ロンドン条約と統帥権問題
第五八特別議会が終わると、ロンドン海軍軍縮条約の批准問題が次の政局の焦点としてクローズ・アップされてきた。もともと兵力量についての対米譲歩に不満であった海軍軍令部が、右翼勢力の条約調印は統帥権干犯だとする主張に同調して、次第に強硬な態度をとり始めたことが、政局を動揺させる直接の要因となっていた(「第五九回帝国議会貴族院解説」参照)。しかもその際条約批准阻止に動いているのが、平沼騏一郎のひきいる国本社など従来からの右翼勢力ばかりでなく、軍部内から「国内改造」を唱え始めていたいわゆる軍部革新派、とくに青年将校及び彼等と連絡をもつより行動的な新しい右翼団体がこの問題を捉えて政治の舞台に登場し始めたことに注目しなくてはならない。
すでに昭和4(1929)年11月には、北一輝の影響下にある寺田稲次郎を執行委員長、西田税を統制委員長とする日本国民党が、ついで昭和5年2月には、高畠素之門下の津久井竜雄、上杉慎吉門下の天野辰夫らによる愛国勤労党が結成されているが、ロンドン条約が問題化した昭和5年4月になると、海軍青年将校の中心人物藤井斉は「憂国慨言」、陸軍青年将校のリーダーの一人大岸頼好は「兵火第一号」なるパンフレットを配布して積極的活動にのり出しており、これらの勢力はロンドン条約反対陣営の活動部分を形成したと考えられる。例えば藤井は5月8日付けで九州の同志に送った手紙で「海軍の青年士官は勿論、将官級の有力なる人が同志となった。陸軍の青年士官との提携は出来た。而して又陸軍の重鎮・或師団長と海軍のそれとの提携も成っている。○○(皇族カ)中にも一名ある。北氏一派と海軍との連絡は出来た。(中略)北氏は軍令部長・同次長にも会って最後の方法の処迄話したと言ふ」(みすず書房版「現代史資料・国家主義運動(一)」53頁)と述べているし、また大岸は、6、7月頃配布した「兵火第二号」で、「陸海両部盟友の連絡は5月25日を以て其の大本を完結した。当面の政府対軍令部の問題更に別面より言へば軍令部派対反軍部派間の問題は吾等当面の題目として革命作業の過程として政党財閥亡国的支配階級、指導階級の撃滅への方向に役立つ限り吾等陸海の盟友は海軍軍令部を支持すべきである」(同前「国家主義運動(三)」258頁9と叫んでいた。
ロンドン条約反対の論拠は、この条約が統帥機関である軍令部の反対を押切って調印されたものであり、従って統帥権を干犯しているというにあった。統帥権とは軍隊に命令を下し指揮する権限であり、この権限を内閣や議会の拘束を受けずに全く独立して運用される「天皇大権」として規定したところに明治憲法の1つの特色がみられたわけであるが、ここでの問題は、この統帥権の及ぶ範囲をどう規定するかという点にあった。 すなわち条約反対派は、常備兵力量の決定にも統帥権が及ぶとし、政府は統帥機関の承認なしには兵力量を決定できないとするのに対して、浜口首相らは、外交・財政政策と関連する常備兵力量の決定は内閣の権限であり、統帥機関の意向を参酌すれば足りると考えていた。若し前者の意見に従うとすると、兵力量は軍令部や参謀本部が内閣や議会から独立して作成する作戦計画によって決定され、外交・財政政策はそれに従属しなければならないことになる。
ロンドン条約問題を契機として、海軍だけでなく陸軍内部もまた大きく動き出したことは、もちろん統帥権問題が軍部全体の利害に関係していることを示すものではあるが、ただそれだけではなく、この時期には浜口内閣の外交・財政政策に対する不満、さらには政党政治そのものに対する忿懣が軍部のなかに蓄積されていたことと関連していた。とくに陸軍のなかには、「満蒙問題の解決」(=植民地化)を要求する声が高まっており、「満蒙問題の解決」と「国家改造」とは不可分のものとして意識されるようになっていた。さきにみた青年将校の運動もこうした意識にもとづくものであったが、それは陸軍中枢部にも浸透しているものに他ならなかった。すでに昭和2年頃から、二葉会・ 一タ会などこうした方向を指向する幕僚将校のグルー プが形成されていたが、これらのグループは昭和5年には、参謀本部の「情勢判断」を左右する程に軍中枢部にくい入っていた。すなわち「昭和五年参謀本部に於いては、恒例に依る第二部の情勢判断が行はれた。 従来のものは単に作戦に資するためのものであって、 敵国をのみ眼中に置いたものであったが、昭和五年の判断に於いては、積極的に満蒙問題を解決せんとせば必然的に国家の改造を先行条件とせざるを得ず、之が為め先づ国家の改造を決行すべしとの重大な一項が加へられた」(同前「国家主義運動(一)」58頁)という。 そしてこの情勢判断作成の中心となった橋本欣五郎中佐は、ロンドン条約批准案が枢密院で審議されていた昭和5年9月には、中佐以下の将校を集めて「桜会」を 結成するに至っている。桜会は「国家改造を以て終局の目的とし、之れが為め要すれば武力を行使するも辞せず」とクーデターを肯定した点で注目されるが、同時にまた「今やこの頽廃し喝せる政党者流の毒刃が軍部に向かひ指向せられつつあるはこれを『ロンドン』条約問題に就いて観るも明らかなる事実なり」(同前667頁)とする情勢認識を結成の契機とするものでもあった。
つまり、ロンドン条約をめぐる政治的対立は直接には統帥権についての憲法論争として展開されていたが、その底では、浜口内閣の国際協調政策か、軍部の満蒙侵略政策か、政党政治か、軍部主導の政治体制か、という政治路線の選択をめぐって、諸勢力の関係が再編 されつつあったのである。
しかし、浜口内閣がこうした情勢をどれだけ的確に把握していたかは疑問であった。浜口内閣にも民政党にも、平和主義的諸団体の活動をたすけ、国民大衆に訴えて、国際協調=軍縮の路線を強めようとする努力はみられなかった。浜口首相は元老・重臣層の支持に依拠し、強硬派との正面衝突を回避しながら、ともかくもロンドン条約の批准を実現しようとしていた。そしてまず海軍の長老の1人岡田啓介大将のあっせんにより、加藤寛治軍令部長・末次信正同次長の更迭を実現し、次に軍令部の要求する補充計画(空軍拡充など) の実施を約束することで海軍を条約承認の方向にまとめることに成功した。昭和5年7月23日、軍事参議院が、補充計画が実行されるならば、ロンドン条約の兵力量によっても国防用兵上の支障は生じない旨の奉答文を可決したことで、条約批准の見通しはついたと言ってよい。8月から9月にかけて開かれた枢密院審査委員会では政府攻撃の論戦が展開され、質疑が打切 られた9月15日の第11回委員会の時点では、委員会は審議延期を決議して政府と対決するのではないかとみられていた。しかし海軍首脳部が条約承認に一致 してしまった以上枢密院も政府攻撃のきめ手を欠き、 9月17日の審査委員会では一般の予想をうらぎって条約批准案が可決された。ついで10月1日の枢密院本会議も満場一致で批准案を可決、ロンドン条約問題はようやく幕となった(この間の経過については詳しく は「第五九回帝国議会貴族院解説」参照)。
ロンドン条約は実現されたものの、条約反対の方向に動いた右翼・軍部の勢力の増大が阻止されたわけではなかった。野党の政友会はむしろこれらの勢力によって浜口内閣が倒されることを期待していた。第58回議会以後の政友会は、軍閥の支持者と非難されることを避けるため、表面ではロンドン条約批准問題につ いては目立った動きは示さなかったが、裏面では各方面に条約反対の働きかけを行っていたとみられる。例えば、政友会の領袖山本悌二郎・久原房之助・鈴木喜三郎らは海軍のまとめ役となった岡田啓介を訪れ、条約反対の意見を述べたてていた(「岡田啓介日記」参照、みすず書房「現代史資料・満州事変I」所収)。こうして表面的には動かなかった政友会も、条約批准の最終段階になると、政変を期待して積極的に枢密院反政府派に呼応する方向に踏み切った。枢密院審査委員会が政府対決の方針を打出すかにみえた9月16日、政友会は臨時党大会を開き、席上大養総裁は「政府がロンドン条約案に関し軍令部の同意なくして全権に対し回訓を発したることは明らかに統帥権干犯である」(東朝、 9・17)と演説して条約反対派にくみした。
しかし翌17日、前述のように審査委員会は一転して批准案を可決しているのであり、政友会の思惑は全くはずれてしまった。東京朝日は9月18日の紙面に「枢府急転と政友会」と題する社説をかかげ、次のように政友会を批判した。すなわち、「一体十六日の政友会臨時大会ほどの悲惨なる滑けいはなかった。政変来を錯覚したのか、ただ幻想であったのかは知らず、枢密院の横車に急いで飛び乗って、憲政のレールをはづれて転落したのであるから、笑止といふも愚かなりといふ有様なのである。もし一党を率いて天下の前に、この悲惨なる滑けい劇を演ぜしめた責任者があるなら、坊主になって天下と公党とに謝罪しなければならないのである。実際今度の事は、枢密院の敗北のみではなく、政友会の敗北でもあったのである」 と述べ、更につづけて「政友会が立憲的政党として国民の信を博せんとするならばよろしくこの際は憲政共同の敵である枢密院をおさへてロンドン条約の批准を 促進し、その上で国民負担軽減をしきらない現内閣への攻撃」を行うべきであったと言うのである。
しかし政友会内部では、田中外交以来の対華強硬政策を軍部と提携してでも実現しようとする森恪らの勢力が増大しており、政友会がこの社説の期待するよう に、立憲・非立憲の枠組みによって政治的態度を決定する可能性は次第に薄らぎつつあったとみることができる。
無産政党の動向
浜口内閣がロンドン条約の代償として海軍補充計画の実現を約束したことは、以後の財政経済政策に大き な影響を及ぼすことになった。ロンドン条約により、昭和6年度から11年度にかけて5億800万円が節減される計算となり、この財源を海軍補充計画と減税とにどう割り振るかをめぐって大蔵・海軍両者の折衝がつづけられたが、結局11月に至り、補充計画3億7400万円、減税1億3400万円という妥協が成 立した。最初の要求額からみれば著しく圧縮されたとは言え、補充計画分がなお節約財源の3分の2を占めているのであり、軍縮による国民負担の軽減という浜口内閣のスローガンは著しく影のうすいものになってしまっていた。
