『青年将校の意識と心理』

2003年6月以降

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永井教授がご調査下さいましたが、刊行されていないもようです。もし何処かに載っておりました節はご連絡お願い致します。

書評
須崎慎一著『二・二六事件』

――青年将校の意識と心理――
(絶筆)


 

古屋 哲夫


 



 著者はすでに、一九八八年七月に「岩波ブックレット」の一冊として『二・二六事件』(六二頁)を出版されており、更に九三年二月、正式裁判記録の存在が明らかになり、閲覧が許可されると、早速その中から、『THIS IS 読売』同年十二月号に、事件当時の陸軍大臣川島義之の調書の全文と石原莞爾・満井佐吉の調書の一部を紹介するとともに、「二・二六事件と陸軍中央」なる一文を寄せている。
この正式裁判記録の読み込みを基礎にして、従来の資料や研究、或いはすでに明らかになっている事情からはなれて、改めて同記録中の調書などから得られる供述のみによって、事件を検討しようというのが本書の基本姿勢であるようにみえる。この裁判記録の場合には、蹶決に参加した将校のみでなく、「反乱者ヲ利スル罪」で起訴された、菅波三郎、大蔵栄一、末松太平らの青年将校運動の先駆者たち、現場で蹶決側の将校と接触した柴有時、松平紹光、山口一太郎の各大尉など、これまで利用されていない多くの調書や手記を含んでいる。しかし裁判そのものは、反乱罪とそれに関連する問題に狭く限られており、本書もそれを意識して、問題を「青年将校の意識と心理」(副題)に限定しているように見える。

 本書では、裁判の性格については何も言及されていないが、陸軍大臣を長官とするこの特設軍法会議は、陸軍省の「兵営を部隊が出発した時点で叛乱と認定する」との見解を基礎とし、出来るだけ速やかに厳罰に処するという方針に従って進められた。事件の二ヵ月後、四月二十八日に第一回公判が開かれた将校グループ二十三名の審理は、三ヶ月もしない七月五日に、十六名の死刑に至るというスピード判決で終る。それは裁判が、事実関係だけに止まっていて、事件の動機や原因に踏み込まなかったことを意味しており、それに抵抗する被告たちからは、裁判がとりあげてくれない主張や心情を訴えるために多くの手記が提出されることになる。本書は、こうした資料のあり方のなかから、いままで重視されてこなかった新たな側面を掘り出そうとしている。

 まず全体の方向について、「二・二六事件とは―通説的理解と実際との間―」と題された序説をおき、@事件の原因は陸軍部内での皇道派対統制派という派閥抗争ではない、A事件は北一輝や西田税の影響や指導によって起こされたものではない、という二つの点を強調する。@の派閥抗争の問題は、相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の暗殺によって裁判闘争に転化され、そこから直接に二・二六事件を引き起こすような動きの無いことは、著者の言うとおりであるが、著者それ以上に、事件は陸軍内部の抗争による者ではない事を、以後のじゅここではまず、Aの問題をめぐって、決起した将校の中には、北一輝の思想に反対の者、無皇道派対統制派という派閥抗争縁の者、名前さえ知らない者などがおり、また北との仲介者であった西田からみても、二二名中面識のあるのは八名に過ぎなかったし、蹶起趣意書の代表者・野中四郎も「未知の人」であったことを指摘している(四〜五頁)。またある面では決起将校の代表とも見られる安藤輝三が、一時決起を躊躇した事情に触れながら、彼は元々「直接行動に反対の立場を貫」(一〇頁)いていたという見方を示す。

 つまり著者は、「裁判記録」によって、これ皇道派対統制派という派閥抗争まで明らかにされて来なかった指導的でない将校の問題を取り上げることで、事件の全体像を再検討しようとしているようである。

  そしてその観点から見れば、事件に参加した将校たちの意識は、いろいろの面で多様であり、バラバラである点が強調されることになる。そしてそのバラバラな多様性から、いかにして事件に至るのか。本書は裁判の被告=決起将校たちの供述を、時間的にさかのぼることから始める。





