「実に世に類なき裁判を知った時、御身は狂せんばかりに嘆き悲しんだであろう。真に想いやられる。……アヽ胸の裂ける思がする。愛する我妻よ、人間の寿命は測るべからざるものだ。蜂に剌されたり、狂犬に咬まれたりして死ぬ人もある。山路で車から落ちて死ぬ人もある。不運と思うて諦めて呉れ。○事件の真相は後世の歴史家が明かにして呉れる。何卒心を平にして、徐ろに後事を図ってくれよ」
これは、大逆罪の容疑で捕えられ、無罪を信じながら獄中生活を堪えた森近運平が、死刑という意外の判決をうけた時、愛妻におくった手紙の一節である。(下巻所取)判決文が主犯の一人と考えている森近が、絞首台に上る自分の姿を、「蜂に刺されたり、狂犬に咬まれたり」する死と同様な、無意味な偶然にまで引き下げて、かろうじて自らの死をうけいれたこと、そして真相を後世の歴史家に任ねて死んでいったという事実のなかに、我々はこの裁判の異常さを感じとることが出来る。しかしその異常さは、天皇制そのものに触れるものであったため、それに真正面から切り込むことは、敗戦後まで待たねばならなかった。従って、その月日の流れのあとでは改めて事の真相を明かにするための資料を探し出すことからして大変な努力を要る仕事となった。この本はすべて、その困難な作業の結果集められた資料から成り立っている。
ここに云う「大逆事件」とは、明治43年5月、宮下太吉が明治天皇暗殺を計画しているとの容疑で捕らえられたのをはじめとして、幸徳秋水等の社会主義者26名が起訴され、翌44年1月18日、全員有罪、しかもその中24名が死刑の判決を下された事件であり、その裁判記録がこの本の主要な内容をなしている。上巻には、検事聴取書、 (7被告分)、予審調書、下巻には予審調書の続き(全部で11被告の分)、予審判事意見書、予審終結の決定書、判決書、社会主義者取締並爆発物製造事件捜査顛末(長野県)、社会主義者陰謀事件検挙の顛末報告(和歌山県)の外に、幸徳秋水の「陳弁書」、大石誠之肋の「社会主義と無政府主義に対する私の態度について」、被告たちの獄中からの書簡142通、堺利彦、大杉栄、師岡千代子の獄中への書簡7通が収録されている。その殆んど、特に裁判内容を知るのに重要な調書の類は、この本で初めて活字となって一般読者の手に入ることになったものである。
さらに、上巻の最初には、塩田庄兵衛「大逆事件の背景」渡辺順三「大逆事件の真実」のニつの解説が掲げられ、初めてこの事件に接する読者の便がはかられている。とくに塩田氏が、裁判のなかで「暴力革命」をうらづけるために使われている秘密出版文書を比較的詳細に紹介されているのは本文をよむのに非常に役に立つ。しかし裁判は「暴力革命」を「決死の士五六十人をつのり、諸官省を焼きはらい、皇居に迫る」という形で、でっちあげ、それによって多くの社会主義者が大逆罪に問われたのであるから、これと対比させるために、この時期の社会主義者たちが、実際にどのような活動をしていたかを少し詳く書いておくことが必要ではなかったかと思われる。下巻の末尾では、渡辺順三「大逆事件の意味するもの」が、この本にのせられていない資料まで使って、裁判の内容を整理・批判し、この事件の影響にふれている。氏はこの解説を、明治以来4回の大逆事件があったとし、そのうち特に大正12年に摂政(現在の天皇)暗殺を企てた難波大助と、この事件の官下の動機が似ているという指摘から始められているが、この比較の意図 はあまり明かでなく、ここではむしろそれぞれの事件の歴史的内容のちがいに触れてほしかったと思う。例えばこの本で扱う大逆事件は、ともかくも社会主義との関連で出て来たのに対して、難波大助の場合には、そうした運動と全く無関係に発想されたというような違いについてである。さらに、この事件の影響をもう少し大きな視角から展望する必要があるが、それは、この本を出発点として我々が果ねばならない課題であろう。
