・軍閥という点からはいって、問題を軍事にしぼりながら山口の問題を考えてみようというわけであります。



1指導勢力の創出―藩閥と軍閥

 藩閥というのは一般的にいえば幕藩体制の藩における人脈を中心とした勢力ということでありますが、具体的には、討幕派の中心となった藩を基礎にして、その後の明治国家の形成に指導的な力を発揮するようになった勢力を指しています。ですから幕府を倒して明治政府をつくるという段階では、藩閥はまだ姿がみえません。表面に出ているのは、藩そのものであります。

  明治維新の過程というのは、幕府を倒そうとする人々が、一部の公家と結びつきながら、相互に連絡することで倒幕派を形成することが軸になっています。しかしこの倒幕派は彼等だけで幕府を倒すことが出来たわけではありません。彼等はまず、自分の藩を動かし、藩の軍事力を動員することから始めるわけであります。そして倒幕派に掌握された藩は軍事力を伴って動き始め、慶応3年12月9日(旧暦)には、クーデター的に、いわゆる王政復古の大号令を成立させます。その内容は将軍以下の幕府の機構と共に、摂政・関白という朝廷の機構をも廃止して、総裁・議定・参与という三職を中心とする新しい政府をつくるというものであります。

  こうした方向を打ち出した直後に倒幕派は幕府側と戦争を始め、軍事的勝利をおさめていったのでありますから、多くの公家も諸藩もこの方向を支持し、あるいは追随してくることになります。従って当初の政府はこうした勢力を次々に取り込んだ雑然としたものになっています。翌年の慶応4年(9月8日明治と改元)潤4月21日に「政体書」が出されて、新しい太政管制がさだめられるまでのわずかの間に、総裁は有栖川宮熾仁親王で変わりませんが、議定は次々に任命されて30名、参与にいたっては103名にも及んでいます。しかもそれらの中心は皇族、公家、藩主でありまして、実際の運動で活躍してきた一般藩士層は、参与の半分に満たないという有様であります。

  長州藩関係でみると、毛利元徳が慶応4年3月に議定に任命され、参与には慶応4年1月と2月に、広沢真臣、井上謦、伊藤博文、木戸考允が任命されているだけであります。しかし、討幕派のリーダー達は、この新政府にたいして期待していなかったのではないかと思います。さきに触れた「政体書」が出されたのは、江戸開城の直後ですが、その内容は欧米の制度のついての知識をつなぎ合わせたものであり、三権分立の考え方もでてきます。ところが、新政府が現実に支配しているのは、旧幕府の直轄領や旧旗本や政府に反抗した諸藩からの没収地であり、その他の部分は依然として直接的には政府から手の出せない藩主の支配下にあります。

  幕府を倒した討幕派の次の目標は、統一的政治体制をつくりだすために、自分たちも属しており、これまでその機構を利用してきた藩そのものを廃止することに置かれてきます。木戸考允が最初にこの方向に動き始めますが、彼らだけでそれを実現する力はない。そこで、薩摩(鹿児島)の大久保利通と連絡しながら、それぞれの藩内を固め藩主を同意させ、さらに土佐(高知)藩、肥前(佐賀)藩を巻き込んでゆきます。そして、明治2年1月20日には、事態は薩長土肥四藩主が連名で「版籍奉還」を願い出るという所まで進みます。「版籍奉還」とは、土地と人民の支配権を天皇=新政府に差し出すということであり、その結果は藩主の領主権を否定するということを意味します。

  しかし、最早自力では藩を維持し得なくなったと考えた他の藩主たちも、これに追随して「版籍奉還」を願い出ることになり、天皇はこれを認めて藩主を知藩事に任命することになりました。これは表面からみると何も変わっていないようにみえますが、実は藩主の性格が封建領主から、中央政府に任命される地方行政長官にかわったということを意味しています。それは、同時に藩主と藩士の主従関係が制度的に廃止されたということでもあります。

  こうした重要な改革をリードしたのですから、薩長土肥四藩の地位が高まるわけですが、そのなかでも藩主の立場が弱まって、この改革を連絡しながら実現させた藩士層の立場が強まってきます。そしてそれが表面化してくると「藩閥」と呼ばれるようになることになります。先に述べた「政体書」のなかには、「諸官四年ヲ以テ交代ス、公選入札ノ法ヲ用フベシ」というアメリカの大統領選挙のやり方を持ち込んだ規定があるのですが、版籍奉還が大勢となった明治2年5月には、この規定を利用した「官吏公選」が行われています。この選挙はこの一度だけでやめになってしまいますし、政体書では九等官まであるうちの三等官以上を集めて行ったという非常に狭い範囲の選挙でありましたが、山口藩の毛利元徳の姿が消えるなど、政府は大分スリムになり、「薩長土肥」藩閥の比重が格段に高まっています。

  彼等が中心となった中央政府は、統一した地方制度に向けて藩制の画一化の方向を打ち出し、また彼は自らの出身藩の藩政改革にも努力しております。そして明治4年7月にはこれも薩長を中心としたクーデター的なやり方で廃藩置県が実施されます。これは版籍奉還が藩主の願出の形式をとったのと違って、上から一方的に、廃藩置県の詔書と共に「藩ヲ廃シ県ヲ置ク」という一片の太政官布告で片づけられてしまっています。それだけ中央政府の立場が強くなり、同時に藩閥の地位も高まったということを意味しているわけです。

  次の[表1]は、廃藩置県直後の7月29日に改正された太政官制の頂点にいる大臣・参議の一覧表です。ただし、「参議」はそれ以前からある職なので、留任の者もありますが、最初の明治四年段階に出てくる木戸・西郷・大隈・板垣というのは、まさに薩長土肥の代表であります。この表では省略しましたが、参議の下に各省が置かれ、その長官が卿、次官が大輔ですが、その大半も四藩出身者で占められています。この制度は大臣・参議が政策を決定し、各省が実施にあたるという構想でしたが、卿も政策決定に加わるべきだという主張もあり、参議が卿を兼ね、あるいは卿を参議に昇格させるなどして、次第に省が中心になり、明治18年の末に内閣制度に移行することになります。しかし、それまで薩長土肥の時代が続いたというわけではありません。

[表1]太政官時代(明4.7.29-18.12.22)