本書は、「一、青年将校運動とは何だったのか」、「二、青年将校はなぜ決起したのか」、「三,二・二六事件勃発」、「四、『解決』へのプロセス」、「青年将校運動の性格をめぐって―まとめにかえて」という形で構成されているが、これらの題名から見ても、著者が事件の基礎に青年将校運動をおいていることが分かる。しかしこの「運動」を一般的に規定する事はせずに、裁判記録の中の供述を具体的に取り出してくる。
 まず事件の指導者の一人である磯部浅一の調書から、自分も他の青年将校も北・西田の思想によって啓蒙されたことはあるが扇動されたことはない、との供述を引用して冒頭に置き、「青年将校はそれぞれ独自に」「思想形成を遂げ」(一六頁)たとの見方を強調する。そして一九二〇年代から、軍隊の現状・対外関係・庶民の窮状・共産主義への脅威感・政党政治・金権的風潮・日本人のあり方など、さまざまな方向から「現状変革志向」(二九頁)を持った青年将校が登場してくるというのであるが、著者はこの志向を、「彼らが『維新』を考えだす契機」(一六頁)としてまとめてしまい、それ以上「維新」の内容には踏み込んでいない。

 「維新」については一面では、「青年将校たちの決起目的が、『昭和維新』の実現にあった事は間違いない、それは、『神国日本ノ国体ノ真姿ヲ顕現セント欲スルニ在リ』(「坂井直手記」)という点に収斂できよう」(一三三頁)というように、彼らの発言を紹介、代弁するにとどめているが、他面では、その意識が軍中央にも通じている事を強調するのが本書の特色となっている。この部分の註では、他の調書を引用しながら「昭和維新の実現」は「陸軍全体の希望であった」(一四〇頁)とし、同じ場面について「陸軍中央が、青年将校同様、『維新断行』を念願していたことは明らかである」(二一九頁)と繰り返しており、著者は、青年将校たちの維新意識は、陸軍全体からみて、特異のものではなかったこという評価を下しているようである。そしてそれは「青年将校運動」を、陸軍内部の動きと見る見方とつながっている。

 本書が示す「青年将校運動」の形成についての要点をみると、まず一九二〇年代に改造・革新(この時期ではまだ「維新」ではないだろう)の方向に向かう青年将校が現れたが、その関係が「運動」の形をとるのは、三一年の三月事件クーデターが未遂に終った後、八月二十六日に、民間右翼と陸海軍青年将校が最初に一堂に会した日本青年会館の会合からであるとする。そこでは藤井斉を中心とする海軍青年将校に比べて少数派であった陸軍青年将校は、十月事件へ勧誘される過程で勢力を拡大する。しかしこの間に、事件の首謀者である橋本欣五郎らの幕僚たちと兵力の動員をめぐって対立し、事件発覚後、彼等は幕僚層から離脱してゆき、荒木新陸相への支持を軸として結集する、そして、血盟団事件、五・一五事件を引き起こした民間・海軍グループと「決別」して、陸軍だけで結びついた青年将校運動が出発したというのである。

 この運動は、「上下一貫左右一体」(五三頁)というスローガンを掲げ、「合法的」に、軍上層部を動かすことを、基本目標にしていたと、著者は評価する。つまり、「軍中央の『鞭撻』」が「もっとも特徴的行動」であり、従って「軍中央の『応援団』的要素を強くもった運動」(五九〜六〇頁)であったと性格づける。そしてその基礎には、青年将校たちは首脳部と同様な対外強硬=軍備拡張主義者であり、「『兵器の充実』―軍事費の増大こそが、陸軍中央のみならず、青年将校側の主要な要求だった」(八〇頁)というような共通性が存在するとみている。
そして同時に、青年将校運動が陸軍中央によって、上から作られたという側面が強調される。荒木陸相以下の首脳部は、青年将校の訪問を受け入れて懇談し、機密費を供与し、人事上の便宜を与えるなどして、「陸軍中央と青年将校の一体化」(八一頁)をはかったというのである。これらの指摘は興味深いが、とくに歩兵第一聯隊(赤坂)、歩兵第三聯隊(麻布)に、後の二・二六事件の主役となる青年将校運動の拠点が形成されたことと、「人事上の便宜」との関係は重要であったと思われる。しかしこうした捉え方と、青年将校運動は「何をしでかすか分からない」存在として他の勢力に対する「『脅し』の切り札の一枚」になり、陸軍の「抜かない宝刀」になった(五二頁)という評価とは、どう関連しているのであろうか。「応援団」では「宝刀」にはなりえないように思われる。

