『帝国議会誌』第1巻

1975年6月

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第五六回帝国議会 貴族院解説


 

古屋 哲夫

 

田中内閣の改造
「優詔問題」五派共同声明
緊急勅令による治安維持法改正
対中国政策

金解禁と地租委譲問題
第五六議会の召集
「優詔問題」決議案の成立
重要法案の成否



田中内閣の改造

 第五五議会閉会(昭和3・5・6)後、第五六議会(同・12・24召集)に至る7箇月余の間には種々の重要事件が起こっているが、その最初のものは、田中内閣の改造であった。それは直接には第五五議会中に辞任した鈴木内相の後任問題であったが(議会開会中のため首相が内相を兼任)、田中首相が党内及び閣内の反対を 押し切って久原房之肋を入閣させたことから、大きな政治問題に発展した。久原は日立鉱山などの経営者として知られていた企業家であったが、この年2月8日関係企業と絶縁して政友会に入党、同月20日の総選挙で山ロ一区からはじめて当選した一年生代議士であった。すでに総選挙前から、久原の外相就任のうわさが新聞などにも報じられており、田中も自ら兼摂している外相の地位に久原を登用することを考慮していたが、5月3日の済南事件についで同9日には第三次山東出兵を強行するなど対中国外交が緊張していたため、 逓信大臣の望月圭介を内務大臣とし、久原を逓信大臣として入間させる方針をとった。

  しかしこの人事に対しては、震災手形問題など(これらの問題については川崎卓吉が追求している。速記録一五号参照)でとかくの風評かおる久原を入閣させることは、内閣のためにも党のためにもよくないとして、三土蔵相・水野文相らが強硬な反対意見を唱えはじめた。このうち三土蔵相は党長老の説得などにより軟化したが、水野文相はついに5月20日田中首相に辞表を提出、翌日の閣議も欠席するに至り、新聞も「水野文相遂に辞織す」(東朝、5・23)と報じた。田中首相は当面文相後任問題を切り離して、望月逓相の内相への横すべり、久原の逓相就任という改造人事だけを強行するものとみられた。ところが23日午後4時すぎ、望月内相・久原逓相の親任式が行われたあと、単独参内した水野文相は退出後次のような声明を発し、優詔降下を理由に文相に留任することを明らかにした。

 

 「私は御承知の如く田中首相の手許に辞表を提出しこれが執奏方を依頼したるに対し首相はこれを承認し本日午後一時赤坂離宮に伺候、両大臣の選任を内奏したる後、私の辞表を捧呈し然して田中首相より『教育の事は極めて重要であるから文部大臣水野錬太郎をもってその任に当らしめたい』との旨を奏上した所、階下には直に御嘉納在せられたので首相は右の趣を直に払に電話をもって伝うる所あったので私は午後4時10分赤坂離宮に伺候、天京陛下に拝謁を仰つけられ私より辞表捧呈の理由を委曲伏奏した所、陛下には『益々国務のため尽瘁せよ』との御優詔があったので私は謹んで『国家のためにご奉公致します』とお答へ申上げて御前を退下した次第である」(東朝、5・24)  


 この「優詔による留任」は、田中首相が閣僚の進退を裁断することができなくなって「優詔」を利用したものと解され、ただちに各方面から、首相は「輔弼」の責任を回避し累を皇室におよぼしたとする非難の声が高まった。これに慌てた政府側は、翌24日朝、次の声明を発して弁明を試みた。

 

 「水野文部大臣は今月二〇日辞表を提出したるにより総理大臣はこれを預り置き二二日夜文部大臣を招き辞表を撤回するやう懇談したるに文部大臣は自分の辞表は陛下に対して差出したるものなれば是非御執奏を願ふ。尚自分の進退については総理大臣に一任する旨を述べたるにより総理大臣は翌二三日参内、拝謁の上前記の経過を上奏、教育の事は目下重大なる国務なるが故に水野文部大臣を留任せしむることと致したる旨を上奏辞表を天覧に供したり、右終って退出後総理大臣は右の趣を文部大臣に通知し文部大臣は参内、拝謁したるに国務に尽瘁せよとの御諚を賜りお礼を述べ恐懼して退下したる次第なり」(東朝、5・25付夕刊)


 この政府側の声明によれば、すでに水野文相は22日夜に辞意をひるがえして首相に「進退を一任」しており、首相は天皇に文相留任の経過を報告するために、 すでに空文となっている辞去を「天覧に供し」たにすぎないということになる。しかしこの政府声明によっても、「優詔問題」についての非難をかわすことはできなかった。すなわち、この声明からは水野文相は辞意をひるがえしたのなら何故首相に辞表の執奏を求めたのか、また首相は何故辞表を返却せずに執奏の要求に応じたのか、といった新たな疑問が生ずることになるわけであった。24日夜、小川鉄相はさらに政府声明を補足して、首相は「既に空文となった辞去を御報告の意味で御覧に供しただけのことである」「故に辞去の執奏といふ意味は、御裁断を仰ぐとか、御承認を求めるとかの意味ではなく全く御報告申上げると同意義である、なお文相の参内は、文相の自発的の行為で首相から要求したものでばない」(東朝、5・25)と語っているが、しかしたとえ報告と同意義としても何故空文となった辞去の執奏が必要だったかは説明されておらず、首相と文相の間に優詔降下を条件に改造人事を 承認し留任するという取引きがなされたのではないかという疑いをはらすわけにはゆかなかった。

