『季刊・現代史夏季』6号

1975年8月

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民衆動員政策の形成と展開


古屋 哲夫

はじめに
1、民衆動員政策の出発
2、総動員政策の始動
3、総動員路線と右翼運動

4、満州事変による状況の変化
5、官僚主導の組織運動(1)
6、官僚主導の組織運動(2)
7、日中全面戦争と民衆動員



はじめに


 「国家総動員」という言葉が語られるようになるのは、いうまでもなく第一次大戦の結果であった。第一次大戦が総力戦として戦われたことはより大規模な総力戦となることが必然である次の戦争においては、徹底した「国家総動員」を実現しなければ勝利することが出来ないとの認識を生み出した。そしてそのためのは平時から総動員の準備を行うことが必要であると考えられた。ここではそうした総動員の準備のための政策をもふくめて、総動員政策と総称しておくことにする。

  ところで総動員政策は当然、人と物の二つの側面で考えられねばならなかった。総力戦とは、一切の経済力を軍需生産を中軸として再編成し、すべての人間を兵員として動員することを要求するものであった。そのためには物の面では、平時において産業や資源の状態を正確に把握し、それを軍需生産に切りかえる仕組みを用意すること、戦時の需要を満たし得ないと考えられる産業の育成をはかることなどが必要であった。また人の面で言えば、兵隊・労働力を確保するための、能力からみた人口調査とともに、平時から軍事訓練の普及、戦時動員をうけいれるための心構えの要請、動員政策を支援するための民衆組織の形成などをはからねばならなかった。

  本稿はこうした総動員政策の諸側面のうち、物資及び兵員の問題を除いた、一般民衆の戦時体制への動員と組織化の問題を追及しようとするものである。もちろんこうした問題の個々の側面については、すでに多くの研究がなされているわけであるが、その相互の関連を明らかにし、全体としての総動員政策展開過程を追及するという課題は、まだ十分に果たされているいは言えない。そこで本稿では、総動員政策を、民衆動員政策の側面を中心にしながら、その全体としての展開過程の大筋をあとづけることを試みることとした。この試論が文字通りの試論であり、個々の側面の研究の深化によって修正されねばならないものであることは言うまでもないが、個別的研究もまた総括的把握と離れては進展しがたいものなのであり、本稿の如き試論もその点で何程かの寄与をなしえはしないかと考えるのである。



1、民衆動員政策の出発

 国家総動員の一環としての民衆動員政策の最も根本的な性格は「反革命」の点にみることが出来る。一般的に考えても強力な革命運動をかかえたまま国家総動員を行ないえないことは明らかであるが、とくに第一次大戦において、ロシア、ドイツが革命によって戦争を終ったことは、その生きた実例として強烈な印象を残していた。とくにドイツの場合には、戦場では勝っていながら、国内人心の動揺のため敗北したという捉え方が日本の軍部に一般的であり、したがってドイツの二の舞を避けるということが、総動員政策の基本的発想となっていた。1928年(昭和3)3月15日の共産党大検挙のあと、第55議会の施政方針演説のなかで、田中首相が「思想を正しく精神を作興する」ためには「国民の精神的総動員」をもってしなければならないと述べているのは、こうした総動員政策の基本的発想に見合うものであった。

  しかし革命運動の抹殺は総動員政策の前提であるにすぎず、民衆動員のためには、そのための独自のイデオロギーが必要であった。とくに日本の場合、革命運動は「国民の精神的総動員」や右翼的大衆運動をまつまでもなく、治安警察機構によって根こそぎ弾圧されてしまうのであり、したがって「反共」のみをスローガンとした民衆動員は実現の条件を欠いていた。それ故に、民衆の革命化を阻止しながら、民衆の国家総動員への積極的同調を引き出すためのイデオロギーをつくり出し、それを民衆のなかに滲透させてゆかねばならなかった。

  そうした新たなイデオロギー構築の試みは第一次大戦以後、さまざまな形であらわれていたと言える。たとえばその1人としてのちにファッショ期の代表的イデオローグとなる大川周明をとりあげてみよう。彼はすでに第一次大戦期の日本を、沈滞・頽廃の状態にあると断じたが、それは日露戦争の勝利によって、欧米列強に追いつこうとする明治期の国民的目標を失ったためにあらわれた現象であり、したがってこの沈滞を打破するためには、新たな国民的理想、国家的使命感をうち立てねばならないとした。そしてこの新たな理想として、「亜細亜の盟主」たることを提示する。彼は以後、アジアの盟主たるべき日本の特殊性の探求に向った。彼は結局のところ、仏教と儒教とに代表されるアジア文明を総合し保存した点に日本文明の特殊性を求め、日本文明には、はいってくるすべての文明や思想に方向を与える力があるとみ、そうした特殊性を生み出した基盤を「皇統連綿」とした天皇の存在に見出すことになった。そしてそこから逆に、天皇を中心とした日本民族・日本国家のあり方が、欧米と異なった東洋文明、そのなかでも特殊日本的な「道」であることを強調するに至るのである。つまり宗教と道徳を区別せず、その全体を「道」として追及するのが東洋文明のあり方であり、日本においては親を通じて自らの生命をさかのぼり、さらに天皇において生命の本源をみとめることが「日本人の道」であり具体的宗教であるというのであった。(1)

 

(1)

 ここでは大川を論ずることが目的でないので、彼の思想を簡単に概括するにとどめたが、こうした思想展開は、『印度における国民運動の現状及び其の将来』(大正5年)を出発点とし、『日本文明史』(大正10年)を経て、『日本及び日本人の道』に至るという形であとづけることができる。



  ここでとくに大川に言及したのは、彼がいわゆる「国体イデオロギー」と「アジアの盟主」論とを結びつけて提起した点に当時における彼の新しさがあったことを強調したかったからである。たとえば「国体論」にしても、明治期においては、主として天皇主権を中心としる国家形態の問題として論じられたのであり、そこで日本の特殊性が説かれたにしても、国家主権論、政治機構論の範囲においてであった。それが第二次大戦期におけるように、天皇に帰一する天皇信仰を軸とした「国体イデオロギー」に転化してくるのは、大川に典型的にみられるように第一次大戦以後のことであり、総動員政策の基礎として意識的にとりあげられた結果であった。

 こうした「国体イデオロギー」の形成の背景としては、教育勅語を軸とする道徳意識や、修身国史教育の普及をあげねばならないのは勿論であるが、同時にまた、報徳会や青年団のような、天皇制的道徳意識に親和的で、日常生活の改善や相互扶助をめざす修養団体的組織が、明治末期以後、次第に全国的に形成されていたことにも眼を向けなくてはならないであろう。日本の場合には、これらの諸団体を国対イデオロギーのもとに動員し、反革命的思想戦線を形成することが、総動員政策の一つの前提となるのであった。そしてそうした動向が表面化するのは、1923年(大正12)9月の関東大震災を1つの契機としていた。

  大震災の3か月前の6月には第一次共産党が検挙されており、震災による混乱が社会秩序の弱体化をもたらすことがおそれられたことは、11月10日に出された「国民精神作興ニ関スル詔書」のなかにみられる。こうした詔書が出されること自体、支配層の危機意識のあらわれとみることができるが、その内容もまた、「当近学術益々開ケ人智ニ進ム、然レトモ浮華放縦ノ習漸萌シ、軽佻詭激ノ風モ亦生ス、今ニ及ヒテ時弊ヲ革メスンハ、或ハ前緒ヲ失墜センコトヲ恐ル」と激しい口調で国民精神の作興を訴えたものであった。そこでは「浮華放縦ノ習」と「軽佻詭激ノ風」とが、社会秩序を混乱させるものとして排撃されているのであり、それはまた、革命運動が発生する基盤そのものを除去し、革命的意識の成長を予防することをも意味した。

  しかしこの詔書に反撃するかのように、翌12月に難波大助の摂政狙撃事件(虎ノ門事件)がおこったことは、支配層に激しいショックをあたえるものであった。この天皇制への直撃に対して、支配層はすでに展開されつつあった「国体イデオロギー」をとりこみ、「国体明徴」という新たなスローガンを国民精神作興の中核にすえることで対応しようとした。内務省の呼びかけによって、「国民精神作興ニ関スル詔書」にこたえる方策を協議していた修養団体は、翌24年1月に至って、「国体明徴」のための「教化」運動を展開することをめざして、全国教化団体連合会を結成した(36団体が参加)。連合会は参加団体の増加に伴って、28年(昭3)4月に組織がえを行ない、中央に財団法人としての中央教化団体連合会をおき、個々の教化団体はその下の道府県連合会に加入するという形に改めた。そして中央の連合会会長には初代一木喜徳郎、2代目山川健次郎が就任しているが、道府県連合会は知事を会長としているのであり、この組織がえは、地方行政機構に依拠しながら、修養団体の教化運動への動員を全国的に、より組織的に貫徹することをめざすものであった。それはまた逆からみれば、地方行政の国対イデオロギー化を意図するものともいえた。組織がえ以後、中央連合会は、道府県連合会の設定を促進することを活動の大きな目標とするに至っている。29年段階の東京教化団体連合会の加盟団体のおもなものとしては、日本弘道会・日本青年館・修養団・国柱会・乃木講・斯道会・道会・全国神職会・講道館文化会・報徳社・国民禁酒同盟などをあげることができる。

  もちろんこの教化運動は、国家総動員の一翼を担うことを意識して出発したものではなく、天皇制秩序の安定を主目標として、日常生活の改善や人格の鍛練を目的とする諸団体をその担い手として位置づけようとするものであり、したがってまた総動員政策に呼応して積極的に民衆を動員さするという性格を持つものでもなかった。しかし、ともかくも思想問題によって、設立の目的を異にする多数の民間団体が全国的に動員されたということは画期的な出来事であった。それは以後の民衆動員を方向づけ、イデオロギー的な基盤をつくりあげるものとなったし、また国対イデオロギーの強化と日常的な生活改善とをその活動のなかに並存させている点で、以後の上からの民衆動員政策の一つの型を示しているともいえた。翌25年に制定された治安維持法は、革命思想を「国体及び私有財産の否認」として捉え、思想活動そのものを犯罪とした点にみられるように、教化運動の発想をうけいれたものであった。

  しかし民衆動員のためには、教化団体とは異なった大衆的な組織が必要であった。そしてそのような性格をもつものとして着目されたのが、在郷軍人会と青年団であった。この両団体が国体イデオロギーのもとに初めて一緒に動員されたのは、全国的教化運動が開始された2年後、1926年(大正15)の建国際においてであった。これは赤尾敏らが企画し、貴族院議員の永田秀次郎・丸山鶴吉らが中心となって2月11日の紀元節を期して開かれたものであるが、左翼に対抗する右翼的大衆示威の最初の試みであった。当時の東京朝日新聞は翌12日の一面トップ記事としてこの模様を報じているが、それによれば、芝公園1万余名、靖国神社境内9千7百名、上野公園竹の台広場1万2千名、3会場を合せると3万名(1)をこえる動員に成功しており、その主力は在郷軍人と青年団員であった。この26年は、総動員政策がはじめて国策レベルに登場した年であり、建国祭における両団体の動員は、総動員政策のなかで、在郷軍人と青年団が注目されてきたことを反映するものであった。

 

(1) 

 建国祭について、官憲側資料は「大正15年2月11日紀元節ノ佳晨ヲトシテ第1回建国祭式典ヲ芝公園(司会者、永田秀次郎、参加人員約2万人)靖国神社境内(司会者、石光真臣、参加人員1万3千人)上野公園竹之台広場(司会者丸山鶴吉、参加人員2万2千人)ニ於テ挙行シ併セテラヂオ放送、建国祭マーク発売、講演会(建国の夕)開催、宣伝ビラ撤布等ノ別途運動を展開シタ」(『社会運動の状況・昭和7年』)と述べており、これによれば動員数は5万5千名にのぼっている。



  この年の年頭の挨拶で浜口蔵相は「財界好転の為めに、国民的総動員において、経済戦争の共同戦線に立たんければならんと信ずる」(東朝・大15・1・1)と述べて「総動員」という用語を使っているが、それは国家総動員の準備に着手するという方針が閣議決定をみたことと関連していたことであおう。大正15年度予算のなかには、いかなる総動員調査機関を設置すべきかを審議する準備委員会の費用として2万千余円が計上されており、予算成立後の4月29日には、法制局長官山川端夫を委員長とし、陸海軍・農林・商工・逓信・鉄道の各省局長クラスを委員とする総動員機関準備委員会が成立、5月3日には第1回委員会が開かれている。そしてこの委員会の審議の結果にもとづいて、翌1927年(昭2)資源局が設立されることになる。