 著者は、青年将校運動が荒木を中心とした「皇道派」と呼ばれる勢力に従属していた、あるいはその一部であったと見ているが、彼らは「国体原理派」と自称していたようであり、青年将校の側から見ると、彼らの目的にとって上層部の「皇道派」が好都合な存在であったから支持したということになるのではないか。「上下一貫左右一体」という言い方は、かれらの関心が、政策よりも秩序に向けられたことを示しているように思われる。つまり「上下一貫」とは、「上」に対する「上長推進」だけではなく、「下」の下士官兵をも貫いた「統帥権秩序」とでもいうべきものを想定し、それを支える横軸としての「左右一体」は、兵隊の教育、訓練、指揮にあたる隊付将校の横断的結合の強化拡大を目指していた、そして皇道派の観念性が、こうした「統帥権秩序」に対応するものと感じられたのではないだろうか。そこに、皇道派の上層部も感づいていない下士官兵の同志化という発想が生まれてくる可能性があったともみられる。

 著者は、村中孝次が五・一五事件に参加を拒んだ理由として、「個人的ニハ蹶起セス兵力ヲ以テ起チ度イコト」と述べているのに対して、十月事件における橋本欣五郎の動員計画に違和感を抱いていたはずの村中が、このように語ることには「『逃げ口上』的印象さえ感じる」(五八頁)と批判する。しかしその「兵力」を、「同志化された下士官兵」と読み込むとすれば、そこには「上下一貫」の枠内に内在する決起への鼓動が感じられてくるように思われる。


本書は、こうした荒木陸相時代に形成された青年将校運動が、三四年一月に荒木が陸相を辞任して林銑十郎が後任となり、そのもとで三月に永田鉄山が軍務局長に就任する頃から、軍中央によって圧迫され始めたという。しかし、派閥対立史観を排するという著者は、そこに永田を中心とした「統制派」という新しい派閥が登場したという点は認めないようである。本書では「統制派」の問題よりも、青年将校たちが次の政変と関連づけて、宇垣朝鮮総督状況阻止を企てたという指摘(九一頁)の方が興味深い。それは彼らが皇道派に不利な状況を打開するために,軍を超えた政治状況全体の中に、「敵」を設定し直そうという方向に動き始めたことを示しているように見えるからである。
 著者は、青年将校たちは、永田らの幕僚たちを最初から敵視していたわけではないとして、三四年十月幕僚派の主張に基づくパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍省新聞班)が発表されると、その支持普及運動を起こそうとしている点に注目する。しかし永田らはこの運動に不快感を示し、意見具申に行った村中達の動きを「余計ナオ世話デアル」と一蹴したという(九五頁)。軍部の政策の立案実行は、中央部幕僚の職務だと考える立場から云えば、兵の教育に専念している筈の隊付将校が軍中央の政策に関与しようとする事は、軍の秩序の紊乱だということになろう。そしてその翌月には、運動の中心であった村中・磯部が、クーデター計画容疑で逮捕されるという事件(士官学校事件あるいは十一月事件)が起こる。二人はこの事件を、永田直系である片倉衷・辻政信らが士官候補生を使って「でっちあげた」として、片倉・辻を誣告罪で告訴し、更に翌三五年七月一一日付けで「粛軍に関する意見書」を作成・配布して反撃に移る。この意見書は、三月事件・十月事件の責任が隠蔽されている点に軍の混乱の原因があるとして、「粛軍」という新たな闘争目標を設定した。それは青年将校運動から二・二六事件への転回点を示す者と思われるが、本書では残念ながら、裁判記録に関連資料がない(三二八頁参照)として、簡単に概説されるに止まっている。
 村中らは、意見書を軍当局に提出した直後の七月一六日に、陸軍三長官の一角を占めていた皇道派・真崎甚三郎が更迭されると、この人事を統帥権干犯として非難する言論戦を展開し、八月一二日、その影響を受けた相沢三郎中佐が陸軍省に乗り込んで、永田軍務局長を惨殺、ショックを受けた青年将校たちは、三六年一月に始まる相沢公判支援に結集し、そこに歩一、歩三を含む第一師団の満州派遣内定の報が伝えられると、二・二六事件への決起は避けがたいものになったという。
 この過程のなかで著者は、これまでの「『皇道派』の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集していた少尉級を野中(四郎大尉)が組織し、決起へ向けて動きを開始していた」とみる。そして二・二六事件は、これまで運動してきた青年将校に加えて、相沢事件以後の新規参入者を「もうひとつの中心とする楕円のような構造を持っ」て決起したとされる(一二五頁)。しかし二つの中心は、「楕円」を描くように対等に働いているようには見えない。
 事件の計画は旧来からの中心である村中・磯部ら数人によって、短時日に秘密裏に決定され、その後、数日で参加要請が行われ決起に至っている。そこでは最早討議や説得をしている余裕はないのであり、それ以前の十一月・士官学校事件以来、村中・磯部らがいわゆる怪文書によって展開してきた言論戦が、決起への説明書の役割を果たしていたのではないか。そこでのキーワードは、昭和維新、粛軍、統帥権干犯など抽象的で意味内容があいまいな言葉であるが、あいまいであるが故に、さまざまな意識を投入して重臣ブロックの打倒・暗殺をめざす決起に、新たに参加する事が可能になったのではないだろうか。