  日に日に非難の高まる形勢にあるのをみた水野文相は留任声明2日後の5月25日、再び辞表を提出、同日後任文相に貴族院研究会の勅選議員勝田主計が任命された。このかつての西原借款の責任者の登用もまた甚だ不評であり、与党内部にも不満の声が高まったが  (第五六議会衆議院解説参照)、内閣改造問題はこれで一段落することになった。



「優詔問題」五派共同声明

 しかし辞任後水野は、首相に進退を一任すると述べ たのは、辞表執奏にあたっていかなる意見を付するかは首相の自由であるということを指したので、辞意を ひるがえしたのではなかったと述べており、文相更迭後も田中首相の責任を追及しようとする動きはやまなかった。

  貴族院においても、首相の責任を不問に付することはできないとの空気が支配的であり、各派共同声明を 作って発表しようという動きが高まった。会派のうち、まず火曜公・同成会・同和会・公正会の四派は、首相の責任を厳しく追及する強硬な声明を出すことを主張した。例えば男爵議員の集まりである公正会は、5月28日緊急総会を開き、「閣僚の進退に関し総理大臣のとりたる措置その宜しきを得ず、累を皇室におよぼすのおそれあるに至らしめたるは輔弼の責任上欠くる所ありと認む、邦家のため実に憂慮に堪へず」との申し合わせを行っている。しかし最大の会派である研究会は会内の対立が激しく積極的に動くことができず、また政友系議員が多数を占める交友倶楽部は首相問責声明に反対であった。

  研究会では、火曜会から共同声明の交渉をうけると、各会派による共同調査を行ってはどうかと逆に提議したが、火曜会側はもはや調査の段階ではないとこれを 拒否した。研究会では常務員の間にも激しい対立があり、結局常務員会の態度をきめられないまま、問題を 総会にかけるという有様であった。5月31日に開かれた研究会臨時総会では、激論のすえ、「近時水野前文部大臣の進退に関し田中内閣総理大臣のとりたる処置は軽率不謹慎の甚だしきものにして職責上欠くる所あるを遣憾とす」との共同声明案を各派交渉会にかけることをきめた。この案が責任追及の点で著しく微温的であることは、前述の公正会の申し合わせと比較すれば明 らかであろう。

  6月1日に開かれた各派交渉会は、この研究会案に対し「累を皇室におよぼす」とか「輔弼の重責を忘れたるもの」といった字句を加えるべきだとする意見が強く主張されたが、研究会代表は「輔弼」・「皇室」・「大権」の3点に関する文字がはいっては会内をまとめることができないとしてこれらの修正を拒否した。火曜会など強硬四派は、こうした研究会の態度を不満としたが、最大の会派である研究会を引き入れることを重視し、結局研究会案にも政府問責の意味が含まれているとして賛成することとした。翌6月2日の交渉会では、交友倶楽部が個人としての賛成は自由であるが会としては不賛成であるとの態度を表明しただけで、研究公案がそのまま五派共同声明として採択された。

  院内団体である貴族院の会派が、議会閉会中にこう した共同声明を発表することは全く異例なことであり、貴族院に田中内閣に反対する空気が強かったことを示すものでもあった。そして田中内閣がこの声明を全く黙殺する態度をとったことは強硬派をいきり立たせ、共同声明が今度は決議案として議場にもち出されることになるのであった。



緊急勅令による治安維持法改正

 第五五議会が終わった直後から、同議会で審議未了に終わった治安雄待法改正案を緊急勅令によって実現しようという動きが始まっていたが、政府・与党内にも反対があり、内閣改造後はこの問題をめぐる動向が注目された。緊急勅令とは緊急の必要があり議会の審議が待てない場合に、法律の代わりとなる勅令であり、枢密院の承認が必要である。しかしあくまで法律が定められない場合の臨時の措置であるから、次の議会で承認されない場合には失効するというのが憲法の規定であった。従って治安雄待法改正案の場合にも緊急の必要性があるのか、また与野党勢力が接近している次の議会でが否決された場合にどうするのかなどの問題が論議をよぶことになった。閣内では前田法制局長官・鳩山書記官長などが緊急勅令による改正に反対しており、政友会でも少壮代議士のグルーブなどが反対の声をあげていた。野党側は治安維持法改正が緊急の必要があるなら政昭議会を召集せよと主張した。

