田中内閣の改造
田中内閣は、鈴木喜三郎内相の辞任によって、選挙干渉をめぐる野党攻勢をかわし、かろうじて第五五回特別議会をのり切ったが、議会閉会後にはこの後任内相の補充を中心とした内閣改造問題で、再び大きな動揺にみまわれることになった。
改造問題が大きな政治問題に発展したのは、直接には田中首相が与党・政友会の党内情勢を顧慮せずに、閣僚人事を強行したことに起因していた。田中首相はこの改造の機会に、以前から親交のあった久原房之助を入閣させようとしたが、この人事には党内及び閣内に強い反対の声があがった。久原は日立鉱山を中心にして小コンツェルンを築きあげてきた企業家であったが、政界から言えば、この年の2月総選挙ではじめて 当選した1年生議員にすぎなかった。しかもこの関係企業を手放しての政界入りは、企業経営の行詰りによるものともみられており、とくに震災手形問題で国家に迷惑をかけているという点が入閣反対の大きな理由とされていたようであった。のちの第五六回議会本会議では、民政党の鈴木富士弥議員が「久原氏の不始末一覧表」をかかげて追及しているが(昭和4年1月24日、速記録第5号参照)、こうした弱点をもつ久原を入閣させることは、内閣のためにも党のためにもよろしくないというのが反対派の言い分であった。そして田中首相が久原入閣を強行するや、これに反対する水野錬太郎文相が辞表を提出するという形で対立が表面化 していった。
しかし事態がこうなった以上、田中首相はともかくも、逓相の望月圭介を内相にまわし、後任の逓相に久原房之助を起用するという予定の改造を実現したあとで、改めて文相の後任を考えるものと観測され、新聞も後任文相の顔ぶれを取沙汰し始めていた。ところが、昭和3年5月23日午後4時に望月内相・久原逓相の親任式が行われると、つづいて水野文相が参内し、退出後、『益々国務のため尽瘁せよ』との優詔をうけて留任する旨の声明を発したため、事態は未曽有の混乱におちいることとなった。おどろいた内閣側は翌24日朝、水野文相はすでに22日夜、田中首相に対して辞意をひるがえしており、従って首相は水野文相を留任せしめる旨を上奏するとともに、辞表を「天覧に供し」 たにすぎないとする声明を発して弁明を試みた。すなわち、水野文相の声明によれば、田中首相が閣僚の進退を裁断できなくなって、文相留任のために「優詔」を利用したと解されるのに対して、政府側の声明では、文相はすでに留任することに決していたが、「自分の辞表は陛下に対して差出したるものなれば是非御執奏を願ふ」と強く要望したため、首相は事実上空文となっていた辞表を天覧に供したのだ、ということになるのであった。
この両者の声明は、「第五六回帝国議会貴族院解説」(第一期第一巻所収)に引用しておいたので、ここでは、 野党側の見方として、24日午後に民政党総務会が発表した声明書を引用することにしたい。
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「内閣改造問題の経過は政府および文相の声明する所しばしばむじゆんを極め、朝変暮改して捕捉する能はざるも、今公式に発せられたる政府の声明をたどりて前後を総合すれば、 |
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一、 |
田中首相は国務と私情とを混同し、がうがうたる輿論を排して久原氏を閣臣に列せんとした。 |
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二、 |
これに対しては閣臣中にも反対者あり、就中水野文相は強固なる反対意見を表明して二〇日遂に辞表を提出した。 |
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三、 |
然るに田中首相は二二日文相と会見してその辞意を翻さしめ文相はその進退を首相に一任した。おもふにこの二二日の会見において田中首相は閣内不統一の醜態をびぼうせんがため、水野文相は自己の進退を粉飾せんがため、畏くも聖慮を煩し奉るの計画を運らしたる事跡おほふべからず。 |
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四、 |
即ち文相は既に進退を首相に一任しながら、尚『辞表は陛下に対して差出したるものなれば是非執奏を願ふ』旨を述べたるは、明白に辞意を翻しながらほしいままに天聴を煩さんとする不ていの心事を包蔵したるものである。 |
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五、 |
田中首相はこの時に当たり文相をして辞表そのものを撤回せしむるが当然なるに拘らず、文相の注文を容れて辞意なき辞表を天覧に供し『御諚』によって文相の面目をたて、もって留任の優詔を拝したるかにほのめかし、上下を欺かんとしたものである。 |
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六、 |
もし文相留任の優詔を奏請したるものなりとせば、内閣の破綻を救はんがため、聖上を煩したるの責任は田中首相にある、もし優詔降下したるにあらずして、単に『国務に尽すいせよ』とのお言葉を拝したりと称し、あいまいの間に閣臣の進退を粉飾せんとするものなりとせば、その不臣これより甚しきはない。 |
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七、 |
首相と文相との奇径なる言動に察するに両者通謀の上内閣のこう安と文相の面目とを併立せしめ、大御心を悩まし奉り国民を欺まんして、てんとして憚らざるものである。これを要するに、田中首相は口に皇室を尊崇し臣節を重んずるを説くに拘らず、そのなす所を観るにいやしくも政権を維持せんがためには、累を大権におよぼして敢て省みざるものにして、真に恐懼に堪へざる次第である」(東朝、五・二五) |
こうして、文相留任劇・優詔問題に対する非難は、各方面から沸騰する形勢となった。この形勢をみた水野文相は留任声明の2日後の5月25日再び辞表を提出して辞職した。これによって田中内閣は一応窮地を 脱したが、しかしこの問題は再び第五六回議会の議場で追求されることとなっている。とくに貴族院では、異例の決議案が成立するに至っているが、この点につ いては「第五六回帝国議会貴族院解説」を参照されたい。
ところで、水野文相の後任については、与党政友会から粕谷義三あたりが起用されるのではないかとみら れたが、田中首相は久原問題にこりずに、再び個人的関係から、かつての西原借款の責任者勝田主計(貴族院・研究会)を後任文相の座に据え(5月25日任命)、世をあぜんとさせるとともに、与党内の不満を激化させた。政友会の策士として知られた小泉策太郎は、久原入閣に反対し、優詔問題を批判してすでに24日に脱党していたが、勝田文相親任式ののち25日午後から開かれた政友会臨時大会では、胎中楠右衛門議員がたって、勝田文相の選任など田中首相の処置は党の意向を無視するものであると非難し、「今後党の意思に反するやうな場合があれば、たとひ総裁の統制といへどもこれに服従しないことがあるかも知れぬ」(東朝、5・ 26)と迫るなど、党内の不満が爆発した形となっていた。
治安維持法改正問題
人事面での紛糾に加えて、政策面でも田中内閣の閣内は動揺をみせていた。昭和4年度予算編成の過程では、後述するように自作農創設政策をめぐる閣内の対立がみられたが、内閣改造直後から具体化した治安維持法改正宗(前議会で審議未了)を緊急勅令によって実現するという問題についても、はじめから閣内が統一されていたわけではなかった。
緊急勅令というのは、憲法に規定されていた制度であり、憲法第八粂は「緊急ノ必要」ある場合に天皇が「法律ニ代ルヘキ勅令」を発ずることを認めていた。実際には枢密院の審議を経て公布されることになるわけであるが、但し次の帝国議会で承認されなければ効力を失うと規定されていた。前の第五五回議会で審議未了に終わった改正案を通常議会以前に成立させる方法としては、臨時議会を召集するか、この緊急勅令方式によるかの二つしかなかった。しかし議会の勢力分野が変わらない状態では、臨時議会が紛糾することは必至であり、同法改正を推進してきた原法相・小川鉄相らは第五五回議会閉会(5月6日)10日後の5月15日には、早くも緊急勅令による改正方針を閣議に提案している。
この方針に対しては与党内からも閣内からも反対の声があがった。閣内では前田米蔵法制局長官・鳩山一郎書記官長らが反対しているが、これらの反対は改正案の内容についてではなく、緊急勅令方式が次のような難点をもっているからであった。すなわち第一には 改正案が次の議会まで待てない程の緊急の必要があるのかという問題であり、緊急性が低ければ、議会を回避して既成事実をつくろうとする策謀だとして非難されることは必至であった。実際に、野党や貴族院からこうした非難の声があがったし、枢密院の審議でもこの緊急性の問題が論議の焦点となっている。第二の問題は、与党勢力が弱いという状況が読き、次の議会で緊急勅令が不承認に終わった場合、改正部分、すなわち国体変革を罪とする規定が現行法をもふくめて失効してしまうのではないかという疑義が出されたことであった。政府側で一時、緊急勅令を治安維持法改正と せず、同じ内容を「国体変革処罰に関する件」という治安維持法と別個のものとするという方法が考えられたが(東朝、5・18)、こうしておけば、緊急勅令が承認されなくても、現行法は失効しないというわけであった。
しかし結局、こうした反対感見は押切られ、6月12日の閣議で治安維持法改正案を緊急勅令とする方法が決定された。原法相はこの問題の緊急性についてのように述べている。
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「(第五五回)議会閉会後各地に発見せられたる証拠によれば、彼等は議会閉会中より今日に至るまで中国革命なる不ていの企図を遂行するため各種の怖るべき行動を続け居ることは確実である。ために第三師団の出発に際しても直接に帝国の軍隊をかく乱せんとする不敵の行動を敢へてする者を出すに至ったのである。今に於て彼等に対し厳重なら警戒を加えるにあらざれば彼等は益々国体変革を目標としてこの大胆不敵の売国的運動を継続し我が国の治安を根本的に破壊せんことを努むるの恐れあることは明かである」(東朝、六・一三付夕刊) |
文中、第三師団に対するかく乱とは、第三次山東出兵のために出征した第三師団に対して、「反戦」の働きかけが行われたことを指している。
枢密院における治維法改正緊急勅令案の審査は、同案の緊急性について強い疑義が出されたため、同院としては異例の紛糾を来たし、審査委員会は6月14日から22日にかけて6回の会議を重ねざるを得ず、本会議でも27日から28日にかけて13時間に及ぶ空前の大論戦が展開されたが、結局多数をもって可決された。野党側はこれをもってヽ枢密院が田中内閲の議会回避=議会政治否認の態度を支援したものと非難し枢密院改革問題が論議を呼ぶことにもなったが、野党側にも枢密院改革を実現するだけの力はなかった。