  二・二六事件の襲撃の過程については、裁判でも争点にならず、新しい証言も出ていないので、本書では概説するにとどめ、襲撃以後、鎮圧に至る経過を検討の主な対象としている。この過程は、首相官邸などの襲撃と同時に、丹生誠忠の率いる部隊が陸相官邸を占拠し、上部工作担当の村中・香田らが川島陸相に面会するところから始まる。

香田はまず、「蹶起趣意書」を読み上げ、「断乎たる決意」で「速やかに本事態の収拾」に向かうことを求めたが、それ以上の具体的な要求は見られない。著者はこの態度を「従来からの青年将校運動のスタンス」とし、「陸軍大臣に事後処理を委任し、文字通り『上長を推進し維新へ』という姿勢を示した」(一五五〜六頁)点に特徴があるとする。しかし彼らの期待するような方向は、本書の叙述する川島陸相や真崎甚三郎大将の動きを見ても、宮中の壁を崩せずに、二十六日の午前中に消えていったとみられるのであり、以後、陸軍中央部は、軍事力を行使する事なしに、決起部隊を撤退させようとする工作に転ずる。

そしてこの工作は、実質的権限を持たない軍事参議官が表面に立って、「陸軍大臣告示」と名付けられた文書を作成して決起側を説得する、という方向で展開されることになる。本書はこの方向に沿って、さまざまな供述を重層的に付け合せ、現場の様相を詳細に検討して、新しい問題を提起している。

まず重要なのは、「陸軍大臣告示」なるものは「青年将校たちを撤退させるための説得要領に過ぎ」(一八一頁)ず、それを作成した「軍事参議官会議は、最初から川島や杉山主導で、『説得要領』を立案する会議だったのではないか」(一八四頁)という推論である。これは、宮中での川島陸相・杉山元参謀次長(閑院宮参謀総長は病気で登場せず)・香椎浩一東京警備司令官(戒厳令施行にともない戒厳司令官となる)らの様子や会話についての、幕僚の証言によるものであるが、この三人は権限をもった責任者であり、彼らが辞退を誘導したという点が重要であろう。

 

 

 

 軍事参議官会議の模様や、「告示」の原稿を誰が執筆し、誰が修正したのか、軍事参議官と決起将校との会談の内容などについて、関係者やその周辺の、さまざまな新たな問題を提起している点が注目される。

 そこにはこれまで取り上げられて来なかった人物の証言もあり、この過程の解明は、これまでの研究史でも中心的課題とされてきた。本書でもこの会見の間に、山下奉文少将、真崎甚三郎大将、古荘陸軍次官らが呼び出され、また、青年将校運動で「別格」と呼ばれた(七二頁)山口一太郎大尉を先導役として、決起部隊の歩哨線を通過してきた小藤恵第一連隊長や石原莞爾参謀本部作戦課長などいろいろな人物が登場する。