さらにそのうえ、昭和5年夏頃から世界大恐慌の影響により不況は深刻となっており、税収の減少による歳入欠陥問題が表面化したばかりでなく、翌6年度の税収は更に減少することは確実であった。浜口内閣は金解禁=金本位体制を維持する限り、積極的な不況対策を立てえない状況におい込まれていた。昭和6年度予算にあらわれた積極的不況対策は、非募債主義を一時緩和し、一般会計2200万円、特別会計1200万円の公債を発行して失業救済事業にあてるということだけであった(財政問題については、「第五九回帝国議会貴族院解説」参照)。
結局浜口内閣の経済政策は、カルテル化促進を目的とする重要産業統制法を第59回議会で成立させたことからも明らかなように、産業合理化運動を軸とするものであり、従って国民は恐慌の渦中に放置されてい たと言ってよい、しかし四分五裂の状態にあった無産政党の側もこの状況に充分適応することはできなかっ た。田中消玄を委員長とする日本共産党中央が、情勢を恐慌の深刻化↓大衆闘争の激化↓革命の条件の成熟として捉え、武装行動方針を提起して武装メーデー事件をひきおこしたのも、指導の混乱を示す一例であっ た。この方針は8月のプロフィンテルン第5回大会(モスクワ)で批判されたが、それ以前の7月中旬には田中らの中央部は検挙されて消滅、翌昭和6年1月、風間丈吉・岩田義道らによって再建されるまでは潰滅状態がつづいていた。
合法無産政党の間では、依然として戦線統一=合同への要求と、指導方針の相異による分裂への傾向とが交錯してあらわれていた。労農大衆党(京都)、大和統一無産党(奈良)、岩手無産党、千葉労農党、東京無産党など旧労働農民党合法派が結成した地方政党は、 昭和4年9月には無産政党戦線統一協議会を結成しており(東京無産党は昭和5年3月加盟)、また社会民衆党から分裂した全国民衆党(昭和5年1月結成)は無産政党の統一を叫び合同運動に狂奔していた。そして昭和5年2月総選挙での無産政党の予想外の不振、恐慌下 での闘争力強化の要請などによって、合同の気運は無産運動全体に高まってきた。しかしこれまで数年にわたる離合集散によって、右派(社会民衆党)、中間派(日本大衆党)、左派(労農党)の間の対立は容易に抜きがたいものとなっていた。
右派の社会民衆党の場合には、容共左派の労農党との合同には絶対反対、日本大衆党も容共分子をふくむから合同はできないが、共同闘争なら可能との方針を とっていた。これに対して、労農党の場合には闘争力強化のための戦線統一には賛成するが、社会民主主義的方針に反対する「党内批判の自由」を確保することが必要との態度をとっており、その合同提議も日本大衆党をして「宗派的分裂主義」に立脚した合同論だと憤激させる結果を招いていた。従ってこの合同の気運も結局のところ、中間派の日本大衆党とさきの全国民衆党、無産政党戦線統一協議会の三者合同を実現したにとどまった。昭和5年7月20日の三派合同大会によって、麻生久を中央執行委員会議長、三輪寿壮を書記長とする全国大衆党が成立する。そしてここで情勢は一転し、合同問題よりも、労農党の内紛・分裂が世の注目を集めるに至った。
同党内部の対立はすでに6月頃から、党首大山郁夫と、この年昭和5年1月に京都より上京して機関紙部長となった河上肇との間に始まっていたとみられる。すなわち河上が同党をコミンテルンの指導をうけいれる非合法の労農同盟の方向に転化させようとするのに対して、大山らはまず合法運動により労働組合・農民組合を拡大強化しなければならないと主張した。そこには、プロレタリア政党は共産党だけであるべきだというコミンテルンの方針が投影されていた。こうした指導方針の対立は労農党中央の活動を停滞させることになったが、問題を表面化させたのは同党大阪支部連合会であった。同支部連の左翼急進派は、活動の不活発な労農党の存在は有害無益だとして労臭覚解消運動をはじめ、いわゆる「組合第一主義者」の支部連委員長小岩井浄・書記長赤松五百麿もこれに同調、8月29日の支部連執行委員会では遂に即時解消を決議するに至った。そしてこの動きに呼応して、翌30日には中央の党書記長細迫兼光が党解消の意見書を発表し、問題は一挙に表面化した。
しかし河上はこの動きにすぐには同調せず、8月31日の常任中央執行委員会は解消反対の態度を決定、大山・河上が作成した声明書は「現在ノ如キ客観的主観的状勢トハ全然別個ノ状勢ガ展開サルルニ至ッタ場合ニ於イテハ戦闘的大衆ニ依ッテ構成サレテ居ル労農党ハ除々ニ若シクハ急速ニ其ノ政党的任務ヲ解消シテ純粋ノ労農同盟ニ転化スルカ若シクハ一応其自体ノ組織ヲ全ク解消セシムベキ必然性ヲ持ッテ居ルモノデアル、(中略)従而労農党ノ解消運動ハヨリ重キ段階ノ発展以外ニハ断ジテアリ得ナイ事デアル」(内務省警保局編「社会運動の状況・昭和五年」773頁)とその理由を述べている。結局労農党本部は9月3・4日にかけて、解消運動を行った大阪支部連の幹部5名と細迫書記長を除名したが、この問題をめぐる党組織の動揺は大きかった。そこで事態収拾のため、党本部は組織改革を試みることとし、河上及び書記局の両者が別個に立案にあたることとなった。両試案は10月初句に出来あがったが、常任中央執行委員会は河上案を「余リニコミンテルンニ迎合セル傾キアリ」(同前776頁)として不採用と決定、ここから第2次の党解消運動が展開されることとなる。
すなわちこの決定を不満とした河上は、10月12日の常任中執委で労農党即時解体を提議、さらに同月21日発行の党機関紙「労働農民新聞」に本部に無断で上村進・神道寛次との連名で党解体の意見書を掲載 して配布した。これに対して党本部側は23日、河上等の除名を決定したが、下部組織にも拡大していた解消運動をむさえることはできなかった。河上の影響下にあった京都府支部連合会が党解消を決議したのを始め、各地で解消派の党員は離反し、労農党は党員の2割以上を失ったとみられている。
しかし、労農党解消派の分裂は、同党における合法主義者の主導権の確立を意味し、再び無産政党合同運動を台頭させる結果となった。合同の機運は新潟県で三党合同促進同盟が成立したことから再燃し、12月5日には、同促進同盟の提唱により府県代表者協議会が開かれ、社民・大衆・労農三党の即時無条件合同を 要求する決議が行われた。翌々7日から3日問にわたって聞かれた第5回社民党大会でも、合同問題は大きな議題としてとりあげられたが、同党幹部の労農党に対するアレルギーは強く、結局、当面は大衆党との共同闘争を行い、将来同党と2党だけで合同するという方針が決定された。しかし社民党内の3党合同促進派はこの方針を不満とし、翌昭和6年2月8日、大衆党が3党合同促進を決議するや、分裂してこれに呼応した。そしてこの動きは第59回議会終了後の7月5日に至って、全国大衆党・労農党・社民党合同派による 「二党半合同」と評された全国労農大衆党を生み出すことになる。
第59回議会が開かれだのは、こうした合同運動が高まっているさなかであり、議会召集を前にした12月16日、3党は議会闘争無産党共同委員会を結成することに同意した。共同委員会は独白の法案提出の準備などを行ったが、わずか5名の議員では法律案提出のための賛成者を他党に求めねばならず、例えば、治安維持法などの弾圧法規廃止案の賛成者を政友会から得ようとしたが拒絶され、結局これらの法案は提出できないで終わっている(東朝、昭6・2・1付夕刊)。また後述するように、社民党の赤松克麿は軍部のクーデ ター計画(3月事件)に加担しており、西尾末広は労働組合法問題で政府支持に動くなど3党の足なみが完全にそろっていたわけではなかった。
選挙法改正問題
積極的な恐慌対策を打出せない政府・与党は、選挙権の拡大、労働者・小作人の保護などの政策を打出して、この面で国民の支持を得ようとする姿勢をとった。
まず選挙に関しては、昭和3年2月の第1回普選以来、選挙干渉や買収による選挙の腐敗、更には選挙資金の膨脹に対応する汚職事件の頻発などに強い批判が向けられており、浜口内閣も総選挙を前にした昭和5年1月、浜口首相を会長、安達内相・江木鉄相を副会長とする選挙革正審議会を設置してこの世論にこたえる方針を固めた。そして同審議会は総選挙後の4月12日、第1回総会を開き、第58回特別議会終了後から小委員会を設けて実質的審議にはいっている。
審議会で出された問題は多岐にわたっているが、その中心となったのは、(一)選挙権の拡張、(二)選挙公営、(三)官吏の身分保障、(四)比例代表制といった問題であった。この時期には政党内でもまだ選挙権拡張の要求が強く主張されており、またちょうど審議会と並行して 内務省で進められていた婦人公民権法案の作成とも関連していた。選挙権拡張には欠格条項の縮少、選挙権のための居住期間短縮などと言った問題もあるが、やはりその中心は選挙権年令の低下と、婦人参政権の問題であった。選挙権年令については、10月23日の民政党選挙革正委員会が従来の25歳から20歳に引下げる方針を決定しており、同党少壮派はこの年令引下げの実現を強く要求していた。また婦人参政権については、その前提として公民権―地方自治体の政治に参加する権利―を与えようとする動きが強まっていた。すでに第58回特別議会では政・民両党から議員提案として婦人公民権法案が出されており、浜口内閣は第59回議会には、同法案をはじめて政府案として提案するという方針を決定していた。そしてその際、 内務省は婦人に公民権を与えると同時に、男子公民権の年令を引下げることを考えており、このことは国政 レベルでの選挙権年令引下げ論を側面から促進することとなっていた。
選挙革正審議会では、婦人参政権については婦人公民権実施後に改めてとりあげようという意見が支配的であったが、選挙権年令については引下げ論が大勢を占めた。しかし何歳まで引下げるかについては、20歳説と徴兵制による現役終了後の23歳説とに分かれ、11 月21日審議会第1特別委員会(近衛文麿委員長) は、23歳とする答申原案を可決した。これに対して同26日、民政党選挙革正委員会は、あくまで20歳を固執するとの方針を決議、12月3日の審議会総会では、民政党富田幸次郎提案の23歳を20歳とする修正案が、29名中18名の賛成を得て可決され、政府はこの答中にもとづいて法案作成を急ぐこととなっ た。この形勢をみた内務省には、公民権年令を男女共20歳としようという声も強まったが、結局政府提出の公民権法案(具体的には市制町村制等改正案)は、男子公民権を20歳に引下げ、市町村の公民権だけを25歳以上の婦人に付与するという形で決定された。
