『人物・日本の歴史』13

1966年7月

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山県有朋と宇垣一成


表紙

古屋 哲夫

1二個師団増設問題
2元老政治
3軍国主義
4総力戦への構想


3軍国主義
山県の軍国主義
日英同盟から日露協約へ
中国の民族主義を警戒
日露同盟の解体
ワシントン会議


3軍国主義



山県の軍国主義

 山県のこうした政党排撃の態度が、君主権を弱めてはならないという考えにもとづいていることはすでに見たところであるが、もう1つ別の面からいえば、軍事的配慮を政治のなかで最優先させようという、軍国主義からくるものであった。

  さきに述べた二個師団増設問題について、大正元年11月10日、西園寺首相と会談した山県は、増師の必要を述べているなかで、「国防ハ本ニシテ財政は末ナリ」として、軍備を不生産的とする思想を排撃し、その「末」である財政ばかり考慮して、「本」である軍備を固めることを忘れてはならないとした。この思想は山県の生涯に一貫したものだった。

  明治23年(1890)、道徳を天皇の名によって規定し、明治憲法とともに天皇制の柱となった教育勅語が制定されたが、このとき、首相の地位にあった山県は、起草者の井上毅に書簡を送り、教育勅語の末尾に、「一国の独立を維持するは陸海軍備に基因」するという一節を書き加えてくれるように頼んでいる(明治23年9月29日付け書簡)。このことはさすがに実現しなかったが、軍備の問題をそのときどきの内閣に左右されない、一貫した計画の下におくことが山県の希望であった。

  第一議会での施政方針演説で山形首相は、独立自衛の道は第1に「主権線」、第2に「利益線」を守ることにあり、それには「巨大な」軍事費を負担しなければならないことを強調した。「利益線」とは具体的には朝鮮をさし、やがて、日清戦争に発展していくのである。

  しかし、こうした方針は、「負担の軽減」を要求する政党側から、はげしく攻撃されたのであった。したがって政党内閣の下では、彼の軍備第一主義が貫けないことは目にみえていた。

  そこで彼は、政党内閣につねに反対すると同時に、日露戦争後にはもう一つの対策として、さきにもふれた「帝国国防方針」をつくったのであった。

  この国防方針は内閣に無関係に作成されたのであるが、こんなことはこれがはじめてであった。まず明治39年10月、山県が草案を上奏すると、天皇は12月に元帥府に諮詢し、ついで参謀総長、海軍軍令部長が審議して、翌40年2月に復奏する、という過程で決定されている。そしてこの決定ずみのものを西園寺首相に閲覧させただけだった。

  こうしたやり方を根拠づけるのが、いわゆる「統帥権の独立」の理論である。いいかえれば、山県は国防方針の決定という重大事項から、政府を排除することによって、のちにファシズム化のテコとなった「統帥権の独立」の実態をつくったのであった。



日英同盟から日露協約へ


 ところで、この国防方針で山県は、「将来ト雖モ我国防上主要ナル敵国ハ露西亜ト想定ス」と規定した。また「将来我国利国権ノ伸張ハ清国ニ向テ企図セラルルヲ有利トス」とも述べた。つまり、日露戦争に負けたロシアが報復戦争を起こすのにそなえながら、中国での利権を拡大しようというのであり、それは日英同盟に依拠しながら、日露戦争に勝った路線をそのままに延長したものであった。しかし、戦後の情勢は急速な変化を示していった。

  アメリカもイギリスも、日本の韓国併合をみとめたが、満州に対しては日本の独占をゆるそうとはしなかった。とくにアメリカは積極的なドル外交を展開した。英米はすでに明治39年3月、満州での門戸開放・機会均等の実行を要求していたが、さらに40年には、両国は清国とのあいだに錦州―愛琿鉄道敷設のために借款を与える予備協定を成立させ、12月、アメリカはこの協定成立を通告すると同時に、日・英・露・独・仏の5か国に対して、満州の鉄道を列国共同管理において中立化する案を提議した。この中立化案は日露両国の拒絶にあって、不成立に終わったが、翌年11月には、英・米・独・仏の4国借款団が成立し、辛亥革命が起こる半年前の明治44年(1911)4月には、清国政府と4国借款団とのあいだに幣制改革・満州開発を目的とする1千万ポンドの借款が成立した。

