『史学雑誌』64編5号

1954年5月

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回顧と展望・日本近代二


 

古屋 哲夫



1


  現在我々のたゝかいの直面している困難な情勢は、天皇制の解明を極めて実践的な、緊急な課題としている。1954年度の日本近代史の分野での主要な成果が、それぞれの角度から、この課題に答えようとしていることは、当然のこととは云え、注目に価するであらう。まず天皇制の確立をその軍国主義的側面から解明したものとして、藤原彰「日本軍国主義の戦略思想― 1886年〜89年の軍制改革を中心として」(「思想」2月号)をあげることが出来る。この論文は、86−9年にわたる軍制改革が、具体的日程にのぼった侵略戦争に対応して近代戦に適応しうる国民軍の創出を目的としながら、その軍隊を封建的土地所有の下にある農民に基礎ずけなければならなかったことによる矛盾を実証的に明かにし、この矛盾を天皇制の改革、土地革命なしに解決しようとした為に、軍隊秩序を国家的規模にまで拡大するという軍国主義化が必然のものとなったとし、そしてこの同じ矛盾から生み出されて来た戦略思想に於ける極度の精神主義と非合理性とを分析している。この様な軍事的側面からのアプローチに対して、前島省三「日本政党政治の史的分析」(法律文化社)は天皇制権力の階級規定を明確ならしめようとする問題意識の下に、大隈の条約改正から原敬内閣に至る政治史をとりあげる。本書は「近代日本の形成と三つの戦争」と副題されている様に、戦争と資本主義経済と政党政治との関連を追及しながら、権力の性格にまで迫らうとするものである。その主要な論点としては、日清戦争が絶対主義官僚に指導されたことを認めながら同時にそれが、財閥ブルジョアジーの自覚と利益とに支えられていたとする点。帝国主義の確立を、地租増徴案、増税案を指標とする、ブルジョアジーの政治的ヘゲモニーの確立に対応したものとして30年代前半に見出し、絶対主義権力が金融ブルジョアジーの帝国主義権力として利用されたとする点。原敬内閣の成立とその貴族院操縦の成功を以て、ブルジョアジーの実質的な権力掌握とみる点。そしてこの内閣の時期の基本的政治過程を独占資本対労働者階級の社会主義的反抗において把えることにより、原内閣を「昭和初年の皇道派的ファシズムに途を清めたファッショ的性格をおび」ていたと評価する点、等をあげることが出来るであらう。これらの論点を一貫して、氏はブルジョアジーの政治的発言力の増大と云う側面を強調されている。しかし絶対主義的政治機構が、その軍事的側面を中心に政治構造の中で大きな役割を果たしたことの意義は、充分に明かにされていない。従ってそれがブルジョアジーの過大評価に終り、天皇制の独自的意義を抹殺したとの批判を免れ難いであらう。同氏には他に「日本帝国主義の確立とブルジョア内閣」(「日本史研究」21)がある。

  日清戦争については、岡義武「日清戦争と当時における対外意識(一)」(「国家学会雑誌」68−3・4)が前島氏と対蹠的な論点を示している。この論文は当時の中国に対する意識が先進国としての優越感と中国の潜在力に対する伝統的高評価から来る警戒との交錯として現われていたことを明かにするが、その中で、自由党に比べよりブルジョア的であった改進党が、より好戦的であり、リアリズムを欠いた血醒いロマンティシズムに支配されていたのは、この戦争が、国内資本の現実の膨張意欲によるものでなく、「日本資本主義の将来の発展のための基礎条件を一般的に拡大することをその経済的側面とするものであったことを象徴するものではないであらうか」とされているのは興論の側からのアプローチとして注目に価しよう。亦、原敬内閣をファッショ的と規定する前島氏に対して、服部之総『明治の政治家たち―原敬をめぐる人々―下巻』(岩波新書)は、原敬が「暗殺されたのは、明治の政治が生きすぎたゝめである」と全く異った見解を示している。服部氏は、こゝでは、所謂桂園時代の内相・原敬をとりあげ、その山県系官僚の堅陣に切り込んでいく力の根源を「恒産ある地方の名望家を基調とする政友会の再編成」に見出し、それらの名望家を、「寄生超大地主であり、寄生超大株式所有者金利生活者であるところの天皇と同質の存在と化」した、全国いたるところの小天皇であると規定する。この指摘は天皇制の有力者支配たる一面を明かにするものとして重要であるが、しかしこの基底での再編成と、頂点での政権たらい廻しとの関連や、それらを一貫する政治指導の性格など多くの問題が残されている様に思われる。

