『帝国議会誌』第21巻

1977年3月

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第六七回帝国議会 貴族院解説


 

古屋 哲夫

 

ワシントン条約廃棄通告
北満鉄道買収協定の成立
第六七回議会の招集

貴族院の状況
天皇機関説問題
重要法案の成否



ワシントン条約廃棄通告

  第67回議会が年末年始の休会にはいっていた1934(昭和9)年12月から35(昭和10)年1月にかけて、ワシントン海軍軍縮条約の廃棄と北満鉄道の買収という2つの外交案件が解決された。

  ワシントン条約は1922年に日・英・米・仏・伊5力国によって調印されたものであり、主力艦・航空母艦の保有量を、米5・英5・日3・仏1、67・伊1,67の比率にもとづいて制限したものであった。そ してその期限は1936年12月31日まで有効と規定されていたが、その2年前(34年末)までにいずれかの1国からも廃棄通告が行われない場合には、その後に出される廃棄通告の2年後まで自動的に期限が延長されることになっでいた。

  また、ワシントン条約以後、1930年に日英米3国間に補肋艦艇の制限に関するロンドン条約が結ばれているが、この条約の期限もワシントン条約の期限によることになっていたから、ワシントン条約を廃棄することは、ロンドン条約をも廃棄することを意味していた。ワシントン条約はさらに、いずれか1国から廃棄通告が出された場合には、それから1年以内に、締約国の全体会議を開くことを義務づけでおり、従っ て日本が廃棄通告を行えば、35年中に次の軍縮会議が開かれる筈であった、そしてこの年、34年10月から、ロンドンで日英米3国の軍縮予備会談が始められたのは、こうした事態を想定してのことであった(予備会談については「第六六回帝国議会貴族院解説」参照)。

  ところで日本の海軍内部には、こうした軍縮のやり方についての反対が次第に高まっており、この時期には、比率義そのものに反対するというのが海軍の主張として固まってしまっていた。すなわち、比率主義をやめて各国共通の総トン数による制限方式をとれというのが、日本海軍の王張となっていたが、それを実現するためには、ワシントン条約の廃棄が前提となることは明らかであった。大角海相は岡田内閣への留任にあたってこの点を強く要求していたし、9月7日の閣議では今年中にワシントン条約の廃棄通告を行うこと、ただしその時機や手続は外交当局に一任するとの決定がなされていた。そこで広田外相はまず、締約国に共同で廃棄通告を行うことを提議してみることにし た。米英がロンドンの予備会談でこの提議を拒否するや、広田は11月27日、仏伊両国大使を招いて同様の提議を行ったが、フランスは30日、イダリアは12月4日、いずれも正式に不同意である旨を回答してきた。仏伊両国ともこの問題で特に日本の肩をもつ必要はな いというわけであった。もっとも、広田にしても同意する国のあることを期待していたわけではなく、12月3日の閣議には、イタリアの回答がとどき次第、条約廃棄の件を枢密院の審査にかけることを提議し、承認を得ていた。

  枢密院ももはやこの問題で海軍と争う意思はなく、12月11日の審査委員会でも建艦競争や国際的孤立 について若干の危惧が述べられただけであり、19日の本会議では全員一致でワシントン条約の廃棄を承認した。廃棄通告文は、アメリカ国務省が年末休暇に入る前日の12月29日、斎藤博駐米大使からハル国務長官に手渡されたが、同時に外務省は当局者談の形で、日本の主張する軍縮方式を次のように声明した。

 

「一、既存海軍条約は大海軍国問の兵力の差等を認める方式によったものであるが、艦船・兵器及び航空機等の進歩の現状に照し、右方式は到底今後我国防の安固を確保し難いから、新軍縮協定においては右比率主義に代ふるに各国の保有し得べき兵力量の 共通最大限度を協定する方式に拠らしめること。

二、(イ)而して軍縮の精神を発揮する為、右限度は或るべく之を小ならしめると共に、(ロ)各国をして攻むるに態く守るに不安なからしめる為、攻撃的兵力は之を全廃若くは極力縮減し防禦的兵力は之を整備すること」(東朝、12・30)

 ここで攻撃的兵力とは戦艦・航空母艦などを指しており、日本海軍は、この軍縮方式を実現すれば、極東における日本の軍事行動を阻止し得る国はなくなると考えていたものであろう。しかしこのような方式が国際的に承認される可能性は全くなかった。ロンドンの軍縮予備会談も12月20日無期休会に入り、事実上何の収穫もなしに終わったのであった。日本海軍はも はや軍縮ではなくて軍拡を望んでおり、議会にも政界にも、新たな軍縮の可能性を真剣に模索しようとする空気は全くなくなっていた。



北満鉄道買収協定の成立

 ロンドンであまり期待のかけられない軍縮予備会談がくり返されていた時、東京では、ソ連との間の北満鉄道買収交渉が最後の段階にはいっていた。北満鉄道とは満州北部を横断してウラジオストックに至る鉄道及びハルピン〜長春間の支線を指しているが、ソ連は、満州事変後、日本の侵略が資本主義諸国の支援のもとにソ連に向けられるといった事態を避けるため、粉争のもととなりやずいこの鉄道を「満州国」に売却することとした(「第六五回帝国議会貴族院解説」参照)。

  ソ適の提議によりこの交渉が開始されたのは、1933(昭和8)年6月26日であるが、しかし交渉は容易には進展しなかった。まず金額の問題について、最初ソ連側が2億5千万ルーブル=6億2500万円と切り出しだのに対して、「満州国」側は5000万円を主張、両者の言い分は12対1以上の差となっていた。ソ連側はこの鉄道への投資額を、「満州国」側は現在建設する場合の建設価格を基礎としており、ソ連の計算は1932年までの投資総額4億1169万ルーブルから鉄道の損耗及び経済価値の低下を割り引 いたものだというわけであった。しかしいずれにせよ、双方の主張がこれだけ大きく開いていては、話の進めようがなく、交渉が全く停滞したのも当然であった。

  ところが、翌34(昭和9)年3月5日になって、ソ連側が日本金2億円と大幅に譲渡価格を引下げたことによって、交渉はようやく軌道にのり始めた。「満州国」側も4月26日になって、1億円まで歩み寄った。交渉はソ連と「満州国」(代表・大橋忠一外交部次長)との間に行われ、日本が斡施するという建前であったが、実際には広田外相とユレニエフ駐日大使との間で実質的な話し合いが進められており、9月21日 に至って、鉄道1億4000万円、ソ連従業員の退職手当3000万円、計1億7000万円という妥協が成立、これで交渉がまとまる見通しがついたと言えた。

