『歴史学研究』No258号

1961年10月

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明治維新について

芝原氏の大会報告批判




表紙

古屋哲夫



 「たたかう人民」を中核にすえて、明治維新からキュ ーバ革命をまでふくむ広大な近現代史の構想をうち立てようというのが、先日の歴研大会における芝原拓自氏の報告を貫く問題意識だったように思う。それはたしかに壮大であり、また人の心をヒロイズムヘとさそう。しかし歴史学の問題として云えば、世界史的な意味での資本主義時代になってはじめて、人民のたたかいが勝利することが出来るようになったことの意味が、その壮大さのなかに埋没されてしまっているように思われる。従って氏の報告の中心である明治維新の問題にはいる前に、 この「人民」の問題について若干の検討を加えておきたい。

  大会討論の席上、氏のいう人民や中間層についての質問が出た時氏は、中間層は学史的に確定した概念であると反撃し、人民については「人民とは被支配階級であるが、特権商人などの支配者に寄生しているものは除くべ きである。経済史の研究が進めば人民の範囲はより明確 になる」と答えていた。つまり人民の内容について経済史にゲタをあづけるのであるが、ここで氏は、人民が本来経済的概念でなく、政派的な概念である点をどう考えておられるのであろうか。報告中でしばしば「たたかう人民」という形で述べられている点をみれば、全く無視されているのではあるまい。つまり経済史的研究で明らかにされるのは、農民、商人、職人といった次元の事柄であり、そこからは「人民」は引き出されてこない。即ち経済史が明らかにする生活内容を、それとは異った規準で、つまり政治史的な視角から把えなおす所に人民という概念が成立するのではないか。

 今、手近かにある「政治学辞典」の「人民」の項をみると、人民とは「共和国における国家の構成員をさすのが原則である」とし、更に「また消極的存在としての大衆とも区別され、人民には主体的性格が強調されている」とのべている。現在流通している「人民」概念の内容はだいたいこんなことになるのであろう。それは、階級を一応度外においた被治者という把え方であり、しかもそれが主体的であるという点を中心にしている。ところで歴史学においても披支配者一般を指すものとして「人民」がつかわれているが、その場合問題になるのは往々にしてこの「主体的」という側面が無規定のまゝまぎれ込んで来るという点である。即ちこの「主体的」ということは、さきにのべた世界史的な資本主義時代になってはじめて出来てきた被支配層のたたかいの勝利の可能性、その歴史的条件と結びついたものであることが忘れられてしまう。つまりここで主体的と云うのは、全社会構造のなかで自らの位置と状況を合理的に把え、そこから自らの未来を構想しうるという点を指している。つまり私は被支配階級はそのまま「人民」であるのではなく、特定の歴史的条件の下で「人民」になるのだと思う。その条件は外的条件を捨象したいわば自然成長的社会におけるイデアル・ティプスとしてとらえれば、労働者階級が披支配者の中で指導的な地位を占めるということに求められるにちがいない。即ち披支配階級は自己の労働力を商品として販売するという条件におかれた時初めて、その商品の行く方を見つめることにより、全社会構造とそのなかでの自らの位置を見通せる立場を得るのである。そしてまた、自己を労働力という非人格的な単位に還元することによって、認識の客観性と、階級の組織化とをつかみとる可能性を得るのである。そしてそのような歴史的条件の客観的成立によって、人民という慨念は、なくてはならないものとなり、人々の関心を集めたのではないか。そのことは、その対極として、自給的農業の場合をあげてみるならば、ことは一層明らかになるにちがいない。この場合には、生産を通ずる社会構造への見通しは、村落共同体以上に延長されることなく、政治は生産に対する外的障害として認識されるにま止る。従って政治への登場の仕方は、政治を排除する方向となる他はなく、歴史の展開方向に向う新しい秩序の構想は生れ得ない。従って相互のコミュ.ニケーションは、同一の権力によってその生産が阻害されているという点に止まり、生産そのものから発する条件をもたない。大規模な農民反乱が、宗教などの生産外のコミュニケーションを媒介としていることはこのことを裏面から物語っている。そしてそれ故に政治へ登場する力は弱く、また政治の、つまり外からの圧力がその再生産を破たんさせるという生産にとって偶発的条件にたよることとなる。幕末における一揆が、藩的規模に止まり、また農民的立場からの未来像が、安藤昌益における如く、政治をゼロにまで排除するという形で構想されたことは、幕藩体制化の農業が自給的性格の強いものであったことと対応している。従って商品経済の浸透がこのような農民の条件を変える方向をもつことは云うまでもない。

  ところで私がこのような人民概念の歴史性を強調するのは、芝原氏における「人民」が幕末における主要矛盾の一方の担い手という主体的役割をあたえられているからである。即ち氏は百姓一揆や世直しという形での被支配階級のたたかいの高まりと、その背後に彼等が封建支配を堪えがたいものと考えるに至っていたという一般的条件を指摘するだけでこれを人民ととらえ、そのたたかい方、政治へのあらわれ方を問うことなく、列強資本主義対全日本人民という、矛盾の一方の主体的担い手にまで高めてしまうのである。そこには、遠山茂樹氏の指摘するように「論証ぬきの断定」がある。(「国際的条件のとらえ方―芝原氏論文についての若干の疑問」―」「新しい歴史学のために」) No 70)