新党倶楽部と憲政一新会
治維法改正問題一つをとってみても、政府・与党側からすれば、野党を切り崩して勢力分野を有利に変えておくことが、次の通常議会を乗り切るための必須の条件であった。また野党のなかには、前議会でわずか7名の明政会が大活躍したことにも刺戟されて有力な第三党を結成してキャスティング・ボートを握ろうとする動きもあらわれてきた。治維法改正緊急勅令が枢密院を通過した頃からこうした種々の動きが伝えられていたが、8月1日になると床次竹二郎が民政党を脱党して第三党を結成する旨の声明を発し、政界は再び大きく動揺することとなった。
すでに述べたように(「第五五回帝国議会衆議院解説」 第一期第一巻所収、参照)、床次は自らひきいる政友本党と憲政会とを握手させて政権の座をねらったが、その思惑がはずれた結果、民政党結成に参加したのであった。しかし政友会の本流を自負していた床次にとって、民政党は安住の地ではなく、同党の主導権を握ることが難しいとみるや、再び独自の政党づくりに走ったのであった。そして彼がこのような方向に動くきっかけをつくったのは、特異な情報収集の能力によって、山県有朋・西園寺公望らの元老に重用されてきた松本剛吉であった。この年2月の総選挙が政友・民政互角の結果に終わり、少数派にキャスティング・ボートを 握られる状勢が明らかになったとき、松本は「時務に通ぜず、政治を解せざる、空言狂躁、無責任極まる少数の徒が、此機に乗じて国政を左右すべき一新勢力を射倖するに至ったことは、実に国家の一大不祥事であ る」と考え、「今や難局を救拯するには、床次氏を起して第三党を樹立し、以て少数中立の鼠輩をして屏息せしめ」ねばならないとし、(「松本剛吉政治日誌附録・床次新党一件関係文書」・岡義武・他編『大正デモクラシー期の政治』所収)、総選挙直後の2月27日から早くも床次打診の工作に着手すると同時に、久原房之助にもこのことを謀っている(同前「政治日誌」3月3日の項参照)。 第五六回議会が近づくにつれて、久原が床次と田中首相の媒介役として登場してくるのも、こうした関係からであったとみられる。
床次は結局この松本の構想に乗ってゆくわけであるが、この交渉は極秘のうちに進められており、床次が 政友本党系で最も近い榊田清兵衛にこの計画をうちあけたのも7月下旬になってからであった。従って床次の脱党声明は、旧政友本堂系議員にとって寝耳に水であり、彼等も大きく動揺せざるを得なかった。従って彼等のなかには床次の行動を不可解とし、民政党に残留するものも多く、8月9日床次によって組織された新党倶楽部も第五六回議会までに約30名の議員を集め得たにすぎなかった。
脱党した床次派は旧政友本党系の一部にとどまったものの、民政党内では更に仮幹部派の策動により動揺がつづいた。すなわち、これまで党内刷新を唱えていた田中善立・樋口秀雄らは、9月7日に至り「憲政一新会」の組織を宣言、奥村千蔵・鬼丸義斎・三宅利平らが脱党してこれに加わった。この憲政一新会の場合 には党内で重用されないという不満が民政党から分裂する直接の動機になっていたであろうことは、その宣言が「党務は秘密主義の下に行はれ役員の選任にあたりてはいわゆる幹部に迎合するものにあらずんば官僚出身を偏重し、苦節多年党務に戮力せるもの、または有為・剛直の士は多くは顧られず、しかのみならず口舌の理論に拘泥して温情殆んどなし」(東朝、9・8)と述べていることからもうかがえる。
しかしこうした党内人事への不満のみで一派を立てることは不可能であり、組織の表看板としては対中国政策の間題がとりあげられている点に、新党倶楽部の場合にも共通するこの時期の特徴をみることが出来る。 憲政一新会の宣言は「眼前の対支外交を党争の外に置」くことを主張しているが、それは田中外交を根本において肯定することを前提としたものであった。すなわち「田中外交の対支外交は折衝の方法時期等において失敗せるものあるは明らかなれども、満蒙における帝国の権益を主張して一歩も譲らざる根本主義に至りては……天下公論の肯定せるところ、これを鞭撻しこれを指導して国策の遂行を期せしむるは国民の義務にあらずや」とする観点から、「しかるに民政党は今や少数政争論者に操られ対支外交の枝葉の失敗を鳴らして党争の具に供せんとす」と民政党を攻撃し、自らの脱党を正当化しているのであった。つまり「対支外交を党争の外に置」くとは、田中外交を支持・鞭撻せよということにほかならなかったのであり、この点を媒介と して憲政一新会は田中内閣の与党化してゆくことになった。
新党倶楽部もほぼ同様な軌道を固いて田中内聞に接近してゆくこととなる。床次の新党樹立宣言もまた、対中困政策の問題を冒頭にかかげ、「満蒙における特殊権益」に対する脅威を排除し、積極的に既得権益を擁護しなければならないと主張する。そして民政党の政策を「漫りに内政不干渉の美名に泥み、姑息、退えい、徒らに一日の安をぬすむ」(東朝、8・2付夕刊)ものと して排撃していた。それは基本的には、憲政一新会の場合と同じく、幣原外交を排して田中外交をとるということにはかならなかった。
昭和3年11月10日、即位の大典が京都で挙行され、多くの政治家が参集した機会をとらえて、久原逓相が憲政一新会、新党倶楽部の与党化のために動き始めた。すなわち11月15日、久原は大阪で一新会の田中善立・樋口秀雄・田崎信蔵・藤原米造・奥村千蔵・ 三宅利平の六代議士と会談、対中国問題を中心にして、田中内閣支持の諒解をとりつけた。久原はつづいて17日、京部の宿舎に床次を訪れ、現内閣への助力を求 めている。このとき床次は態度を明らかにせず、また政友会側から党執行部をとびこえた久原の妥協工作を非難する声があがったが、田中・床次の接近がここから具体化していったことも事実であった。12月2日、床次は田中首相と会談、床次が中国視察の希望を述べると田中もこれを支持し、早速12月7日床次一行は中国に向かって東京駅を出発した。つまり床次が中国視察の結果、田中に何らかの提言を行い、内閣がそれを実現する姿勢を示すことによって、両者妥協を進めるという筋書きができあがったのであった。上海・南京・奉天を経て12月25日帰京した床次は、済南から早期撤兵を行うべきだとの談話を発表、以後、議会開会中しばしば田中・床次会談が行われた。田中内閣 にとっても済南撤兵は中国との懸案解決のため、当面の課題となっており、昭和4年2月5日済南事件についての基本的諒解が成立したとのニュースが伝えられると、翌6日新党倶楽部は議員総会を開き、準与党としての立場を明確にするのであった。
対中国政策
新党倶楽部・憲政一新会の民政党からの脱党が、対中国政策を理由としていたことは、民政党がそれだけ明確に田中外交を批判していたということでもあった。
すでに田中内閣は、国民党軍の北伐が再開されると、昭和3年4月居留民保護を理由として第二次山東出兵を実施していたが、前議公開今中の5月3日、済南で国民党軍と衝突、居留民に死傷者が出るという事件がおこるや、9日には第三次出兵宣言を発して軍隊を増派した。ついで11日には総攻撃をかけて済南城を占領、以後中国側の責任を追及して軍隊の駐留をつづけた。
しかし国民党軍は済南を迂回して北伐をつづけ、張作霖を大元帥とする軍閥軍の敗北は必至とみられるに至った。こうした情勢に対して田中内閣は5月18日、 戦乱が満州に波及する場合には、治安維持のため適当にして且つ有効な処置をとらざるを得ないとの声明を発するとともに、張作霖に満州への引揚げを勧告した。
「治安維持」の方策としては、国民党軍の満州進入を 阻止すると共に、張軍が敗走してきた場合にはこれを も武装解除するとの方針が立てられていた。田中首相 としては、まだ張作霖を満州の支配者として温存し、日本の権益拡張に利用しようと考えており、従って張が致命的敗北を喫するまえに満州に帰ることを望んでいた。
しかし満州の現地では、日本の権益要求に抵抗するようになってきた張作霖の支配に反対する空気が強く、 関東軍参謀河本大作大佐らは6月4日京奉線が満鉄線とクロスする地点に爆薬を仕掛け、特別列車で帰還してきた張作霖を爆殺してしまった。河本は、この事件をきっかけとして、治安維持のため臨戦体制にあった関東軍を出動させることをねらったようであるが、結局張を殺害しただけにとどまった。張作霖の地位は、息子の張学良がついだが、この爆殺事件は、日本の対中国政策の遂行を著しく困難にすることになった。すなわち、国民党軍は6月8日北京、12日天津に入城、長城線以南を掌握して北伐の完成を宣言した。そして満州については、軍事力によってではなく政治折衝によって統合することをねらった。これに対して田中内閣も、張学良に対して国民政府に加わらず独白の地位を保つよう働きかけることになるのであるが、河本参謀らの偽装工作にも拘らず、張作霖爆殺が日本側のしわざであるという疑惑は強まる一方であり満州には反日気運が高まっていた。
こうしてともかくも北伐が一段落した時期をねらっ て、民政党は6日21日中国問題についての決議(第一次)を発表し、まず山東出兵・済南事件を批判した。 この決議は、済南事件の直接の責任は中国側にあるとみているが、しかし問題は根本的には、軍隊を派遣して居留民を現地で保護するという田中外交のやり方そのものにあると断じた。すなわち、居留民保護は、居留民を短期間に安全地点に避難させることを原則とすべきであり、田中外交のようにすぐに派兵するというやり方は「軽挙盲動」というほかはないというのである。さらに決議はつづけて、居留民保護を目的とした出兵の結果、居留民が被害をうけるという事件が発生し、保護の目的をさえ達成できなかったことは田中外交の重大な責任であると非難し、済南からの早期撤兵を要求していた。この現地保護主義への批判は、田中外交と幣原外交の基本的な相違点を示すものであったと言える。
7月に入ると、田中外交の行詰りは一層明らかになってきた。田中内閣は済南事件の解決の条件として、 一、中国側の謝罪、二、責任者の処罰、三、損害賠償、 四、将来に対する保障を要求したが、中国側は事件における日本側の責任を追求、また日本軍の撤兵が交渉の前提であると主張し、交渉は容易に進展しなかった。しかもこの間中国側は7月7日条約改正対外宣言を発 して不平等条約廃棄に積極的にのり出し、7月19日、 翌20日をもって満期となる日本との通商条約を廃棄し、新条約締結までは中国側で決定した「臨時弁法」を適用すると通告してきた。同時にまた張学良との妥協工作も、進展しており、日本の新聞も「奉天と国民政府、妥協ぼぼ成立」(東朝、7・19)と報じていた。 田中外交はこうした国民政府の積極的な外交活動の前に受身とならざるを碍なかった。