太政大臣

三条実美

公家

明治4.7.29-18.12.22

左大臣 島津久光
鹿児島
明治7.4.27-8.10.27

右大臣

岩倉具視

公家

明治4.10.8-16.7.20

熾仁親王 皇族 明治13.2.28-18.12.22

参議

木戸孝允

山口

明治4.6.25-7.5.13

参議 山県有朋 山口 明治7.8.2-18.12.22

西郷隆盛

鹿児島

明治4.6.25-6.10.24

黒田清隆 鹿児島 明治7.8.2-15.1.11

大隈重信

佐賀

明治4.7.14-14.10.12

木戸孝允 山口 明治8.3.8-9.3.28

板垣退助

高知

明治4.7.14-6.10.25

板垣退助 高知 明治8.3.12-8.10.27

後藤象二郎

高知

明治6.4.19-6.10.25

西郷従道 鹿児島 明治11.5.24-18.12.22

大木喬任

佐賀

明治6.4.19-18.12.22

川村純義 鹿児島 明治11.5.24-18.12.22

江藤新平

佐賀

明治6.4.19-6.10.25

井上馨 山口 明治11.7.29-18.12.22

大久保利通

鹿児島

明治6.10.12-11.5.14

山田顕義 山口 明治12.9.10-18.12.22

副島種臣

佐賀

明治6.10.13-6.10.25

松方正義 鹿児島 明治14.10.21-18.12.22

伊藤博文

山口

明治6.10.25-18.12.22

大山巌 鹿児島 明治14.10.21-18.12.22

勝安芳

幕臣

明治6.10.25-8.4.25

福岡考弟 高知 明治14.10.21-18.12.22

寺島宗則

鹿児島

明治6.10.28-14.10.21

佐佐木高行 高知 明治14.10.21-18.12.22

伊地知正治

鹿児島

明治7.8.2-8.6.10

     

  廃藩置県までは藩政改革をやりながら藩を解消していくという形で連係していた藩閥勢力が、その後は次々に分裂を始めることになります。最初の分裂は、いわゆる征韓論を巡る分裂ということでありまして、この表で任期の終りが明治6年10月となっている、西郷をはじめとする数人の参議が辞めていくわけであります。西南戦争で西郷が死んだ翌年の明治11年には、大久保利通が暗殺されてしまいます。さらに明治14年には大隈重信が新しい憲法、或いは国会開設の方針を巡って排除されるとか、いろいろ対立、分裂が起こってまいります。板垣と大隈は自由党・改進党といった在野の勢力に転じてゆきます。その結果として薩長土肥といわれていた藩閥の勢力は、土肥の影が薄くなってくる。その結果、薩長藩閥というかたちが明確になってまいります。

[表2]内閣時代(明治期)括弧内は在任(明治年)

総理大臣 (@、Aは第一次、第二次)

伊藤博文
黒田清隆
山県有朋
松方正義
大隈重信
桂太郎
西園寺公望

山口
鹿児島
山口
鹿児島
佐賀
山口
公家

@(18−21) A(25−29) B(31) C(33−34)
(21−22)
@(22-24) A(31-33)
@(24-25) A(29-31)
(31)
@(34-39) A(41-44)
@(39-41) A(44-大正元年)

 薩長藩閥というものが非常にわかりやすい形で出てくるのは、[表2]の明治期の総理大臣の一覧表であります。明治31年の大隈重信内閣が出来るまでは、薩摩と長州で総理大臣の職をやりとりしております。なお、大隈内閣以後については、あとでもう一度ふれることにします。
ところで、藩閥が明治の国家体制を作り上げたということのうちには、当然その中心としての軍事力を作り上げたということもはいっています。つま り、廃藩置県によって統一国家を実現するということは、軍事面からみれば、旧来の藩の持っている軍事力を解体して、新しい原理による軍隊を作り上げていくということであります。
その問題については後で取り上げることにして、ここでは、藩閥の顔ぶれを見てきたついでに、当時の軍首脳部をも人物の面からみておきたいと思います。

[表3]太政官時代の軍首脳

兵部省

兵部卿

嘉彰親王
熾仁親王

皇族
皇族

明治2.7.8-2.12.23
明治3.4.3-4.6.25

兵部大輔

大村益次郎
前原一誠
山県有朋

山口
山口
山口

明治2.7.8-2.9.4
明治2.12.2-3.9.2.
明治4.7.14-5.2.27

明治5.2.27兵部省を廃し、陸海軍省を置く

陸軍卿

山県有朋
山県有朋
西郷従道
大山巌

山口
山口
鹿児島
鹿児島

明治6.6.8-7.2.8
明治7.6.30-11.12.24
明治11.12.24-13.2.28
明治13.2.28-18.12.22

陸軍大輔

山県有朋
西郷従道
津田出
鳥尾小弥太

山口
鹿児島
和歌山
山口

明治5.2.28-6.4.18
明治6.7.2-8.5.22
明治7.7.31-7.7.8
明治9.1.8-9.3.31

海軍卿

勝安芳
川村純義
榎本武揚
川村純義

幕臣
鹿児島
幕臣
鹿児島

明治6.10.25-8.4.25
明治11.5.24-13.2.28
明治13.2.28-14.4.7
明治14.4.7-18.12.22

海軍大輔

川村純義
勝安芳
川村純義
中牟田倉之助
樺山資紀

鹿児島
幕臣
鹿児島
佐賀
鹿児島

明治5.2.28-7.8.5
明治5.5.10-6.10.25
明治7.8.5-11.5.24
明治14.6.16-15.10.12
明治16.12.14-18.12.22


 まず[表3]は、太政官時代の軍関係の省の首脳部の一覧であります。最初は、陸海軍まとめて兵部省というひとつの省で管轄しておりましたが、それが廃藩置県後の明治5年に陸軍省、海軍省に分かれております。そしてご覧のように、その首脳部は殆ど山口と鹿児島、すなわち、薩長であります。すなわち、藩閥の中に軍閥が含まれているということになります。ただ、最初の時期には新しい軍をどう編成するのかという方針もはっきりしていないということもありまして、明治5年に兵部省を分離して、陸海軍省を置きますけれども、その最初には陸軍卿がいないという時期もありますし、海軍を見ますと、旧幕臣であった勝安房=勝海舟が最初の海軍卿になりますが、この時に勝は軍人ではなく、文官の海軍卿が出現しております。これは陸軍に比べて海軍の方が、弱体であり、整備されていなかったことを示していると思います。

[表4]内閣時代の軍部大臣(明治期)

