『朝日ジャーナル』(11月5日号)

1967年11月

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戦後政治と吉田茂 保守構想の継承


古屋 哲夫

占領のつくり出したワンマン
「経済自立」と「国民道義の高揚」
失脚と「国葬」とのあいだ


 吉田茂元首相死去のニュースはトップ記事の扱いで報ぜられた。もりだくさんな追悼の企画は全体として「戦後最大の政治家」の死をいたむというムードをつくりあげた。政府はすぐさま戦後最初の「国葬」で、かれの死をとむらう意向を発表した。翌日の『朝日新聞』夕刊は教室で黙とうする大磯中学校の生徒たちの写真をのせている。

  たしかに、戦後の政治史をみる場合、吉田茂は欠かせない重要な地位を占めている。しかし、吉田茂が政界の表面から姿を消していった首相退陣当時の状況を想起してみると、あのときいったいだれが「国葬」をもって遇されるという今日の有様を想像できたであろうか。最後の吉田内閣が倒れてからすでに13年近い年月がたっている。しかし、かつては悪評サクサクの感があった吉田に対する評価が、いつの間にか今日の高さにまでのぼってしまったのは、年月の流れとか、あるいは座談の名人といわれる吉田個人への親近感とか、あるいはまた、かつての吉田側近、いわゆる「吉田学校の優等生」である池田勇人や佐藤栄作が首相の座についたとかいうことだけによるものではない。根本的なことは、吉田時代につくられた政治構想が、現在の政治のなかでもなお大きな地位を占めつづけていることであろう。



占領のつくり出したワンマン

 吉田茂がはじめて、首相の座についたのは、1946年5月、組閣を目の前にして追放となった鳩山一郎の要請によるものであり、そのときの「いやいやながら」という吉田の姿からは、その後合計7年2ヶ月という長期にわたって政権を維持し、最後まで首相の椅子を放そうとしなかった後年の吉田を想像することは不可能だったにちがいない。外交官出身で政党に身をおいたことのないかれが、政党総裁としてワンマンと呼ばれるような地位を固め、長期政権をつくりあげることができたのは、「占領」という特殊な状況を除いては考えられないことであった。

  このため吉田はまずマッカーサーとの間に直接の親密な関係をつくることに努め、このマッカーサーとの関係が、かれの長期政権を支える一つの条件となっていたのは確かであろう。ここでは、吉田が外交官時代に養った外交感覚や社交術に関するエピソードが語られるのが普通であるが、私はむしろ、かれが頑固な反共主義者であり、一貫して治安の確立と資本主義経済の復興を中心的な政策と考えていたこと、そしてその点でマッカーサーを共通していたことに目を向けておきたい。

  吉田が最初の組閣にあたっていた46年5月は、食糧危機が最も深刻な状態を示しており、5月19日にはいわゆる食糧メーデーのデモが首相官邸に押しよせている。敗戦後の大衆運動はここで最初の高揚の頂点に達したのであるが、マッカーサーはすかさず「暴民のデモを許さず」と声明するとともに、翌6月から食糧の大量放出を実施して大衆運動の抑圧につとめた。吉田内閣はその最初の仕事を、このマッカーサー声明に対応して、生産管理闘争を否定する社会秩序声明を出すことから始めている。ついで、この年の末までの半年の間に、新憲法の議会審議が進められるわけであるが、同時にGHQはこの内閣に経済安定本部の発足、復興金融金庫法の成立、傾斜生産方式の決定など、資本主義再建の基本的な道具立てをやらせていた。

  しかし、この時期にはマッカーサーにとって吉田の利用価値はまだここまでであった。翌47年初め二・一ゼネストを禁止したマッカーサーは、その直後、吉田に総選挙の実施を命じた。占領政策はすでに資本主義再建の方向に向かっていたとはいえ、まだ民主化政策のほうが基本であった。マッカーサーは労働者の協力を得られる指導者を望んだ。政権は片山内閣に移る。

  しかし、中国革命の進展に対抗して、アメリカの政策が日本を反共の防壁とする方向に転ずるに従って、マッカーサーにとって吉田はぜひとも必要な人物となってくる。一方、吉田のほうは高級官僚の入党をはかって、次の機会に備えていた。それは吉田の好みでもあったろうが、日本の官僚機構を通じて占領政策を実施するという間接統治の方式にマッチしてもいた。48年10月、昭電疑獄で倒れた芦田内閣のあとをうけて、吉田は少数党内閣を組織、翌年2月の総選挙で絶対多数を獲得し、マッカーサーの期待に応えた。この選挙で佐藤栄作、池田勇人、岡崎勝男ら官僚出身の新人候補が当選してくるのであり、吉田とマッカーサーの結びつきと、官僚出身者とGHQ当局との折衝との組合せが、吉田ワンマン体制をつくりあげ維持することになる。