田中内閣はまず、国民政府の条約廃棄通告を国際法違反として拒否し、条約改訂交渉に応ずるとしても、中国側が現行条約を有効と認めることが前提だとつっぱねた。そして張学良に対しては、このような国際信義を守らない国民政府と妥協するなと圧力をかけ、いわゆる南北妥協を妨害する態度に出た。張学良もこの圧力に屈し、7月21日林奉天総領事に対して国民政府との交渉を一時中止する旨を伝えた。この時期の田中外交の考え方を示すものとしては、8月9日不戦条約調印のためパリに向かって出発する内田康哉全権に、欧米列強への説明資料として与えた「対支政策要旨」をあげることができる(外務省編『外交年表並主要文書』 下巻所収)。
この文書で田中は、日本の希望は「東三省力真ニ内外人安住ノ地トシテ支那全土中最モ安全ニシテ且ツ発達シタル土地」となることであり、具体的要求としては「第一ニ東三省ノ秩序カ完全ニ維持セラルル事、第二ニ東三省ニ居住ト営業トガ自由ニ出来、土地ノ利用権ヲ得ラルル様ニスル事」の二点であるという。そしてこの目的を達するためには「共産主義的分子ノ同地方ニ入込ム事ハ飽迄之ヲ防グ必要」があるが、国民政府の現状をみると「国民政府成立以来其ノ外交方針ヲ見ルニ或八条約ノ規定ニ反シテ課税ヲ行ヒ或ハ外国人ニ対スル罷エヲ煽動シ或ハ各種ノ排外運動ヲ教唆シ或ハ国際条約ヲー方的ニ破棄スル等過激ノ行動夥シク、共産主義的作動ヲ模倣スルカノ如キ傾向多々認メラ」れるのであり、「従テ斯クノ如キ傾向ヲ有スル南方勢カ直ニ東三省ニ侵入スル事ハ帝国政府トシテ到底黙視 シ得サル所」であると述べ、南北妥協に対する反対を 理由づけているのであった。
このような田中外交の展開に対して民政党は7月26日第二次声明を発し、通商条約の一方的破棄問題については「吾人の断じて容認する能はざる所」と述べて田中外交と同一の反応を示したが、南北妥協阻止については次のような根本的批判を展開した。
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「東三省と国民政府との関係に付、今次張学良氏と林総能事との間における応酬は、その内容いまだ公表せられたるものなしといへども支那国内の和平統一を期するは我国既定の外交方針にして、もし林総能事がこの方針に反し支那内部の政治組織に容かいするが如き言辞を敢てしたるものとせば、その失当なることいふを侍たざるのみならず、その結果延いて累を帝国の将来におよぼすの恐れなしとせず、固より我国の東三省における権利利益は帝国に取り極めて緊切かつ重大なるをもって何人もこれを侵犯するを許さず、政府はこれを維特擁護するがため確固たる決心と万全の方策あるを要するは先に吾人の声明したる所の如し。
随って吾人の最も重きを固く所は我権利利益の確保に在りて、必ずしも東三省の内部已むける政治組織の如何に在らざるなり、みだりに支那の和平統一を妨ぐる如き疑ひを招く軽卒不謹慎の態度は厳にこれを戒むるを要す」(東朝、7・27) |
ここで民政党が提起しているのは、内政干渉=東三省の特殊化か、内政不干渉=中国統一の促進かという対中両政策の恨本にかかわる問題であり、そうした対立が明確にされたからこそ、新党倶楽部や憲政一新会などの脱党組もこの対立にかかわらざるを得なくなったとも言いうるであろう。この民政党の分裂はまた、逆に言えば、既成政党の内部において内政干渉=東三省特殊化の方向が優勢であることを示したものとも言えた。従って田中内閣は民政党のこうした批判を無視 して統一阻止政策をつづけた。民政党声明は林総領事を直接の批判の対象にしているが、林の行動は田中外相の指示によるものであることはすでに述べた「対支政策要旨」からも明らかであろう。そしてさらに田中は、8月上旬の張作霖の葬儀にあたって林権助を特使として奉天に送り、張学良に国民政府に参加しないよう圧力を加えた。
しかしこうした田中のやり方も、南北妥協を数筒月引きのばすことができただけで、中国の大勢を変えることはできなかった。昭和3年もおしつまった12月29日、張学良は日本側に事前に通告することなしに、東三省に青天白日旗を掲揚することを命じ、ついに国民政府に参加した。それは田中外交の失敗を示すものにほかならず、民政党から次の議会で激しい攻撃を加えられることになった(例えば1月23日、永井柳太郎の質問演説、速記録第3号参照)。このいわゆる東三省易幟によって、田中内聞も国民政府との関係調整を急がざるを得なくなり、翌昭和4年1月には中国の新関税を承認する公文を交換し、これは事実上の国民政府の承認であるとの感度を明らかにすることになるのであった。
無産政党の動向
既成政党の側での政党勢力の再編が、田中外交への賛否を軸とし、民政党の分裂としてあらわれたのに対 して、無産政党の側では、旧労働農民党系の勢力の分裂を軸とする離合集散がみられた。労働農民党が三・一五共産党検挙事件の記事解禁と同時に、4月10日結社禁止を命ぜられたことはすでに述べたが(「第五五 回帝国議会衆議院解説」参昭)、その後同党主流は、「闘争を通じて結党へ」の方針をかかげ新党組織準備会を結成、弾圧が必至である政党の組織を急がずに闘争を積みあげてゆくことを主張した。しかしこれに対して雑誌「労農」(昭和2・12創刊)によって福本イズムに反対し、日本共産党に批判的となっていたいわゆる「労農派」は、現実の闘争には合法政党が必要であるとして新党組織準備会から分裂していった。そして7月22日、東京で鈴木茂三郎を書記長とする「無産大衆党」が結成された。執行委員長は置かず、執行委員には葉山嘉樹・大道憲次・岡田宗司・黒田寿男など18名が選ばれている。こうした合法政党への動きは、旧労農党地方支部へも波及しており、千葉労農党(5・5結成)、岩手無産党(12・22結成)などが生まれている。
こうした労農派の政党運動が表面化してくるにつれて、新党組織準備会の方でも政党結成への動きが強まって行った。しかしこの間、新党組織準面会に強い影響力をふるってきた共産党の側では、同準備会を政党とすることに反対する方針が打出されており、政党化問題をめぐる動きは複雑なものとなっていった。すなわち、3・15事件での検挙をまぬがれた渡辺政之輔・佐野学・市川正一・鍋山定親・三田村四郎らは党組織の再建をはかったが、市川らはひそかにソ連に入り7月のコミンテルン第六回大会に出席、片山潜らとともに党再組織の方針を討議した。そしてこの討議によって、プロレタリア階級の党は共産党のみである、従って新党組織準備会は政党として結党すべきではなく、 労働者・農民の動員と訓練のための組織とすることが決定された。これは、これまで合法面で労働農民党を利用してきたようなやり方をやめることを意味した。市川がこの方針をたずさえて帰国したのは10月下旬 であったが、このときすでに新党組織準備会では、政党結成の作業が進行していた。そこで、政党結成の動きをとめることは困難とみた共産党は、治安当局によって結党を禁止させる戦術をとり、敢て過激な政策を かかげさせることとし、結党禁止を期に、合法政党樹立計画の放棄をはかったのである。
新労農政党の結成大会は、第五六回議会召集(12・24)の直前、12月22日東京・本所公会堂で開かれた。内務省側は、この大会で結党の事実を認めれば、届出を待たずに直ちに結社禁止を命ずるとの方針をもってこれをむかえた。つまり党名・規約・綱領・政策・運動方針など結党の基礎的議案が成立したところで禁止処分にするというのが警察側の方針であったが、これに対して大会側は第一日目は祝辞・各種報告のみを行ってこれらの議案を翌日にまわし、第2日目では委員付託として警察側に肩すかしをくわせた。そしてこの間、最初に演壇にのばった河上肇が「過去の闘争によって、たとひ我党が合法的政党とならなくとも労農大衆の力は労農階級の利益を擁護することを知 った。従って我党は他の合法的諸政党よりも数百倍の力を持つ」と述べて数分間で中止を命ぜられたほか、「本部報告中に現われた合法主義打破の傾向は内務省の解散方針と対照して非常な注目を引いた」(東朝、12・23)と当時の新聞は報じている。
結局、内務省側は23日に至り結党をまたずに新党組織準備会そのものを結社禁止とする方針に転じ、24日、第三日目の大会を解散させると共に、前日付の禁止命令を伝達、同時に望月内相は次のような声明を 発表した。
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「この団体はさきに労働農民党の結社禁止後その党員等が相寄ってこれを形造ったむのであって、その主張および今日までの諸種の行動を見るに極めて急進過激依然として旧労働農民党の指導精神に則って居る。よって政府においては常にその行動に対し周 密なる注意を怠らなかったのであるが、一昨日以来間催せられた新党創立大会における各種の情況は特にこの事実を顕著に証明するに至った。従ってかかる結社の存在を容認するにおいては、先の禁止処分は全く無意義となるはいふまでもなく社会の安寧秩序を保持することは出来ないのである」(東朝、12・25付夕刊) |
新党組織準備会が結社禁止処分に付されたのち、共産党は既定方針にもとづき、大衆動員組織として「政治的自由獲得労農同盟」を組織し、移動本部を設けて非合法活動を展開しようとした。これに対して、非共産党員のなかには非合法主義は発展性がないとして合法政党組織に走る者が出、旧労働農民党系の組織は、さきの労農派の分裂についで、再び分裂の時間をむかえることになる。まず、昭和4年1目17日、代議士水谷長三郎を中心とする旧労働農民党京都支部の活動家が、「労農大衆党」を結成、ついで「中国無産党(広島)」(2・2)、「大和無産統一党(奈良)」(4・14)などが結成されるにいたっている。
こうした無産政党左派の分裂傾向に対して、中間派では無産政党の戦線統一のスローガンが有力であり、 右派では無産運動の「大右翼」形成といった目標が立てられ始めていた。この場合、たんに全国政党相互の問題だけでなく、地方選挙などをめぐって次第に増加 してきた地方的無産政党の吸収や、分裂低能にある労働組合・農民組合の再編問題などがからんでいた。
こうした動向の実現した最初のものは、日本労農党と日本農民党を軸として七党が合同した日本大衆党の創立であった。これは日労党麻生久と農民党平野力三 との間に道められた合同交渉に、成立したばかりの無産大衆党、浅原健三のひきいる九州民憲党、中沢弁次 郎を党首とする中部民衆党が加わり、更に島根自由民衆党、信州民衆党が参加して12月20日の結党式にこぎつけたものであった。しかしこれらの諸勢力が従来の対立を清算して融合してゆくことは困難であり、結党一箇月後、第五六回議会の本格的論戦が始まる昭和4年1月下旬には、麻生・平野らの幹部の腐敗を追求する清党運動が起こり、早くも党内は混乱するに至っている(五月には事実上分裂)。