  しかしこの改正案を推進してきた原法相は、第五五議会閉会後につかんだ新たな証拠によって、共産党の活動が明確となり、治安維持法改正が緊急の必要となったと主張して、政府・与党を緊急勅令による改正の方向にまとめていった(改正理由書は第五六議会衆議院解説に掲載)。枢密院の審査は6月14日から平沼副議長を委員長とする精査委員会によって開始されたが、 緊急性についての強い疑義が出されて紛糾し、全会一致という慣行を守ることができず、22日に至って採決により5対3で可決するという有様であった。従っ て、27日に開かれた枢密院本会議でも翌28日にわたって13時間におよぶという空前の大論戦が展開され、採決により可決されたものの、5名の反対者を出すに至っている。貴族院においても、6月25日の同成会例会で、枢密院が緊急勅令案を可決して政府の議会回避の方針を是認するのは不当であるとする意見が大勢を占めたように、緊急勅令による治安維持法改正に反対する空気が強く、次の議会で論議を呼ぶことは必至とみられた。



対中国政策

 第五五議会後のもう一つの問題は、中国との関係が緊張の度を深めてきたことであった。議会開会中の5月3日、済南で国民党北伐軍との衝突がおこると、田中内閣は9日には第三次山東出兵を声明、日本軍は11日には総攻撃をかけて済南城を占領した。以後問題は済南事件の責任をめぐる外交交渉に移されることになるが、この間北伐軍は済南を迂回して北上をつづけ、 張作霖を大元帥とする軍閥軍の敗北は必至とみられるようになった。

  こうした情勢に対して田中内閣は5月18日、戦乱が満州に波及する場合には「帝国政府としては満州治安維持のため適当にしてかつ有効なる処置をとらざるを得ざることあるべし」との声明を発すると同時に、張作霖に関外への引揚げを勧告した。満州治安維持とは具体的には国民党軍の満州進入を阻止するとともに、 張軍が壊滅状態で敗走する場合には、満州に入る張軍をも武装解除することを意図するものであった。田中首相は、張作霖を国民党軍との決戦をさけて満州に引掲げさせ、彼を通じて在満権益を拡張することを考えていた。5月30日保定での敗戦が伝えられると、張作霖もついに田中の勧告に従って満州に引掲げることを決意した。

  しかし関乗軍をはじめ現地日本人の間には、日本の権益要求に強い抵抗を示すようになった張作霖が満州の支配者の地位にとどまることに反対する気運が強まっており、関東軍参謀河本大作大佐らは、京奉線が満鉄線と交差する地点に爆薬を仕掛けて特別列車を爆破、 栄作霖を殺害してしまった。河本らは事件を国民党便衣隊のしわざとみせかける偽装工作を行ったが、次々と疑問点があらわれ、日本側の陰謀とする疑惑が広まった。この陰謀についての疑惑は「満州某重大事件」と呼ばれ、第五六議会で野党側から追求されるに至っている。

  山東出兵・済南事件につぐこの張作霖爆殺事件は、田中内閣の対中国政策の遂行を著しく困難にした。張軍の撤退により国民党軍は6月8日には北京、12日には天津を占領、長城線以南を掌握したが、国民政府はこれにより北伐は完成したとし、一方では張作霖の地位をついだ張学良との交渉によって国内統一を進めると共に、他方では7月7日条約改正対外宣言を発して不平等条約廃棄に積極的にのり出して来た。7月19日、国民政府は日本に対しても通商条約の廃棄を通告すると同時に、新条約の締結を提議してきた。

  これに対して田中内閣は南京政府に対しては、現行条約の一方的廃棄を認めないとの態度をとりながらも関税改訂・済南事件などについての交渉を始めた。そしてその反面、張学良に対しては南京政府と妥協しないようにと圧力をかけつづけた。それは、いわゆる中国本部については南京政府による統一を認めながら、 満州についてはこれを日本の勢力範囲として実質的に切り離してゆこうとする意図を示すものであった。しかし南北妥協は、張学良らの従来の地位を認めるかわりに、張も国民党の権威に服するという形で進行し、田中内閣の圧力もその実現を数箇月延期させることができたにすぎなかった。ついに12月29日、満州においても一斉に青天白日旗が掲揚され張学良も国民政府の一員となった。もはや在満権益についても南京の国民政府を除外して張学良との取引きをすすめることはできなくなった。

  満州まで含めた全国的な純一と利権回収を当面の目標とする国民政府は、済南事件についても強硬な態度をとり、交渉は難航した。最初田中内閣は、事件の責任は中国側にあるとして、謝罪・責任者の処罰・損害賠償などを要求していたが、結局この要求を貫くことが出来なかった。第五六議会直後の昭和4年3月28日に調印された交換公文では、日本軍は調印後2箇月以内に撒兵し、国民政府は以後全責任をもって在留日本人の生命財産を保護することが定められただけであり、損害問題については改めて共同委員会で調査することとされた。

