『帝国議会誌』第37巻

1978年7月

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第七五回帝国議会 貴族院解説


 

古屋 哲夫

 

日中戦争、持久段階に入る
天津租界事件と排英運動
防共協定強化問題の破綻と第二次大戦の勃発
ノモンハン事件
貴族院互選議員の改選
阿部内閣の成立とその施策

南寧作戦と中国軍の冬季大攻勢
第七五回議会の召集
阿部内閣から米内内閣へ
汪兆銘政権の樹立
貴族院の状況



日中戦争、持久段階に入る


  第七四回議会が終了した直後の1939(昭和14)年4月1日、年度はじめの各軍参謀長との懇談会の席上で、中島鉄蔵参謀次長は次のような情勢判断を口演したといわれる。

 

 「最近欧州ノ情勢ハ急転回ヲナシツツアル所ナルガ、全般ニ於テ独逸ガ真ニ対外攻勢ノ実カヲ具備スルハ昭和一六、七年頃ト判断セラレ、又英米ノ国力及軍備ノ建設ハ概ネ昭和一六年頃ヲ目標トシ他列強亦之ニ追随シアリ、従テ昭和一七年前後ニ於テ世界的一 大転機ヲ予想セシムルモノアリ、此ノ間ニ在リテ我自主的国策遂行ノタメニハ我国力及軍備ノ建設ヲシテ絶対ニ此ノ段階ニ適応セシムルノ要アルモノトス……(中略)……国家ニハ今ヤ曠古ノ支那事変処理ト次期国際転機ニ応スル戦争準備トノ二大任務課セラレアリ、一ヲ以テ他ヲ排スヘカラス」(防衛庁戦史室「支那事変陸軍作戦(2)」、305〜6頁)と。


 ここで「国際転機」とは、第二次大戦の勃発を指しているのであり、これに対処するための軍備拡張と「支那事変処理」とを両立させてゆくことが、当面の課題だというわけであった。具体的にいえば、当時の陸軍はソ連を主敵と考えており、「次期国際転機」までに対ソ戦を遂行するだけの軍備を完成できるような形で「支那事変」を「処理」しなくてはならないというのである。このことは、たんに陸軍のみでなく当時の戦争指導者に広く共通していた考え方だといってもよかった。しかしそこには次のような二つの相互に矛盾する問題が存在していた。第一には、次の大規模な軍拡を実現するために「事変」の早期終結が望ましいことは明らかであったが、といって、軍事力は38年秋の武漢・広東作戦のところで限界に来ていた(「第七四回帝国議会貴族院解説」参照)。つまり、正面からの軍事侵攻以外の方法が必要になっているのであった。同時に、第二には、軍拡のためには、華北の資源を加えた日・満・華を結ぶ「国防経済圏」の確立が前提条件となると考えられており、従って華北の支配権を手離さないような形で「事変」を「解決」することが根本方針とされたことであった。しかし、こうした日本の華北支配の要求は35年頃から明確となっており、蒋介石政権は戦争を賭してもこの要求を拒否してきたのであって、蒋政権にこの要求をうけいれさせて、「事変の早期終結」をはかることが望みうすなことはすでに明らかとなっていた。

  従ってこの二つの要求を両立させようとすれば、中国戦線での兵力を出来るだけ削減しながら、蒋政府を崩壊ないし無力化する方法をあみ出す以外にはなかった。1939年の戦争指導はまさにこの点を軸として構想されているのであり、そこから日本側からも「長期持久」の語がきかれるようになるのであった。しかも次期国際転機は昭和17年前後というさきの予想がはずれて、早くもこの年9月、ヨーロッパで第二次大戦の口火が切られたことは、問題をいよいよ複雑なものにしてゆくこととなっていた。

  すでに武漢・広東作戦直後の38年11月、一週間 にわたって参謀本部・陸軍省合同の首脳会議が開かれ、以後の戦争指導方針が討議されているが、そこでは当時進行中の汪兆銘工作(「第七四回帝国議会貴族院解説」参照)に期待をかけながらも、これによっても「事変」が解決しないときには「長期持久ノ態勢」に移行することが確認されている。12月6日正式に陸軍省部決定となった「昭和一三年秋以降対支処理方策」をみると、「漢口、広東ノ攻略ヲ以テ武力行使ニ一期ヲ画シ……残存抗日勢カノ潰滅丁工作ハ依然之ヲ政行スルモ、主トシテ 厳然タル軍ノ存在ヲ背景トスル謀略及政略ノ運営ニ俟ツ」とし、「在支兵力ハ……逐次位理改編シ若クハ新設部隊ト交代帰還セシメ逐次長期持久ノ態勢ニ転移セシムルモノトシ明一四年中ニハ之カ基礎態勢ノ概成ヲ 計ル。次期国際好機ニ備フル為駐屯兵力並現地消耗ハ 各般二互り之ガ節誠ニ努ム」(「支那事変陸軍作戦(2)」、285頁)との方針を立てている。つまり、今後の「事変解決」のためには、汪工作のような「謀略及政略」を主とし、兵力はこれを支援する形で出来るだけ節減しながら使用するというわけである。

  しかし、国民政府中央軍が温存され、また、中共軍のゲリラ戦と後方への滲透が続いているという状況のもとでは、兵力削減も思うにまかせず、結局、39(昭和14)年の兵力使用は次のような方針で行われることになった。すなわち、(1)華北及び華中東部(上海・抗州・南京)では治安の回復・維持、(2)武漢・九江方面では国府中央軍の抗戦企図の撃破、(3)華南では補給路の遮断というのが、作戦の柱とされた。そしてこの間に常設師団を復員させて警備専用の新設師団(後方部隊が少なくて機動性に乏しい)に交代させようというのであった。

  まず(1)の治安工作としては、北支那方面軍は粛正作戦を第一期・昭和14年1月〜5月、第二期・同6月 〜9月、第三期同10月〜15年3月の三期に分けて計画し、2月冀中作戦、3月北部山西作戦、4月五台(山西省北東部)、6月晋東(山西省南東部)作戦、7月魯西作戦、11月太行山脈作戦など、中共軍解放区の掃討をねらう作戦を中心として展開されていった。 しかし、日本軍は容易に中国民衆の支持をかち得ることはできず、度重なる作戦にも拘らず、「点と線」を支配しただけという状態にとどまっていた。

  (2)の方針にもとづく作戦としては、2月から3月にかけて、安徽省及浙江省方面の主要連結路遮断を目的とした南昌攻略作戦についで、五月には武漢地区北方の信陽前面で、9月には南西の洞庭湖・岳州方面で、三個師団の兵力により、国府中央軍に対するやや大規模 な作戦が行われているが、いずれも反攻を呼号して集結してくる中国軍に打撃を加えて原駐屯地に帰ってくるという形の作戦であり、さきの方針にも明らかなように、もはやこの種の作戦で中国を屈服させることは期待されなくなっていた。

  こうしたなかで、重慶政権の戦争能カヘの打撃という面から、(3)の補給路遮断作戦が次第に大きな比重で考えられるようになっていった。すでに前年の広東攻略も、香港を通ずる援蒋ルートの遮断というねらいを持つものであったが、39年2月の海南島攻略は、作戦範囲をさらに仏印(仏領印度支那=ベトナム)に近づけ、国際的にも大きな反響をよんだ。元来この作戦は海軍が早くから主張していたものであるが、ようやく39年1月13日の御前会議で決定され、1日19日「大本営ハ南支那ニ対スル航空作戦及封鎖作戦ノ基地設定ノ為海南島要部ノ攻略ヲ企図ス」(同前、三三七頁)との命令が発せられた。作戦はまず2月8日から10日にわたり、台湾混成旅団が海口など北部を制圧、ついで14日海軍陸戦隊が南部の三亜地区を占領、早速、基地設営に着手している。これに対し、英・仏大使より占領の目的・期間・性質などについて抗議的質問がもたらされているが、この基地は南寧作戦、仏印進駐の前進基地としての役割を担うものであり、日中戦争の作戦の重点が次第に援蒋ルート遮断に傾斜してゆく一つの画期をなすものであった。

  ついで6月には、広東につぐ華南第二の大港である仙頭の攻略作戦が、また8月には九龍半島のイギリス租借地との接点をなす深?の占領が行われているが、この頃すでに海軍側は、海南島攻略の延長として南寧占領を主張しており、やがて11月に至ると後述するように南寧作戦が実現され、ヨーロッパでの第二次大戦の勃発とからめて南進政策登場の気運を生み出してゆくことになるのであった。



天津租界事件と排英運動

 日中戦争が宣戦布告なしに長期にわたってくると、 当然、第三国との紛争が増大していった。つまり、宣戦布告をしていない日本側は、戦時国際法の適用を主張することができず、反面第三国側は平時国際法上の権利の保護を要求するという点に、紛争の増大する一般的条件が存在していたのであるが、さらにその上に政治的対立が加わっているというのがこの際の紛争増大のパターンとなっていた。

  とくに、日本側が重慶政権への補給遮断に作戦の重点を置きはじめたのに対して、39年1月20日国際連盟理事会は、中国に対する援助決議案を採択、3月 にはイギリスが機械購入のために300万ポンド、アメ リカが飛行機購入のために1500万ドルの借款を中国に与え、また英中共同法幣安定資金1千万ポンドが設定されるなどの動きが具体化するに従って、軍部は紛争解決の条件として援蒋行為の中止を要求するようになり、事態はますます複雑となっていった。

  すでに前年の38年7〜8月には、揚子江航行閉鎖問題などをめぐって開かれた宇垣・クレーギー会談が不調に終わっているが(「第七四回帝国議会貴族院解説」参照)、39年に入ると、租界での親日派に対するテロ事件の続発が大きな問題となったが、とくに4月の天津イギリス租界でのテロ事件では、英当局と犯人引渡しをめぐって、政治問題にまで発展していった。

