「期待される人間像」草案については、すでに活発な批評が各方面から発表されているが、これらの批評にはこの草案をつくった中教審の委員たち、−平均年齢約68歳の年寄りたち−の思想を問題lこするというやり方が多い。しかし、草案の骨子をなしているのは、これまですでに政府側が色々な機会(こ表明してきた見解と同じものであり、従ってこの案の特色は、第1には、そう した政府側の見解を統一した点にあるとみられる。だから、批判も、委員たちの思想や、草案のもつさまざまな矛盾を明らかにするだけでなく、全体としてどのような方向を打ちだそうとしているか、という点に注目することが必要となろう。第2の特色は、そのような統一にあたって、天皇、国家に対する思想を、統一のかなめとして強く打出している点である。この点もこれまで、政府の側が折にふれて述べてきた思想と本質的に異るものではないが、それをより強く、明確に表現しているのであり、ちょうど、紀元節復活を背後から支援していた政府が、舞台の正面におどり出たことと対比できる関係をなしている。
この草案の柱となっているのは、第一には講和以後おしすすめられてきた道徳教育の強化、愛国心の強調という政策であり、第二は、安保改定後声高く唱えられるに至った日本大国論であり、経済の高度成長を欧歌する日本先進国論などのイデオロギーである。そして、革命主義と大衆文化;に激しい攻撃を加え、民族、国家、天皇などの価値を強調することによって全体の統一をはかると いうのがこの草案の基本的な構造をなしている。その問題意識は次の一節で明らかである。
|
「日本における戦後の経済的復興は世界の驚異とされている。しかし、経済的繁栄は一部に享楽主義の傾向を生み、精神的空白を生じた。このように欲望の増大だけがあって精神約理想が欠けた状態がもし長く続くならば、長期の経済的繁栄も期待することができない.。」 |
つまり、経済的繁栄をつづけるためには、精神的理想が必要なのであり、この理想を提示することが「人間像」の中心問題とされるのである。そしてまづ経済的繁栄そのものの中から「日本の使命」なるものを導いてく る。
|
「日本は与えられる国ではなく、すでに与える国になりつつある。日本も平和を受けるだけではなく、同時に平和を与える国にならなければならない。……日本の使命が西と東のかけ橋であるだけではなく、 北と南、先進国と後進国のかげ橋となる点にあることを思うべきである。そこに現在の世界における日本の存在理由があり、世界に貢献できる固有の立場がある」 |
しかし、他の箇所では、「世界が自由主義国家群と全体主義国家群の二つに分かれている」という認識が示さ れているのであり、「中共承認」も打出さないで、何が東西のかけ橋か、という批判も成り立つわけである。従って ここでは経済の高度成長という「状況」によりかかり、 先進国意識をあおり立て、「与える国」というイメージ をつくり出して、独占資本の海外進出政策を「日本の使命」におきかえているにすぎない、このことは勿論、この草案の基本的性格の一面を物語る重要な点であるが、 (当面する問題でいえば、日韓会談推進は「日本の使命」ということになろう)。「状況」が変れば通用しなく なってしまう。そこで、国家そのものを愛する精神を植えつけようとするのである。その際、家庭→社会→国家というつながりを強調し、「家庭は愛情の体系である」 「われらの愛は自然の情である」と規定して、この自然情のをそのまま社会、国家への愛につなげようとする。
|
「家庭における愛の諸相が展開して、社会や国家や人類1こ対する愛ともなるのである」 |
この「自然の情」から愛国心をつくり出そうとする試みは、例えば、郷士愛→愛国心といったように、従来から保守政党の愛用してきた論法である。このやり方でゆけば、国家とは何か、愛するに足る国家とは何かという
問題を避けて通れるわけである。しかしこの草案は、 「自然の情」の拡大に満足しているわけではない。「愛情の体系」としての家庭を基礎におく家庭→社会→国家
の関係を設定する反面で、国家の価値を強調することによって、逆!こ、国家→社会→家庭→個人にまで及ぶ規範の体系を生み出そうとするのである。この点が、この草案の最大の特色であり、我々が力をこめて反撃しなくてはならないものである。
|
「今日世界において国家を構成し国家に所属しないいかなる個人もなく、民族もない。国家は世界において最も有機的であり、強力な集団である、個人の幸福も安全も国家によるところがきわめて多い。世界人類に寄与する道も国家を通じて開かれているのが普通である。国家を正しく愛することが国家に対する忠誠であり、ひいては人類を正しく愛することに通じることを知らなければならない。