選挙法論議の第2の柱は、いわゆる選挙公営をめぐる問題であった。選挙公営とは、大正14年の普選法ではじめて、選挙用無料郵便物という形で登場してき たものであるが(「第五五回帝国議会衆議院解説」参照)、 要するに選挙運動を公権力で管理し、公費で行うことを指している。つまり選挙公営によってのみ、選挙の公平と、選挙費用の縮少が可能になるという論拠に立つものであるが、反面から言うと選挙運動の規格化を 進め公営部分を拡大しただけ、私的な運動を制限することになり、結局私的運動の禁止が公営の理想的状態 ということになるのであった。選挙革正審議会では、演説会の告知・会場の設備などの公営と、罰則強化・ 第3者運動の制限などが答申されている。
公営論の急先鋒は清瀬一郎であり、彼は革正審議会総会に、選挙公報の発行・政党の党費公開などの修正案を出したが否決されてしまっている。こうした公営論に対しては選挙運動は自由であるべきだとする強い反対論が出るのは当然であり、審議会における最も強硬な反対論者は当時内務政務次官の地位に居た斉藤隆夫であった。彼は選挙革正のためには比例代表制を実現すべきだと考えており、民政党内でも審議会でも強くこのことを主張していたが、結局いずれの場合にも意見をまとめるまでには至らなかった。
審議会はまた、官吏の身分保障といった問題をもとりあげているが、これは選挙が近づくと与党に忠実な地方言が任命され、その党派的な地方言によって選挙干渉が行われる、といった事態が起こるのを防ごうという意図に立ったものであった。つまりこの場合には野党的な地方官が休職処分にされるわけであるが、こうしたことが簡単に出未たのは、官吏任用令が、官庁の都合により休職させることができるという規定を設けているからであり、従って休職処分は休職審査委員会の審議を経なければならないことに改めれば、選挙干渉につながるような人事移動をチェックできるのではないかと考えられたのであった。選挙革正審議会はこの休職審査委員会についても答申したが、このための文官任用令改正の審議は議会ではなぐ枢密院の権限であり、枢密院との折衝の結果斎藤内閣の時代になって実現にこぎつけている。
選挙革正審議会の答申をうけた浜口内閣は、選挙権年令の20歳への引下げ・選挙公営の拡大・選挙運動の規制及び罰則の強化を内容とする衆議院議員選挙法改正案を作成した。この改正が実現すれば、普通選挙を更に前進させる画期的なものとなる筈であった。しかし選挙法は憲法附属の法令として議会提出前に枢密院の審議を経ることが必要であり、ここで強力な反対に直面することになる。枢密院の審査委員会は、昭和6年2月13日から28日にかけて8回にわたって開かれたが、そこでは、2つの論拠からする選挙権年令引下げ反対論が強硬に主張された。すなわか第1は、徴兵による現役兵に選挙権を与えながら現役服役中は選挙権を行使できないとすることは、兵に悪影響を及ぼすとする主張であり、第2のものは、これにより多 くの学生生徒に選挙権を付与することは、彼等に政党観念を植えつけ、学校を政党化することになる、言いかえれば学生生徒は政党から隔離しておかなくてはならないとする主張であった。
結局、2月28日の枢密院委員会は、選挙権年令を 23歳とし、学生・生徒及び陸海軍人にして現役中のものには選挙権を付与しないとの修正意見を決定した。 これに対して政府は、年令を23歳とする点は妥協する意向を示したが、学生・生徒の問題は重大でこの修正には応じられないとした。すなわち大正14年の改正までは、学生・生徒は選挙権の欠格者とされており、 このいわゆる普選法によってはじめて選挙権を与えられたものであったが、枢密院の修正はこれを逆転させることを意味した。それは数は少ないとは言え、現実 に存在する25歳以上の学生・生徒の選挙権を剥奪することにもなる筈であった。政府はこの点について枢密院と交渉したが、交渉が難航するや折角の選挙法改正案をあっさり撤回してしまった。
政府与党側がなおこの案の実現を図るとすれば、与党議員より議員立法として提出させ、議会を通過させてから改めて枢密院にかけるという方法が残されていた。当時、東京朝日は「選挙法改正をどうするか─ 議員提出を急いでせよ」との社説(3・6)をかかげ、 次のように述べてこの方法をとることを求めていた。 「吾人は政府が選挙法改正案をそのまま枢府の門を通す力を持だない以上は、速かにこれを撤回して、与党 により同一法案を議員提出の形式において衆議院を通過せしめ、これをもって貴族院と戦ひ、枢密院を降服せしむるの戦術となさんことを勧めるのである。(中略) かく両院を通過し帝国議会の協賛を得た以上は、議会協賛の法律に対して不裁可の前例はないから、憲法附属の法律たるの故を以て枢密院の諮詢を要するとしても、これに反対して握りつぶしの非を遂げることを得ないのである」。
民政党は一応はこの方法で戦う姿勢を示し、代議士会の申し合わせにより、3月9日末松偕一郎らを提案者として(賛成は民政党所属代議士全部)、選挙法改正案を衆議院に提出した。しかし、残り少ない会期で強引 に成立をはかる熱意はなく、結局審議未了に終わっている。なお、選挙法とならんで注目されていた婦人公民権法案は、衆議院を通過したものの、貴族院では大差で否決されてしまった(「第五九回帝国議会貴族院解説」参照)。
労働組合法の流産
浜口内閣の社会政策のなかで最も注目をあびたのは労働組合法の問題であった。この問題はすでに大正末年の護憲三派内閣以来の課題であり、第51・52回議会には政府案が提出されたが、いずれも審議未了に終わっている。浜口内閣はこの懸案と正面から取組む姿勢を示し、内閣成立直後の昭和4年7月19日には社会政策審議会を設置(8月9日第1回総会)、小作問題・失業救済問題とともに、労働組合法制定について諮問した。これに対し、同審議会は特別委員会により 検討の結果、12月7日左記の答申を決議した。
労働組合法制定に関する件
現下の社会状態に鑑み、政府は連かに左記要領により労働組合法を制定実施すべきものと認む。
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一、 |
組合は職業別または産業別のもののみに限らざること。 |
二、 |
組合の連合組織を認むること。 |
三、 |
法人格取得を組合の任意とすること。但し法人たる組合についてはその法人たることを外部より識別し得べき方法を講ずること。 |
四、 |
組合員の保護に関しては、左の趣旨の規定を設くること。
「雇傭者は労働者が組合員たるの故を以てこれを解雇することを得ず、雇傭者は労働者が組合に加 入せざること、または組合より脱退することを雇傭条件と為すことを得ず」
右に関しては制裁規定を設けざること。
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五、 |
組合が労働争議により雇傭関係上雇傭者に損害を生ぜしむることあるも、組合及びその役員等に賠償の責なきものとすること。 |
六、 |
組合の監督に関しては左の趣旨によること。
一、
行政官庁は業務若しくは財産の状況または組合員の員数に関し報告を求め得ること。二、会議の決議、法令に違反しまたは公益を害するときは行政官庁はこれを取消し得ること。三、組合規約、 法令に違反しまたは公益を害するときは行政官庁はその変更を命じ得ること。四、組合の行為安寧秩序を紊るときは主務大臣は組合の解散を命じ得ること。 |
七、 |
労働協約に関する規定は組合法中にこれを設けざること(法律新聞3059号) |
この答申をうけた内務省社会局は、12月下旬には成案を得て30条より成る労働組合法案を発表した。そして第59回議会に至り労組法問題はこの社会局案を軸にして展開されることになった。すなわち、社会局案発表後、第57回議会は解散となり、第58回議会は総選挙後の特別議会ということで提案されず、問題は第59回議会に持ちこされたのであった。そして第58回議会終了直後からは、資本家団体の社会局案反対運動が猛烈な勢いで展開されることになった。
まず第58回議会終10日後の昭和5年5月22日には工業クラブに東京・横浜・名古屋・大阪各市の実業団体代表が集まって労組法反対運動について協議しているが、6月にはいると、運動は急速に全国的な形 に組織されていった。まず6月9日には大阪・京都・ 兵庫・和歌山・滋賀の2府3県24団体の代表が労組法反対意見をまとめ、全国的反対運動をおこすことを 決議、11日には日本商工会議所常議員会が21地方会議所から寄せられた意見を集約して反対意見書を正式に決定する。そしてこの日、団琢磨・郷誠之助の名 によって発せられた勧誘状にもとづき、17日には京浜実業家30団体代表による反対運動協議会が聞かれている。さらに26日には上京した関西20団体・九 州8団体の代表が関係各大臣を歴訪、労組法反対の陳情を行っており、資本家側の反対運動はこの6月中に ほぼ全国的に組織化されたと言えよう。以後浜口内閣、 とくに立案責任者の安達内相がこの強硬な資本家側の反対にどう対応するかが注目されることになった。
資本家側は社会局案が全体として階級対立の思想を 激化させるものだと主張したが、その主張は具体的に は、おおよそ次のように整理することができる。
(一)、社会局案は、労働組合を「労働条件の維持改善を目的とする労働者の団体又は其の連合を謂ふ」(第一 条)と定義しているが、労働条件の維持改善ばかりで なく共済並びに福利増進をも目的とするものに限って、 労働組合として法認すべきであり、また、その組織は 職業別又は産業別のものだけに限るべきだとする。つ まり現在の階級闘争的組合をこうした形に再編することを労働組合法実施の前提としなければならないとい うのである。
(二)、不法不当の争議を取締る適切な規定に欠けている。
(三)、社会局案は「一、組合の役員又は役員たりし者、 二、労働者たりし者、三、総会の決議に依り加入を許されたる者」(第10条)は労働者でなくても労働組合 に加入できるとしているが、このような第3者の介入を認めることには反対である。
(四)、労働者が組合に加入を強制されたり、脱退を妨げられたりすることのないように保障する規定が不十分である。
(五)、雇傭者が組合員であることを理由にして労働者を解雇したり、組合への加入又は組合からの脱退を雇傭条件としてはならないという規定(第12条)は、契約自由の原則に反するものであり反対である。
(六)、労働争議について労働組合の損害賠償の責任を 免除することには反対である(いわゆる免責条項、第13条)。
(七)、労働組合の政治運動を禁止する規定がない。