結局のところ、日本大衆党は「単一無産政党」の理念に依拠しながら自らの行詰りをのりこえようとする諸党派の寄合世帯であり、それ故にすぐさま指導権争いによって解体してゆくのであるが、これに対して右派の社会民余党の場合には、12月9日から3日問に わたる第三回大会において、単一無産政党主義を排し、大右翼形成を目標とした戦線統一を期するとの方針を決定していた。それは労働運動の右派勢力の統合によって支持基盤を拡大することをねらったものであったが、政党レベルでは、地方政党の吸収合同政策として展開されてゆくことになった。
ともあれ、第五六回議会をむかえる無産政党の情況は、全体としてみれば第五五回議会当時より混迷の度を深めていたということができよう。
第五六回議会の召集
第五六回議会は通常会として昭和3年12月24日召集された。田中内閣としては最初の通常議会であり、また最後の議会ともなった。12月26日の開院式のあと、28日から1月20日まで24日間の年末年始の休会にはいり、3月25日に会期を終了、翌26日閉院式が行われている。
議長・副議長は議員の任期中在任することになっているため元田肇・清瀬一郎を正副議長として開会されたが、元田議長は後述するような小選挙区制法案をめぐる議場の混乱のなかで辞職し、3月14日、政友会の川原茂輔が最高得票を得て勅任された。この議会における全院委員長・常任委員長・政府側委員の顔振れや党派別議員名は次の通りである。なおこの議会では、無産政党・明政会・実業同志会・革新党・憲政一新会などの小会派と議長・副議長を除く無所属議員は交渉団体として、第一控室会を組織した。
全院委員長 |
|
高島 順作(新党倶) |
|
|
|
常任委員長 |
予算委員長 |
堀切 善兵衛(政友会) |
|
決算委員長 |
伊坂 秀五郎(政友会) |
|
請願委員長 |
岡田 伊太郎(政友会) |
|
懲罰委員長 |
岡田 忠彦(政友会) |
|
|
|
国務大臣 |
内閣総理大臣 |
田中 義一 |
|
外務大臣(兼任) |
田中 義一 |
|
内務大臣 |
望月 圭介 |
|
大蔵大臣 |
三土 忠造 |
|
陸軍大臣 |
白川 義則 |
|
海軍大臣 |
岡田 啓介 |
|
文部大臣 |
勝田 主計 |
|
農林大臣 |
山本 悌次郎 |
|
商工大臣 |
中橋 徳五郎 |
|
鉄道大臣 |
小川 平吉 |
|
司法大臣 |
原 嘉道 |
|
逓信大臣 |
久原 房之助 |
|
|
|
政府委員(一二・二四発令) |
内閣書記官長 |
鳩山 一郎 |
|
内閣恩給局長 |
下条 康麿 |
|
内閣拓殖局長 |
成毛 基雄 |
|
法制局長官 |
前田 米蔵 |
|
法制局参事官 |
黒崎 定三 |
|
同 |
金森 徳次郎 |
|
朝鮮総督府政務総監 |
池上 四郎 |
|
朝鮮総督府財務局長 |
草間 秀雄 |
|
台湾総督府総務長官 |
河原田 稼吉 |
|
台湾総督府財務局長 |
富田 松彦 |
|
関東庁内務局長 |
神田 純一 |
|
関東庁財務部長 |
西山 左内 |
|
樺太庁長官 |
喜多 孝治 |
|
南洋庁長官 |
横田 郷助 |
|
外務政務次官 |
森 恪 |
|
外務参与官 |
植原 悦二郎 |
|
外務書記官 |
坪上 貞ニ |
|
内務政務次官 |
秋田 清 |
|
内務参与官 |
加藤 久米四郎 |
|
内務書記官 |
唐沢 俊樹 |
|
大蔵政務次官 |
大口 喜六 |
|
大蔵参与官 |
山口 義一 |
|
大蔵省主計局長 |
河田 烈 |
|
大蔵省主税局長 |
藤井 真信 |
|
大蔵省理財局長 |
富田 勇太郎 |
|
大蔵省銀行局長 |
保倉 熊三郎 |
|
大蔵書記官 |
佐野 正次 |
|
同 |
川越 丈雄 |
|
陸軍政務次官 |
竹内 友治郎 |
|
陸軍参与官 |
八田 宗吉 |
|
陸軍主計監 |
中村 精一 |
|
陸軍少将 |
杉山 元 |
|
陸軍二等主計正 |
矢部 潤二 |
|
海軍政務次官 |
内田 信也 |
|
海軍参与官 |
松本 君平 |
|
海軍主計中将 |
加藤 亮一 |
|
海軍中将 |
左近司 政三 |
|
海軍主計大佐 |
佐々木 重蔵 |
|
司法政務次官 |
浜田 国松 |
|
司法参与官 |
磯部 尚 |
|
司法書記官 |
近藤 三郎 |
|
文部政務次官 |
山崎 達之輔 |
|
文部参与官 |
安藤 正純 |
|
文部書記官 |
木村 正義 |
|
農林政務次官 |
東 武 |
|
農林参与官 |
砂田 重政 |
|
農林書記官 |
井野 碩哉 |
|
商工政務次官 |
吉植 庄一郎 |
|
商工参与官 |
牧野 良三 |
|
商工書記官 |
寺尾 進 |
|
逓信政務次官 |
広岡 宇一郎 |
|
逓信参与官 |
向井 倭雄 |
|
逓信省経理局長 |
大橋 八郎 |
|
鉄道政務次官 |
上埜 安太郎 |
|
鉄道参与官 |
志賀 和多利 |
|
鉄道省建設局長 |
中村 謙一 |
|
鉄道省工務局長 |
加賀山 学 |
|
鉄道省経理局長 |
矢田部 良造 |
|
|
|
政府委員追加(会期中発令) |
外務省亜細亜局長 |
有田 八郎 |
|
外務省欧米局長 |
堀田 正昭 |
|
外務省通商局長 |
武富 敏彦 |
|
外務省条約局長 |
松永 直吉 |
|
内務省地方局長 |
佐上 信一 |
|
内務省警保局長 |
横山 助成 |
|
内務省土木局長 |
宮崎 通之助 |
|
内務書記官 |
田中 広太郎 |
|
同 |
岡田 周造 |
|
復興局長官 |
堀切 善次郎 |
|
社会局長官 |
長岡 隆一郎 |
|
北海道庁長官 |
沢田 牛麿 |
|
司法省刑事局長 |
泉二 新熊 |
|
司法省民事局長 |
長島 毅 |
|
農林省畜産局長 |
戸田 保忠 |
|
農林省蚕糸局長 |
石黒 忠篤 |
|
商工省工務局長 |
吉野 信次 |
|
商工省鉱山局長 |
三井 米松 |
|
逓信省管船局長 |
宮崎 清則 |
|
営繕管財局理事 |
太田 嘉太郎 |
|
農林省農務局長 |
松村 真一郎 |
|
農林省山林局長 |
入江 魁 |
|
商工省商務局長 |
副島 千八 |
|
逓信省電務局長 |
畠山 敏行 |
|
資源局長官 |
宇佐美 勝夫 |
|
農林省水産局長 |
長瀬 貞一 |
|
製鉄所長官 |
中井 励作 |
|
文部省宗教局長 |
下村 寿一 |
|
大蔵書記官 |
飯田 九州雄 |
|
大蔵技師 |
矢部 規矩治 |
|
陸軍中将 |
植田 謙吉 |
|
鉄道省運輸局長 |
筧 正太郎 |
|
特許局長官 |
崎川 才四郎 |
|
専売局長官 |
平野 亮平 |
|
|
|
党派別所属議員氏名 |
|
|
|
|
|
招集日各党派所属議員数 |
立憲政友会 |
221名 |
(昭和3年12月24日) |
立憲民政党 |
174名 |
|
第一控室会 |
34名 |
|
新党倶楽部 |
30名 |
|
無所属 |
2名 |
|
欠員 |
5名 |
|
計 |
466名 |
|
|
|
立憲政友会(221名) |
東京 |
立川 太郎 |
|
同 |
鳩山 一郎 |
|
同 |
矢野 鉉吉 |
|
同 |
伊藤 仁太郎 |
|
同 |
安藤 正純 |
|
同 |
磯部 尚 |
|
同 |
国枝 捨次郎 |
|
同 |
牧野 賎男 |
|
同 |
佐藤 安之助 |
|
同 |
前田 米蔵 |
|
同 |
中島 守利 |
|
同 |
中村 亨 |
|
同 |
坂本 一角 |
|
同 |
津雲 国利 |
|
京都 |
鈴木 吉之助 |
|
同 |
磯部 清吉 |
|
同 |
水島 彦一郎 |
|
大阪 |
平賀 周 |
|
同 |
吉津 度 |
|
同 |
森田 政義 |
|
同 |
岩崎 幸治郎 |
|
同 |
山口 義一 |
|
神奈川 |
磯野 庸幸 |
|
同 |
赤尾 藤吉郎 |
|
同 |
川口 義久 |
|
同 |
鈴木 英雄 |
|
同 |
胎中 楠右衛門 |
|
兵庫 |
砂田 重政 |
|
同 |
中井 一夫 |
|
同 |
広岡 宇一郎 |
|
同 |
陰山 貞吉 |
|
同 |
青木 雷三郎 |
|
同 |
山本 唯次 |
|
同 |
原 惣兵衛 |
|
同 |
土井 権大 |
|
同 |
若宮 貞夫 |
|
長崎 |
西岡 竹次郎 |
|
同 |
向井 倭雄 |
|
同 |
斉藤 巌 |
|
新潟 |
山本 悌二郎 |
|
同 |
田辺 熊一 |
|
同 |
高橋 光威 |
|
同 |
加藤 知正 |
|
同 |
高橋 金治郎 |
|
同 |
武田 徳三郎 |
|
埼玉 |
粕谷 義三 |
|
同 |
秦 豊助 |
|
同 |
大沢 寅次郎 |
|
同 |
石坂 養平 |
|
同 |
遠藤 柳作 |
|
同 |
出井 兵吉 |
|
群馬 |
武藤 七郎 |
|
同 |
青木 精一 |
|
同 |
木暮 武太夫 |
|
千葉 |
鈴木 隆 |
|
同 |
川島 正次郎 |
|
同 |
吉植 庄一郎 |
|
同 |
今井 健彦 |
|
同 |
森 矗昶 |
|
同 |
横堀 冶三郎 |
|
茨城 |
内田 信也 |
|
同 |
山崎 猛 |
|
同 |
石井 三郎 |
|
同 |
飯村 五郎 |
|
同 |
宮古 啓三郎 |
|
栃木 |
森 恪 |
|
同 |
斎藤 藤四郎 |
|
同 |
松村 光三 |
|
同 |
藤沼 庄平 |
|
奈良 |
森本 千吉 |
|
同 |
岩本 武助 |
|
同 |
福井 甚三 |
|
三重 |
加藤 久米四郎 |
|
同 |
井口 延次郎 |
|
同 |
伊坂 秀五郎 |
|
同 |
浜田 国松 |
|
愛知 |
加藤 鐐五郎 |
|
同 |
丹下 茂十郎 |
|
同 |
三輪 市太郎 |
|
同 |
大口 喜六 |
|
同 |
鈴木 五六 |
|
静岡 |
山口 忠五郎 |
|
同 |
松浦 五兵衛 |
|
同 |
松本 君平 |
|
同 |
庄司 良朗 |
|
同 |
郡谷 照一郎 |
|
同 |
倉元 要一 |
|
同 |
大橋 亦兵衛 |
|
山梨 |
田辺 七六 |
|
同 |
大崎 清作 |
|
同 |
武内 友次郎 |
|
同 |
穴水 要七 |
|
滋賀 |
清水 銀蔵 |
|
同 |
安原 仁兵衛 |
|
同 |
富田 八郎 |
|
岐阜 |
匹田 鋭吉 |
|
同 |
井上 孝哉 |
|
同 |
佐竹 直太郎 |
|
同 |
牧野 良三 |
|
同 |
平井 信四郎 |
|
長野 |
山本 慎平 |
|
同 |
篠原 和市 |
|
同 |
小川 平吉 |
|
同 |
井原 五郎兵衛 |
|
同 |
上条 信 |
|
同 |
植原 悦二郎 |
|
宮城 |
中島 鵬六 |
|
同 |
菅原 伝 |
|
福島 |
堀切 善兵衛 |
|
同 |
菅野 善右衛門 |
|
同 |
八田 宗吉 |
|
同 |
金沢 安之助 |
|
同 |
石射 文五郎 |
|
同 |
木村 清冶 |
|
同 |
松本 孫右衛門 |
|
岩手 |
田子 一民 |
|
同 |
熊谷 厳 |
|
同 |
鈴木 巌 |
|
同 |
志賀 和多利 |
|
同 |
広瀬 為久 |
|
同 |
小野寺 章 |
|
青森 |