  資源局の成立はまさに、総動員政策が国の政策としてとりあげられたことを象徴するものであった。そしてその実現を推進してきたのはいうまでもなく陸軍であった。陸軍内部にはすでに1920年(大正9)8月、総動員政策のための調査を目的とする作戦資材整備会議が設けられていたが、総動員機関準備委員会の発足と同時に、総動員政策のための部局の新設に踏み切り、26年9月には同会議を吸収して陸軍省整備局を発足させている(1)。整備局には動員課、統制課の2課がおかれ、初代動員課長には永田鉄山が就任、その転出後は東条英機が2代目の課長となっている。ともかくも、資源局設立の前年に整備局が新設されたことは、総動員政策を陸軍がリードしている姿を如実に示すものであった。

 

(1)

 これらの陸軍部内の動向については、防衛庁戦史室編『陸軍軍需動員(1)計画編』参照



  しかし資源局はその名の示す通り、「資源」という観点からの調査に重点があり、それのみで総動員政策が完成するわけではなかった。そしてこの資源局に欠落している民衆動員政策の側面においてもまた、陸軍が政策形成をリードしていた。陸軍の民衆政策は、これまた総動員機関準備委員会の発足と並行して開所準備が進められていた青年訓練所の構想のなかに読みとることが出来る。青年訓練所令はすでにその前年1925年(大正14)に制定されており、中学校以上の学校に将校を配属して軍事教練を行なわせるという政策とともに、いわゆる宇垣軍縮の一環をなすものであった。周知のように、宇垣陸相は一方で4個師団を廃止するという思い切った手を打って、軍縮を求める世論を満足させるとともに、他方では師団縮小でうかせた経費をもって装備の近代化をはかり、またあまった将校によって学校教練を行なわせると同時に、青年訓練所によって一般青年層にまで軍事教練を拡大することを企画したのであった。それは明らかに総動員政策の形成を志向するものであり、民衆動員の側面でいえば、軍が青年層と接触するルートをつかんだことを意味するものであった。そしてその意味からは、配属将校による軍事教練よりも、青年訓練所の方がより重要視されたであろうと考えられるのである。

  青年訓練所は、小学校から上級学校へ進学しない青年を対象とするものであり、修身、公民科、教練、普通学科、職業科などの授業を行なうことが予定されていたが、訓練所終了者に兵役在営年限を半年短縮するという特典が与えられたことからも明らかなように、最も重視されたのは「教練」であった。そしてその教官には在郷軍人があてられていた。訓練所規程第16条は「公立青年訓練所の主事は実業補習学校長又は小学校長に、指導員は実業補習学校又は小学校の教員、在郷軍人その他適当と認めたる者に地方長官これを嘱託す」と規定しており、実際には下士官の在郷軍人が訓練所の指導員になるのが通例だったようである。

  青年訓練所に在郷軍人をおくり込んだことはさまざまな意味で重要であった。第一には訓練所という公的な制度にかかわらせることによって、在郷軍人の地位を高め、その組織を拡大強化することが促進される筈であった。第二には、青年訓練所の生徒はまた青年団の団員となってゆく場合が多く、したがってこの制度によって青年団は在郷軍人の強い影響下におかれることになるのであった。つまり、青年訓練所の設置には、在郷軍人会→青年団を民衆動員のための組織として育成してゆこうとする陸軍側の意図を読みとることができるのである。

  ともあれ、総動員政策は、1924−27年の間に、国体明徴の教化運動を一般的な背景として、資源局・整備局・青年訓練所という新しい制度を生み出し、在郷軍人・青年団の動員組織化を意図するといった形で姿を現わしてきたとみることが出来る。



2、総動員政策の始動

 一応の制度や組織をもつことができた総動員政策にとって、次の課題は当然これらの制度や組織を実際に動かし、そのことによってその強化拡大をはかることにおかれねばならなっかた。1928年は一方で総動員政策が一般民衆をまき込んで始動しはじめ、他方では革命運動弾圧のための治安警察機構が完備された年として記憶されねばならないであろう。

 まず田中内閣は3月15日に共産党の大検挙を行ない、翌4月に開かれた第55特別議会に治安維持法改正案及び思想警察拡充のための追加予算案を提出した。そして治維法改正案が審議未了に終るや、次の議会をまたずに緊急勅令として公布した。改正の中心は、第1には、これまで私有財産否認と同列に、最高10年の刑に処せらることになっていた「国体変革」の罪を切り離して、国体変革を目的とした結社の組織者、指導者には、死刑という極刑を課せられるようにした点であり、第2には、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」を新たに処罰の対象に加え、2年以上有期の懲役または禁錮に処することができるようにした点であった。それはいわばトップ・リーダーの罪を死刑に引きあげて革命運動を威嚇するとともに、底辺での運動へのわずかな関与をも徹底的に排除することをねらったものであった。つまり大正14年の治安維持法では、国体変革を目的とする結社の「組織・加入」罪を中心とし、この目的の実行のための「協議」罪、「扇動」罪を配した構成になっており、共産党員は「組織・加入」罪、非党員は「協議」・「扇動」罪で起訴された。しかしこの仕組みでは文書の配布などを助けたにすぎないようなシンパを処罰することには無理があり、こうした党周辺のシンパにまで処罰の対象を広げることが「目的遂行」罪を新設した意図であった。

  この治安維持法改正と見合う形で行なわれた思想警察拡充は、200万円という当時としては大予算をもって、これまで主要都市をかかえる府県のみにしか置かれていなかった特高警察を全府県に設置し、全国的な特高警察網をつくりあげようとするものであった。この地維法改正、特高警察拡充によって、特高と教化運動とは国対イデオロギーを軸として、地方レベルで表裏の関係を持つことになる筈であった。つまり、ここでは革命運動を「国体」観念によってタブー視させ、民衆の自発的運動を専ら国対イデオロギーの方向に誘導しようとする体制づくりが企図されているわけであった。

  特高警察拡充が具体的に進められていた28年(昭3)7月は、また総動員政策が始動し始めた時期でもあった。まず7月5日には大阪で最初の燈火管制を伴う防空演習が行なわれた。燈火管制は、午後8時からわずか5分間にすぎず、また市内22か所の変電所のスイッチを切るという乱暴なやり方であったが、市電は速度を半減し、ライトには上半にブリキ板のカバーをつけ、車内燈を半減してよろい戸をしめるなど、さまざまな形で全市的協力が求められている。

  この最初の大規模な防空演習が何故この時期に、どのような意図で強行されたのかを直接に示す資料は今のところ見当らない。しかし不戦条約交渉が進められ、また翌々30年にはロンドン軍縮が実現しているように、世界的にも軍縮の気運が強く残っているこの時期に、近い将来に空襲の被害をうけることを予想させる条件は何処にも存在していなかった。勿論この演習が一つには航空・防空関係予算の増額を要求するデモンストレーションの意味を持ったであろうことは容易に推測される。しかしより直接には、民衆動員のための組織として着目した在郷軍人・青年団などを、実際にそうした形で動かしてみることに演習の主眼があったと考えられるのである。すなわち演習を伝える新聞記事が「独立警備歩兵2大隊、憲兵・在郷軍人の保警隊、青年団員、青年訓練所員がいずれも手にした提燈を消して警備に任じた」(東朝、昭3・7・6)と報じている部分に注目したいのである。また同じ記事は、東京でも東京市と東京警備司令部参謀長宇佐美大佐との間に、来年3、4月に東京でも防空演習を行なう問題について打合せが行なわれていることを伝えているが(この計画は実現せず)、その際「国民警備隊の非常編成、青年団の戦時活動」(同前)などが話題となっていることも、こうした防空演習についての軍側の意図を推測する資料となりうるのではあるまいか。

  1年後の29年(昭4)7月には第三師団・愛知県・名古屋市共催の防空演習が行なわれ、また11月に水戸を中心に、歩兵3個師団・飛行機150機を投入して実施された恒例の陸軍大演習においても、茨城・栃木・群馬の青年団・在郷軍人会・消防隊約4万人が防空隊として参加、鉄道関係員3万5千余人も所定の場所で任務につくという「国民総動員の演習」(東朝、昭4・11・12)が加えられていた。これらの事例からは、軍が演習をたんなる純軍事技術的な訓練にとどめず、総動員政策のための訓練としての性格を持たせ、在郷軍人・青年団を民衆動員の中軸組織として育成しようと意図していることが明らかになっているように思われるのである。

  最初の防空演習に引きつづいて、大阪では「軍需工場演習」なるものが、28年7月7日から、宇佐美長官ら資源局幹部、陸軍省・参謀本部の4将校立会のもとに9日間にわたって実施された。これは大阪府工務課に工業動員・非常調弁命令が下されたとの想定の下に、生産・調弁計画を作成しその実施を検討するというものであり、業者側からも大阪工業懇話会の6名が参加している。

  ついで翌29年6月には、同じ大阪を中心とし、大阪・京都・兵庫の3府県に、あたがるより大規模な演習が「総動員演習」の名のもとにくりひろげられた。この演習では、宇佐美資源局長官が統監となり、林第四師団長、阿部陸軍次官、内田海軍政務次官、岡本参謀本部総務部長、岸本陸軍省兵器局長などが立会っている。東京朝日6月25日付夕刊トップ記事は「未曽有の総動員演習、外敵襲来の想定のもとに、命令一下戦端開かる」との見出をかかげ、「有力なる外敵の無法なる主張に対しけつ然として我等が国際正義の戦端は開かれたとの想定」によって、第一次命令として生産計画命令(40品目)、生産実施命令(19品目)、調達計画命令(11品目)、調達実施命令(2品目)が下されたことを報じている。

  この総動員演習は、4月の資源調査法公布、6月の「総動員計画設定処務要綱」の閣議決定に呼応するものであったであろう。11月に公布された同法施行令としての資源調査令第三条は「各省大臣は定期に人的および物的資源の統制運用計画の設定および遂行に必要なる資源調査を行い内閣総理大臣に報告すべし」と規定しており、総動員政策がいよいよ日常の各省業務のなかに位置づけられるに至ったことを示していた。

  ところでこうした形で総動員政策が展開されてくるなかで、政党側からもこの流れに結びつこうとする動きが現れた。29年7月2日成立した浜口内閣は、金解禁を主政策に掲げ、その実現のために中央・地方の財政を緊縮するとともに、国民にも消費生活を切りつめることを訴えようとした。そしてこのために「教化総動員」と名づけた運動をおしすすめようというのであった。8月26、27日文部省は各府県の社会教育主事を召集し、「地方教化動員実施案」を指示そたが、そこではこの運動の目的として

 

一、

国体観念を明徴にし国民精神を作興すること

 

二、

経済生活の改善を図り国力を培養すること

という2項目かかげられていた。また、実施方法としては「教化団体・青年団体・少年団体・婦人団体等の社会教化機関の活動を促すこと」(1)が中軸にすえられていた。それは前述した24年以来の教化運動の展開に依拠するとともに、そのうえにそれとはちがった形で民衆動員のうえで有力な役割を果し始めていた在郷軍人会・青年団などの実行力を動員しようとするものに他ならなかった。

  しかもその運動の実際をみると、日常生活における天皇崇拝・祖先崇拝の強化によって、消費生活簡素化の心情を生み出そうとする点において、まさに後年の国民精神総動員運動の先駆をなすものであるといってよい。たとえば栃木県協議会の「実行申合事項」(2)をみると、

国体観念の明徴、国民精神の作興

 

一、

神社参拝を励行すること

 

二、

祖先祭祀を励行すること

 

三、

祝祭日には必ず国旗を掲揚すること

 

 

(以下略)

経済生活の改善、国力の涵養

 

一、

副業を興すこと

 

二、

勤倹力行、収入の増加を図ること

 

三、

虚礼に亘る贈答を廃すること

 

四、

冠婚葬祭は厳粛を旨とし冗費を節約すること

 

 

(以下略)

などの項目がならんでおり、なた東京連合青年団の指令(3)をみると、

 

一、

毎朝必ず宮城を遙拝すべし

 

一、

神仏に朝夕礼拝すべし

 

一、

禁酒禁煙すべし

 

 

(以下略)

とつづいている。つまりそこでは「国体明徴」は日常生活における天皇・神仏の礼拝へと収斂されつつあり、これらの「礼拝」行為を生活の簡素化=禁欲と結びつけることが意図されていたといえる。それはいいかえれば国体論的シンボルが条件反射的に禁欲行動にかりたてるという意識構造の創出をめざすものであり、さらには国対イデオロギーの総動員政策における有効性の拡大を結果することにもなる筈であった。

 

(1)(2)

 文部省社会教育局編『教化動員実施概況』昭和5年9月刊

 

(3)