以上は6月9日の関西24団体及び10日の東京商工会議所の反対意見書の要点をまとめたものであるが、これらの意見から当時の資本家の意識をみることができよう。社会局案も逆の観点からみれば、第59回議会でも論議されているように団体交渉権や労働協約についての規定のない不完全なものであり、無産政党側からは強く批判されていたが、しかし資本家側が反対しているこれらの規定を欠いては、労働組合法をつくる意味がなくなることも明らかであろう。
こうした資本家側の強い反対運動に直面して、政府部内でも法案提出を延期すべきだとの声があがったが、 安達内相はなお第59回議会での成立をのぞみ、議会召集2日前の12月22日に、労資双方の代表に第3者を加えた労資懇談会を開き、事態を打開する手掛りをつかもうとした。この懇談会はわが国では初めての試みとして注目されたが、東京側の資本家、団琢磨・ 藤原銀次郎・郷誠之助・木村久寿弥太の4名は出席を拒絶し、結局22日の会合の出席者は次のような顔ぶ れとなっていた。
資本家側、稲畑勝太郎・小畑源之助・片岡安(以上大阪)、大隈栄一(名古屋)、今岡純一郎(横浜)労働者側、三輪寿壮・上条愛一・安部磯雄・西尾末広・松岡駒吉・米窪満亮
第三者、近衛文麿・阪谷芳郎・馬場^一・前田多門・岡実・添田敬一郎
しかも出席者のうち小畑源之助は、懇談会の趣旨は結構であるが、今日の如き事情の下では到底所期の目的を達しえない、との声明を行っただけで退席、稲畑勝太郎もこれにつづいた。従って会合は主として労働者側から法案成立への希望と質疑が行われただけで、 さしたる成果もなく終わった。安達内相は議会休会中の1月17日になって、資本家側だけとの懇談会を行い、団琢磨・藤原銀次郎・膳桂之助・稲畑勝太郎・小畑源之助・片岡安らの意見を聞いているが、こうした資本家側の猛烈な反対運動が、政府与党に大きな影響 を与えていることは確かであった。
第59回議会は後述するように、首相代理問題で政府・与党共に不安定となり、重要法案の提出がおくれているが、2月1日の臨時閣議で行われた未提出重要案件の討議では、労働組合法案に対してとくに多くの疑義が出されたとみられ、結局、安達・江木両相によって練り直すことに決定された。江木は政府与党において安達と並ぶ実力者であるが、労組法問題と直接関係のない鉄道大臣であり、彼が法案練り直しに加わる ことになったことは、閣内において社会局案への反発が強まっていたことを意味した。当時の新聞は「閣議の意向を改案中に織り込むにおいては社会局案は事実上骨抜きとなることを免れず」(東朝2・2)と報じている。そして実際にはまず江木の手許で修正案が作成 され、それについて安達と協議するという手続きがとられており、この間江木は2月5日資本家側代表と懇談、社会局案修正の意向を明らかにしていた。
この修正案は2月て13日の閣議で江木・安達両相から報告されたがその修正点は、(一)、組合の目的には労働条件の維持改善と組合員の共済・修養の双方を必要とすることとし、その組織は産業別又は職業別のもの に限定する、但し現存の組合は経過的措置として労組 法上の組合と認める、(二)、労働者でない者の組合加入について、「総会の決議に依り加入を許されたる者」 は削除する。
(三)、労働争議の損害賠償免責規定を削除する、という三点にわたり、資本家側の要求を大幅にとりいれたものであった。
しかし閣議ではなお、社会局案第12条の「雇傭者は労働者が労働組合の組合員たるの故をもって解雇することを得ず」とする規定を削除すべきだ、組合の政治運動を取締り組合の基金が選挙運動などに流用されないようにすべきだとの意見が出て紛糾した。しかし争議の免責規定を削除したうえ、さらに今日の用語で云えば不当労働行為の禁止にあたる社会局案第12条 をも削除しては全く労組法の体をなさなくなるため、 この点には手をつけないこととし、組合基金の選挙運動への流用の禁止の規定だけを新設することで意見の一致をみた。労働組合法案の最終的条文が確定したのは、2月19日の閣議に於いてであったが、それには 「労働組合ハ衆議院議員又ハ北海道会・府県会・市会・ 町村会其ノ他之ニ準ズベキモノノ議員ノ選挙運動ニ関 シ費用ヲ支出シ又ハ其ノ費用ニ充ツル為組合員ヨリ金 銭ヲ徴収スルコトヲ得ズ」とする全く新しい規定が登場していた。
このような労働組合法案の社会局案からの後退の経過は、浜口内閣に強く資本家側の意向が浸透していっ たこと、従って、この法案の成立に内閣がさしたる熱意を示さないであろうことを予測せしめるものであっ た。同法案は2月24日の衆議院本会議に上程され、 委員会での審議を経て衆議院は通過したが、貴族院で 審議未了に終わっている。なお、労働組合法案となら んで注目された小作法案も、町田農相が「勤勉ナル小作人ト、同情アル地主ノ理解ヲ調和スル法律デアリマ ス」(速記録第13号)と説明しているような微温的な性格のものであったが、労組法と同様、貴族院で審議 未了になってしまっている。
浜口首相の遭難と民政党の動揺
絶対多数の民政党を与党とした浜口内閣が、選挙法改正・婦人公民権・労働組合法・小作法といった看板政策を実現できなかったことは、枢密院・貴族院などの割拠的政治機構に妨げられた結果ではあるが、しか し他面から言えば、民政党の党内が動揺し絶対多数の威力を発揮できなかったためであるとも言えた。そしてその動揺のきっかけは浜口首相狙撃事件であった。
昭和5年11月14日朝、浜口首相は東京駅で愛国社員佐郷屋留雄に狙撃され下腹部に銃弾をうけるという重傷を負った。浜口が岡山県下の大演習参観のため、午前九時発特急「つばめ」に乗車する直前の出来事であった。腸縫合手術の結果は良好と発表されたが、翌 15日の閣議では江木鉄相が中心となり、とりあえず 民政党員ではないが宮中席次上位者である幣原外相を 首相臨時代理とすることが決定された(「第五九回帝国議会貴族院解説」参照)。しかし議会開会後も浜口首相 が出席できない場合には改めて協議するとの了解が付されており、党内では議会には党員の首相代理を立ててのぞむべきであるとの声が高まった。そしてそれは実質的には次の総裁を決めることになると考えられ、この問題をめぐっそ党内はゆれ動き始めた。
当時民政党には江木鉄相を中心とした勢力と、安達内相を中心とした勢力が対峙しており、江木=官僚派、安達=党人派と対比されていた。選挙権拡張、社会政策立法促進などの党内世論を盛り上げたのは、安達派とくに同派の少壮議員であり、中野正剛・風見章らがその中心であった。従ってこの勢力が安達擁立に動き始めるのは必至であった。幣原首相代理が決定した翌翌17日には、早くも少壮議員の党内団体・又新会が20日に会合を開き、後任の首相代理問題を討議する計画が伝えられた。これに対し党幹部は「党内の一致結束」を唱え、又新会をはじめ各種の会合を一時中止さ せて、党内を鎮静させることに努めた。
しかし議会召集がせまり、浜口首相の議会出席が困難視されるに至ると、こうした動きが再燃するのは避けがたいところであった。こ12月5日の又新会会合で は、この際副総裁を置くべきであるとの議論も出たが、結局、浜口総裁の議会出席まで「党務をとるため中心 主体を設置すること」を申し合わせた。こうした若手の動きに対して今度は党長老も動き始め、民政党内は次第に動揺の度を深めていった。すなわち、こ12月6日長老の1人である山本達雄が元老西園寺公望を訪問 して懇談、ついで、若槻礼次郎・仙石貢と共に3長老会談を開き、幣原首相代理のままで議会に臨むという方針をきめ、これによって政府・与党間をあっせんしてゆくことになる。そしてこの長老の動きに対し、安達派が、党外大臣を首相代理として議会にのぞむのは、政党政治の原則に反すると反発してくるのは必然であ った。
この間、安達とならぶ実力者江木鉄相は、3長老の打出した現状維持の方針に同調しながら、同時に安達派をも満足させるため、安達内相を政府与党間の連絡係とするという策を立てて閣僚間の諒解を求め、12 月9日の党出身閣僚会議で安達にも承諾させた。しか しこの江木の策謀も、党執行部があるのにその上になんで連絡係が必要なのか、安達に重大な権限を与えることになるのではないか、といった反発を呼びおこし、党内を鎮静させることにはならなかった。12月12日、党3長老が幣原と懇談、首相代理として議会に臨むことを要請するや、同じ日、安達派の少壮代議士29名は、「議会は切迫して重要なる政策は幾多決定を急いで居る、余りに久しく党外の事務総理に委任して、我党の主張を中心とすべき政務の停頓を来たさせてはならぬ」との宣言と、「総裁全快に至るまで、党中の中心人物を選定して総裁代理の実権を行はしめ、同時に首相代理の職責に当たらしめて我党の諸政策を促進遂行すべし」との決議を発表した(束朝、12・13)。 それはまた、「重大問題の決定には公然党の諸機関を 動員し党員の総意を反映せしむべし」と述べているように、党長老の諒解工作に反対し対決する姿勢を明ら かにしたものであった。
民政党内は騒然としてきたが、安達派も一挙に形勢を逆転させるだけの力はなく、安達自身も富田幹事長ら党執行部の要請に応じ、中野正剛を通じて少壮派運動に自重を求めるなど積極的に動こうとしなかった。 結局、第59回議会の休会あけを前にした昭和6年1月10日、浜口首相は安達内相及び党執行部と会見して幣原首相代理で議会に臨む意向を伝え、同日の総務会はこの方針を決定し、首相代理問題は一応の結着がついた。この間民政党内には、幣原の入党を求める声もあがったが、1月18日に聞かれた政府与党懇談会で幣原は、「自分は政党に相当の理解を持っているつもり」であるが、「ただ然し自分が政党に入党しないのは、国家につくす本分が別にあると思っているからである」(東朝、1・19)と述べて入党の意思のないことを明らかにしていた。
こうした形で首相代理をめぐる民政党の動揺は一応収束されたが、浜口首相の健康が全快しない以上、党内は不安定な状態がつづいていたと言ってよい。浜口が登院したのは会期の過半を経過した3月10日であったが、その痛々しい姿をみた中野正剛は、翌11日党長老若槻礼次郎を訪問、これ以上首相を議席に立たせるのは人道問題であり、「政府与党は思ひ切って首相に静養の機会を与へ、適当の人物を起てて堂々立憲的態度に出づべきであると力説」(東朝3・12)し、さらに13日の党中堅三者会談(中野・永井柳太郎・三木武吉・山道襄一の4者間で企画されたが、永井が欠席)でもこの主張をくり返した。しかし党首脳部をはじめ党内はともかくも政変を避けて、この議会をのり切ろうとする消極的な空気が支配的であった。そしてそのことが、民政党の議会運営を迫力のないものにする原因となっていた。
