日露の関係が急迫しつつあった明治36年6月、御前会議の決定は、日本の対大陸政策の基本方向を次の様に述べる。「東亜ノ時局二顧ミ其将来ヲ慮ルニ於テ帝国ノ執ルヘキ政策ハ其細目ニ入レハ素ヨリ多岐ナルモ要ハ帝国ノ防衛ト経済的活動トヲ主眼トシ各種ノ経綸モ主トシテ此二大政綱二基カサルヘカラス而シテ此政綱ヨリ打算スルニ於帝国ハ南北二点ニ於テ大陸ト最モ緊切ノ関係ヲ有ス即チ北ハ韓国南ハ福建之レナリ」1)。この朝鮮と南清という二つの目標が打出された所に、北清事変前後から日露戦争に至る時期の対大陸政策の特徴があったと言える。特に福建が朝鮮と並ぶ主要目標として掲げられたのは、この時期以外に見ることの出来ない特徴である。そしてそのいずれについても支配の中核として鉄道経営が主張されるのであり、そのことは、この進出方向が、前述の様な帝国主義的政策の具体化であることを示していた。「鉄道経営ハ我対韓政綱ノ骨髄ナリ」2)とする日清戦争以前にはみられなかった主張が、福建に対する場合にも貫ぬかれている。朝鮮に於て京釜鉄道の速成、京義鉄道利権の獲得が目指されたと同様、福建に於ても、先ず明治31年、福建省における鉄道敷設に当り外国より資金・技師などを求める場合にはまず日本と協議するという口約を清国政府から得、ついで明治33年からは、厦門、福州、杭州、武昌等を結ぶ鉄道敷設権獲得のための交渉が始められているのである。従ってこの時期の大陸政策は、朝鮮、南清を目標とし、鉄道を中心としてその支配を進めようとするものであったと言えよう。即ち朝鮮―満州という日露戦争以後の侵略方向は、ここではまだ確立されてはいなかったのである。それ故、日露戦争の主題が満州にあったか朝鮮にあったかという下村氏前掲論文の問題提起は、満州市場に力点を置いた従来の把握に対する批判としては当然であり、また日本による満州市場の独占が意図されるのは「意外なロシアの敗北と、国際関係の変化にもとづいていた」とされる結論も問題のありかをついていると言えよう。だがそのことは藤村氏が主張される様な、日本帝国主義の成立を否定する根拠とはならない。藤村氏は、満州支配を以て日本帝国主義の成立を劃そうとする無理論的前提の上に立っているのではないか。問題は、満州か朝鮮かにではなく、そこでの侵略の性格という点に見出さるべきである。
元来朝鮮支配の要求は、先進列強の圧力に対する日本の立場の強化、「勢力均衡論」の立場からする日本の発展の問題として出されているのであり、国内の要因だけからでは理解出来ない。即ち「若シ他ノ強国ニシテ該半嶋ヲ奄有スルニ至ラハ帝国ノ安全ハ常ユ其脅ス所トナリ」3)と言う様に、日本の安全を朝鮮半島の支配確立に置かうとする論理は日露戦争に際しても強く貫ぬかれている。だがこの絶対主義的論理が、現実の場に於ては、すでに著るしく帝国主義的性格を帯びて作用せざるを得ないという点こそが問題なのである。
勿論朝鮮における鉄道政策は、線路のための測量が日清戦争中陸軍の意向により初めて行われた4)ことにも現われている様に、軍事的必要から起り軍事的必要をまって完成されたのである。即ち山縣有朋の松方宛書幹(明治32年10月)が、「京釜鉄道架設之事は、如来諭今日経済社会之情況其他に付頗る困難之儀とは察候得ども、将来我国勢に不容易利益之関係を蒙り如何にも憂慮に不堪事件故、目的を貫通候様充分深慮遠謀所願候」5)と述べ、更には皇室をその株主に加えようと運動している6)ことからも明らかなように、朝鮮での鉄道への要求は、 資本主義内部からの資本輸出の要求を意味してはいない。しかしそれが軍事的な要因によるものであれ、経済的要因によるものであれ、帝国主義的植民地支配の中核である鉄道に対して投げられた要求は、必然的に帝国主義的対立の中に巻き込まれざるを得ない。 日本に京釜・京仁線の利権を与えた日韓暫定合同条款に対し、英米露独等が「鉄道電信等の利権を専ら一刻に与ふることは自国商民に取りて不利なり」7)とする抗議を提出したこと(明治28年5月)は、朝鮮における帝国主義的利権奪取競争の本格的開始をつげるものであった。その急速な進展は次表8)の中に読みとることが出来よう。
