『帝国議会誌』第1巻

1975年6月

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第五五回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第五五回帝国議会 貴族院解説
第五五回帝国議会 衆議院解説


第五五回帝国議会 貴族院解説

1帝国議会の権限と構成
2帝国議会の運営
3貴族院の組織
4貴族院の会派
5第五五議会

3貴族院の組織
華族中心主義
議員の種類
議員選出制度の改正


3貴族院の組織



華族中心主義

 貴族院は、「上流の社会を代表する者」を集めて「政権の平衡を保ち、政党の偏張を制」(「憲法義解」)することを目的として設立されたが、同時にまた、皇室を まもる上流社会をより強固にする役割をも期待されていた。「憲法義解」は「貴族院は以て貴冑をして立法の議に参預せしむるのみに非ず、又以て国の勲労・学識及富豪の士を集めて国民慎重練熟耐久の気風を代表せ しめ、抱合親和して倶に上流の一団を成し、其の効用を全くせしむる所以なり」と述べている。そしてこの考え方から言えば、皇室の藩屏としてつくられた華族が、貴族院の中心におかれることになるのは当然であった。貴族院には「華族ノ特権ニ関スル条項ヲ議決ス」 (貴族院令第8条)る権限が与えられた。また議員構成から言っても華族議員が他の種類の議員よりも多数となるように定められていた。

  憲法第34条は「貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依り皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス」として、貴族院を3種の議員によって構成することとしたが、貴族院令にはさらにそのうちの「勅任セラレタル議員」の数は、家族議員の数を超過してはならないとの規定が設けられていた(第7条)。この条文は大正14年の貴族院改革で廃止されたが、家族議員を多数とする制度が廃止されたわけではなかった。「勅任セラレタル議員」とは、勅選議員、多額納税議員、帝国学士院選出議員の総称であるが、皇族・華族・勅任の員数を選挙直後の議会で比較すると次表の通りである。

右種別・下議会 皇族 華族 勅任
第 1回 10 135 106
第11回 13 160 159
第21回 13 183 169
第28回 14 197 169
第41回 14 199 169
第51回 18 195 190
第64回 18 194 193
第75回 16 204 194
(開院時の議員数)




議員の種類

 開設当初の貴族院は、この3種の議員が、さらに選任方法、選出母体などの相違によって分類され、結局次の5種類の議員によって組織されていた。  

一、

皇族 成年(満20歳、ただし皇太子・皇太孫のみ18歳)に達すると自動的に議席が与えられる。

二、

公・侯爵 満25歳に達すると自前的に議席が与えられる。

三、

有爵互選議員 伯・子・男爵それぞれの同爵者から選挙によって選ばれる。任期7年、満25歳以上。選挙方法は連記・記名投票(なおこの連記とは、定員数を連記するもの)。選挙期日、7年ごとの7月10日。定員は各爵総員の5分の1以内で選挙ごとに指定されることになっていた。

四、

 

勅選議員 「国家に勲労アリ又ハ学識アル者ヨリ特ニ勅任セラレタル者」(貴族院令)であるが、実質的には政府によって選ばれている。満30歳以上、終身議員。 

五、

多額納税議員 各道府県別に、直接国税納入額の最も多い者15名を選び、そのなかからこ1名を互選する。但し、最初は北海道及び沖縄県は除外されており、大正7年の第5回選挙からこの規定が施行された。任期7年、満30歳以上。選挙方法は単記・記名投票。 選挙期日、当初は6月10日、大正14年の第6回選挙より9月10日となる。

 これらの議員のうち、皇族、公・侯爵議員以外のものについては、次項にみるような選出制度の改正が行なわれているが、議員の種類としては、大正14回年に、 帝国学士院選出議員が追加されたにとどまった。

六、

学士院会員議員 帝国学士院会員から互選される。 定員4名で2部に分かれている学士院の各部で2名ずつを互選。満30歳以上、任期7年、選挙方法は、定数以下の候補者を記載する無記名投票。選挙期日、9月20日。