第五九回議会の召集
第59回議会は通常会として昭和5年12月24日に召集された。26日の開院式のあと勅語奉答文の作成と全院委員長の選挙を行っただけで28日から1月20日まで24日間、年末年始のため休会している。 会期は90日で昭和6年3月25日に終了する筈であ ったが貴族院が紛糾したため、27日まで2日間延長された(「第59回帝国議会貴族院解説」参照)。この議会における役員及び議員の党派別所属は次の通りであった。なお議長・副議長は議員の任期中その地位におることになっていたので、この議会では選挙は行われていない。
議 長 |
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藤沢幾之輔(民政・宮城) |
副議長 |
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小山 松寿(民政・愛知) |
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全院委員長 |
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平山 岩彦(民政・熊本) |
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常任委員長 |
予算委員長 |
武内 作平(民政・大阪) |
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決算委員長 |
津原 武(民政・京都) |
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請願委員長 |
管村 太事(民政・福島) |
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懲罰委員長 |
戸沢民十郎(民政・香川) |
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国務大臣 |
内閣総理大臣 |
浜口 雄幸 |
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外務大臣 |
幣原喜重郎 |
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総理大臣臨時代理(兼任) |
幣原喜重郎 |
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(昭5・11・15〜昭6・3・9) |
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内務大臣 |
安達 謙蔵 |
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大蔵大臣 |
井上準之助 |
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陸軍大臣 |
宇垣 一成 |
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海軍大臣 |
安保 清種 |
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司法大臣 |
渡辺 千冬 |
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文部大臣 |
田中 隆三 |
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農林大臣 |
町田 忠治 |
|
商工大臣 |
俵 孫一 |
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逓信大臣 |
小泉又次郎 |
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鉄道大臣 |
江木 翼 |
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拓務大臣 |
松田 源治 |
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政府委員(12・24発令) |
内閣書記官長 |
鈴木富士弥 |
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法制局長官 |
川崎 卓吉 |
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法制局参事官 |
黒崎 定三 |
|
同 |
金森徳次郎 |
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外務政務官 |
永井柳太郎 |
|
外務参与官 |
織田 信恒 |
|
外務書記官 |
松宮 順 |
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内務政務次官 |
斎藤 隆夫 |
|
内務参与官 |
一宮房治郎 |
|
内務書記官 |
唐沢 俊樹 |
|
大蔵政務次官 |
小川郷太郎 |
|
大蔵参与官 |
勝 正憲 |
|
大蔵省主計局長 |
藤井 真信 |
|
大蔵省主税局長 |
青木 得三 |
|
大蔵省理財局長 |
富田勇太郎 |
|
大蔵省銀行局長 |
大久保偵次 |
|
大蔵書記官 |
川越 丈雄 |
|
同 |
関原 忠三 |
|
陸軍政務次官 |
伊東二郎丸 |
|
陸軍参与官 |
吉川吉郎兵衛 |
|
陸軍主計総監 |
中村 精一 |
|
陸軍少将 |
小磯 国昭 |
|
陸軍一等主計正 |
矢部 潤二 |
|
海軍政務次官 |
矢吹 省三 |
|
海軍参与官 |
栗山 博 |
|
海軍主計中将 |
加藤 亮一 |
|
海軍少将 |
堀 悌吉 |
|
海軍主計大佐 |
佐々木重蔵 |
|
司法政務次官 |
川崎 克 |
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司法参与官 |
井本 常作 |
|
司法書記官 |
近藤 三郎 |
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文部政務次官 |
野村 嘉六 |
|
文部参与官 |
大麻 唯男 |
|
文部書記官 |
河原 春作 |
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農林政務次官 |
高田 耘平 |
|
農林参与官 |
山田 道兄 |
|
農林書記官 |
田淵 敬治 |
|
商工政務次官 |
横山勝太郎 |
|
商工参与官 |
野田文一郎 |
|
商工書記官 |
長崎栄十郎 |
|
逓信政務次官 |
中村啓次郎 |
|
逓信参与官 |
福田 五郎 |
|
逓信省経理局長 |
大橋 八郎 |
|
鉄道政務次官 |
黒金 泰義 |
|
鉄道参与官 |
山本 厚三 |
|
鉄道省経理局長 |
後藤 悌次 |
|
拓務政務次官 |
小坂 順造 |
|
拓務参与官 |
武富 済 |
|
拓務書記官 |
大磐 誠三 |
|
朝鮮総督府政務総監 |
児玉 秀雄 |
|
朝鮮総督府財務局長 |
林 繁蔵 |
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台湾総督府総務長官 |
人見 次郎 |
|
台湾総督府財務局長 |
池田 蔵六 |
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関東庁財務部長 |
西山 左内 |
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樺太庁長官 |
県 忍 |
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南洋庁長官 |
横田 郷助 |
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政府委員追加(会期中発令) |
内務省地方局長 |
次田大三郎 |
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内務省警保局長 |
大塚 惟精 |
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内務省土木局長 |
三辺 長治 |
|
内務省衛生局長 |
赤木 朝治 |
|
社会局長官 |
吉田 茂 |
|
北海道庁長官 |
池田 秀雄 |
|
専売局長官 |
平野 亮平 |
|
司法省民事局長 |
長島 毅 |
|
司法省刑事局長 |
泉二 新熊 |
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鉄道省監督局長 |
丹羽 武朝 |
|
鉄道省建設局長 |
黒河内四郎 |
|
鉄道省工務局長 |
大河戸宗治 |
|
拓務省監理局長 |
生駒 高常 |
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農林省農務局長 |
石黒 忠篤 |
|
農林省山林局長 |
平熊 友明 |
|
逓信省郵務局長 |
山本直太郎 |
|
拓務省殖産局長 |
殖田 俊吉 |
|
拓務省拓務局長 |
郡山 智 |
|
商工省工務局長 |
吉野 信次 |
|
商工省鉱山局長 |
福田 康雄 |
|
商工省貿易局長 |
立石 信郎 |
|
農林省蚕糸局長 |
小平 権一 |
|
商工省商務局長 |
川久保修吉 |
|
製鉄所長官 |
中井 励作 |
|
専売局部長 |
佐々木謙一郎 |
|
内務書記官 |
大達 茂雄 |
|
同 |
岡田 周造 |
|
内務事務官 |
安井 英二 |
|
大蔵書記官 |
野津高次郎 |