  この絶対多数を基礎とする第三次吉田内閣は、経済9原則の実施から講和発効半年後の52年10月までつづくのであり、この時期が吉田の政治生活の最盛期であった。しかし、9原則の段階では、吉田はまだマッカーサーのよき助力者にすぎないのであるが、講和が具体化するに従って、かれ独自の構想を打出す余地が生れてくる。



「経済自立」と「国民道義の高揚」

 50年6月に朝鮮戦争が始まったことは、アメリカにとって対日講和実現の好機とみられた。朝鮮戦争は、実質的に共産圏を講和から除外し、日本に軍事基地を維持し、さらに日本を反共国家の一員として再軍備させるための絶好の口実とされた。一時は釜山周辺に追いつめられた米軍が、仁川上陸によって優位を回復するのと並行して、アメリカの対日講和への動きが公式に開始された。この間、マッカーサーの指令による警察予備隊も発足した。

  吉田はいち早くこのアメリカの講和構想に賛成し、全面講和論は現実性がないと主張する。かれは世界政治はいわゆる自由陣営と共同陣営に分裂しており、その中間的な立場はないとし、軍事的真空は共産勢力の侵略を招くというダレスの真空論を信奉した。この頑固な反共主義者にとって、アメリカとの結合は日本の将来の自明のコースであった。ではかれにとって、講和後の日本の独立とはどのようなものとなるのか。

  講和特使としてダレスが来日した翌日、51年1月26日、第10国会の施政方針演説で吉田は次のように述べている。「講和条約の問題は、自然わが国の安全保障に想到し……わが再軍備論は、すでに不必要な疑惑を内外に招いており、また事実上強大なる軍備は、敗戦後のわが国力の耐え得ざるところであることは明白であります。……講和条約後わが国が真の独立国家として立上がるためには、経済の自立を図るはもちろんでありますが、強く国民道義を高揚し、国民の自立精神を振起することが根本であります」

  つまり、かれは独立の中身を「経済自立」と「国民道義の高揚」とに求めたのであった。この「経済自立」とは世界市場への再登場を、「国民道義の高揚」とは、それに見合う国家意識・反共的秩序の確立をめざすものであることはいうまでもあるまい。ここから、かれはアメリカの望む軍事基地を提供して軍事的真空を埋め、アメリカの要求する再軍備はできうるかぎりおくらせて、経済自立に全力をあげようという構想を生み出した。

  そしてこの構想の実行のためには、占領軍の指導の下につくられた新憲法が絶好の道具となった。彼は新憲法を楯として、アメリカの要求する再軍備に対しては経済自立政策と矛盾しないと考える範囲でだけ受けいれ(「自衛力の漸増」)、再軍備に反対する国民に対しては、新憲法に強引な解釈を加えてその反対をそらそうとした。「再軍備はいたしません」から「戦力なき軍隊」にいたるかれの答弁は、このような構想の実行にほかならなかった。それはできうるかぎり、憲法の条文を変えることなく、現実を憲法から遠ざけてゆこうとするやり方であった。

  彼は一方でダレスとの間に日米安保条約をねりあげるかたわら、「経済自立」と「国民道義の高揚」の具体化にも着手した。マッカーサー罷免のあとをうけたリッジウェイが、着任早々の51年5月1日、占領法規の再検討を許可すると声明するや、吉田は早速私的諮問機関としていわゆる政令諮問委員会をつくり、この作業を開始する。石坂泰三、板倉卓造、小汀利得、木村篤太郎、中山伊知郎、原安三郎、田中二郎といったメンバーで構成されたこの委員会は、追放解除問題を手はじめに、独禁法緩和、ゼネスト禁止、行政機構改革と人員整理、教育委員会の任命制、国による標準教科書の作成、警察制度の改正など多方面にわたる答申を出していった。その間道徳教育を唱えていた天野貞祐文相は、51年11月に「国民道徳実践要領」を発表するにいたっている。

  ここにはすでに、その後の政治の争点となる問題が出そろっているといっていい。それは大まかにいえば三つの問題に整理することができる。第一は資本蓄積・経済の近代化による国際競争力の強化であり、第二には中央集権化と治安の観点からする大衆運動・労働運動の抑制であり、第三は愛国心の高揚であろう。これに自衛力漸増を加えたものが、吉田の独立構想の具体的な姿であった。

  講和・安保両条約が52年4月に発効すると、吉田はこれらの構想の強引な実現をはかりはじめる。以後吉田内閣が倒れるまでに、次のような重要法律が成立した。企業合理化法、独占禁止法改正、破壊活動防止法、スト規制法、警察法改正、政治的中立をめぐる教育二法、MSA協定、自衛隊法。そしてその上に紀元節復活運動が重なってくる。