陸軍大臣

海軍大臣

大山巌(18-24)
高島鞆之助(24、29-31)
桂太郎(31-33)
児玉源太郎(33-35)
寺内正毅(35-44)
石本新六(44-45)
上原勇作(45-大元)

鹿児島
鹿児島
山口
山口
山口
岡山
宮崎

西郷従道(18-23、26-31)
樺山資紀(23-25)
仁礼景範(25-26)
山本権兵衛(31-39)
斎藤実(39-大3)

鹿児島
鹿児島
鹿児島
鹿児島
鹿児島
























  軍閥の姿は内閣制度になりますと、もう少しはっきりしてきます。[表4]をご覧いただくと海軍大臣は薩摩が一貫して握っているということが明らかになります。ところが後年では考えられないことですけれど、最初の海軍大臣である西郷従道は、[表3]を見ていただきますと、明治6年に陸軍大輔になり、明治11年に陸軍卿になっております。従ってこの最初の海軍大臣になった時は、実は陸軍中将なんです。そして、予備役の陸軍中将のままで延々として海軍大臣をやっていて、結局明治26年になって、あらためて現役に復帰して、海軍大将になる、予備役の陸軍中将から海軍大将になるという措置がとられております。

  これは、薩摩の勢力が海軍の要職の地位を離すまいと した藩閥的な人事というふうにいえるわけですが、他方からいうと、海軍は水兵の数も少なく、しかも沿海の海や船に慣れた者を徴募するということだったので、陸軍ほど国民生活一般を拘束するものではなかったという事情もありまして、長州側も海軍の地位にそれほど執着を 示さなかったのではないかと思われます。



2伊藤博文と山県有朋

 ところで、こういう地位の一覧表を作ってみますというと、薩長が藩閥として拮抗しているような形に見えてきます。しかし、実際に政治を方向づける力ということになると、次第に薩摩よりも長州、そのなかでも特に伊藤博文と山県有朋の力が強大になってまいります。

  まず、伊藤は明治憲法の起草の中心となることで、その勢力を強化しています。彼は自ら随員を率いてヨーロッパに憲法調査に赴き、帰国後は憲法体制の要として、太政官制が内閣制度に改められると、先ほどの表にみられるように初代の総理大臣に就任します。そして、この首相在職中に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らを集めて、憲法を始め、皇室典範や、憲法附属の法令といわれる議院法・衆議院議員選挙法・貴族令などの起草を主宰 しております。そしてそれらの審査のために枢密院が設置されると、首相を辞して初代の枢密院議長になり、憲法などの成立を主導するということになります。こうした活動が伊藤が4次にわたる内閣を組織するにいたる基礎的な力になっていると思います。

  この伊藤に対して、山県が対抗できるような力を持つようになる基礎はまず軍事制度、その基本となる徴兵制度を成立させたということを起点としています。山県は 廃藩置県と同時に、現在でいえば次官にあたる兵部大輔に就任しておりますが、[表3]にみられるように、その時現在の大臣に当たる「卿」は空席であり、従ってあとでみるように、山県の指揮のもとで徴兵制度が準備されます。そして、明治6年1月に徴兵令が公布されたあと、6月には兵部省から独立していた陸軍省の初代陸軍卿に就任して、徴兵令の実施にあたるのであり、この実績が以後の山県の勢力の基礎になっております。

  ところで、山県は西南戦争の翌年の明治11年には、 陸軍卿の地位を西郷従道にゆずり、以後軍部大臣の表には顔を出さなくなりますが、それは山県の勢力がこの表以外の方面に拡大していったことを意味しています。その第1は、明治11年12月の参謀本部の設置であり、 山県は初代の参謀本部長(のち参謀総長)に就任するために陸軍卿をやめたのであります。参謀本部は、それまでも作戦事務を総轄する権限を与えられていた陸軍省の参謀局を独立させたものですが、この「独立」は軍隊の指揮権を政府の一部である陸軍省の統制の及ばないものとすることにほかなりません。それはやがて「統帥権の独立」という制度に発展してゆくことになります。山県はさらに明治15年に発せられた「軍人勅諭」の起草にもあたっており、彼はまさしく最初に述べました「軍国主義」の形成を主導した人物ということが出来ます。

  このような山県が西南戦争後におこってきた、国民の政治的権利の拡大を求める自由民権運動や、その組織化を主流とした政党に強い敵意を抱いたのは必然の成行であります。そして、彼の第2の新しい活動は、民権運動を抑圧すると共に、そうした民間の運動に動かされないような官僚機構を作り上げるという課題に向けられることになります。

  山県は明治16年に内務卿となり、同18年の第1次伊藤内閣に最初の内務大臣として入閣し、次の黒田内閣 にも留任するわけですが、この間、一方では明治20年の保安条例の制定のような、民権運動への対決姿勢を示すとともに、他方では明治憲法に対応する体系的な地方制度の整備に力をつくしております。その結果、明治21年に市制・町村制、同23年に府県制・郡制が公布されますが、前者では等級選挙制、後者には間接選挙制及び郡会での大地主優遇制がとられ、大きな財産を有する者が大きな影響力を振るえるような制度が考えられています。等級選挙制度というのは、有権者(直接国税2円以上納入の男子)を納税額の多い順に並べて、上から納税額の合計が同じになるようないくつかのグループ(市では3、町村は2)に分け、それぞれから同数の議員を選出させるというやり方であり、納税額の多い者ほど1票の価値が大きくなるというわけです。また、間接選挙というのは、郡会の場合は町村会から選出された議員と大地主(地価1万円以上所有)から選出された議員で構成される、また、府県会議員の選挙権者は、市会・郡会の議員と参事会員に限られておりまして、一般の県民は納税資格があっても、郡会議員や県会議員を直接に選挙することは出来ないというわけです。

  こうした山県の作り上げた地方制度は、国民の不満が地方議会を通じて、下から上に拡がってゆけないようにしたものであり、それだけ官僚の支配力を大きくしたもの、ということができます。その支配の中心となる知事の任免権は内務大臣が握っているのでありますから、山県はこの地方制度の改革によって、内務官僚のなかに自らの勢力を植え付けてゆきます。

