『歴史学研究』No202号

1956年12月

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批判と反省 
日本帝國主義の成立をめぐって


表紙

古屋 哲夫



1


 帝国主義時代の日本に関する最近の研究の中で、下村冨士男氏「日露戦争と満洲市場」(名古屋大学文学部研究論集14)、藤村道生氏「日露戦争の性格によせて」 (「歴史学研究」195号」の二つの論文は、甚だ異色あるものであった。両者とも日露戦争と日本資本主義及びブルジョアジーとの関係を追求し、前者は、この戦争が満州市場を目的として起されたものではなかったことを、後者は、より一般的に、戦争の原因が資本主義の側面に求められないことを主張したものである。従ってそれらは、日露戦争の性格を満州市場との関係から把握しようとする諸見解を真向から否定するという重要な問題提起であると言わねばならない。そして更に、この問題提起が、従来の日本帝国主義把握への批判にまで達することを藤村氏は次の様に述べている。先ず、「日露戦争は日清戦争と同様、天皇制が主導性をもった絶対主義の戦争であった。それが当時の国際環境の下で帝国主義戦争の性格を強くもたされ」たとする氏は、続いて「日本資本主義の危機はまだ戦争に訴えて満州を独占せねばならぬぽど切迫していなかったし、ブルジョアジーは戦争の主体となり、満州経営をする自信をもっていなかった。かれらは戦中戦後に帝国主義化するのである。その意味で、井上清氏の1900年帝国主義確立説も修正されなければならない」とされている。この様な藤村氏の批判をも加えて、最近の学会では、日本帝国主義の成立をめぐって、いくつかの見解が対立していることはここで改めて操返すまでもない。それ故、ここで問題の最も基本的な点にまで立ちかえってみることは、研究を進める上での緊急な課題と言いうるであらう。

  ところで、ここでの問題である「日本帝国主義の成立と日露戦争」をテーマにとりあげた先日の歴研大会が、 藤村氏の活発な発言にも拘らず、殆ど実質的な成果をもたらしえなかったことは、我々の記憶に新しい所であるが、そのことは一方で、この問題についての実証的研究の著るしい立ちおくれを示すと共に、他方では帝国主義そのものについての概念規定の混乱が潜在していることを物語っている様に思われるのである。即ち前掲論文及び大会での氏の発言からうかがえる様に、藤村氏は帝国主義を、ブルジョアジーの戦争を賭した市場要求という点で内容づけている様にみられるのであり、若しそうだとすれば、そこでは帝国主義はブルジョアジーの政策として把えられていると言えよう。従って日露戦争を国内的には絶対主義戦争、国際的には帝国主義戦争と二重に規定する藤村氏と、統一的に帝国主義戦争と把えようとする歴研大会の報告者藤井松一氏との間には、すでに帝国主義そのものの概念内容に差異があるのではないか。言いかえれば、そこに見出される帝国主義把握の際のメルクマールの相違は、その底にある「帝国主義」概念の相違から生じている様に私には思われるのである。

  しかし、この様なメルクマールの相違は、単に藤井・藤村両氏の間にだけ見られるのではない。そのことは、現在の学会で日本帝国主義成立の時期として或は北清事変、或は日露戦争、或は第一次大戦といったざまざまな時点が、さまざまな仕方によって主張されていることからも明らかであらう。即ち北清事変の時点で日本帝国主義の成立をみる見解は、国際的な帝国主義体制の一環として日本が明確に位置づけられた点を重視し、次に日露戦争をとる見解は、日本の大陸進出が決定的に資本主義的な意義をもつに至ったことにその重点を置いている。又第一次大戦をとる見解は日本資本主義の独占段階への移行及び資本輸出の本格化にその指標を求めていると言えよう。とすれば、これらの従来の諸研究が「帝国主義の成立」という場合に、そこでの帝国主義の内容そのものが著るしく異なったものとみる他はない。従って、問題は「帝国主義とは何か」という最も基本的な点にまで立ちかえってくる。