議員選出制度の改正


  こうした組織で発足した貴族院に関して、最初に問題となったのは、議員数の増加をどの程度におさえるかということであった。とくに問題は、定数の定めのない勅選議員・有爵互選議員の場合であった。この点の改正は明治38年、第3回選挙後に開かれた最初の議会、第21議会で、桂内閣の手によって実現されて以来、明治42年、大正7年と3回に及んでいるが、その内容をみる前に、まず第1―3回選挙における 定数の変化をみておこう。

右選挙・下種別 第1回(明23) 第2回(明30) 第3回(明37)
伯爵 15名 15名 17名
子爵 70名 70名 70名
男爵 20名 35名 56名
合計 105名 120名 143名
勅選 61名 114名 125名

伯・子・男議員数は各選挙で指定された定員。
勅選議員数は選挙後最初の議会の開院式当日の員数。

  この表からまず、男爵議員、ついで勅選議員の急増ぶりが明らかになろう。このうち、伯・子・男爵議員 は、同爵者総数の5分の1以下という規定によって、 17―19%程度を目安にして選挙定員が指定されており、従って男爵議員の増加はほぼ男爵総数に比例したものであった。

  (1) 第1回改正 明治38年に第1次桂内閣が提出した貴族院令改正案は、この第3回選挙時の議員数を 固定化しようとするものであった。即ち、この改正案は有爵議員の数については、各爵総数の5分の1を超 えてはならないという規定に加えて伯爵17人以内、子爵70人以内、男爵56人以内との制限をつける。 また勅選議員については、新たに125人を超過してはならないとの規定を追加しようというのであった。 この案は、第1に勅選議員に対する有爵互選議員の優位を保証する。第2には増加率の高い下位の有爵者より も、上位の有爵者を優遇するという考え方に立つものであった。それはさらに政治的にみると、研究会を結成して強い結束のもとにその発言力を伸ばしてきた子爵議員団と提携して、内閣を強固ならしめようとする意図を示すものでもあった。  

  この有爵互選議員数の問題については、将来の不利 が予想される男爵議員団が強く反対し、結局次のよう な修正案がわずか1票差で可決・成立した。修正案は伯・子・男爵別の最高数を規定するかわりに、3爵議員総数を現員の143名以内とし、各爵総数に比例して各爵に配分することとしていた。なお、勅選議員数の125名以内への制限は、政府原案通りに成立した。

  (2) 第2回改正 この貴族院改正後、日露戦争の論功行賞の結果男爵が著しく増加し、第4回選挙(明治44年)を改正貴族院令の比例配分法で実施するとす れば、男爵議員をふやす反面、伯・子爵議員を減らさねばならなくなる筈であった。そこで明治42年、第2次桂内閣は第25議会に再度の改正案を提出した。当時すでに男爵384人、子爵375人と両爵総数は逆転していた。そこで比例配分法でゆくと、伯・子・男の議員数は16・63・63(又は64)としなけ ればならなかったが、桂内聞の改正案は、伯・子爵議員を減らさずに男爵議員だけを63名に増員し、その代 わりにこの数(伯17、子70、男63)を最大限とする反面、比例配分法の規定を削除しようというのであ った。この改正は子爵議員を中心とする研究会の地位を擁護するものだと非難されたが、結局政府原案通り可決・成立し、第4回選挙はこの規定の限度一杯の定員をもって施行された。

  (3) 第3回改正 こうして、有爵互選議員数の最大限が定められる筈であったのに、7年後の改選期が近づくと再びこの限度の拡大を企てる動きが始まり、寺内内聞は、第5回選挙が予定されている大正7年春の第40議会で、3回目の改正を実現させた。この改正案は、議員数を改選時の同爵者総数の5分の1Iという 貴族院令の制限に近づける形で増員し、かつ同爵者総数と議員数の割合を、上位から下位に少しずつ減じてゆくという考え方に立っていた。即ちこの改正によって、議員数は伯爵20名以内、子爵及び男爵73人以内と改められたが、当時の伯爵100名に対して議員20名は20%、子爵381名に対する73名は19 ・16%、男爵400名に対する73名はて18・25%にあたっていた。