  問題の発端となったのは4月9日、イギリス租界内で中国連合準備銀行天津分行経理・天津海関監督の地位にあった程錫庚が狙撃され即死した事件であり、容疑者としてフランス租界で1名、イギリス租界で4名が逮捕された。これに対して日本の現地軍は、これら容疑者の引渡しを要求、仏当局はこれに応じたものの、英側は証拠十分として引渡しを拒否した。そこでこれまで租界が抗日活動の拠点となっているとみていた現地軍側は、この機会を捉えて強硬態度をとり、一挙に租界当局を軍の要求に従属するものに変えようとしたのであった。

  日本側が問題としたのは、たんに租界内における抗日分子の取り締まりだけではなく、イギリス租界が日本の華北金融政策に協力しないという点にも力点がおかれていた。日本は華北占領後中国連合準備銀行を設立し、連銀券を発行して国民政府の法幣の流通を禁止し、経済的支配を確立しようとした。しかしかつて中国幣制改革を指導したイギリスはこの政策に協力せず、 天津英租界では法幣が堂々と流通し、租界内の金融機関も連銀への現銀拠出に応じようとはしなかった。この点を日本側は大きな援蒋行為とみていたのであった。そしてこの問題が重大化したのは、日本側がたんに容疑者引渡しや日本憲兵の租界内協同捜査のみならず、法幣の流通禁止や、現銀の拠出などをも要求したからであった。イギリス本国政府も、容疑者引渡しは、日本側が租界当局を満足させるような証拠を提示すれば再考してもよいが、法幣問題で日本と妥協するようなことは認められないという強い態度をとっていた。

  イギリス側が要求をのみそうもないとみた現地日本軍は、6月14日、英租界の周囲に鉄条網をはりめぐらせ、検問所を設けて交通を制限する封鎖政策に踏み切った。これに対してイギリス側は6月20日、東京かロンドンかでこの問題に関する交渉を開きたいと申し入れ、有田外相は東京会談に同意、7日15日から有田・クレーギー(英大使)会談が開かれることになった。

  こうした動きに対して陸軍中央部は、現地軍の行き過ぎを抑制しつつも、こうした権益問題を、列国の援蒋態度の転換に利用しようという一般方針を固めていた。すなわち、6月15日陸軍省部間の決定となった「事変処理上第三国ノ活動及権益ニ対スル措置要領」では、「支那ニ於ケル第三国ノ活動及権益ノ処理ニ関シテハ、第三国ヲシテ援蒋態度ヲ放棄シ我事変処理ニ順応同調セシムルヲ以テ方針トナス」とし、「第三国ノ対日転向具現セハ戦争遂行上支障無キ限り逐次其ノ活動及権益ノ復活ヲ認ムヘク」(「支那事変陸軍作戦(2)」、317〜8頁)と述べられていた。つまり、日本の戦争政策に協力すれば第三国の活動や権益を認めようというわけであった。そしてこの日英交渉にあたって、 イギリス側に圧力をかけるべく大々的な排英運動を企画した。

  租界封鎖が始まった6月には、すでに右翼団体が反英宣伝にのり出していたが、日英会談が近づくにつれて、地方議会などまでが動き出し、例えば7日10日には大阪府会、仙台・足利・新潟各市会、13日には岡山県会、静岡・熊谷・松本・堺・大垣・海南の各市会で反英決議を行い、また14日の東京反英市民大会をはじめ、各地でイギリス排斥を叫ぶ市民大会が開かれている。内務省警保局は「七月中に開催されたる排英国民大会は実に三七八件(参加人員約八五万)の多きに達し、街頭示威行進に参加せる者四十万余に上る状況にありたり」(「社会運動の状況・昭和一四年」、三七九頁)と報じた。

  さらに7日15日には、東京朝日・大阪朝日・東京日日・大阪毎日・報知・読売・都・国民・中外商業の各新聞社と同盟通信社の計10社が次のような「対英共同宣言」を発表している。

 

 「英国は支那事変勃発以来、帝国の公正なる意図を曲解して援蒋の策動を敢てし、今に至るも改めず、為に幾多不祥事件の発生をみるに至れるは我等の深く遺憾とするところなり、我等は聖戦目的達成の途に加へらるる一切の妨害に対しては、断乎これを排撃する固き信念を有するものにして、今次東京会談の開催せらるるに当り、英国が東亜に於ける認識を是正し、新事態を正視して虚心坦懐、現実に即したる新秩序建設に協力以て世界平和に寄与せんことを望む」(東朝、7・15)。


 しかしこうした動きは、多分に陸軍の煽動によるものであった。木戸幸一内相は「実は陸軍が金を出し、憲兵が先に立ってやるんで歯が立たない」(原田能雄述「西園寺公と政局」第八巻、一七頁)と述べていたといわれる。つまりは、この排英運動は陸軍が支援し、警察もこれを公認するという官製運動の性格の強いものであったということができよう。

  日英交渉は、まず有田・クレーギー間で原則問題についての討議を行い、それを前提として日英双方の現地代表の間で具体的問題の折衝にはいるという手順で行われた、会談は7日15日から19日、20日と続けられたが、結局イギリス側が妥協し22日の第四次会談では原則的な覚書が成立した。その要旨は、イギ リス政府は、中国に於て大規模な戦闘行為が行われている現実の事態を確認し、日本軍が自らの安全を確保しその勢力下にある地域の治安を維持するための特殊の要求を有し、また日本軍を害し、敵を利するような一切の行為及び原因の排除を必要としていることを認める。そしてイギリス政府は日本軍のこのような目的達成のための行動を妨害する意思を持たないことを確認する、というものであった。この覚書は24日、両国政府声明の形で公表されたが、イギリス側の著しい譲歩を示すものとうけとられた。

  ついで24日から、イギリス側=クレーギー大使・ハーバート天津領事・ビゴット少将、日本側=加藤外松公使・武藤章支那派遊軍参謀副長・田中天津領事らを代表として、具体的問題に関する交渉が開始された。交渉はまず租界の治安問題については意見の一致が伝えられたが、ついで法幣問題に入るや、イギリス側は態度を硬化させ、交渉は完全に行き詰まってしまった。

  この間、現地代表交渉が開始された直後の7月26日、アメリカが日米通商条約廃棄を通告し、日本に対する強硬政策に踏み切る姿勢を明らかにするという、新たな事態が起こっていた。この通告により同条約は6ヵ月後に失効することとなったが、そうなればアメ リカは日本に対し重要物資の禁輸など、いわゆる経済制裁の手段を行使できることになるわけであった。そしてこのアメリカの新たな措置は、イギリスの対日態度の硬化を支援するものであることは明らかであった。イギリスもこれに応えて、法幣問題のいきさつをアメ リカ・フランス両政府に通報、8月1日、両国大使は有田外相に対して、租界で法幣流通を禁止させようとする日本の要求に反対する旨の申し入れを行った。交渉はもはや、日英間だけの問題ではなくなり、日英交渉は事実上決裂、この交渉の立役者とみられた武藤少将も8月14日天津に引きあげていった。それは日中戦争が持久段階に入るとともに、列強との対立が激化してきたことを示すものでもあった。



防共協定強化問題の破綻と第二次大戦の勃発

 陸軍が反英的態度を露骨に打出したことは、防共協定を強化し、日独伊軍事同盟を成立させようとしていることと表裏の関係をなすものであった。39年7日上旬、陸軍省の岩畔豪雄軍事課長は、「反英運動はあの通り非常に成功して、日認会談もうまく行きさうになった。従って、今度は日独伊の軍事同盟に向って邁進する。その時にやはりデモンストレーションをやるつもりだ」(「西園寺公と政局」第8巻、39頁)と語ったというが、ドイツ・イタリアに依拠して、ソ連・イギリスに対抗しようという志向は、すでに前年の防共協定強化問題以来、陸軍のなかに根強いものとなっていた。

  防共協定強化問題とは、共産主義とソ連に対抗する政治協定である日独伊防共協定を軍事同盟にまで強化するということであり、すでに独伊との間に実際の交渉が始められていた。この交渉を主導したのはドイツ側でありドイツはこれまでの「防共」という性格をはずし、英仏などとの戦争にも適用できる一般的軍事同盟とし、同盟国が戦争にはいった場合、他の同盟国にも参戦を義務づけようとする条約案を提示してきたのであったが、この条約によって中国におけるイギリス勢力を弱め、駆逐することを期待した陸軍は、ドイツ案を積極的に支持した。しかし海軍や外務当局は、ヨ ーロッパでのドイツと英仏との戦争に自動的にまき込まれることに強く反対し、容易に解決がつかなくなっていた(「第七四回帝国議会貴族院解説」参照)。さきにみた陸軍の支援による排英運動も、一面ではこうした国内政局に向けられたものともいえた。

  しかしこの軍事同盟問題は、平沼首相の不決断、独・伊側の意向を支持する大島浩駐独・白鳥敏夫駐伊両大使の存在などもあって、ますますもつれてゆくばかりであった。そして第七四回議会終了直後の4月2、3日には、白鳥・大島両大使が、日本側妥協案の説明に際して日本が自動的参戦義務を負う旨の言明を行い、政府側をあわてさせるという事態も起こっていた。この妥協案は3月25日に訓令されたものであり、これまでの、独伊に対する兵力的援助をソ連が単独で又はソ連が英仏などと協同して攻撃を加えてきた場合に限定しようとする方針(一月一九日の訓令)から更に独伊側の要求に妥協し、兵力的援助の問題につき、次のような了解をとりつけようとするものであった。

 

 「(イ)蘇連ヲ対象トスル場合ニハ武力的接助ヲ行フコト勿論ナリ、(ロ)其他ノ第三国ヲ対象トスル場合ニ於テハ条約文ノ趣旨ハ武力援助ヲ行フコトヲ原則トスルモ帝国諸般ノ情勢ヨリ見テ現在及近キ将来ニ於テ之ヲ有効ニ実施スルコトヲ得ズ」(「現代史資料10・日中戦争3」、238頁)。


