ご挨拶

沈む太陽

 私 古屋哲夫は、2006年12月2日午後2時2分、この世を去りました。

 自分の人生は、自分の能力からすれば出来すぎだ。
 日本人として、初めて敗戦を経験する事も出来て満足している。
 神様がもう一度初めから人間をやらせてやると言われても、御断りして、その分長生きさせてくれるよう御願いしたい。
 今、死と言うこの世の運命を受け入れ、あの世の新しい運命と取り組みます。


生い立ち

 昭和6年3月21日、私は、この世に生まれた。  
 この頃はアメリカから始まった世界大恐慌の波が日本にも押し寄せてきており、世の中は不況のさなかであった。そしてその背後では、軍部は戦争への道に歩み出そうとしていた。私の生まれる前日には、未遂に終ったとはいえ、軍部内閣をつくるためのクーデターが予定されていた。後に『三月事件』と呼ばれるようになったこのクーデター計画は、極秘のうちにもみ消されてしまったが、然しそれは、『満蒙侵略』についての暗黙の了解が、軍中枢部に成立した事を意味していた。
 その半年後、9月18日には満州事変が開始されるが、この時には、私はまだ5ヶ月の赤ん坊であった。

 昭和12年小学校に入学。
 この年の7月には盧溝橋事件が起こり、12月には日本軍は南京を占領する。祝賀の旗行列に動員された。
小学校低学年時代は両親が心配したとおり病気ばかりしていた。41度の高熱を発した時は、小さな豆粒のようなものがらせん状に頭の中心に飛び込んできた。

 昭和16年12月8日(1941年)対米英戦争が開始された。小学校5年生の時であった。

 昭和18年(1943年)府立九中に入学。
 体力も運動神経もなく、運動会では何時も「びり」の私は、かろうじて入学することができた。
 18年は日本の敗戦の様相が明確になってきた年であった。2月には日本軍は南方最前線のガダルカナル島より撤退を開始、5月には北方のアッツ島で日本軍守備隊が全滅し、以後「玉砕」と言う新語が、新聞紙上を賑わすことになるのであった。
 戦争が持ち込んだ最大の問題は、中学校の場合は勤労動員、小学校の場合は疎開であり、いずれも、昭和19年秋から全面的に実施された。子は国の宝、大事にせよとの命令で、親兄弟と離され、疎開をさせられた。田舎に親戚のある者は縁故疎開、無い者は数人の先生に引率され、お寺や集会所等に集団疎開させられた。ただでさえ食糧事情の悪い中、その状況は悲惨なものであった。

 昭和20年3月9日〜10日(1945年)最新大型重爆撃機「B29」の東京大空襲から始められた。この時の死者は10万にのぼった。

 昭和20年4月13日(1945年)空襲警報がなり、防空壕で寝ていた私は起こされて、気が付いた時は数軒先の家が燃えていた。母は夏がけの布団を2枚持ち出し、防火用水につけてかぶり逃げ出した。行く先を、焼夷弾でふさがれれば最後であった。空き地のような所で『ごーっ』と言う音に驚いて地面に伏せたが、起きあがってみると、周り中を点点とした火でかこまれていた。一瞬母を見失い、あわてて火の中から逃げ出したが、その時後ろから何かが、どーんとぶつかってきた。母であった。私がかぶっていた布団が燃えていたと言う。後で見ると、少しぐらいの湿気はものともせず、焼夷弾の油脂がべっとりこびりついていた。

  翌日家を見に行ったが、何も無い広大な焼け野原が延々と続いていた。家と思われる辺りに近づいた時、黒く焦げた死体が、人形のようにころがっていた。井戸の中には猫の死体が浮いていた。我が家の跡では、世界大全集の文字がかすかに読める灰が、風に吹かれていたのが印象に残っている。

 昭和20年4月(1945年)山梨で3ヶ月ばかり厄介になったが、手伝いを申しでても、直ぐ疲れてしまって役にたたず、肩身の狭い思いであった。

  昭和20年7月(1945年)家が借りられ東京に戻った。この時期になると日本の戦力は崩壊し昼間から堂々と編隊を組んで東京上空に現れるようになっていた。8月10日過ぎであったかもしれないが、私達の動員されていた工場が爆撃され、破壊された。多くの友人や作業していた人々が犠牲になった。私は辛うじて丘の上の防空壕で助かった。

 それから数日して戦争が終った。

 昭和20年8月15日(1945年)…。 大東亜戦争終結・・・敗戦

  正午にラジオを通じて天皇陛下の玉音放送があり、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の降伏を国民に伝えた。

 
 戦争は終ったが我が家に平穏は戻らなかった。父の学校の疎開先で、生徒が一人逃げ出し、行方不明になった。この子供は一時発見され、少年係(?)の手に渡されたがまたにげられてしまい、この責任をとって辞表を出し、受理されてしまった。

 戦後借りていた家の人が戻ってくるので引越しを余儀なくされた。都営住宅に引っ越すことになった。小雨降る夜道を、一家で大八車を引きづって行く光景だけは今も私の中に残存している。この都営住宅はガラスもなく瓦も無い、まさに小屋であったが、ここでパン焼き器を作ったり受験勉強をした思い出はなつかしい。

遺影
2005年4月
毎日の散歩もこれが最後

 昭和22年(1947年)父が新制板橋一中(旧制都立九中)の教頭に就任

 昭和26年(1951年)父が校長になり家を買い求めた。 
然し私は、敗戦によるこれまでの価値の崩壊と言う現象を謳歌していた。合理的でない常識には、出来るだけ反抗しようとしていた。家とか血縁等によって、拘束されまいと考えていた。当時、東大大学院の博士課程に進学していた私には、此の侭東大にいても未来が開けてこないことは明白と思い、社会に出た。 

これから先は著作・論文で又会いましょう。活用して頂ければ本望です。

では、さようなら…。



故人の遺稿をあつめて編集したものです。    遺族代表:古屋悦永(よしえ)