  先ず、ここでは当然に「帝国主義とは、資本主義の独占段階である」1)という定義と共にレーニンがあげた帝国主義の五つの基本的特徴が問題となる。そしてこれらの特徴の中、特に資本輸出と独占段階への移行が、帝国主義「成立」の主たるメルクマールとされ、日本資本主義の成熟度の面から帝国主義の問題を把えようとするのが従来の主たる方法であったと言うことが出来よう。だが一体、帝国主義と独占資本主義とは同義語なのであらうか。また前掲のレーニンの定義は、単に一国の資本主義の独占段階への移行を帝国主義成立のメルクマールとして規定したものだらうか。若し国内資本主義の独占段階への移行と資本の輸出をとりあげるなら、第一次大戦の時期で日本帝国主義の成立を把える見解が最も妥当性のあるものと言わねばなるまい。しかし、この点では、日露戦争や北清事変をとる見解もまた、それらの時期では、資本の輸出や独占の形成が未だ本格的でないことを 認めているのである。例えば、井上清氏を中心的執筆者とする「日本近代史」は、「日本はイギリス帝国主義に従属して、独占資本主義の成立以前に帝国主義国となり、日露戦争を遂行し、そののち独占資本主義の段階には入る」2)と述べているし、また日露戦争を劃期とみる守屋典郎氏は、「日露戦争後の経済の発展と独占の成立とは、日本の国際的地位が向上して極東の強国となったことに対応する。軍事的強力に補充代位せられつつ植民地の獲得と中国市場への発展と財政的保護指導とによりながら、日本プルジョアジーは帝国主義の段階に発展したのである」3)と書いている。即ちこの両説では、日本資本主義そのものの発展の段階から、直接に帝国主義を規定するという方法は排されているのである。そして特に、「日本近代史」の独占資本主義以前の帝国主義の成立という把握の仕方は、従来の経済史的とでも言うべき把握に対して、新しい視角から問題を提起していると言えよう。 ここではすでに帝国主義は独占資本主義の単なる同義語ではなくなっている。

  この様な、帝国主義が国内資本主義の独占段階の別名にすぎないものかどうかという点に第一の問題点がみられるとすれば、第二の問題点は、更に進んで、帝国主義とは、国内のブルジョアジー乃至資本主義、言いかえれば「資本」の側の問題なのであろうかという疑問の中に見出される。それは具体的には、帝国主義の成立をブルジョアジーの帝国主義化によって把えようとする前掲、藤村・守屋両氏の見解と、1900年前後に日本が帝国主義「国家」になったとする「日本近代史」の把え方との間の相違の問題であると言ってもよかろう。即ち前者 (特に藤村氏)はブルジョアジーの現実の膨脹乃至膨脹意欲によって帝国主義を内容づけようとして、帝国主義=国内資本主義の独占段階とする見解との差異を示しながらも、帝国主義を「資本」の側の問題とする点ではその共通性を保っているものと言うことが出来る。しかし後者の見解は、帝国主義を「国家」乃至「権力」の側面で把えていると言うことが出来よう。そしてここでの疑問は、守屋氏のあげられている軍事的強力や財政的保護指導という権力の側の問題は、帝国主義成立の把握にとって第二義的なものにすぎないかどうかの点に存するのである。この権力の側の問題と資本の側の問題を機械的に切離した所に、かつての神山茂夫氏の二重の帝国主義論が生じ、或はまた日露戦争の性格についての藤村氏の二重の規定が生じたと考えざるをえない。従ってこの二つの側面を統一的に把えることが必要であるのは言うまでもないが、しかし、それをどう統一的に把えるかということになると、問題は再び「帝国主義とは何か」という出発点に押しもどされて了うのである。

  だがこの様な問題は、第三の問題、即ち「帝国主義の成立について、ある一国の資本主義的社会構成としての問題と、世界的な資本主義的体制の問題と、何れに重点をおき、それを如何に統一するか」4)という江口朴郎氏の問題提起に我々を導く。江口氏がここで後者に重点を置き、帝国主義時代における国際的契機の意義を強調されたことはいまさら繰返すまでもあるまい。ところでこの様な世界的な資本主義的体制として帝国主義が成立してくる場合、その基本的モメントは対立と闘争、逆に言えば抑圧と従属の点に見出すことが出来る。そしてそれは政治的には、国家権力が新たな意義をもって登場してくることを意味するものに外ならないであろう。従ってこれらの諸点は、帝国主義把握のための最も基本的な問題に触れていると考えられるのである。
元来、帝国主義は、国家の膨脹主義、侵略主義を意味する言葉であり、国際政治の次元での問題であった筈である。即ち経済的概念というよりはむしろ政治的概念であったと思われる。そしてこの様なことを改めて想起してみることは、レーニンの所謂「最新の帝国主義」を把握しようとする場合にも決して無駄ではないと私は考えるのである。ではその最新の帝国主義とは何か。ここでは特にその「成立」の問題を中心にして若干の考察を試みてみよう。

  先ず第一に帝国主義は、各国資本主義の発展が相互に、或は又植民地半植民地の民族運動と衝突するという、まさにその衝突の時点で起ってくる問題である。勿論それは言いかえれば、世界的な資本主義の独占段階での問題に外ならない。即ち資本の輸出を中心とする先進資本主義の膨脹は、世界の独占的分割を日程にのせ、そこでは前述の様な衝突は、単なる偶然的政策ではなく、必然的なものとならざるをえない。それ故レーニンの指摘する様に「最新の資本主義の時代は、われわれにつぎのことを示している。すなわち、資本家団体のあいだには、世界の経済的分割を基礎として一定の関係が形成されつつあり。そしてこれとならんで、またこれと連関して政治的諸団体のあいだに世界の領土的分割、植民地のための闘争、「経済的領土のための闘争」を基礎として一定の関係が形成されつつあるということである」5)。従って帝国主義は、第一にこの様な独占資本主義を基礎とした一定の関係が、世界の支配的な体制を形成するという世界史的な段階を指すものであるということができる。それ故この様な意味での帝国主義段階の成立を劃する指標は、資本主義の対外的膨脹そのものの中にではなく、それが独占のための闘争を媒介として、政治的次元にまでもたらされてくるという点に求めなければならないであろう。