 この訓令はさらに、条約の公表にあたって、現在の情勢では日本は共産主義の破壊活動以外は条約の対象として念頭にない、と説明することを独伊側に認めさせようとしていた。つまりこの訓令で有田外相らが意図したのは、英仏などソ連以外の第三国を対象とする場合には武力援助(=参戦)は当分行えない点を了解させることによって、防共協定の延長という実質を守ろうとしたものであった。しかしこの文面は、有効にはなしえないが武力援助は行う、すなわち、軍事的にはさしたる協力が行えなくても、ともかく独伊側に立って参戦するというようにも読めるものであった。その点でいえば例えば3月23日、井上庚二郎欧亜局長 は、この訓令はこれまでの原則を変えて、英仏だけを対象とする場合にも、兵力的援助を行うことを原則とし、例外として当分の間これを行わないとするものだと理解し、この原則の転換に反対する意見書を平沼首相に提出しているのであり(堀内謙介「日本外交史」第21巻、188頁参照)こうした読み方をすれば、大島・白鳥両大使の言明の生ずる余地もあったともいえよう。

  すでに3月15日、チェコスロバキアを解体し、次にポーランドにねらいをつけていたヒトラーとすれば、 この条約のねらいは、英仏がドイツに参戦すれば、日本が自動的に英仏との戦争にはいるという体制を明らかにし、ポーランド侵攻に際しての英仏の参戦を防止しようとする点にあったのであり、従って問題の焦点は日本の軍事力がどれだけ軍事的に有効かという点にではなく、日本が自動的に参戦するかどうかという点におかれていたのであった。従ってまた、ドイツ側が この条約を防共協定の延長と説明するなどという日本側の留保を認めるわけもなかった。

  すでにリッペントロップ独外相は、日本側に「英仏等ヲ公然向フニ廻ス覚悟」を求める反面、「欧州ノ戦争二際シテハ我々ハ日本ヨリー兵ヲモ期待セス、精々日本海軍二於テ英国ノ東洋根拠地ヲ脅カシ軍需品及兵力ノ輸送ヲ妨害セラルハ足ル」(「現代史資料10・日中戦争3、」225頁)と述べており、条約を防共協定の延長として説明したいとの日本側の留保に対しても、今回の条約は「何等特定ノ国ヲ対象トスルモノニアラスト説明スレハ足リル」(同前、244頁)ではないかとしてこれにとり合おうとはしなかった。

  しかしともあれ、大島・白鳥両大使の参戦義務の肯定が訓令を作成した有田外相の意図に反するものであったことは事実であり、4月8日の五相会議で有田は、両大使にその声明(参戦義務)を是正させることを提議したが、板垣陸相らは、日本を代表している大使が言明した以上、政府はなんとか尻拭いすべきだと主張、結局、「参戦」の意義をあいまいにするような訓令がつくられることになった。

  4月8日に発せられた有田外相の訓令は、さきの3月25日の訓令に示された武力援助、条約の説明振りについての秘密諒解事項を文書で確認をとることを求めたものであり、さきの参戦義務に関する両大使の言明を不問に付したものといえるが、同時に「参戦」という言葉について「『戦争参加』ノ態様ハ……宣戦ヲ布告スル場合モアリ、又当時ノ情況二応スル如キ宣言乃至声明ヲ行フニ止ムルヲ可トスル場合モ存スヘク、又何等ノ意思表示ヲ行ハス事実上援助ヲ与フルコトモアリ得ヘシ、此ノ点御含ミ置キアリ度シ」(同前、251頁)と述べ、「参戦」の意味をあいまいにすることによって、両大使の言明を骨抜きにしようとするものであった。

  これに対し独伊側は4月12日、秘密諒解事項の文書化に反対の意向を明らかにしたが、この段階で交渉は決裂したといってよかった。以後、日本側では、交渉打切り、大使召還、交渉継続などの議論がくり返されたが、ともかくも陸軍の圧力によって交渉はつづけられた。5月4日には平沼首相のヒトラー、ムッソリーニ宛のメッセージも発せられ、又ドイツ側からもガウス条約局長の妥協案が提示されているが、参戦義務問題についての対立が解けない以上、交渉の進展はありえなかった。そしてこの間、ヨーロッパ情勢は、平沼内閣の小田原評定をおき去りにして急転していった。

  チェコスロバキア解体後、ヨーロッパではドイツの侵略を警戒し阻止しようとする動きが、ようやく高まっていた。3月にはイギリスがポーランドの独立を支援する態度を明らかにしたし、4月にはソ連が英仏ソ の相互援助と東欧諸国の安全を三国で保障することを提議した。こうした情勢のなかでもヒトラーは、英仏 との戦争にはいることなしにポーランドを侵略するこ とを望んでおり、そのために日独伊三国同盟を必要と したのであった。しかし日本との交渉が容易に進展しないのをみるや、まず5月22日独伊間だけの軍事同盟条約を成立させた。ムッソリーニによって「鋼鉄同盟」と名づけられたこの条約は、締約国の一方が第三国との戦争にはいった場合には、他の締約国は全兵力をあげてこれを援助することを規定したものであった。

  さらにヒトラーは、ソ連と英仏の相互援助交渉が容易に進まないのをみるや、日本が主要な敵国として固執していたソ連に接近を始めた。そして8月23日に は、独ソ不可侵条約の成立にこぎつけていった。9月1日、ドイツ軍機械化部隊は国境全面にわたってポーランド進撃を開始、英仏はヒトラーの予期に反してドイツに宣戦布告するという形で、第二次世界大戦の幕があげられたのであった。

  独ソ不可侵条約は世界をおどろかせたが、とくに日本の戦争指導者への衝撃は大きかった。平沼内閣は8月28日、「今回締約せられたる独ソ不可侵条約に依 り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、 我が方は之に鑑み従来準備し来った政策は之を打切り、 更に別途の政策樹立を必要とするに至りました」(東朝、8・29付け夕刊)との首相談話を残して総辞職していった。当時の日本は、ソ連を主敵とし防共協定強化の形式をとる三国同盟の成立に望みをつないでいたばかりでなく、現にソ連との間にノモンハンでの局地戦を戦っていたのであった。



ノモンハン事件

  ノモンハンは海拉爾(ハイラル)南南西約200キ ロ、満州と外蒙古が接する国境地帯の一地点であるが、ここも国境線についての争いのある所であった。すなわち満州側がノモンハン西方を流れるハルハ河を国境と主張するのに対して、ソ連側はノモンハンを含むハルハ河の東側が国境だと主張していた。こうした国境の不明確な地点は数多くあり、満州事変以後多くの紛争が起こっていたが、前年の張鼓峰事件(「第七四回帝国議会貴族院解説」参照)以後、関東軍は、日本側が認定した国境が侵犯されたときには、断固たる一撃を加えるという方針に固まっていったとみられる。

  39年4月、関東軍司令部が作成した「満ソ国境紛争処理要綱」では、まず「不法行為に対しては、断乎徹底的に膺懲することに依りてのみ、事件の頻発又は拡大を防止し得る」とし、「苟も戦へば兵力の多寡理非の如何に拘らず必勝を期す」ことを命じた。そして具体的には「3、国境線の明瞭なる地域に於ては我より進んで彼を侵さざる如く厳に自戒すると共に、彼の越境を認めたるときは周到なる計画準備の下に十分なる兵力を用ひ之を急殲滅す、右目的を達成するため一時的に『ソ』領に進入し又は『ソ』兵を満領に誘致、滞留せしむることを得」、「4、国境線明確ならざる地域に於ては防衛司令官に於て自主的に国境線を認定して之を第一線部隊に明示し……万一衝突せば兵力の多寡国境の如何に拘らず必勝を期す」(「現代史資料10・日中戦争3」、106〜7頁)との要領を指示した。つまりここでは、国境線の安定よりも、進出してくるソ連軍に対して「理非の如何」「国境の如何」「兵力の多寡」にかかわらず、「必勝」を要求するという好戦的姿勢が明らかにされていたのであった。ノモンハン事件がおこったのは、この「要綱」が第一線部隊長にまで示達された直後であった。

  ノモンハン付近でソ蒙軍が進出をはじめたのは、5月11日であり、ハイラルに駐屯していた第二三師団(師団長小松原道太郎中将)は、東支隊を派遣して一旦 これを撃退したが、19日より再び有力なソ蒙軍が進出してきたとの報に接すると、小松原師団長は21日、さきの東支隊に山県支隊(第六四連隊主力)を加えた兵力によって包囲殲滅することを決意、関東軍司令部もその要請にこたえて飛行部隊を前進させた。しかし27日から開始された攻撃はソ蒙軍の優勢な火力の前に立往生し、ハルハ河渡河地点を襲って退路を絶つ筈の東支隊は逆に包囲され、29日には全滅するという事態となってしまった。山県支隊は遺体収容作戦を行った後、31日戦場を離脱・帰還した。

  この第一次ノモンハン事件は明らかに日本側の敗北であったが、29日戦場を視察した辻政信関東軍主任参謀は、「我損害ハ大ナルカ如キモ」「敵ヲ包囲シテ之ニ一大打撃ヲ与ヘタリ」と参謀本部に報告、勝利を信じた参謀次長から祝電が来るという有様であった。この時辻が次の機会の報復を意図したことは、31日参謀次長に対し渡河資材、各種舟艇などの前進を要求したことからもうかがうことができる(同前、111〜2頁)。

  6月19日、ノモンハン方面で飛行機・戦車に支援された有力なソ蒙軍が活動し始めたとの情報がはいると、関東軍作戦課は戦略単位の兵力を動かしてこれに攻撃を加えるとの方針をきめた。このとき、前述したように天津イギリス租界の封鎖が始まったばかりであり、作戦課でも、中央の気分を此の方面に牽制しないために、日英交渉のめどがついてから攻撃に着手すべきではないかとの意見も出されたが、辻参謀のソ蒙軍 に一撃を加えて武威を発揮することが日英会談を好転させる唯一の策だという強硬論に押し切られたのであった。そしてその結果作戦課が作成した「対外蒙作戦計画要綱」(同前、112〜3頁)をみると、さきの第二三師団に第七師団を加えてこれを主力とし、飛行集団、 戦車・自動車連隊を加えるという大兵力の動員を予定 していた。第二三師団が前年秋に編成され、すぐ満州 に送られてきた新師団であったのに対して、第七師団 は関東車の中核をなす火力も充実した精鋭師団であった。そしてまず、航空戦により制空権を確保し、ついで 第二三師団所属部隊はノモンハン付近に進出してソ蒙軍主力をひきよせ、この間に第七師団は南方よりハルハ河を渡河して砲兵主力を撃破、ついでノモンハン付近のソ蒙軍を背後より攻撃して殲滅する、というのがこの作戦の筋書きであった。