年 月 |
利権の内容 |
外人名 |
1896.3 |
京仁鉄道敷設権 |
モールス (米) |
〃 .4 |
慶源、鍾城における鉱山採掘権 |
ニシチェンスキー(露) |
1896.4 |
雲山の金鉱採掘権 |
モールス (米) |
〃 .7 |
京義鉄道敷設権 |
グリュル (佛) |
〃 .9 |
鴨緑江流域の材木伐採権 |
ブリーネル(露) |
1897.3 |
金城郡堂内における金鉱採掘権 |
オルター (独) |
1898.1 |
京城電車敷設権 |
コルブラン(英) |
1898.9 |
京釜鉄道敷設権 |
佐々木清麿(日) |
1900.5 |
殷山金鉱採掘権 |
モルガン(英) |
〃 .8 |
稷山金鉱採掘権 |
渋沢栄一(日) |
この様な帝国主義的対立の中で、小村・ウェバー協定(明治29 年)に規定されたロシアとの対等の関係を脱し、日本の優位を確立するための道は、一方での対露交渉と共に、他方では支配の中核として鉄道権益の拡大に求められざるをえなかったのである。「京義鉄道ヲ我手ニテ敷設シ之ヲ京釜線ニ連絡セシムルトキハ韓国貫通ノ幹線鉄道ハ全然帝国ノ有ニ帰シ韓国ヲ挙テ我勢力範囲ニ帰セシムルノ実ヲ全フシ得へシ」 9)とする政策は、この様な帝国主義的対立の中で把えられねばならないであろう。例えば京城元山間の鉄道利権をめぐる列国の策動を前にして、明治32年8月16日、林公使より韓国外相に宛てた公文は次の様に読まれる。「日本帝国ハ方法ノ直接タルト間接タルトヲ論セス鉄道敷設ニ関スル権利ヲ他国ニ譲与スルハ之ヲ黙視スル能ハス、若シ之力譲与ヲ敢テスルニ於テハ我が国モ亦適当ナリト信スル要求ヲ為スヘシ」10)。或いは又前掲「清韓事業経営要求講議」が「韓国ニ於ケル唯一ノ確実ナ財源」である海関収入が露仏等に渡ることは極めて不利であるとし、「機二乗シテ」借款を韓国に押しつけ、その担保として海関収入管理権を獲得すべきことを主張し11)、更には馬山三浪津間の鉄道敷設に目をつける12)時、そこで意図されているのは「他邦ノ匪謀ヲ未成ニ防遏スル」13)こと、言いかえれば、利権奪取競争に機先を制することによって、朝鮮支配を独占的に確立することに他ならなかった。だがこの様な方向は、経済的に非力な日本にとって実現性の乏しいものであった。しかもすでに、朝鮮内部からの反帝国主義的な民族主義運動の立ち上りにも直面しなければならなかった14)。従って日露戦争に至る間には、これらの要求は殆んど実現されていない。残された道は軍事侵略だけであった。それ故ロシアの満州軍事占領が、朝鮮に対する圧力を増大させ、日本の朝鮮支配確立の可能性を決定的に失わせるに至るものと考えられたのは当然であった。「露国ハ既ニ遼東ニ於テ旅順大連ヲ租借セルノミナラス事実的ニ満州占領ヲ継続シ進ンテ韓国境上ニ向ツテ諸般ノ施設ヲ試ミツツアリ若シ此儘ニ看過スルニ於テハ露国ノ満洲ニ於ケル地歩ハ絶対的ニ動カスヘカラサルモノトナルヘキノミナラス其余波忽チ韓半島ニ及ヒ漢城ノ宮廷及政府ハ其威圧ノ下ニ唯命是従フニ至ルヘク否ラストモ露国ハ擅ニ其欲スル所ヲ行フヘキカ故ニ多年該半島ニ扶植セラレタル帝国ノ勢力ト利益トハ支持スルニ由ナク其結果遂ニ帝国ノ存立ヲ危殆ナラシムル迄ニ推移スヘキヤ疑ヲ容レス」15)。それ故に、「露国ハ韓国ニ於ケル日本ノ優勢ナル利益ヲ承認シ日本ハ満州ニ於ケル鉄道経営ニ就キ露国ノ特殊ナル利益ヲ承認」するという日本側提案は、ロシアの満州軍事支配の排除を意味するものであり、それが「満州及其沿岸ハ全然日本ノ利益範囲外ナルコトヲ日本二於テ承認スルコト」というロシア側の一方的義務づけと妥協しえない所に交渉決裂の一因がみられた。そして「韓国二於ケル改革及善政ノ為助言及援助(但シ必要ナル兵力上ノ援助ヲも包含スルコト)ヲ与フルハ日本ノ専権ニ属スルコトヲ露国ニ於テ承認スルコト」 として、軍事力を中核とした朝鮮支配確立への道を残そうとする日本の要求が、ロシア側の対案「韓国領土ノ一部タリトモ軍略上ノ目的二使用セサルコト及朝鮮海峡ノ自由航行ヲ迫害シ得ヘキ兵要工事ヲ韓国沿岸ニ設ケサルヘキコトヲ相互ニ約スルコト」によって全く全面的に否定せられる時16)、日露戦争は避けられないものとなるのであった。