  第二に、帝国主義とは、この様な世界史的段階における国家権力の性格を規定する概念であると言えよう。即ち前述の様な「経済的領土のための闘争」の激化は、国家権力、特に軍事力に新たなる役割を負わせる。国家はその資本主義のための経済的領土の確保と拡大とを自己の最大の任務とするのである。ここに帝国主義国家が生まれる。江口朴郎氏が「帝国主義とは、本来帝国主義国内の民衆やまた内外の従属的民族の抵抗を抑圧するための体制である」6)と言われる時、そこでの問題はこの様な国家権力の性格の問題に他ならないであろう。従って一国の帝国主義への移行を示すメルクマールは、この様な、国家権力の帝国主義化の点にあると思われる。言いかえれば、帝国主義は、一国の国内資本主義の発展段階を示す経済的概念ではないということである。と言っても、勿論、国内資本主義の独占段階と帝国主義との関係を否定しようというのではない。問題は独占の形成そのものにあるのではなく、それが国家権力にどの様に媒介され、権力の性格にどの様な変化を与えたかという点にあると思うのである。

  以下日本帝国主義の問題についてみよう。

(1)

レーニン「帝国主義論」国民文庫版l26頁。

(2)

井上清・鈴木正四箸「日本近代史」下363頁。

(3)

守屋典郎「日本帯国主義の史的分析」(「潮流」 3巻7号、1948年8月)。

(4)

江口朴郎「帝国主義と民族」35頁。

(5)

レーニン、前掲書108頁。

(6)

江口朴郎、前掲書72頁。




2


 日本帝国主義成立の問題を前述の様な視角からとりあげる時、先ず日清戦争から日露戦争に至る時期に、日本の対大陸政策の性格が大きく変質したのではないかという疑問が起ってくる。例えば、日清戦争中に朝鮮での鉄道経営の急務を主張して「夫れ釜山、義州の道路は、即ち東亜大陸に通ずるの大道にして、後来支那を横断して直ちに印度に達するの道路となる可きは、毫も疑を容れざるのみならず、我が邦にして、覇を東洋に振ひ、永く列国の間に雄視せんと欲せぱ、亦須らく此の道を以て直ちに印度に通ずるの大道と爲さざる可から」1)ずとして、絶対主義的膨脹主義の立場に立っていた山縣有朋は、明治34年には、英独との同盟を主張して「此の同盟にして果して成らば東洋の平和を維持し、我が通商を拡張し、工業を振作し、経済の挽回を図るを得べく、且つ他日機に乗じて、福建、浙江等の地に勢力区域を設定するも亦甚だ難きに非ざるべし」2)と述べて、明らかに経済的膨脹主義に達している。或は亦、対清講和條約の締結に際して、それが工業企業権を規定しているにも拘らず、「此の機に乗じ須く通商上の特権を拡張すべきなり」3)と述べて商業資本的段階に止まっていた小村壽太郎が、やがて外相に就任するや(明治34年)、「海外貿易の発達を期すべきこと」と同時に、「海外事業を保護経営すべきこと」という新しい要求をかかげ、その内容として、(甲)朝鮮での敷設権を有する鉄道の速成と新たな鉄道利権の獲得、(乙)南清鉄道(福州―南昌―漢口)の敷設権獲得、(丙)曰清人共同事業の奨励、(丁)対清経営に対する機関の創立(鉄道鉱山等に対する投資のための機関銀行の設立、民間実業家を誘導してシンヂケートを組織する等)など利権奪取、資本輪出の必要を強調する4)に至ることをあげてもよい。この様な変り方が、単に山縣や小村の問題に止まるものでないことは、この小村の意見を基礎にした「清韓事業経営費要求請議」が、明治35年12月には閣議の決定を得ていることをみても明らかであろう。ではこうした帝国主義の成立を反映するかのような変化は、どのような要因によっているのであろうか。