東京朝日、昭4・10・10記事



  同時にまた、こうした教化運動の展開は、より狭い地域における単位組織形成への欲求を生み出すことにもなった。すなわち教化団体、在郷軍人会・青年団などがそれぞれに発する指令が、町村あるいはその下の部落などに錯綜してもたらされたとしても、その内容が殆んど大同小異であるとすれば、町村あるいは部落を単位として恒常的な実行組織をつくる方が、目的の実行に有効だと考えられるようになる。また礼拝行動と生活の簡素化を結合させようとする運動の実態からいっても、行動や生活の共同体的規制が可能なレベルで、単位組織を結成しようという要求があらわれてくることも必然であった。29年11月11日の第六回全国教化事業代表者大会において、教化網の構成単位として市町村の教化機関を完備することが必要であるとの決議が行なわれ、これをうけた文部省は翌30年4月2日、文部次官通達(地方長官宛)「教化振興方ニ関スル件」を発し、市町村教化機関設置促進の方針を指示している。それはこの段階で早くも後述するような町内会・部落会組織の画一的設置の方向を指向する1つの萌芽が生れたことを意味していた。

  しかし、こうした教化運動が生み出す組織化の方向は、本来、政党の運動と矛盾する性格を内包するものであった。つまり国体意識を核にし国民道徳の強化を目標とする教化運動からみれば、利害関係によって民衆の組織化を進めようとする政党の活動は、原理的にうけいれがたい側面をふくむものであった。それは、後の新体制運動が「政党は抑々個別的分化的なる部分(「全体」に対する「部分」―引用者)の利益、立場を代表することを、その本質の中に蔵している(1)」と主張して自らを政党運動から区別したということにも通じる問題であった。さらにその上、この時には、選挙干渉や汚職事件が続出しており、こうした政党の腐敗現象への反感は、本来教化運動のなかにある反政党的側面を拡大することになったと思われる。

 

(1)

 昭和16年8月28日、新体制準備会における近衛首相の声明『翼賛国民運動史』85頁



  教化総動員運動開始直前の29年6月末から7月初めにかけて中央教化団体連合会が行なった北九州4県の教化事業関係者の懇談会では、「思想悪化ノ原因ハ政党政派ノ悪事醜行デアルコト」、「政党ノ地方ヲ悪化スルコト甚ダシ」(1)といった意見が出されていたが、総動員が始まると同時に、同連合会は「思想悪化の1原因としての政治思想乃至政治行動」と題するパンフレットを流し、政治が公明を欠く原因を「イ、選挙の不正、ロ、政党及政治家の行動の不合理」(2)にありと断ずるに至っている。そこには、情実・売買による投票・待合政治・議場の乱闘・利権漁りなどといった一般的に肯定される批判もみられるが、同時に「自己またはその関係団体の利益のための投票」、「政党が地方自治体の自治的発達を破壊すること」、「政党が団体生活の道義的意義を自覚せざること―政治は力―多数神聖―道徳もまた政争の具」といった政党政治そのものへの批判が含まれていたことに注目しなくてはならないであろう。

 

(1)(2)

「中央教化団体連合会報」教化総動員号、昭和4年10月



  民政党内閣である浜口内閣がこうした教化運動の上にのって自らの政策の実現を企てたことは、独自の大衆組織を持たない政党の弱さを示すものであり、またそのことによって、自らのイデオロギー的基盤を弱める結果を招いたといえる。しかしともあれ、総動員政策はその始動と同時に政党をもまき込み、総動員政策と政党政治との関係という問題を提起してきたのであった。また教化運動の利用を試みたとはいえ、浜口内閣=民政党は国家総動員の達成を当面の政治目標として承認していたわけでもなかった。始動し始めた総動員政策が次の展開をとげることが出来るか否かは、こうした状態をどう打開するかにかかっていた。



3、総動員路線と右翼運動

 国家総動員の最終目標が、最大限の軍事力に結集にある以上、軍備拡張はその前提であり、中核におかれねばならない問題であった。逆にいえば、単なる軍拡では総力戦は戦えないとするところから、総動員政策が出発するのであり、それは本質的に軍縮政策と対立するものであった。この意味では宇垣軍縮が総動員政策の出発点を築いたことは奇妙な出来事であり、軍縮の要求が軍国主義の否定にまで深化していなっかた弱味を逆手にとられたとみることができる。つまり宇垣軍縮は、師団削減を代償として、軍の勢力を一般社会のなかに拡大させるとともに、総動員政策を国策のレベルに登場させるという役割を果たしたのであった。いいかえれば宇垣軍縮は、宇垣陸相の再登場を以てしても、再度の軍縮を断行することを極めて困難にする情勢を陸軍部内につくり出したということでもあった。総動員政策が始動し始めたこの段階で再び軍縮を断行することは、総動員政策そのものと対決することなしには不可能であった。浜口内閣はこの点を充分認識することなしに、この困難な道に踏み込んでいた。

  金解禁という金融資本的政策によって経済の行詰りを打開しようとした浜口内閣は、財政緊縮=消費節約の実現のために教化総動員運動を企図したのであったが、しかしその点からいえば、軍備縮小こそ最も効果的な政策となる筈であった。したがって海軍軍縮のロンドン会議への動きが始まっていたこの時点では、陸軍軍縮を実現することができるかどうかが1つの焦点となりつつあった。内閣成立(29年7月)前から民政党少壮派は「一、軍備の整理、一、社会省設置と軍部大臣文官制確立、一、国民生活の安定、一、婦人参政権付与」(東朝、昭4・4・15)などの新政策を提唱していたし、浜口内閣が宇垣一成を再び陸相の座につけたのも軍縮への期待からであった。さらに10月に革新倶楽部以来の軍縮論者であった犬養毅が政友会総裁に就任すると、野党政友会の側からも陸軍軍縮を要求する声が高まってきた。しかしすでに総動員政策に踏み切っていた陸軍は、こうした世論の動向に強い反発を示した。当時の新聞は「陸軍縮小の世論に軍部は絶対反対」(東朝、昭4・10・29)と報じている。

  宇垣陸相も内閣の財政緊縮政策の手前もあって、29年8月には陸軍省・参謀本部の幹部をあつめた軍制調査会を発足させたが、そこでも師団縮小には強い反対意見が出され、総動員政策を発展させることが基本方針とされたことは、次のような調査要綱からも推測することができる。

 

一、

新式装備の充実―新兵器の増加、新鋭部隊の拡張等を始め総ゆる方面に於る機械力を拡充すること

 

二、

予備的教育の徹底―精神的、人的国家総動員計画に基く学校教練を始め、この種の国民教育を拡充徹底すること

 

三、

在営年限短縮―兵役義務者の負担を軽減し、且青年男子の産業に当る期間を増加すると共に、将来に於る軍事費節減のための第2項の徹底と相俟って各兵科の在営年限を可及的短縮すること

 

四、

物的国家総動員の徹底―有事に際し軍需品の供給を豊富ならしめるため、各種民間産業を指導助成し能ふ限り陸軍工業をも可及的に民業に委譲すること、右の結果、陸軍の所属工廠の整理を行ふこと

 

五、

部隊編制の更改―現在の編制上の画一主義を緩和し、我国四囲の状勢、並に各地方民の性能、地方の地勢等を参酌して各師団の編制を実利的に非画一的に改めること(東朝、昭4・8・17)

 ここでもまた、在営年限短縮と予備的軍事教育の徹底とを交換条件とし、さらにこの機会に、産業面に対する軍の統制力をつくり出そうという一石二鳥をねらっている点で、先の25年宇垣軍縮と同様の発想をみることが出来る。しかし、この在営年限短縮にも陸軍内部からは強い反対がおこった。年限短縮は現役兵の総数を減らすという点では師団削減と同じ効果を持つものであるが、過渡期を除けば予後備役の総数を減少させないという点では師団削減とは異っていた。しかし、中国革命による既得権益の喪失という軍部の危機感が高まり、田中前内閣のもとでは師団単位の兵力による山東出兵が行なわれているという状況のもとでは、訓練期間の短縮・即戦力としての現役兵の減少を意味する在営年限短縮にも陸軍主流は強い抵抗を示していた。ロンドン海軍軍縮をめぐる攻防が華々しく展開された30年中に、軍制調査会の審議が遅々として進まなかったことは、浜口内閣の政策路線と、陸軍の総動員路線との深刻な対立が潜在的に進行していたことを物語るものにほかならなかった。

  陸軍軍制調査の結論が出されたのは、調査会設立後1年半以上もすぎた31年5月3日の陸軍三長官会議であり、そこでの結論は、装備の完成を期することに主眼をおき、そのための費用を軍行政機構の整理によって捻出するというものであった。すなわちこの案は、陸軍経費の削減を不可能としたばかりでなく、財政好転の際に装備費の増額を要求するための第二次計画案をも作成しておくというものであった。(東朝、昭6・5・4)軍縮の要求をきっかけとして始まった筈の軍制調査は、逆に軍縮を否定し、新たに総動員政策の根幹ととなる軍備拡張を要求するという結論を生み出したのであった。これに対して、浜口首相が狙撃されるという犠牲をこうむったものの(31年4月同じ民政党を与党とした若槻内閣に代る)ロンドン海軍軍縮条約を成立させた民政党はなお強気に陸軍軍縮を要求しつづけており、三長官会議の翌週、5月15日に開かれた同党行政整理調査会は、軍部に対する要求を次のようにまとめていた。

 

一、

17ケ師団を14ケ師団に減じ歩兵旅団を廃止すること

 

二、

陸海軍の貯蔵する戦用資材は製作に長時間を要するものを除き努めて貯蔵を少くすること

 

三、

陸海軍の官衙、学校および特務機関を整理すること
(イ)、軍事参議院の廃止
(ロ)、教育総監部、築城本部、運輸部および要塞の廃止
(ハ)、陸軍軍医学校・経理学校並に陸軍獣医学校および幼年学校の廃止

 

 

(以下略)(東朝、昭6・5・16)

 この両者が相反する方向を志向していることは、もはや説明の要もないほど明らかであろう。この陸軍と民政党の対立は、総動員政策と金融資本的現状打開策との対立におきかえることが出来る。したがって総動員政策の進展を図るためには、資本をこの政策路線に同調させること、そして直接には資本の政治的代表部ともいえる既成政党に痛撃を加えることが必要となった。浜口・若槻内閣の時期に軍部・右翼の反政党気運が盛りあがってくるのは、こうした政策路線の対立を反映したものであった。

しかし、政党政治を打破して総動員政策の突破口をつくるための役割は、これまで動員してきたような、教化団体・在郷軍人会・青年団などに期待することは無理であった。これらの半官団体は、反政党的雰囲気を醸成する力とはなりえても、そのままの形では既成政党打破の政治戦線を結成することを期待することは出来なかった。そのためには、新たな政治指導部が必要であった。この時期に国家主義団体が右翼的大衆運動を試み、軍内部に「国家改造」を唱える中堅・青年将校のグループが続出するのも、こうした右翼的政治指導部形成の課題にこたえようとしたのもとみることができる。これらのうち中堅・青年将校の運動についてはすでに多くの研究がなされているので、ここでは、民間右翼の動向に眼をむけることにしたい。

  まずこの時期は、右翼的国家主義運動史からみても、初めて政党組織が企てられた点で一つの画期をなすものであった。その最初のものは29年5月、松本で結成された信州国民(1)であったが、つづいてこの政党を全国化しようとする動きが始まり、11月26日には日本国民党(2)が結成されるに至っている。そして翌年にはさらにいくつかの政党が生れた。こうした右翼勢力の政党組織への動きは、その実勢力が小さなものであったにもせよ、この時期に右からの組織的大衆運動員が意図され始めたことを示す点で重要であった。この時期には右翼勢力の間に大衆運動への志向が広まりつつあった。たとえば大川周明の主宰する行地社においても、このような動きは顕著であった。この年のはじめから同社機関誌「月刊日本」の編集幹事となった津田光造は、まず講壇日本主義から街頭日本主義へ(3)という方向を提唱する。そして現実の日本において、「善政を施行する可能性有る政治勢力」は、「此の不合理な社会組織を、もっと合理的に改革する事だと呼号しつつある無産党を措いて外には無い」(4)とする認識から、自らの街頭日本主義を国家主義的無産運動と規定しようとするのであった。彼は、「吾等が捧持する社会主義は……斯くの如き祖先の遺風伝統を最も鮮やかに、そして最も如実に、実生活の上に顕彰する事を畢生の事業とするものであって、外国流の或は翻訳流の社会主義とは、自らその撰を異にする」と述べながらも、他方では「社会主義か共産主義と見れば頭から蛇蝎視して、それを撲滅する事を以て能事了れり」(5)とする「従来の日本主義」を排撃するのであった。

 

(1)

信州国民の役員は、総理野口喜代志、幹事長八幡兼松(博堂)、常任幹事鈴木善一

 

(2)

日本国民党の役員は、執行委員長寺田稲次郎、書記長八幡兼松、書記次長鈴木善一、統制委員長西田税、中央常任委員津田光造、長野朗等

 