以上、解説について二三の注文を出したがこの本に集められた記録は、天皇制を考えるためにも明治の社会主義運動に近づくためにも、あるいはまた、裁判の問題を考えるうえでも非常に役に立つ。つまり、ここから読む人の立場によって色々な問題を引き出せると思う。だから以下私がこの本からどんなことを知りえたかを少しばかり書いてみよう。それがこの本への興味を広め、この本を読まれる人の参考になれば幸であり、また編集委員会の意図もその点にあったと思われる。
この事件の内容として、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、管野スガの4人が明治43年の秋に天皇暗殺の計画をたて、宮下がそのための爆弾製造を企てていたということは、これまでの研究もほぼ事実であったと推測しているし、この本の記録をみてもこの4人の陳述はその点は明確にみとめている。では、この小事件を如何にして26入の共同謀議にまでつくりあげていったのか、この本に収められている検事聴取書、予審調書、判決と読んでゆくと、事件の内容が広げられていった過程が明かになる。
それはまず、当時管野スガと同棲していた幸徳秋水を事件の中心にすえることから始められる。さきの4人の暗殺計画といっても、4人が一度に顔を合わせたこともないという計画性の弱さがあったのであり、この間のつなぎの役としての幸徳を大きく登揚させようとする誘導審問がしつようにおこなわれている。しかしそれだけでは幸徳を事件にまきこむだけに止る。それを多くの無関係の社会主義者にまで広げてゆくために、今度は天皇暗殺が幸徳の無政府主義の直接行動論から出てくる結論だというようにもってゆこうとするのである。そしてこの点に対する取調べから、当時の一部の無政府主義者が天皇の権威を真向うから否定するところまで進んでいたことを知ることが出来る。例えば管野スガは「天子というものは経済上は掠奪者の張本人、政治上では罪悪の根本、思想上では迷信の根源になっておりますから、このような位置:にある人は斃す必要があると考えていたのであります」(検事聴取書、上巻104頁)と述べている。それは取調べでしつようにその配付先を追求されている内山愚堂の秘密出販のパンフレット「入獄紀念・無政府共産」 の説いている所でもある。しかし無政府主義と皇室の関係については多くの被告から明確な答えを引出すことが出来ず、むしろ前記パンフレットを読んだことがあるという点に重点を置き、その叙述する天皇否定の思想を、無政府主義におきかえようよする気配さえ示している。 従ってこの裁判が、思想裁判であり、天皇否定の思想そのものを死刑とし、そうした方向への思想的傾斜を示していた無政府主義者の一掃を企てたものであることがこの本に集められた限りの資料からでもほぼ明らかとなる。
しかし、実際にはこうした思想裁判の性格をかくすために、次の方法として、無政府主義思想の中心人物であった幸徳秋水が「暴力革命」を計画していたとし、その点にひっかけて多くの被告を死刑にしたのである。つまり、無政府主義思想を裁判にかけるために、架空の「暴力革命」計画をつくり出したのであった。判決書をみよう。明治41年11月19日に「伝次郎(幸徳秋水)は運平(森近)誠之肋(大石)に対し、赤旗事件連累者の出獄を待ち、決死の士数十人を募りて富豪の財を奪い貧民を賑し、諸官衛を焼燬し、当路の顕官を殺し、且つ宮城に迫りて大逆罪を犯すの意あることを説き、予め決死の士を募らんことを託し、運平、誠之肋はこれに同意したり」(下巻、139頁)「伝次郎は前に太吉(宮下)の逆謀を聞いてこれに同意を表したりと雖も、太吉の企図は大逆罪をもって唯一の目的となし、他に商量する所なく、伝次郎が運平、誠之肋、卯一太(松尾)と協議したる計画とは大小疾徐の差なきに非ざるをもって、願望の念なきに非ざりしが、近日政府の迫害益々甚しとなしてこれを憤慨し、先ず太吉の計画を遂行せしめんと欲する決意をなすに至れり」(同 141頁)