  これらの帝国主義的な政策の成立は、しかし、国内資本主義の現実の膨脹意欲という点からは殆ど説明せられない様に思われる。当時のブルジョアジーにとっては、伊藤博文が「経済社会ノ情況ハ戦後無算ノ発達ヲ期シ爲二過大ノ膨脹ヲ来シ、竟ニ其ノ計画二対シ資本ノ応スヘキモノナシ、故ニ外国ノ資本ヲ輸入シテ以テー時ヲ彌縫セント言フノ外何人モ商工業ヲ継続増進セシムルノ策ナキモノ」5)と評している様に、外資輪入こそが切実な問題であり、小村の要求する資本輸出の力など持たなかったと言うことができる。従って、前述の帝国主義的政策は国内資本主義の発展段階を超えたものであった。ではこの様な政策の先行が何故起って来たのか。前掲「講議」は次の様に答えている。即ち「商工的活動ト国外起業ノ競争ハ近時国際関係上ノー大特象ニシテ其発動極東二於テ最モ箸シトナス、試二数年以来欧米諸邦力東亜大陸就中清国二於テ企画スル所ヲ見ル二或ハ鉱山二或ハ鉄道二或ハ内地水路ノ利用二其他各種ノ方面二於テ各其利権ノ拡張二熱中シ鋭意経営敢テ或ハ及ハサランコトヲ恐ル然ル二僅二一葦水ヲ隔テ利害関係亦最モ緊切ナル帝国ノ此等地方二於ケル施設ヲ顧ル二未タ多ク見ルヘキモノアラス之レ朝野ノ頗ル遺憾トスル所ナリ」と述べ、前述の様な対清韓経営に早急に着手しないならば「空シク国運進張ノ好機ヲ失シ或ハ廷テ列国競争場裡ニ於ケル我立脚地ヲ喪フニ至ラントス」とその急務であることを強調するのである6)。それは言いかえれば、先進帝国主義の侵略に対して、自らも帝国主義国家として、その侵略に参加することのみが「国運進張」の唯一の道であるとするものに他ならない。

  周知の様に日清戦争の敗北によりその無力をさらけ出した清国に対して、列強の分割競争は以後、赤裸々な暴力をひらめかせて進められて行く。そしてそれは伊藤博文が「今ヤ已ニ進ンデ清国ノ独立危殆ニ頻スルノミナラス一躍忽チ分割ノ端ヲ発セントス」7)と述べている様に、中国分割が(その領土的分割までも)現実的具体的日程にのせられたことを示すものと意識されたのであった。したがってそこでは「清国分割に付、帝国は如何なる手段を以て如何なる分け前を得んことを希望するか」8)(加藤高明)という問題が、当面の、切実な問題として提起されてくるのである。しかもそれは単に政府当局者だけではなく、広い範囲の関心をひきつけた問題であったことを注意しておく必要があろう。

  この様な列強の経済的領土のための闘争は、中国に於いてと同様に朝鮮をも巻き込まずにはおかない。日清戦後露米独仏日等が入りみだれてこの小さな国の鉄道・鉱山等の利権をめぐる争いを現出するのである。

  前述の様な帝国主義的政策は、こうした極東分割競争に対する対応として打ち出されたものに外ならなかった。そしてそこでの経済に対する政治の先行は、この政策の推進者である小村外相によって、次のように説明されているのである。即ちこの様な極東情勢の中で「帝国の如き個人の勢力未だ発達せざるの国に在りて若し藪年を徒過して自然の発達を待たば恐らく空しく列国の唾餘に甘じ遺利の拾ふ可き無きに至らんとす」とし、政略上からも商略上からも、「東洋方面に於ける諸種の施設は国家事業として之に望み或ひは政府親ら事業の経営を試み或ひは国民を後援にし、之が保護奨励に任じ以て我国利国権を拡張するの途に出でざるべからず」9)と主張するのである。それは日本資本主義の将来の発展のために、分割と独占的支配の進行の中で、その発展の場として、出来るだけ多くの分け前を取らねばならないとするものであった。権力はすでに新しい情勢の中での自らの役割をつかみとっているのである。そしてこの様な形での政治の先行は軍事力の意義を前面に押し出してくる外はない。小村は書いている。「平時に於ては列国競争の機先を制して我が国利国権を扶植し努めて勢力の均衡を維持すると共に……、一朝事有るに際しては是を以て発言出兵の権利を主張するの把握となし以て自ら東洋大局の保全に任ずるの覚悟無る可らず」10)。即ち「国家事業」を中核とした対外経営は、常に軍事侵略への転化の道を用意していたのである。

  この様な方向の最初の実現が、1898年の福建不割譲条約に見出されるとしても、それは未だ前述の様な対大陸政策の体系的確立を意味するものではなかった。列国の中国分割競争が最も華々しい展開をみせた1897―8年の時期に日本の政策は、「帝国政府は東洋無比の勢力を有しながら此際黙して止まるべき乎」11)と加藤高明から批判された様な消極的態度に止まっていたのである。そしてその態度は次の様に述べられている。「孤立の勢は帝国の不利益なるを以て、他日一国若しくは数国と提携せらるる事あるべきにより其間列国に対しては公平不偏の態度を執り、益々進んで親睦を重ね、他日何れに向かっても、進退去就を自由ならしむる地歩を作る事」12)。即ち三国干渉により後退を余儀なくした日本は、急速に進展する列強の侵略を目の前にしながら、未だその力関係の中で自らの占むべき地位と役割とを模索する段階に止まっていたのである。そしてこの模索の段階を脱する契機を日本に与えたものは、北清事変の勃発であったということが出来る。