中川原 貞機 |
|
同 |
藤井 達也 |
|
同 |
鳴海 文四郎 |
|
同 |
工藤 十三雄 |
|
山形 |
高橋 熊次郎 |
|
同 |
西方 利馬 |
|
同 |
松岡 俊三 |
|
同 |
熊谷 直太 |
|
秋田 |
池内 広正 |
|
同 |
鈴木 安孝 |
|
同 |
井出 繁三郎 |
|
同 |
池田 亀冶 |
|
福井 |
山本 条太郎 |
|
同 |
佐々木 久二 |
|
石川 |
中橋 徳五郎 |
|
同 |
箸本 太吉 |
|
同 |
佐藤 実 |
|
同 |
青山 憲三 |
|
富山 |
石坂 豊一 |
|
同 |
上埜 安太郎 |
|
鳥取 |
豊田 収 |
|
同 |
矢野 晋也 |
|
島根 |
島田 俊雄 |
|
同 |
沖島 鎌三 |
|
岡山 |
玉野 知義 |
|
同 |
岡田 忠彦 |
|
同 |
横山 泰造 |
|
同 |
久山 知之 |
|
同 |
星島 二郎 |
|
同 |
小谷 節夫 |
|
同 |
犬養 毅 |
|
広島 |
岸田 正記 |
|
同 |
名川 侃市 |
|
同 |
望月 圭介 |
|
同 |
肥田 琢司 |
|
同 |
鴨居 哲 |
|
同 |
宮沢 裕 |
|
同 |
小山 寛蔵 |
|
山口 |
久原 房之助 |
|
同 |
庄 晋太郎 |
|
同 |
枡谷 音三 |
|
同 |
葛原 猪平 |
|
同 |
児玉 右二 |
|
同 |
吉木 陽 |
|
同 |
西村 茂生 |
|
和歌山 |
木本 主一郎 |
|
同 |
中村 巍 |
|
徳島 |
生田 和平 |
|
同 |
浅石 恵八 |
|
同 |
秋田 清 |
|
香川 |
宮脇 長吉 |
|
同 |
三土 忠造 |
|
同 |
山下 谷次 |
|
同 |
松田 三徳 |
|
愛媛 |
須之内 品吉 |
|
同 |
高山 長幸 |
|
同 |
岩崎 一高 |
|
同 |
河上 哲太 |
|
同 |
竹内 鳳吉 |
|
同 |
二神 駿吉 |
|
同 |
佐々木 長治 |
|
高知 |
中谷 貞頼 |
|
同 |
坂本 志魯雄 |
|
福岡 |
山口 恒太郎 |
|
同 |
宮川 一貫 |
|
同 |
多田 勇雄 |
|
同 |
久恒 貞雄 |
|
同 |
山崎 達之輔 |
|
同 |
野田 俊作 |
|
同 |
有馬 秀雄 |
|
同 |
内野 辰次郎 |
|
同 |
坂井 大輔 |
|
大分 |
三浦 数平 |
|
同 |
金光 庸夫 |
|
同 |
成清 信愛 |
|
佐賀 |
石井 次郎 |
|
同 |
田中 亮一 |
|
同 |
川原 茂輔 |
|
熊本 |
松野 鶴平 |
|
同 |
上塚 司 |
|
同 |
中野 猛雄 |
|
同 |
中山 貞雄 |
|
宮崎 |
矢野 力治 |
|
同 |
水久保 甚作 |
|
鹿児島 |
岩川 与助 |
|
同 |
英 義彦 |
|
同 |
永田 良吉 |
|
沖縄 |
亀割 安蔵 |
|
同 |
竹下 文隆 |
|
北海道 |
森 正則 |
|
同 |
岡田 伊太郎 |
|
同 |
東 武 |
|
同 |
林 路一 |
|
同 |
平出 喜三郎 |
|
同 |
佐々木 平次郎 |
|
同 |
板谷 順助 |
|
同 |
松実 喜代太 |
|
同 |
木下 成太郎 |
|
同 |
三井 徳宝 |
|
同 |
前田 政八 |
|
|
|
立憲民政党(174名) |
東京 |
横山 勝太郎 |
|
同 |
瀬川 光行 |
|
同 |
三木 武吉 |
|
同 |
桜内 辰郎 |
|
同 |
中島 弥団次 |
|
同 |
小滝 辰雄 |
|
同 |
瀬母木 桂吉 |
|
同 |
高木 益太郎 |
|
同 |
小俣 政一 |
|
同 |
高木 正年 |
|
同 |
鈴木 富士弥 |
|
同 |
斯波 貞吉 |
|
同 |
中村 継男 |
|
同 |
佐藤 正 |
|
京都 |
片岡 直温 |
|
同 |
森田 茂 |
|
同 |
川崎 安之助 |
|
同 |
村上 国吉 |
|
大阪 |
一松 定吉 |
|
同 |
枡谷 寅吉 |
|
同 |
紫安 新九郎 |
|
同 |
武内 作平 |
|
同 |
広瀬 徳蔵 |
|
同 |
石川 弘 |
|
同 |
吉川 吉郎兵衛 |
|
同 |
田中 万逸 |
|
同 |
勝田 永吉 |
|
同 |
佐竹 庄七 |
|
同 |
松田 竹千代 |
|
神奈川 |
戸井 嘉作 |
|
同 |
三宅 磐 |
|
同 |
小野 重行 |
|
同 |
小泉 又次郎 |
|
同 |
岡崎 久次郎 |
|
同 |
平川 松太郎 |
|
兵庫 |
野田 文一郎 |
|
同 |
前田 房之助 |
|
同 |
大野 敬吉 |
|
同 |
斉藤 隆夫 |
|
同 |
田 昌 |
|
長崎 |
則元 由庸 |
|
同 |
本田 英作 |
|
同 |
牧山 耕蔵 |
|
同 |
本田 恒之 |
|
新潟 |
安倍 邦太郎 |
|
同 |
佐藤 与一 |
|
同 |
石塚 三郎 |
|
同 |
山田 又司 |
|
同 |
飯塚 知信 |
|
同 |
増田 義一 |
|
埼玉 |
田中 千代松 |
|
同 |
定塚 門次郎 |
|
同 |
高橋 守平 |
|
同 |
野中 徹也 |
|
群馬 |
飯塚 春太郎 |
|
同 |
清水 留三郎 |
|
同 |
木桧 三四郎 |
|
同 |
井本 常作 |
|
千葉 |
鵜沢 宇八 |
|
同 |
土屋 清三郎 |
|
茨城 |
中崎 俊秀 |
|
同 |
小峰 満男 |
|
同 |
原 脩次郎 |
|
同 |
海老沢 為次郎 |
|
栃木 |
高田 耘平 |
|
同 |
高橋 元四郎 |
|
同 |
斉藤 太兵衛 |
|
同 |
神田 正雄 |
|
同 |
栗原 彦三郎 |
|
奈良 |
八木 逸郎 |
|
同 |
松尾 四郎 |
|
三重 |
木村 秀興 |
|
同 |
川崎 克 |
|
同 |
池田 敬八 |
|
愛知 |
小山 松寿 |
|
同 |
西脇 晋 |
|
同 |
久野 尊資 |
|
同 |
加藤 鯛一 |
|
同 |
武富 済 |
|
同 |
岡本 実太郎 |
|
同 |
杉浦 武雄 |
|
静岡 |
小久江 美代吉 |
|
同 |
海野 数馬 |
|
同 |
岸 衛 |
|
同 |
井上 剛一 |
|
同 |
永田 善三郎 |
|
山梨 |
河西 豊太郎 |
|
滋賀 |
堤 康次郎 |
|
同 |
田中 養達 |
|
岐阜 |
山田 道兄 |
|
長野 |
松本 忠雄 |
|
同 |
小坂 順造 |
|
同 |
山辺 常重 |
|
同 |
戸田 由美 |
|
同 |
降旗 元太郎 |
|
宮城 |
藤沢 幾之輔 |
|
同 |
内ヶ崎 作三郎 |
|
同 |
菅原 英伍 |
|
同 |
小山 倉之助 |
|
福島 |
栗山 博 |
|
同 |
菅村 太事 |
|
同 |
林 平馬 |
|
同 |
比佐 昌平 |
|
岩手 |
柵瀬 軍之佐 |
|
青森 |
工藤 鉄男 |
|
同 |
長内 則昭 |
|
山形 |
黒金 泰義 |
|
同 |
佐藤 啓 |
|
同 |
奥山 亀蔵 |
|
同 |
清水 徳太郎 |
|
秋田 |
町田 忠治 |
|
同 |
田中 隆三 |
|
福井 |
松井 文太郎 |
|
同 |
添田 敬一郎 |
|
石川 |
永井 柳太郎 |
|
同 |
桜井 兵五郎 |
|
富山 |
野村 嘉六 |
|
同 |
寺島 権蔵 |
|
同 |
山田 毅一 |
|
同 |
松村 謙三 |
|
鳥取 |
谷口 源十郎 |
|
島根 |
木村 小左衛門 |
|
同 |
桜内 幸雄 |
|
同 |
原 夫次郎 |
|
同 |
俵 孫一 |
|
岡山 |
小川 郷太郎 |
|
同 |
西村 丹次郎 |
|
広島 |
藤田 若水 |
|
同 |
森保 祐昌 |
|
同 |
山道 襄一 |
|
同 |
宮原 幸三郎 |
|
同 |
作田 高太郎 |
|
同 |
横山 金太郎 |
|
山口 |
藤井 啓一 |
|
同 |
沢本 与一 |
|
和歌山 |
山崎 伝之助 |
|
同 |
中村 啓次郎 |
|
同 |
小山 谷蔵 |
|
徳島 |
原田 佐之冶 |
|
同 |
高島 兵吉 |
|
香川 |
小西 和 |
|
同 |
戸沢 民十郎 |
|
愛媛 |
村松 恒一郎 |
|
高知 |
浜口 雄幸 |
|
同 |
富田 幸次郎 |
|
同 |
下元 鹿之助 |
|
同 |
大西 正幹 |
|
福岡 |
中野 正剛 |
|
同 |
大里 広次郎 |
|
同 |
吉田 磯吉 |
|
同 |
臼田 久内 |
|
同 |
勝 正憲 |
|
同 |
末松 偕一郎 |
|
大分 |
一宮 房冶郎 |
|
同 |
松田 源治 |
|
同 |
重松 重治 |
|
佐賀 |
福田 五郎 |
|
同 |
森 峰一 |
|
同 |
西 英太郎 |
|
熊本 |
小橋 一太 |
|
同 |
平山 岩彦 |
|
同 |
大麻 唯男 |
|
同 |
深水 清 |
|
同 |
安達 謙蔵 |
|
宮崎 |
鈴木 憲太郎 |
|
同 |
三浦 虎雄 |
|
沖縄 |
漢那 憲和 |
|
同 |
伊礼 肇 |
|
北海道 |
山本 厚三 |
|
同 |
坂東 幸太郎 |
|
同 |
浅川 浩 |
|
同 |
岡本 幹輔 |
|
同 |
神部 為蔵 |
|
同 |
小池 仁郎 |
|
|
|
第一控室会(34名) |
|
|
〔社会民主党〕 |
東京 |
安部 磯雄 |
|
大阪 |
西尾 末広 |
|
同 |
鈴木 文治 |
|
福岡 |
亀井 貫一郎 |
〔日本大衆党〕 |
兵庫 |
河上 丈太郎 |
|
福岡 |
浅原 健三 |
〔新党準備会〕 |
京都 |
水谷 長三郎 |
|
同 |
山本 宣治 |
〔明政会〕 |
愛知 |
椎尾 弁匡 |
|
同 |
山崎 延吉 |
|
長野 |
小山 邦太郎 |
|
岡山 |
鶴見 祐輔 |
〔実業同志会〕 |
大阪 |
武藤 山治 |
|
千葉 |
千葉 三郎 |
|
岐阜 |
川崎 助太郎 |
〔各新党〕 |
新潟 |
大竹 貫一 |
〔憲政一新会〕 |
京都 |
田崎 信蔵 |
|
兵庫 |
藤原 米造 |
|
同 |
三宅 利平 |
|
愛知 |
田中 善立 |
|
同 |
鬼丸 義斉 |
|
岐阜 |
奥村 千蔵 |
|
長野 |
樋口 秀雄 |
〔無所属〕 |
新潟 |
堤 清六 |
|
三重 |
尾崎 行雄 |
|
宮城 |
守屋 栄夫 |
|
和歌山 |
田淵 豊吉 |
|
北海道 |
檀野 礼助 |
|
東京 |
太田 信冶郎 |
|
兵庫 |
小寺 謙吉 |
|
茨城 |
河野 正義 |
|
静岡 |
小泉 策太郎 |
|
岐阜 |
渡辺 徳助 |
|
熊本 |
原田 十衛 |
|
|
|
新党倶楽部(30名) |
|
|
|
東京 |
鶴岡 和文 |
|
大阪 |
沼田 嘉一郎 |
|
大阪 |
井阪 豊光 |
|
長崎 |
志波 安一郎 |
|
同 |
森 肇 |
|
新潟 |