|
同 |
賀屋 興宜 |
|
農林省水産局長 |
長瀬 貞一 |
|
農林省畜産局長 |
戸田 保忠 |
|
社会局部長 |
富田愛次郎 |
|
営繕管財局理事 |
太田嘉太郎 |
|
内務書記官 |
鈴木 敬一 |
|
臨時産業合理局事務官 |
竹内 可吉 |
|
逓信省管船局長 |
広幡 忠隆 |
|
司法書記官 |
森田豊次郎 |
|
農林書記官 |
村上竜太郎 |
|
同 |
荷見 安 |
|
同 |
井野 碩哉 |
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農林技官 |
有働 良夫 |
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党派別所属議員氏名 |
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召集日各党派所属議員数(昭和5年12月24日) |
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立憲民生党 |
267名 |
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立憲政友会 |
171名 |
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第1控室 |
19名 |
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無所属 |
3名 |
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欠員 |
6名 |
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計 |
466名 |
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立憲民生党(267名) |
東京 |
横山勝太郎 |
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同 |
桜内 辰郎 |
|
同 |
三木 武吉 |
|
同 |
中島弥団次 |
|
同 |
赤塚 五郎 |
|
同 |
高橋 秀臣 |
|
同 |
遠藤 千元 |
|
同 |
頼母木桂吉 |
|
同 |
真鍋 儀十 |
|
同 |
小俣 政一 |
|
同 |
古島宮次郎 |
|
同 |
斯波 貞吉 |
|
同 |
高木 正年 |
|
同 |
鈴木富士弥 |
|
同 |
中村 継男 |
|
同 |
佐藤 正 |
|
同 |
八並 武治 |
|
京都 |
安田耕之助 |
|
同 |
西村金三郎 |
|
同 |
森田 茂 |
|
同 |
田中祐四郎 |
|
同 |
津原 武 |
|
同 |
村上 国吉 |
|
大阪 |
枡谷 寅吉 |
|
同 |
石原善三郎 |
|
同 |
一松 定吉 |
|
同 |
紫安新九郎 |
|
同 |
竹田 儀一 |
|
同 |
武内 作平 |
|
同 |
広瀬 徳蔵 |
|
同 |
本田弥市郎 |
|
同 |
吉川吉郎兵衛 |
|
同 |
佐竹 庄七 |
|
同 |
勝田 永吉 |
|
同 |
田中 万逸 |
|
同 |
辻本豊三郎 |
|
同 |
大植清左衛門 |
|
神奈川 |
三宅 磐 |
|
同 |
戸井 嘉作 |
|
同 |
小泉又次郎 |
|
同 |
小野 重行 |
|
同 |
岡崎久次郎 |
|
同 |
平川松太郎 |
|
兵庫 |
浜野徹太郎 |
|
同 |
野田文一郎 |
|
同 |
中 亥歳男 |
|
同 |
前田房之助 |
|
同 |
中馬 興丸 |
|
同 |
山本平三郎 |
|
同 |
水野 正巳 |
|
同 |
田中 武雄 |
|
同 |
斎藤 隆夫 |
|
同 |
田 昌 |
|
長崎 |
田崎 武男 |
|
同 |
則元 由庸 |
|
同 |
牧山 耕蔵 |
|
同 |
本田 恒之 |
|
同 |
古賀 政一 |
|
新潟 |
野沢 卯市 |
|
同 |
松井 郡治 |
|
同 |
長尾 半平 |
|
同 |
佐藤 与一 |
|
同 |
原 吉郎 |
|
同 |
佐藤謙之輔 |
|
同 |
関矢 孫一 |
|
同 |
石塚 譲 |
|
同 |
増田 義一 |
|
埼玉 |
加藤睦之介 |
|
同 |
定塚門次郎 |
|
同 |
高橋 守平 |
|
同 |
鏑木 忠正 |
|
同 |
野中 徹也 |
|
同 |
古島 義英 |
|
群馬 |
飯塚春太郎 |
|
同 |
生方 大吉 |
|
同 |
関口 志行 |
|
同 |
最上 政三 |
|
同 |
木桧三四郎 |
|
同 |
井本 常作 |
|
千葉 |
多田 満長 |
|
同 |
篠原 陸朗 |
|
同 |
鵜沢 宇八 |
|
同 |
篠田 有徳 |
|
同 |
土屋清三郎 |
|
同 |
安田 正男 |
|
同 |
北田 正平 |
|
茨城 |
中崎 俊秀 |
|
同 |
石橋 茂 |
|
同 |
長塚 忠策 |
|
同 |
小峰 満男 |
|
同 |
高瀬 梅吉 |
|
同 |
風見 章 |
|
同 |
原 脩次郎 |
|
同 |
海老沢為次郎 |
|
栃木 |
斎藤太兵衛 |
|
同 |
高橋元四郎 |
|
同 |
高田 耘平 |
|
同 |
栗原 彦三郎 |
|
同 |
阿由葉勝作 |
|
奈良 |
服部 教一 |
|
同 |
八木 逸郎 |
|
同 |
松尾 四郎 |
|
同 |
北浦圭太郎 |
|
三重 |
木村 秀興 |
|
同 |
川崎 克 |
|
同 |
小野 耕一郎 |
|
同 |
松田 正一 |
|
同 |
牛場清次郎 |
|
同 |
池田 敬八 |
|
愛知 |
今堀辰三郎 |
|
同 |
石川久兵衛 |
|
同 |
藍川 清成 |
|
同 |
西脇 晋 |
|
同 |
服部 英明 |
|
同 |
加藤 鯛一 |
|
同 |
岡本実太郎 |
|
同 |
武富 済 |
|
同 |
杉浦 武雄 |
|
同 |
加藤 六蔵 |
|
静岡 |
平野 光雄 |
|
同 |
海野 数馬 |
|
同 |
小久江美代吉 |
|
同 |
櫛部 荒熊 |
|
同 |
岸 衛 |
|
同 |
井上 剛一 |
|
同 |
永田善三郎 |
|
山梨 |
堀内 良平 |
|
同 |
河西豊太郎 |
|
滋賀 |
青木 亮貫 |
|
同 |
堤 康次郎 |
|
同 |
田中 養達 |
|
岐阜 |
山田 道兄 |
|
同 |
武藤 嘉門 |
|
同 |
岡田 素臣 |
|
同 |
古屋 慶隆 |
|
長野 |
松本 忠雄 |
|
同 |
小坂 順造 |
|
同 |
小山邦太郎 |
|
同 |
山辺 常重 |
|
同 |
戸田 由美 |
|
同 |
北原阿智之助 |
|
同 |
宮沢 胤勇 |
|
同 |
百瀬 渡 |
|
同 |
降旗元太郎 |
|
宮城 |
長谷川陸郎 |
|
同 |
小山倉之助 |
|
福島 |
大島 要三 |
|
同 |
栗山 博 |
|
同 |
林 平馬 |
|
同 |
菅原 太事 |
|
同 |
鈴木 寅彦 |
|
同 |
比佐 昌平 |
|
同 |
氏家 清 |
|
岩手 |
高橋寿太郎 |
|
同 |
水上 斎之助 |
|
青森 |
工藤 鉄男 |
|
同 |
山内 亮 |
|
同 |
菊池 良一 |
|
山形 |
黒金 泰義 |
|
同 |
佐藤 啓 |
|
同 |
清水徳太郎 |
|
同 |
奥山 亀蔵 |
|
秋田 |
田中 隆三 |
|
同 |
町田 忠治 |
|
同 |
信太儀右衛門 |
|
同 |
塩田 団平 |
|
同 |
猪股謙二郎 |
|
福井 |
三田村甚三郎 |
|
同 |
添田敬一郎 |
|
同 |
松井文太郎 |
|
石川 |
武谷甚太郎 |
|
同 |
永井柳太郎 |
|
同 |
戸部 良祐 |
|
同 |
桜井兵五郎 |
|
富山 |
寺島 権蔵 |
|
同 |
野村 嘉六 |
|
同 |
松村 謙三 |
|
同 |
山田 毅一 |
|
鳥取 |
山枡 儀重 |
|
同 |
由谷 義治 |
|
同 |
三好栄次郎 |
|
島根 |
木村小左衛門 |
|
同 |
原 夫次郎 |
|
同 |
桜内 幸雄 |
|
同 |
佐藤喜八郎 |
|
同 |
俵 孫一 |
|
岡山 |
清水 長郷 |
|
同 |
中島 琢之 |
|
同 |
小川郷太郎 |
|
同 |
西村丹治郎 |
|
広島 |
荒川 五郎 |
|
同 |
藤田 若水 |
|
同 |
山道 襄一 |
|
同 |
木原 七郎 |
|
同 |
田中 貢 |
|
同 |
横山金太郎 |
|
同 |
土谷 寛 |
|
同 |
作田 高太郎 |
|
山口 |
村岡 吾一 |
|
同 |
沢本 与一 |
|
同 |
道源 権治 |
|
和歌山 |
中村啓次郎 |
|
同 |
山崎伝之助 |
|
同 |
小山 谷蔵 |
|
同 |
西田 郁平 |
|
徳島 |
谷原 公 |
|
同 |
原田佐之治 |
|
同 |
平野 鍋吉 |
|
同 |
高島 兵吉 |
|
香川 |
小西 和 |
|
同 |
戸沢民十郎 |
|
同 |
矢野庄太郎 |
|
愛媛 |
武知 勇記 |
|
同 |
松田喜三郎 |
|
同 |
村上紋四郎 |
|
同 |
森 達三 |
|
同 |
本多真喜雄 |
|
同 |
村松恒一郎 |
|
高知 |
富田幸次郎 |
|
同 |
浜口 雄幸 |
|
同 |
大西 正幹 |
|
同 |
下元鹿之助 |
|
福岡 |
阿波荒次郎 |
|
同 |
中野 正剛 |
|
同 |
簡牛 凡夫 |
|
同 |
大里 広次郎 |
|
同 |
吉田 磯吉 |
|
同 |
木村 義雄 |
|
同 |
岡野 竜一 |
|
同 |
勝 正憲 |
|
同 |
末松偕一郎 |
|
大分 |
一宮房治郎 |
|
同 |
松田 源治 |
|
同 |
長野 綱良 |
|
同 |
高橋 欽哉 |
|
同 |
重松 重治 |
|
佐賀 |
栗山賚四郎 |
|
同 |
福田 五郎 |
|
同 |
森 峰一 |
|
熊本 |
小山 令之 |
|
同 |
大麻 唯男 |
|
同 |
平山 岩彦 |
|
同 |
深水 清 |
|
同 |
宮崎 高四 |
|
同 |
安達 謙蔵 |
|
宮崎 |
佐々木芳照 |
|
同 |
三浦 虎雄 |
|
同 |
鈴木憲太郎 |
|