  しかし支払い条件、支払い方法などについて、いろいろな問題が残っていた。まず10月5日になって、3分の1は現金、3分の2は物資(日満両国より調達)とし、3ヵ年で支払う(ただし現金支払額の半額は即時)という話し合いがついたが、ソ連側はさらに現金支払いについての日本側の保証、物資の購入価格をめぐる紛争調停委員会の設置などを要求してきた。現金支払いの保証については、ソ連側はいろいろな方式を提案 してきたが、11月26日には、「満州国」公債をソ連側で所有し、それに対する日本銀行団の支払保証を要求している。また価格裁定問題では、物資購入価格について意見の不一致を来した場合には、第三国人を 加えた仲裁調停委員会の裁定によることを提議した。

  これに対して広田外相は、12月10日日本政府が支払いを保証する旨、公文書を以てソ連側に通告する、調停委員会は第三国人を排して、日・満各1名、ソ連2名の構成とし、ここで解決のつかない場合には、日本商人の扱いの物は日・ソ、「満州国」商人の扱いの物については「満」・ソ両国間の外交交渉によって解決するという対案を提出した。その他にも、ソ連従業員への退職手当の支払方法・ソ連領事館敷地の所有権などの問題もあって、交渉は越年したが、この交渉のため来日したソ連外務人民委員部極東部長カズロフスキーと東郷茂徳欧亜局長との間で細目にわたる折衝がつづけられた。そして1月21日午後7時から22日午前2時まで7時間に及んだ会談において、ソ連側がほぼ日本側の主張をうけいれ、1年7ヵ月に及んだ交渉はすべての問題を解決して妥協したのであった。正式調印は第67回議会も閉会に近づいた3月23日、東京の外相官邸で行われ、以後北満鉄道は満鉄に委託・ 運営されることになった。

  北満鉄道の譲渡によって、ソ連は在満権益を清算したわけであるが、しかし、これによって日本への警戒心をゆるめたのではなかった。この交渉と並行して、ソ連軍はソ満国境陣地の強化・極東兵力の増強に着手し、34年に入ると日本車との兵力差は歴然たるものとなってきていた。北鉄買収によって、日本車は初めて満州全域における車の集中・作戦輸送についての統一的な計画を立てられるようになったわけであるが、しかもなお兵力差の拡大によって、昭和10年度以後の対ソ作戦計画の樹立は次第に困難なものになってい った。この点について、防衛庁戦史室が作成した「戦史叢書」は次のように叙述している。

 

 「極東ソ車の航空機数は、昭和9年6月末500機と判断され、これに対する満鮮にあるわが航空機は130機に過ぎなかった。極東空軍の半数以上が沿海州方面にあり、中には東京を空襲できる超重爆撃機も存在しているとの情報が入ってきた。これを放置しては、わが動員も集中もできないので、開戦劈頭の先制空襲による航空撃滅戦が重視されるようになった。……ソ軍軍備の拡張と鉄道輸送力の増強とにより、ソ軍の極東に使用できる兵力は、狙撃40コ師団を基幹とするものに達するであろうと判断されるようになった。これに対するわが対ソ使用兵力は28コ師団に過ぎなかった。昭和8年度計画では……30コ師団に対し25コ師団と想定していたので、自信ある計画を立てえたが、今や内線作戦に不安を感ずるようになった」(「大本営陸軍部(1)」、355頁)

 こうしたソ連の軍備強化に対しては広田外相も強い関心を示し、1月22日の外交方針演説でも「ソヴイエト連邦ノ極東、殊ニ満ソ国境方面ニ於ケル軍備ニ付キマシテハ、相互ノ信頼ヲ増進スル見地ヨリ、同国政府ニ於テモ十分、考慮ヲ払フコトヲ望マザルヲ得ナイノデアリマス」(速記録第2号)と述べ、ソ連極東軍備の緩和が両国親善の前提となることを示唆したが、それがソ連に対して何の説得力も持ちえないことは明ら かであった。



第六七回議会の召集

 第67回議会は、1934(昭和9)年11月12日公布の召集詔書により、召集日12月24日、会期90日(12・26〜3・25)の通常議会として召集 された。12月26日の開院式のあと27日に全院委員長・常任委員の選挙を行っただけで、1月20日まで年末年始の休会にはいっている。

  この議会における正・副議長、全院・常任委員長、 国務大臣、政府委員、議員の会派別所属は次の通りであった。

議 長   近衛 文麿(公爵・火曜会)
副議長   松平 頼寿(伯爵・研究会)
     
全院委員長   徳川 圀順(公爵・火曜会)
     
常任委員長 資格審査委員長 青木 信光(子爵・研究会)
  予算委員長 柳沢 保恵(伯爵・研究会)
  懲罰委員長 大久保 利武(侯爵・研究会)
  請願委員長 酒井 忠克(伯爵・研究会)
  決算委員長 千田 嘉平(男爵・公正会)
     
国務大臣 内閣総理大臣 岡田 啓介
  外務大臣 広田 弘毅
  内務大臣 後藤 文夫
  大蔵大臣 高橋 是清
  陸軍大臣 林 銑十郎
  海軍大臣 大角 岑生
  司法大臣 小原 直
  文部大臣 松田 源治
  農林大臣 山崎 達之輔
  商工大臣 町田 忠治
  逓信大臣 床次 竹二郎
  鉄道大臣 内田 信也
  拓務大臣 児玉 秀雄
     
政府委員(12・25発令) 内閣書記官長 吉田 茂
  法制局長官 金森 徳次郎
  法制局参事官 樋貝 詮三
  森山 鋭一
  外務政務次官 井阪 豊光
  外務参与官 松本 忠雄
  外務書記官 岡本 季正
  内務政務次官 大森 佳一
  内務参与官 橋本 実斐
  内務書記官 山崎 厳
  大蔵政務次官 矢吹 省三
  大蔵参与官 豊田 収
  大蔵省主計局長 賀屋 興宣
  大蔵省主税局長 石渡 荘太郎
  大蔵省理財局長 青木 一男
  大蔵省外国為替管理部長 和田 正彦
  大蔵書記官 入間野 武雄 
  広瀬 豊作
  山田 龍雄
  預金部長 荒井 誠一郎
  専売局長官 中島 鉄平
  陸軍政務次官 土岐 章
  陸軍参与官 石井 三郎
  陸軍主計総監 平手 勘次郎
  陸軍少将 永田 鉄山
  陸軍一等主計正 大城戸 仁輔
  海軍政務次官 堀田 正恒
  海軍参与官 窪井 義道
  海軍主計中将 村上 春一
  海軍中将 吉田 義吾
  海軍主計大佐 石黒 利吉
  司法政務次官 原 夫次郎
  司法参与官 舟橋 清賢
  司法書記官 黒川 渉
  文部政務次官 添田 敬一郎
  文部参与官 山枡 儀重
  文部省普通学務局長 下村 寿一
  文部書記官 山川 建
  農林政務次官 守屋 栄夫
  農林参与官 森  肇
  農林省書記官 田渕 敬治
  商工政務次官 勝 正憲
  商工参与官 高橋 守平
  商工書記官 東  栄二
  逓信政務次官 青木 精一
  逓信参与官 平野 光雄
  逓信省経理局長 富安 謙次
  鉄道政務次官 樋口 典常
  鉄道参与官 兼田 秀雄
  鉄道省監督局長 前田  穣
  鉄道省運輸局長 新井 堯爾
  鉄道省建設局長 川原 直文
  鉄道省工務局長 平井 喜久松
  鉄道省経理局長 工藤 義男
  拓務政務次官 桜井 兵五郎
  拓務参与官 佐藤 正
  拓務省管理局長 生駒 高常
  拓務省殖産局長 北島 謙次郎
  拓務省拓務局長 高山 三平
  拓務書記官 小河 正儀
  朝鮮総督府政務総監 今井田 清徳
  朝鮮総督府財務局長 林 繁蔵
  台湾総督府総務長官 平塚 広義
  台湾総督府財務局長 岡田  信
  樺太庁長官 今村 武志
  南洋庁長官 林  寿夫
     