  明治33年7月6日、北清事変に対する出兵を決した閣議決定は次の様に読むことができる。「今ヤ列国ノ援兵未タ到ラス天津大沽ノ軍敵ニ苦ムノ時ニ方テ急二大兵ヲ以テ之ニ赴カハ以テ彼ノ地ノ重囲ヲ解キ進テ北京ノ乱ヲ平クルコトヲ得ヘク発乱ノ功概ネ我ニ帰シ而シテ各国ハ永ク我ヲ徳トセン且北清ノ禍乱ニシテ久ク治ラス南清亦其ノ禍ヲ被ルニ至ラハ我国民経済ハ過半敗亡ニ帰シ財政亦遂ニ其ノ累ヲ免ルルコトヲ得ス」13)、即ちここで日本は初めて極東の帝国主義的国際関係の中での自らの地位と役割とを、中国の反帝国主義的民族運動の抑圧者として自覚したのであった。そして以後、日本帝国主義の世界的な帝国主義体制内部での存在意義がこの点に於て強調されるのである。即ち「帝国タルモノハ宜ク清国ニ対シ指導者タルノ地位ニ立チ斯ル紛擾ノ発生(第二の義和団事変)ヲ予防セサルヘカラス」14)とする日露戦争直後の方向は、辛亥革命当時に至ると更に次の様に発展し明確となっていたのである。「一旦不測ノ変ノ此地方(支那本部)に起生スルニ方リ之ニ対シテ応急ノ手段ヲ講シ得ルモノ帝国ヲ措テ他ニ之ヲ発見スルコト能ハス此事実ハ帝国地理上ノ位置並ニ帝国ノ実カニ照シ更ニ疑ヲ容ルヘカラサル所ニシテ一面帝国ノ東亜ニ於ケル一大任務モ亦之ニ存スルモノト言ハサルヘカラス帝国ハ今後自ラ敍上ノ地位ヲ覚認シ且之ヲ確立スルコトヲ努メサルヘカラス清国並ニ列国ヲシテ漸次之ヲ承認セシムルノ方策モ亦今ヨリ是非共之ヲ講セサルへカラス」15)。そして北清事変に於いて示された日本の軍事力は、列強帝国主義の側からも極東に於ける帝国主義的対立の中での意義を与えられたのであった。日英同盟の成立はまさにこのことの表現に外ならなかった。

  北清事変、中国に関する英独協定(1900年)への参加、日英同盟の成立に至る一連の出来事は、日本が極東において領土的分割、植民地のための闘争、経済的領土のための闘争を基礎にして形成されつつある一定の関係の中で自らの地位と役割とを確保したことを示している。そしてこの様な、所謂国際的地位の向上は、他方で前述した帝国主義的な政策を大陸進出の基本線として確立することを可能ならしめたのであった。例えば北清事変当時の内相平田東助の「北清事件ニ対スル内外處分意見」16)は、中国分割に今より予め備うるための「方策トシテハ其ノ勢力範囲ヲ拡張シ其ノ方域内ニ在テ軍隊ヲ駐屯シ鉄道ヲ布設シ鉱山ヲ採掘スル等ノ特権ヲ要求スヘキナリ」と述べて、帝国主義的大陸進出策を明確に主張しているのである。こうした基本方向の上で日英同盟を締結し、 ロシアと対立して、極東に於ける帝国主義的矛盾の一方の当事者として登場して来る日本は、すでに帝国主義国家以外の何物でもない。従って、この北清事変から日英同盟の成立に至る時期を、日本の帝国主義国家への移行、即ち日本帝国主義成立の時点とみることが出来ると私は考えるのである。そしてこの様な日本の帝国主義国家への移行をよび起し、又可能ならしめたのは、江口朴郎氏 が「帝国主義時代に明治政権が新たな意義を獲得する理由は、ビスマルクの場合よりも遙かに多く外的な要因によって与えられる。それはこの時期に展開されようとする中国における列強の帝国主義的対立と、それと同時に、中国また朝鮮において極自然発生的な農民的反乱としてあらわれる反帝国主義的要因を含む民衆的蜂起との事実である。ヨーロッパとは異なったこのような條件が日本帝国主義の成立と明治政府の指導権の存続のための重要な前提を形づくる」17)と述べておられる様な外的要因であったのである。 

  この様にして極東政治の舞台に登場して来る日本帝国主義は、すぐさまその帝国主義国家としての発展の可能性を対露抗争の中に賭けたのであった。以下この点についての若干の問題に触れたいと思う。

(1)

「公爵山縣有朋傳」下巻 256−7頁。

(2)

「東洋同盟論」同前496頁。

(3)

外務省編「小村外交史」上巻61頁。

(4)

同前213−5頁。

(5)

「東洋危局に処する上奏案」平塚篤編「伊藤博文秘録」430頁。

(6)