  伊藤の場合には、必要に応じてさまざまな人材を登用してゆきますが、それを子分として長く従属させようというやり方をとらない、従って彼の周囲からは藩閥的色彩が薄れてゆきましたが、山県の場合には子分をつくることに熱心でした。かれは、役に立つと見た人材に地位を与える配慮をし、後々面倒をみることで、自己の周辺に派閥を形成していくことになります。山県は内務大臣の次に第3代の総理の座に着くのであり、官界には長州 出身者ばかりではない山県閥が形成され、それは衆議院に対抗するためにつくられた貴族院にも及んでいます。

  貴族院は、皇族・華族議員・勅選議員・多額納税議員で構成されていますが、実務の経験を持つ官僚出身者を 中心とした勅選議員は貴族院を動かす力を持っていましたが、その中でも山県系勢力が形成されています。

  伊藤は国会開設後は、次第に政党との協力が必要だと考えるようになり、やがて、自ら政友会を祖織することになりますが、この間に貴族院の山県系勢力との対立が繰り返されております。日露戦争の時期になると、もはや、総理大臣の地位が薩長の間でやりとりされるという時代ではなくなり、山県有朋の後継者である桂太郎と、伊藤博文から政友会総裁の地位を継いだ西園寺公望が交代で内閣をつくるという桂園(けいえん)時代と呼ばれるような状況に変わってきています。

  ところで、このうち西園寺が自由主義的傾向をもつ公家であったのに対して、桂は長州出身の軍人であり、陸軍卿であった山県の下で軍制改革の中心となり、陸軍次官、陸軍大臣を経て、総理大臣になるのであり、この西園寺と桂を対比すると、伊藤系の勢力と山県系の勢力の性格の違いがよくわかるように思われてきます。

 また、この山県直系である桂の登場は、山県が内務卿、 内務大臣の地位に転じた後も、彼の陸軍内部での勢力は衰えなかったということを意味しています。山県は、一貫して現役軍人の地位を維持しています。軍に対する発言力は予備役に引けば、ほとんどなくなるといってもよいでしょう。山県は内務行政を指揮していたときも現役の陸軍中将でありますし、総理大臣に就任した際にも、 天皇から陸軍創立以来の功労により、特に現役に列するという勅語をもらっています。そして、総理大臣在職中の明治23年6月に陸軍大将に昇任していますが、当時大将は有栖川宮熾仁親王だけですから、皇族以外では西郷隆盛につぐ2人目の大将ということになります。さ らに、日清戦争では第1軍司令官、日露戦争では参謀総長という現役軍人の仕事をこなしているわけでありまして、こうした山県の権威の下で、[表4]にみられるよう に、桂太郎のあとも、児玉源太郎・寺内正毅という山口県出身者が陸軍大臣の座をしめており、さらにその下の田中義一も山県直系とみてよいかと思います。このうち、児玉は早く死にますが、寺内と田中はのちに総理大臣の座にのぽっています。

  こうみてくると、藩閥のなかから薩の海軍、長の陸軍という軍閥が生まれてきたが、特に、山県という特異な指導者によって、陸軍は長州軍閥の支配下におかれ、その下で近代日本を特長づけるような軍隊が形成されてきたということが出来るかと思います。



3徴兵制度の形成


 さて、藩閥・軍閥という形での山口県出身指導者の、中央での活動の話が長くなってしまいましたが、彼らの活動は中央政府が強化され、中央での地位が強固になるにしたがって、地元の山口県下の情勢とは疎遠になってゆきます。そこで次に地方の側から彼らの政策を見てみたいと考えるわけでありますが、そのためには、国民一般を対象にした徴兵制度の問題を検討してみることが重要であります。

  幕末の段階ですでに、欧米に対抗するためには、新しい原理による軍事力の編成が必要だという認識は、幕府の側にも、討幕派の側にも一般化していたといえます。 幕藩体制のもとでは、幕府も藩もそれぞれ独立した軍事力を持っておりますが、その中味をみますと、主従関係を軸として、武士が従者を率いて出陣する、そしてそれらを集めた集団を家格の高い武士が指揮するというのが基本的な姿であります。つまり、典型的なイメージでいえば、騎馬にのった武士が、鉄砲や弓を持った従者を従えて軍団の単位になる、ということですけれども、こう した体制を解体しなくては近代的な軍隊をつくることは出来ません。しかしそれは身分制や主従制そのものを突き崩すことを意味します。

  幕府の方でも、直轄領や旗本知行地から500石につ き1人といった形で農民を徴集しようとしたり、武士か ら従者を切り離して新しい部隊をつくろうとしたりしていますが、従来の体制の変革と結びつかなかったので、情勢を変えるような規模の軍事力は作れませんでした。

  これに対して長州藩の場合には、藩の正規軍の外側に、身分にこだわらずに一般庶民から兵隊を募集して、正兵とは異なる奇兵隊を成立させることに成功し、それが、長州藩を明治維新の主役に押し上げてゆく出発点になります。その成功は、庄屋など村落有力者の積極的支援を得られたことによるものと思われます。奇兵隊は最初攘夷のために作られたものでありましたが、やがて藩のあり方を変えようとする方向に転じ、奇兵隊にならった「諸隊」を生み出し、討幕派が藩の主導権を握る基盤となるわけです。

  後に軍閥の頂点に立つ山県の出発点は、この奇兵隊の軍監に就任したことにあるといってもよいでしょう。彼は足軽より下の中間階級の出身でありますから、身分に捉われない奇兵隊などというものが成立しなければ、後の山県閥もあり得なかったわけであります。山県の軍人としての活動は、奇兵隊軍監として攘夷の報復のため来襲した四国連合艦隊と戦い負傷する、というところから始まります。そして、戊辰戦争では、奇兵隊をひきいて江戸におもむき、ついで北陸鎮撫総督参謀となり、明治2年6月には永世禄600石を与えられています。しかし、その月末から翌年8月にかけては、西郷従道と共に欧米視察旅行に出かけてしまいます。

  この洋行が私には興味深く思われます。といいますのは、この間に奇兵隊をはじめとする長州藩諸隊の整理が行なわれ、これに反抗する脱隊騒動と呼ばれる反乱が展開されておりまして、木戸孝允などは断固たる鎮圧を唱えて画策しております。こうした時期に日本を離れるということは、山県がすでに奇兵隊などとは違う軍隊の編成原理を求めていたことを意味しているように思えるのです。

  奇兵隊などの諸隊は、幕藩体制下の軍事編成の原則からみれば、いろいろと新しい要素を持っておりますが、 あくまで長州藩の軍隊であり、藩主である毛利家を否定するような方向は持ち合わせていなかったといえると思います。従って、討幕の役割を果たした軍車力は、次の段階では否定されて、新しい統一国家のための軍隊が構想されるということになるわけであります。