政府委員追加(会期中発令) 対満事務局次長 川越 丈雄
  大蔵省銀行局長 荒井 誠一郎
  預金部長 金子 隆三
  司法省民事局長 大森 洪太
  司法省刑事局長 木村 尚達
  司法省行刑局長 岩松 玄十
  内務省神社局長 館  哲二
  内務省地方局長 岡田 週造
  内務省警保局長 唐沢 俊樹
  内務省土木局長 広瀬 久忠
  内務省衛生局長 岡田 文秀
  社会局長官 赤木 朝治
  北海道庁長官 佐上 信一
  商工省商務局長 村瀬 直養
  商工省工務局長 竹内 可吉
  商工省鉱山局長 小島 新一
  商工省貿易局長 寺尾 進
  保険事務官 石井 銀弥
  臨時産業合理局事務官 藤田 国之助
  逓信省郵務局長 久埜  茂
  逓信省電務局長 進藤 誠一
  逓信省工務局長 梶井  剛
  逓信省電気局長 清水 順治
  逓信省管船局長 浅野 平二
  逓信省航空局長 片岡 直道
  貯金局長 猪熊 貞治
  簡易保険局長 平井 宣英
  農林省農務局長 小浜 八弥
  農林省山林局長 村上 龍太郎
  農林省水産局長 戸田 保忠
  農林省畜産局長 高橋 武美
  農林省蚕糸局長 井野 碩哉
  農林省米穀部長 荷見 安
  農林省経済更生部長 小平 権一
  大蔵書記官 大矢 半次郎
  木内 四郎
  入江  ミ
  外務省通商局長 来栖 三郎
  外務省文化事業部長 岡田 兼一
  関東局事務官 小宮  陽
  営善管財局理事 関原 忠三
  拓務省管理局長 萩原 彦三
  外務書記官 坂  千秋
  外務省欧亜局長 東郷 茂徳
  社会局書記官 北岡 寿逸
  大蔵書記官 谷口 恒二
  商工書記官 岸  信介
  新倉 利広
  内務事務官 相川 勝六
  陸軍省法務局長 大山 文雄
  大蔵書記官 松隅 秀雄
     
会派別所属議員氏名    
     
 開院式当日各会派所属議員数 研 究 会 157名
  公 正 会 67名
  火 曜 会 41名
  交友倶楽部 38名
  同 和 会 35名
  同 成 会 23名
  各派に属しない議員 51名
  412名
     
研究会 大久保 利武
  黒田 長成
  林 博太郎
  橋本 実斐
  堀田 正恒
  小笠原 長幹
  川村 鉄太郎
  樺山 愛輔
  黒木 三次
  柳原 義光
  柳沢 保恵
  松平 頼寿
  松木 宗隆
  二荒 芳徳
  後藤 一蔵
  児玉 秀雄
  有馬 頼寧
  酒井 忠克
  酒井 忠正
  溝口 直亮
  井伊 直方
  岩城 隆徳
  伊東 二郎丸
  井上 勝純
  井上 匡四郎
  今城 定政
  池田 政時
  伊集院 兼知
  浜尾 四郎
  西大路 吉光
  西尾 忠方
  西四辻 公堯
  保科 正昭
  豊岡 圭資
  戸沢 正己
  土岐  章
  富小路 隆直
  大岡 忠綱
  大河内 輝耕
  大久保 立
  岡部 長景
  織田 信恒
  渡辺 千冬
  加藤 泰通
  片桐 貞英
  米倉 昌達
  米津 政賢
  吉田 清風
  立花 種忠
  立見 豊丸
  高橋 是賢
  高木 正得
  冷泉 為男
  曽我 祐邦
  鍋島 直縄
  裏松 友光
  梅園 篤彦
  梅小路 定行
  植村 家治
  野村 益三
  藪  篤麿
  前田 利定
  松平 忠寿
  松平 直平
  松平 康春
  松平 保男
  蒔田 広城
  牧野 忠篤
  舟橋 清賢
  近衛 秀麿
  青木 信光
  綾小路 護
  秋月 種英
  秋元 春朝
  秋田 重季
  安藤 信昭
  実吉 純郎
  清岡 長言
  水無瀬 忠政
  三室戸 敬光
  三島 通陽
  白川 資長
  新庄 直知
  毛利 元恒
  仙石 正敬
  松平 乗統
  市来 乙彦
  磯村 豊太郎
  今井 五介
  馬場 ^一
  八田 嘉明
  坂西 利八郎
  西野  元
  堀 啓次郎
  堀切 善次郎
  富谷 ヌ太郎
  大橋 新太郎
  大谷 尊由
  太田 政弘
  大塚 惟精
  小倉 正恒 
  岡崎 邦輔
  若林 賚蔵
  金杉 英五郎
  根津 嘉一郎
  内藤 久寛
  潮  恵之助
  山岡 万之助
  山川 端夫
  藤原 銀次郎
  藤山 雷太
  木場 貞長
  三井 清一郎
  宮田 光雄
  勝田 主計
  関屋 貞三郎
  松村 真一郎
  藤沼 庄平
  黒崎 定三
  有賀 光豊
  宮尾 舜治
  松本  学
  島根 糸原 武太郎
  北海道 板谷 宮吉
  佐賀 石川 三郎
  千葉 浜口 儀兵衛
  長崎 橋本 辰二郎
  和歌山 西本 健次郎
  東京 細田 安兵衛
  福井 飛嶋 文吉
  福島 金成  通
  北海道 金子 元三郎
  神奈川 上郎 清助
  京都 風間 八左衛門
  新潟 高島 順作
  東京 津村 重舎
  山梨 名取 忠愛
  愛媛 仲田 伝之コウ
  静岡 中村 円一郎
  熊本 長野 忠次
  岐阜 上松 泰造
  高知 野村 茂久馬
  京都 大沢 徳太郎
  栃木 久保 市三郎
  鹿児島 久米田 新太郎
  熊本 山隈 康
  鳥取 米原 章三
  兵庫 松岡 潤吉
  愛知 松沢 清次郎
  埼玉 松本 真平
  宮城 佐藤 亀八郎
  徳島 三木 与吉郎
  新潟 白勢 春三
  沖縄 平尾 喜三郎
  大阪 森  平兵衛
  静岡 鈴木 幸作
  鹿児島 上野 喜左衛門
     