  この計画は植田謙吉関東軍司令官の反対により、第二三師団を主力とするものに修正され、別に戦車隊を中心に第七師団の一部を加えた安岡支隊が編成されることになったが、日本側が国境線と主張するハルハ河をも越えて敵の背後をつくという構想は変わらなかった。しかしこのとき、軍中央部では国境紛争に師団単位の大兵力を動かすことへの反対も強く、反面関東軍側には中央の制肘を避けて独断専行したいとする空気が高まっており、この両者の対立が次第に激化していったことも、以後のノモンハン事件の経過を特徴づけるものであった。

  6月25日植田関東軍司令官はノモンハン攻撃命令を発し、ここに「第二次ノモンハン事件」が展開されることになった。関東軍はまず攻撃の第一段階として、27日中央の不同意を無視して外蒙軍の後方基地タムスク爆撃を強行、ついで7月2日より地上攻撃を開始した。作戦はハルハ河右岸(満州側)に陣地を構築しているソ蒙軍を安岡支隊が正面より攻撃、この間に第二三師団が北方でハルハ河を渡河、左岸(外蒙側)で攻撃を展開することと計画されていたが、いずれもソ蒙軍の戦車・重砲に阻止され、第二三師団も右岸に後退を余儀なくされた。そして以後左岸進出をあきらめ、7月7日から12日にわたり右岸陣地の攻撃につとめたが成功せず、結局両軍はハルハ河3キロ付近の線で相対峙することとなった。

  事件の局地解決を望む軍中央部は、7月18日関東軍参謀長(磯谷廉介)の上京を求め、7月20日、「ノモンハン事件処理要綱」を手渡し、事件を局地に限定 し、本冬季までに終結させる、冬季に至って所望の成果をあげられない場合でも撤退する、敵後方根拠地に対する航空作戦は行わない、好機を捉え速やかに国境画定又は非武装地帯設定などの外交交渉にはいるとの方針を指示した。磯谷参謀長はハルハ河右岸にソ蒙軍を残しても事件の解決を図ろうとする中央の方針に反対 したが、中央部もともかくも冬季までの作戦の継続を認めたものであり、内地より重砲兵連隊を急派した。

  7月23日、内地からの砲兵部隊の展開を終えた第二三師団は攻撃を再開したが、突破口を開くことが出来ずに戦線は膠着、この頃ソ蒙軍8月攻勢の情報も入ったため、攻撃から転じて防禦陣地の構築に移った。ソ蒙車は8月1〜2日、9〜10日と小規模な攻撃をくり返したのち、8月20日に至って全正面で戦車を先頭とする大規模な攻勢に転じ、関東車も第七師団主力を25日から戦線に投入して立て直しをはかろうとしたが、すでに日本軍は混乱状態におちいっており、28日には第二三師団長がわずか五百の手兵をひきいて戦場を離脱するという有様となっていた。そしてこのソ蒙軍大攻勢のさなかの8月23日、前述したように独ソ不可侵条約が締結され、対外政策全般の再検討を 迫られるという情況が生じていた。

  陸軍中央部ももはや早急に事件の終息を図らなければならなかった。大本営は8月30日「関東軍司令官ハ『ノモンハン』方面ニ於テ、勉メテ小ナル兵カヲ以テ持久ヲ策スベシ」と指示、英仏がドイツに宣戦布告 した9月3日、攻勢中止、作戦軍主力の原駐地帰還を命じた。以後問題は外交交渉に移され、9月15日モスクワで停戦協定が調印されている。

  防共協定強化をめぐる五相会議の混迷が、統一的な対外政策を確立しえない政治指導の脆弱さのあらわれであるとしたら、ノモンハン事件は、当時最強の勢力を有した陸軍内部でも、中央部は明確な展望を欠き、部内統制力も弛緩していることを物語るものであったといえよう。



貴族院互選議員の改選

 ノモンハン事件が戦われ、排英気分が煽り立てられている最中の7日10日、貴族院の伯子男爵議員の改選が行われた。この選挙により、伯爵定員18名中新人3名(山本清・柳沢保承・徳川宗敬)、子爵定員66名中新人8名(河瀬真・波多野二郎・錦小路頼孝・仙石久英・由利正通・水野勝邦・牧野康煕・京極鋭五)、男爵定員66名中新人12名(益田太郎・山中秀二郎・八代五郎造・山川建・北大路信明・坊城俊賢・西酉乙・村田保定・島津忠彦・宮原旭・明石元長・中川良長)、合計すると定員150名のうち23名の新顔議員(約一割五分) が登場したこととなる。

  しかし選挙といっても、定員数を連記するという特殊な選挙制度であるため、尚友会(伯爵・子爵、研究会の基盤)、協同会(男爵、公正会の基盤)といった選挙母体の幹部が作成する推薦人名簿がそのまま当選者名簿になるという仕組であった。つまり、幹部が推薦者を決定する過程が実質的な選挙なのであり、従って一般の関心を惹き得ないことも当然であった。この点について、7月11日の東京朝日は次のような社説をかかげていた。

 

「貴族院の拍子男爵議員が7月10日に改選されたといふのは、余りに形式的で、馬鹿にされたやうな気がする位、それは選挙とは云はれない方法であることは、眼前公知の事実といはなければならぬ、この互選方法を何とか改めなければならぬといふのが貴革の第一課題であったのだが、さて伯子男爵当選議員の名簿を一覧して、此外に落ちて惜しい如何なる議員があるだらうかを考へて見ても、一寸頭に浮ぶ逸せられたる呑舟の魚は発見想起することは出来ないのであって、又この瓦選華族議員の数を減じて半数にし、或は五分の一にした所が果してどれだけ優秀な粒が揃ふであらうかと考へて見る時に、これは選挙方法の問題ではなくて、華族の実質の問題であることに気がつかざるを得ないのである。

  貴族院議員から華族議員を全然除くことは、帝国憲法のゆるさざる所であるから、国政機関に優秀なる人材を集める為には、華族そのものに人材を吸収し、養育する方法をとる以外ないのである。それには世襲華族の子弟の教育問題、血統問題もあらうが、  一代華族制の創設も考へられてよい問題である。即ち勅選議員の銓衝方法を改善して之を一代華族とすることの如き、貴族院改革と華族制度改革とを関連させて考へてよいのではないか」。  


  伯子男爵議員改選についで、9月10日には多額納税者の選挙が行われたが(9・29勅任)、この選挙についても新聞報道を引用して参考に供することとしたい。

 

 「今回の選挙は時局の影響と議会政治不振とにより各方面とも大して関心を持たず、極めて低調のうちに行はれ、そのため無競争区も最初は24道県に及び、前回同様全国47道府県の半数以上に達するものと見られていたが、選挙期日の切迫と共にその最後の4、5日前から急に選挙に活況を呈し無競争と予想された各府県にも立候補の続出を見、結局無競争区は20道県に減少して了ったのは前回の無競争区26府県であったのに比し極めて注目されるところである。前回の未だ政党政治華やかなりし当時、政党各派や貴族院各派がこの選挙に必死の争ひを続けた時の無競争区13県であったのには比ぶべくもないが今回の選挙が時局産業の発展に伴ふ影響と更に近く行はれる府県会議員選挙を控へているためであることは明らかである。

  次にこの選挙において注目されることは、棄権率が前回の八分四厘に対し今回は七分六厘でハ厘の減少を見たことであって、これも時局関係等から其選挙人層に著るしい変化を見た結果であらうとみられている」(東朝、9・11)

  
  また、当選者の政党との関係は次のように報ぜられた。このほかにも民政党系3名、政友会系9名という数字があげられているが、その氏名は明らかにされてい ない(貴族院の会派への所属については、後掲の「会派別所属議員氏名」を参照)。なお※印を付したのは無競争選挙区である。

※北海道 板谷 宮吉 中立 会社重役
栗林 徳一 中立 会社重役
東京 小坂 梅吉 民政 会社重役
小野 耕一 中立 会社重役
京都 風間 八左衛門 中立 会社重役
大沢 徳太郎 中立 会社重役
大阪 佐々木 八十八 中立 貿易商
中山 太一 中立 化粧品製造業
※神奈川 平沼 亮三 民政  会社重役
磯野 庸平 政友 会社重役
※兵庫 多木 久米次郎 政友 製肥業
滝川 儀作 中立 会社重役
※長崎 橋本 辰二郎 中立 会社重役
新潟 飯塚 知信 民政 農業
長谷川 赳夫 中立 農業
※埼玉 松本 真平 政友 会社員
岩田 三史 政友 医師
※群馬 渋沢 金蔵 政友 無職
千葉 菅沢 重雄 政友 農業
斎藤 万寿雄 政友 農業
茨城 結城 安次 中立 会社員
飯島 雷輔 中立 製糸業
栃木 上野 松次郎 政友 肥料商
奈良 松井 貞太郎 中立 製墨業
三重 小林 嘉平治 中立 地主
※愛知 磯貝  浩 民政 生魚問屋
下出 民義 政友 会社重役
静岡 鈴木 与平 政友 回漕業
鈴木 幸作 政友 醸造業
※山梨 名取 忠愛 中立 会社重役
滋賀 野田 六左衛門 民政 酒造業
※岐阜 渡辺 甚吉 中立 会社重役
※長野 片倉 兼太郎 中立 会社重役
小坂 順造 民政 会社重役
宮城 伊沢 平馬 中立 醸造業
福島 大谷 五平 民政 会社重役
諸橋 久太郎 政友