(3)

「日本主義運動の道義的統一」、「月刊日本」第48号、昭和4年3月

 

(4)(5)

「無産党が政権を握るか―日本人の日本を建設せよ」、「月刊日本」第50号、昭和4年5月



  「皇国的社会主義」(1)の立場からにもせよ、ともかくも無産運動を展開しようとする以上、左翼的運動方法にもまた親近感が示されるようになった。津田は街頭進出=大衆運動の方法としては「かの無産派の戦術と同一轍で進むより外はな」(2)いことを強調しているが、こうした傾向は、単に津田のみでなく右翼陣営のなかに広汎にみられるものとなっていった。翌々31年3月20日、右翼陣営の戦線統一を目的とした発足した全日本愛国者共同闘争協議会(3)(略称・日協)の場合は、無産者運動・大衆運動への志向が最も明確にあらわれている点で注目に値する。日協機関紙「興民新聞」は愛国社会運動の主力茲に始めて形成さる」(4)と述べ、自らを「大衆運動としての愛国運動」、「愛国無産運動」(5)、「正統派革命闘争団」(6)として性格づけるとともに、「農村へ!工場へ!日協の旗を進めよ、大衆闘争の基礎組織確立と我等の戦闘的細胞支部を作れ」(7)と訴えていた。

 

(1)

前掲「無産党が政権を握るか」

 

(2)

「行地軍団街頭進出の方途」、「月刊日本」第49号「本部放送」欄、昭和4年4月

 

(3)

日協の加盟団体は、日本国民党有志、日本労働会、東興連盟、国民戦線社、行地社青年部、興国農民組合、愛国無産青年同盟有志、急進愛国労働者総連盟、聖刃社であり、役員は書記局主任津久井龍雄、副主任鈴木善一、常任執行委員馬場園義馬、八幡博堂、狩野敏等であった。

 

(4)(5)

「興民新聞」第3号、昭6・5・1.なお1・2号は未見であるが、宣言、綱領、役員名などを掲載したこの号が内容からみると創刊号であったと思われる。1・2号は発禁となったのではあるまいか。

 

(6)(7)

「興民新聞」第4号、昭6・6・1



  このように右翼国家主義運動が、この時期に著しく左翼的色彩を帯びたことは、彼等が左翼革命運動は恐るるに足りないと判断し、独占資本に態度変更を迫り、総動員政策に従属させることを以て最大の闘争目標としたことを意味していた。すなわち彼等は、日本の大衆は国家主義・民族主義の方向に動員できると確信していたのであり、それ故に左翼的口調による独占資本への攻撃と、国家の価値の強調とを大衆への呼びかけの2つの柱とするのが常であった。

  たとえば、「世界資本主義の一環をなせる我国資本主義は、腐敗大資本閥と亡国政治勢力との完全なる結合を遂げ、所謂金融寡頭政治への最高段階にまで進出して、非日本的・非国家的罪業の一切を暴露しつつある」という典型的な左翼調で始まる日本国民党宣言(1)は、同時にまた「我等は、国家を以て、人間的生存、社会的生活、人類の進化向上に、缺く可からざる統制的機関、道義的存在として、其の永遠性を確認し、其の機能の正常なる発達を希願するものである」と述べて、「国家を以て搾取機関なりとし、其の廃滅を主張する」点で、「共産主義者及びその亜流たる社会民主主義者」を激しく攻撃するのであった。この一般的な国家観のうえに、さらに日本国家の特異性、その価値的優越の主張を加える点に右翼の特徴があったことはいうまでもない。こうした国家意識を基底として、大衆の生活窮乏と欧米帝国主義及びソ連共産主義の圧迫による内外からの危機感をあおりたてるというのが、右からの大衆動員の基本的戦略であった。

 

(1) 

 「月刊日本」第58号(昭和5年1月)による。



  それはいいかえれば、大衆の階級的生活意識に依拠しながら、大衆を国家総動員体制のなかに組み込もうとすることにほかならず、そのことは運動組織化の志向においても、軍隊組織への依拠あるいは結合の傾向となってあらわれていた。たとえば前述した津田光造は、具体的組織方針の1つとして「一、軍隊本位軍人中心の事、一、現役軍人を『日本』化すること、一、各連隊将校を同志化すること、一、在郷軍人を主力化すること(1)を提唱する。すなわちそれは軍隊が保持する「日本民族独自の日本魂」を更に強化して「軍隊を経綸の中枢とし、軍人を組織の亀鑑」たらしめようとするものであり、現役兵の教育にあたる各連隊将校に「須らく上下一心、挙国一致国家総動員の志気を鼓舞」すること、並に在郷軍人により一般社会に「軍隊的指導精神を徹底」させることを求めたものであった。そしてこの観点から民間連動では在郷軍人を「主力化」しなければならないとするのであるが、その際、在郷軍人が「自治体教導に加えて、「(一)、配属将校を通して各学校を教導する事、(二)、青年団若くは青年訓練所を教導する事」という役割をすでに担っているものとしてとらえられている点に注目しなければならないであろう。それはまさに陸軍の着目した民衆動員組織を右翼大衆運動の中軸にすえようとするものにほかならなかった。

 

(1)

 「誌友拡張の方針(一)、「月刊日本」第56号、同人語欄、昭和4年11月。


 
さらに翌30年(昭5)にいたり、軍部「革新」派将校の組織化が進むとともに、民間右翼もまた彼等との結合を求めるようになっていった。たとえば、津久井龍雄は日協の運動方針ともいえる文章のなかで、労働者・農民の問題につづけて、軍部革新派との結合について次のように述べている。(かっこ内は推定) 「今や軍隊内部の気概ある将校並に革命的兵士大衆は憤然××(蹶起)して××(革命)の計をなしつつあるといふ。我等は端的に之等の分子に働きかくべきである。武力を伴はざる××(革命)運動は1個のユートピアに過ぎず、大衆的基礎なき武力××(革命)また到底成功の余地なき以上、社会運動と軍隊との密結の如何に今や必須なるかが理会される。軍隊の大衆化、大衆の武×(装)化をスローガンとして、軍隊の中へと我等の旗を進むべきである」(1) 

 

(1)

 「日協の闘争を斯く進めよ」、「興民新聞」、第3号、昭6・5・1。



  今仮りにここでの問題を軍革新派と右翼大衆運動の結合というふうに捉えるとすれば、総動員政策展開の道は、(一)軍をバックとした右翼指導の権力闘争か、(ニ)右翼大衆をバックとした軍部クーデターかという形で図式化することができる。大川周明が、無産政党の大衆運動を背景とした軍部クーデターという形で三月事件を企画したのは、まさにこの第2の図式によるものであった。そして宇垣陸相がこの陰謀に色気をみせたのは、彼の個人的権力欲もさることながら、基本的には彼自身もまた政党と軍部の板ばさみになり、総動員政策展開の道を模索していたためではなかったか。しかし、現実には三月事件の失敗に明らかなように右翼大衆運動はこの図式を成り立たせる程強力なものとはなりえなかった。それは直接にはもちろん右翼の組織力の弱さという問題にかかわっているがより根本的には、反資本主義闘争と対外的危機意識の高揚を結合することの無理に基因していた。敗戦を革命へという戦略がありうるとしても、それは平和への大衆的欲求を前提としたものであり、開戦を革命へとはなりえないものであった。対資本家闘争に本腰を入れるとすれば、対外的危機の進行は闘争を阻害する要因となる筈であった。しかも海軍軍縮が容認され、満蒙放棄論(1)さえあらわれているこの時点で、対外的危機感によって大衆を動員し政治路線を転換させるということは、民間右翼にとって、対資本家闘争の組織よりも困難な課題であったといいうるであろう。したがって右翼の意気込みにも拘らず、軍部による対外的危機の意識的造出のみが、右翼的大衆動員の現実的契機になりえたのであった。彼等のスローガンに即していえば「戦闘的大衆の手でブルジョア政権を破壊せよ!!」(2)とする道は実現の条件を欠き、「満州問題の激化を国内改造の動力に導け!!」(3)とする方向のみが現実的であったということになる。「満州事変」はまさに、総動員政策展開のためのクーデターとしての意味をも担っていたのであった。

 

(1)

石橋湛山が「東洋経済新報」によって満蒙放棄論を唱えたことは、井上清、渡部徹編『大正期の急進的自由主義』(とくに井上清、江口圭一論文)で明らかにされているが、この時期の右翼が満蒙放棄論として攻撃していたのは、清沢洌「愛国心の悲劇」(中央公論、昭和4年5月号)、鈴木茂三郎「満鉄王国の解剖」(中央公論、昭和5年5月号)などであった。石原巌徹「満蒙問題の閑却と日本の致命的受難」、同「プロ派の満蒙放棄論一拶」、「月刊日本」56・63号、昭和4年11月、昭和5年6月。

 

(2)

興民新聞、第5号、昭6・7・1

 

(3)

興民新聞、第6号、昭6・8・1





4、満州事変による状況の変化

 石原莞爾ら関東軍参謀らによる満州占領作戦の開始は、その時期が計算されたものであったとしたら、まことに見事というほかはなかった。柳条溝事件3日後、9月21日の号外は、イギリスが金本位制離脱を決定したことを伝えた。すでに、世界大恐慌の嵐のなかで金解禁政策を維持し難くなっていることは誰の眼にも明らかであったが、このイギリスの金本位制離脱が日本にも政策転換をうながす直接の圧力となることは疑いもなおところであった。しかし、大恐慌からの脱出のためには、金本位制を離れ、財政支出の増大による有効需要の創出=インフレ政策への転換が必要とみられてはいても、既成政党もブルジョアジーもそのための確たる政策的展望を持ち得てはいなかった。結果からみれば軍部は、「満州事変」のこの政策転換の状況にぶつけることによって、政策決定の主導権を握り、総動員政策への展望をひらいたのであった。それは裏面からいえば、既成政治勢力の側が政治的展望の欠如の故に、「満州事変」の方向に追随していったことを意味するものにほかならなかった。

  既に、政党のなかからも政友会の森恪にみられるような親軍的な動きが表面化していたが、「満州事変」の拡大とともに、そうした勢力は、護憲三派運動以来の政党内閣の基礎を内部からつきくずす程に増大していった。未遂に終ったとはいえ、十月事件の衝撃は、こうした動きを増幅する役割りを果していた。同事件の情報をつかんでいた内相安達謙蔵の「超党派的愛国心」を基礎とする協力内閣の提唱が民政党をゆるがせ、政友会の久原房之助ががこれに呼応する。協力内閣とは「政党の協力を基盤とした国民内閣」という意味であった。この構想は実現せず、最後の政党内閣として犬養政友会が出現すたが、しかしそこでも陸相として軍「革新」派の予望を担う荒木貞夫が起用されたように、もはや「満州事変」路線と対決する意欲は政党のなかに見あたらなくなっていた。五・一五事件は、この動向を更に決定的にするものであった。事件直後の第六二臨時議会最終日(32年6月14日)の衆議院では「政府は速かに満州国を承認すべし」という決議案が満場一致で可決されていた。総動員路線に対するかにみえた民政党の姿勢は、「満州事変」の一撃によって崩れさり、五・一五事件後の同党は、斎藤内閣の与党の地位にあまんずるに至っていた。

  ブルジョアジーもまた、たちまちのうちに満州侵略支持、対中国強硬政策の方向に追随していった。九・一八柳条溝事件以後、9月中だけで、日華実業協会・大阪商工会議所・工業倶楽部などが次々と軍事行動支持の声明を発表しているには、財界としては異例なことといえた。その内容は9月26日大阪の経済10団体が決定した「満州における我が権益を確保するとともに、支那政府をして全国にわたる排日運動を即時厳禁せしめ、将来その再発防止を保障せしむるを要す」(大朝、昭6・9・27)との決議に代表されていた。さらに11月25日になると、日本商工会議所が「対支問題ニ関スル決議」を発表して次のように軍事行動を支援していた。すなわち「満蒙ニ於ケル治安維持及本邦在留民ノ生命財産ノ保護ニ関シテハ頗ル遺憾ノ点アルヲ以テ、須ク正義ト実力トニ依リ断乎トシテ帝国ノ権益ヲ擁護スルニ於テ萬遺漏ナキヲ期セザルベカラズ」(1)と。

 

(1)