同 |
小村 俊一 |
|
鹿児島 |
春島東四郎 |
|
同 |
山本 実彦 |
|
同 |
久留 義郷 |
|
沖縄 |
当真嗣合 |
|
同 |
漢那 憲和 |
|
同 |
仲井間宗一 |
|
同 |
伊礼 肇 |
|
北海道 |
一柳仲次郎 |
|
同 |
沢田 利吉 |
|
同 |
山本 厚三 |
|
同 |
浅川 浩 |
|
同 |
坂東幸太郎 |
|
同 |
前田卯之助 |
|
同 |
渡辺 泰邦 |
|
同 |
手代木隆吉 |
|
同 |
神部 為蔵 |
|
同 |
岡田 春夫 |
|
同 |
小池 仁郎 |
|
|
|
立憲政友会(171名) |
東京 |
立川 太郎 |
|
同 |
本田 義成 |
|
同 |
犬養 健 |
|
同 |
鳩山 一郎 |
|
同 |
安藤 正純 |
|
同 |
牧野 賤男 |
|
同 |
中島 守利 |
|
同 |
前田 米蔵 |
|
同 |
津雲 国利 |
|
同 |
坂本 一角 |
|
京都 |
鈴木吉之助 |
|
同 |
磯部 清吉 |
|
同 |
水島彦一郎 |
|
大阪 |
上田 孝吉 |
|
同 |
森田 政義 |
|
同 |
喜多 孝治 |
|
同 |
山口 義一 |
|
神奈川 |
野方 次郎 |
|
同 |
川口 義久 |
|
同 |
鈴木 英雄 |
|
同 |
胎中楠右衛門 |
|
兵庫 |
勝田銀次郎 |
|
同 |
砂田 重政 |
|
同 |
広岡宇一郎 |
|
同 |
原 惣兵衛 |
|
同 |
土井 権大 |
|
同 |
若宮 貞夫 |
|
長崎 |
西岡竹次郎 |
|
同 |
志波安一郎 |
|
同 |
向井 倭雄 |
|
同 |
佐保 畢雄 |
|
新潟 |
田辺 熊一 |
|
同 |
高橋 光威 |
|
同 |
加藤 知正 |
|
同 |
山田 又司 |
|
同 |
武田徳三郎 |
|
埼玉 |
秦 豊助 |
|
同 |
横川 重次 |
|
同 |
一瀬 一二 |
|
同 |
出井 兵吉 |
|
群馬 |
中島知久平 |
|
同 |
青木 精一 |
|
同 |
木暮武太夫 |
|
千葉 |
川島正次郎 |
|
同 |
鈴木 隆 |
|
同 |
今井 健彦 |
|
同 |
森 轟昶 |
|
茨城 |
内田 信也 |
|
同 |
山崎 猛 |
|
同 |
飯村 五郎 |
|
栃木 |
森 恪 |
|
同 |
船田 中 |
|
同 |
松村 光三 |
|
同 |
上野 基三 |
|
奈良 |
岩本 武助 |
|
三重 |
加藤久米四郎 |
|
同 |
浜田 国松 |
|
愛知 |
瀬川 嘉助 |
|
同 |
加藤鐐五郎 |
|
同 |
丹下茂十郎 |
|
同 |
滝 正雄 |
|
同 |
小林 リ |
|
同 |
大口 喜六 |
|
静岡 |
深沢豊太郎 |
|
同 |
庄司 良朗 |
|
同 |
倉元 要一 |
|
同 |
太田 正孝 |
|
山梨 |
田辺 七六 |
|
同 |
竹内友次郎 |
|
同 |
大崎 清作 |
|
滋賀 |
清水 銀蔵 |
|
岐阜 |
大野 伴睦 |
|
同 |
井上 孝哉 |
|
同 |
牧野 良三 |
|
同 |
平井信四郎 |
|
長野 |
鈴木梅四郎 |
|
同 |
林 七六 |
|
同 |
植原悦二郎 |
|
宮城 |
中島 鵬六 |
|
同 |
菅原 伝 |
|
同 |
守屋 栄夫 |
|
同 |
星 廉平 |
|
同 |
大石 倫治 |
|
福島 |
堀切善兵衛 |
|
同 |
八田 宗吉 |
|
同 |
助川啓四郎 |
|
同 |
木村 清治 |
|
岩手 |
田子 一民 |
|
同 |
熊谷 巌 |
|
同 |
広瀬 為久 |
|
同 |
小野寺 章 |
|
同 |
志賀和多利 |
|
青森 |
藤井 達也 |
|
同 |
兼田 秀雄 |
|
同 |
工藤十三雄 |
|
山形 |
高橋熊次郎 |
|
同 |
西沢 定吉 |
|
同 |
熊谷 直太 |
|
同 |
門田 新松 |
|
秋田 |
鈴木 安孝 |
|
同 |
片野 重脩 |
|
福井 |
猪野毛利栄 |
|
同 |
山本条太郎 |
|
石川 |
中橋徳五郎 |
|
同 |
青山 憲三 |
|
富山 |
高見 之通 |
|
同 |
土倉 宗明 |
|
鳥取 |
豊田 収 |
|
島根 |
島田 俊雄 |
|
岡山 |
難波 清人 |
|
同 |
岡田 忠彦 |
|
同 |
久山 知之 |
|
同 |
犬養 毅 |
|
同 |
高草美代蔵 |
|
同 |
星島 二郎 |
|
広島 |
名川 侃市 |
|
同 |
岸田 正記 |
|
同 |
望月 圭介 |
|
同 |
米田規矩馬 |
|
同 |
宮沢 裕 |
|
山口 |
保良浅之助 |
|
同 |
久原房之助 |
|
同 |
庄 晋太郎 |
|
同 |
松岡 洋右 |
|
同 |
西村 茂生 |
|
同 |
児玉 右二 |
|
和歌山 |
松山常次郎 |
|
同 |
三尾 邦三 |
|
徳島 |
浅石 恵八 |
|
同 |
秋田 清 |
|
香川 |
宮脇 長吉 |
|
同 |
三土 忠造 |
|
同 |
山下 谷次 |
|
愛媛 |
高山 長幸 |
|
同 |
河上 哲太 |
|
同 |
清家吉次郎 |
|
高知 |
中谷 貞頼 |
|
同 |
林 譲治 |
|
福岡 |
宮川 一貫 |
|
同 |
石崎 敏行 |
|
同 |
山崎達之輔 |
|
同 |
野田 俊作 |
|
同 |
樋口 典常 |
|
同 |
坂井 大輔 |
|
同 |
内野辰次郎 |
|
大分 |
金光 庸夫 |
|
同 |
清瀬規矩雄 |
|
佐賀 |
石井 次郎 |
|
同 |
田口 文次 |
|
熊本 |
松野 鶴平 |
|
同 |
村田虎之助 |
|
同 |
中山 貞雄 |
|
同 |
中野 猛雄 |
|
宮崎 |
佐藤 重遠 |
|
鹿児島 |
床次竹二郎 |
|
同 |
井上 知治 |
|
同 |
蔵園三四郎 |
|
同 |
中村 嘉寿 |
|
同 |
寺田 市正 |
|
同 |
東郷 実 |
|
同 |
崎山 武夫 |
|
同 |
津崎 尚武 |
|
同 |
永田 良吉 |
|
沖縄 |
崎山 嗣朝 |
|
北海道 |
東 武 |
|
同 |
佐々木平次郎 |
|
同 |
板谷 順助 |
|
同 |
松実喜代太 |
|
同 |
東条 貞 |
|
同 |
木下成太郎 |
|
同 |
三井 徳宝 |
|
|
|
第一控室(19名) |
|
|
|
|
|
〔社会民衆党〕 |
大阪 |
西尾 末広 |
|
神奈川 |
片山 哲 |
〔日本大衆党〕 |
東京 |
松谷与二郎 |
|
福岡 |
浅原 健三 |
〔労農党〕 |
東京 |
大山 郁夫 |
〔国民同志会〕 |
京都 |
鷺野米太郎 |
|
大阪 |
武藤 山治 |
|
同 |
森本 一雄 |
|
兵庫 |
八木 幸吉 |
|
静岡 |
中田 リョク郎 |
|
滋賀 |
堀部久太郎 |
〔革新党〕 |
東京 |
田川大吉郎 |
|
兵庫 |
清瀬 一郎 |
|
新潟 |
大竹 貫一 |
〔無所属〕 |
東京 |
太田信治郎 |
|
兵庫 |
多木久米次郎 |
|
三重 |
尾崎 行雄 |
|
静岡 |
小泉策太郎 |
|
北海道 |
村田不二三 |
|
|
|
無所属(3名) |
宮城 |
藤沢幾之輔 |
|
愛知 |
小山 松寿 |
|
岐阜 |
後藤 亮一 |
なお議会開会中に次のような移動があり、議会閉会時の各党派所属議員数は、民政党265名(2名減)、 政友会171名(変らず)、第1控室18名(1名減)、 無所属3名(変らず)、欠員9名(3名増)となった。
|
死去→欠員 山本平三郎(民政・兵庫)、中島鵬六(政友・宮城)、石塚譲(民政・新潟) |
|
第1控室→政友会 多木久米次郎(兵庫) |
幣原失言問題と議場の混乱
浜口首相を欠き、幣原外相を首相臨時代理として議会に臨まねばならなかったことは、政府与党にとって確かに大きな負担であった。民政党の「幹部中には、病首相を戴いている今議会においては、なるべく平易 に切抜けることが上策でそのためには難物視さるる重要法案はなるべく提出を見合わせ、首相の再起をまって堂々議会に臨んだがよい、そのためには一議会遅れてもやむを得ないとの軟論も出ている」(東朝、1・5) というありさであった。野党の政友会もこの首相代理問題をとらえて政府を追い込んでゆこうと意気込んでいた。
まず政友会は、この問題をはっきりさせることが議案審議の前提だと主張し、休会あけ議会の冒頭に「臨時事務代理をもって帝国議会に臨むが如きは憲政運用の本義を蔑視するものなり、特にその代理者が党外閣僚たるにおいて然りとなす、政府はすべからく責任政治の通義に鑑み深甚の考慮を加へ、以て政党内閣の規格を整面するところあるべし」とする決議案、及びこの決議案を施政方針演説に先立って上程せよという議事日程変更に関する緊急動議を提出した。この動議は記名投票によって否決されたが、施政方針の前に鳩山一郎(政友)が登壇し、動議の趣旨弁明の形で、議会中長期にわたる首相代理は違法であるときめつけていた(速記録第3号)。こうした異常な事態へのいらだちを示すかのように、翌1月23日の本会議では与党側が懲罰問題を持ち出し、第59回議会はここから紛糾し始めていった。
すなわち、政友会の三土忠造がロンドン軍縮による余剰金について、政府は「昭和六年度ヨリ昭和十一年度マデ六箇年間ニ五億八〇〇万円ト言フ金ガ余ルヤウナコトヲ宣伝サレタ―虚偽ノ宣伝ヲセラレテ国民ヲ欺カレタノデアリマス」(速記録第4号)と演説するや、民政党席は「虚偽とは何だ」「取消せ」と騒ぎ出し政友会側もこれに応酬、議場は騒然となった。そして三土が降壇するや、民政党の一松定吉は、「職務執行中ノ議長席ニ迫リ、手ヲ以テ議長席ヲ乱打シ大声疾呼シテ議長ヲ威迫シタ(同前)」政友会の深沢豊太郎・藤井達也両議員を懲罰に付すべきだとの動議を提出し、記名投票によって可決された。この動議にもとづいて 聞かれた懲罰委員会は26日には早くも1週間の登院停止という懲罰に付することを決定したが、委員会が この“重刑”を証人の喚問・本人の弁明を許さず、議員の傍聴さえ禁止して即決可決したことに政友会は強 く反発した。27日の本会議で民政側が懲罰委員長の報告を求める動議を提出するや、政友側も対抗する動 議を出してこれを阻止しようとし、議場では随所に与野党のなぐり合いが始まるという騒乱状態におちいり結局そのまま散会するというありさまとなった。政民両党の対立はこの問題をめぐって激化、議会初頭の最大の争点となったが、東京朝日はこのような状態を「街頭の酔払ひも及ばぬ乱闘を繰返して、時局の重大を余所に、短い会期を無駄にしつつある」と批判するとともに、「時局の重大なるに反比例して何等重要法案の提出なく、何となく重要ならざる議会の感あらしめたことが、あづかっているのを見逃し得ない」(1・29社説「この議会の亡状を見よ」)とも指摘していた。