  これらの政治史に力点を置く研究に対して、イデオロギーの面から天皇制をとりあげたものとして石田雄『明治政治思想史研究』(未来社)をみることができる。本書は前編「家族国家観の構造と機能」・後編「明治思想史の諸問題」とに分けられるが、全体制的イデオロギーとしての「家族国家」観の分析に重点が置かれている。著者は先ず、「家族国家」観が儒教的家族主義と社会有機体論との癒着によって形成されたことを明かにし、次にその構造に就て、底辺に於ける個別家族制度が総合家族制度としての家族国家に延長拡大されると共に、頂点からみれば、少数の利益を社会有機体そのものの利益として追及しながら、社会主義と個人主義の攻げきから家族主義をカバーする国家理論として把えている。そして更に、この底辺における家族主義と上からの官僚支配とを媒介する機能を国家主義団体及びその非日常的な限界を克服した半官半民団体に見出している。この「家族国家」観の内面からの精緻な分析は、そのまゝ天皇制に対する新しい視角を設定しており、この年の最大の業績の一つに数えうるであらう。後篇では、種々の問題に就いて、思想の政治的、或は現実的機能が追求される。本書は方法的にも、社会心理学・近代政治学等隣接科学の成果の大胆な摂取や、思想の政治的機能の究明によって、政治構造にアプローチする新しい角度を示している点、種々の成果を生み出したものと云えよう。尚本書についてはすでに藤田省三(「思想」1995―1月)、守本順一郎(「歴史学研究」181)、竹内良和(「史学雑誌」64―4)等、多くの書評が試みられている。

  以上、天皇制及び支配階級を対象とした研究をとりあげて来たがこの他には、大久保利謙「明治憲法の制定過程と国体論―岩倉具視の『大政紀要』による側面観―」(「歴史地理」85−1)、中村菊男「初期議会と星亨」(「法学研究」27−2、5、10)、松本三之助「明治立憲主義と政党(一)」(「法学雑誌」一−三)、小牧近江「ボアソナード」(「社会労働研究」一)等があるが、特に松本氏のものは、政治学的なアプローチに於て注目される。  寄生地主制については研究が立ちおくれている感があり、守田志郎氏の歴史学研究大会報告「日本における寄生地主制の確立と展望」(「歴史と現代」所収・岩波書店)が一般的な問題点を指摘している他は、地方史研究の成果として、岡光夫「北海道沿岸都市の展開とその近郊における寄生地主制の成立」(「歴史家」三、四)、旗手勲「帝室御料地における所謂寄生地主制の成立と小作争議の発生―上川郡神楽村の事例―」(「歴史家」3)、名古屋大学経済学部・村の歴史を知る会「寄生地主制の衰退と商品生産の発展―愛知県一宮市大字西大海道について―」(「歴史評論」56)等をあげうるに止まるが、小作運動を地主側の資料からとりあげると共に、地主側の対応を問題にしたものに、守田志郎「農民運動昂揚期における地主の組織―大正後期新潟県千町歩地主の文書より―」(「歴史学研究」172)がある。




2


 次に被支配階級に力点を置いた成果として、まず日比谷焼打事件から大隈内閣までを対象とした信夫清三郎「大正デモクラシー史T」(日本評論新社)をあげることができる。本書は現代日本政治の第1巻として刊行されたものであるが、前著「大正政治史」を補完するものとして、その中心課題を、大正デモクラシーの担い手である民衆運動の解明に求め、個々の事件について極めて詳細な叙述を展開する。著書は、この時期の民衆運動の性格を、支配階級のなかにできた割れ目に向って被支配階級の不満と憤慨とが決潰したものであるが、プロレタリアートの未成熟と主体的条件の欠除=組織の欠除のため革命への発展を持たなかったのみでなく、かえってブルジョア民族主義運動にのせられて行った、として、支配階級との連関に於て把えている。即ち民衆運動に於ける政党の指導が重視されている訳であるが、そこに現れたブルジョア的性格と民族主義的性格との内的連関は充分には明かではない。亦、大正政変については、護憲運動の発端を交詢社に求め、金融ブルジョアジー内部における特権的政商的資本家と、産業資本に基礎を置いた資本家との対立が指摘されるのであるが、全国的に展開された商業会議所の運動に触れていないのは疑問である。信夫氏のものとしては他に、「明治末期の民衆運動」(戸沢鉄彦教授還暦記念論文集「ブルジョア革命の研究」所収・日本評論新社)、「明治末年」(「歴史教育」二−二)がある。