  このような人民概念の非歴史的使用は、氏が報告のなかで述べているような、歴史学を現在の人民のたたかに役立てたいという願いの性急な表現なのであろう。しかしこのようなやり方が―それは過去の被支配階級のたたかいを過大に評価する結果を件うのが常であるが、―人民のたたかいに役立つとは私には考えられない。 私はさきにイデアル・ティプスとして人民成立の基礎条件をとり出してみたが、現実はそのように簡単ではないし、またそれは人民成立の可能性を示すだけであって、その具体的実現には夫々における具体的な障害を克服してゆかねばならない。まして被支配階級全休が自覚的人民になるのは容易なことではない。私はこのような被支配階級が人民になること、その可能性の全面的開花を阻げている条件を歴史的にあきらかにするのが歴史学を人民のためのものにするための第一の仕事だと考えている。そしてそこから維新史への視角も生れてくるのではないか。





 文久2年8月21日、馬にのった4人のイギリス人が、島津三郎久光の行列と出合い。1人が斬殺され、2人が重傷を負った。このいわゆる生麦事件が伝えられるや、外人居留地では直ちに居留商人たちの会議か聞かれた。

 

 「その夜島津三郎は、横浜からわずか2マイルたらずの宿場、保土が谷に泊まるということがわかった。外国人たちの意見では、入港している外国船の兵力全部を集めれば、島津三郎を包囲して捕縛するのは造作もないことであり、またそうするのが当然だと言うのである。

商人連中の計画は、向こう見ずで、威勢がよくて、ロマンチックと言ってよかった。それはおそらく、あの有名な薩摩侍の勇敢さを圧して、一時は成功したかもしれない。しかし、外国水兵によって日本の有力な大名が大君の領内で捕えられたとなると大君が「外夷」に対して国家を防禦し得ないという明白な証左になるわけだ。そうなれば、大君の没落は、実際に没落したよりもずっと以前に、そして新政府の樹立を目ざす各藩の連合がまだできあがらぬうちに到来しただろう。その結果、日本はおそらく壊滅的な無政府状態となり、諸外国との衝突がひんぴんと起って容易ならぬ事態を招いたであろう。保土が谷を襲撃すれぱ、その報復として長崎の外国人が直ちに虐殺され、その結果は英、仏、蘭連合の遠征軍の派遣を見るようになり、幾多の血なまぐさい戦争が行なおれて、天皇の国土は滅茶滅茶になっただろう。その間に、われわれの日本へ やってきた目的たる通商は抹殺されてしまい、ヨーロッパ人と日本人の無数の生命が、島津三郎の生命と引き替えに、犠牲に供されたにちがいない、」(アーネスト・サトウ、坂田精一訳「外交官の見た明治維新」)岩波文庫、上巻 62−64頁)


 少し長く引用したのは、ここに幕末における日本の最も悲惨な想像図か具体的にえがかれているからであり、そしてここから二つのことを引き出そうと思うからだ。第一は、幕末における列強と封建支配者の関係は、武力衝突へ発展する可能性を一貫して潜在させていたということである。薩英戦争や馬関戦争がその例であることは云うまでもないが、その湯合にもその処理の仕方によっては、更に大きな戦争に発展する可能性をもっていたことは、サトウの著書の夫々の箇所からでさえ読みとることが出来る。第二に、しかし、列強はそのような最悪の事態を出きるだけ避けようとしていた。もっともこの点はサトウの云うような、彼等の直接の目的である通商が抹役されてしまうという理由のみから説明する訳にはゆかない。そのことは列強資本主義相互の間の矛盾が破局的なものにまで進んでおらず、また石井孝氏等が実証しているようにその矛盾は極東においては中国を主要な舞台として展開されていたということによる。この二つのことは幕末の情勢が帝国主義時代の直接の「前夜」であったことを示している。即ち、一面では芝原氏も云われる如く、この時期にアジアに迫って来た資本主義はもはや単一資本主義ではなく「列強」という形をとっているのであるが、他面ではその「列強」はいまだ帝国主義時代におけるように、植民地をめぐる相互の矛盾のなかの敵対的な側面を主要なものにまで激化させていなかったのである。簡単に云えば、ドイツに典型的にみられるよ うな後進資本主義が、その体内の旧い要素の残存を逆用 しながら先進国に肉はくし、また植民地民族運動の激化にむかえられるという条件が成立するとそこでの植民地侵略・支配は必然的に軍事的性格を支配的なものとせざるを得ない。何故ならそこでの、列強相互及び植民地民族運動との矛盾は公然と敵対的性格をあらわにしているからだ。(この点については、江ロ朴郎「帝国主義と民族」参照)そしてこの面での比較において、さきの「前夜」の意味はより明かとなるだろう。

  しかし、おそらく芝原氏は、このサトウの著書の一節のなかに私とはちがって半植民地的分割化の危機を読みとるにちがいない。そして「クリミヤ戦争は日本近海での英仏の対立を激化させ」ているし、対島における英露の対立は日本分割の契機となりうるものだったのではないか、この列強間の矛盾は幕府の対仏買弁化や1867−9年の英仏米による資本輸出や軍事、鉄道、鉱山等の利権獲得競争と結びついて、日本の半植民地的分割化を迫る性格をもっていたのではないか、と反論されることであろう。(芝原「大会レジュメ」参照)そして氏は断定する「幕末の外圧は日本の半植民地的領土分割を要求するものであった」「列強資本主義は、至上命令として、アジア諸国に、半植民地的分割化をせまる」と。ここに氏の画き出したのは、まさしく帝国主義時代の典型的情勢であるかにみえる。とすれば氏が「列強の”力の均衡”は、帝国主義的世界分割、再分割のための直接の序曲でしかない」とはどういう意味にとればよいのか、「序曲 」とは「開始」ということなのか。