  (4) 貴族院改革論 3回にわたる貴族院令改正が、 子爵団対男爵団の対立を内包しながらも、結局のところ伯・子・男の有爵互選議員の定数増加に終始したことに対しては、次第に世論の批判が高まってきた。そしてさらに、第一次大戦後のデモクラシーの風潮のなかでは、貴族院の華族中心主義的な構成そのものに対する批判へと発展して行った。それはまた研究会などの貴族院の会派が閣僚の地位を獲得し、政府に対する発言力を増大させてゆくことへの反発でもあった。貴族院内部でも大正10年になると江木千之議員らが貴族院改革についての具体的意見を発表するようになり、 大正12年の第46議会では、多額納税議員鎌田勝太郎によって貴族院改革の必要がはじめて本会議において論じられるに至っている。  

  こうした貴族院改革の要求は、翌大正13年の清浦内閣に反対する、いわゆる護憲3派運動によって、一挙に当面の政治課題にまで押しあげられていった。この運動は、組閣の大命をうけた清浦奎吾が、閣僚の選考を研究会幹部にゆだね、研究会の主導する貴族院内閣をつくりあげたことに対して、憲政会・政友会・革新倶楽部の3派が「憲政の常道」に反するとし、清浦内閣打倒・政党内閣制の樹立を叫んで立ちあがったものであった。この運動が、実質的に内閣を掌握するまでに増大した貴族院、とくに有爵議員団の政権干与を、この機会に一挙に排除することを企図していた以上、貴族院改革を重要な政治要求の一つにかかげだのは当然であった。清浦内閣はこの運動に対して衆議院を解散して対抗したものの、総選挙で護憲3派が大勝するや、なすところなく総辞職、かわって3派を基礎とする加藤高明内閣が成立すると、貴族院改革論は一気に高まっていった。  

  ところで、このような大正10年頃から唱えられ始めた改革論のほぼ共通の要求として次のような問題をあげることができる。

(イ)、

公・侯爵議員の世襲制廃止。

(ロ)、

有爵議員の定員削減 華族中心主義否定論が多く、例えば憲政会も革新倶楽部も共に、公・侯爵をふぐめた有爵議員の数を議員総数の3分の1程度とすることを主張している。

(ハ)、

有爵議員の選挙方法の改正 公・侯爵をもふくめて互選とする点は共通していたが、爵位別に定員を定めて互選するのか、全有爵者で互選を行なうことにするかでは意見が分かれた。しかし当面の問題として関心が集まっていたのは連記制改正の問題であった。即ちこれまでは、その選挙での定数だけの姓名を列記することが原則とされており、この方法でゆくと、ある爵位者の多数を占める団体が存在すると、その団体の推薦する候補者でその爵位の議員を独占することが出来た。子爵団体の研究会とその選挙母体である尚友会はこの例である(「四、貴族院の会派」の項参照)。それ故、ある団体の議員独占を排するためには、単記制をとるべきだとする意見が多数を占めた。

(ニ)、

被選挙資格中の年齢制限の画一化 これまでは、華族議員が満25歳以上、勅選・多額納税議員が満30歳以上とされたが、この差別を根拠のないものとし、華族議員をも満30歳以上にせよとの意見が多かった。  

(ホ)、

勅選議員の年期制限 勅選議員を停年制とするか、任期副として、新陳代謝させる。

(へ)、

多額納税議員の廃止と公選又は職能代表議員の新設    江木千之ら貴族院側では職能代衷議員を多額納税議員の代わりに新設する案が唱えられたが、政党側からは一般国民からの直接・間接(市町村会議員を選挙人とする)の公選議員をおく案が主張された(憲政会・革新倶楽部)。そしていずれの場合にも、多額納税議員の場合よりも大幅に定員を増加させ、貴族院の重要な要素たらしめんとしている。