公正会 岩村 一木
  岩倉 道倶
  伊藤 一郎
  伊藤 文吉
  井田 磐楠
  稲田 昌植
  井上 清純
  今園 国貞
  今枝 直規
  伊江 朝助
  原田 熊雄
  橋元 正輝
  本多 政樹
  東郷  安
  徳川 喜翰
  長  基連
  小畑 大太郎
  大井 成元
  大蔵 公望
  大寺 純蔵
  大森 佳一
  沖  貞男
  渡辺 汀
  渡辺 修二
  加藤 成之
  金子 有道
  郷 誠之助
  高崎 弓彦
  高木 喜寛
  園田 武彦
  辻  太郎
  鍋島 直明
  中村 謙一
  黒田 長和
  山根 健男
  矢吹 省三
  松岡 均平
  松尾 義夫
  松平 外与麿
  深尾 隆太郎
  福原 俊丸
  近藤 滋弥
  有地 藤三郎
  赤松 範一
  足立  豊
  浅田 良逸
  佐藤 達次郎
  安場 保健
  阪谷 芳郎
  坂本 俊篤
  紀  俊秀
  北大路 実信
  北河原 公平
  北島 貴孝
  菊池 武夫
  肝付 兼英
  三須 精一
  四条 隆英
  東久世 秀雄
  関  義寿
  千田 嘉平
  千秋 季隆
  周布 兼道
  杉渓 由言
  安保 清種
  松田 正之
  松村 義一
     
火曜会 伊藤 博精
  一条 実孝
  徳川 家達
  徳川 圀順
  徳大寺公弘
  鷹司 信輔
  九条 通秀
  山県 有道
  近衛 文麿
  三条 公輝
  島津 忠重
  島津 忠承
  岩倉 具栄
  池田 仲博
  細川 護立
  徳川 頼貞
  徳川 義親
  大隈 信常
  鍋島 直映
  中山 輔親
  中御門 経恭
  野津 鎮之助
  久邇 邦久
  蜂須賀 正
  山内 豊景
  山階 芳麿
  前田 利為
  松平 康昌
  久我 常通
  西郷 従徳
  嵯峨 公勝
  佐竹 義春
  佐々木 行忠
  木戸 幸一
  菊亭 公長
  四条 隆愛
  広幡 忠隆
  小村 捷治
  池田 宣政
  東郷 彪
  井上 三郎
交友倶楽部 勅 男 山本 達雄
  犬塚勝太郎
  橋本圭三郎
  大川平三郎
  岡 喜七郎
  若尾 璋八
  和田 彦次郎
  川村 竹治
  芳沢 謙吉
  高橋 琢也
  竹越 与三郎
  長岡 隆一郎
  中川 小十郎
  中村 純九郎
  室田 義文
  内田 重成
  鵜沢 総明
  桑山 鉄男
  小久保 喜七
  古島 一雄
  佐藤 三吉
  水上 長次郎
  水野 錬太郎
  南    弘
  宮崎 岩崎 清行
  山口 林 平四郎
  香川 大西 虎之助
  福岡 太田 清蔵
  滋賀 吉田 羊治郎
  埼玉 田中 徳兵衛
  青森 宇野 勇作
  岡山 山上 岩二
  茨城 青木 歳次郎
  千葉 三橋 弥
  広島 水野 甚次郎
  群馬 渋沢 金蔵
  愛知 下出 民義
  大分 久恒 貞雄
     
同和会 勅 男 若槻 礼次郎
  勅 男 弊原 喜重郎
  岩田 宙造
  稲畑 勝太郎
  原 保太郎
  徳富 猪一郎
  大島 健一
  岡田 文次
  織田  万
  川崎 卓吉
  門野 幾之進
  各務 鎌吉
  嘉納 治五郎
  上山 満之進
  田所 美治
  永田秀次郎
  野村 徳七
  倉知 鉄吉
  松浦 鎮次郎
  真野 文二
  江口 定条
  阿部 房次郎
  有吉 忠一
  赤池  濃
  安立 綱之
  光永 星郎
  土方 久徴
  仁井田 益太郎
  辜 顕栄
  宇佐美 勝夫
  佐藤 鉄太郎
  松井  茂
  広島 松本 勝太郎
  三重 小林 嘉平治
  大阪 佐々木 八十八
     
同成会 伊沢 多喜男
  渡辺 千代三郎
  加藤 政之助
  川上 親晴
  高田 早苗
  武富 時敏
  塚本 清治
  次田 大三郎
  丸山 鶴吉
  青木 周三
  菊池 恭三
  三宅  秀
  柴田善三郎
  菅原 通敬
  富山 金岡又左衛門
  兵庫 田村 新吉
  茨城 大和田健三郎
  奈良 山本 米三
  長野 小坂 順造
  岡山 坂野鉄次郎
  福島 油井 徳蔵
  神奈川 平沼 亮三
  長野 武井覚太郎
     
各派に属しない議員 雍仁親王
  宜仁親王
  載仁親王
  博恭王
  博義王
  博英王
  武彦王
  恒憲王
  朝融王
  守正王
  多嘉王
  鳩彦王
  孚彦王
  稔彦王
  永久王
  恒徳王
  春仁王
  正彦王
  大山  柏
  西園寺 公望
  毛利 元昭
  朴 泳孝
  醍醐 忠重
  小松 輝久
  浅野 長勲
  中島 久万吉
  勅 伯 内田 康哉
  勅 男 松井 慶四郎
  渡辺  暢
  樺山 資英
  田沢 義鋪
  黒田 英雄
  松本 烝治
  藤田 謙一
  二上 兵治
  福永 吉之助
  後藤 文夫
  美濃部 達吉
  土方  寧
  小山 松吉
  小幡 酉吉
  河田 烈
  関  一
  小野塚 喜平次
  田中 館愛橘
  三上 参次
  長岡 半太郎
  福岡 大藪 守治
  秋田 辻 兵吉
  山形 三浦 新七
  岩手 瀬川 弥右衛門