  私も幕末における日本と列強及び列強相互の間のもろもろの矛盾の有機的展開が、異った条件のもとでならば、日本の半植民地的分割化を結果したかもしれない、という可能性について考えないではない、しかし歴史学の問題は、その可能性の実現を阻止した条件を明かにすることにあると私は考える。それこそが以後の歴史を規定づけるからだ。

  芝原氏は次のように云うことで私の疑問に答えているつもりなのかもしれない。「明治政府は募府のように人民をおそれず、民族的力量を結集しえた」と。しかしそれならば、列強は、一方で岩倉、大久保以下その明治政府の中枢部を動員した遺外使節をいわば鼻の先であしらいながら、他面では芝原氏の指摘するような諸利権という絶好の足場をかくとくしたにも拘らず、何故、その至上命令である筈の半植民地的分割化を実現しなかったのか。

  ここで芝原氏が見落しているのは、資本輸出や利権獲得競争などの諸事実が半植民地的分割を直接に結果するのは、それがその局面での主要な矛盾となっている場合だと云う点である。それはまた、先に述べた帝国主義時代の「前夜」という問題と結びついている。氏はこの点を無視して、主要矛盾が列強資本主義対全日本民という民族矛盾であり、半植民的分割化の危機として状況を規定づける。氏のやり方は帝国主義時代の分析によってえられた諸原則を実証的で明治維新におしつけるものと云えるが、もっと根本的には氏における「矛盾」のとらえ方を問題としなくてはならない。この場合、芝原氏における「主要」という意味が、毛沢東の「矛盾論」に依拠したものであるかどうかははなはだ疑わしいし、また極めて政治実践的に書かれている毛沢東のこの著作をそのまゝ歴史研究のなかに導入することは混乱をまねくにちがいないが、少くとも発展過程を諸矛盾の有機的に関連した展開過程としてとらえるという点については、歴史学の学ぱねばならない問題があろう。

 

「事物の発展過程の根本的矛盾、およびこの根本的矛盾によって規定される過程の本質は、その過程が完了する日がこなければ消滅することはない。しかし、事物の発展の長い過程でのそれぞれの発展段階はまた事情は往々にして、たがいにちがったものとなる。これは、事物の発展過程の根本的矛盾の性質およびその過程の本質はかわらないとはいえ、長い過程でのそれぞれの発展段階では根本的矛盾がしだいに激化した形態をとってくるからである。そればかりではなく、根本的矛盾によって規定されるか、あるいは影響される多くの大小の矛盾のなかでは、その一部のものは激化するし、他の一部のものは、一時的にか、あるいは局部的に、解決されたり緩和されたりし、また他のものは、あたらしく発生したりするので、その過程に段階性があらわれてくるからである」(尾崎圧太郎訳、国民文庫版「実践論、矛盾論」、67―8頁)


  幕末について云えば、幕藩領主対農民という根本的矛盾を中核とする矛盾の総体としての発展過程のなかで、開国による新たな矛盾の顕在化が、新しい段階を画することも明らかであろう。即ち客観的に云えば列強資本主義対日本封建制という矛盾が幕藩領主対農民という基本的矛盾に新たな展開を強いることになるのである。

  ところで、列強資本主義が、閉ざされた社会としての幕藩体制を外からこじあけ、開国させようとするとき、先づ出合うのが封建支配者であることは自明である。そしてこの封建支配者を何らかの形で打破って、民衆の生活様式を資本主義のなかにまき込むことは両者の力の相異から云って必然であるが、この場合、封建支配者の打破られ方が、あとの民衆の資本主義へのまき込まれ方を決定づける。この関係を封建支配者の側から云えば、列強資本主義にたいするトータルな否定は、さきのサトウの想原図を実現して植民地化を招き、またト−タルな肯定は彼等の買弁化を意味し、そこからも実質的な植民地化への道が開ける。そして残された道は、自発的に自らを列強資本主義のなかに同化させる以外にない。従って「アジア諸国にとって、半植民地的分割化か、経済的∃−ロッパ化かの二つの道しか残されていなかった」という芝原氏の指摘は上述の点に関する限りでは確かに正しい。しかしそれは氏の云うように列強資本主義対全日本人民という民族矛盾が主要矛盾となるということではない、政治指導者がある矛盾の解決を最大の課題として掲げたということと、それがその政治的局面を直接に規定づける矛盾であるということは区別して考えられなくてはならない。

 

 「複雑な事物の発展過程には、いくたの矛盾が存在しており、そのなかには、かならず一つが主要な矛盾であり、それの存在と発展とによって、その他の矛盾の存在と発展が規定され、もしくは影響される」(前掲書78頁)


 この主要矛盾の規定性については更に、主要な矛盾が 「指導的な、決定的な役割をはたし」その他の矛盾は 「副次的な、また従属的な地位に立つ」(同上81頁)とされている。ではその指導的とか決定的とか云うことはどういうことなのか。この点をめぐって毛沢東は帝国主義と中国のような半植民地の関係を次のように分析する。即ち第一は帝国主義が、侵略戦争をおこなっている場合であり、この場合には国内諸階級は一時的ではあるが団結 して民族戦争すること、ができる。このときには国内諸階級の矛盾は一時的に副次的な地位にさがり、帝国主義との矛盾が主要なものとなる。しかし他の場合、

 