(ト)、

貴族院令の特殊性の解消 貴族院令第13条の同令改正には貴族院の議決を必要とするとの規定を削除することである。たんなる削除によって同令を一般の勅令にしようとする意見と、さらに衆議院の密議をも必要とする法徐とせよとの意見とがあった。


 (5) 第4回改正 こうした世論の動向を背景として、加藤内閣は大正14年春の第50議会に貴族院令改正案を提出した。ちょうど同年は貴族院議員の第6回選挙の年であった。しかし、同改正案は、貴族院側との折衝の結果、与党三派の論議からみても著しく微温的なものとなっており、次のような内容のものであった。

(イ)、

華族議員の被選挙年齢を満30歳以上と改める。

(ロ)、

公侯爵議員の辞職を認める。

(ハ)、

伯・子・男議員の最高定員を各1割ずつ減らし、伯18名、子66名、男66名とする。

(ニ)、

勅選議員については「議員身体又ハ精神ノ衰弱ニ囚り職務ニ堪ヘサルニ至リタルトキハ貴族院ニ於テ其ノ旨ヲ議決シ上奏シテ勅裁ヲ請フヘシ」との規定を設け、院の議決で辞職させうるようにする。

(ホ)、

朝鮮総督、台湾総督、関東長官、検事総長、行政裁判所長官、帝国大学総長其他の大学の長、帝国学士院長、日本銀行総裁をその在職中、議員に勅任する。ただし15名をこえることはできない。

(へ)、

帝国学士院会員中より4名を互選し、7年の任期で議員とする。

(ト)、

多額納税議員は、各道府県で直接国税年額300円以上を納入する者のうちから、1人又は2人を互選する。どの道府県を2人とするかは、人口に応じて選挙ごとに定める。ただし総数66人以内。この規定が実現すると、互選資格者は従来の15名から一挙に数千名に増加する筈であった。例えば東京府では5,586人にのぼる。

(チ)、

貴族院令第7条(勅選・多額納税議員の合計が有爵議員数をこえてはならない)を削除する。この改正における定員限度で言えば、公・侯爵57名、伯・子・男150名、計207名、従来の勅選こ125名、特殊在官議員15名、学士院議員4名、多額66名、計210名となる。


 この改正案は、貴族院で修正可決されたが、内容から言うと、(イ)、(ロ)、(ハ)、(ニ)、(へ)、(チ)が成立、(ホ)は実現せず、(ト)については納税額による選挙資格をやめ、選挙人の数を100人又は200人に拡大するにとどまった。結局多額納税議員は各道府県において、多額納税者100人中より1名又は200名中から2名を互選することとなった。また、(チ)の第7条削除は実現したが、(ホ)の15名以内の特殊在官議員の新設が行なわれなかったため、実質的には第7条が生きているのと同じことになっていた。この改正は大正14年第6回選挙から実施された。

  この改正は、ともかくも、明治末期以来伸長しつづ けてきた有爵互選議員の増勢を抑えた点に最大の意義があった。これをきっかけとして、彼等の力が政治的にも弱められた点については「貴族院の会派」の項をみられたい。

 (6) 第5回改正 前回の改正が、大きく盛りあがっ た世論にくらべて、きわめて不徹底のものに終わったため、その後も貴族院改革の動きは絶えなかった。例 えば、2・26事件後、広田内閣のもとで聞かれた第69議会(昭11・5)では、火曜会の提唱による「貴族院機構ノ改正ニ関スル建議案」が可決され、政府も10月には貴族院制度調査会を設置、再び貴族院改革論が問題化するに至っている。しかし結局、貴旅院改革は大正14年の貴族院令改正以上には進展することなく終わった。その後に行なわれた改正は、これまでの改革論とは全く異なった観点、即ち第二次大戦末期 において、植民地の歓心を買うために昭和20年春の第86議会で成立した次の改正のみであった。

(イ)、

樺太から多額納税議員を選出し、多額納税議員総数を67名以内とする。

(ロ)、

朝鮮又は台湾在住者から10名以内の勅選議員を任命できることとする。


 しかしこの追加規定も、当然のことながら敗戦後の第90議会では削除された。


4貴族院の会派