 なお、この議会の会期中に会派に属さなかった関一が研究会に、また新たに就任した筑波藤麿(侯爵)・伊達宗彰(侯爵)が火曜会に入ったが、関はその1週間後(会期中)に死去した。ほかに高橋琢也(勅選・交友倶楽部)・小笠原長幹(伯爵・研究会)・久邇邦久(侯爵・ 火曜会)の3議員が死去しており、会期終了日の公派別議員数は、研究会て157名→156名、火曜会41名→42名、交友倶楽部38名→37名、会派に属さない議員51名→50名となった。従って議員総数は412名から410名に減少している。



貴族院の状況

 この議会では当初、衆議院におけるいわゆる爆弾動議の後始末問題に関心が集まっており、政府もこの問題をめぐる政友会との駈引におわれて、議案の提出がおくれた。従って貴族院では、2月15日に総予算案が送付されてくるまでは議案が全くないままに、国務大臣への質問が行われるという状態がつづいた。その本会議も1月22日の首相・外相の演説以後、1月中には7回聞かれているが、2月に入ると15日・18日・25日の3回の開催にとどまり、本格的な法案審議にはいったのは、3月1日の本会議からであった。会期の前半は貴族院に議案が少ないのは例年のことではあるが、これほど貴族院の議案審議がおくれるのは異例のことであり、2月18日の本会議では開会劈頭、 土方寧(勅選・無会派)が議事進行についての発言を求め、まだ本院に1件の法律案も提案されないのはどうしたことかと政府を督促したが、さらに2月23日には貴族院各派代表が岡田首相と会談、「会期の大半を 過ぎているのに法律案はいまだ1件の提出も見ていない、斯の如き殆ど前例を見ない、この遅延につき政府の都合はどうあるとしても今後一時にこれらの法案が 輻輳して来るやうでは審議の上に非常の不便を来すから善処して欲しい」(東朝、2・24付夕刊)と申し入 れている。

  従って貴族院では会期の大半にわたって、議案とは直接関連のない多くの問題が論ぜられていたわけであるが、そのなかでまず注目を集めたのは、前議会に引きつづいてとりあげられた帝人事件をめぐる論戦であった(帝人事件については「第六六回帝国議会貴族院解説」参照)。その論点は検事の取調べにおける人権じゅうりん、自白強要などの追求であり、前議会と基本的に変わるものではなかったが、ただこの議会召集直後の12月27日に予審が終結し予審終結決定書の内容が新聞の号外で大々的に報ぜられたり、また保釈とな った被告達が次々と手記を発表したりしており、資料は豊富になっていたと言える。また著名な憲法学者・ 美濃部達吉(勅選・無会派、昭7・5・10任命)がこの問題をひっさげて初めて貴族院の壇上にのぼったことも、関心をかき立てる一因となっていた。

  1月23日に行われた美濃部の演説は、帝人事件において検事は職権を濫用して逮捕監禁を行ったのではないか、また検事の取調べにあたって、違法の処置、殊に被疑者に対する暴行陵虐の行為があったのではないか、という観点からなされたものであり、検事の権限の法律的検討とともに、被告の保釈後の手記を引用しながら取調べの実態をついた点が注目された。美濃部はここで「被告人ノ勾留ハ証拠浬滅ノ虞ガアツタ為デハナク、一 ニ自白ヲ強要スル為デアッタト云フ証拠ガ歴然デアルト思ヒマス」 「被告人ノ自白ガ一致シナイ為ニ斯ク長ク勾留ヲ継続スルニ至ツタモノト解スルヨリ外ニハ説明ノ途ガナイト信ズル者デアリマス」(速記録第3号)と断じていた。

  美濃部につづいて、前議会でこの問題の口火を切った岩田宙造も、1月29日の本会議で再びこの問題をとりあげた。岩田はまず、検事が特定の政治的意図をもって自白を強要したのではないか、という点をついた。彼もまた被告の手記を引用しながら「『我々ノ目的ハ無血クーデターヲ実行シテ、政党及財閥ヲ打破スルニ在ルノダカラ、其目的ヲ実行スル為ニハ絶対ニ容赦ハセヌ』、斯ウ云フ種類ノコトヲ多クノ検事ガ其取調中ニ言ツテ、ソレダカラ被告人等モ日本ノ政党政治其他ノー般社会ノ腐敗ヲ矯正スル為ニ協カスル趣旨ヲ以テ、皆言ツテシマヘト云フコトヲ、ドノ検事モ言ツテ居ラレルノデアリマス」(速記録第6号)と述べ、司法官ファッショ化の危険を指摘した。

  岩田は更に、こうしたことが起こってくる背後には、 「検事が予審判事ニ対シテ不当ナル勢カヲ持ツテ居ル」 という事実があることを問題にする。つまり、検事が検事総長以下一体なのに対して、予審判事は強い権限を侍っているようにみえるが、実は孤立している。そしてそこから予審判事が検事の言いなりになるような事態が起こってくるのではないか。そこで問題になっ ている検事の横暴・自白強要の跡を断つためには、(一)「裁判所ト検事局トヲ分離シテ、検事局ヲ全然裁判所カラ分離スル」、(二)「判事ノ人事行政ヲ司法大臣カラ独立ヲシテ、サウシテ大審院長ノ権限ニ移ス」という2つの制度改革が必要だと岩田は主張したのであった。

  これに対して小原法相は、被告の手記・弁明書の類は誇張・牽強附会に満ち、甚だしきは虚妄であるとして検事側を弁護するとともに、岩田の論は「予審判事ニ対スル一大侮辱」であると反論したが、岩田は制度を問題にしたものであって、予審判事個人を非難したものではないと応じていた(速記録第7号)。

  ところでこうした検察当局への非難は、第65回議会当時、中島・鳩山両相と帝人事件の追求という形で斉藤内閣倒閣運動を進めていた右翼勢力の、強い反発を呼びおこしたとみられた。2月18日の本会議で、美濃部憲法学説攻撃の口火を切った菊池武夫(男爵・ 公正会)は、その演説のなかで帝人事件にも触れ、帝人事件に関する被告擁護の怪文書・裁判牽制を目的とするパンフレット・言論の横行などは被告の策動によるものではないか、何故保釈を取り消さないのかと追っている。そしてこの演説を契機にして、貴族院での論議の中心は、天皇機関説問題へと転じたのであった。



天皇機関説問題

 貴族院内で帝人事件が論議されていた1月24日、 すでに院外では、「美濃部達吉博士、末弘厳太郎博士の国憲紊乱思想に就て」と題するパンフレットが配布され、右翼勢力による天皇機関説排撃運動の熱度が高まりつつあった。このパンフレットは蓑田胸喜の起草になり、国体擁護連合会の名において発表されたのであるが、其の影響効果は蓑田自身も予想外とする程に大きかったと言われる。

