『人物・日本の歴史』11 

1966年1月

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陸奥 宗光


古屋 哲夫

1戦争の口実をつくる
2条約改正と日清戦争
3藩閥・政党・政治技術
4三国干渉


4三国干渉
戦争熱と外交
清国講和使節を追い返す
遼東半島をめぐって
下関講和条約の調印と三国干渉
外交工作による切りぬけ策
陸奥死す


4三国干渉



戦争熱と外交

 日清戦争は明治27年(1894)8月1日の宣戦布告以後、11月21日の旅順占領まで約4か月で戦争の大勢は決した。戦争をどう終わらせるかということが陸奥の課題となってきた。陸奥はなるべく早い機会に講和することをのぞんだ。開戦において列強の調停のあいだを駆け抜けて彼は、列強の日本の強引なやり方に好意をもっていないこと、清国側が講和のための調停を列強に依頼することを予測しなければならなかった。

  列強の干渉をまぬかれるためには、できるだけ早く、できるだけ軽い条件で講和することが必要であった。しかし、国内の世論は、戦勝の報が伝えられるたびに、侵略的好戦的となった。自由党や改進党の民権主義者たちも無反省な膨張主義者と化していった。いつ日章旗が北京城門にひるがえるか、という話題が国民を支配しつつあった。政府部内でも講和条件について、海軍は台湾領有を絶対に必要だと主張し、陸軍は北京を指呼の間にのぞむ遼東半島の領有は、戦略的にも、朝鮮の確保のためにも、欠かせないことだとした。また大蔵省など財政当局は、ひたすらに償金の額の増大をのぞんでいた。早期講和は国内からのはげしい反対につきあたらなければならなかった。

  こうした情勢のなかで、いずれかの強国は、日本の要求を支持する立場にみちびくことができないものか、という考えがつねに陸奥の心をとらえていた。そうすれば干渉を避けるための外交的な「術」を試みる余地が生まれるかもしれない、と彼は考えたにちがいない。しかしそれが成功する確証はどこにもなかった。そこがいっぽうに日英同盟を持っていた日露戦争(37、8年)とちがうところである。イギリスは日本との条約改正をみとめたとはいうものの、このときにはまだ、日本のために、火中の栗を拾うつもりはなかった。イギリスは日清戦争の開戦後にも日清間の調停をこころみたが、このさいその背後で、列強の共同調停を組織しようとしていたことは、イギリスが他の強国と対立してまで日本の肩を持つ気がなかったことを示している。

  したがって、列国のいずれかを味方にひきこもうとして日本の要求する講和条件をあかすと、そこから逆に日本に対する干渉が生まれる可能性があるとみなければならなかった。伊藤首相はこの危険の報を重視した。彼は、講和成立が確実になるぎりぎりまで講和条件を秘密にしておくべきだと考えた。陸奥も自分の考えで成功する見こみがたたない以上、伊藤の考えに従うほかなかった。



清国講和使節を追い返す

 講和調停の動きは、早くも27年10月8日のイギリスの申し入れにはじまり、つづいて11月、アメリカも同様の動きを示した。しかし陸奥は、清国が講和を申し出ない限り、講和の時期がきたとは考えられないし、また日本の講和条件については、日清両国の正式の全権が会合しなければ発表できない、という態度をとりつづけた。

  この結果、清国側は、ついに12月20日、講和全権委員2人を任命したことを通告、日本側も伊藤首相、陸奥外相を全権に任命して講和交渉を開くことを承認した。しかし陸奥は、清国側全権張蔭桓、邵友濂というあまり名の知れない人物であること、最初清国側が会談地として上海をえらんだことなどから、清国が一気に講和を成立させようと決心しておらず、日本側の条件をさぐり列強の干渉を招こうとしているのではないかと疑った。はたして、イギリス公使の談話から清国側が両委員に全権を与えていないことを知った陸奥は、アメリカ公使を通じて清国委員が全権委任状を持たないことを確認した。