  こうした列強の資本構成と同時に、多面では、中国の民族主義運動もしだいに高まりはじめており、清国政府も日本の利権要求に簡単には応じなくなる傾向を示していた。

  こうなってくると、「日英同盟ハ帝国外交ノ骨髄タリ」(明治41年9月25日閣議決定「対外政策方針」)とされるように、世界政治のなかで地位を保つため、日英同盟は必要だとされていても、こと満州に関しては、それだけでは間に合わなくなってきた。そこに、戦いを終えたばかりの日本とロシアが握手する条件が生まれた。

  戦勝により、南満州鉄道・旅順・大連などを獲得した日本と、敗戦により利権の一部を日本にゆずったとはいえ、満州を横断する東清鉄道をもつロシアとは、ともに満州における既得権者の地位に立ちながら、他の列強よりも資本力でははるかに劣るという共通性をもつにいたったのである。

  この結果、明治40年(1907)7月30日、第一次日露協約が調印され、43年7月4日第二次協約、45年7月8日第三次協約と改定がつづけられた。最初、満州における鉄道・鉱山などの利権の範囲を定めるものとして地図の上に引かれた分界線は、ついで勢力範囲の境界線となり、さらに内蒙古まで延長された。また第二次協約で鉄道経営上の協力と満州の現状維持を約したことは、明らかにアメリカの満州鉄道中立案への対抗にほかならなかった。

  国防方針でロシアを主要敵国とした山県は、いち早くこの日露協約の推進者に早変わりしていた。もちろん彼は、軍備拡張の目標としてロシアとの再度の戦争を想定しつづけたけれども、満州での利権拡張を望めば望むほど、ロシアと手をつなぐことが必要となっていった。



中国の民族主義を警戒

 山県は明治40年1月25日、西園寺首相に意見書を送り、日露協約の必要を説いたが、その理由として2つのことをあげていた。第1は、中国の利権回収、主権維持の運動にますます強まってくる情勢のなかでは、満州問題について日露両国が戦争・対立して清国に乗ずるすきを与えるよりは、おたがいに協議したうえで清国に対するほうが有利と考えられること、第2は、欧州の列強が連合して東洋にせまることを防ぐ効用を持つとした。それは「独仏米のごとき商業上の利害の衝突よりして何時我が邦を敵視するに至るや測る可からざるものあり」という列強の利権をめぐる対立の激化に対応するものだったことは明らかである。

  ここで山県は、第一の理由、すなわち中国の民族運動への対抗を重視しているのであるが、この点は注目されなければならない。

  彼はさらに、明治42年(1909)4月29日にも意見書を書き、遼東半島租借権を延長して、「永久我が帝国の領土」とする必要を強調し、中国側が「利権回収」の態度を改めない場合には「我れは只武力を以て之を威圧すべきなり」とした。しかし、この武力という最後の手段を使う前に、日露協約を利用し、ロシアと提携して中国を圧迫すべきだというのであった。つまり、満州経営という点では、日本とロシアの「両国の利害は正に相反するものなりと雖も而かも清国の利益回収熱に対するに至りては双方の利害正に相斉しきものなり」として、この点に日露協約の最大の価値をおいたのであった。

  なおついでにいえば、山県は、遼東半島租借権が満期になったからといって、中国を返還するようなことがあれば、「韓国の民心に影響すること極めて恐る可きもの」があると指摘した。中国の利権回収要求に屈することは、植民地支配の全面的解体を意味すると感じられたのである。こうした考えから、山県が辛亥革命への干渉を主張し、また、第一次大戦後の対中国政策の観点から、大隈内閣に日露協約の強化を要求したことは、すでに見たとおりである。



日露同盟の解体

 事あるごとに、山県がその心境を和歌に託したことは有名であるが、大正5年(1916)7月3日調印された第四次日露協約を手にしたとき、こんな歌をよんだ。

手にとるも遅しと文をひらきみて 眉も始めて開けつるかな

 この協約はそれまでのものと異なり、満州あるいは蒙古に限らず、中国問題全般に関する「同盟」にほかならなかった。本文では、日露両国はお互いに、相手を対抗目標とするような国際協定に加入しないこと、極東における領土権・特殊利益を守るために協力することを約し、秘密協定では、両国は、中国が両国に敵意をもつ第3国の政治的掌握下におちいるのを防ぐための措置を協議し、その措置の結果、第3国と戦争になった場合には、兵力的援助を行うことを約したのであった。

  すでに外相は加藤高明から石井菊次郎にかわっていたが、山県は、この念願の第四次協約の成立をみて以後は、大隈内閣の役割りは終わったと考え、みずから大隈に会見して露骨にその辞職を要求した。大隈もやむなく辞職をみとめたが、彼は自分の後継者に加藤高明をのぞみ、山形直系の寺内正毅との連立内閣を実現しようとした。しかし、大隈の要望により朝鮮から帰京して会談した寺内は、この構想を拒絶した。