  蓑田はすでに1925(大正14)年11月、原理日本社を創立して以来、「政治革命あらざらしめんがための学術革命」を唱え、大学とくに帝国大学法学部の社会主義・自由主義的傾向に攻撃を加えており、33(昭和8)年の滝川事件の端緒をつくったのも彼であった。さらに彼は34(昭和9)年6月には、末弘厳太郎の著書、法窓閑話・法窓漫筆・法窓雑話などを、治安維持法違反・不敬罪・出版法違反(国憲紊乱)に あたるとして告発、同11月、検察当局はこれを不起訴と決定したが、内務省は、法窓漫筆中の「法治と暴力」、「暴力問答」の章は安寧秩序を害するとして、同書を発売禁止処分に付したのであり、蓑田の活動は一定の成果をあげつつあったと言える。

  また、国体擁護連合会は、右翼陣営最大の連合組織であり、32(昭和7)年12月、いわゆる司法官赤化事件の糾弾を目的として結成されたものであるが、以後、自由主義攻撃・既成政党排撃に活動の重点を移しており、滝川事件・中島商相糾弾などに活発に動いていた。この時期には、加盟団体は80をこえ、そのなかには勿論蓑田の原理日本社も加わっている。また 貴族院の三室戸敬光(子爵・研究会)、菊池武夫(前掲)、井上清純(男爵・公正会)、衆議院の江藤源九郎(第一控室)らは、国体擁護連合会に呼応する議会内の活動分子であったと言える。さらにこの頃には、こうした右翼的活動をうけいれる社会的雰囲気も次第に強められつつあった。例えば1926(大正15)年赤尾敏の奔走で始められた建国祭は、次第に官製化の色彩を 強めつつ盛大になっており、この議会中の2月11日には全国約6800ヵ所で行われた式典・示威行進に600万人が参加したと伝えられる(東朝、2・12付夕刊)。東京では、靖国神社外苑(司会者・三島子爵)・芝公園(下村文部省普通学務局長)・明治神宮外苑相撲場(中村中将)・上野公園動物園前(丸山元警視総監)・隅田公園(福島青年給理事)・深川公園(鳥巣中将)・ 錦糸公園(大野縁一郎)・代々木練兵場(高田中将)の8会場に、在郷軍入団・青年団・国防婦人会・修養団体・右翼学生団体などを中心に10万人が集まり、式典後、宮城前への行進を行っている。さらに東京放送(J OAK)は午前10時〜12時に上野会場の実況及び 講演、午後6時25分〜7時には岡田首相及び後藤内相の記念講演を全国に中継放送して建国祭を盛り上げようとしていた。

  そしてこの建国祭が終わった直後から、院外の右翼勢力の活動は一段と活発になってくるのであり、さきに、美濃部・末弘攻撃のパンフレットを配布した国体擁護連合会は次のような活動を開始した。「二月一五日入江種矩外一四名の代表者は小石川区竹早町一二四番地美濃部邸に同博士を、帝大法学部長室に末弘博士を夫々訪問して一切の公職を辞し恐懼謹慎すべき旨の決議文を手交し、次いで18日代表者入江種矩、増田一悦、薩摩雄次の3名は文部大臣官邸、内務大臣私邸に松田文相、後藤内相を訪問して両博士の著書の発禁処分、並両博士の罷免を要請する決議文を手交した」(「現代史資料(4)・国家主義運動(一)」、366頁)。

  こうした院外活動を背景として2月18日の本会議 に登壇した菊池武夫はまず、「我ガ皇国ノ憲法ヲ解釈イタシマスル著作ノ中デ、金甌無闕ナル皇国ノ国体ヲ破壊スルヤウナモノ」があり、しかもそれが帝国大学教授の著作である、政府はこの著作・著作者にどうい う処置をとるか、とただした。これに対して松田文相が「如何ナル教授ガ如何ナル書物ニ、ドウ云フコトヲ書イタト云フコトヲ指摘シテ貰ハナケレバ答弁スル訳ニハ参リマセヌ」と突っぱねると、菊池ははじめて美濃部の著書「憲法撮要」・「憲法精義」をあげ、「我国デ憲法上、統治ノ主体ガ、国家ニアルト云フコトヲ断然公言スルヤウナ学者著者ト言フモノガ、一体司法上カラ許サルベキモノデゴザイマセウカ、是ハ綴漫ナル謀反デアリ、明カナル反逆ニナルノデス」(速記録第10号、ただしこの部分には誤植がある)として、天皇機関説に具体的な攻撃を開始した。これに対して松田文相は自分は機関説に反対であるが、「天皇ハ国家ノ主 体ナリヤ、天皇ハ国家ノ機関ナリヤト云フ論ガ対立」 しているのは以前からのことであり「斯カル点ハ学者ノ 議論ニ委シテ置クコトガ相当デナイカト考ヘテ居リマス」と答えた。しかし右翼勢力はこれでは満足せず、 関連質問に立った井上清純(男爵・公正会)は岡田首相の言明を求めたが、岡田も「天皇ハ機関ナリ」というのは「用語ガ穏当デナイ」としながらも、「美濃部博士ノ著書ハ、全体ヲ通読シマスルト国体ノ観念ニ於テ誤リナイト信ジテ居リマス、唯用語ニ穏当ナラザル所 ガアルヤウデアリマス」と述べるにとどまった。

  このようなあいまいな政府側の態度に対して、美濃部は自らの機関説を断乎として擁護することを決意し、2月25日午前の本会議において再び演壇に立つことにな った。美濃部の演説は、天皇の統治の大権を如何に理解すべきかという点に力点をおき、天皇が統治の権能を行使するのは、天皇の一身一家の利益のための私的行為ではなく、憲法の規定に従って行われる国家の公事であり、 国家の利益を実現するための行為なのではないか、またその国家とは権利の主体となることのできる永続的な団体、法律学上の言葉で言えば法人であり、この国家という「法人ヲ代表シテ法人ノ権利ヲ行フ」天皇は、法律的 には「法人ノ機関」にほかならない、として天皇機関説の理論的基礎を明らかにした。そしてさらに「若シ所謂機関説ヲ否定イタシマシテ、統治権ハ天皇ノ御一身ニ属スル権利デアルトシマスルナラバ、其統治権ニ基イテ賦課セラレマスル租税ハ国税デハナク、天皇ノ御一身二属スル収入トナラネバナリマセヌシ、天皇ノ締結シ給フ条約ハ国際条約デハナクシテ、天皇御一人トシテノ契約トナラネバナラヌノデアリマス」(速記録第11号)として、 天皇機関説の積極的意義を強調したのであった。