  すでに憲兵調書が公刊されている場合でも、より細かな供述が得られているようである。特に決起将校の間を動き回り、彼等と軍事参議官らとの会見に立ち合っている山口一太郎の調書は、ここでの構成のひとつの軸となっていて興味深い。しかし全てが明らかになるわけではない。例えば、決起将校らの期待を背にして午前十時前後には宮中に入った川島陸相や真崎大将らが、事件解決のためにどんな構想を持っていたのかはさっぱり明らかにならない。具体的な動きとしては、午後二時ごろから宮中で、川島陸相が召集した非公式の軍事参議官会議が開かれたのが最初のようである。ここで川島陸相は軍事参議官たちに主導権を渡してしまい、決起側に渡すために作られた文書に、「陸軍大臣ヨリ」とか「陸軍大臣告示」という題名をつけることを了承しただけで、以後表面から姿を消している。また「強力内閣」や「大詔煥発」を構想していた(一七四頁)という真崎大将にしても、午前中の宮中での行動は明らかでなく、午後には軍事参議官の一員としての立場に終始するようになったといってよいのであろう。

 本書を読むと、事件処理の中心に軍事参議官や陸軍大臣告示が浮かび上がった時点で、決起側が何らかの成果を得る見込みがなくなっていたことが理解できる。

 以後も決起将校らはこの陸相官邸の占拠を続け、彼らとの接触を求める勢力との観を呈する事になり、この背後に三宅坂一体に展開した約一四〇〇名の決起部隊がある。これに対して、彼等に職場を追われた陸軍省・参謀本部の幕僚たちは、皇居の反対側、九段の憲兵司令部や偕行社などを仮住まいとしてこれに対峙している。

  望事項七項目をみても、今後の対策については、@「断固たる決意により速やかに本事態の収拾」をはかれ、という一項目しかない。他の項目ではA「皇軍相撃つ不祥事」を起こさないよう処置し、F決起部隊を移動させないという占拠態勢維持の要求を除くと、B宇垣、南、小磯、建川の四将軍の逮捕、C中央部幕僚の根本大佐、武藤中佐、片倉少佐の罷免、D荒木大将を関東軍司令官に起用、E大岸大尉ら九名を東京に採用して意見を聞くこと、という人事に関する要求が四項目に及んでいる。著者は、この要求の特徴は「陸軍大臣に事後処理を委任」しており、「上長を推進して維新へ」という「従来からの青年将校運動のスタンスの具現化」と捉える(一五四〜一五六頁)が、しかしここでは、その陸軍の「上長」が、次の内閣の指名のために、宮中を動かせるかどうかが問題となる。

決起側の期待を一身に集めた真崎甚三郎も、海軍の加藤寛治大将と組んで伏見宮軍令部総長の上奏を促し、組閣のきっかけをつかもうとしたが、事件を不快とした天皇に取り上げられずに失敗に終る。宮中は二六日午後には、一木

彼らが自らの行動を「維新」として正当化する背後には、軍人を正義を担うべき存在とする軍人観、軍を内部から革新し、更には社会や政治を、天皇を中心とする秩序を強化する方向に変革ようとする欲求などが絡み合っていたのではあるまいか。
二・二六事件の裁判は、事件後の陸軍首脳部の意向を受けて、極めて短時日に、非公開、弁護人なしで

 この捉え方からは運動のスローガンは、左右=青年将校の横断的結合のうえに、上下=全軍を一体化し、その先に天皇を志向するということであろう。そしてその基礎である「左右一体」の要求は、荒木陸相就任以前に、十月事件での幕僚たちとの対立から出発しているように見える。

  その点で、本書で紹介されている十月事件についての菅波手記が興味深い。事件の首謀者橋本欣五郎と青年将校運動の先駆者菅波三郎との対立は、すでに色々と書かれているが、この手記では、幕僚である橋本の「指令的態度」に隊付将校であった菅波は強く反発し、橋本が「クーデター決行の指令を発せば之に和するが如くして、歩一、歩三の蹶起部隊を直ちに参謀本部に集中」し、「橋本以下妄動幕僚を捕捉」する決心をするにいたった(四四〜四五頁)、と記しているという。