「清韓事業経営費要求講議」明治35年10月 2日閣議決定、外務省編「日本外交年表並主要文書」(以下「主要文書」と略記)上巻206−10頁。

(7)

伊藤博文前掲「上奏案」「伊藤博文秘録」429頁。

(8)

「加藤高明」上巻319頁。

(9)(10)

「小村外交史」上巻213頁。

(11)

「加簾高明」上巻278頁。

(12)

西外相の意見、同前317頁。

(13)

前掲「主要文書」上巻193−4頁。

(14)

明治39年5月22日、満洲問題に関する協議会に於ける決議「主要文書」上巻264-5頁。

(15)

「対清政策に関する件」明治44年10月24日 閣議決定、同前356頁。

(16)

「平田東助文書」(憲政資料室蔵、写本による)

(17)

江口朴郎「帝国主義と民族」86−7頁。

 


3


 日露の関係が急迫しつつあった明治36年6月、御前会議の決定は、日本の対大陸政策の基本方向を次の様に述べる。「東亜ノ時局二顧ミ其将来ヲ慮ルニ於テ帝国ノ執ルヘキ政策ハ其細目ニ入レハ素ヨリ多岐ナルモ要ハ帝国ノ防衛ト経済的活動トヲ主眼トシ各種ノ経綸モ主トシテ此二大政綱二基カサルヘカラス而シテ此政綱ヨリ打算スルニ於帝国ハ南北二点ニ於テ大陸ト最モ緊切ノ関係ヲ有ス即チ北ハ韓国南ハ福建之レナリ」1)。この朝鮮と南清という二つの目標が打出された所に、北清事変前後から日露戦争に至る時期の対大陸政策の特徴があったと言える。特に福建が朝鮮と並ぶ主要目標として掲げられたのは、この時期以外に見ることの出来ない特徴である。そしてそのいずれについても支配の中核として鉄道経営が主張されるのであり、そのことは、この進出方向が、前述の様な帝国主義的政策の具体化であることを示していた。「鉄道経営ハ我対韓政綱ノ骨髄ナリ」2)とする日清戦争以前にはみられなかった主張が、福建に対する場合にも貫ぬかれている。朝鮮に於て京釜鉄道の速成、京義鉄道利権の獲得が目指されたと同様、福建に於ても、先ず明治31年、福建省における鉄道敷設に当り外国より資金・技師などを求める場合にはまず日本と協議するという口約を清国政府から得、ついで明治33年からは、厦門、福州、杭州、武昌等を結ぶ鉄道敷設権獲得のための交渉が始められているのである。従ってこの時期の大陸政策は、朝鮮、南清を目標とし、鉄道を中心としてその支配を進めようとするものであったと言えよう。即ち朝鮮―満州という日露戦争以後の侵略方向は、ここではまだ確立されてはいなかったのである。それ故、日露戦争の主題が満州にあったか朝鮮にあったかという下村氏前掲論文の問題提起は、満州市場に力点を置いた従来の把握に対する批判としては当然であり、また日本による満州市場の独占が意図されるのは「意外なロシアの敗北と、国際関係の変化にもとづいていた」とされる結論も問題のありかをついていると言えよう。だがそのことは藤村氏が主張される様な、日本帝国主義の成立を否定する根拠とはならない。藤村氏は、満州支配を以て日本帝国主義の成立を劃そうとする無理論的前提の上に立っているのではないか。問題は、満州か朝鮮かにではなく、そこでの侵略の性格という点に見出さるべきである。

  元来朝鮮支配の要求は、先進列強の圧力に対する日本の立場の強化、「勢力均衡論」の立場からする日本の発展の問題として出されているのであり、国内の要因だけからでは理解出来ない。即ち「若シ他ノ強国ニシテ該半嶋ヲ奄有スルニ至ラハ帝国ノ安全ハ常ユ其脅ス所トナリ」3)と言う様に、日本の安全を朝鮮半島の支配確立に置かうとする論理は日露戦争に際しても強く貫ぬかれている。だがこの絶対主義的論理が、現実の場に於ては、すでに著るしく帝国主義的性格を帯びて作用せざるを得ないという点こそが問題なのである。

  勿論朝鮮における鉄道政策は、線路のための測量が日清戦争中陸軍の意向により初めて行われた4)ことにも現われている様に、軍事的必要から起り軍事的必要をまって完成されたのである。即ち山縣有朋の松方宛書幹(明治32年10月)が、「京釜鉄道架設之事は、如来諭今日経済社会之情況其他に付頗る困難之儀とは察候得ども、将来我国勢に不容易利益之関係を蒙り如何にも憂慮に不堪事件故、目的を貫通候様充分深慮遠謀所願候」5)と述べ、更には皇室をその株主に加えようと運動している6)ことからも明らかなように、朝鮮での鉄道への要求は、 資本主義内部からの資本輸出の要求を意味してはいない。しかしそれが軍事的な要因によるものであれ、経済的要因によるものであれ、帝国主義的植民地支配の中核である鉄道に対して投げられた要求は、必然的に帝国主義的対立の中に巻き込まれざるを得ない。 日本に京釜・京仁線の利権を与えた日韓暫定合同条款に対し、英米露独等が「鉄道電信等の利権を専ら一刻に与ふることは自国商民に取りて不利なり」7)とする抗議を提出したこと(明治28年5月)は、朝鮮における帝国主義的利権奪取競争の本格的開始をつげるものであった。その急速な進展は次表8)の中に読みとることが出来よう。