 「つまり、帝国主義が、戦争によって圧迫せず、政治的、経済的、文化的に、比較的温和な形態によって圧迫してくるときには、半植民地国家の支配階級は帝国主義に屈服し、両者が同盟をむすび、共同して、人民大衆を圧迫することがありうる。こうしたばあい、人民大衆は、往々、国内戦争の形態をとって、帝国主義と封建階級の同盟にたいしてたたかい、帝国主義は往々、間接的な方法で半植民地国家の反動派が人民にたいしておこなう圧迫を援助して、直接的な行動をとらないので、内部的矛盾の特殊な尖鋭さがあらわれてくる。」(前掲書79―80頁)


 ここでとりあげねばならないのは、毛沢東が主要な矛盾を「戦争」という形でとらえていることの意味である。それは矛盾の敵対性の問題にかかわっている。

 

 「敵対とは、矛盾の闘争一つの形態であって、矛盾の闘争のすべての形態ではない。」(同上104頁)

  「矛盾と闘争は普遍的であり絶対的であるが、矛盾を解決する方法、すなわち闘争の形態は、矛盾の性質の相違によって異るのである。ある一部の矛盾は公然の敵対性をもつが、ある一部の矛盾はそうではない。事物の具体的な発展にもとづいて、ある一部の矛盾はがんらい非敵対的であったものから、発展して敵対的なものとなり、またある一部の矛盾は、がんらい敵対的なものであったものから、発展して非敵対的なものとなるのである」(同上105頁)


 つまり、矛盾の激化とは、その矛盾を解決しようとする闘争力がそこに集中し、闘争が激化することに他ならない。そして矛盾の双方の対立者がその発展方向を異にするとき、闘争の激化は常に矛盾を公然たる敵対的関係にまでもたらす方向をとる。戦争が敵対の最も激しい形態であることは云うまでもなかろう。従って多くの矛盾の中の一つの矛盾が主要なものになるということは、闘争力が他の矛盾を上回ってそこに集中され、特定の局面がその闘争の激化によって規定されるということである。だから闘争力の集中の度合が大きく、闘争が深く広く展開されるに従って、この主要な矛盾の規定性は増大する。毛沢東が主要な矛盾を解説するにあって、戦争をとりあげたのは、そこでは矛盾が公然たる敵対性をあらわにして闘争力を集中し、闘争は第三者の傍現をゆるさない程の規定力を発揮するという典型的な局面があらわれるからである。

  ところでこのような矛盾の発展過程は、角度をかえてみれば、社会のなかに生れ出た矛盾が、やがて多くの人々をまき込み、政治の特定の局面をつくり出す過程、つまり、矛盾が政治の次元まで上昇する過程と云いかえることが出来る。従って毛沢東が主要な矛盾という概念を設定したのは、特定の政治の局面の性格を明かにするためであったと考えられる。すなわち、基本的な矛盾と主要な矛盾とを区別したのは、社会の構造を規定する矛盾と、特定の政治情勢性格とを区別することによってはじめて両者の関係を明らかに出来るとする考え方を示すものであり、マルクス主義陣営のなかに生れた、土台への一元的還元を情勢分析の基本におく、という不毛な観念的傾向を除去するためであったにちがいない。歴史学にとって、この毛沢東の理論が有効なのはまさにその故である。

  たしかに芝原氏の指摘しようとするような列強資本主義対日本の民衆という矛盾は開国以後の段階であらわれてくる。しかし、それは二重の意味で「主要な」矛盾とはならなかった。第一は、列強資本主義は、日本の封建制の動揺を通じて、云いかえれば封建制の抵抗を除去するその度あいに応じて、日本の民衆に直面したにすぎなかった。いわぱ、植民地においてのように、列強と民衆とが直接に全面的に対立するに至るかどうかは、日本の封建制の倒され方にかかわっていた。第二には、列強の側も日本の封建支配者の側も、その相互の間の矛盾を敵対的なものにすることを出来るだけ避けようとしていた点に注意する必要があろう。勿論列強は「黒船」に象徴される武力によって威圧する態度をとっていたが、しかしその武力を現実に使用することは、彼等にとって原則的には能率の悪い方法と考えられていたにちがいない。これに対して日本の封建支配者も武力による列強との対抗がただちに身の破滅となることを認識していたのであり、それ故に出来うる限り小規模におさえながらも、ともかく「開国」することによって、矛盾が敵対的性格をもつことを押しとどめようと企てたのであった。このような矛盾を敵対的なものにまで激化させまいとする双方の努力が成功しているあいだは、列強と日本の民衆とは直接の政治的対立の関係に立ちいたることはない。

  しかし、もちろん、あらゆる場合にそうだったと云うのではない。例えば芝原氏と共にロシア軍艦の対島侵略の企てをあげることが出来る。そこではロシアの侵略的意図があらわとなり、封建支配者はこれとの対決を避けて、とめどない後退をくり返す。その結果民衆は直接的な抵抗を開始せざるを得なかった。しかし維新史の過程で重要なのは、それがこの段階の他の矛盾を規制する程にまで発展しなかったのは何故か、という点にある。 勿論それはこの事実を見のがしてよいということではない。しかし同時に、この段階の諸矛盾の総体的なかかわり方を黙視してこの事実だけを過大視してよいというこ とでもない。

  次に倒幕運動の展開とその指導の問題をとりあげることによってその点をより具体的にふれてゆこう。



3

 万延元年(1860)9月、当時漸く21才の青年であった高杉晋作は、松代に蟄居中の佐久間象山を訪れ、師の吉田松陰の手紙を手渡した。それは

  一、 幕府、諸侯何れの処をか恃むべき
  一、 神州の恢復は何れの処にか手を下さん
  一、 丈夫の死所は何れの処が最も当れる

 
 という三ヵ条について象山の教えを乞うたものであっ た。しかし、この時すでに松陰は小塚原の露と消えていた。だからここで重要なのは松陰がこの手紙を晋作をたくしたのが前年安政6年(1859)4月であり、この三つの問いは、松陰を指導者とする安政期の尊攘運動の到達 した地点を示しているからである。そして松陰は、彼なりに次のように答えてもいた。