  第五六議会では、こうしたさまざまの事態は田中外交の全面的破綻を示すものとして追求されているが、貴族院においても、石塚英蔵・幣原喜重郎・矢吹省三 などが、対中国政策・張作霖爆殺事件を中心とした質間を行なっている(速記録第6・9・10号)。なお、8日27日に調印された不戦条約については、第五六議会衆議院解説にゆずることとした。



金解禁と地租委譲問題

 治安維持法改正案がまだ枢密院の審議にかかってい た6月25日、フランスがへ金輸出解禁・金本位制復帰をきめたことぱ、日本においても金解禁への要求を高めることになった。フランスの金解禁によってまだ金本位制に復帰していないのは日本とスペインだけとなるはずであった。金解禁の要求は、金融恐慌後の銀行の整理が進むに従って、まず銀行家の間に広まり、ついで為替相場の安定を求めるという観点から、企業家全般に滲透していった。そしてこの段階になって10月22日、銀行家の総意として東西の手形交換所理事長の名によって、「政府は即時金輸出禁止を解除せらるべし」との決議が三土蔵相に提出されたことは、解禁論を一層盛りあがらせるものとなった。

  しかし翌11月13日関西銀行大会に臨んだ三土蔵相は、その演説のなかで解禁問題についての政府の意見を明らかにすることを避け、「固より政府は絶えず内外財界の情勢を考察し諸般の準備を怠らず、本問題の解決に付その時期を誤らざらんことを期するものである」と述べるにとどまっていた。

  田中内閣の立場から言えば、従来から憲政会→民政党との政策上の争点の1つとして正面に押し出していた地租・営業税の地方委譲を実現することの方が当面の目標であった。田中内閲は昭和4年度予算編成にあたって、まず両税の地方委譲の時期を昭和6年度から とし、4、5年度は過渡的な措置として国税としての両税の減税を行うと共に、地方附加税制限率を引上げることとした。

  しかしこの出税委譲は、歳入の減少に件う公債増発を必然とし、金解禁をいよいよ困難にするものとして野党側から追求されることとなった。そこには当然、公債政策についての見方もからんでくることとなるが、 貴族院においてもこれらの問題について若槻礼次郎らによる政府追求が行われるに至っている(速記録第8号参照)。



第五六議会の召集


 第五六議会は通常会として昭和3年12月24日に召集された(会期90日間)。田中内聞としては、第五三・五四回・五五議会につぐ4度目の議会であったが、 第五三議会は金融恐慌のための臨時議会、第五四議会は施政方針演説だけで解散(従って昭和3年度は予算不成立で前年度予算施行)、第五五議会は総選挙後の特別議会であり、第五六議会が予算案をふくむこの内閣の政策が本格的に審議された最初の議会であった。またこの議会終了後7月に田中内閣は総辞職してしまうのであり、同内閣にとって最後の議会ともなった。

  12月26日の開院式のあと、勅語奉答文の作成、全院委員長の選挙を行っただけで28日から1月20日まで年末年始のため24日間の休会にはいっている。

  この議会における議長・副議長・全院・常任委員長・政府側委員の顔振れや会派別議員名は次の通りであった。なお議長・副議長は大正13年に任命されて以来任期7年で在任中である。

議長   徳川 家達(公爵・火曜会)
副議長   蜂須賀 正韶(侯爵・研究会)
     
全院委員長   近衛 文麿(公爵・火曜会)
     
常任委員長    
  資格審査委員長 土方  寧(勅選・交友倶楽部)
  予算委員長 柳沢 保恵(伯爵・研究会)
  懲罰委員長 柳原 義光(伯爵・研究会)
  請願委員長 清岡 長言(子爵・研究会)
  決算委員長 四条 隆愛(侯爵・火曜会)
     
国務大臣    
  内閣総理大臣 田中 義一
  外務大臣(兼任) 田中 義一
  内務大臣 望月 圭介
  大蔵大臣 三土 忠造
  陸軍大臣 白川 義則
  海軍大臣 岡田 啓介
  文部大臣 勝田 主計
  農林大臣 山本 悌二郎
  商工大臣 中橋 徳五郎
  鉄道大臣 小川 平吉
  司法大臣 原  嘉道
  逓信大臣 久原 房之助
     