鋼鉄商
岩手 柴田 兵一郎 中立 農業
※青森 佐々木 嘉太郎 中立 会社重役
※山形 三浦 新七 中立 日銀顧問
秋田 塩田 団平 民政 会社重役
福井 熊谷 三太郎 中立 土木請負業
※石川 中島 徳太郎 中立 和洋紙卸商
※富山 佐藤 助九郎 民政 農業
※鳥取 米原 章三  民政 林業
※島根 田部 長右衛門 中立 農業
岡山 坂野 鉄次郎 民政 会社重役
山上 岩二 政友 地主
広島 松本 勝太郎 民政 会社重役
水野 甚次郎 政友 土木請負業
山口 秋田 三一 中立 材木商
和歌山 吉村 友之進 中立 製糸業
※徳島 西野 嘉右衛門 中立 酒造業
※香川 大西 虎之介 政友 会社重役
愛媛 佐々木 長治 中立 会社重役
高知 野村 茂久馬 中立 会社重役
※福岡 出光 佐三 政友 砿油業
大藪 守治 政友 貸家業
大分 麻生 益良 政友 酒造業
佐賀 中野 敏雄 政友 会社重役
熊本 古荘 健次郎 政友 会社重役
山隈  康 国盟 弁護士
※宮崎 竹下 豊次 中立 新  無職
鹿児島 上野 喜左衛門 政友 会社員
岩元 達一 中立 会社員
沖縄 平尾 喜一 中立 商業

(東朝、9・9、9・11、9・12付け夕刊による)
以上を総括すると、定員66名中新人が33名でちようど半数、また政党に関係ある者も34名でほぼ半数にあたる。また党派別にみると政友21名(新9、 再11、元1)、民政12名(新5、再7)、国民同盟1(再)で、無所属の場合よりも再選者の比率の高いことがうかがえる。

  この選挙につづいて、さらに9月20日学士院会員より互選される議員(定員4名)の選出が行われた。 前議員は、田中館愛橘・小野塚喜平次・長岡半太郎・ 三上参次の4名であったが、この年6月7日三上が死去したため、代って姉崎正治が初当選した以外は、他の3議員が再選されている(10月10日勅任)。

  なお、これらの議員の任期はいずれも7年であり、 1946(昭和21年7月〜10月に満了する筈であったが、戦後の特別措置として、46年7月勅令351号により47年2月10日まで延長され、更に46年12月の勅令601号により、日本国憲法施行の日の前日まで再延長されている。



阿部内閣の成立とその施策

 平沼内閣が、独ソ不可侵条約締結(8・23)による対外政策破綻の責任をとって8月28日総辞職するや、同日夜、組閣の大命は予備陸軍大将阿部信行に下された。すでに防共協定強化問題の行き詰まりが明らかとなった8月初めには、有田外相・米内海相らは、内閣が総辞職し当局者をかえて外交を立て直すほかはないと主張するようになっていたが、平沼首相も独ソ不可侵条約が調印されるとすぐに辞職の意志を固め、 湯浅倉平内大臣・近衛文麿・木戸幸一らの間では後継首相候補者についての協議が始められていた。元老西園寺公望は「どうも今日のやうな陸軍の勢力では困る、誰がやっても非常に難しいやうに思はれる、日本はどうしても英米仏と一緒になるやうにしなければならん」  (「西園寺公と政局」第8巻、57頁)という考えを持っていたが、具体的な候補者については「自分には意見がない」として、この人選に加わろうとはしなかった。

  最初、政策一新のため平沼内閣の閣僚は候補としないという原則が立てられ、広田弘毅を第一候補に宇垣一成・池田成彬らの名前もあげられたが、この間、陸軍は林銑十郎か阿部信行を推す動きを示し、湯浅内大臣は、防共協定問題の責任者である陸軍が後継首相を推薦してくるとはけしからんと憤慨はしたものの、他に適当な候補者もなく、結局、阿部を起用することとなったものであった。宮中周辺グループよりも、陸軍の方がはるかに先んじて政変対策を立てており、8月24日には参謀本部は「戦時国務の寡頭運用」など「戦時国家指導機構の確立」を軸とする「現下国内対策」を作成し、次のような「新内閣に対する要望」を決定していた。

 

一、政戦両略の協調を容易にし且事変処理を活発ならしめ得る如き内閣の機構を設定し若くは運用をなすこと  
二、総理の機能を強化して内外の施策実施を敏活ならしめ特に総動員指導権を確立すること
三、事変処理の既定方針を堅持すること
四、新情勢に応ずるの国防態勢、就中対「ソ」戦備を強化すぺきこと(「現代史資料9・日中戦争2」、573頁)


  この形勢でゆけば、阿部内閣が陸軍のロボットとなる可能性は十分あったが、天皇は大命降下に際して次の三条件を指示し、阿部のロボット化を抑えたのであった。

 

一、陸軍大臣には、梅津・畑の中より選ぶべし   
一、外交の方針は英米と協調するの方針を執ること   
一、治安の保持は最も重要なれば内務大臣、司法大臣の人選は憤重にすべし(「木戸幸一日記」下巻、743頁)。

 このことは、前述の排英運動の方向に天皇も反対であったことを示しているが、しかし陸相候補者を天皇自ら指名することは全く異例のことであった。このときすでに陸軍側では磯谷廉介、多田駿などを陸相候補 にあげており、新聞も「陸相は関東軍参謀長磯谷廉介中将、多田駿中将両氏中結局多田中将に落着き29日多田中将が受諾すれば本極りとなる」(東朝、8・29) などと報じていたが、結局板垣征四郎前陸相の斡旋で、磯谷・多田が辞退したということにして、侍従武官長の畑俊六大将が陸相に就任することになった。

  阿部内閣はこうして天皇の指示と、陸軍の要求とを 共に満たそうとする姿勢で発足していった。まず組閣にあたって、少数閣僚剖をとったのは陸軍の要求に従ったものであった。具体的には「首相を除く13人の閣僚を10人以内に制限する方針」(同前)がとられ、 8月30日の親任式で成立した阿部内閣の閣僚は次のようなものとなっていた。

総理大臣兼外務大臣 阿部 信行
内務大臣兼厚生大臣 小原  直
大蔵大臣兼企両院総裁 青木 一男
陸軍大臣 畑  俊六
海軍大臣 吉田 善吾
司法大臣 宮城 長五郎
文部大臣 河原田 稼吉
商工大臣兼農林大臣 伍堂 卓雄
逓信大臣兼鉄道大臣 永井 柳太郎
拓務大臣 金光 康夫
内閣書記官長 遠藤 柳作
法制局長官 唐沢 俊樹

                    
  このうち、外務大臣は、天皇から指示された外交方針に従って、専任大臣を補充することが予定されていたが、他の兼任の場合には、省の統合・再編などを前提としながら、状況に敏速に対応する強力な政治指導を生み出そうという少数閣僚制の考え方に立つものであった。このうち小原(勅・同和会)、青木(勅・無所属)、河原田・伍堂・遠藤(いずれも勅・研究会)が 貴族院議員、永井(民政党)、金光(政友会中立派)が 衆議院議員であったが、この顔触れから少数閣僚剖にふさわしい「強力さ」を読みとることは困難であった。 新内閣成立にあたって、東京朝日も「阿部新内閣の性格はて一言にして評すれば『平調にして新鮮味を欠く』といへよう。阿部新首相が軍部にも政党にも官僚にも財界にも可もなく不可もない存在であると同様に、この内閣はどの方面においても反対はないが、摩擦が少いのと反比例に積極的の匂ひに乏しい。これを閣僚の顔触れについて見ても新内閣が主張実行した少数閣僚制の実を挙げるには余りに線の太い人物が見当らない」(8・30)と評していた。そしてこの形式だけで内容の伴わない少数閣僚制はたちまち崩壊することになるのであった。

  阿部内閣はまず9月3日勃発した欧州戦争に「不介入」を宣言し、ノモンハン事件を処理(9・15停戦協定調印)したうえで、独白の施策を展開しようとした。すなわち9月25日には親米英派と目された野村吉三郎予備海軍大将(当時学習院長)を専任外相に起用し、対米関係の調整を軸として対外政策の立て直しを はかろうとする姿勢を示した。同時に翌26日の閣議では、総動員法施行に関する首相の権限強化、貿易省新設などの方針を決定し、軍の要求にこたえて、戦時指導体制確立の方向へ踏み出そうとしていた。

  野村新外相の当面の課題は、日米通商条約の破棄を通告(7・26)してきているアメリカとの関係をどうするのかという問題であった。彼は、国防・戦時経済・占領地安定などさまざまな側面からいって、米英との友好関係を保つことが絶対に必要であるとし、当時並行して軍の手によって進められていた汪兆銘政権樹立工作に対しても、日本の掌握する部分を出来るだけ制限して汪政権に中央政権としての実質を与えること、中国占領地の経済開発も日本が独占しようとしないことが大切であると強調していた。

  野村外相とグルー駐日米大使との国交調整交渉は11月4日から始められたが、ここでグルーはまず、日本の歴代外相が口先でアメリカの在華権益の尊重をくり返しているにも拘らず、実際にはアメリカ人の財産・ 権益が日本車によって如何に侵害されているかを、数字をあげて追及し、さらに、貿易に関しては、日本は軍事的必要と称して中国における外国貿易を制限しているが、これは日本が貿易を独占するための口実にすぎないと批難した。これに対して野村は、軍側と折衝 して封鎖中の揚子江のうち南京から下流を開放するとの了解をとりつけ、12月18日の第三回会談において、アメリカが日本の揚子江開放を評価し、暫定通商協定の締結に応ずるよう求めた。親日家であったグルーはこの野村の努力を評価し、アメリカがこれになんらの反応も示さないならば、日米関係は更に困難になろうとの見解を上申したが、アメリカ政府はこの程度の譲歩では満足しなかった。22日、グルーは、本国政府の訓令にもとづき、暫定協定締結を拒否した。アメリカ側の言い分は、日本政府又は出先官憲が、中国の広汎な地域にわたり、外国人の経済活動を制限し、 アメリカの通商権益にたいする均等待遇を不可能にするような措置が講ぜられるおそれのあるかぎり、新しい協定を締結することはできないというものであった。 事実、これと並行して進められていた汪兆銘工作(後述) において日本は、中国における広大な独占的権益を要求していたのであり、野村の努力がアメリカ政府を納得させるまでに至らなかったのも当然といえよう。