 日本商工会議所「経済月報」第3巻12号、昭和6年12月



  こうした既成政党とブルジョアジーの「満州事変」路線への追随は、政策決定における軍部の主導権を容認する結果となることは必然であった。軍部首脳も、関東軍参謀達が謀略によってつくり出した対外的危機を突破口として、総動員政策の新たな展開を企てようとする方向に転じた。そしてそれは、他面からいえば軍部自身によって総動員路線の行詰まりが打開されたことにより、右翼大衆運動の独自の役割りが低下したことを意味するものであった。青年将校をふくめた陸軍「革新」派が、クーデターへの動きを停止して、陸相の座にのぼった荒木将軍に期待をかけるに至ったのも、(1)こうそた状況の変化に対応したものといえた。陸軍側から離れた民間右翼・海軍青年将校らによって遂行された血盟団事件、五・一五事件などの独自のテロも、軍部主導の総動員路線に同調する方向へと、既成勢力を追い立ててゆく役割りを果たす結果となっていた。そしてそれは以後の右翼勢力のあり方を指し示していた。

 

(1)

 高橋正衛著『昭和の軍閥』中公新書参照



  「満州事変」後の右翼勢力は、その主張の力点を、事変前夜に盛り上った「独占資本打倒」から「統制経済」の確立の要求へと移しかえていった。それは彼らが状況の変化に対応して、総動員政策促進のための政治的圧力を形成する方向に転じたことを意味していた。そして五・一五事件直後には、無産政党の一部をもまき込んで、国家社会主義の政治戦線がつくりあげられていった。それは無産政党の側からいえば、これまでのような、共産主義に対する態度を基準として党派の離合集散が繰返されるという局面が一変し、国家社会主義を軸とする新たな再編成の局面をむかえたということでもあった。

  すでに無産政党の陣営においても、社会民衆等の赤松克麿のように、31年初頭からは、大川周明らと接触し三月事件の陰謀にも連なったとみられる一派が動き出していたが、こうした動きが無産政党再編成の基軸を形成するに至るのは、「満州事変」の衝撃によるものであった。まず右派の社会民主党では、赤松書記長が、日本民族の生存のためにも社会主義国家建設のためにも、満蒙権益の確保は絶対に必要だと主張しており、31年11月22日の中央委員会では、ブルジョア本位の満蒙管理論と共産主義的公式論にもとずく満蒙退却論に反対し、満蒙権益の社会主義的国家管理を唱える決議が採択された。それは軍部の「満州事変」路線への屈伏を意味するものにほかならなかったが、赤松らはこれに満足せず、さらに党の方針を国家社会主義の方向に転換させようとし、結局分裂して32年5月、日本国家社会党の結成へと走ることになった。

  これに対して、無産運動の合法左派を代表する全国労農大衆党の場合には、九・一八柳条溝事件当時にはまだ「帝国主義戦争反対」の主張が根強くうけつがれていたが、しかしそれも党内に赤松派に呼応するような国家社会主義の主張が生まれるとともに、急速に崩壊しておった。すなわち同党は事件直後の9月29日には「対支出兵反対闘争委員会」(委員長は最初、大山郁夫、大山病気の故をもって辞任し、堺利彦に代る)を発足させ、同委員会は翌30日、帝国主義政策に断乎反対し、「即時撤兵・対支内政絶対非干渉」を要求するとともに、「軍部の跳梁に向っては徹底的に抗争」する旨の声明を発した。しかし11月になると、満蒙視察議員団の一行に加わって帰京した同党代議士松谷与二郎が打出した出兵支持・満蒙権益擁護の主張によって、党内は大きく動揺するに至った。同党主流が右傾する時流に抗して、なお戦争反対立場を守ろうとしたことは、32年3月の中央執行委員会が、反ファッショ・帝国主義戦争反対の方針を確認し、極力党員の転向を防止しようとしたことからも知られる。しかし共産党と共通する「帝国主義戦争反対」のスローガンに対する圧迫は急速に強まっており、そうしたなかで、32年5月今村等・望月源治らの中央執行委員が国家社会主義を掲げて脱党するに至ると、党主流においても、社会民衆党との合同論が支配的となってゆくのであった。

  32年5月、社会民衆党から脱党した赤松らと、全国労農大衆党から脱党した今村等らの握手によって、日本国家社会党が結成されたのに対して、同年7月社民・大衆両党は合同して社会大衆党を組織する。社会大衆党の結成は新たに形成された国家社会主義陣営に対抗して、ともかくも社会民主主義の線で無産運動を維持しようとするものであり、無産運動の後退を反映したものにほかならなかった。もはや「帝国主義戦争反対」の声は、合法組織からは聞かれなくなっていた。一方、国家社会主義への転向派は、前述した行地社・日本国民党・全日本愛国者共同闘争協議会などで活躍した右翼活動家と握手しながら、日本国家社会党をはじめ、新日本国民同盟(旧社民・下中彌三郎)、新日本建設同盟(旧労農大衆・松谷与二郎)などを32年中に結成していった。また協力内閣を提唱した安達謙蔵も、中野正剛らとともに民政党を脱党して国民同盟を結成(32年9月)し、この陣営に加わっている。

  こうした形で形成された国家社会主義勢力とは、端的にいえば、総動員政策推進のための圧力団体にほかならなかった。たとえば赤松克麿は、脱党直前の32年4月の社民党中央委員会において、片山哲らが提出した三反綱領(反共産主義・反資本主義・反ファッショ)による無産政党の合同という方針に反対し、「社民・大衆両党の合同のみでなく、現在の無産政党が包含し得ざりし反資本主義的分子をも糾合し、広く一般的大衆を包含せる一大政党を結成しなければならぬ」(1)と主張している。ここで言われている「現在の無産政党が包含し得ざりし反資本主義的分子」が、反資本主義的姿勢を示していた右翼勢力を指すものであるということはいうまでもなく、さらにその根底において、軍部「革新」派を反資本主義的と評価していることは明らかであった。そして彼のいう「国家社会主義」とは、国家権力による上からの統制体制の確立をいみするものにほかならなかったが、この理論からは現実には、すでに政策決定の主導権を握りつつあった軍部「革新」派の権力掌握を支援し促進するという活動形態しか生れる余地はなかった。そしてそれは、たんに無産運動からの転向者を代表するばかりでなく、この時期の右翼勢力一般のあり方を指し示すものでもあった。したがって国家社会主義陣営の形式とは、質的には新たな右翼の形成を意味するものではなく、従来の右翼勢力がさまざまな勢力を吸収しながら、総動員路線の支援組織として定位したことを示すものにほかならなかった。

 

(1)

 内務省編『社会運動の状況・昭和七年』641頁



  以後の右翼勢力の主要な活動形態は、「満州国」建設の呼号、大資本に対する統制の要求、農村救済運動、自由主義的あるいは反軍的傾向の圧迫、軍部への激励といった形で展開されてゆくのであるが、しかし現実の総動員体制は、「満州国」の実権を握った軍部の手によって、日満経済ブロック=国防国家建設の観点から、彼等とは直接の関係なしに推進されてゆくのであり、したがって軍部の地位が強まるとともに、右翼の役割は、軍部の院外団あるいは応援団的なものに落ち込んでいったといいうるであろう。そして右翼運動が現実の政策決定とかかわりえない形で進行するという状況のもとでは、「国家社会主義」を掲げることの意味もうすらいで行った。33年に入るや、国家社会主義からさらに、階級闘争を否定する全体主義としての日本主義に転じて、日本国家社会党を解体させてしまった赤松の動きは、ここでもまた、右翼の状況を象徴するものといえた。

  こうした右翼運動の状況は、大正末年以後総動員政策とともに拡大されてきた民衆動員組織が、「満州事変」によって活発に動き始めたことと表裏の関係をなしていた。政治路線の変更を求める闘争ではなくて、すでに軍部によって切り開かれた路線の上に民衆を動員する運動においてならば、民間右翼の大衆動員よりも、地方行政機構と密着する形ですでに全国的に形成されている在郷軍人会・青年団・教化団体などの方がかるかに有力であった。これらの団体は、柳条溝事件以後、すぐさま「満蒙権益擁護」の宣伝や、軍事献金、軍隊慰問などの行動に立ちあがっていた。それは直接に、あるいはマス・コミによって増幅された形で大きく民衆を動かして行った。 「満州事変」はまた、発足したばかりのラジオやニュース映画をもふくめたマス・メディアの民衆動員力を実証した点でも重要であった。新聞社の主催するニュース映画と講演の会が人気をあつめたように、ニュース映画の上映は人集めの絶好の手段となった。戦勝のニュースを求めて競争し、軍国美談の形成に奔走するマス・コミの活動は、民衆動員の上で巨大な力を発揮し始めていた。(1)こうした民衆動員のありさまを簡単な数字でみると、作戦開始後1年間の献金458万1700円、慰問袋188万4900個、葉書類337万2000枚、慰問文98万2000通、飛行機50台・高射砲25台をはじめとする国防検品が金額にして587万7800円に達している(9・10現在の陸軍省の集計。東朝、昭7・9・18)。また32年2月に朝日新聞社が懸賞募集した「肉弾三勇士の歌」は、応募総数12万4561通という空前の記録をつくっていた。(2)(東朝、昭7・3・15)

 

1)

 この点については、江口圭一氏の論文「侵略戦争とファシズムの形成」、『講座日本史』第7巻所収、71年5月、東大出版会。及び、「満州事変と大新聞」、思想、73年1月号などを参照されたい。

 

(2) 

 のちに日中戦争が全面化した37年9月、内閣情報部が行なった「愛国行進曲」の懸賞募集に対する応募総数が5万7500余首であった(「週報」56号、昭和12・11・10) のとくらべてもこの数字の大きさがわかる。



  「満州事変」下の状況は、ここでの問題に即していえば、軍事行動による対外的緊張感の造成、それに呼応する在郷軍人会など半官的諸団体の活動、マス・コミによるこうした状況の増幅作用という三つの要素の複合による民衆動員の成功として捉えねばならないであろう。したがって以後の民衆動員政策が、この状況を持続させることを1つの軸として展開されることになるのは必然であった。すなわち、弾圧対象の拡大を基底としながら、「非常時」のシンボルによる緊張感の持続、マス・メディア統制の強化、在郷軍人会・青年団・教化団体などの拡大・強化といった政策が意識的に遂行されることとなる。しかし国家総動員という観点からすれば、これだけではまだ不足であった。「満州事変」は戦争に対する民衆の協調的気分や追随的態度を一般化することには成功したが、総動員政策はさらに進んで民衆の日常生活を直接に、権力の要求のままに動かしうる形で、把握することを必要とするものであった。次の段階で要請されるのは、民衆の画一的組織化であった。



5、官僚主導の組織運動(1)

1932年、五・一五事件以後、「非常時」という言葉が、たちまちのうちに流行語となった。6月3日第六二臨時議会冒頭の施政方針演説で、斎藤首相は「現下の時局は、世人がこれを称するに『非常時』の形容詞をもってしまするほど重大であると考へます」と述べて、「非常時」を積極的に肯定する態度を打出した。もちろんその基底となっているのは、満州支配をめぐる国際的孤立の深まりであった。すでに2月29日リットン調査団が来日すると、それに挑戦するかのように翌3月1日には、傀儡国家、「満州国」の建国宣言が発せられている。それは容易には引返すことのできない戦争への道に踏み込んだことを意味するものであり、それに対応するための総動員体制の確立が、政策の中心の明確に位置づけられてくるのであった。たとえば32年8月27日の閣議で決定された「時局処理方針」は、国際関係が悪化し「勢ノ赴ク所、連盟側ヨリ又ハ列国共同シテ帝国ニ対シ重大ナル現実ノ圧迫ヲ加フルカ如キ事態」の発生を想定し、「政府ハ斯ノ如キ場合ニ備フル為メ早キニ及ンテ軍備ノ充実、非常時経済及国家総動員ニ付テモ充分ニ考慮ヲ加ヘ断乎タル決意ト周到ナル用意ヲ以テ今後ノ事態ヲ処理」(1)しなければならないとするものであった。軍備の充実・非常時経済・国家総動員と並べられたこの政策目標が、全体としていえば、総動員体制の確立を志向するものであることはいうまでもあるまい。

 

(1)

 外務省編『外交年表並主要文書』下巻206頁



  しかし、「非常時」とは、たんにこうした対外関係だけを指したものではなかった。むしろ直接には、大恐慌によるさまざまな混乱が、対外的緊張感によって増幅されるという状況を反映していた。さきの斎藤首相の演説も、「深刻なる経済上の不況は、今なお回復の曙光を見難く農村の困ぱいと都市の沈滞とは共に益々甚だしからんとするの状況であるのみならず、近時兇変相ついで行われ、人心極めて不安、まことに重大なる危機と申さなければなりません」とつづいている。したがって「非常時」政策とは、大恐慌―とくにその重圧がしわよせされている農村恐慌を、総動員体制確立の方向で収束すると同時に、対外的危機にも対処しうる体制をつくり出すことを目的とするものとならねばならなかった。そしてそれ故に、当面の「非常時」政策の焦点となった農村政策に「おいても、単なる救済ではなく、新たな組織化を内包する形での「生活改善」がめざされることになるのであった。