  「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし、草モウ崛起の人を望む外頼みなし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にしても忘るるに方なし、草モウ崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を輔佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州に大功ある人と云うべし」(安政6年4月7日、北山安世宛)

 従って松陰が象山に問おうとしたのは、草モウ堀起を基本的なエネルギーとしながら、それと幕藩体制との矛盾をどの様に解くかという点にかかわっていた。

  そして問題は、文久期の久坂玄瑞の、「乍失敬尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれは苦しからず」(武市瑞山宛)「政府は先度外に打置、各国有志之士相互に連結して尊攘の大挙有之度」(樺山三圓宛、いずれも文久2年1月、妻木忠太「松下村塾偉人久坂玄瑞」)という展 開、つまり藩にしばられず、藩をこえた全国的な志士運動の構想を経て、高杉晋作の大割拠論につながる。高杉が「赤間関も我断然不分愧国体やう開港すべし、不然は幕薩は不及申遂には外夷の妖術に陥るならむ、五大州中防長の腹を推出して大細工を仕出さねば大割拠は成就不致ならむ」(「東行遺文」書翰、184頁)と書いたのは、すでに慶応元年であった。

  この「草モウ崛」論から「大割拠」論に至る過程は、開国から倒幕へ至る政治的展開のあり方を最も典型的に示すものと云えよう。それはすでに田中彰氏が藩否定の論理の展開過程として追求されたものであるが(「倒幕過程における藩権力」歴史学研究226号)そのことは同時に、幕藩体制が、いわば内側から倒されたということでもあろう。つまり幕藩体制の基本的な条件の一つである藩割拠体制を利用することによってはじめて倒幕が実現したということである。確かに松陰の論理ではこの点の展開は未だあいまいであり、むしろ久坂のような、藩から離れた挙兵方式の方に傾斡していたといってよい。しかし文久3年8月、大和における天誅組の挙兵、同10月の生野義挙、ついで元治元年の禁門の変と続く挙兵において、そのような指導方針が幕藩体制とどのように対決するかという展望を欠いており、その展望なしには敗北が必然であることが明かとなった。そして禁門の変の際に、京都進発に反対した高杉が、第一次征長戦、四国連合艦隊の下関砲撃という情勢に対して、馬関挙兵によって藩の実権を握り、大割拠諭を打出す時、彼は久坂らの欠陥を明確に認識していたにちがいない。そして慶応元年(1865)第二次征長戦にむけて、幕府がフランスの援助をあてにしながら国内統一をめざすという情勢、つまり矛盾が武力衝突、内戦へと激化してゆく過程のなかで、割拠論は倒幕の方向と結びつきつつ展開される。例えば慶応元年8月4日の大久保利通の手紙は、長州再征を「名に背き義に戻り」「反て内輪之動乱も測り難様」とみ

 

「若し大樹家(将軍)竜頭蛇尾にして東下相成り候はゞ益々命令相行はれず、各国割拠之勢疑ふべからす、之に依り富国強兵之術必死に手を伸し、国力充満、たとヘ一藩を以てすとも天朝奉護、皇威を海外に灼然たらしむるの大策に着眼するの外にこれなく侯」  (大久保利通文書)


 とのべているのをみても、このような動向を知ることが出来よう。

  ここで重要なのは、まさに「割拠」が倒幕の論理として展開され、それによって倒幕が実現されること、即ち、「割拠」とは全国的政治状況の展望と、そのなかで割拠する相互の間の連絡を前提として、初めて政治運動の諭理として成立しているのだということである。つまり 松陰から久坂に至る全国有志の結集→挙兵という構想は、そのままの形では成功しなかったけれども、そこで形成された全国的視野と、その上での志士の全国的連絡 とは「割拠」論にうけつがれ、その前提をなすのである。云いかえれば、幕藩支配体制にとって外在的な挙兵方式は成功しなかったが、その外在的な契機は支配体制を内側から変えてゆき、遂に藩権力を募藩体制打倒の道具に転化させるのである。ここで外在的というのは、幕藩体制をそのままにしておきながら、それを離れようとする点を指している。そこでは体制と異質な原理が体制を変革する展望を生み出すまでに成熟していないという状況がみられる。

  いま幕藩体制における政泊の存在形態を極端な形にまで抽象すれば、その基本をなすのは、将軍家の家政であり、それに規制されながら大名の家政がその下に展開されるということになろう。ここでは原理的には全国的な展望とそれによる行動とは幕府の独占するところであり、大名と云えどもそれに従属する限りでの展望と行動をゆるされるにすぎない。そこを貫くのは上下の支配服従関係であり、武士と云えども政治的な主体性を主張することは出来なかった。従ってこの原理をつきくずすものは、諸階層の横への政治的結集に他ならなかった。それ故に、維新史研究の第一の課題は、どのような階層が、どのような形で政治的に結集することによって明治維新が可能となったのかを明らかにするにあると云える。そ してそのような結集を示したのが、一般武士層のみであったことについては、すでにこれまでの研究によって明かであろう。