  そこで大隈は単独参内して、天皇に辞意と同時に後継首相に加藤高明推薦の意を上奏し、大山内大臣に元老会議を開くことなく、加藤に組閣の大命がくだるよう、あっせんをたのみこんだ。

  しかし、この報を得た山県は、怒り狂ってただちに小田原の古稀庵から上京参内し、他の3元老を招集して御前会議を開き、一気に寺内内閣を実現した。

  山県は、護憲運動にはじまる元老と陸軍への反抗を、大隈内閣というワン・クッションをおくことで押えこみ、自己の主導権を回復したかにみえた。しかしそれも、すぐさま内外からの衝撃でくずれ去っていった。すでに寺内でさえ、山県の細かな干渉をきらうようになり、山県も事ごとに寺内への不満をもらしていたが、そんな不満も、ロシア革命と米騒動の衝撃にふきとばされていった。

  中国支配に日本と手を組んでいた帝政ロシアが、革命によってふきとばされてしまうと、当然に日本の対中国政策は混迷におちいった。山県も大正7年(1918)1月の意見書では、中国自身の統一を促進し、中国との親善について述べているが、侵略の対象としてきた中国を、ロシアにかわる相棒に仕立てあげようということは、つまりは中国を日本の従属国にすることにほかならず、その実現を最終的に保障するものとしては、軍事力よりほかになかった。山県は中国に対して赤心と温情と敬愛をもってあたることを説いたその反面、中国が日本の思いどおりにならないときのために、「支那(中国)政府ヲシテ更迭セシムルノ方略トセイリョクトハ常ニ把持セザル可ラズ」と強調した。それは、確固たる政策が立たなければ、中国政府に対する謀略をみとめる方向をさしていた。



ワシントン会議

 彼は当時の支配層の大方と同様に、ロシア革命の歴史的意義をとらえることはできず、こんどはロシアとドイツが組んで「東進侵略」を行うのではないか、というイメージをもつことしかできなかった。そしてこの意見書では、独露に対抗するため中国と協定し、中国軍をまず北満に派遣させ、つづいて日本軍も出兵することを主張したのであった。

 この構想は、大正7年(1918)5月の日華共同防敵軍事協定の締結となり、8月からのシベリア出兵へとつづいていくのである。しかしそれは、日露協約にかわる役割りを果たしうるようなものではなかった。

  シベリア出兵宣言の直後から、国内では米騒動があらしのようにまきおこってきた。それは以後の普選運動・労働運動が高揚する画期をつくり出していった。そうしたなかで、7万3千人の兵力を送りこんだシベリア出兵からも、何をうることもできなかった。逆に、大正9年(1920)1月アメリカの撤兵声明以来列強の軍隊がつぎつぎとひきあげていくなかで、よういにひきあげようとしなかった日本は、列強のなかでも孤立していった。

  日本が撤兵の方針をきめた大正10年(1921)には、アメリカはワシントン会議の開催を提唱した。第一次大戦中、列強が戦争のためアジアから手を引かざるをえなかったあいだに、中国問題で独走を始めた日本を、ここで、もとの位置まで引きもどし、その線での情勢の固定化をはかろうとするのが、この会議のねらいであった。孤立した日本には、これをはねかえす力はなかった。

  この会議で日本は、いわゆる二十一か条要求のうち、山東省のドイツ利権のひきつぎをはじめ、多くのものを放棄した。太平洋の現状維持に関する四か国条約、中国の門戸開放・機会均等を約束する九か国条約、主力艦の比率を米英5・日本3とする海軍軍備制限条約などがこの会議で実現し、かわりに、日英同盟、石井・ランシング協定が廃棄された。

  元老山県がつくりあげてきた対外政策の構想は、根底からくずれていった。

  山県はワシントン会議が開かれたとき、すでに病床にふせっていた。大正10年11月3日、東京から小田原の古稀庵に帰った山県は、その夜から発熱し、ふたたび立つことができなかった。翌11月4日、その才腕を高く評価していた首相原敬が、東京駅頭で暗殺された。原の死をひどく悲しんだ山県は、翌年2月1日、原のあとを追うかのように息をひきとった。享年85歳。ワシントン会議が終わったのは、その5日後の2月6日であった。山県は死後に何を残したのか。

4総力戦への構想へ