  そうした方向を明確にしたのは、[表3]の兵部大輔の欄の最初に出てくる大村益次郎であります。彼は、大阪を中心として新しい軍隊を作り出すことを考え、まずそのための士官の養成機関として、明治2年9月大阪に陸軍兵学寮をつくりますが、その直後に京都で襲撃されて、11月に死去しています。しかし、なお暫くは大村の構想が生き延びていたようであります。大村の後任は前原一誠ですが、彼は政府に不満を待ち、山県の帰国直後には辞めて郷里の萩に引きこもってしまい、のちに明治9年の萩の乱を起こすことになります。従って、明治3年8月に帰国した山県が任ぜられたのは大輔の下の兵部少輔でありましたが、彼はこのときから陸軍の実権を掌握 したと考えられるのです。

  この時期の陸軍の方針がどのように決められたかについては、あまり史料がないのですが、実施された政策の重要なものとしては、まだ山県が外遊中で、山口藩の脱隊騒動がほぽ鎮圧された明治3年2月に出された「常備編隊規則」があります。これは、石高1万石につき1小隊を常備することとし、歩兵は60人で1小隊、2小隊で1中隊、5中隊で1大隊(従って10小隊、600人)という統一的な編成規準を示したものであり、政府が版籍奉還という前提の上で、藩の軍事編成に介入し、中央からの統制の下におくという方針を具体化した点で画期的といえます。

  次に重要なのは、同じ明治3年の11月に布達された「徴兵規則」です。山県はその3か月前に兵部少輔に就任しているのですが、彼がこの規則の制定にどのようにかかわったのか、或いは彼の就任以前にこの方針が決定されていたのか、などという点にづいてはわかっていません。しかしその内容は、「1万石につき5人ずつ大阪出張兵部省へ差出す」ことを府藩県に命じたものであり、石高を規準としている点、大阪を中心としている点など に、大村の発想の流れが感じられます。なお、ここで「府藩県」となっているのは、まだ廃藩置県以前ですから、「藩」が存続している一方で、新政府が没収した旧幕府・ 旗本領、佐幕藩領の重要な地域に「府」が、その他一般 には「県」が置かれており、「府藩県三治の制」などといういい方もされています。

  ところで、この「徴兵規則」は、「士族・卒・庶人にかかわらず」、つまり、これまでの身分を無視して、国民一般から20歳から30歳までの身長5尺以上で身体強壮の者を集める、ただし一家の主人や、一人っ子で老父母 や父母に障害のある者を除くという点を主たる内容としていました。これは、一方で国民一般を対象とし、他方で「家」を維持するような免役条項を設けるという点では、後の徴兵令と同じ構造をもっていたといえます。そ して、全国を4つのブロックに分けて、2、3か月ずつずらして実施してゆくことが計画されました。最初に実施されたのは、大阪を中心にした畿内でありましたけれども、この段階で早くも失敗だったことが明らかになり、あとは延期され、結局この制度は廃止されてしまいます。

  では、この失敗がどういうものであったかというと、中央に新政府が出来ても、下部の末端である村落はまだ、旧来のままだったというところに原因があったように思われます。江戸時代の村の基本的な性格を示しているのは、「村請制」という言葉であります。それは村が年貢の納入を請負う組織だという意昧であります。年貢を個々の農民に割り当てるのも、あるいは年貢の払えない農民の分をとりあえず立てかえるのも村ということになるのでありまして、一種の自治的な機能を持っていました。

  従って、徴兵の命令が政府から府藩県に下ると、府藩県はそれを村に伝えるということになります。しかし、村の方では、我々は年貢さえ払っていればよいので、戦争は武士のやるものだ、という意識が強い。従って村からは、うちの村には兵役に堪えうるような強壮な者はいないという返事が返ってくる場合が多かったようであります。それに対して、それでは困るからどうしても出せというと、村で金を出すからお前行ってくれとか、遊び人を金で雇うとか色々なことが起こってきます。しかし、こうした形で人を集めてみても、規律は守らないし、すぐ脱走する。結局バラバラで使い物にならないということになったんだと思います。

  従って、こうした徴兵のためには、人民を直接に掌握する必要がある。そのためにはまず、藩を廃止して統一的な行政組織を作らねばならない。つまり、徴兵の面でいっても廃藩置県が必要になったと思われるのです。廃藩の段階で藩の数は300を越えていますから、いかに小さな藩が多かったかわかります。山口県でも、萩の本藩の他に3支藩があり、それぞれ独立の行政を行っていました。こうした体制を整理して新しい行政組織を作ることが当面の新政府の最大の課題になっていたことは、 廃藩置県の3か月前の明治4年4月に、戸籍法が制定さ れていたことからみても明らかであります。

  この法律による戸籍の作成は翌明治5年に行われますので、その干支をとって壬申(じんしん)戸籍と呼ばれていますが、その特徴は人民を身分別にではなく、地域によって一律に把握する点にあります。そして、戸籍区という新しい区画を設け、そのなかの家屋には、武士とか農民とか区別することなく、一定の順序で番号をつけてゆくということが行われています。徴兵はこの行政組織の整備を待つことになり、当面は廃藩置県で所属のな くなった旧藩兵を藩から引き離して、中央政府の直轄する新軍隊に再編する作業が軍の仕事となっています。

  明治4年4月に東山道・西海道の両鎮台がおかれていますが、実質的に動きはじめたのは、廃藩置県1か月後に東京鎮台(本営東京、分営新潟、上田、名古屋)・大阪鎮台(本営大阪、分営小浜、高松)・鎮西鎮台(本営熊本、分営広島、鹿児島)・東北鎮台(本営仙台、分営青森)という4鎮台制がとられてからだと思います。兵員数は鎮台によって異なりますが、全体で24大隊、先ほどの1大隊600名の規定によりますと、1万4400名という数になります。そのほかには、大中藩(5万石以上) だった県下に1小隊ずつ残す措置がとられますが、それも12月には鎮台から府県の管轄に移され、翌年の1月にはそれらはすべて解体させて、別に管轄高に応じた捕亡吏、のちの巡査を置くように、との指令が出されます。この過程が具体的にどのように進められたかは、史料がなくてわからないのですが、明治10年代の前半になっても、巡査と兵隊は仲が悪い、その原因は士族出身の巡査が農民出身の兵隊を馬鹿にするという関係にあったようでありまして、そこから逆に考えると、旧藩兵の一部は、鎮台と警察という2つの方向に吸収され解体されたといえるかと思います。