  ここで以上のような私の分析は芝原氏の次のような分析と交錯し、対立する。氏は明治維新が中国やインドの植民地化、半植民地化される過程と決定的に異るのは、中間層の指導の問題であり、明治維新は、買弁化した幕府に対する中間層と人民の同盟の勝利であったとされている。そして更に氏はこの中間眉を武士的中間層と限定づけられている。従って氏がにの用語で、尊攘、倒幕派の武士層を指していることは疑いない。ここでまた中間層という概念につきあたるのであるが、すでに許された紙数がないので、次の点だけ指摘しておこう。即ち元来中間層とは、階級関係が政治的な対立にまで発展しているという状況のなかで、その対立の条件によってはどちらにも附きうる性格をもった層を区別する必要から生れた概念と考えられるのであり、農民が藩をこえて横に結集し、幕藩領主層に対立するという関係が成立していないこの段階で武士を中間層として把えるのは疑問であり、この概念が歴史学の上で学史的に確定しているなどという氏の答弁は納得しがたい。

  しかし、おそらく氏がここで中間層という概念を持ち出して来たのは、私が先に指摘したような、尊攘、倒幕運動における幕藩体制と異質な側面を評価するためではなかったかと推測される。即ち脱藩という形で最も象徴的に示されるような、旧来の支配体制の外に出て運働するという側面をとらえて、幕藩体制の基本矛盾に対して中間層という規定を出されたのであろう。勿論そのような側面が重要なのは云うまでもないが、しかしすでに述べたようにそのような面が運動にとって支配的であるのは、文久期およびそれ以前の段階である。従ってこの把え方ではもう一つの側面、即ちそれが「割拠」の方向に向かうことによって初めて倒幕が可能となったということ、云いかえれば、幕藩体制からはなれた横の結集だけでは、倒幕の決定的な力とはなり得なかったという点が見落とされることとなる。そしてこのことは体制外在的な横の結集が、幕藩制と正面から対決し、これを倒すまで強くなり得なかったことを意味しているのであり、そこから維新変革の不徹底性と云われる問題が提起されねぱなるまい。だから、芝原氏の云う武士的中間層と人民の同盟が、一時的地域的に成立したとしても、それが倒幕への局面を決定づける力を持たなかったという点の方をむしろ重視しなくてはならない。

  と云っても、この同盟とはどういうことになのだろうか。指導と同盟という問題設定は服部之総氏以来のも のであるが、この極めて政治的な概念の意味するものは、いまだ厳密に規定されているとは云えない。つまりどういう結合関係を指導といい、同盟と云っているのか、ということである。具体的に云っても、芝原氏の図式が最もよくあてはまりそうな、大和天誅組の挙兵や生野義挙が、農民たちによってその敗北に追いうちをかけられてしまうことをどう理解されるのであろうか。氏はこのことには蝕れることなく、人民の動向を二つの点にしぼってとりあげる。その一つは、長州藩諸隊の問題であり、他は慶応2年の一揆についてである。私もこの時期における被支配層の動きの典型的なものとして、この二つをあげること自体には反対でない。しかしそのとりあ げ方は被支配層全体の問題を展望するような形でなければならないのではないか。例えば、氏は長州藩諸隊のエネルギーや規律の問題は、諸隊に革命的民兵の萠芽をみとめなければときえないというが、それは直接には隊員 の自発性─参加の自発性や服従の自発性の問題であり、それが革命的であるかどうかにはまた別の判定の規準をもってしなくてはなるまい。つまり、少くともその自発性に反権力の方向が発見されなくてはならないのではないか。また氏は、慶応2年の一揆が封建制の極北である幕府領に集中しているのは、それだけ客観的には現秩序への革命的萠芽を形成している、というのであるが、 しかし一揆は封建支配の搾取が被支配層の生活そのものを破かいする方向をもっているということに対応するものであり、それがそのまゝ革命的であるのではない。それが藩の規模をこえた、全国的規模への方向をもって結集されるとき始めて革命的と云えるのではないか。慶応2年の一揆は、直接には征長戦による負担の増大を原因とするものが多く、従って幕府の弱さを示すものに他ならないのであり、それを裏面から彼支配層の革命化と評価するためには、そのための理論的媒介項が設けられなくてはなるまい。

 しかし芝原氏の設定した、買弁化した幕府対武士的中間層に指導された人民という図式のより決定的な破綻は,氏の云う人民が、領主対農民という基本矛盾をとびこえて幕府と対立する条件が全く見出されていないという点にある。農民と幕府とが政冶に現れる可能性をもって対立するためには、貧民の間に全国的な、少くとも藩をこえた自生的コミュニケーシヨソが成立していなくてはならない。そしてこの条件がない場合には農民は領主対農民の矛盾をこえて幕府と対決することは出来ない。さ きに指摘した氏における「人民」概念の弱点はこの点に決定的な形であらわれている。このことはもう一つ角度 を変えて云えば、対等な関係において、立場と役割の違いから形成される指導関係と、支配の一つの手段としての指導とが明確に区別されていないという問題につながっている。これまでの研究が明かにしたところによれば、長州藩諸隊の問題は藩権力を強化するために、,支配の中心的な手段としての物理的な抑圧とならんで、被支配層の自発性を最大限に引き出すための指導が中心的な地位を占めはじめたことを示している。そのためにこそ、 身分制を緩和するという措置もとられているのである。 だからそれは、さきにのべた「割拠」論がふくんでいる幕藩体制にとって異質な契機の問題とつながる。従って 諸隊と慶応2年の一揆のもつ問題とは、氏の云うような人民の革命化の問題ではなく、幕府や藩の強さの問題としてとらえねばならない。そしてそれは、「割拠」論に至る全国的視野の展開が、列強資本主義に対する国内体制の強化の問題と結びあっていたということでもある。