政府委員(12・24発令)    
  内閣書記官長 鳩山 一郎
  内閣恩給局長 下条 康麿
  内閣拓殖局長 成毛 基雄
  法制局長官 前田 米蔵
  法制局参事官 黒崎 定三
  金森 徳次郎
  朝鮮総督府政務総監 池上 四郎
  朝鮮総督府財務局長 草間 秀雄
  台湾総督府総務長官 河原田 稼吉
  台湾総督府財務局長 富田 松彦
  関東庁内務局長 神田 純一
  関東庁財務部長 西山 左内
  樺太庁長官 喜多 孝治
  南洋庁長官 横田 郷助
  外務政務次官 森  恪
  外務参与官 植原 悦二郎
  外務書記官 坪上 貞二
  内務政務次官 秋田  清
  内務参与官 加藤 久米四郎
  内務書記官 唐沢 俊樹
  大蔵政務次官 大口 喜六
  大蔵参与官 山口 義一
  大蔵省主計局長 河田  烈
  大蔵省主税局長 藤井 真信
  大蔵省理財局長 富田 勇太郎
  大蔵省銀行局長 保倉 熊三郎
  大蔵書記官 佐野 正次
  川越 丈雄
  陸軍政務次官 竹内 友治郎
  陸軍参与官 八田 宗吉
  陸軍主計官 中村 精一
  陸軍少将 杉山  元
  陸軍二等主計正 矢部 潤二
  海軍政務次官 内田 信也
  海軍参与官 松本 君平
  海軍主計中将 加藤 亮一
  海軍中将 左近司 政三
  海軍主計大佐 佐々木 重蔵
  司法政務次官 浜田 国松
  司法参与官 磯部  尚
  司法書記官 近藤 三郎
  文部政務次官 山崎 達之輔
  文部参与官 安藤 正純
  文部書記官 木村 正義
  農林政務次官 東  武
  農林参与官 砂田 重政
  農林書記官 井野 碩哉
  商工政務次官 吉植 庄一郎
  商工参与官 牧野 良三
  商工書記官 寺尾  進
  逓信政務次官 広岡 宇一郎
  逓信参与官 向井 倭雄
  逓信省経理局長 大橋 八郎
  鉄道政務次官 上埜 安太郎
  鉄道参与官 志賀 和多利
  鉄道省建設局長 中村 謙一
  鉄道省工務局長 加賀山 学
  鉄道省経理局長 矢田部 良造
     
政府委員追加(会期中発令)    
  外務省亜細亜局長 有田 八郎
  外務省欧米局長 堀田 正昭
  外務省通商局長 武富 敏彦
  外務省条約局長 松永 直吉
  内務省地方局長 佐上 信一
  内務省警保局長 横山 助成
  内務省土木局長 宮崎 通之助
  内務書記官 田中 広太郎
  岡田 周造
  復興局長官 堀切 善次郎
  社会局長官 長岡 隆一郎
  北海道庁長官 沢田 牛麿
  司法省刑事局長 泉二 新熊
  司法省民事局長 長島  毅
  農林省畜産局長 戸田 保忠
  農林省蚕糸局長 石黒 忠篤
  商工省工務局長 吉野 信次
  商工省鉱山局長 三井 米松
  逓信省管船局長 宮崎 清則
  営繕管財局理事 太田 嘉太郎
  農林省農務局長 松村 真一郎
  農林省山林局長 入江  魁
  商工省商務局長 副島 千八
  逓信省電務局長 畠山 敏行
  資源局長官 宇佐美 勝夫
  農林省水産局長 長瀬 貞一
  製鉄所長官 中井 励作
  文部省宗教局長 下村 寿一
  大蔵書記官 飯田 九州雄
  大蔵技師 矢部 規矩治
  陸軍中将 植田 謙吉
  鉄道省運輸局長 筧  正太郎
  特許局長官 崎川 才四郎
  専売局長官 平野 亮平
     
会派別所属議員氏名 開院式当日各会派所属議員数  
  研究会 149名
  公正会 67名
  交友倶楽部 42名
  同和会 40名
  同成会 29名
  火曜会 26名
  会派に属さない議員 48名
  401名
     