ところでこの様な満州と朝鮮をめぐる争点は、その背後で中国分割のやり方に係わるものでもあった。例えば尾崎行雄がロシアの満州支配を容認する満韓交換論の立場に立って、ロシアが満州、英国が揚子江沿岸、日本が朝鮮という分割案を出している17)のに対して、ロシアの満州占領そのものが、この様な構想を不可能ならしめるという点に対露強硬論の主張18)がみられるのである。それは言いかえれば尾崎の様な満韓交換論が、来るべき中国分割においてロシアを著るしく優位に立たせ、国際的な力関係に於ける日本の地位を将来に向って決定的に弱めてゆくことになると理解されたことを意味する。そしてこの様に日露の抗争が、その背後で中国分割のやり方を争うものであったからこそ、日英同盟から日露戦争への道が英米の支持をかち得ることが出来たのである。
既に述べた様に、この時日本が中国分割に於て自己の分け前と予定したのは満州ではなく南清であった。「元老内議ノ大意」は、「列強協同若シ破綻ノ端ヲ啓キ清国分割ノ止ムヲ得ザルニ至ラバ我ハ福建・浙江ニ立脚ノ地歩ヲ移スノ外ナシ」19)と記す。しかし、ここで福建を中心とする南清がえらばれたのは、日本の内部的必然性によるものではなく、国際関係への考慮を示すものであったと言える。それ故、日露戦争後満州進出の方向が日本帝国主義の基本線として確立されるに至ると、南清への発展方向は「未タ具体的二我利権トシテ同省二樹立セラレタルモノナク勢力ノ扶殖ニ於テ頗ル缺如セリ」「強テ福建二於テ利権扶殖二関スル事功ノ急ヲ求ムルモ其效ナカルヘク」20)とされ、具体的展開をみることなくして終るのである。だがそのことは、この時点での日本帝国主義の成立を否定するものではない。朝鮮と並ぶ発展方向として、福建を中心とする南清があげられたこと自体が、日本の帝国主義国家への移行を反映するものであることは前述した通りである。
藤村氏が日露戦争を絶対主義の戦争とされる時、その規定の中心は絶対主義官僚の指導性に置かれていたと思われる。だがすでに絶対主義官僚は、帝国主義権力の担い手として現われていたのであった。
[未完]
(1) |
「満韓二関スル日露協商ノ件」明治36年6月23日、御前会議ニ於テ決定「主要文書」上巻210頁。 |
(2) |
「清韓事業経営費要求講議」同前207頁。 |
(3) |
(1)に同じ。 |
(4) |
朝鮮総督府鉄道局「朝鮮鉄道史」第1巻、創始時代 31―2頁。 |
(5) |
「公爵山縣有朋博」下巻391頁。 |
(6) |
同前394頁。 |
(7) |
前掲「朝鮮鉄道史」第1巻、39頁。 |
(8) |
林光K「朝鮮歴史読本」218頁による。 |
(9) |
(2)に同じ。 |
(10) |
前掲「朝鮮鉄道史」第1巻、108頁。 |
(11)(12)(13) 「主要文書」上巻207―8頁。 |
(14) |
1898年秋、独立協会は「萬民共同会」を開催し、一、外国人と利権契約を紊りになすべからず、一、国家財政を整理せよ、一、言論の自由を尊重せよ等六箇条の要求を決議した(林光K「朝鮮歴史読本」231−2頁)。この様な民族主義運動の圧力におされて、この年「一箇年間利権特許禁止の詔勅」が出されている(「朝鮮鉄道史」第1巻、53頁)。 |
(15) |
「満韓ニ関スル曰露協商ノ件」、「主要文書」211 頁。 |
(16) |
日露両案は夫々、明治36年8月12日の栗野公使提出の交渉基礎案、及び同10月3日ローゼン公使提出の対案による。「主要文書」上巻212−3頁。 |
(17) |
尾崎行雄「外交上の国是一定の必要」、「政友」第9号(明治34年6月)。 |
(18) |
例えば、小川平吉「対露方針−非満韓交換論」、「政友」第15号(明治34年12月)。 |
(19) |
前掲「伊藤博文秘録」2頁。 |
(20) |
「支那に関する外交政策の綱領」大正元年「主要文書」上巻374頁。 |
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