  封建支配層が列強資本主義との対抗を意識しはじめたのは、開港をさかのぼるはるか以前の時点であり、それは資本による封建制の浸蝕、弱体化から自らをまもる問題とからめて論ぜられはじめていた。例えば幕府が外国船撃攘令を発した文政8年に書かれ、幕末尊攘派志士のバイプルとなったと云われる会沢安の「新論」は次のよ うな分析を展開している。即ち彼は家康によって始められた幕府政治の基本が「本を強めて末を弱める」、今や本末ともに弱くなり、つまり幕藩体制の危機が進行していることを指摘する。「夫れ既に天下を 弱くせんとして天下弱し。黔首(百姓)を愚にせんとして黔首愚なり、,弱にして且つ愚なれば、,則ち自ら動揺せんと欲するも得べけんや。故に天下変無き所以のものは、 一言にして尺すべし、曰く、戦を畏るるのみと」(岩派文庫版、69頁)こうした情勢にありながら、いま外国諸列強をしりぞける策に出るとすれば本強末弱から本末共弱への傾斜を一気に本末共強へと回復する必要があると考えられた。もちろん会沢において―それは水戸学の性格でもあるが―名分論的秩序への指向がその根底をなしている以上、そこに封建的秩序の変革への契機を 見出すことが出来ないのは当然であるが、しかしそこに幕藩体制における政治のあり方を変えてゆく方向が合まれていることに注意しなくてはならない。つまり、本末とは実際には何よりもまず幕府と藩との関係を指すことになり、本末共に強めるとは、一方で藩政改革の実行となるのであるが、同時にまた幕府が意識的にとってきた藩を弱める政策を変更せよという幕政改革の要求となってあらわれてくる。こうした水戸学の理論を背景として徳川斉昭が将軍家慶に対して意見書を提出するという徳川幕府以来はじめての挙に出にのは、天保10年であった。それが御三家という地位を利用してはじめて可能であったことは云うまでもない。さらに披は他面では諸大名との連絡を始める。黒船がやってくる以前に伊達宗城、 山内豊信、鍋島直正、島津斉彬、松平慶永などとの間に外様とか親藩とかの区別をこえてすでに意見の交換が行われているが、それは体制の内側からの解体化現象―大塩の乱はその端的なあらわれとみられた―に対外的危機が加わらうとするとき、それに対応して幕藩制下の政治を、大名の家政とそれを統制する幕府の家政というあり方から、封建支配層の一致と協力による支配体制の強化の過程にかえようとするものであった。つまり藩政改革で強化された藩権力を全国的規模で統合しようというのである。

  黒船がやって来たことは、このような潜在的な形で進行していた政治の変化の方向を一挙に顕在化させることになる。幕府が、黒船対策を諸大名に諮問したことは、 これまでの政治のあり方ではこの事態に対応出来ないこ とを幕府自らが認めざるを得なかったことを意味し、それはまた前述のような大名の横の連絡を政治の表面に公然とおし出すこととなった。それが水戸藩を中心とするいわゆる京都入説の形をとったことは周知のことがらであるが、そのことは、この大名の幕政改革運動がその正統性を幕藩体制の支配者である自らの地位そのもののなかに見出し得ず、朝廷に求めねばならなかったことを示している。この運動は条約勅許問題、将軍後継問題を中心にし、安政の大獄で一時後退したとは云え、元治元年の参預会議で一応形の上では実現されたかにみえたが、そのときすでに実質的には政治的主導権は志士連合の側にうつっていた。

  だが重要なことはこの志士の運動がこの大名の運動を出発点とし、終始それとからみあいながら展開される点にある。そして同時にそれにも拘らず、大名の運動に対して一定の独自性をもっているという点にある。つまり志士連合は二つの系から―第一には大名の幕政改運動の手足となって動くなかから、第二には、当時すでに全国的な規模で展開していた洋学、国学のコミュニケーション・ルートから生れて来る自生的結合が、第一のものと結びつき、それに大名の手足という性格をこえた独自性をあたえることになる。そしてこの第二の点が維 新史の諸問題の中核をなしていると考えられる。即ちこの全国的規模でのコミュニケーョンの成立の背後には、 商品流通の展開が前提されている訳であり、商品流通のなかから生れて来た豪農商層が同時にコミュニケーション・ルートの結節点でもあるという関係が成立しているようにみえる。そしてもうひとつ、武士の生活が破たんしつつあり、とくに下級あるいは非門閥的な一般武士層がその生活の貧窮化のため著しく浮動的になっていたという条件が加わる。だから黒船来航を機として、この自生的コミュニケーションと既成秩序から脱落しつつある武士層とが結びあって大名との対比で云えば下からの全国的政視野を開いてゆくのであり、そのなかに豪農商層をもまき込んでゆくことにもなる。だからこうした方向が進展すればする程、志士と豪農商層との関係は深まってゆく筈である。そして一般民衆はこの層に媒介されてはじめて問題をうけとるのであり、従って芝原氏のようにこの層を人民一般のなかに埋没させさせてしまう訳にはゆかない。