つまり、決死の士数十人による「暴力革命」の計画が中心にすえられ、幸徳秋水がその総指揮者ということにされてしまったのである。そして宮下太吉たちの天皇暗殺計画は、その暴力革命計画の一部が暴走したものだということになってしまった。この点が、この裁判の急所なのだが、それが如何に根拠のとぼしいものであったかは、本書に収められた記録、とくに予審調書をよまれれば明かになる。そして多くの被告は、この「決死の士」 になることを誓い、また地方でこの「決死の士」を集めることを引うけたということで処刑されたのである。例えば森近運平は、社会主義運動から退いて帰省した(明治42年3月)のに、「しばらく岡山県に帰郷し、園芸に徒事する傍ら主義の伝播に努め、来るべき革命には同志を率いて上京し、大いに応援をなすべしと告げ、同年3月中岡山県に帰省したり」(予審判事意見書、下巻123頁)ということにされてしまった。この調子で和歌山、大阪、熊本などの社会主義者のグループがこの暴力革命に結びつけられ、彼等の往来はすべてこの計画のための打合せにされてしまったのである。つまり、幸徳秋水を中心とした架空の暴力革命計画をでっちあげ、彼と思想的および人的なつながりを持ったメンバーが一掃されたのであった。
こうした裁判の背後に、当然、社会主義取締りの強化を政綱の一つにかかげた桂内閣の政治的圧力が感じられるのであるが、この本に収められている長野県と和歌山県のこの事件についての報告書にみられる社会主義者取締りの実際を、この時期の支配階級の政策全休の中に位置づけ、より広い範囲の資料を掘りおこしてゆくことが必要であろう。と同時に、社会主義運動内部の問題にも眼をむけておかなくてはなるまい。
この本に集められている142通におよぷ獄中からの書簡についても色々の問題があるだろうが、ここでは、転向の問題を指摘しておきたい。この稿の最初に引用しておいた森近運平の言葉にしても、彼がすでに転向後の新しい生活に力をそそいでいたこと、しかもそれにもかかわらず無関係の事件にひっかけられ、新しい生活に満ちている希望を無理やりに断ち切られてしまったことへの無念の想いがにぢみ出ているのである。彼は死刑の判決後、知友各位宛におくった告別の手紙のなかで、「顧みれば不肖先年広汎なる意味の社会運動を廃して郷里に帰り農業に従事するや、不肖をして其抱懐する小なる善事、之を具体的に言えば、信用組合の設立あり、農事研究会の開設あり、而して進んで一村自治の根底を培養せんがために、村有林に対する村民の自覚を喚起する事なり」(下巻 260頁)と書いている。あるいはまた、新美卯一郎の「丈夫児の国に殉ずるは事ある時のみ、平生の事は修身齊家なり」(同 225頁)という治国平天下から修身齊家への後づさりなど思想史的な問題が出されている。このような転向の問題について、新村忠雄が、「全体日本の多くの同志の感情又は感覚というものは、単に知識上から得たのだから駄目だ。全く自発的でないのだと私は思う」(同 209頁)と批判しているのが注目される。
当時、議会政策論と直接行動論の対立によって、分裂状態におちいっていた社会主義運動に、強い弾圧が加えられ、すでに転向の問題が出はじめていたこと、そしてそれに追打ちをかけたのが大逆事件であったことが、これまで述べて来たようなこの本の記録から推測される。しかもこの事件によって、転向はより広い範囲に広がっていったと考えられる。大正デモクラシーの担い手たちが、この事件を横目で.にらみながら成長していったことの意味を改めて、この事件との関連で考えてみなくてはならない。それは、天皇制確立の急所をつくことにもなるのではないであろうか。(春秋杜刊、上・下巻共350円、 総頁、584頁)
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