高島 順作 |
|
埼玉 |
長島 隆二 |
|
千葉 |
本多 貞次郎 |
|
同 |
志村 清右衛門 |
|
三重 |
岸本 康通 |
|
愛知 |
滝 正雄 |
|
宮城 |
矢本 平之助 |
|
秋田 |
榊田 清兵衛 |
|
同 |
熊谷 五右衛門 |
|
鳥取 |
三好 栄次郎 |
|
徳島 |
真鍋 勝 |
|
愛媛 |
小野 寅吉 |
|
福岡 |
大内 暢三 |
|
宮崎 |
二見 甚郷 |
|
鹿児島 |
床次 竹二郎 |
|
同 |
岩切 重雄 |
|
同 |
蔵園 三四郎 |
|
同 |
原 耕 |
|
同 |
東郷 実 |
|
同 |
寺田 市正 |
|
同 |
赤塚 正助 |
|
同 |
崎山 武夫 |
|
同 |
津崎 尚武 |
|
沖縄 |
花城 永渡 |
|
北海道 |
中西 六三郎 |
無所属(2名) |
兵庫 |
清瀬 一郎 |
|
大分 |
元田 肇 |
なお欠員が増したのは、前議会以後第五六回議会召集までに、来栖七郎(茨城)、黒住成章(北海道)、高津仲次郎(群馬)―いずれも政友会所属―が死去したためである。また本議会開会中には次のような移動があり、閉会時には、政友会222名(1名増)、民政党172名(2名減)、第一控室会35名(1名増)、新党倶楽部27名(3名減)、無所属2名(同前)、欠員8名(3名増)となっている。
|
死去→石川弘(大阪・民政)、穴水要七(山梨・政友)、山本宣治(京都第一控室会)
民政→第一控室会(無所属)、久野尊資(愛知)
第一控室会→政友、渡辺徳助(岐阜)
新党倶→政友、矢本平之助(宮城)
新党倶→第一控室会(無所属)、中西六三郎(北海道)、岩切重雄(鹿児島)
無所属→政友、元田肇(大分)議長辞任による
政友→無所属、川原茂輔(佐賀)議長就任のため |
満州某重大事件
この議会では対中国政策・不戦条約の調印などの外交問題と、地租・営業税の地方委譲を中心とする財政問題が、論戦の焦点となるものと予想されていたが、民政党は早くも12月20日の予算内示会において、永井柳太郎・小川郷太郎・町田忠治らを立てて、本会議に準ずる質問を展開している。その際すでに永井は、張作霖爆殺事件について、「事件は満鉄付属地において発生しその真相を調査する事は我が警察権に属するに拘らず、政府は何故速かにその真相を調査しこれを発表して日本国民の名誉を維持するに努めざるか」(東朝、12・21)とつめよっているが、この頃には政界最上層部には、張作霖爆殺が日本側の陰謀であるとの情報が流れており、田中内閣もこの問題の処理に苫慮し始めていた。
例えばさきにもふれた松本剛吉は、平沼騏一郎から事件の真相を聞くと共に、この問題についての各方面の反応をあつめ「政治日誌」12月13日の項に次のように記している。
|
「張作霖暗殺問題の公表可否に就て
公表賛成は田中首相、西園寺公、伊東泊、山本満鉄社長等にして、山本氏は公表論者の急先鋒であると伝ふ。
公表反対は小川鉄相、山本農相、白川陸相、鈴本参謀総長等と伝へらる。
岡田海相は公表論者なりとの説あり、閑院元帥宮殿下は賛成ともいひ、反対とも伝へらる」。 |
もし事件の真相を公表することにするとすれば、犯人を軍法会議にかけて裁かねばならなくなる。また真相を公表しないとすれば、当面の野党の追求をかわす方策を考えることが必要であった。田中首相は議会召集直後の12月25日午後、久原逓相・山本農相・小川鉄相・勝田文相の四相を私邸に招いて対中国問題を中心とした議会対策について協議しているが、この間の首相の動向について新聞は次のように報じていた。
|
「田中首相は去る24日午後2時宮中に参内して聖上陛下に拝謁仰せつけられ張作霖氏横死事件に対する調査の内容を奏上、御前を退下したる後、直に白川陸相を招致して協議するに至ったのである。25日首相が四相を招いて協議したる結果もまだ意見の一致を見るに至らなかったが、調査の結果必要あれば軍法会議を開いて真相を明白にし列国の疑惑を解くべしとの意向も相当強かった模様である」(東朝12・26)。 |
しかし軍部は真相公表に強く反対しており、田中内閣も公表に踏み切る事はできず、一方で事件に関する報道を禁止すると共に―このため事件の真相は満州某重大事件とよばれるようになった―、他方では議会ではこの問題の討議に応じないとの方針を固める。 年末年始の休会あけ直後の昭和4年1月22日、田中首相は院内で民政党・浜口雄幸、新党倶楽部・床次竹二郎の両党首と会談し、「いはゆる満州における重大事件は国際関係に鑑み、国家のためこの際議場の問題とされぬやう切に希望する。又議場の問題として御質問ありとするも、政府は目下折角調査中であって、調査中といふ外何ともお答へする事は出来ぬから予め御諒解をこふ」と述べて協力を求めた。これに対し床次は議場での問題としないことを約したが、浜口は「折角の御申出であるが某重大事件に関し我党が質問するとかしないとかいふ事はこの場合明言する事は出来ぬ」 として首相の要請を拒否した。そして午後の本会議場においては民政党の第一陣として、永井柳太郎が某重大事件をもふくむ対中国外交全般について政府を追求する質問演説を展開することになる(速記録第三号参照)。
しかし「調査中」と逃げをうつ政府を追求するには、本会議より一問一答式に質疑が行われる予算総会の方が有利とみた民政党は、中野正剛を立てて予算総会に臨んだ。中野の追求は1月25日の予算総会から始められたが、これに対して田中首相兼外相は、「慎重二考 慮シテ調査シテ居ルト言フ以外別二言フ必要ハナイ」 「答弁致シマセヌ」といった調子で爆破事件に触れることを拒み、更には黙り込んでしまって、委員長が「答弁ハアリマセヌソウデス」「御答ニナリマセヌ」などと発言する場面さえあらわれている(「予算委員会議録」)。そこで中野も論点をかえて、爆破地点の警備責任問題に焦点を移していった。爆破地点は京奉線(北京―奉天)が下を走り、その上を満鉄線が高架で交叉しているのであるが、事件直後の6月5目、陸軍省は早くも警備責任について次のような発表を行なっていた。
|
「張作霖列車爆撃事件につき爆撃地点が満鉄付属地に属するため警両責任の所在に関し種々の議論あるも、満鉄・京奉両線の交叉点の当日の警備に関しては支那側より該地点の全部を支那側にて警戒したき旨申出でありたり。しかるに我満鉄線の警備を支那側に委することは警備本来の主義上許可すべき限りにあらざるも、京奉線に関しては支那側の要望もだし難く支那側にて警戒せしめることとなれり。これがため上方にある満鉄線は日本守備隊の兵力および憲兵にて厳重警戒し、下方を通ずる京奉線は支那憲 兵にて警戒せり。しかして爆撃は橋梁の下方にて行はれたること明瞭なるを以て日本側に何らの責任なきは当然なり。なほ右交叉点における我付属地は線路を含み、四〇メートル内外にすぎざるが如し」(東朝、六・六付夕刊) |
すなわち爆破の行われた交叉点をもふくめて、満鉄線の両側(その幅については条約上にも明確な規定がない)は、日本が行政・警察権を掌握し実質的に領土権を行使している地域であったが、この日に限り張作霖大元帥が通過するということで、中国側に警備をまかせたというわけである。この発表が日本側の謀略を隠蔽するものであることは言うまでもないが、陸軍省は6月12日更に詳しい公報を出し、中国側の申出は6月3日に行われ、日本側の応諾によって中国側は皇姑屯駅から瀋陽駅に至る約1マイルの京奉線上に騎兵及び憲兵50名を配置、問題の交叉点は3日午後8時頃から金中尉他数名の中国憲兵が警戒に当たっていたと発表している。
中野はこの12日の公報を読みあげながら、満州治安維持声明によってあたかも満州を戒厳令下においているような時期に、何故警備権を引渡すような奇怪なことを行ったのか、それはどんな権限にもとづいて誰の責任で行われたのか、などの点を追求し、政府の答弁を混乱させた。民政党はさらに1月31日の本会議に事件当時、奉天に居た山道襄一を質問に立て、つづいて「政府ハ宜シク某重大事件二関シ今日迄調査シタルー切ノ調査ノ結果ヲ発表シ以テ中外ノ疑惑ヲー掃スヘシ」との決議案を上程したが、賛成198票、反対220票で否決されてしまった(速記録第一〇号参照)。
こうして張作霖爆殺事件は、政府側の言論抑圧が功を奏した形でうやむやに終わっているが、しかし民政党の側もどれだけ本気で事件の真相を明らかにしようとしたかは疑問である。例えば2月4日の予算総会では、社会民衆党の亀井貫一郎が、この事件には「軍部、或ハ出先官憲ガ積極的ニ」関係している疑いがあるとして、火薬が下瀬火薬の臭いがしたとか、「河本参謀ガ大石橋二住ンデ居ル所ノ女郎屋ノ主人新井宗治ヲ経テ乞食ヲ頼ンデソレヲ便衣隊ト称シテ出シタ」(「予算委員会議録」)といった情報にふれているのであり(政府側の答弁なし、また記事差止めのためこの発言は新聞にも掲載されていない)、この種の情報は民政党も入手していたと考えられる。しかし同党の場合には「国家本位」の観点からこの種の情報をもって政府を追求することはしないとの態度をとっていた。当時の民政党の情況については、次のように報じられている。
|
「(民政党内には)あくまで真相を発表して政府の不当なる態度を糾弾しどこまでもその責任を問ふべきであるとの硬論に対し、一方には本問題を暴露する時は独り田中内閣の致命傷となるばかりでなく国家として大なる損害を蒙るから、警備区域その他の問題に関する白川陸相の責任はただしてもよいが、党の有する確証を表示して政府に迫る事は国家のため慎んだがよいとの軟論出で……あくまで国家本位に立脚して言論し、その取扱ひ方につき細心の注意を払ふことに決した」(東朝、一・二五)。 |
つまり、中野正剛が満州某重大事件そのものよりも、 警備責任の問題に焦点をおいたのは、このような民政党の態度を反映したものにほかならなかった。
中国関税問題・済南事件交渉
すでに述べたように、田中内閣は、南北妥協阻止政策の失敗が明らかになった昭和3年末から、国民政府との関係打開に本腰を入れるようになり、まず1月30日付の交換公文によって、中国側の要求する新関税率を承認した。その内容はすでに大正14年に聞かれた北京関税会議で大筋の諒解は出来ていたものであったが、ここで重要なことは、田中内閣がこの新関税協定を日中関係打開のきっかけにしようとする態度を示 した点であり、田中首相は1月29日の予算総会において、関税協定の成立は事実上国民政府の承認を意味すると言明していた。
そして田中内閣は、つづけて済南事件を解決しようとした。済南からの撤兵は日中関係を改善する前提となる問題であったが、日本側から言えば、中国側にどの程度まで責任を認めさせるかという点が焦点になっていた。日本側は最初、(一)中国側の謝罪、(二)責任者の処罰、(三)損害賠償、(四)将来の保障を解決の四条件としたが、中国側はこのような事件の責任が一方的に中国側にあるとする見方を拒否し、交渉は難航していたものであった。田中内閣も昭和4年にはいると事件の責任を一方的に中国側に押しつけることが無理であることを認め、2月4日の芳沢謙吉公使・王正廷外交部長の会見では次のような条件での合意が成立したと伝えられた。すなわち、一、謝罪又は陳謝の意を覚書に表示せず、責任者処罰問題にも触れない、二、日中両国は済南事件を不祥事として遺憾の意を表す、三、損害賠償は日中共同委員会の調査により決定する、四、日本車は解決調印と同時に撤退を開始する、五、居留民の安全に対する将来の保障については中国側の声明に信頼すること、などであった(東朝、二・六)。