  ところで列強の圧力が直接に「黒船」に象徴される軍事力によるものであった以上、それに対応する封建支配層の関心が軍事面に集中されたことは当然であろう。以後の幕政、藩政改革のなかで、その重点が次第に財政改革から軍制改革に移ってゆくのはこのことを意味する。しかもそこでは近代的兵器をつかいこなすための洋式軍制の採用が中心となるのであり、それ旧来の身分秩序をうちこわすことを意味する以上、その主導権が次第に旧来の身分秩序を利益と感ずることの少ない下級武士層に移ってゆくのは当然である。そしてここでも彼らと村落支配者としての豪農層との結びつきが重要な意味をもってくる。即ち、この改革は武士層内部の身分秩序を弱めると同時に農民のなかに兵士を求める必要から武士と農民との身分的な距離をちぢめる方向を必然とするのであり、従ってこれが成功するためには、彼らの村落支配者としての農民把握が完全であること、つまり強力な村落支配者としての農民把握が完全であること、つまり強力な村落支配者としての豪農層の積極的な協力が得られなくてはならない。そしてまた、彼らの積極的な支持により下級武士層が改革のヘゲモニーを握った場合に、改革はより徹底したものとして効果をあげうるのである。田中彰氏が長州藩を分析して示された次のような事実はこのよう なことを物語るものであろう。即ち長州瀬戸内農村は畿内棉作地帯におけるような農村内部の階級分化による対立の激化はなく、

 

 「安定性を示す中農層が全農民の半数を占め、その上に拡大する豪農の在存する地帯が尊攘運動の基盤となっている」「そして対立を深める筈の没落下層農民と、豪農との間には、修補制度や、豪農の献納米銀のその土地への還元的投下というような恩恵的擬装が行われ、更に豪農指導による開墾、治水が行われて、基抵的対立はカモフラージユされつつ、遂に豪農の村落支配の強化が行われているのである」(「討幕派の形成過程」歴史学研究205号)


 そしてこのような強力な村落支配者の支持によって高杉の馬関挙兵が成功し、倒幕派による藩権力掌握が実現するのである。長州と共に倒幕の主力となった薩摩の場合にも、一揆皆無と云われる強力な安定性のある村落支配が中世的な形でつづけられていたことは周知の事実である。従って芝原氏のあげた長州藩諸隊と慶応2年の一揆は、そこに革命的萠芽が共通しているという問題ではなく、その対比のなかに、村落支配の強さが倒幕派の幕府に対する勝利の条件となっていることを見出すべきであろう。しかしそれは村落支配者が全国的な政治の舞合におどり出たということではない。村落支配の強さを藩権力の強さにまで組みあげうるか否かが問題の中心となっているのであり、そこに先の「割拠」によってはじめて倒幕が可能になったということの意味をみるべきであろう。この関係を堀江英一氏に従って改革派同盟と呼ぶことがふさわしいかどうかは別に検討しなくてはならないが、ただこの場合、同盟は藩の規模にとどまっており、豪農商層の利害からする独自の、藩をこえた結集が存在しなかったということに注意しておかなくてはなるまい。そしてそれは明治維新が生みおとしたのが天皇制であったという問題ともむすびついている。

  つまり明治維新の政治過程は、列強の圧力に対して自らの支配を如何にして強めるかという点をめぐる封建支配者内部争いとしてはじめられ一貫してその性格をもちつづけるのであるが、しかし、強化とは結局、政治的統合のはばをひろめ、深めてより多くの自発性を集中す ることに他ならず、その対立は、大名、領主の統合策 と、村落支配層までをもふくめて政治の基底をひろげよ うとするより深い統合策との対抗であり、結局前者は幕藩制に本来的な割拠性を克服しない以上統合策としての意味をなさずに敗れ去ってゆかざるを得ない。そしてその過程で、討幕派は封建支配層としての性格を変えてゆくのであるが、しかしその統合はあくまでも上からの統合であり、それに対応して支配の正統性は天皇の絶対化のなかにもとめられることとなる。だから維新の過程では、階級が武士以外には階級として政治的に成立しなかった点が特徴的なのである。芝原氏のいう人民は村落支配者にひきいられた限りでしか政治的に登場せず、従って天皇制は村落支配層による人民の把握を基礎にして出発する。だが一方、富国強兵のエネルギーを引き出すためには、披支配者一人一人を臣民として再把握し、それを忠誠の主体に育てなくてはならない。それは限定づきとは云え同時に社会的行動の主体としの個人をみとめることであり。資本主義社会の前提条件でもある。だがそれはまた村落支配者の支配力を弱め、解体する条件ともなりうる。この矛盾を解決するために天皇制はその基礎 としての村落支配を、家父長制、家族国家観の方向に再編成せざるをえない。ここに、超階級的な正統性の源と して出現した天皇制は独自の体制として定着し始めるのである。

  ところでこのような形で明治維新が成立しえたのはさきの帝国主義の「前夜」の問題につながっている。つまり列強の極東における中心問題が中国にあり、日本は副次的な問題であったという点をのぞいては考えられないのではないかということである。この点をのぞいては日本の近代はわからなくなるのではないか。芝原氏は外の条件にたよるものとしてこの問題をはずしてしまった結果、次のような問題をみおとすことになった。即ち明治維新は日本封建制と列強資本主義との矛盾を列強の側ヘの同化によって解決したのであるが、その場合列強資本主義は中国をめぐって形成された列強であり、日本はその関係のなかにはいったという問題である。つまり以後の日本の近代は、中国をめぐる列強の一環として展開されてゆくのであり、大陸侵略もこの点にむすんで行われていくことが重要なのである。芝原氏のように侵略をブルジョア・ナショナリズム一般の問題に解消してしまうのは、はなはだ非歴史的と云う他はあるまい。

  これらの点についてはもっと詳細に論じなければならないのだが、すでに紙幅もつきたので他の機会にゆずる他はない。ただ最後に芝原氏の指摘する「たたかう人民」をみとめるとしても、その背後には「たたかわなかった、あるいはたたかえなかったより多くの人民」が居るのであり、彼等の条件を明かにすることなしには、日本の近代を解き得ないことを強調して、この稿を結びたい。