政府側も2月1日の臨時閣議で、選挙法改正案・婦人公民権法案・米穀法及び米穀調節特別会計法改正案・ 小作法案の内容及び今議会提出の方針を決定、懲罰問題についても2月3日の本会議開会前に議長のあっせんにより5日の本会議に上程するという妥協案が成立 し、議会はようやく軌道にのるかにみえた。しかしこの3日午後の予算総会で幣原首相代理の失言問題がおこり、再び議会は空転することになる。
予算審議は2月3日総括質問を終わり、分科会に移る予定であったが、この日の予算総会で政友会中島知久平がロンドン条約について安保海相は条約の規定する兵力量では作戦計画に不足を来たすと述べているがこの責任をどうするのか、とただしだのに対して、幣 原首相代理は次の様に答え、失言問題をひきおこしたのであった。
|
「この前の議会に浜口首相も私もこのロンドン条約をもって日本の国防を危くするものとは考えないといふ意味は申しました。現にこの条約は御批准になって居ります御批准になって居るといふことを以てこのロンドン条約が国防を危くするものでないといふことは明らかであります」。 |
この発言を機として野党議員は一せいに首相代理席に迫り、予算総会は怒号のうちに散会となった。この答弁は、批准という天皇の行為に責任をおわせるものであり、政友会は徹底的に幣原を追及する姿勢を固め た。民政党は幣原の発言は言葉が足らなかっただけだとして、翌4日も予算総会の開会を強行しようとしたが、結局罵声と怒号がとびかうなかで議事に入ることができなかった。世論もまた取消す以外には言いまぎらすことのできない大きな失言とみており(例えば東朝2・5社説)、政府与党もこの失言を取消す以外に事態を打開する方法がないことを認めざるを得なかった。
2月5日、安達内相は政友会総務望月圭介と会談、幣原発言は用語が不十分で、堪えないので、その全部を取消すからこれを以て議事を進めるようにしてもらいたいと申し入れたが、政友側は幣原発言が根本的に間違いであった事を認めないような取消しには反対であるとし、翌6日朝望月はこの提議を拒絶する旨を安達に回答した。しかしこの政友会の言い分をのむわけにはゆかないとした民政党側は、6日午後再び予算総会の開会を策したが、両党院外団も乱入した大乱闘となり、委員室のガラスはわられ、政友・中島鵬六、民政・木村義雄両代議士をはじめ院外団10数名が負傷するという事態を結果した。
この状況をみた政府側は、失言取消しの文面について政友会との妥協を成立させる必要を認め、7日の閣議では案文の起草及び折衝の方法を安達・江木両相に一任することを決定した。翌8日安達は再び望月と会 い、2月3日における答弁は「私の真意をつくしたものでなく失当の言葉でありましたからその全文を取消 します」との文面を提示した。安達は最初「失言」とするつもりであったが党内に強い反対があり、「失当なる言葉」と修正したものであった。これに対して政友側は、9日になって犬養総裁が安達内相と会談して前日の安達案を拒否、「中島君に答弁したることは憲政の本義に鑑みこれを失言と認めますから取消します」 との代案を示したが、安達はこれでは民政党は納まら ないと反論し、結局「過日中島君の質問に対し答へま したる答弁は失言であります。全部これを取消します」との文面でようやく妥協が成立することになった。翌 10日両党閥に、12日に予算総会を再開する、議会革正のための共同委員会を設けるという協定が成立、 予算総会は協定通り10日ぶりに正常化した。しかし議会革正委員会の方は、暴力議員の排除などを協議しているが、この後も議場は浜口首相の出席問題などを めぐって混乱をつづけており、この委員会も何1つ具体的な成果をあげることなく終わっている。
幣原失言問題が片づくと、今度は浜口首相がいつから議会に出席できるかが政局の焦点となってきた。政府側としても浜口が会期中には登院できるということを前提として首相臨時代理を置いた関係もあり、次第 に浜口の登院時期を明示しなくてはならなくなっていた。政府側もついに3月上旬という時期を決定し、2月19日の貴・衆両院の本会議で幣原首相代理からこのことを明らかにした。浜口は3月9日幣原と共に参内、この日幣原の首相臨時代理を解任、翌10日浜口は3月上旬という期限ぎりぎりに登院し、衆議院本会議であいさつしたが、健康状態は予想以上に悪く痛々 しい姿であった。従って以後は、政府与党側は如何に首相の答弁時間を短くして議会を乗り切るかに腐心し、 野党は充分な首相の答弁を要求するという駆け引きがつづいている。そして追加予算案が上程された3月18日の本会議では、休憩中に浜口首相が退出すると、再開された議場では、政友会議員が浜口の出席を要求 して演壇に殺到し、混乱のまま散会するという一幕が演じられた。しかし与党・民政党が絶対多数を制しているという状況の下では、政友会も攻撃のきめ手を欠 き、20日の本会議に上程された不信任案も169対 239と70票差で否決された。
政府与党はともかくもこの議会を切抜けた。しかしこうした消極的な議会運営が、議会政治への不信感を 広めたことも否めないところであった。3月26日の東京朝日は「第五九議会の最大の収穫は、あるひは多数党の無力と議会の暴力化による議会政治否認を国民に強く印象づけた事であるかも知れない」と述べている。そして不発に終わったとは言えこの議会の混乱をみた陸軍首脳部のなかには、クーデターの策動さえ現実化していたのであった。3月20日を目標としたため3月事件と呼ばれているこのクーデター計画は、現在でもまだ判然としない部分が多いが、その大筋は「桜会」のリーダーである橋本欣五郎・重藤千秋らが大川周明と結び、さらに赤松克麿を通じて無産政党をもまきこみ宇垣陸相を主班とする内閣をつくって国内改造 と「満蒙問題の解決」を実現するというものであった。 この計画は最終段階で宇垣が動かなかったため失敗に終わったが、軍部がすでに満州事変とファッショ化の方向に動き始めていることは明らかであった。満州事 変がおこるのはこの議会が終了したほば半年後のことであった。第59回議会はまさに議会政治崩壊への1つの画期をなしていると言ってよいであろう。
重要法案の成否
この議会で大きく論議された問題としては、ロンド ン条約批准の経緯、海軍補充計画、軍縮余剰余による減税問題、台湾霧社事件、満蒙問題などがあるが、こ れらの点については「第五九回帝国議会貴族院解説」 を参照して頂きたい。また重要法案のうち、労働組合法案、小作法案、婦人公民権法案(市制町村制など改正案)、選挙法改正案などが成立しなかったこともすでに述べた通りである。
この議会で成立した法律案のうち主なものとしてはまず地租法をあげなくてはならない。この法案は営業収益税・砂糖消費税両法改正案とともに、軍縮余剰金 による減税法案の1つであったが、明治17年以来の地租条例を廃止し課税基準を一変させた点で画期的なものであった。すなわち明治初年の地租改正月来、地租は法定地価に対して課税されてきたのであるが、この新法によって地租は土地の賃貸価格に課税することにあらためられた。この点は民政党の年来の主張であ り、大正15年の第51回議会で若槻内閣は土地賃貸価格調査法を成立させ、これによってすでに賃貸価格の調査が完了していたものであった。また新しい地租法では、従来の宅地2.5%、田畑4.5%、その他5.5%の地目による区分をやめて一律の税率とし、 これまでの平均4.5%を3.8%へと1割5分の減 税が行われている。農村に関係するものとしては他に米穀法及び米穀需給調節特別会計法改正案があるが、前者では政府の市場介入の基準としての「率勢米価」 が登場し、後者は特別会計の運用限度を2億7000 万円から3億5000万円に拡張するものであった。
浜口内閣の経済政策のスローガンは「産業合理化」 であったが、この合理化政策の軸になるものとして、 重要産業統制法が成立している。すでに第58回議会が閉会した翌月の昭和5年6月には、合理化政策立案の中心機関として、臨時産業合理局が設置され、そこでは「企業の統制に関する事項」を調査・立案・統括することが重要な任務とされていた。すなわちこの合理局は普通の役所と異り、顧問会・常設委員会・臨時委員会が活動の中心となり、当初は常設委員会の1つである統制委員会が中心的存在として産業の統制につ いての法律の立案にあたっていた。
そして同委員会はこ12月9日に至って「企業の統制 に関する法律の要綱」を決議、これにもとづいて立案 されたのが重要産業統制法であった。それは委員会決議が「我産業界の極めて無統制なる実情に鑑み、此際企業統制の徹底を図るは先づ生産者に重点を置き、その同業者の組合団体又は協定に依るを適当とす」と述べているように、カルテル化の促進によって、いわゆる過当競争を排除しようというものであった。従って同法の中心は、商工大臣が重要産業と指定した業種においては同業者間のカルテル協定の届出を義務づけ、さらに必要な場合には、カルテル協定に加盟していな い業者(いわゆるアウトサイダー)に対しても協定の一部又は全部に従うよう命令する権限を商工大臣に与えた点にあった。この法律の制定後、カルテル協定の数は激増してゆくのであり、そのことは浜口内閣の合理化政策が、カルテル化促進を軸にするものだったことを物語るものであった。
社会政策的な面では、労働者災害扶助法の成立をあげておかねばならないであろう。労働者の災害扶助については、従来も工場法・鉱業法によって制度化されていたが、この法律はさらにこうした扶助制度を労働災害の多い土木・運輸・仲仕請負業にまで拡張し、業務 上の傷病に対して事業主をしで扶助させることにしたものである。
この議会では政府より75件の法律案が提出され、そのうち64件が成立しているが、労組法案など多くの重要法案が未成立に終わっており、絶対多数の与党をもつ内閣としては、決して好成績ということはでき なかった。
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