この解決案は明らかに、事件の全責任は中国側にありとする田中内閣の態度が根底からくつがえされたことを示していた。ちょうど内閣不信任案の上程にあわせて院外の倒閣運動をも展開しようとしていた民政党は、早速この問題をとらえ、2月7日の本会議で中村啓次郎を立てて緊急質問を行い(速記録第一三号参照)、 田中内閣が当初の主張を放棄した点を追求したが、ここでも田中首相は、事件については目下交渉中である から、その内容および経過について述べることは出来ないとして一切の答弁を拒否した。そして翌8日の芳沢・王正廷会談は一変して、日本側の新しい要求によって決裂してしまった。
事件解決の協定は結局、議会閉会(3月25日)直後の3月28日に調印されているが、協定の内容は前述の報道そのままであり、この交渉の中断は、議会の追求により窮地におちいることを恐れた田中内閣が議会での審議を回避するために画策したものであるとみられた。いずれにせよ、若し田中内閣が存続していたとしたら、不戦条約問題とともに、次の議会ではこの済南事件解決協定でも野党の激しい追求に直面することは必至であった。
不戦条約問題
不戦条約とは「国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ放棄スルコト」を約束したもので、昭和3(1928)年 8月27日、パリで、アメリカ・フランス・イギリス・ ドイツ・イタリー・日本・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキアなどが調印したものである。この条約は前年4月、アメリカの第一次大戦参戦一〇周年記念日に際して、フランスのブリアン外相が米仏二国間の不戦条約を提議したことに端を発したものであるが、 アメリカ側は米仏条約よりも、多国間の一般的条約とすることを望み、昭和3年になるとアメリカが中心となって交渉が進められたのであった。
アメリカからこの条約への参加を求められた田中内閣では、原則的に賛成したが、なお二つの点が問題とされた。第一は条約交渉の過程において、この条約が自衛権の行使を妨げるものではないとの諒解がなされていたが、日本の自衛権には、中国とくに満蒙権益を 防衛する行動をふくむとの宣言をなすべきだとの意見が出された点であった。しかし英国が「世界ノ或ル地域」における自由行動を自衛権の範囲内だと主張しているという事情もあり、閣議は自衛権は国境外にも及ぶとの広義の解釈により、特別の宣言はしないことにおちついた。
第二の問題は、のちに政治問題化する「人民ノ名ニ於テ」の一句についてであった。すなわち条約第一条は「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争二訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ 戦争ヲ(手へん+まげあし+力)棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」と規定しているが、この文面は天皇が人民を代理して条約を締結すると解されるおそれがあり、そうなれば憲法違反をまぬがれ難いというにあった。そこで田中内聞は、アメリカ側に対し右の辞句の修正ないし削除を求めたが、アメリカ側は条約の変更をみ とめると他の国々からも多くの修正意見が出されるとして拒絶、日本側も次のような覚書を得たことに満足して調印にふみ切った。
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「1928年7月16日、ケロッグ米国務長官ヨリ沢田臨時代理大使ノ受領シタル覚書
本官ハ今朝、日本国代理大使ヨリ覚書ヲ受領シタルカ右覚書ニ於テ同代理大使ハ戦争(てへん+まげあし+力)棄ニ関スル条約第一条中ノ『其各自ノ人民ノ名ニ於テ』ナル字句ハ日本国皇帝陛下カ『其ノ人民ノ代理者トシテ』署名セラルルノ意ニ非サルモノト丁解セラルヘキ旨ヲ述ヘタリ、本官カ1928年7月6日日本国代理大使ニ与ヘタル覚書中ニ述ヘタルカ如ク『人民ノ名ニ於テ』ナル字句ハ『人ノ為ニ』ナル字句ト同意義ナリ、日本国憲法ニ依レハ日本国皇帝陛下ハ自ラノ名ニ於テ署名セラレ其ノ人民ニ代リテ署名セラルルモノニ非サルカ故ニ、日本国二於テハ右字句ハ如何ナル種類ノ代理ヲモ意味シ得サルコト極メテ明瞭ナリ、本官ノ右ニ述ヘタルカ如キ解釈ニ依ル日本語訳文ハ完全ニ正確ナルヘシ」 (外務省編『外交年表並主要文書』下巻所収) |
すなわち田中内閣はこの「人民ノ名ニ於テ」なる語句を、天皇が人民のために宣言せられるという意味に解釈するということで条約に調印したのであった。しかし野党側からはこのような解釈に反対し、この語句は国体に反するとの攻撃がおこった。その場合、大日本帝国憲法における「ノ名ニ於テ」の用法が引合いに出されることになる。つまり1月23日の本会議で民政党の中村啓次郎が述べているように(速記録第四号参照)、憲法第一七条「摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ」、第五七条「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」などの例をみても日本の法律用語としては「ノ名ニ於テ」は権力の代行関係を指すことは明らかだというわけである。
これに対して政府は前述の解釈をもって応じたが、3月中旬になると枢密院方面で同条約に留保粂件をつけることを要求しているとのニュースも流れ、野党側も再度この問題をとりあげている。3月14日には小泉又次郎(民政)が不戦条約批准問題についての緊急質問を行い(速記録第三二号参照)、会期最終日の3月25日の本会議には、尾崎行雄・小泉又次郎らによる決議案が上程されている(速記録第四一号参照)。この決議案は、「人民ノ名ニ於テ」の語句は憲法上重大な疑義を生じ、国体観念に誤解を来たすおそれがあるとして、政府は適当の措置を講じたうえで、早急に批准奏請の手続をとれというものであったが、起立採決の結果、否決された。
しかし政府側は、議会閉会後6月に至り、問題の語句は日本に適用なきものと了解するとの留保宣言をつけて同条約批准案を枢密院に提出するにいたっている。このことは、政府が、政府与党によって議会で否決した決議案と同じ方法をとったことを意味しており、重大な政治責任が生ずることは必然であった。当時この問題は田中内閣総辞職の一つの原囚になったと考えら れていた。
内閣不信任案と新党倶楽部の動向
民政党は満州某重大事件をはじめ、重要問題についての本会議での質問演説が一段落したところで内閣不信任案を準備した。同時に院外でも倒閣の大衆運動を起こそうとし、2月4日から二〇班の宣伝隊をくり出 して演説会の開催、ポスター・ピラの配布などを行い、不信任案上程の2月9日には、上野公園に2万名を集めて倒閣国民大会を開きデモ行進を行っている。
しかし院内の形勢は、前議会とは異なり民政党に著 しく不利になっていた。与党側は憲政一新会を加えて、政友221名、一新会7名、実業同志会3名、計231名となり、461名(欠員5)の過半数を制しており、新党倶楽部を加えても野党側の勝昧はうすかった。このことはすでに1月31日の某重大事件の調査結果の発表を求める決議案の表決にあらわれていた。この結果はすでに述べたように、198対220で否決されたのであるが、その党派別の内訳をみると、野党側=民政154、新党25、無産8、無所属6、明政4、革新1、計198に対して、与党側=政友209、一新7、実同2、無所属2、計220となっていた。この決議案は民政党と新党倶楽部との連携によって不意打ち的に出されたものであったが、それでも22票という予想外の大差で敗れたのであった。
もっとも、新党倶楽部としては否決の結果、つまり内閣を窮地におとしいれないことを見越したうえで、民政党と握手して「是々非々」の形をとろうとしたものともみられ、以後は急速に与党的立場を明らかにしていった。まず、2月2日の本会議で治安維持法改正緊急勅令の事後承諾案を審査する特別委員会が構成されたが、18名の委員の内訳は政友9、民政7、新党1、無産1となり、もし新党倶楽部が野党の立場に立てば、与野党同数の9名となって政府は苦しい立場に追い込まれるところであった。すなわちその場合、委員会互選の結果は同数となり先例により抽せんで決められることになるが、政友が委員長をとれば、案件は8対9で否決、民政が委員長をとれば、前議会同様の審議未了におい込まれることが予想された。そこで政友会は新党倶楽部の協力を求めて奔走することになるが、新党側はこれに応じて委員長を同党から出すことで政友会の窮状を救ったのであった。
さらに、不信任案上程が近づいた2月6日の議員総会では、前日の済南事件解決のニュース(前述)によって、新党が要求してきた済南撤兵が見通しがついたとして、予算案の原案承認、不信任案反対など準与党の立場を明確にした。これにより、内閣不信任案が大差をもって否決されることが明らかになったため、2月9日同案が上程されると、民政党は議場を混乱させて議事引延しをはかる作戦に出た。これに対し政友会側は一日も早くこの問題を始末しようとし、元田議長は翌10日が日曜日であるにもかかわらず職権で本会議を召集するという異例の措置をとり、不信任案は185対249と64票差をもって否決された。
もっとも新党倶楽部内には、第三党の立場をすてたこうした与党化に反対する議員も多く、採決にあたっては8名という各党派中最も多くの欠席者を出すに至っており(政友は5名、民政は2名欠席)、そのうち中西六三郎・岩切重雄はついに脱党するに至っている。しかしともかくも、この不信任案否決の票差は以後のこの議会の勢力分野を示すものとなった。すなわち、2月12日の本会議では民政党の予算案返上動議(撤回して組み直せ)が177対259と82票差で否決され、昭和4年度予算案は無修正で衆議院を通過しているし、また3月7日に上程された久原房之助逓相弾劾決議案(「逓相ノ処決ニ関スル件」)は175対238 と63票差をもって葬られている。こうして重要問題については殆んど政府・与党に同調するようになった新党倶楽部も、なお若干の問題では政府に批判的な姿勢を保ち、第三党=是々非々主義の看板を守ろうとした。そして両税委譲問題に対する対応をその例としてあげることができる。
両税委譲法案と自作農創設政策