  野村・グルー会談が不調に終わった結果、翌40(昭 和15)年1月26日、日米通商条約は失効し、両国は無条約時代にはいることとなったが、この間12月28日、野村外相・畑陸相・吉田海相が協議決定した「対外施策方針要綱」は、「仏領印度支那」(ベトナム)・ 「蘭領印度」(インドネシア)・「タイ」などの問題に言及し、「南方ヲ含ム東亜新秩序ノ建設」(外務省編「日本外交年表並主要文書」下巻、421頁)をうたっていた。つまり対米関係が困難になるに従って、東南アジア進出がクローズアップされ、ついには大東亜共栄圈にいたるという方向が、この時からあらわれはじめたことに注目しておかなくてはならないであろう。

  こうした対外政策の行き詰まりに加えて、阿部内閣は国内政策の面でも、さまざまな難問に直面していた。それは一口でいえば、戦争の長期化に伴う経済的困難が、欧州戦争の勃発という条件によって倍加された形で、あらわれてきたということであった。すでに前年から戦争経済運営の基本として「物資動員計画」(物動) が作成されていたが、この計画の基礎をなしたのは、軍需基礎資材をどれだけ確保できるかという「輸入力」 の問題であり、それはまた輸出力如何にかかわっていた。そして、日米通商条約破棄、欧州戦争の勃発は、 この「輸入力」の確保を一層困難にする条件が生まれたことを意味していた。

  そこで阿部内閣は、まず総動員業務運営に関する首相の権限を強化するとともに、「輪入力」確保政策の強化のために、貿易省を設置するという方針を打出した。 第一の首相権限強化については、9月28日、関係各庁に対し直接国家総動員法施行上必要な指示をなす権 限を首相に与える旨の勅令が公布施行された。これに対して枢密院側からこの勅令を枢密院に諮詢しなかったことへの不満が出されたが、次の貿易省設置問題になると、外務省の強い反対によって問題自体が不成立に終わり、早くもこの内閣の指導力の弱さが暴露される結果となった(詳しくは「第七五回帝国議会衆議院解説」参照)。貿易省設置は、少数閣僚制にみあう機構改革の第一段という意味をも持つものであり、つづいて運輸・逓信両省の再編による交通省の設置、商工・農林行政統合などの構想が伝えられていたが、貿易省設置が失敗したことは、これら一連の機構改革全体に実現の見込が立たなくなったということでもあった。

  しかし阿部内閣が看板とした少数閣僚制は、それにみあう機構改革の失敗という側面からだけではなく、 行政の実際面でも困難にぶつかっていた。前年からの 「物動」政策は戦争の長期化とともに、民需を切りつめて、軍需と輸出とに物資をつぎ込むという形で展開さ れており、この政策が民需面での物不足を結果し、そこからインフレを引きおこすことになることは必至であったが、阿部内閣の時期には、欧州戦争に伴う国際的な物不足と価格謄貴、早ばつによる食糧生産の減退と電力不足という内外の悪条件が重なり、インフレ現象が一挙に顕在化してきたのであった。このため全般的な価格統制(「第七五回帝国議会衆議院解説」参照)とともに、食糧統制の強化などの措置が必要とされるよう になり、こうなってくると利害の対立する側面をもつ 商工・農林両行政を一人の大臣が裁断してゆくことが難しくなってきた。

  元来、帝国農会・産業組合などは、組閣当初より、専任農相の設置を要求していたが、その後、伍堂大臣の施策が商工偏重であるとの批判がなされ、この要求は一層激化していった。そして10月4日になると、 農林関係団体を代表する有馬産組中央会々頭・酒井帝国農会長・石黒農林中金理事長・千石全購連会長の四巨頭が阿部首相を訪れ、

 

「阿部内閣が専任農相をおかないこと自体が、農村軽視を思はせるのみでなく、殊に伍堂氏の如く従来農村方面に関係のなかった者が農相に就任したことは一層この感を深くさせ、更に石油配給、円ブロック輸出等の実際問題についてこの点が裏書きされた 様に見えることは遺憾である、速かに適当なる専任農相を置いて善処せられることを希望する」(東朝、10・5)。

との申し入れを行った。これに対して伍堂農商相は、 この四巨頭を農林省顧問とすることで、局面の打開を はかろうとしたが、農林団体に拒否され、結局阿部首相は農林側の要求に全面的に譲歩して帝国農会長で貴族院議員(伯爵・研究会)の酒井忠正を専任農相にすえることにしたのであった(10・16任命)。

  貿易省設置の失敗と専任農相の任命とは、阿部内閣の政治力の弱さと少数閣僚制の崩壊とを意味するものであった。従って以後、阿部内閣が少数閣僚制の看板をとり下げて、閣僚の補充による内閣の強化という方向に転じたのは当然の成行であったともいえる。阿部首相は10月下句より、鉄相・厚相を補充の対象として人選をはじめたが、第七五回議会の召集がせまってきたこともあり、政友・民政両党からこの両相を選任するという方針がとられた。しかし阿部内閣はここで も黒星を重ねた。

  当初は、挙国体制確立のために、町田忠治民政党総裁と久原房之助政友会正統派総裁の入閣を求めるか、 それが困難ならばこの両派から一名づつ入閣させるとの方針が伝えられたが、結局、11月下旬になると政友会側については同会の分裂状態を考慮して、元政友 会員で無所属の秋田清をとることに変更された。しか し11月23日、町田総裁から入閣要請を拒否されると、民政党からも閣僚をとらないというように補充方針は三転してゆくことになった。

  結局11月29日に至り、厚生大臣に秋田清、鉄道大臣に永田秀次郎が任命されたが、秋田は前述のよう に衆議院議員ではあるが無所属であり、永田は貴族院同和会に属する勅選議員という有様では、当初の政党勢力との調整をはかるための閣員補充という目標から は全くはずれたものというほかはなかった。

  組閣以来、目立った実績をあげることが出来ないうえに、黒星ばかりを重ねているという状態では、この内閣が議会を乗り切ることが出来るかどうか危ぶまれるようになってきた。



南寧作戦と中国軍の冬季大攻勢

 野村・グルー会談が行われている時、中国では、仏 印からの援蒋ルート遮断をめざす南寧作戦が展開されており、このことも日米交渉を不調に終わらせる一つの条件となっていたと思われる。日本側では、香港・広東からのルートを遮断した後では、仏印を通ずるも のが援蒋ルートの最大のものと見られていた。すなわち、ハイフォン港から陸揚げされた物資は、ハノイを 経て昆明に至る雲南鉄道と、ハノイから分かれる鉄道で国境まで行き、以後自動車により南寧に出る二つのルートによって重慶政権側に渡っているというわけである。そしてこの物資は主としてアメリカからの輸出品であった。

  南寧作戦は、まずこの南寧ルートを切断すると同時に、そこに航空基地を設定し、雲南鉄道など奥地への爆撃を加えることを意図したものであった。この作戦 はさきに述べた海南島攻略につづくものとして海軍側が主張、陸軍側は当初「戦面不拡大による軍備拡張」 という立場からこれに反対していたが、ノモンハン事件の責任による統帥部首脳更迭により、新作戦部長となった富永恭次少将はこの作戦実施を推進し、大本営も10月14日これを認可するに至った。使用兵力は 第五師団と台湾混成旅団であり、両兵団は海南島三亜港に集結したのち、11月15日より欽州湾上陸を開始し、26日には南寧を占領、一部兵力をもって仏印 国境・龍州方面に向かわせた。

  ところが12月17日になって中国軍は、南寧東北方の崑崙関方面から戦車を先頭とした大規模な反撃に転じ、南寧との連絡路をも占領して前線の三木部隊を 完全に包囲することに成功した。今村均師団長は直ちに、龍州へ向けた部隊を引返させると共に増援部隊を送ったが、これも途中で阻止されるという事態におちいった。増援部隊は25日になってようやく包囲網の突破に成功したが、この問、三木部隊は弾薬・食糧共に欠乏して多大の損害を出し、30日には崑崙関を放棄・後退して、戦線の立て直しを余儀なくされる有様となった。これに対し広東にある第一二軍司令部(司令官・安藤利吉中将)は、第18師団・近衛混成旅団を増派し、航空部隊の支援をも得て、翌40年1月28日より総攻撃を開始、2月4日に至ってようやくこの方面の中国軍を撃退することができた。

  この南寧での中国軍の反攻は、11月30日蒋介石 が命令した冬季大攻勢の一環であり、12月中句より 北は内蒙古の包頭から南は南寧に至るほぼ全戦線で中国軍は攻勢に転じていた。この冬季攻勢は39年12月より40年2月にわたるものであったが、さきの南寧方面をはじめ、多くの戦線で日本車は苦戦を強いられ、蕪湖―九江間では一時揚子江航行が遮断されるという事態も起こっていた。とくに激しい攻撃が行われたのは、武漢地区前面の第11軍(司令官・岡村寧次中将)に対してであり、もしこの方面の中国軍の兵力が南寧作戦への反撃にさかれなかったならば、「あるいは第11軍を撃破し、戦略的戦果に拡大することができたかも知れない。……支那事変8年間に彼我主力が対進激突して決戦的様相を呈したのは、この時をもって最高とする」(防衛庁戦史室「大本営陸車部(1)」、620頁) と評される程のものであった。