  美濃部の憲法学説の特色がこの範囲に止まるならば、右翼勢力の攻撃も大きな影響力を持ち得なかったかもしれない。午後の本会議再開にあたって発言を求めた菊池は「アノ御本ヲ全部通覧イタシマシテ、今日ノ御説明ノヤウニ感ゼラレマスルナラバ、何モ問題ニモナラヌノデゴザイマス」 (同前)と述べているが、それは問題の範囲を抽象論に限定しては太刀打ちできないという気分をあらわしたものだったであろう。しかし 美濃部の憲法学説は、たんに国家は法人であり天皇は機関であることを主張するだけのものではなく、そこから種々の条文解釈を引き出してきた点に特色があったのであり、従ってそうした個々の解釈をクローズー アップすることで、逆に天皇機関説全体を攻撃するというやり方が可能になってくるのであった。

  美濃部の弁明演説ののちも、2月27日の衆議院予算総会における江藤源九郎、3月4日の貴族院予算総会における三室戸敬光らの攻撃がつづけられているが、 機関説反対派はさらに3月8日、昭和10年度総予算案の上程にあたって、委員会での論議に関連した形で、本会議場での総攻撃を企て、菊池武夫・井上清純・井田磐楠(いずれも男爵・公正会)があいついで登壇することとなった。ここで再度登場した菊池は、美濃部学説の害悪を「第一、国体無視、第二、天皇ヲ強イテ憲法ノ条章ノ範囲ニ入レ奉リ、統帥権ノ独立ヲ否定シ、議会ヲ万能ニ導キ、憲法改正ノ意ヲ包蔵スルコト、第三、詔勅ヲ軽視シ、敢テ御尊厳ヲ冒涜シ奉ルコト」(速記録第14号)という3点に要約しているが、これは機関説攻撃論者の共通項を示すものであり、美濃部学説のもつ民主主義的傾向を全面的に否定しようとするものにほかならなかった。

  では、こうした右翼からの攻撃の的となった美濃部の憲法学説とはどのようなものであったのか。ここでは「逐条憲法精義」(昭和2年12月初版)によって、若干の問題をみておくことにしたい。彼はまず「著者の見解によれば、国体の観念は、わが帝国が開闢以来万世一系の皇統を上に戴いて居ることの歴史的事実と 、わが国民が皇室に対して世界に比類なき崇敬忠順の感情を有することの倫理的事実とを示す観念であって、現在の憲法的制度を示すものではない。……国体を理由とする君権説の主張は、其の結果に於いては、常に官僚的専制政治の主張に帰するもので、是がわが従来の憲法学説に果せる最も大なる原因である」(同書、序文)とし、憲法解釈は立憲主義を基礎としなければならないという基本的態度を明らかにする。そして立憲主義的解釈のための基盤としてさきにみた国家=法人、天皇=機関説が構築されたわけであるが、彼はそこからまず第一に、天皇の国務上の大権は、国務大臣の「輔弼」なしには行使しえないとする原則を打立てようとした。

  「輔弼とは、イギリス法のadviceの語が略之に相当す る。天皇は国務大臣からの進言に基いて大権を行はせらるるのである。それが立憲政治の責任政治たる所以で、天皇は親ら責に任じたまふのではないから、国務大臣の進言に基かずして、単独に大権を行はせらるることは、憲法上不可能である」(同書、512頁)。勿論美濃部も現実に「統帥権の独立」がこの原則の重大な例外となっていることを認めないわけにはゆかない、しかしそれは憲法の明文による規定に基づかない慣習であり「将来之を改めて軍の統帥に付いても等しく内閣の責任に属せしめ、随って軍隊が内閣の監督を受くるものとせられても、敢て憲法の改正を必要とするものではなく、官制の改正に依って之を実行し得ることは勿論である」(同書、255頁)という解釈を引き出してくるのであった。

  天皇が国務上の大権を単独には行使しえないという原則からは、詔勅批判の自由という命題を引き出すことも可能であった。美濃部は言う。「憲法は……大臣責任の制度を定め、総て国務に関する詔勅については国務大臣がその責に任ずるものとした為に、詔勅を非難することは即ち国務大臣の責任を論議する所以であって、毫も天皇に対する不敬を意味しないものとなった。それが立憲政治の責任政治たる所以であって、此の意味に於て、天皇の詔勅は決して神聖不可侵の性質を有するものではない。『天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス』といふ規定は、専ら天皇の御一身にのみ関する規定であって、詔勅に関する規定ではない。天皇の大権の行使に付き、詔勅に付き、批評し論議することは、立憲政治に於いては国民の当然の自由に属するものである」(同書、116頁)。美濃部学説のうち、右翼の攻撃が最も激しく集中されたのは、実はこの部分であると言ってもよかった。

  美濃部の憲法解釈の第二の特色は、議会の地位を国家機関のなかでも特異なものとみ、その権限を出来るだけ広く解釈しようとした点にあった。まず彼は「帝国議会は国民の代表者として国の統治に参与するもので、天皇の機関として天皇からその権能を与へられて居るものではなく、膸って原則としては天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」(同書、179頁)と主張する。そして次に、議会の権限は憲法の「帝国議会」の章に列挙されるも のに限られるという解釈を排して、官吏の任免・軍の統帥・宣戦・講和・条約の綿紡など、いわゆる大権事項とされるものについても議会の関与を認めることは可能であるとの解釈を示した。

 

「狭義に於いての天皇の大権とは、天皇の独裁権であって、而して独裁とは議会の協賛を要しないことを 意味する。議会の協賛を要しないことは、敢てその協賛を経ることが出来ぬといふ意味ではない。仮令その協賛を経て之を定めたとしても、それは等しく天皇の 定めたまふ所であって、敢て憲法に抵触するものでな いことは勿論である」(同書、164〜5頁)。それは言いかえれば内閣の権限と議会の権限とを相対応したものとして認めるべきだとの考え方を示すものであった。「議会の参与し得べき政務の範囲は、国務大臣の職務に属する国家事務の範囲と同一であって、立法も行政も苟も国務大臣の責任に属する限りは、議会は之に参与し得るのである。唯立法に対しては議会は原則として協質権を有し、行政に対しては原則として協賛権なく、協賛以外の方法に依って之に参与することの差異が有るだけである」(同書、424頁)。

 こうした美濃部の憲法解釈は、内閣と議会とを政治の中心に置くことが、大日本帝国憲法のもとでも可能であり、かつ望ましいとする観点に立つものだったと言えよう。従ってそれは、政党政治を排撃し、軍部の政治的主導権の確立をめざす勢力から言えば、打破すべき敵対物とみえてくることは必然であった。軍部大臣は議会においては岡田首相の答弁に歩調を合わせていたが、院外では在郷軍人団が動き始めており、それが軍中央部の意向を反映していることは明らかであっ た。3月12日、帝国在郷軍人会本部は下部組織に対し、「天皇機関説は我国体に悖る法理論にして特に吾人軍人の伝統的信念とは絶対に相容れざるもの」と断じ、「主として文書及講演会等適当なる手段方法に依 り会員をして益々国体に関する所信を鞏くし一意其本分に邁進せしむること」(内務省警保局「社会運動の状況・昭和一〇年」、406頁)とする通牒を発した。そしてこれをうけて全国の在郷軍入会組織は、一斉に機関説排撃に動き出してくるのであった。