  陸奥と伊藤は、この問題を理由に交渉を拒む方針をきめた。2月1、2日広島で行われた両国全権の会合で、日本側は全権委任状の不備を理由に正式会談にはいらないことを宣言、清国全権はすごすごと帰国しなければならなかった。



遼東半島をめぐって

 ところで、この直前の1月27日の御前会議での伊藤首相演説で注意すべきことは、「若シ一旦講和ノ条件ヲ名言スルニ於テハ因テ以テ第三国ノ容喙干渉ヲ招致スルコトナキヲ保セズ、否殆ド免ルベカラズノ数ナリトス」と述べて干渉がかならずくる情勢であることを告げたが、この干渉にどう対処するかは、そのときになってから評議するという方針を示し、承認を得たことである。

  日本側の講和条約案が陸奥と伊藤のあいだでいつごろ確定されたかは不明であるが、最終的には旅順占領以後であることはまちがいない。日本の講和条件は、清国が朝鮮の独立を承認すること、遼東半島、台湾を日本に割譲すること、償金3億両(けっきょく2億両に譲歩)を支払うこと、新しい通商航海条約を結び、日本にも欧米諸国と同様の権利を与え、さらに開市開港の増加、内河航行の拡張、開市開港場での製造業経営の許可などをみとめることなどを中心にして作成された。この要求のなかで遼東半島が大きな問題となることは、陸奥も最初から予期していた。西徳二郎駐露公使からは、ロシアがこの要求に文句をつけてくることは必至だという観察が送られてきていた。

  陸奥はこの講和条件をあらかじめ欧米各国に示して、「内諾黙許」させておきたいとも考えたが、各国にこの条件をみとめさせる自信を持ち得なかったため、伊藤首相の方針に従うほかはなかった。伊藤は列国の動向を気にせずに清国に対する要求を貫き、干渉がきたときの対策は、そのときの情勢できめようと主張したのであった。



下関講和条約の調印と三国干渉

 さきの講和使節を追い返された清国はやむなく、2月19日、李鴻章を全権に任命、3月20日からは下関の春帆楼で講和交渉が開始された。日本側全権は前と同様、伊藤・陸奥の2人であったが、陸奥はこのころから肺疾が悪化したため、調印までの7回の会議のうち、2回は欠席している。

  この間、3月24日、第三回会議終了後、会場から帰途の李鴻章が群馬県小山六之助にピストルで狙撃されるという事件が起こり、日本政府をあわてさせたが、けっきょく4月17日、李鴻章は若干の譲歩をかちえたものの、日本の要求の大半を受け入れ、講和条約が調印された。陸奥はこの調印式にはかろうじて出席したものの、舞子で療養生活を送ることになった。

  講和調印1週間後の4月23日、陸奥の病床にもたらされたのは、ロシア・ドイツ・フランス三国公使があいついで外務省に林董次官をおとずれ、「日本が遼東半島を領有することは、清国の首府北京を危うくし、朝鮮の有名無実にするものであり、極東の平和をみだすとみとめるから、その領有放棄を勧告する」と申し入れたとの電報であった。なんらかの干渉は予期したところとはいえ、ドイツが干渉に加わることはまったく予期されておらず、陸奥は駐独公使青木周蔵の無能に憤ったがあとの祭りであった。ともかくこの予想をこえた三国干渉にどう対処すべきかは、はなはだ困難な問題であった。

  翌24日、陸奥欠席のまま開かれた御前会議で、伊藤は次の3策を提議した。(1)断然三国の勧告を拒絶する、(2)列国会議を招集して遼東問題を処理する、(3)三国の勧告をうけいれて遼東半島を清国に返還するというのである。御前会議の討議の結果は、第2策の列国会議になんらかの活路を見いだそうということにおちついた。