研究会    
  黒田 長成
  蜂須賀 正韶
  大久保 利武
  林 博太郎
  堀田 正恒
  川村 鉄太郎
  樺山 愛輔
  奥平 昌恭
  小笠原 長幹
  柳沢 保恵
  柳原 義光
  松木 宗隆
  松浦  厚
  松平 頼寿
  二荒 芳徳
  児玉 秀雄
  寺島 誠一郎
  酒井 忠克
  酒井 忠正
  黒木 三次
  溝口 直亮
  稲垣 太祥
  伊集院 兼知
  伊東 祐弘
  伊東 二郎丸
  井上 匡四郎
  五辻 治伸
  今城 定政
  池田 政時
  石川 成秀
  岩城 隆徳
  八条 隆正
  花房 太郎
  西尾 忠方
  西大路 吉光
  保科 正昭
  本多 忠鋒
  戸沢 正己
  豊岡 圭資
  渡辺 七郎
  渡辺 千冬
  片桐 貞央
  吉田 清風
  米津 政賢
  米倉 昌達
  高倉 永則
  滝脇 宏光
  立花 種忠
  冷泉 為勇
  曽我 祐邦
  鍋島 直縄
  裏松 友光
  野村 益三
  小倉 英季
  大浦 兼一
  大久保 立
  大河内 正敏
  大河内 輝耕
  櫛笥 隆督
  柳生 俊久
  藪  篤麿
  松平 直平
  松平 康春
  前田 利定
  牧野 忠篤
  牧野 一成
  舟橋 清賢
  藤谷 為寛
  井伊 直方
  青木 信光
  秋月 種英
  秋田 重季
  秋元 春朝
  綾小路 護
  清岡 長言
  水野  直
  三室戸 敬光
  白川 資長
  新庄 直知
  樋口 誠康
  東園 基光
  毛利 高範
  森  俊成
  税所 篤秀
  織田 信恒
  朽木 綱貞
  土岐  章
  市来 乙彦
  馬場 ^一
  西野  元
  富谷 ヌ太郎
  若林 賓蔵
  勝田 主計
  加太 邦憲
  金杉 英五郎
  内藤 久寛
  馬越 恭平
  藤山 雷太
  小松 謙次郎
  佐竹 三吾
  木場 貞長
  湯地 幸平
  宮田 光雄
  志水 小一郎
  志村 源太郎
  鈴木 喜三郎
  板西 利八郎
  大橋 新太郎
  山川 端夫
  太田 政弘
  塚本 清治
  藤田 謙一
  岡崎 邦輔
  松本 剛吉
  若尾 璋八
  大谷 尊由
  佐賀 石川 三郎
  長野 今井 五介
  宮城 伊沢 平左衛門
  新潟 五十嵐 甚造
  島根 糸原 武太郎
  千葉 浜口 儀兵衛
  和歌山 西本 健次郎
  群馬 本間 千代吉
  山梨 若尾 謹之助
  北海道 金子 元三郎
  石川 横山  章
  大阪 田村 駒治郎
  宮崎 高橋 源次郎
  東京 津村 重舎
  静岡 中村 円一郎
  高知 宇田 友四郎
  鳥取 奥田 亀造
  東京 山崎 亀吉
  長野 小林  暢
  岡山 佐々木 志賀二
  長崎 沢山 精八郎
  新潟 斉藤 喜十郎
  奈良 北村 宗四郎
  徳島 三木 与吉郎
  福井 森 広三郎
  大阪 森 平兵衛
  鹿児島 奥田 栄之進
  千葉 菅沢 重雄
  福岡 富安 保太郎
  北海道 板谷 宮吉
  兵庫 八馬 兼介
  神奈川 上郎 清助
  京都 風間 八左衛門
     
公正会 伊藤 安吉
  伊藤 文吉
  伊江 朝助
  今枝 直規
  今園 国貞
  岩倉 道倶
  池田 長康
  稲田 昌植
  井上 清純
  西  紳六郎
  二条 正麿
  東郷  安
  千秋 季隆
  長  基連
  渡辺 修二
  神山 郡昭
  金子 有道
  高木 喜寛
  高崎 弓彦
  立花 小一郎
  辻  太郎
  鍋島 直明
  南部 光臣
  中島 久万吉
  上田 兵吉
  野田 亀吉
  大井 成元
  大鳥 富士太郎
  大寺 純蔵
  小原 (馬+全)吉
  小畑 大太郎
  沖  貞男
  黒川 幹太郎
  黒田 長和
  山内 長人
  安場 末喜
  矢吹 省三
  松岡 均平
  船越 光之丞
  福原 俊丸
  藤村 義朗
  藤田 平太郎
  郷  誠之助
  近藤 滋弥
  寺島 敏三
  有地 藤三郎
  赤松 範一
  足立  豊
  坂本 俊篤
  阪谷 芳郎
  佐藤 達次郎
  木越 安綱
  紀  俊秀
  北河原 公平
  北大路 実信
  北島 貴孝
  斯波 忠三郎
  千田 嘉平
  関  義寿
  周布 兼道
  上村 従義
  藤堂 高成
  長松 篤(非+木)
  三須 精一
  深尾 隆太郎
  松村 義一
  京都 田中 一馬
     
交友倶楽部 勅男 山本 達雄
  勅男 北里 柴三郎
  犬塚 勝太郎
  石渡 敏一
  橋本 圭三郎
  花井 卓蔵
  和田 彦次郎
  河村 譲三郎
  川村 竹治
  笠井 信一
  玉利 喜造
  高橋 琢也
  竹越 与三郎
  中村 純九郎
  室田 義文
  大山 綱昌
  岡  喜七郎
  山之内 一次
  安楽 兼道
  佐藤 三吉
  鮫島 武之助
  水上 長次郎
  水野 錬太郎
  南  弘
  土方  寧
  杉田 定一
  内田 重成
  大川 平三郎
  鵜沢 総明
  小久保 喜七
  山口 林  平四郎
  青森 鳴海 周次郎
  福岡 太田 清蔵
  香川 山田 恵一
  鹿児島 藤安 辰次郎
  神奈川 小塩 八郎右衛門
  熊本 坂田  貞
  広島 森田 福市
  岡山 山上 岩二
  茨城 瀬谷 勇三郎
  滋賀 吉田 羊治郎
  山形 佐藤 信古
     