自国を正しく愛するとは、自国の価値をいっそう高めようとする心がけであり、その努力である。自国の存在に無関心であり、その価値の向上に努めず、ましてその価値を無現しその存在を破壊しようとする者は、自国を憎むものであり、ひいては人類を憎むものである。われわれは日本を正しく愛さなければならない」 |
これは、 「正しく日本を愛する人となれ」という節の全文である。長く引用したのは、この内容が重大であるからであるが、同時に、ここでの中核におかれている 「自国の価値」「存在」に関する説明はこれだけしかないという点に注意をひきたかったからでもある。
自国の価値を高めること→愛すること→忠誠というこの文の論理的構造の基礎となっている「価値」とは何だろうか、「最も有畿的であり、強力な集団」いう規定が価値の内容とされるのであろうか。ともかくこの文章からは、国家の価値、国家への忠誠は無条件的なものとされているような印象をうける。この他、国家に関することでは、福祉国家、文化国家という用語もみえるが、そこでは、物質的だけでなく精神的、道徳的にも豊かになれと説かれているにすぎない。また民主主義については、個人の自由と資任を重んじ、法的秩序を守ることを強調し、革命主義に反対するだけであり、これらの国家に関する叙述のなかで主権在民の原理に関して一言も触れられていない。それとは逆に国家への忠誠についで、
社会秩序の根本を法秩序におき、「法秩序を守ることによって外的自由が保証され、それを通じて内的自由の領域も確保される」とする。そしてさらに、家庭における
「貞」「孝」「梯」という道徳や、「親の愛とともに親の権威が忘れられてはならない」ことが強調される。個人についてもまた「家庭、社会、国家は経済的その他の意味をもつことはもとよりであるが、人間性の開発という点からみても基本的な意味をもつのである。家庭、社会、国家が人倫態と呼ばれるのはこのためである」とされ、個性の伸長もこの規範の体系の中にとじこめられるのである。
家庭→社会→国家へと至る「自然の情_jの上昇拡大と、国家の価値から国家→社会→家族→個人と下降する規範の体系とをリンクさせるこの「人間像」草案は、さらにこの縦の関係に対して横の関係として「民族」を強調し、その全体を統合するにあたって「天皇」を登場させる。
|
「戦後の日本はかつての民族共同体的な長所を喪失し、しかも確固たる個人の自覚にはまだ達していない。この埋没された自我を新しく掘り起こしつつ、民族としての共同の責任をになうことが重要な課題の一つである。」
「それぞれの国はみなその国の使命あるいは本質を示す象徴をもち、それに敬意を払い、その意義を実現しようと努力している……(略)
われわれは日本の象徴として国旗をもち、国歌を歌い、また天皇を敬愛してきた。それは日本人が日本を愛し、その使命に対して敬意を払うことと別ではなかった。天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。われわれは祖国日本を敬愛することが、天皇を敬愛することと一つであることを深く考えるべきである」 |
ここでもまた天皇の地位は、「主権の存する日本国民の総意に基く」という憲法の規定は全くかえりみられない。しかし、それにしても 「国の本質あるいは使命_j
とは一体何ものであろうか。さきの引用と関連させていえば、天皇は東西、南北のかけ橋という日本の使命の象徴だというのでもあろうか。
ともあれ、家族における愛情と共に民族や天皇に対する非合理的心情をよびさまし、育成し、動員し、国家を情緒化し、規範の体系としての強力な国家に接合しようというこのやり方は、主権在民の原理を逆転させようとすることに他ならないし、また明治以来の天皇制イデオロギー形成の方法と同じである。草案はこの点に関連して「明治以降の日本人が、近代史上において重要な役割
を演じるととができたのは……彼らが気骨をもち、風格を備えていたからである」とし、「戦後の日本人、……に見られる気魄の欠除」をなげいている。それは現在の支配層が、経済的成長にみあう国民の統合を探し求めていること、そして主権在民の原理の下では統合の方法を見出し得ず、明治以来の近代化方式を再びとりあげようと
していることを意味している。そして、現在論壇をにぎわせている「近代化論」がその後景をなしていることはいうまでもない。ここまでくれば、紀元節復活が、この
「人聞像」草案にその要求の根拠を求めることは、はなはだ容易となる。紀元節は一方で天皇を神と接合させる問題であると共に、他方で明治以後の近代化のあり方にかかわっているからである.草案は紀元節を暗黙に支援するかのように、レヂャーの快楽への消費を批判しなが
ら、次のようにつけ加えている。「もともと祭日や休日 は神を祭るために定められた一面もある」と。
|