  ところで、鎮台をつくったら、次にはそれをどう維持していくかを考えなくてはならない。この兵隊は江戸時代の武士のように、平時は家族と生活して、いざという時に武器を持ってかけつけるというのではなく、常時兵営に駐屯させているのですから、交代・補充の問題が解決されなくては安定した制度にはならないわけです。そのための方策として、最初には解体された旧藩兵を再募集するというやり方がとられましたが、彼らにとっても兵営生活は好ましいものではなくて、予定していた人員が集まらない。そこで、明治5年の後半からは「四民のうち歩兵を望む者」を募るという方式に変えられています。「四民」とは「士農工商」ということでありますから、 国民一般を対象とした志願兵の募集ということになります。山口県に対しても明治5年11月に、このような志願兵を広島の鎮西鎮台第1分営に差出すように、との命令が来ています。これに対して山口県がどのような措置をとり、どれだけの人員を集めたか、という史料は見つかりませんでしたけれど、十分な成果はあげられなかったと推測されます。

  しかし、こうした事態は軍首脳部にとっては、当然予想された事態であったと思われますし、この交代・補充の面からも徴兵制度が急がれるようになったと思われます。すでに、明治5年3月には陸軍省に「徴兵懸」が置かれ、山県を中心とした作業が進められています。そして、その年の11月28日には、徴兵詔書と徴兵告諭が、翌明治6年1月10日には徴兵令が布告されることになります。もっとも明治6年から太陽暦が採用されていますので、明治5年の12月3日が明治6年の1月1日になっています。

  ここでやっと徴兵令が登場することになるのですが、この最初の徴兵令は徴兵を免除する免役の範囲が非常に広いという点が特長でした。免役は大まかにいえば、3つに分類できます。第1は身体が虚弱、あるいは障害があって兵役に堪えない者、これは当然と思われますが、次に第2には現に官公吏である者や、軍の学校・官立学校の生徒があげられており、行政の維持やエリートの育成を徴兵より優先させるというわけです。その次の第3が、初期の徴兵を困難にする原因となったものであり、まず「一家の主人」つまり、戸主を免役にする、これは明治3年の「徴兵規則」でも条件付で対象からはずされていますが、今度は戸主を無条件で免役にしたうえに、さらにその予備軍としての「嗣子並に承祖の孫」、つまり、跡継ぎとそのまた跡継ぎまで無条件に徴兵しないことを 保障し、さらに養子でもよいとしています。さきの「徴兵規則」にみられた老父母や障害のある父母をもつ者、といった条件がなくなっているのですから、免役の範囲が大幅に拡げられているわけです。

  つまり、軍首脳部はそれまでの経験からいって、これ位譲歩しなくては、徴兵は行えないと考えたものと思われます。従って、当初は1年の徴兵人員を、鎮台24大隊1万4400人より少ない1万560人としています。これでゆくと、後の「現役」にあたる「常備軍」が3年、その後の「後備軍」が4年という服役年限が規定されていますから、3年後には常時兵営に3万1680名の兵隊が確保でき、7年後には、非常の際には後備軍まで動員すれば約7万4千人の軍隊が作れるという計算にな ります。この徴兵令でも、この程度の軍隊はつくれると考えられていたわけですが、現実はその思惑を越えて厳しいものでした。

  徴兵令は、明治6年から全国一斉に施行されたわけではありませんでした。徴兵令の施行と同時に、それまでの四鎮台制から全国(当面、北海道・沖縄は除外)を六軍管に区分する六鎮台制に改正されています。第一軍管=東京鎮台、第二軍管=仙台鎮台、第三軍管=名古屋鎮台、第四軍管=大阪鎮台、第五軍管=広島鎮台、第六軍管=熊本鎮台というわけですが、徴兵今は明治6年には第一軍管だけ、明治7年には第三、第四軍管に拡大し、明治8年になってはじめて六軍管全部で徴兵令が実施されるという計画でした。山口県は第五軍管に属していますから、明治8年からの予定でしたが、佐賀の乱が起こったため、明治7年秋に最初の徴兵が行われています。

  ともかく徴兵令が全国に実施されたあとで陸軍省は8年の状況をまとめた『陸軍軍政年報』を発行していますが、そこで徴兵については「人民狡猾にして」、つまり人民はずるがしこくて、いろいろなやり方で免役の名目を 獲得して徴兵のがれをしている、ということが強調されています。そこに報告されている明治8年の数字をみますと、20歳の青年が29万8千人いるのに、25万3千人は免役になっていて、徴兵検査を受けた者は4万5千人、しかもそのうち合格者は1万315人にすぎない、というのです。つまり少なく見積っていた筈の1万560人さえも確保できなかったということです。免役者の比率は実に85パーセント近いのですが、西南戦争後にはさらにこの比率は上がり、明治12年には実に89パーセントを超える、つまり20歳の青年10人のうち9人近くが免役だというわけです。

  免役の名目を獲得するためには、分家をするとか子供がない所に養子に行くとか、絶家、つまり人がいなくな ってしまった家を再興したことにしてそこの戸主になるとか、あるいは年寄りを分籍させてそこに養子に行くとか、さまざまなやり方が考えられていたようです。明治十二年までの免役理由でみると、養子まで含めて六割以 上が「嗣子及び承祖の孫」つまり跡とりで三割前後が戸 主の名義になっています。つまり免役の九割が家関係を 理由とするものだったということになります。

  こうした事態への対応としては、まず免役条件の縮小 が考えられ、徴兵令自体の改正を明治12年、16年と重ねて、明治22年の大改正で、免役は基本的には、身体障害者だけに限ることとし、それ以外は徴兵の猶予又は延期で対応するという制度がつくられ、これで以後徴兵制度は安定的に維持されるようになります。