  この結論を持って伊藤は翌朝早く陸奥をおとずれた。そこに松方正義蔵相、野村靖内相もかけつけ、病床の陸奥をかこむ会議の形となった。陸奥はこのとき、御前会議の結論に強く反対した。列国会議を開くのは、当面の相手である三国のほかに、なお2、3の大国を加えて、干渉の緩和をねらうためであろうが、かえって新たな干渉をまねく危険のほうが大きいと陸奥は考えた。この点はたしかにそのとおりであった。伊藤らも、この論をみとめないわけにはいかなかった。



外交工作による切りぬけ策

 ではどうすればよいのか、陸奥の病床をかこむ会議では2つの結論がでた。1つは三国干渉をうけいれるとしても、清国に対しては予定どおり講和条約の批准を交換すること、もう1つは、日本に三国を相手に戦う力がなく、また列国会議も有効な策でないとすれば、三国の勧告をうけいれるほかはないが、なお外交的工作を試みるということであった。しかし、イギリスの積極的な支援をうることはできず、その間、ロシアからは、オデッサに輸送船が集結し、軍隊の輸送を準備中との情報が伝えられた。

  やむなく陸奥は4月30日、三国に対し、遼東半島の領有権は金州庁を除くほかはすべて放棄する。しかし清国が講和条約の義務を完了するまで保障占領をつづける、という条件付き受諾の回答を発した。三国側はこの回答を不満とした。翌5月1日、沿海州軍務知事は、ウラジオストク駐在の日本貿易事務官に対して、同地要塞は戦闘準備の命令をうけたから、在住日本人はいつでも引き揚げられるよう準備されたいと通告してきた。

  もはや残された手段はなかった。5月5日、陸奥は三国干渉の無条件受諾を回答し、日清戦争に終止符を打つほかなかった。



陸奥死す

 三国干渉が解決すると陸奥は療養生活にもどり、6月5日、文相西園寺公望が外相臨時代理を兼任した。陸奥はこの病床で一気に『三国干渉要概』を書きおろし、パンフレットにして在外公使たちに配布した。しかし伊藤はこのなまなましい記録を発表することに反対、長く知られることなく埋没された。しかし陸奥はこりることなく、日清戦争全体にわたる記録を駆使して、『蹇蹇録』を書きあげた。陸奥がこれらの記録に執着したのは、後世に対する弁明を書き残したかったからであろう。たしかにそれは、近代日本の政治家の著わした書物のうち、最もすぐれたものとしてあげることができる。

  彼がいいたかったのは、日清戦争、とくに三国干渉に対する彼の外交指導が可能な道のうち最良のものであったということであろう。確かに、彼のとった方策は最善のものであったかもしれない。しかしそれは、あの時期に日清開戦を強行したことを問題にしなければ、という条件をつけてのことである。したがって問題は、日清開戦の責任の問題にかえっていかざるを得ないが、この点について陸奥はなにも述べていない。それは彼の問題ではなく、日本の近代化全体の問題であるとでもいいたかったのであろうか。

  陸奥は病気が小康状態を保った明治29年(1896)4月3日、いったん外相の職に復したが、やはりつづかず、5月30日辞職した。その後、療養生活のなかでも将来の首相を夢みていたようであったが、明治30年(1897)8月24日、その夢もむなしく死去した。享年54歳。日清戦争が国際政治の新たな動向を引き出す導火線になったことが明らかになりつつあるときであった。列強は利権に、領土に、弱体化した清国の分け取りに狂奔しはじめていた。それはまた列強の侵略が、民衆の反撃を生み、それを機会にさらに侵略がなだれをうって押しよせ、そこから列強相互の激烈な対立が生まれるという、帝国主義の典型的な過程が現われる前兆でもあった。

  明敏な外交家として自他ともに許していた陸奥は、この前兆をどう予感し、どのような感慨をいだいていたのであろうか。この点については、いまのところ語るべき資料が見あたらない。