  32年後半期には、農村救済問題に大きな社会的関心がよせられるに至っているが、その直接のきっかけを作ったのは、自治農民協会(長野朗ら農本主義者の組織)が提唱した農村救済請願運動であった。彼らは他の組織をも加えて「三ヶ条請願期成同盟会」をつくり、第六二臨時議会(32・6・1−14)にむけて、(一)農家負債3か年据置、(二)肥料資金反当り1円補助、(三)満蒙移住費5千万円補助という3か条の実現をめざす請願運動を展開した。この3万2千名の署名を集めた(1)(東朝、昭7・6・3)請願運動は、新しい運動形態として注目され、各種農業団体や社会運動団体が請願運動に立ちあがることとなる。これらの請願の中心は、農村モラトリアムの実現ないしは国家補助の増額を要求するものあり、政府側も町村直営事業を中心とする土木事業を実施して、ある程度は農村に対する国家資金散布の要求にこたえねばならなかった。

 

(1) 

 三ヶ条請願期成同盟会が集めた署名数については、内務省編『社会運動の状況・昭和七年』929頁では、32年6月末で1府13県にわたり、1万8千800余名であったと記されている。



  しかし、政府側はこれを機会としてこうした応急措置的な政策をこえて、農村の組織化を企図し始めていた。政府側がとなえた「自力更生」のスローガンは、たんに、軍事予算の急膨張によって財政支出制限しなければならないという消極的な側面をあらわしているだけのものではなく、経済更生計画の作成と実行を通じて、農家の組織化を進めようとする積極的な政策を内包するものであった。たとえば32年10月6日、農林大臣後藤文夫が、道府県あてに発した訓令「農山漁村経済更生計画に関する件」(1)は、農村疲弊の原因がたんに「内外経済界の異常なる不況」にあるばかりでなく、さらに「深く農村経済の運営及組織の根底に横は」っているとし、したがって一時的な「応急的匡救策」のみでは農家経済を安定させることはできないと述べる。そして根本的な対策を「之が為には農村部落に於ける固有の美風たる隣保共助の精神を活用し、其の経済生活の上に之を徹底せしめ、以て農山漁村に於ける産業及経済の計画的組織的刷新を企図せざるべからず」という形で提示していた。

 

(1)

 産業組合史刊行会編『産業組合発達史』第3巻327頁



  そこでの中心目標が、「隣保共助」の関係を基礎とする農村経済の計画化・組織化におかれていることは明らかであろう。そしてそれはさらに農村負債整理組合法(六三議会審議未了、六四議会で成立)のなかに、「第一条、負債整理組合ハ隣保共助ニ依リ組合員タル農業者、漁業者、又ハ林業者ノ負債ヲ整理シ其ノ経済ノ更生ヲ図ルヲ以テ目的トス」という条文を生み出すにいたっている。法律の条文中に、「隣保共助」などという用語があらわれてくるのは、農政のあきらかな転換を示すものといえた。それは具体的には、町村の下の「部落」のレベルにおいて、農民を組織化し把握してゆこうとするものであった。負債整理組合法でいえばその第四条に、「負債整理組合ハ一定ノ地区内ニ居住スル者ヲ以テ之ヲ組織ス、前項ノ地区ハ部落其ノ他之ニ準スル区域ニ依ル」との規定を見出すことができる。

  もちろんそれは、部落レベルでの組織化という点だけからいえば、すでに第一次大戦後の不況下において次第に全国化した道府県による「農家小組合」奨励の方向をうけつぐものであった。農家小組合とは、任意団体としての部落的小組合であり、地方により農事小組合、農事実行組合、農家組合、農事組合など種々の名称で呼ばれた一般組合と、採種・貯金・副業・養鶏・共同作業・出荷などの特定の事業を目的とする組合との総称であるが、その数は次の如く大正末年以降に急増している。

年次

組合数

組合員数(人)

1925(大14)
1928(昭 3)
1933(昭 8)

79,690
157,439
235,036

1,876,561
2,763,156
7,525,093

 

農林省『農家小組合ニ関スル調査』昭和5年3月刊、及び昭和11年3月刊による。年次は4月1日現在

 これらの小組合の場合には、組合員は一戸一人とは限らず主婦も参加している場合もあり、また同一人が地域組合と事業組合とに重複して加入している場合もあるので、組織率は算定し難いが、33年段階になると550万戸台の農家戸数の過半数が、何らかの小組合に加入していたとみることができよう。33年4月の調査では、全く農家小組合の存在していないのは575市町村、総数の5・5%にすぎなくなっていた。「自力更生運動」は極めて大まかにいえば、こうした農家小組合の拡大・強化を基礎として産業組合による農村全体の組織化をはかることを縦軸とし、町村有力者および既成教化団体を総動員して経済更生計画を作成・実施することを横軸とするものであった。つまり、更生計画の樹立には町村役場を中心に当該町村の有力者を網羅した町村経済更生委員会があたり、その実行は部落の組織が主体となり、農事改良などの技術面では農会、販売・購買・信用・利用などの経済行為については産業組合を通じて行なうというわけであるが、ここでの問題としては、さらにこの間に教化運動団体を介入させて「生活改善」を方向づけることが企てられている点に注目しなくてはならない。前出の後藤農相の訓令も「精神教化運動との連絡協調を密」にすることを求めているが、この問題は32年11月28日農村経済更生中央委員会が決定した「農山漁村経済更生計画樹立方針」(農林大臣への答申)になると、次のように具体化されていた。

 

「経済更生計画の実行に当りては、農山漁家は協力一致し、自奮更生、隣保共助の精神に基き、其の効果の徹底を期せざるべからず、之が為には、学校及青年団、婦人会、教化団体、在郷軍人会等の教育教化の機関は能く産業経済の各種機関と連絡し、精神作興の任に当るべきものとす。」(前出『産業組合発達史』第3巻、336頁)

 このことは農村更生の当面する中心問題の一つとされた消費節約→生活改善の内容を、国体イデオロギーと総動員政策をうけいれるものとして性格づけようとする意図を示すものにほかならなかった。いわば、自力更生運動は総体としてみれば農民を部落単位に組織し、その組織に青年団・在郷軍人会・教化団体などといった「たが」をはめることによって、農民を総動員路線にのせてゆこうとする意図を内包するものであった。それはいいかえれば、自力更生運動が民衆動員のための組織化の問題を提示したということでもあった。

  そこでは「満州事変」以前のように、半官的諸団体を動かすことによって民衆を動かそうとする間接的な動員方式にかわって、官僚が主導する部落レベルでの民衆の組織化を軸とし、その周囲を半官的諸団体で固めることによって、民衆を部落組織につつみ込んだ形で国策の要求する方向に追いたててゆくという新たな動員方式が姿をあらわし始めていたということができる。もちろんその全面的展開が、権力内部における軍部の主導性の強化=全体的な総動員政策の確立および民衆の側における抵抗力の喪失という条件と相関関係にあったことはいうまでもないし、また、自力更生運動だけによって、こうした動員方式が確立されたわけでもなかった。しかしともかくも、自力更生運動は「満州事変」による全体的な政治状況の変化に対応しながら、民衆動員政策展開への新たな展望を開いた点で注目されねばならないであろう。

  当時の無産運動の側も、こうした問題に決して無関心ではなかった。たとえば合法左派の全国農民組合はその運動方針(32年8月作成)に、「農会・農事実行組合・産業組合その他の反動的農業団体対する闘争」・「青年団その他の反動組織・教化運動に対する闘争」(1)を掲げていたし、また共産党の強い影響下にあった全農全国会議の行動綱領(32年1月作成)は、「全販購連・産業組合・農会・農事実行組合ノ解体ト階級的生産及消費組合ノ組織」・「青年訓練所・補習学校ノ廃止、官製男女青年団・消防組・在郷軍人会ノ解体」(2)などを叫んでいた。しかし弾圧による左派の潰滅と、右派の国家社会主義への転向という状況のもとでは、こうした闘争を有効に展開することはできなかった。そしてむしろ急速に勢力を伸ばしてきた産業組合運動に同調するなかで、自らの組織と地位を再建し確保しようとする方向に転じていった。

 

(1)

 『社会運動の状況・昭和七年』1138―9頁

 

(2)

 同前、1158頁



  合法無産政党の組織を維持しようとする右よりの統一によって成立(32年7月)した社会大衆党は、32年12月の第一回全国委員会では「経済恐慌ノ深刻化ニヨル大衆窮乏ヲ建設的ニ防衛スルタメニ労農結合ノ階級的戦列ニ更ニ広汎ナル中間層ヲ動員組織スル方法トシテ協同組合運動ヲ強力ニ促進スル」(1)方針を決定する。そしてさらに翌33年7月の中央執行委員会では、これまでの、小作農を組織対象とする「部分農民運動」を、自作農・自小作農をもふくめた「全体農民運動」に発展させなければならないとの方針(2)を採択した。同方針は「市町村農会の多数獲得に努力し、更に農業協同経営を目標として、共同販売、共同購入を職分とする農村共同組合運動を展開」することを指示しており、社大党本部は、「日本農村共同組合協会」とそれに付属する「中央物産斡旋所」の設立を企てるに至っていた。それは、明らかに自力更生運動への追随であり、逆にいえば新たな組織化路線への基本的な抵抗が消滅したことを意味するものにほかならなかった。

 

(1)

 『社会運動の状況・昭和七年』671頁

 

(2)

 「全体農民運動方針大綱」『社会運動の状況・昭和八年』562―4頁



  しかし、自力更生運動が農村での組織化を進展させたとしても、その力は都市には及び得なかったし、その内実においても、部落組織の主たる関心は農家経済の更生といういわば内側にむけられていたといえる。したがって国家総動員の観点からいえば、部落・隣保的組織の全国化とともに、その関心を外=国家の方向にむけかえ、国家の要請に敏感に反応する行動様式をつくりあげるための運動をつみ重ねてゆくことが必要であった。しかし既成権力機構の内部で軍部が主導権を獲得してゆくという状況転換のあり方のもとでは、実際の組織化においても旧慣尊重が絶えず唱えられたように、既存の価値体系をラジカルに崩壊させる運動は排除されねばならず、したがってこうした要請を一挙に実現することをめざすトータルな運動はほとんど成立する余地がなかった。そしてそれ故に、選挙粛正運動や国対明徴運動が、民衆動員政策の課題を部分的に担わされてゆくという状況があらわれてきたのであった。



6、官僚主導の組織運動(2)

元来は総動員政策とは無関係に発足したはずの選挙粛正運動が、民衆組織化政策の一端をになうようになるのは、自力更生運動の展開のうえに、さらに34年10月陸軍省が「国防の本義と其強化の提唱」を発表して総動員政策を正面から打出し、「国防国家」のスローガンが流通しはじめてからあとのことであり、国体明徴運動ともからみ合う問題であった。しかし、この運動のなかに、最初からこうした方向に発展する要素があったことも事実であった。

  選挙粛正の直接の目的は、選挙に金のかからないようにし選挙の腐敗を防止するという点にあり、28年の最初の普選の直後から選挙法改正問題として、たえず論議されてきたことであった。自力更生を唱えた斎藤内閣は、この問題にも手をつけ、32年7月には選挙法改正のための法制審議会が発足する。その結果34年3月の第65議会で改正選挙法が成立しているが、この間の法制審議会の論議の焦点は、比例代表制の採用と選挙公営のどちらかをとるかという点にあった。政府も最初はこうした審議会の情勢を考慮して、比例代表制と選挙公営の強化との両面をもり込んだ改正案を作成したが、枢密院(1)の反対にあうと比例代表制を削除し、選挙公営強化だけを内容とする選挙法改正を実現させたのであった。そしてこの選挙公営論を媒介として、選挙粛正運動は総動員政策の一部としての民衆動員の問題につらなることになるのである。

 

(1)

衆議院議員選挙法は「憲法附属の法令」(大日本帝国憲法にその名称が記されている法令)として、草案の段階で枢密院の審査を経ることが必要とされていた。



  当時一般に「選挙公営」と呼ばれたのは、選挙運動を公的機関が援助もしくは肩代りすることであり、男子普通選挙を実現した大正14年の改正法で選挙用の無料郵便・公共施設の演説会場としての使用許可を規定したのが最初であった。そしてこの昭和9年改正法では、さらに選挙公報を発行する制度が定められた。しかし「選挙公営論」の特徴は、たんにこうした公営部分の拡大を要求するだけでなく、公営の拡大しただけ個人の私的な選挙運動を排除していこうとする点にあった。法制審議会の場でも主張されたように、このような公営論をつきつめてゆけば、権力が管理・運営する規格化された運動以外には一切の私的な選挙運動を禁止すべきだという議論に発展することになる。選挙法の上からいっても、わずかな部分とはいえ公営制度を発足させた大正14年法が、選挙運動を基本的に候補者─選挙委員─選挙事務員という規格化された運動員のみに制限する制度をつくり出した最初のものであった。そしてこの選挙運動への制限は、昭和9年法において選挙公報の発行などと引きかえに、さらにきびしいものとなっていった(たとえば、大正14年法で候補者1人につき7箇所まで認められていた選挙事務所の開設は、昭和9年法では原則として1箇所、例外も3箇所以内と削減されている)。