  しかしこの安定は、こうした法律の改正だけで実現したものではありません。この過程で2つの方向から安定のための条件がつくられてきております。その第1は地域の有力者を徴兵のために動員するというやり方です。当初の徴兵の方法は、鎮台から佐官を正使、尉官を副使とする徴兵使が軍医を帯同し、管轄区を巡回して、直接に徴兵検査を行うということになっています。しかし、免役者の決定はそれ以前に戸籍を引き継いでいる戸長の手で行われており、軍と戸長との間に連絡があるわけではありません。そこで、この両者の間に、明治16年に 府県に兵事課がおかれることになります。この課は日常的に徴兵の準備をするわけですが、その過程で、地域の有力者を集めて募金し、徴兵から帰ってきた者に在営中の成績に応して慰労金を配分する、というような組織が全国につくられるようになってきます。また、軍隊の方からいうと、訓練の一環として、広い地域での行軍を行うようになりますが、これも単に訓練ということだけではなしに、兵隊が市街の民家に分宿する、地域ではそれを歓迎する準備がなされるのでありまして、行軍は一般市民との接触を1つの目的としていたということができます。

  こうした地域と軍との交流を徴兵制安定の第1の条件としますと、第2にはそれをつつみ込む形で、天皇への忠誠意識が社会に浸透してきているということをあげなくてはならないと思います。さきに述べました明治5年11月の志願兵の募集にあたって、「朝廷ノ為メ身命ヲ捨テ奉仕」するという誓文が求められていますが、それは新しい軍隊が藩主への忠誠に代わる天皇への忠誠を軸としていることを示しています。そしてそのことは社仝全体がそうした方向に編成されなければ、実現しなかったことだと思います。

  それは図式的にいってしまえば、天皇を頂点として、軍隊と官僚を2本の支柱とするピラミッド型の上部構造をもった社会であります。そしてその下部は、士官学校・陸軍大学校・帝国大学を通じて一般国民に聞かれており、このルートで吸い上げられた国民の中のエリートたちは、ピラミッドの階段をのぼって天皇に近づき、最後には天皇に直接に任命される親任官に達するわけであります。国民はこうしたエリートの存在を身近に感ずることでこうした社会のあり方全体を受け入れていったのではないでしょうか。ともあれ、伊藤博文のつくった明治憲法が動き始める頃には、山県有朋のつくった徴兵制度も安定的に運用できるようになっていたといえます。



4明治の軍隊と山口県民


 話が長くなって、肝腎の山口県について話す時間が短くなってしまいましたが、実をいうと県の方には軍隊や徴兵に関する史料があまり残っていないという問題があります。これは山口県だけでなく、他の県史をみても同様の状態であることがわかります。例えば、県別の徴兵数を示す継続的な統計というのも見たことがありません。徴兵令では、徴兵人別表を府県毎に2部づつ作って、 陸軍省と鎮台に提出することになっていましたが、現在では防衛庁の戦史部でも、徴兵についてのまとまった史料は、見当たらないようです。

  また、廃藩置県の際に旧山口藩の常備軍がどうなった のか、つまりそのうちのどれだけがどこの鎮台のどの営 所に動員され、どれだけが警察に吸収され、どれだけが 解隊して家に帰ったのか、といった問題も明らかになっ てきません。このとき、山口県には鎮台の分営は置かれておらず、正規軍は存在しなかったということになります。徴兵令が制定された直後の明治6年2月に、山口県 は県下の不平士族の動向を不安として、県庁に武器を準備する許可を求めますが、陸軍省はこれを却下して、代 わりに高松営所から歩兵二小隊を山口に分屯させる(6月に着)という措置をとっています。この頃(明治6年7月)鎮台条例が改正されて、さきに述べましたように、 広島の営所が独立の鎮台に昇格して、山口に分営が置か れることになっていたので、実質的にはその最初の駐屯 兵になったものと思われます。

  従って、その翌年明治7年2月に、士族反乱である佐 賀の乱が起こると、県令中野梧一はこうした弱体な軍事 力を憂慮し、萩の前原一誠を訪れ、治安維待への協力の 約束をとりつけたようです。その結果、前原は檄文を発 し、士族を集め、県は「萩の士族有志が「邏兵」を編成 したから、人民は安心して職業に精出すように」との布達を出しています。「邏」は「みまわる」という意昧であ り、のちの巡査が当時は邏卒と呼ばれていましたから、 それに準ずる兵隊ということでしょうが、どんな活動を したのか、明らかでありません。しかしこれを「兵」と みれば、県令にしろ前原にしろ兵隊を組織する権限はな いのですから明らかに越権行為であり、従って佐賀の乱 が収まると県はすぐに、邏兵の解隊を強く求めるように なっています。ですから、軍事的には大きな動きではな かったでしょうが、これによって前原は各地の不平士族 に注目されるようになり、そこでつくられた連携関係に より、熊本の神風連や秋月の乱に引きずられる形で、前原も萩の乱を起こすことになったと思われます。しかし、 格別に軍事的準備をした形跡はなく、鎮台兵の出動によ って簡単に鎮圧されたといってよいでしょう。

  佐賀の乱に関係してもう一つ触れておきたいのは、翌明治8年からと予定されていた徴兵が、この年の秋から 実施されていることです。この時の徴兵令の規定でいく と、2月〜3月に徴兵検査を行い、4月〜5月に入営と いう日程が予定されているのですが、この年には、10月に入営という異例の措置がとられています。翌年からは規 定通りの日程になっていますが、前に述べましたように、 山口県での徴兵数や免役数は明らかになっていません。

  この最初の徴兵の中では、西南戦争では鍛激戦地とな る田原坂で戦死する者も出て米ます。山口県出身の兵隊 は、歩兵第十一連隊に属していたと思われるのですが、 西南戦争ではまだ、連隊は戦闘の単位になっていません。 輸送力の問題も関連しているのでしょうが、いろいろな連隊から中隊単位で動員して、戦場に投入するというや り方がとられています。従って、どの中隊にどれだけ山 口県人が居るか把握できないので、西南戦争における山 口県出身兵の活躍の全体像はつかめないのですが、負傷 者の記録から、さまざまな戦場で戦っていたことがうか がわれます。  さらにこの戦争では、旧士族兵を募集して、遊撃大隊 という名称をつけた部隊を編成するのですが、この面で も山口県は大きな役割を担っています。遊撃大隊は8大隊つくられるのですが、そのうち第三、第四、第七の三大隊が山口県下で募集されておりますから、その比重は非常に大きかったということができます。  