同和会    
  勅子 後藤 新平
  勅子 石井 菊次郎
  勅男 幣原 喜重郎
  服部 一三
  浅田 徳則
  大島 健一
  嘉納 治五郎
  北条 時敬
  真野 文二
  岡田 良平
  石塚 英蔵
  内田 嘉吉
  武富 時敏
  若槻 礼次郎
  森  賢吾
  石井 省一郎
  原  保太郎
  藤田 四郎
  上山 満之進
  仁尾 惟茂
  阪本 ソ之助
  倉知 鉄吉
  川崎 卓吉
  安立 綱之
  川上 親晴
  田所 美治
  岡田 文次
  永田 秀次郎
  徳富 猪一郎
  服部 金太郎
  木村 清四郎
  稲畑 勝太郎
  赤池  濃
  野村 徳七
  関  直彦
  根津 嘉一郎
  静岡 尾崎 元次郎
  広島 松本 勝太郎
  三重 小林 嘉平治
  岩手 瀬川 弥右衛門
     
同成会    
  勅子 実吉 安純
  伊沢 多喜男
  西久保 弘道
  高田 早苗
  添田 寿一
  鍋島 桂次郎
  福原 鐐二郎
  江木  翼
  湯浅 倉平
  三宅  秀
  菅原 通敬
  菊池 恭三
  青木 周三
  渡辺 千代三郎
  加藤 政之助
  大津 淳一郎
  愛知 磯貝  浩
  福島 橋本 万右衛門
  茨城 浜 平右衛門
  兵庫 田村 新吉
  富山 高広 次平
  栃木 津久居 彦七
  秋田 土田 万助
  岐阜 長尾 元太郎
  沖縄 大城 兼義
  愛媛 八木 春樹
  埼玉 斉藤 善八
  熊本 沢田 喜彦
  大分 平田 吉胤
     
火曜会    
  徳川 家達
  徳大寺 公弘
  近衛 文麿
  鷹司 信輔
  一条 実孝
  嵯峨 公勝
  松平 康荘
  山内 豊景
  池田 仲博
  西郷 従徳
  四条 隆愛
  鍋島 直映
  広幡 忠隆
  徳川 圀順
  野津 鎮之助
  小村 欣一
  中御門 経恭
  菊亭 公長
  細川 護立
  佐竹 義春
  木戸 幸一
  佐々木 行忠
  大隈 信常
  久我 常通
  徳川 頼貞
  中山 輔親
     
会派に属さない議員    
  雍仁 親王
  宜仁 親王
  載仁 親王
  邦 芳 王
  博 恭 王
  博 義 王
  武 彦 王
  茂 麿 王
  恒 憲 王
  邦 彦 王
  朝 融 王
  守 正 王
  多 嘉 王
  鳩 彦 王
  稔 彦 王
  春 仁 王
  西園寺 公望
  毛利 元昭
  九条 道実
  伊藤 博邦
  島津 忠重
  大山  柏
  三条 公輝
  山県 有造
  浅野 長勲
  井上 勝之助
  前田 利為
  小松 輝久
  醍醐 忠重
  山階 芳麿
  勅男 松井 慶四郎
  勅男 田中 義一
  中川 小十郎
  福永 吉之助
  井上 準之助
  渡辺  暢
  樺山 資英
  大谷  靖
  松本 烝治
  二上 兵治
  新渡戸 稲造
  末延 道成
  上田 万年
  田中 館愛橘
  小野塚 喜平治
  藤沢 利喜太郎
  埼玉 斉藤 安雄
  愛知 下出 民義




「優詔問題」決議案の成立

 前議会のあと、民政党から新党倶楽部・憲政一新会などが分裂し、順与党化していたので、衆議院での田中内閣の立場は前議会における程困難ではなかった。これに対して貴族院では、前述の「優詔回題」をめぐる異例の5派共同声明にもみられるように、田中内閣に対する不信感が優勢であった。従って地租委譲法案など田中内閣の重要法案が貴族院を通過することは最初から困難とする見方が多かった。またさきの5派共同声明を黙殺したことに対する反撃も充分予想されるところであった。

  しかし田中首相としては、これらの問題よりも張作霖爆殺事件の真相を追求されることの方をおそれていた。すなわちこの問題についての質問については「調査中」として答弁を回避する方針を閣議で決定すると共に、衆議院に関しては浜口民政・床次新党倶楽部両党首との三党首会談を行ったが、貴族院に対しても休会あけの1月21日、各派代表者を首相官邸に招待して諒解を求めている。この際首相は「満州某重大事件は今日の所調査が終了せぬのであります。然し、この問題は国際的に重大関係があるので国家のため議会の問題とされぬやうにされたいと政府は切望致します」と述べているが、各派代表者は御希望の件を各員に伝える旨を答えたにとどまり、積極的に首相に協力する姿勢はみられなかった。