  選挙公営論のこうした自由な選挙運動を否認しようとする傾向は、利害関心に訴える組織化というブルジョア民主主義の基本的な方法への反感とうらはらであった。したがってそれは、容易に、政党による組織化活動そのものを、腐敗の原因として切り捨てようとする方向に発展することになり、その点で国体明徴運動と握手することになるのであった。35年5月「選挙粛清委員会令」が制定され、国体明徴運動が吹きあれるなかで、同年秋の地方選挙をめざして、選挙粛清運動が発足する。それは、選挙のなかから投票行動だけを切り離して、官僚の指導のもとに画一的に組織化しようとするものといえた。「選挙報告」・「選挙愛国」のスローガンのもとに、選挙権は権利ではなくて義務だという主張が、「選挙は陛下の御下問に奉答する事だ」(1)といった形で正面から打出されることとなる。それは選挙に政策を選択する場という意味よりも、挙国一致を実現する過程という意味をより強く持たせようとする方向を志向するものであった。

 

(1)

 田沢義鋪「昭和維新の国民的試煉」、「斯民」第30編第8号、昭和10年8月



  選挙粛清運動は具体的には、各府県におかれた選挙粛正委員会の意見にもとずいて、地方官庁が選挙粛正のための組織づくりに狂奔するという形ですすめられた。郡・市町村段階で選挙粛正会がつくられるというのが一般的なやり方であったが、運動の実際においては、自力更生運動で整備されてきた部落組織の動員が基本的な方法とされた。「部落懇談会」を徹底的に行なうことが運動の主目標となったが、その際、神社における宣誓式という形式の普及がはかられていることに注目することが必要であろう。

  運動の具体例を茨城県にとってみると、(1)まず6月20日県の選挙粛正委員会で運動方針を決定、ついで6月末までに実行機関として、各町村長及び警察署長を委員とする郡選挙粛正会、市町村会議員・区長・農会長・産業組合長・消防組頭・在郷軍人分会長・男女青年団長・小学校長等を会員とする市町村選挙粛正会が組織される。このレベルの組織が短時日にできあがるのは、これらのメンバーがすでに農村更生計画作成などの段階で組織化されていたことから理解できる。郡・市町村選挙粛正会の組織がおわると次に実践段階として7日から町村講演会・部落懇談会が実施されている。まず町村講演会は原則として中・小学校の講堂、例外的に劇場を使用し、会場には常に「日の丸の大国旗を掲げ、開会するや国家斉唱・憲法発布の勅語奉読・町村選挙粛正会長の挨拶・県の部長又は課長の講演・協議・天皇陛下の万歳三唱を以て閉会すると云ふ順序方法」で行なわれる。次に部落懇談会の方は「神社に於て行ふを本体とし、場合に依り学校・寺院・集会所・区長の宅などを充て」、町村講演会ほど形式ばらないが、選挙粛正の決議や宣誓をもって終るということになっている。

 

(1)

 山本秋広(茨城県総務部長)「茨城県における選挙粛正運動の現況」・「斯民」前掲号



  こうした運動の進め方は大同小異であり、このほか、関係者一同が神社で宣誓する「選挙粛正祈願祭」の類が広く行なわれていることからみても、この運動が天皇崇拝や国家意識の高揚に主眼をおき、選挙を国家的行事として演出しようとしたものであったことがわかる。そしてそのことによって自力更生運動で形成されてきた部落組織に「報国」の性格を植えつけることをねらっていた。したがって広島県で「各部落を単位として選挙粛清組合の如きものを組織せしむること」(1)という方針が出されているように、「選挙粛正」を目標とする恒久的組織化が志向されることになるのであった。

 

(1)

 広島県選挙粛正委員会の知事に対する答申、安岡正光(広島県総務部長)「広島県選挙粛正運動の現況」、「斯民」前掲号。



  しかし、この運動が農村における既成の組織を強める力とはなりえたとしても、都市において独自の組織化を進める力を持ち得たかどうかは疑問である。都市においても何段階かの選挙粛正組織がつくられてはいるが、農村における部落懇談会に対比すべき活動はみられないのであり、またこの選挙粛正運動が都市における町会組織の整備を格別に進展させたという形跡もみられないのであった。つまり都市においては小規模農業経営といった形での組織化ための共通項を見出すことが困難であり、総動員政策にみあうような全体的組織化は、地域的にも職域的にも、農村の場合よりもはるかに強権的な形で遂行されざるを得なかった。そして地域的組織化は防空問題を軸としてある程度の進展をみるのであるが、職域的組織化にいたっては、全体的な国民再編成のイデオロギー的展開と不可分であり、そうした動きがみえてくるのは、36年の二・二六事件以後のことであった。つまり、都市の組織化は農村の組織化にくらべて著るしく立ちおくれているのであり、日中全面戦争以前に具体化したのは、防護団の結成だけだったように思われる。

  防護団についての資料は現在のところ極めて不十分であるが、32年9月1日(震災記念日)の東京市連合防護団の結成がきっかけとなり、以後各都市に普及していったものとみられる。したがって法令にもとずく組織ではなく、その組織は各地で多少異なっていたと思われるが、東京の場合には次のような形になっていた。

 

「この組織は全市15区を単位とし、在郷軍人、青年団、少年団、女子青年団、各区婦人会、医事衛生団体、方面委員会等を網羅し、その統制機関として東京市社会教育課に団の本部を置き、各区役所内に団体支部を置き、分団長は時の区長がこれに当り各分団は、警備・警報・防火・交通整理・避難所管理・工作・防毒・救護・配給の9班に分れ、出先の軍隊・警察(消防)官憲又は憲兵の指導に従ふという市民総動員の実行団体を構成しようといふ大がかりのものである」(東朝、昭7・8・12)

 そしてこの発団式は9月1日午後3時から代々木練兵場に「各分団から出席した在郷軍人、青年団、少年団、青年訓練所、町内会の人達無慮五万」(東朝、昭7・9・2)を集めて開かれ、式後には対空砲火と爆撃・消火演習を見物している。そしてこの防護団を全面動員して行なわれたのが翌33年8月9日から11日にわたる第一回関東防空演習であった。この防空演習はそれ以前のものとくらべてはるかに大規模であり、国際連盟脱退(33年3月通告)後の非常時意識の高揚をねらったものと思われる。演習の準備として東京市は6月22日から一週間を「防護週間」として各区で「公演と映画の会」を開催し、また7月に入ると各地で大演習のための予行演習が行なわれている。そしてこの間で注目しておきたいのは、全市各戸に献金袋を配布するという形での防空献金運動が行なわれている点である。それは単なる金集めにとどまらず、その配布・回収の過程で町会組織に対する関心を高める役割りを果したと考えられるからである。すでに3年前の29年9月の東京市会の「町会ニ関スル制度調査委員設置ノ建議」にもとづいて発足していた調査委員会がこの時期に至ってはじめて市会に意見書を提出し、6月の市会で可決されていることも、こうした防空演習と町会組織化との関連を示すものといえる。同意見書は理事者に対して「速ニ町会制度ヲ整備シ其ノ機能ヲ完化カラシムべク適当ノ措置ヲ講ゼラレムコトヲ望ム」とともに町会役員に対する表彰制度の制定を求めたものであった。(1)この決議にもとづいて町会並に町会役員に対する表彰が行なわれるようになったことは、町会が半ば公的な制度となりつつあることを示すものであった。翌年以後近畿防空演習をはじめ、各地で防空演習がくり返されてゆくが、それとともに防護団・町会といった都市の組織化に手がつけられていったと考えられる。

  (1)  片岡文太郎「東京市の町会整備に就て」、「都市問題」第27巻1号、昭和13年7月


  こうした組織化は、二・二六事件をきっかけとする軍部の政治的発言力の増大と呼応する形で一層の進展をみせはじめる。たとえば東京市でいえば36年の市会議で町会整備費を求める決議が成立し、以後この経費が増大してゆくことになるし、また政府側も第70議会(36・12〜37・3)に防空法を提出・成立させ(37・4・5公布)、家庭防火群という形での画一的隣保組織の形成を推進する方向に一歩を踏み出していた。さらに職域組織についても、二・二六事件直後には、内閣調査局長官吉田茂(戦後の首相とは別人)の指示にもとづいて、専門調査員南岩男が「労資関係調整策」(1)を作成しているが、それは「既成ノ一切ノ労働組合及雇主組合ヲ解散シ、新タニ日本労働協働団ヲ作」り、「農民(自作・小作ノ農業労働者)モ一切之ニ参加」させるという労働組織の全面的再編をめざすものであり、産業報国運動の発足をうながす役割を果たすものであった。

 

(1)

 『日本労働運動史料』第9、590−94頁



  しかし、こうした組織化を全面的に進展させることは、平時においては極めて困難であったと考えられる。というのは、これまで述べてきたようなさまざまな運動は、総動員政策を漠然と想定してはいても、一方で明治憲法に根拠を求める形で運動の理念をつくり出しており、明治憲法の絶対性を高めるといった効果を生み出していた。たとえば国体明徴運動はまさに憲法解釈を中心として展開されたものであったし、選挙粛正運動の場合にしても、中心的リーダーである田沢義鋪が「万民悉くが選挙に依って之を翼賛し奉ることが出来る此の政治こそ、我が立憲君主政治である」(1)と述べているように主観的には憲法による議会制度を真に発達させるという目的意識にたつものであった。

したがって、全面的な組織化の強行は、のちに大政翼賛会が政治結社たりえず、公事結社として性格づけねばならなかったことに典型的にみられるように、憲法をたてにとった強い抵抗にあうことは必然であった。この抵抗を排除するためには、ファッショ政党による既成制度の解体か、戦争を開始し戦争遂行のための必要を理由とする強行突破かという二つの道しかありえなかった。すでに述べてきたような「満州事変」後の状況からいえば、日本の場合後者の道を歩むしかなかったことは明らかであろう。事実また、民衆動員の組織と体制は、日中全面戦争の長期化とともに進展することになるのであった。

 

(1)

 前掲「昭和維新の国民的試練」





7、日中全面戦争と民衆動員

37年7月の盧溝橋事件を機として、日本軍が中国に対する全面進攻を開始するとともに、これまでみてきたような動員方式がより権力的に遂行されることになった。まずその基礎として、総動員政策をかく乱するおそれのある一切の大衆運動を弾圧し、政治批判をひきおこすおそれのある一切の情報を抑圧するとともに、部落・隣保的組織化と職場の組織化とを組合せながら全民衆を組織する方向が志向された。

  まず大衆運動については、右翼左翼を問わず戦争遂行と関係のない独自の運動はほとんど完全に禁止されたといってもよい。たとえば38年2月、第日本生産党が「農村負債三ヵ年支払猶予請願運動」を企画し内務省に諒解を求めたのに対して、同省警保局は「事変下ニ於テ生活ノ困苦ヲ忍ヒツ丶アルハ独リ農民ノミト謂フヘカラス、都市中小商工業者ノ如キモ一入其ノ感ヲ深クスルモノアリ、斯カル情勢下ニ於テ無批判的ニ農村支払猶予ノ如キヲ大衆ニ呼ヒカケンカ直ニ他ノ方面ニ波及シテ延テハ国民各層ノ不平不満ハ国内ニ瀰漫シ人民戦線的思想ヲ醸成セシメテ遂ニ挙国一致体制ニ収拾スヘカラサル混乱ヲ生セシムルニ至ル虞アリ」(1)としてこの企画を禁止するに至っている。

 

(1)

 内務省警保局安保課『昭和14年4月改正、特高警察例規集』附録、参考通牒編、米議会図書館作成マイクロ・フィルム・内務省関係資料



  また、情報統制については、戦争指導の不統一に関する情報と帰還兵によってもたらされるおそれのある戦場の実情に関する情報とに、特に強い警戒が払われ、したがって情報統制における憲兵の役割りが重要となってきた。日中戦争が全面化した直後の37年8月28日には早くも憲兵司令部は18項目にわたる「時局ニ関スル言論・文書取締禁止標準」を作成・通牒していおるが、そのなかには次のような項目がみられる。

 

一、

我国ノ対支方針ニ関シ政府部内(重臣・閣僚・陸海軍又ハ之等相互間)ニ於テ意見対立シ居レルカノ如ク揣摩憶測スル事項

 

二、

国民ハ政府ノ方針ヲ支持シ居ラス或ハ民心離反シテ国論統一シ居ラスト為スカ如キ又ハ国民倦怠シアリト為スカ如キ議論

 