  この冬季大攻勢は、中国軍が日本側の予想した以上に旺盛な戦意と強力な戦力を維持していることを実証したものであり、日本の戦争政策に混迷をもたらす新たな要囚となるものであった。第11軍の報告書「昭和14年冬期作戦作戦経過の概要」は、「事変勃発後二年有半、連戦敗衄を重ねたる敵軍が現在に於て尚二百万の統制を保ちある事は、(第11)軍周辺の敵軍の約80パ−セント余たる71個師が概ね時を同じゆうして攻勢に転じ、約四旬に亘り執拗活発なる攻勢を反覆せし事に依り実証せられたる処」であるとし、「敵統帥部の威令が正規軍は固より遊撃隊の末梢にまで及びたる実情は、蒋介石の統制力の今尚全軍に保持せられあるを如実に物語るものにして、敵未だ健在の感を深くするものなり」(「現代史資料9・日中戦争2」、440 頁)と述べていた。

  以後、中国戦線にある現地軍からは、敵主力が健在だとすれば、これを撃破するための積極的進攻作戦を 実施すべきだとの意見が出されるようになり、大軍拡のために在華兵力の削減をはかろうとする軍中央部は、この問の調整に苦しまねばならなくなるのであった。

  ともあれ、第七五回議会が召集されたのは、このような中国軍の冬季大攻勢が展開されているさなかのことであった。



第七五回議会の召集


 第七五回議会は、1939(昭和14)年11月10日公布の召集詔書により、12月26日から翌40 年3月24日まで会期90日間の通常会として、12月23日に召集された。12月26日の開院式につづ いて、翌27日には全院委員長選挙、「陸海軍二対スル感謝決議」を行い、28日より翌年1月20日まで24日間の年末年始の休会にはいったが、この休会中 に、阿部信行内閣から米内光政内閣への政変が行われたため、休会あけの1月22日(21日は日曜日)の本会議において、新内閣の要請に応じ1月30日まで休会を延期することが議決された。結局この議会の会期は2日間延長され、3月26日に終了している。

  この議会における議長・副議長、全院・常任委員長、国務大臣、政府委員、議員の会派別所属は次の通りであった。なお、松平議長は、39年7月9日、議員と しての任期が満了したため辞任したが、翌7月10日の選挙で当選し、同13日付けで再任されたものである。

議長   松平 頼寿(伯爵・研究会)
副議長   佐佐木 行忠(伯爵・火曜会)
     
全院委員長   徳川 圀順(公爵・火曜会)
     
常任委員長 資格審査委員長 織田  万(勅選・同和会)
  予算委員長 井上 匡四郎(子爵・研究会)
  懲罰委員長 大久保 利武(侯爵・研究会)
  請願委員長 堀田 正恒(伯爵・研究会)
  決算委員長 千田 嘉平(男爵・公正会)
     
国務大臣    
     
阿部内閣 内閣総理大臣 阿部 信行
  外務大臣 野村 吉三郎
  内務大臣 小原  直
  大蔵大臣 青木 一男
  陸軍大臣 畑  俊六
  海軍大臣 吉田 善吾
  司法大臣 宮城 長五郎
  文部大臣 河原田 稼吉
  農林大臣 酒井 忠正
  商工大臣 伍堂 卓雄
  逓信大臣 永井 柳太郎
  鉄道大臣 永田 秀次郎
  拓務大臣 金光 庸夫
  厚生大臣 秋田  清
     
米内内閣 内閣総理大臣 米内 光政
  外務大臣 有田 八郎
  内務大臣 児玉 秀雄
  大蔵大臣 桜内 幸雄
  陸軍大臣 畑  俊六
  海軍大臣 吉田 善吾
  司法大臣 木村 尚達
  文部大臣 松浦 鎮次郎
  農林大臣 島田 俊雄
  商工大臣 藤原 銀次郎
  逓信大臣 勝  正憲
  鉄道大臣 松野 鶴平
  拓務大臣 小磯 国昭
  厚生大臣 吉田  茂
     
政府委員(1939・12・24阿部内閣発令) 内閣書記官長 遠藤 柳作
  法制局長官 唐沢 俊樹
  法制局参事官 樋貝 詮三
  森山 鋭一
  入江 俊郎
  企画院次長 武部 六蔵
  対満事務局事務官 竹内 徳治
  内閣情報部長 横溝 光暉
  興亜院総務長官 柳川 平助
  関東局事務官 沼田 龍太郎
  外務政務次官 多田 満長
  外務参与官 依光 好秋
  外務省東亜局長 堀内 干城
  外務省欧亜局長 西  春彦
  外務省亜米利加局長 吉沢 清次郎
  外務省通商局長 山本 熊一
  外務書記官 石井  康
  内務政務次官 加藤 鯛一
  内務参与官 福井 甚三
  内務省神社局長 中野 与吉郎
  内務省地方局長 狭間  茂
  内務省警保局長 本間  精
  内務省土木局長 山崎  厳
  内務省計画局長 松村 光麿
  内務書記官 灘尾 弘吉
  大蔵政務次官 清瀬 規矩雄
  大蔵参与官 豊田 豊吉
  大蔵省主計局長 谷口 恒二
  大蔵省主税局長 大矢 半次郎
  大蔵省理財局長 相田 岩男
  大蔵省銀行局長 入間野 武雄
  大蔵省為替局長 中村 孝次郎
  大蔵書記官 永井  
  植木 庚子郎
  預金部資金局長 広瀬 豊作
  専売局長官 荒井 誠一郎
  陸軍政務次官 宮沢 胤勇
  陸軍参与官 小山田 義孝
  陸軍主計中将 石川 半三郎
  陸軍少将 武藤  章
  陸軍主計大佐 森田 親三
  陸軍歩兵大佐 河村 参郎
  海軍政務次官 西岡 竹次郎 
  海軍参与官 真鍋 儀十
  海軍主計中将 武井 大助
  海軍少将 阿部 勝雄
  海軍主計大佐 為本 博篤
  海軍大佐 矢野 英雄
  司法政務次官 森田 福市
  司法参与官 真鍋  勝
  司法書記官 石田  寿
  文部政務次官 作田 高太郎
  文部参与官 伊豆 富人
  文部省専門学務局長 関口 鯉吉
  文部省普通学務局長 中野 善敦
  文部省実業学務局長 岩松 五良
  文部省社会教育局長 田中 重之
  文部省図書局長 近藤 寿治
  文部省宗教局長 松尾 長造
  文部書記官 永井  浩
  数学局長官 小林 光政
  農林政務次官 村上 国吉
  農林参与官 小笠原 三九郎
  農林省農務局長 土屋 正三
  農林省山林局長 田中 長茂
  農林省水産局長 栗屋 仙吉
  農林省畜産局長 岸  良一
  農林省蚕糸局長 吉田 清二
  農林省米穀局長 横山 敬教
  農林省経済更生部長 周東 英雄
  農林省臨時農村対策部長 重政 誠之
  農林書記官 岡本 直人
  馬政局長官 村上 富士太郎
  商工政務次官 横川 重次
  商工参与官 小山 倉之助
  商工書記官 山本 茂
  逓信政務次官 田中 万逸
  逓信参与官 東条  貞
  逓信省郵務局長 森島 美之助
  逓信省電務局長 田村 謙治郎
  逓信省管理局長 山田 良秀
  逓信省公務局長 荒川 大太郎
  逓信省管船局長 伊勢谷 次郎
  逓信省経理局長 手島  栄
  貯金局長 荻原 丈夫 
  電気庁長官 平井出 貞三
  航空局長官 藤原 保明
  鉄道政務次官 原  惣兵衛
  鉄道参与官 坂東 幸太郎
  鉄道省監督局長 鈴木 清秀
  鉄道省運輸局長 長崎 惣之助
  鉄道省建設局長 堀越 清六
  鉄道省工務局長 阿会沼 均
  鉄道省経理局長 池井 啓次
  拓務政務次官 津雲 国利
  拓務参与官 笠井 重治
  拓務省管理局長 副島  勝
  拓務省殖産局長 植場 鉄三
  拓務省拓務局長 安井 誠一郎
  拓務書記官 森重 千夫
  朝鮮総督府政務総監 大野 緑一郎
  朝鮮総督府財務局長 水田 直昌
  台湾総督府総務長官 森岡 二郎
  台湾総督府財務局長 中嶋 一郎
  樺太庁長官 棟居 俊一
  南洋庁長官 北島 謙次郎
  厚生政務次官 三浦 虎雄
  厚生参与官 永山 忠則
  厚生省体力局長 佐々木 芳遠
  厚生省衛生局長 林  信夫
  厚生省予防局長 高野 六郎
  厚生省社会局長 新居 善太郎
  厚生省労働局長 藤原 孝夫
  厚生省職業部長 内藤 寛一
  厚生書記官 川村 秀文
  保険院長官 進藤 誠一
  軍事保護院副総裁 兒玉 政介
     