  しかし、占領軍という背景なしにこうした諸政策を強行しようとすれば、さまざまな反発がおこってくるのは当然であった。一つはいうまでもなく、破防法反対闘争に典型的にみられたような、労働者を中心とする大衆運動と、それを基礎とする革新政党の反対であり、もう一つは、追放解除によって政界に復帰した政治家たちからの攻撃であった。吉田は直接にはこの後者の勢力によって政界から追いおとされてゆく。その中心は政権を返せと呼ぶ鳩山一郎一派であった。そしてかれらはたんに吉田打倒を叫ぶだけでなく、吉田構造の結び目であり、かなめになっている憲法問題に攻撃を加えていった。

  すでに陸海空三軍を備えた自衛隊の存在と憲法の理念との間の矛盾は明らかであったし、またかれらが発する愛国心高揚の叫びは、憲法をこえて天皇制にもどろうとしていた。「憲法改正」は反吉田派の共通のスローガンとなっていた。吉田はこの攻撃に権謀術数をつくして対抗したが、退勢はおおうべくもなかった。「占領」という特殊な条件を失った吉田派自力で大政党を維持してゆくだけの力を持たなかった。



失脚と「国葬」とのあいだ


 最後の吉田内閣が総辞職したのは、54年12月7日、すでに反吉田派は脱党して改進党とともに日本民主党を結成し、左右両派の社会党とともに内閣不信任案をつきつけていた。吉田は少数党に転落した自由党をひきいて国会を解散し、最後の一戦を試みようと決意した。しかし党内の大勢はこの勝ち味のない一戦に反対していた。副総理緒方竹虎をはじめとする塔長老クラスの反対にあって、吉田もあきらめざるをえなかった。そして次に鳩山ブームと呼ばれる局面があらわれたことは、このときいかに人心が吉田から離れていたかを示している。
しかし吉田退陣の実現は、たんに鳩山あるいは反吉田派の勝利というだけに止まるものではなかった。反吉田勢力による憲法改正の主張は、次第に保守合同による憲法改正の実現をめざすという方向に転換しつつあった。そして財界主流はこの方向を保守勢力全体に広げようと努めていた。吉田・鳩山の激しい争いの間をぬって、社会党の勢力が伸びつつある情勢を憂慮した財界は、保守合同・憲法改正によって、強力な保守安定政権が出現し、世界市場への進出をより強力にバックアップすることを望んだ。ひたすら権力に執着し、権謀術数のかぎりをつくす吉田は、その実現にとって障害でしかなくなっていた。

  当時、商工会議所会頭であった藤田愛一郎は次のように語っている。「結局、経済界にいる者の一人としては、やはり保守安定政権を望んでいる。そして占領中のいろいろな制度に対して根本的な改革をしてもらう、そういう態勢を一日も早く確立してほしいと思っている。したがって吉田内閣に退陣してもらうことも、そういうことが円満にいく過程においては必要なことであった」(54年12月10日付『日本経済新聞』)

  吉田退陣後一年足らずで保守合同が実現した。55年11月、史上初の単一保守党としてこの党を基礎とした鳩山内閣は、一方で吉田時代から予定されていた教育委員会を公選制から任命制に切りかえる地方行政組織法や教科書法案などとともに、他方で憲法改正を目的とする小選挙区法案、憲法調査会法案を提出し、吉田政治を乗りこえる意気ごみを示した。

  この試みが成功し、憲法改正の方向が急テンポで進んでいったとすれば、今日の吉田茂に対するイメージは、はるかに異なったものとなっていたにちがいない。しかし保守合同の威力をもってしても、憲法改正が容易でなかったことは、われわれの記憶に新しい。従ってこの単一保守党も次善の策として、吉田構想を徹底化してゆくほかはなかった。つまり実質的改憲の道である。以後のおおかたの政策は吉田構想の延長上に整理することができ、そこから吉田時代の残像をわれわれにはね返してくる。再軍備の進行と憲法との関係についての政党答弁が、いつもその原形であった「戦力なき軍隊」の規定を思い出させるのと同様に。

  一つだけ異質にみえる日ソ国交回復も、それによって国連加盟を実現し、世界市場への進出をより容易にするという以上の積極さを持つことができなかった。全体として吉田政治の延長上を進む政治状況の中では、それ以上の進展は不可能だったというべきであろう。むしろ逆に、新安保体制、日韓条約によってアジアの反共体制とより緊密に結びついていった。さらに、高度経済成長にもとづくマス化現象と、拡大したマスコミを利用する権力の意識操縦の強化とは、現状肯定の意識を生み出し、吉田茂への親近的なイメージを広げてきた。そして吉田「国葬」は吉田に対するこのイメージを尊敬の方向に強めることによって、現状肯定の意識を進めるというイデオロギー的役割を果たすにちがいない。そして保守勢力はこうしたイデオロギー的効果をつみ重ねながら、吉田茂の遺産をかれらの方向にとびこえる機会を待ちつつあるにちがいない。