 日本革命運動史上に劃期的意義を持つ米騒動については、庄司吉之助「米騒動の展開過程―資料的にみた全国米騒動と福島県の場合」(「歴史評論」58・59)、長谷川博・増島宏「『米騒動』の第一段階―現地調査を中心として―」(「社会労働研究」一,二)が公けにされた。まず庄司氏は、当時の資本主義の構造及び階級闘争の展開についての分析の上に立って全国米騒動を概観し、ついで福島県下の場合を、産業構成を異にする地域別にとりあげその各々の特徴を調べることにより、資本の状態との関連に分析の重点を置いた。これに対して長谷川・増島氏の論文は、富山県下の現地調査を中心とし、この地域における米騒動の歴史的伝統、騒動そのものの経過、参加者の階層の分析、支配階級の対応などについての詳細な研究として注目されるものである。特に、その指導に関して、一貫した指導部は形成されなかったが、一次的に地域的には自然発生的に指導集団が形成されたとする指摘や全国米騒動についての段階規定を提示している点は重要である。

 労働運動・反戦運動等に関しては次の様なものがみられる。荒畑寒村「ひとすぢの道」(慶友社)、松下芳男「反戦運動」(元々社)、渡辺徹「明治前期の労働争議―三十年以前の争議事例の紹介―」(京都大学人文科学研究所「創立廿五周年記念論文集」所収)、大野盛直「別子労働争議の研究―大正十三〜十五年」(「愛媛大学地域社会総合研究所研究報告Aシリーズ」一)、森本憲夫「愛媛県における労働運動(黎明期)―日本労働運動の一展開―」(同上二)、篠崎勝「産業革命期における今治綿業労働者の形成」(「愛媛歴史学報」三)、坂本清一郎「水平社の生れるまで」(「部落」53)。 原始社会から明治に至る通史として、家永三郎『日本道徳思想 史』(岩波全書)が刊行されたことは、思想史の分野における注 目に価する成果であつた。本書は、第十章市民の道徳思想に於て、 明治前期の近代市民精神の発生を高く評価し、それが、国権主義 の強化と共に退化して行ったことを、第十一章勤労民衆の道徳思 想の誕生では、勤労民衆の道徳思想が近代的労働者の成長を背景 としつゝおゝむね市民的思想家の反省によって生み出されたこと を指摘している。本書にっいては、尾藤正英氏の書評 (「歴史学 研究」一七三)と著者の反論(「歴史学研究」一七六)がある。家永氏 が、個々の階級の道徳思想の特長を、いわば静態的に把えること に重点を置かれているのに対して、明治の在野思想の運命を動態 的に解明しようとしたものとして松本三之介「明治思想における 政治と人間」(「思想」一二月号)をあげることができる。氏はまず 自由民権時代を政治的価値の優位の時代とされ、「国民の友」「日 本人」等の出現を以て、この優位を克服し、多元的価値の併存と いう市民社会のあるべき姿を方向ずけたものと評価する。しかし これらの思想は、日清戦争というプリズムを通過することにより その固有の屈折を明かにし、その一は、国家機構にくり込まれ官 僚主義のとりことなり、他は非政治的な場からの現実政治への批 判者となるとして、明治後期の思想を「蘇峯的国家主義と鑑三らの反国家的個人主義との中間領域が実は原点を国家主義に固着したところの振幅である」という構造に於て把えている。しかしここでは、思想の階級的性格が捨象され、思想史が、思想の外的状 況に対する適応に力点を置いて把握されており、権力に対する対抗関係が充分明確でないために、思想の現実的機能があいまいである等のうらみがある。民友社については、大久保利謙「民友社の維新史観」(「日本歴史」10月号)があるが、その中で「国民の友」初期の蘇峯を「地主的」と規定しているのが注目された。 他に思想家を中心とした向坂逸郎編『近代日本の思想家』 (和光社)、大井正『日本の思想家』 (青木新書)がある。前者が各思想家についての概説であるのに対して、後者は主要な思想家をあげて、民主・自由・天皇・自然の問題別に考察している点ユニークである。この様な思想史・思想家研究と若干系列を異にするものとして、埋れた思想家・民衆の指導者等を発掘しようとする努力が続けられている。代表的なものとしては木下尚江の研究をあげうるが、今年度には、山極圭司「民主々義の戦士・木下尚江」 (「歴史評論」55)、村井康男「木下尚江考」(「社会労働研究」1)、 山岡桂二「明治思想史に於ける政治と文化の問題―木下尚江の場合―」(「大阪学芸大学紀要」A・人文科学2)等の成果がみられた。特に山程氏の論文は、天皇制に対する対決の点から尚江の生涯を 把えたもので注目された。他に和田久次「山田キリ小伝」(「歴史 評論」51)、中沢市郎「田島梅子小伝覚書」(「歴史評論」55)がある。この様な成果とほゞ同一の問題意識に立つものに、雑誌「世界」が企画した一連の特輯がある。即ち、林茂・遠山茂樹 「座談会・児島惟謙の功績―大津事件と司法権の独立について―」 (1月号)、遠山茂樹「失はれた自由の歴史」、隅谷三喜男「天皇制の確立とキリスト教」、磯野誠一「政府と大学」(以上2月号)、小野秀雄「新聞の発達とその自由」、鈴木安蔵・伊藤整・西田長寿「座談会・自由民権と新聞」、長谷川如是閑・丸山幹治・杉村武「座談会・時代と新聞」(以上7月号)、林茂・荒畑寒村・柳田 泉・楫西光速・塩田庄兵衛「田中正造」(9月号)、小島(しめすへん+右)馬・遠 山茂樹・林茂・大久保利謙「中江兆民」(12月号)等であるが、特に、「田中正造」に於いて、彼の立場が、村落共同体の自治制をまもるというカッコつきの「民主々義」的伝統を基盤として、農民の側に立つものであり、鉱毒問題をめぐる農民運動も、農民一揆の最終的な形態と云えるのではないかと指摘されている点、亦「中江兆民」に於いて兆民の悲劇が、絶対主義打倒の具体的手がゝりを階級関係の中に見出し得ず、対外的緊張に求めなければ ならなかつたとする指摘などには注目すべきであろう。