三、

国民ノ対支強硬決意ハ当局ノ方針ニ盲従セルモノ或ハ当局ニ依リテ作為セラレタル偽作ナリト為スカ如キ事項

 

二、

戦争惨禍ヲ誇張シテ描写シ又ハ徒ラニ感傷ヲ交ヘ戦争ニ対スル恐怖呪詛ヲ必然ナラシムルカ如キ事項

 

三、

応召者家族ノ生活救護ヲ云為スルニ当リ殊更ニ国家又ハ社会的施設ノ欠陥ヲ誇張シ為ニ国民ノ憤懣ヲ誘発シ又ハ兵役義務心ヲ削磨セシムル虞アル事項(同前資料)

  すでに治安維持法は、コミンテルン第七回大会を契機として、共産党とその外郭団体からさらにすべての人民戦線的動向、さらには宗教団体までをも弾圧対象とするように拡大運用されており、37年12月の人民戦線事件以後は、反体制的な勢力は殆んど完全に沈黙させられてしまったといってよい。そして37年8月以来国民精神総動員運動が展開されるに従って、自由主義・個人主義とみられれば「非国民」の罵声が投げかけられるようになった。精神総動員運動とはこうした抵抗勢力の完全な崩壊と右からの威嚇の強化という状況をつくりだしながら、民衆動員のための組織化の課題を果たすことを当面の目的とするものであった。

  近衛内閣が国民精神総動員運動の実施をきめたのは、37年8月24日の閣議においてであり、地方レベルでの実行委員会が組織されて何らかの行事が行なわれるようになるのは、10月から11月にかけてであった。それは行事の面からいえば、戦意高揚、国家公共への奉仕、生産の増強、資源愛護、輸入原料による製品や燃料・エネルギーの節約などを訴えようとするものであり、たとえば東京市でこの年末までに行なわれた主な行事は次のようなものであった。(1)

  10月14日、国民精神総動員大講演会(日比谷公会堂)、同17日、国威宣揚式武運長久祈願祭(明治神宮)、11月3日、皇威宣揚愛国市民大会、同13日―15日、精神総動員中堅人物養成講習会、同28日―12月3日、市内5か所で順次、精神総動員大講演会、12月1日―7日、計量思想普及週間、同10日―17日、納税報告週間、同13日―14日、35区に於て堅忍持久申合会。

  またこの運動の経済面でのねらいは、11月15日より大阪市が実施した「非常時産業運動週間」の次のような設定の仕方(2)のなかに読みとることができる。

  15日、生産力拡大能率増進運動の日、16日、代用品生産運動の日、17日、国産品愛用運動の日、18日、輸出増進運動の日、19日重要資材節約運動の日、20日、冗費省除運動の日、21日、体位向上戸外運動の日。

  こうしたさまざまな行事が、戦争気分を盛りあげるとともに、上からの指令をうけいれてすぐさま行動に移すような行動様式の普遍化をねらったものであることはいうまでもないが、こうした行事のくり返しだけでは、どれほどの実効を持ちうるかは疑問であった。実際にも精神総動員運動の果した役割りをみれば、行事そのものよりも、その実践網の整備という形で行なわれた民衆組織化の方が重要であった。たとえば、「国民精神総動員富山市実施事項」(3)は「市民今後の実践すべき事項」としてとして13項目を列挙しているが、そのうち第三項以下は「三、早起の習慣を養ひ勤労時間の増加、能率の増進を計ること」といった戦時生活の心構えであるのに対して、第一、第二項では地域組織の確立を次のように指示している。「一、各町を適宜に区分し隣保扶助協和団結の実行を挙ぐること、二、各区常会を開き時局生活反省の機会に資すること」と。いまのところ資料が十分でないが、こうした地域組織の確立は、精神総動員の実践の前提として全国的に試みられたと考えられる。そして翌38年4月になると、中央から画一的な組織方針が打出されるにいたっている。

 

(1)、(2)、(3)  「資料・各市に於ける国民精神総動員運動実施要項概観(一)」、「都市問題」第26巻第2号、昭和13年2月



  38年4月17日、国民精神総動員中央連盟では、自治制発布50周年記念日を機として、運動の実践網組織方針(1)を発表し、まず組織化のおくれている都市から組織運動を展開することを企図した。その基本方針は「地理的沿革に基く住民の集団的結束を固め、我国古来の旧慣たる隣保協同、相互教化の美風を発揚し、以て此の時局に対処するとともに、地方自治運営の根基を鞏固ならしめる」というのであり、自力更生運動における「隣保共助」の発想をうけついだものといえる。そして具体的には、農村では5戸ないし10戸、都市では5戸ないし20戸という画一的な規模で実践班をつくり出そうとするものであり、これまで末端組織として問題とされてきた部落や町会をさらに細分して「相互教化」の徹底をはかろうとするとともに、この画一化の方向を打出した点が、これまでの末端組織運動とは異なる新たな特徴をなしていた。のちに40年9月11日、内務省は訓令第十七号として「部落会町内会等整備要領」を地方長官に通達しているが、その内容はこの実践網組織方針を骨格とするものにほかならなかた。

 

(1)

 「国民精神総動員運動に於ける『実践網』」、「都市問題」第27巻1号、昭和13年7月



  しかしこうした実践班の組織化は、当時、「時局の進展するにつれて防空・防火の非常時対策が真剣に考へられなければならなくなって来た。此の場合において小地域団体の働きと云ふものが必然の要求として生れて来たのである」(1)と述べられているように、末端では直接には防空・防火のためのものとして強く意識されていた。つまり焼夷弾攻撃を想定した場合、隣保的消火作業のためには、10戸内外を単位とすることが適正規模と考えられたのであり、この観点が画一的組織化をうけいれさせるための重要な契機となったといえる。政府もまた予定を早めて10月1日より防空法を施行してこうした方向を促進しようとしているのであり、まさに国民精神総動員運動のめざした組織化は、都市においては防空法の施行によって支えられながら進行したのであった。防空法は、知事または知事の指定する市町村長に、それぞれのレベルで設立される防空委員会の意見を徴して防空計画を作成することを義務づけるものであり、この防空計画の作成・実施にあたっては、末端を担う家庭防火群の組織が前提とされるのであるが、それはちょうど精神総動員運動の実践班とかさなるものであった。

 

(1)

 前掲、片岡文太郎「東京市の町会整備に就て」



  しかしこうした家庭防火群・実践班・隣組などの組織方針が出されたにしても、実際には、その組織化を指導すべき町会事体が整備されておらず、したがって町会整備の方を先行させなくてはならなかった。38年は、1月16日の「爾後国民政府を対手とせず」との近衛声明によって、日本が長期戦の泥沼に足をふみ入れた年であり、政府も国家総動員法を成立させ(4月1日公布)、物資動員(物動)計画を発足させてこの事態に対応しようとしていた。そしてこうした状況を背景として、都市における町会整備運動がようやく本腰を入れて着手されていった。たとえば大阪市は1月15日に新町会結成方針を発表し、町会の全面的再編にのり出している。そして当時極めて不規則な形で乱立していた町会を廃止して、町または丁目の区域を単位とする町会を新設し「この単位町会は一応小学校の通学区域毎に連合し、更に各区に連合会を設け、更に単位町会の下には、家庭防空組合等に準じ10戸又は20戸を単位とする班又は組を設け」るという作業が全市的規模で行なわれ、「町会の結成をして真に精神総動員運動の中心的行事たらしむるに至った」(1)のであった。東京市の場合には、4月17日に「市長告諭」とともに「東京市町会基準」が、さらに5月14日には「東京市町会規約準則」が告示され、町または丁目を単位とする町会、隣接する5世帯ないし20世帯による隣組の結成がすすめられることとなっている。

 

(1)

 大塚辰治「時局下に於ける大阪市の町会整備運動」、「都市問題」第27編1号、昭和13年7月、なおこの論文は整備運動以前の大阪市の町会について次のように述べている。「大阪市にあっても相当古くからこの種の町内会は自然的に発生し、一定の会費を積立てて春秋二季の遠足会となり、物見遊山となり、酒に弁当に懇親的行事は自ら繰り返されていた。そしてその数は一昨年に3千余に達していたが、その行事は前述のやうに全く私的な懇親本位であり、しかも、自然的の発生に委してあるため、全く地域的の要素は失はれ、人本位の結合となり、或は趣味により、或は職業により、或は感情により、或は他お目的のために結合せられたものである。だから同一町内に2以上の町内会があり、20数個の団体が入り乱れ、同一人が数個の町内会に加入し、数個の町内会を牛耳るかと思ふと、これに加入せない人の数が却ってが多いといふ誠に不規則な集合体であった。」 



  こうした地域的組織化の進展とともに、職域組織化の方も具体化しはじめてきた。そしてこの場合には、従来労働争議の取締や調停を行なってきた警察が積極的に動いていることが注目される。まず37年12月、愛知県工場課長荒川又市が中心となって作成した「時局対策労資調整案」が警察部案として発表され、翌38年2月には、さらに同案に再検討を加えた警察部公案が作成された。そしてこの月には、警視庁調停課も「意思疎通施設の代表的形式」と題する通牒を各事業場に発して、労資協同組織の結成を勧告する、翌3月には協調会時局対策委員会が「労資関係調整方策」を発表し、結局協調会と官僚の合作の形で7月に産業報国連盟が成立し、職場での産業報国会結成運動が展開されてゆくことになる。この運動は「産業は事業者従業員各自の職分で結ばれた有機的組織体であり」、「事業は単に自家の繁栄又は幸福の為にのみ存するのではなくさらに進んで、皇国の発展の為に存在している」のであるから「事業一家家族親和の精神を高揚し、以て、国家奉仕の為に各々自己の職分を完うしなければならぬ」(協調会「労使関係調整方策」)とする理念をかかげたものであった。政府もこの運動を積極的に支援し、8月24日には厚生・内務両次官連名の通牒を発して、地方長官に管下各事業場に産業報国会の設置を勧奨することを命じた。

  各事業場における産業報国会とは、事業主・従業員双方を含む全体組織であり、その中心に労資懇談のための委員会をおくという形が考えられていた。したがって「産業は有機的一体」といった理念が高唱されたとしても、実際には従来の社長がそのまま産業報国会の会長になるという点に象徴的なように、産報運動は企業組織には何らの改変を加えるものではなく、産業報国会は労資紛争を抑圧し労働能率を向上させるための労務管理組織にほかならなかった。しかし40年7月に新体制運動がおこるまでともかく組織を維持した日本労働総同盟などの労働組合も、もはや産報運動に抵抗する力はなく、産報組織は急速に進展していった。

  農業面においても、38年10月には農業報国連盟が結成されたが、この方は帝国農会・産業組合中央会・全国山林会連合会などなど7団体を会員とする、いわば既成全国組織の連合体であり、これらの団体が国策への服従の姿勢を示したものであって、新たな組織化を企図したものではなかった。このことはすでにみてきたように、農村における組織化が一歩先行していたことを示すものにほかならなかった。

  こうして、徐州作戦や武漢作戦の戦勝のニュースが華々しく伝えられた38年には、地域・職域の両面からする組織化の基本線ができあがったとみられるのであり、政府はこうした組織に指令を流すことによって、民衆をその望む方向に動員することが可能になったといえる。そして大まかにいえば、地域では節約・貯蓄、職域では増産を目標とした動員が行なわれたのであった。

  しかし、戦争の長期化によって、軍需の要求がさらに増大し、動員の絶対量の拡大が要求されてくると、これまでみてきたような、残存する共同体意識の利用あるいは擬制といった形の組織化を基礎とした動員方式では間に合わなくなるという問題に直面しなければならなくなった。つまりそこでは権力によって国民を個人として直接に把握し、権力の必要のままに動かすことが必要となってくるわけである。そうした局面は39年に至って表面化してきた。この年から政府は労務動員計画を発足させねばならなかったが、その運用のためには、国民一人一人の能力を掌握し、それを必要な職場におくり込むことが必要であった。そのために徴用制度がつくられ、労働者の自由な移動を禁止し、職業能力の申告が強制された。そしてそのことは、新しい形の国民組織の再編が求められていることを意味するものでもあった。

  近衛文麿によって口火を切られた新体制運動は、こうした状況をどれだけ適確に捉えていたかは問題であるにしても、ともかくもこうした課題にとり組もうするものであったといえる。そしてそれは発足の華々しさにもかかわらず、結局この課題を解きえずにたちまちのうちに後退していった。この過程からは、日本ファシズムを解明するための、基本的な問題点をとり出してくることができると考えられるが、それは、ここでの問題に即していえば、これまでみてきたような「満州事変」以後の総動員政策の展開が、ついに徹底した、一元的な形での総動員体制を築きえなかったことを示しているように思われるのである。