年 月

利権の内容

外人名

1896.3

京仁鉄道敷設権

モールス (米)

〃 .4

慶源、鍾城における鉱山採掘権

ニシチェンスキー(露)

1896.4

雲山の金鉱採掘権

モールス (米)

〃 .7

京義鉄道敷設権

グリュル (佛)

〃 .9

鴨緑江流域の材木伐採権

ブリーネル(露)

1897.3

金城郡堂内における金鉱採掘権

オルター (独)

1898.1

京城電車敷設権

コルブラン(英)

1898.9

京釜鉄道敷設権

佐々木清麿(日)

1900.5 

殷山金鉱採掘権

モルガン(英)

〃 .8

稷山金鉱採掘権

渋沢栄一(日)

    

 この様な帝国主義的対立の中で、小村・ウェバー協定(明治29 年)に規定されたロシアとの対等の関係を脱し、日本の優位を確立するための道は、一方での対露交渉と共に、他方では支配の中核として鉄道権益の拡大に求められざるをえなかったのである。「京義鉄道ヲ我手ニテ敷設シ之ヲ京釜線ニ連絡セシムルトキハ韓国貫通ノ幹線鉄道ハ全然帝国ノ有ニ帰シ韓国ヲ挙テ我勢力範囲ニ帰セシムルノ実ヲ全フシ得へシ」 9)とする政策は、この様な帝国主義的対立の中で把えられねばならないであろう。例えば京城元山間の鉄道利権をめぐる列国の策動を前にして、明治32年8月16日、林公使より韓国外相に宛てた公文は次の様に読まれる。「日本帝国ハ方法ノ直接タルト間接タルトヲ論セス鉄道敷設ニ関スル権利ヲ他国ニ譲与スルハ之ヲ黙視スル能ハス、若シ之力譲与ヲ敢テスルニ於テハ我が国モ亦適当ナリト信スル要求ヲ為スヘシ」10)。或いは又前掲「清韓事業経営要求講議」が「韓国ニ於ケル唯一ノ確実ナ財源」である海関収入が露仏等に渡ることは極めて不利であるとし、「機二乗シテ」借款を韓国に押しつけ、その担保として海関収入管理権を獲得すべきことを主張し11)、更には馬山三浪津間の鉄道敷設に目をつける12)時、そこで意図されているのは「他邦ノ匪謀ヲ未成ニ防遏スル」13)こと、言いかえれば、利権奪取競争に機先を制することによって、朝鮮支配を独占的に確立することに他ならなかった。だがこの様な方向は、経済的に非力な日本にとって実現性の乏しいものであった。しかもすでに、朝鮮内部からの反帝国主義的な民族主義運動の立ち上りにも直面しなければならなかった14)。従って日露戦争に至る間には、これらの要求は殆んど実現されていない。残された道は軍事侵略だけであった。それ故ロシアの満州軍事占領が、朝鮮に対する圧力を増大させ、日本の朝鮮支配確立の可能性を決定的に失わせるに至るものと考えられたのは当然であった。「露国ハ既ニ遼東ニ於テ旅順大連ヲ租借セルノミナラス事実的ニ満州占領ヲ継続シ進ンテ韓国境上ニ向ツテ諸般ノ施設ヲ試ミツツアリ若シ此儘ニ看過スルニ於テハ露国ノ満洲ニ於ケル地歩ハ絶対的ニ動カスヘカラサルモノトナルヘキノミナラス其余波忽チ韓半島ニ及ヒ漢城ノ宮廷及政府ハ其威圧ノ下ニ唯命是従フニ至ルヘク否ラストモ露国ハ擅ニ其欲スル所ヲ行フヘキカ故ニ多年該半島ニ扶植セラレタル帝国ノ勢力ト利益トハ支持スルニ由ナク其結果遂ニ帝国ノ存立ヲ危殆ナラシムル迄ニ推移スヘキヤ疑ヲ容レス」15)。それ故に、「露国ハ韓国ニ於ケル日本ノ優勢ナル利益ヲ承認シ日本ハ満州ニ於ケル鉄道経営ニ就キ露国ノ特殊ナル利益ヲ承認」するという日本側提案は、ロシアの満州軍事支配の排除を意味するものであり、それが「満州及其沿岸ハ全然日本ノ利益範囲外ナルコトヲ日本二於テ承認スルコト」というロシア側の一方的義務づけと妥協しえない所に交渉決裂の一因がみられた。そして「韓国二於ケル改革及善政ノ為助言及援助(但シ必要ナル兵力上ノ援助ヲも包含スルコト)ヲ与フルハ日本ノ専権ニ属スルコトヲ露国ニ於テ承認スルコト」 として、軍事力を中核とした朝鮮支配確立への道を残そうとする日本の要求が、ロシア側の対案「韓国領土ノ一部タリトモ軍略上ノ目的二使用セサルコト及朝鮮海峡ノ自由航行ヲ迫害シ得ヘキ兵要工事ヲ韓国沿岸ニ設ケサルヘキコトヲ相互ニ約スルコト」によって全く全面的に否定せられる時16)、日露戦争は避けられないものとなるのであった。