  そのうえにまた、戦争のためには第一線の兵隊だけでなく、弾薬など物資を運ぶ人夫が必要となるのですが、 この点でも山口県は大きな貢献をしています。参謀本部が後に編纂した戦史『征西戦記稿』によれば、戦争当初は、熊本県では反政府的な気運が強かったので、人夫としては福岡県と山口県の人民を募集した、と述べています。これについては、戦地との間の電報が残されており、当初山口県から5千人を動員する計画が立てられ、次々と募集された人員が送られてゆく様子がうかがわれます。これも動員された人数を全体として把握することはできないのですが、ともかく山口県が政府側の西南戦争推進の大きな力となったことは確かであります。

  こうした状況の下で、徴兵忌避の気分が高まったであ ろうことは十分に想像できるところです。さきに述べましたように徴兵に関する統計は軍管のレベルでしか確認 できませんが、徴兵忌避を合む免役率の高さでみると、 第四軍管(大阪)が最高で、以下第一(東京)、第三(名 古屋)、第六(熊本)、第五(広島)、第二(仙台)の順と なっており、山口県を含む第五軍管は徴兵成績の良い方 と云えますが、それでも免役率は、明治9年77・9%、 同10年80・3%、同11年88・1%、同12年88・ 8%と、西南戦争を契機に急増しております。

  これに対して、徴兵令の改正による免役条件の縮小とか、府県兵事課の設置とか、地域における徴兵支援活動 の組織化といった手が打たれたことはすでに述べました が、山口県の場合にも同様であったと思われます。それに関する行政文書は見当たらないのですが、当時ようやく盛んになってきた新聞報道の中にこうした軍事に関す る記事も見られるようになってまいります。

  山口県の場合に、明治期から最も長く発行が続くのは、 明治17年7月創刊の「防長新聞」であり、県立図書館 には明治21年6月から32年1月までは欠本であ りますが、それ以外は創刊号からのこの新聞が所蔵され ています。この新聞は全国の所蔵機関でも数日分待って いる所があるだけですので、県立図書館のものを利用さ せて頂く以外にないのですが、ともかく全国的にみても 徴兵支援活動が開始される時期にこの新聞が発刊され、 保存されていることが研究に大変役立っています。「防長 新聞」発行と同時の明治17年7月15日の「官報」に は、熊本県報告として、県下の四郡で「徴兵服役者扶助規約」がつくられているとの記事が出ていますが、これ が「官報」でのこの種の記事の最初のもののようです。 以後「官報」は徴兵支援活動に関する記事を多く掲載す るようになり、そうした活動を全国に拡げていく媒体と しての役割を果たしたと思いますが、記事の柱は「徴兵 慰労」と「兵事会」という二本立てになっています。

  山口県の場合もこうした「官報」の動きにリ−ドされていたように思われますが、明治19年になると、熊毛 郡徴兵現役者助力規約(6月)とか、佐波郡軍人優待規 約(8月)、阿武児島郡護国組合規約(10月)などが「防 長新聞」に報ぜられ、さらに20年3月には豊浦郡軍人 優待規約の記事もみられます。新聞の残っている期間が 限られているので、その他の郡の場合はわかりませんが、 相当全県的な動きになったと見てよいのではないかと思 います。  

  その内容としては、すべてに共通しているわけではあ りませんが、徴兵された者の家業を助けるために順番に 労力(できなければ金や米)を提供するとか、或いは現 役を終えて帰郷した者に、在営中の成績に応じて慰労金 を支給するとか、入営・帰郷者の送迎などといった項目 が含まれています。前二者にある慰労金の財源について は規定かありませんが、有力者の寄附に頼っていること は明らかだと思います。それはこうした組織が多くの場 合、上から行政の指導によってつくられていることも関 係しております。  

  そこにあらわれてくるが、「兵事会」とか「兵務研究会」 という名前で呼ばれているような活動であります。さき の熊毛郡の規約も、佐波郡の規約もそれぞれの郡の兵事会が決定したものとして報ぜられておりますが、その他 にも都濃郡兵事会規則(19年7月)、厚狭郡兵務研究会 規則(同8月)等が記事になっています。これはどんな 会かというと大体郡長が会長になって、郡の兵務主任が 中心となり、戸長を集めて徴兵事務の円滑な運用、軍関 係学校への志願の奨励、徴兵支援・慰労問題などが検討 されているわけです。そしてその背後には県兵事課の指 導があったと考えられます。これらのことは、県−郡− 町村−部落という行政系統を軸として、有力者秩序のな かに徴兵制度が日常的な形で食い込んでいったことを示 しているのではないでしょうか。

  ところで、10月の阿武児島郡護国組合では現役者の家業助力の規定だけで、徴兵慰労金の問題が消えてしまい、 代わりに軍人が隊伍をなして行軍し、宿泊する場合に優待する、国旗や燈灯を掲げたり、軍旗に敬礼するといっ た規定があらわれてきます。これは山口県の徴兵を合む 歩兵第十一連隊が、11月から12月にかけて三大隊に分かれて、離合して演習を繰り返しながら山口県下を行 軍する、という計画が明らかにされたことと関連してい たと思われます。

  この行軍は行政の全面的な協力のもとに行われてお り、多くの県民が見物に集まり、萩や山口といった都会 では歓迎行事の中で、軍隊は分列行進や銃剣術や器械体操を披露し、民家に分宿するといった交流も行われてい ます。これは武士中心の封建軍隊とは異なった新しい軍 隊の姿を具体的に示したものであり、県民の軍事意識に も大きな影響を与えたようであります。徴兵といえば懲 役に処せられるかのような徴兵忌避の雰囲気が一掃され たといった報告も寄せられています。山口県もまた、こ の明治20年前後の時期には、軍国主義のなかにつつみ こまれて行ったといってよいのではないかと思うのであ ります。  

  ちょうどこの頃、隣の広島県では、宇品港の築港と呉鎮守府の建設が並行するように進められております。山 口県民を管下においていた広島鎮台は第五師団に再編さ れ、宇品港(のち広島港と改称)が、大陸出兵の拠点と なると、最も近い第五師団は最初に出兵する上陸用師団 と称されるようになるのでありますが、その後の問題は 次の機会がありましたら、お話出来るようにしたいと思 っております。

  ご静聴ありがとうございました。

 [第七回県史講演会(平成10年9月5日、下松市スターピアくだまつ)の記録ですが、当日の録音が一部不調だったこともあり、講演後の会場での質問ヘの答えもおり込んで、少し詳しくご理解いただける ように加筆いたしました。]

( 山口県史編さん委員・近代部会長 京都大学名誉教授)