  こうした情勢のなかで岡田内閣の態度も急速に後退していった。3月8日の本会議で菊池のあとをうけた井上清純の質問に対して、岡田首相が「美濃部博士ノ 法律ノ学説ガ社会ニ影響ヲ及ボスモノトシテ何等カノ 処置ヲ要スルヤ否ヤニ付キマシテハ、最モ慎重考慮ヲ致ス考デアリマス」(速記録、第14号)と答えたことは、内閣が何等かの処置をとらざるを得なくなる第一歩となった。

  機関説排撃派は、3月8日の質問戟からさらに一歩を進めて建議案を提出して政府に追い打ちをかけようとし、13日頃から各派交渉委員に諒解工作を始めた。建議案を成立させるためには、どうしても最大会派である研究会を動かすことが必要であったが、研究会側には、この問題を政治問題化することに反対する空気も強く、岡部長景らの幹部は別に機関説排撃を表面に出さない国民精神作興に関する建議案を用意して、これに排撃派を吸収しようとする動きをも示した。3月14日、菊池・井上・井田の前記3議員は、研究会幹部の岡部長景・松木宗隆と会談、彼等の用意した建議案を示し、「天皇機関説反対」の趣旨を明確に挿入することを求めたが、ともかく一応建議案を研究会側で作成することには同意したので、岡部らは翌15日、次のような「国本確立に関する建議案」をつくりあげた。

 

「明治以来日本精神に反する外国追随の文物制度漸く式多きを加ふ。国民の覚醒せる今日これ等の情勢に鑑み十分検討を要するものあり。政府はここに留意し、国本を確立するとともに国民精神の振作に努められんことを望む」(東朝、3・16)

 建議案の文面はこの程度にしておいて、趣旨説明のなかで憲法問題にも触れるというのが、研究会幹部の考えであったが、排撃派はこれに強い不満を表明し、そんなことなら彼等独自の建議案を別に提出するといきまいた。研究会幹部は公正会幹部とも連絡しながら、彼等の要求に譲歩した。18日になって、「国本」を「国体の本義」と直し、「国体の本義を明徴にしてわが国古来の精神に基き」とする文面が固まり、19日「政教刷新ニ関スル建議案」として提出され、20日の本会議で全会一致で可決された。機関説排撃の字句 は避けられたとは言え、討論に立った井田磐楠は「天皇機関説ヲ打破スルコトガ極メテ急務デアル」とし、政府がかかる「国体違反ノ学」(速記録第19号)を断 乎として処置するよう求めており、この建議案が機関説排撃を力づけるものであることは明らかであった。ついで3月23日には衆議院でも「国体ニ関スル決議案」が満場一致で可決されており、議会は両院ともに、機関説排撃論に屈伏したことを示していた。しかし政府の態度は依然としてあいまいであり、機関説の処分を要求する、いわゆる国体明徴運動が本格的に展開されてくるのはこの議会が終わってからあとのことであった。



重要法案の成否

 天皇機関説問題が紛糾してきた3月になっても、貴族院にはなかなか重要法案がまわってこなかった。3月8日に昭和10年度予算案を可決したのち、13日になってようやく臨時利得税法案の第一読会が開かれ、これが最初の重要法案と言えるものであった。

  この法案は漸次健全財政に戻そうという藤井前蔵相の基本方針にもとづくものであり、軍需景気などによって活況を呈している産業から特別税を徴収しようとするものであった。その骨子は、昭和5・6年の平均利益を基準とし、この平均利益をこえる利益をあげているものを対象とし、その超過額から2000円を控除した額を特別利得として、税率10%の利得税をかけようというものであった。政府はこれにより、昭和 10年度に3030余万円の税収を見込んでいた。これに対し衆議院では、不況のどん底であった昭和5・6年の2年間を基準にするのは酷であるとして、基準を昭和4〜6年の3ヵ年に変更し、また税率を法人10%、個人7・5%に区分するなどの修正を加えた。貴族院はこの衆議院の修正を再修正して、基準年度は政府原案にもどす、法人の利得金額からは2000円を控除することを廃止するなどとして可決した。衆議院はこの貴族院修正案を否決したが、両院協議会で妥協が成立、3月25日、基準年度は衆議院案通り3年とし、特別利得金額の算出についてはより細かな方式を規定した協議会案が、両院とも全会一致で可決、成 立している。

  しかし3月20日を過ぎても、重要法案と目された米穀・繭糸・肥料等に関する統制法案、治安維持法改正案、鉄関税法案などは、衆議院に停滞したままであ り、3月23日に至って貴族院各派代表は、岡田首相と会談、この議会になって2度目の議案遅延についての警告を申し入れた。貴族院には、もはやいかなる法案が審議未了となっても我々の責任ではないという空気が支配的となっていた。その翌日の24日になって、ようやく衆議院を通過した米穀関係三法案が貴族院本会議に上程され、委員付託となったが、もはや審議についての熱意はなくなっていた。

  米穀関係三法案とは、米穀自治管理法案・米穀統制法改正案・籾共同貯蔵助成法案の3案であり、新たな米穀政策の展開として注目されたものであった(「第六七回帝国議会衆議院解説」参照)。従って政府も、この通過のために3日間の会期延長を考えたが、最終日の 25日の委員会では、否決されはしたものの、松岡均平(男爵・公正会)から会期が1日しかないのに審議を 行っても仕方がないから休会にして政府の出方を見よ うとの動議が出されるしまつであり、貴族院は動きそうになかった。政府も貴族院側に諒解工作を行ってはみたものの、貴族院の対政府感情は著しく悪化してお り、会期延長をしてみても、米穀関係三法案の成立はおぼつかないと判断、会期延長を断念、結局この議会は予定通り25日に終了することになった。米穀関係を除く重要法案はことごとく衆議院の委員会段階で審議未了に終わっており、「かくの如きは従来の議会史上殆んど類例を見ざる所」(東朝、3・26)と評される有様であった。

  なお、成立した法案としては、倉庫業者の取締り・ 監督について規定した倉庫業法、衆議院議員選挙法の改正(「第六五回帝国議会衆議院解説」参照)にともなって地方制度中の選挙に関する規定に手直しを加えた府県制・市制・町村制改正法などがみられる。また貴族 院では、前述の政教刷新ニ関スル建議案のほか、第12回国際オリンピック大会開催ノ件ニ関スル建議案、民間航空事業促進ニ関スル建議案等が可決されていた。

(古屋哲夫)