  貴族院にもこうした田中首相の態度は、調査に名をかりて責任を回避するものだとする反発は強かったが、調査中一点ばりの答弁にかかって結局政府追及は成功 しなかった。従って貴族院の反政府派は「優詔問題」 で政府をおいつめようとする方向に動いて行った。施政方針演説に対して最初の質問演説を行った研究会の大河内輝耕はまず貴族院5派共同声明に対する首相の考えをただしたが、これに対して田中首相が少しも遺憾のない処置をしたのだから責任をとる必要はないとそっけなく答えたことは、反政府派をいきり立たせる結果となった。更に2月4日の衆議院予算総会でこの問題がむし返されたこともあり、13日の貴族院各派交渉会では、5派共同声明にもとづく首相問責決議案を提出するという動きがあらわれてきた。

  そこで田中首相も翌14日院内で各派交渉委員と会談して諒解を求めたが、強硬派の態度は緩和せず、やむなく19日の本会議の冒頭に「優詔問題」についての弁明を行うにいたった。しかしその内容はただ当時声明書を発表して問題をおこした点だけを「遺憾」と したものにすぎず、赤池濃への答弁にみられるように、水野文相は辞表執奏前に辞意をひるがえしていたとする点では従来の態度をかえるものではなかった。これに対して前文相水野錬太郎も21日の本会議で一身上の弁明を行い、首相の辞表執奏前に辞意をひるがえしたことはないと述べて、前々日の田中首相の言明に反対した。

  この両者の弁明によって事態はますます紛糾し、つ いにさきの共同声明に参加した5派は、同声明と同文のものを「内閣総理大臣ノ措置ニ関スル決議」案として提出するに至った。しかしこれに対して、解敗のない貴族院が首相に辞職を迫るような決議をするのは適当でないとする反対論がおこった。とくに多数の政府支持派をふくむ研究会では、決議案への賛否をめぐって激しい対立が展開され、ついに常務委員もこの問題を「自由問題」とする以外に収拾のつかない有様であった。これは決議拘束主義の伝統を誇る研究会では初めての事態であった。

  同決議案は、2月22日の本会議に上程されたが、 趣旨弁明に立った研究会の柳沢保恵が、この決議案には弾劾などの意味はなく政府の将来の注意をうながすことを目的とすると述べているのは、こうした研究会内部の激しい対立を反映するものであったとみられる。この決議案は速記録第19号にみられるように、貴族院としては珍らしく激しい討論のすえ、172票対149票で可決されているが、この際次表にみられるように研究会の票がとくに大きく分裂したことが注目される。それは研究会幹部の統制力が著しく弱まってきたことを示すものでもあった。

会派 賛成 反対 欠席
研究 51 89 12 152
公正 45 17 3 65
同和 22 4 12 38
同成 27 0 2 29
交友 6 31 6 43
火曜 14 2 10 26
無所属 7 6 17 30
合計 172 149 62 383


  しかしこの決議に対しても、田中内閣は「処決の必要を認めず」とする閣議決定を行い、貴族院の異例の行動も、直接的な効果をあげることはできなかった。



重要法案の成否


 前述のように「優詔問題」決議案が黙殺されたことは、貴族院の反政府的態度を一層強硬なものにした。 この議会に政府が提出した法律案92件のうち、成立 したものは65件にとどまり、多くの重要法案が未成立に終わったことは、こうした貴族院の反政府的態度 によるところが大きかった。

  まず政友会の看板政策として長も注目された両税委譲関係法案は2月21日衆議院から送付され、2月28日の本会議で「地租条例廃止法律案他一六件」として上程されたが、反対派は長時間にわたる質問戦を試み、第一読会の総括的質疑のみで3日間を費し、3月2日になってようやく委員付託となる有様であった。そして結局議会前から或る程度予測されていたように、委員会段階で審議未了に終わった。

  このほか、衆議院を通過しながら貴族院で審議未了・廃案となった重要法案としては、労働者災害扶助法案・鉱業法改正案・自作農創設維持助成資金特別会計法案・肥料管理法案・肥料管理特別会計法案・国際汽船株式会社の整理に関する法律案などをあげることが できる。また宗教団体法案は、貴族院に先に提出されたが、委員会段階で審議未了となっている。さらに党勢拡張や利権問題がからんで論議を呼んだ北海近鉄道他13鉄道買収のための公債発行法案は、貴族院が6鉄道を削除して修正可決したが、両院協議会の採決の段階で審議未了となった。政友・新党但楽部の議員立法として会期未の衆議院をさわがせた小選挙区法案 も3月24日の本会議に上程されたが、藤沢利喜太郎 (学士院会員議員)の3時問余にわたる質問演説が行われただけで委員付託にもならずに終おった。

  枢密院で問題となった治安維持法改正緊急勅令は、 「昭和3年勅令第129号」の承諾を求むる件として提出された。貴族院でも枢密院の場合と同様、緊急勅令による改正の可否という手続問題を中心として論議されたが、内容については殆んどが賛成しており、結局3月19日「起立多数」の形で可決されている。

  成立した案件としては、昭和4年度予算案をはじめ、 府県制・市制・町村制改正案、糸価安定融資補償案、米穀需給調節特別会計法改正案、救護法案などであったが、田中内閣の立場からみれば不首尾の議会というほかはなかったであろう。            

(古屋哲夫)