  中央部との関係については、例えば、五・一五事件突発に際して、栗原中尉が数人の将校たちと陸相官邸に至り、「戒厳令ヲ布キ軍政府ヲ樹立シ国家ノ改造ヲナスヘク主張」したのに対して、軍首脳部は、準備研究が不十分だが「ソノ方針ハ同意ナリ」と述べたとの手記を引用し、「陸軍中央と青年将校の発想は、ほぼ一致していたといってよい」(六一頁)とも断じている。

  当時日本の陸軍は聯隊単位で駐屯しており、歩一、歩三とはを指しているが、東京には、近衛師団以外には、第一師団に属するこの両聯隊しか存在していない(第一師団には他に第四九、五七の両聯隊があるが、駐屯地は山梨県甲府と千葉県佐倉)。これらの在京部隊のうち、近衛師団は特殊な存在なので、クーデターに兵力を動員するとすれば、歩一、歩三がまず狙われる事になる。そして軍の基礎的組織となっているのは「中隊」であるから、兵隊を部隊として出動させるためには中隊長(大尉)以下の隊付将校の協力が不可欠である。

  著者は「十月事件は、主導権の問題を除いては」「二・二六と相似の構造をもった計画だった」(四十七頁)とするが、 先の菅波手記は、自分たちが掌握している筈の兵隊を一片の指令で動かそうとする策謀への憤激を示しているのではないか。そして彼らの地位が、クーデターなど兵力使用の計画にとって決定的に重要であることを改めて認識し、そこから、その地位が他の勢力に利用されないように、陸軍部内だけでの結合を基本として、「上下一貫」体制の中に組み込もうとする方向が見える。同時にそれは、隊付将校を横断的に結合させようとする「左右一体」の横軸にもつながる。とすれば、縦軸の「上下一貫」には、「上」の首脳部ばかりでなく、「下」の下士官兵をも同志化する可能性を含んでいたのではないか。

  二・二六事件から振り返ってみれば、「上下一貫左右一体」のスローガンを掲げた運動によって、歩一、歩三の拠点を確保し続けたことの意味は大きい。

 重臣を「軍閥」打倒という新たな視点を加えているのであり、千四百名の武装兵力が三宅坂一帯を占拠し続けるという具体的事実の解消が急務であり、ロンドン海軍軍縮条約の締結を「統帥権干犯」として攻撃する運動が軍部にも深く浸透し、それが青年将校が登場してくる前提であったことを考えると、十月事件における対立は、統帥権の問題を身近に捉えるきっかけとなったのではないか。

  ここで青年将校とは、日本陸軍の彼等は部隊の中にいて天皇に直属する統帥権の基礎を支えながら、兵士との間に命令服従のみでなく相互信頼の関係をも加えることによって、軍隊の秩序を社会の模範とし、国家の機軸とする方向を模索していたのではないだろうか。
たとえば荒木時代末期の三三年一二月に、陸軍省(海軍省も追随)が軍部批判勢力に、公然と「軍民離間声明」をぶつけた際には、「抜かない宝刀」の威力は感じられていないように見えるのである。従って、統制派の登場によっての方針が困難になった事は実感されていた(九二頁)
 すでに最初に見たように、二・二六事件の原因は皇道派対統制派の派閥抗争ではない、と主張する著者は、青年将校運動から決起が生じてくる過程でも、派閥抗争のみでなく「統制派」の存在さえ。

  林新陸相は、はじめ皇道派に近いと見られていたが、次第に永田に実権を握られる、そしてしたというのがであろう。この名称は、総動員体制のための統制経済の強化という国政に対する主張と、青年将校運動を統制しようという幕僚の立場の双方を表現しているとして、広く流通しているが、軍首脳部の反皇道派を「統制派」と一括するわけにも行かない。むしろ永田派というのが実態に近かったようにも思われる。著者は「『皇道派』という概念の危うさ」(九四頁)を指摘するが、「統制派」についても同様であり、当時の用語があいまいなまま使用され続けているのではないか
両派の対立についてが、