  ところでこの様な満州と朝鮮をめぐる争点は、その背後で中国分割のやり方に係わるものでもあった。例えば尾崎行雄がロシアの満州支配を容認する満韓交換論の立場に立って、ロシアが満州、英国が揚子江沿岸、日本が朝鮮という分割案を出している17)のに対して、ロシアの満州占領そのものが、この様な構想を不可能ならしめるという点に対露強硬論の主張18)がみられるのである。それは言いかえれば尾崎の様な満韓交換論が、来るべき中国分割においてロシアを著るしく優位に立たせ、国際的な力関係に於ける日本の地位を将来に向って決定的に弱めてゆくことになると理解されたことを意味する。そしてこの様に日露の抗争が、その背後で中国分割のやり方を争うものであったからこそ、日英同盟から日露戦争への道が英米の支持をかち得ることが出来たのである。

  既に述べた様に、この時日本が中国分割に於て自己の分け前と予定したのは満州ではなく南清であった。「元老内議ノ大意」は、「列強協同若シ破綻ノ端ヲ啓キ清国分割ノ止ムヲ得ザルニ至ラバ我ハ福建・浙江ニ立脚ノ地歩ヲ移スノ外ナシ」19)と記す。しかし、ここで福建を中心とする南清がえらばれたのは、日本の内部的必然性によるものではなく、国際関係への考慮を示すものであったと言える。それ故、日露戦争後満州進出の方向が日本帝国主義の基本線として確立されるに至ると、南清への発展方向は「未タ具体的二我利権トシテ同省二樹立セラレタルモノナク勢力ノ扶殖ニ於テ頗ル缺如セリ」「強テ福建二於テ利権扶殖二関スル事功ノ急ヲ求ムルモ其效ナカルヘク」20)とされ、具体的展開をみることなくして終るのである。だがそのことは、この時点での日本帝国主義の成立を否定するものではない。朝鮮と並ぶ発展方向として、福建を中心とする南清があげられたこと自体が、日本の帝国主義国家への移行を反映するものであることは前述した通りである。

  藤村氏が日露戦争を絶対主義の戦争とされる時、その規定の中心は絶対主義官僚の指導性に置かれていたと思われる。だがすでに絶対主義官僚は、帝国主義権力の担い手として現われていたのであった。
[未完]
 

  

(1)

「満韓二関スル日露協商ノ件」明治36年6月23日、御前会議ニ於テ決定「主要文書」上巻210頁。

(2)

「清韓事業経営費要求講議」同前207頁。

(3)

(1)に同じ。

(4)

朝鮮総督府鉄道局「朝鮮鉄道史」第1巻、創始時代 31―2頁。

(5)

「公爵山縣有朋博」下巻391頁。

(6)

同前394頁。

(7)

前掲「朝鮮鉄道史」第1巻、39頁。

(8)

林光K「朝鮮歴史読本」218頁による。

(9)

(2)に同じ。

(10)

前掲「朝鮮鉄道史」第1巻、108頁。

(11)(12)(13) 「主要文書」上巻207―8頁。

(14)

1898年秋、独立協会は「萬民共同会」を開催し、一、外国人と利権契約を紊りになすべからず、一、国家財政を整理せよ、一、言論の自由を尊重せよ等六箇条の要求を決議した(林光K「朝鮮歴史読本」231−2頁)。この様な民族主義運動の圧力におされて、この年「一箇年間利権特許禁止の詔勅」が出されている(「朝鮮鉄道史」第1巻、53頁)。

(15)

「満韓ニ関スル曰露協商ノ件」、「主要文書」211 頁。

(16)

日露両案は夫々、明治36年8月12日の栗野公使提出の交渉基礎案、及び同10月3日ローゼン公使提出の対案による。「主要文書」上巻212−3頁。

(17)

尾崎行雄「外交上の国是一定の必要」、「政友」第9号(明治34年6月)。

(18)

例えば、小川平吉「対露方針−非満韓交換論」、「政友」第15号(明治34年12月)。

(19)

前掲「伊藤博文秘録」2頁。

(20)

「支那に関する外交政策の綱領」大正元年「主要文書」上巻374頁。