3


 以上専ら国内関係に眼をそゝいで来たが、外交史に就いては、 平野義太郎「日・中・朝交渉史について」(「歴史教育」2-3)が小学校の社会科学習書の中国に関する記述の中に、ふるい日本人の優越感からするアジア民族に対する侮蔑がふくまれていることを指摘し、アジア百年史に対する再検討を要請しているのは、この分野における歴史学の基本的問題意識の展開であると云えよう。「歴史学研究」175号の特集、日米関係の史的究明では、井上清「日米関係史の概観」が明治以後の時期区分を示し、亦、 岡部広治「ランシング・石井協定の意義」は、この協定の中に一見矛盾した二つの原則、「門戸開放」と「特別利益」とが並存していることを追求し、その並存がロシア革命への対抗関係から生み出されたことを明にして、いずれも注目された。この時期については石田栄雄「大隈老侯と対支外交―所謂二十一箇条問題を借りて―」(「大隈研究」5)は、内田繁隆「第二次大隈内閣と大正デモクラシー」(同前)と共に、大隈弁護に終つており、その問題意識の非歴史性を露呈している。

 最後に、残された問題に簡単にふれると、まず『明治文化史』(全14巻、洋々社)、『日米文化交渉史』(全6巻、洋々社)と『農業発達史』(全10巻、中央公論社)の刊行をあげねばならない。前者は、各分野における詳細な通史であり、後者は問題点を整理しつゝ農業の発達を詳述したものである。その他堀江保蔵「明治前期の国際収支」(「社会経済史学」20-1)、西村賤夫「明治時代産業の一考察」(「佐賀大学教育学部研究論文集」4)、真藤素一「日本における金本位制の成立」(京都大学「経済論叢」73-6)、小野一一郎・難波平太郎「日本鉄鋼業の成立と対外投資」(「経済論叢」74−3、星野惇「大正中期における村落構造の変貌」(「商学論集」23-1)、拝司静夫「日本勧業銀行および農工銀行の不動産銀行化」(「弘前大学人文社会」4)等の経済問題に関する成果がみられる。林業については、問題点を指摘した笠井恭悦「日本林業論」(東大出版会刊、近藤康男編『農業経済研究入門』所収)と金丸平八「林業史研究」(「三田学会雑誌」47-5、6)がある。尚、地方紙研究が各地方で意欲的に行われており、その中のいくつかは、すでにあげたが、こゝでは特に北海道史の研究が注目すべき成果をあげていることを指摘するに止めたい。

 以上とりあげて来た様な業績の他に、この年に多くの貴重な根本資料の再刊が企てられたことは歴史学のために喜ぶべきことであると思う。その主なるものをあげると「週刊平民新聞」(全4巻内3巻既刊、創元社)、塩田庄兵衛編『幸徳秋水の日記と書簡』 (未来社)、幸徳秋水『基督抹殺論』、横山源之助『内地雑居後の日本』(以上岩波文庫)、片山潜『自伝』(岩波書店)、片山潜「日米における資本主義の最近の発達」(「歴史学研究」177)、更には 『明治文化全集』の日本評論新社による再刊等にみることが出来るであろう。