両税委譲とは地租と営業税を地方に委譲することによって、地方財政の強化を図ろうとする政友会の年来の主張を指している。田中内閣最初の通常議会であるこの第五六回議会では、看板政策である両税委譲の実現が最重点政策の一つにとりあげられた。しかし田中内閣はこの問題を直ちに実現することは困難であるとし、昭和四・五年度を過渡的経過期間として国税・地方税を通ずる税制整備を行うと同時に、地租・営業税の減税を実施したうえで、昭和六年度から両説を委譲するという方針を立て、関係法案をこの議会に提出した。この法案は議会では「地租条例廃止法律案外一六件」といった形で一括されて審議されている。
この法案は、両税委譲と地方分権がどんな関係にあるのか、委譲により減少する国庫の収入をどう補てんするのかという二つの観点から論議されたが、野党・民政党はとくに後者の点につき、この政策を公債・借金政策にほかならないとして非難した(小川郷太郎の質問演説、速記録第四号参照)。民政党がこの点からの批判に力点をおいたのは、この問題が更に金解禁の問題につながっているからであった。
金解禁とは、第一次大戦当時に実施されたままになっている金輸出の禁を解き、金本位制に復帰することであるが、当時はこのことが経済の行詰りを打破するきめ手になるとする考え方が支配的であり、政友会も時期や方法について慎重論をとったものの、金解禁を政策目標とすることには賛成であった。とくにこの議会前には、10月22日、銀行家の総意として「政府は即時禁輸出禁止を解除せらるべし」との決議が東西手形交換所理事長連名をもって発表され、また12月21日には、政府の諮問機関である経済審議会総会が「金の輸出禁止はなるべく速かにこれを解除すること」とする答申案を可決するなど、金解禁即行を求める財界の声が高まっていた。民政党の主張は、経済発展のためにはまず金解禁が必要であり、このためには財政緊縮政策を実行しなければならないとするものであり、この観点から政友会の公債政策を批判したのであった。 これに対して政友会側は、まず国内の経済状態を改善 してから金解禁を実施すべきだとの態度をとっており、 両税委譲法案の背後には、このような金解禁をめぐる対立が存在していた。
ところで、新党倶楽部は政民両党のこうした対立に対して原則的には民政党に同調し、委譲法案そのものには反対したが、ただし経過的措置として出された両税軽減法案には賛成するという奇妙な態度をとった。この結果、2月21日の本会議では委譲関係法案は232対217というわずか15票差という切迫した争いになったのに対して、軽減関係法案は投票をまたずに多数をもって可決されるに至っている(速記録第二〇号参照)。しかし水野文相優詔問題で反政府気運が高まっていた貴族院ではいずれも審議未了に終わり、 政府・与党はその看板政策を実現できないで終わった。
両税委譲問題では民政党の攻撃をうけた三土蔵相もインフレ政策をもくろんでいたわけではなかった。彼は事業公債は不健全なものではないという持論をもっていたが、同時にまた当時の財政について、公債は2億円が限度であるとも主張していた。そしてこの限度を守りながら、両損委譲を第一順位として実現しようとすれば、その他の政策が犠牲とされることになるのは必然であり、政府・与党の内部から不満がおこるという事態もあらわれた。この点で最も大きな問題となったのは、山本悌二郎農相と三土忠造蔵相との対立であった。
対立の焦点は前年度の予算編成の時から問題になっている自作農創設維持政策の拡張についてであった。この政策は小作農に長期返済の低利資金を融資して小作地を買いとらせて自作化することを目標とするものであり、大正15年度から発足していた。資金は簡易生 命探険積立金により、昭和4年度には1500万円が融資される計画になっていた。政友会はこの自作農創設の拡大強化を主要政策の一つに掲げており、山本農相のもとでは、農地金庫を設立し毎年8000万円を限度とする農地債券を発行して、創設事業を大々的に拡充する案が立てられていた。この案はすでに10月 の閣議にかけられたが三土蔵相の反対によって保留となり、第五六回議会の審議が本格化した2月にはいってもまだ両者の意見は一致せず、具体案が決められないというありさまとなった。そのうえ山本農相はこれとは別に肥料管理法をつくり、4000万円を限度とする特別会計によって、需給・価格の安定のために化学肥料の買入れ・売渡しを行うとの案を出し、これについても蔵相の強い反対をうけていた。
自作農・肥料両法案をめぐる閣内の紛糾がつづいている間に、今度は農村関係議員の超党派的な集まりである農政研究会が、米価低落による農民の窮状を救うために、米価調節資金を増額せよとの運動を始めた。そしてついには議員立法として米穀需給調節特別会計の運用資金を2億円から4億円に倍増するという同特別会計法改正案が提出されるに至った。田中内閣もこうした農村議員の動向を無視するわけにもゆかず、この問題についても政府案を作成することとなり、ようやく2月18日の閣議に至って自作農・肥料関係法案及び米穀関係法改正案をこの議会に提出するとの態度が決定された。
結局自作農創設は農地金庫の設立をやめて借入金年額3000万円(預金部よりの借入れを予定)を限度とする特別会計により運用し、借入金が3000万円に満たない場合に不足額だけ農地債券を発行する、肥料管理は借入金限度2000万円の特別会計で運用する、米穀需給調節特別会計の資金は2億円から2億7000万円に増額するとする政府案が提出され、さきの議員提出案は撤回された。しかしこれらのうち貴族院をも通過して成立したのは米穀需給調節特別会計法改正案のみであり、自作農創設維特肋成資金特別会計法案、肥料管理法案、肥料管理特別会計法案はいずれも貴族院で審議未了、廃案となってしまった。
小選挙区制案と議場の混乱
自作農・肥料など農村関係法案が政府から提出され、重要法案が出つくした3月上旬になると、今度は新党倶楽部と政友会の間で小選挙区制案をこの議会に提出するという動きが表面化し、会期末の議場を混乱させることになった。すでに小選挙区制は、床次が民政党脱党、第3党樹立の声明のなかで政界安定策として主張していたものであり、新党倶楽部の政綱の一つとなっていた。それはかっての原敬内閣のもとでの小選挙区制による政友会絶対多数を再現せんとするものであり、当然、政友会のなかにも多くの賛成者があった。 従って政友・新党間の連携が深まるにつれて、小選挙区制の実現は、両党の再合同と絶対多数の回復をめざす一石二鳥の策と考えられるに至ったとみられる。
3月5日の新聞には早くも選挙区の区割り案が掲載されているが、野党側が絶対反対の態度を表明したほか、貴族院・枢密院方面からも反対の意向が伝えられ、また東京朝日が「小選挙区還元断じて不可」と題する社説をかかげる(3・8)など言論機関も強い反対の姿勢を示した。しかし政友・新党側はこれらの反対を無視して議員立法として提案したが、その内容は党内調整の過程で2人区・3人区の多い著しく変則的な小選挙区案に修正されていた。これに対して野党側はあらゆる方法で成立を阻止する方針を固め、同法案が上程された3月9日の本会議は提案理由の説明も行えないほどの混乱状態となった。新聞はそのありさまを次のように伝えている。
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「小選挙区制案を上程した9日の衆議院本会議は、提案の趣旨弁明をなすべく床次竹二郎君登壇するや否や議場は大混乱に陥り直ちに休憩となったが、午後2時25分再開後も本題の区制案そっちのけに政民両派は懲罰動議を提出し合って議事は少しも進行せず……議長は午後5時15分再び休憩を宣した。かくてこの休憩中凡ゆる方法をもって議事進行法について協議したが遂に朝野両党の問に意見の一致を見ず、休憩前の状態のままで議場に臨むことになり午後9時に至り再開の振鈴なきに各派共入場し議長の出席を待つ。議長の方では演壇下に守衛10数名を整列させて無断で演壇に登るものを妨止せしめんとし物々しき光景を示したので民政党・無産党一せいにこの不法を守衛長に詰らんと演壇下に押寄せたので政友会側の常習的暴力議員等10数名一せいに対抗的に民政党席に殺到し、ここに今期議会最初の腕力ざたが行われ議場は全く修羅場と化す……」(東朝、3・10) |
翌10日は日曜で休会、11日に至ってようやく床次の趣旨弁明が行われたが野党側は議事引延し戦術をとり、この日は斉藤隆夫(民政)、翌12日は亀井貫一郎(社民)、武富済(民政)らが、選挙区毎にその区割りの不合理を指摘するなどの方法で長広舌をふるった。13日に至ってやっと委員付託となり、政友・新党側は22日に原案通り可決したが、すでに会期切れ直前であり、貴族院では委員付託にもならずに質問演説が行われただけで審議未了に終わっている。
その他の重要法案等
この議会では、政府側は新たに憲政一新会を与党とし、さらに新党倶楽部を準与党としてさきの第五五回 議会当時よりはるかに安定した立場に立った筈であるが、しかし法案成立状況からみると著しく不成績であった。すでに述べたように、両税委譲・自作農創設・ 肥料管理などの看板法案をはじめ、宗数団体法案・労働者災害扶助法案・鉱業法改正案・北海道鉄道他13鉄道買収のための公債発行法案・国際汽船の整理に関する法律案などが軒なみ不成立に終わっている。
こうした不成績の原因としては、外交問題等でしばしば窮地に立たされたこと、閣内対立のため法案提出がおくれたことなどのほか、貴族院の掌握に失敗し、優詔問題の取扱いをめぐって貴族院の反政府気運を高める結果を招いたことなどをあげることが出来よう。
この議会で成立した重要案件としては、すでにふれた昭和4年度予算案・治安維持法改正緊急勅令事後承諾案・米穀需給調節特別会計法改正案などのほか、府県制・市制・町村制改正案をあげておかなくてはならないであろう。この改正は、はじめて地方議会議員に議案発案権を認め、また府県に粂例制定権を与えるなど自治権を強化した反面、短事の原案執行権を制限するなど国の監督を弱めており、第二次大戦前における自治権拡充のピークをなしたものと言うことが出来る。しかしこの改正に関連して民政党から議員立法として出された婦人に公民権を与える改正案には政府側は時期尚早として反対しており、婦人参政権・政治結社加人権や公娼制度廃止などを要求するその他の婦人に関する議員立法案と同じく否決されてしまっている。
その他あまり世の関心をひかずに成立したものに資源調査法があるが、この法律は国家総動員の準備を目的としたものであり、この時期にこうした性質の法案が成立したことに注意しておく必要もあろう。
なお、この議会閉会中の3月5日夜、旧労働農民党所属・京都府選出の山本宣治代議士が東京・神田の旅館で暗殺されるという事件がおこっている。犯人は右翼団体七生義団所員の黒田保久二・37歳であり、 山本に面会を求め短刀で刺殺したものであった。
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