政府委員(1940・1・31米内内閣発令) 企画院総裁 竹内 可吉
  内閣書記官長 石渡 荘太郎
  法制局長官 広瀬 久忠
  企画院次長 植村 甲午郎
  関東局司政部長 今吉 敏雄
  外務政務次官 小山 谷蔵
  外務参与官 小高 長三郎
  外務省条約局長 三谷 隆信
  外務省情報部長 須磨 弥吉郎
  外務省調査部長 松宮  順
  内務政務次官 鶴見 祐輔
  内務参与官 青山 憲三
  内務省警保局長 山崎  巌
  内務省土木局長 成田 一郎
  北海道庁長官 戸塚 九一郎
  大蔵政務次官 木村 正義
  大蔵参与官 松田 正一
  大蔵書記官 氏家  武
  前田 克己
  湯地 謹爾郎
  営繕管財局理事 松隈 秀雄
  陸軍政務次官 三好 英之
  陸軍参与官 宮崎  一
  海軍政務次官 松山 常次郎
  海軍参与官 小山 邦太郎
  海軍大佐 千田 金二
  司法政務次官 星島 二郎
  司法参与官 高木 正得
  文部政務次官 舟橋 清賢
  文部参与官 仲井間 宗一
  数学局長官 菊池 豊三郎
  農林政務次官 岡田 喜久治
  農林参与官 松木  弘
  商工政務次官 加藤 鐐五郎
  商工参与官 喜多 壮一郎
  商工省鉱産局長 小金 義照
  商工省鉄鋼局長 塩谷 狩野吉
  商工省科学局長 永田 彦太郎
  商工省機械局長 鈴木 英雄
  商工省繊維局長 辻  謹吾
  商工省監理局長 牧  樽雄
  商工省振興局長 妹川 武人
  商工書記官 椎名 悦三郎
  特許局長官 大貝 晴彦
  燃料局長官 東  栄二
  貿易局長官 小島 新一
  物価局次長 新倉 利広
  逓信政務次官 武知 勇記
  逓信参与官 藤生 安太郎
  電気庁部長 藤井 崇治
  森  秀
  航空局部長 福原 敬次
  桜井 忠武
  鉄道政務次官 宮沢  裕
  鉄道参与官 大島 寅吉
  拓務政務次官 松岡 俊三
  拓務参与官 加藤 成之
  厚生政務次官 一松 定吉
  厚生参与官 飯村 五郎
  保健院総務局長 佐藤  基
  保健院社会保険局長 清水  玄
  保健院簡易保険局長 藤川  靖
  軍事保護院援護局長 数藤 鉄臣
  軍事保護院業務局長 桜井 安右衛門
     
政府委員追加(会期中発令) 大蔵書記官 田中  豊
  司法省民事局長 坂野 千里
  内閣恩給局長 平木  弘
  内閣統計局長 川島 孝彦
  内閣東北局長 宇都宮 孝平
 

内閣紀元二千六百年
祝典事務局長

歌田 千勝
  企画院部長 原口 武夫
  沼田 多稼蔵
  阿部 嘉輔
  興亜院部長 鈴木 貞一
  日高 信六郎
  大蔵書記官 山田 義見
  興亜院部長 松村  粛
  専売局長官 花田 政春
  司法省刑事局長 黒川  渉
  内務書記官 三好 重夫
  大蔵書記官 池田 勇人
  秋元 順朝
  農林事務官 石井 英之助
  馬政局次長 石本 寅三
  鉄道省工作局長 徳永 晋作
  鉄道省電気局長 森田 重彦
  数学局部長 安井 章一
  朝鮮総督府鉄道局長 山田 新十郎
  内務書記官 古井 喜実
  貿易局部長 菱沼  勇
  内閣情報部長 熊谷 憲一
  厚生書記官 曽我 梶松
  対満事務局次長 荒川 昌二
  内務書記官 山内 逸造
  燃料局事務官 柳原 博光
  燃料局事務官 酒井 喜四
  厚生書記官 床次 徳二
  農林書記官 梶原 茂喜
  馬政局事務官 三須 武男
     
会派別所属議員氏名    
開院式当日各会派所属議員数 研究会 157名
  公正会 68名
  火曜会 45名
  同和会 35名
  交友倶楽部 32名
  同成会 23名
  会派に属さない議員 54名
  414名
     
研究会 大久保 利武
  林  博太郎
  堀田 正恒
  徳川 宗敬
  樺山 愛輔
  副島 道正
  黒木 三次
  柳原 義光
  柳沢 保承
  山本  清
  松平 頼寿
  松木 宗隆
  二荒 芳徳
  後藤 一蔵
  有馬 頼寧
  酒井 忠正
  溝口 直亮
  児玉 秀雄
  橋本 実斐
  伊藤 二郎丸
  入江 為常
  井上 匡四郎
  今城 定政
  池田 政時
  池田 政e
  波多野 二郎
  西大路 吉光
  西尾 忠方
  西四辻 公堯
  錦小路 頼孝
  北条 雋八
  保科 正昭
  本多 忠晃
  戸田 忠庸
  戸沢 正己
  土岐  章
  富小路 隆直
  大河内 正敏
  大河内 輝耕
  大島 陸太郎
  岡部 長景
  河瀬  真
  加藤 泰通
  米津 政賢
  谷  儀一
  立花 種忠
  高倉 篤麿
  立見 豊丸
  冷泉 為勇
  曽我 祐邦
  上原 七之助
  裏松 友光
  梅園 篤彦
  梅小路 定行
  植村 家治
  野村 益三
  柳沢 光治
  前田 利定
  松平 忠寿
  松平 乗統
  松平 康春
  松平 保男
  牧野 康熙
  舟橋 清賢
  米田 国臣
  青木 信光
  綾小路 護
  秋田 重季
  秋月 種英
  秋元 春朝
  安藤 信昭
  実吉 純郎
  清岡 長言
  京極 高修
  京極 鋭五
  由利 正通
  水野 勝邦
  三島 通陽
  仙石 久英
  大久保  立
  八条 隆正
  織田 信恒
  高橋 是賢
  高木 正得
  大岡 忠綱
  市来 乙彦
  今井田 清徳
  今井 五介
  八田 嘉明
  坂西 利八郎
  西野  元
  堀  啓次郎
  長  世吉
  大橋 八郎
  大橋 新太郎
  太田 政弘
  大塚 惟精
  小倉 正恒
  若林 賚蔵
  河原田 稼吉
  金杉 英五郎
  賀屋 興宣
  田口 弼一
  根津 嘉一郎
  内藤 久寛
  黒崎 定三
  山川 端夫
  松村 真一郎
  松本  学
  藤原 銀次郎
  藤沼 庄平
  木場 貞長
  伍堂 卓雄
  遠藤 柳作
  有田 八郎
  有賀 光豊
  結城 豊太郎
  三井 清一郎
  宮田 光雄
  勝田 主計
  白根 竹介
  下村  宏
  関屋 貞三郎
  堀切 善次郎
  山岡 万之助
  岩元 達一
  板谷 宮吉
  伊沢 平馬
  飯塚 知信
  橋本 辰二郎
  西野 嘉右衛門
  大藪 守治
  小野 耕一
  渡辺 甚吉
  風間 八左衛門
  米原 章三
  田部 長右衛門
  滝川 儀作
  名取 忠愛
  中山 太一
  中島 徳太郎
  上野 喜左衛門
  野村 茂久馬
  栗林 徳一
  山隈  康
  松井 貞太郎
  古荘 健次郎
  秋田 三一
  斎藤 万寿雄
  佐々木 長治
  佐々木 嘉太郎
  結城 安次
  菅沢 重雄
  鈴木 与平
  鈴木 幸作
  松本 真平
  大沢 徳太郎
     
公正会 岩村 一木
  岩倉 道倶
  伊藤 一郎
  伊藤 文吉
  井田 磐楠
  稲田 昌植
  井上 清純
  今園 国貞
  伊江 朝助
  飯田 精太郎
  原田 熊雄
  西  酉乙
  坊城 俊賢
  東郷  安
  小畑 大太郎
  大井 成元
  大蔵 公望
  大森 佳一
  奥田  剛郎
  渡辺  汀
  渡辺 修二
  加藤 成之
  郷  誠之助
  高崎 弓彦
  高木 喜寛
  辻  太郎
  中川 良長
  中村 謙一
  中御門 経民
  村田 保定
  黒田 長和
  久保田 敬一
  山川  建
  山根 健男
  山中 秀二郎
  八代 五郎造
  矢吹 省三
  安場 保健
  前田  勇
  松岡 均平
  松田 正之
  松平 外与麿
  益田 太郎
  深尾 隆太郎
  小池 正晁
  近藤 滋弥
  安保 清種
  赤松 範一
  明石 元長
  浅田 良逸
  阪谷 芳郎
  紀  俊秀
  北大路 信明
  北島 貴孝
  肝付 兼英
  宮原  旭
  水谷川 忠麿
  三須 精一
  柴山 昌生
  島津 忠彦
  東久世 秀雄
  関  義寿
  千田 嘉平
  千秋 季隆
  周布 兼道
  杉渓 由言
  河田  列
  松村 義一
     
火曜会 岩倉 具栄
  伊藤 博精
  一条 実孝
  徳川 家達
  徳川 圀順
  桂  広太郎
  鷹司 信輔
  九条 道秀
  山県 有道
  近衛 文麿
  三条 公輝
  島津 忠承
  島津 忠重
  井上 三郎
  池田 仲博
  池田 宣政
  蜂須賀 正氏
  細川 護立
  東郷  彪
  徳川 頼貞
  徳川 義親
  大炊御門 経輝
  大隈 信常
  伊達 宗彰
  筑波 藤麿
  鍋島 直映
  中山 輔親
  中御門 経恭
  野津 鎮之助
  黒田 長礼
  山内 豊景
  山階 芳麿
  前田 利為
  松平 康昌
  小村 捷治
  浅野 長之
  西郷 吉之助
  西郷 従徳
  嵯峨 公勝
  佐竹 義春
  佐佐木 行忠
  木戸 幸一
  菊亭 公長
  四条 隆徳
  広幡 忠隆
     
同和会 勅男 若槻 礼次郎
  勅男 幣原 喜重郎
  岩田 宙造
  稲畑 勝太郎
  仁井田 益太郎
  徳富 猪一郎
  小幡 酉吉
  小原  値
  大島 健一
  岡田 文次
  織田  万
  田所 美治
  中川  望
  永田 秀次郎
  村上 恭一
  村田 省蔵
  宇佐美 勝夫
  野村 徳七
  倉知 鉄吉
  松井  茂
  児玉 謙次
  江口 定条
  出渕 勝次
  有吉 忠一
  赤池  濃
  沢田 牛麿
  佐藤 鉄太郎
  光永 星郎
  光行 次郎
  土方 久徴
  松本 勝太郎
  小林 嘉平治
  佐々木 八十八
  三浦 新七
  柴田 兵一郎
     
交友倶楽部 久我 通顕
  勅男 山本 達雄
  犬塚 勝太郎
  橋本 圭三郎
  岡  喜七郎
  若尾 璋八
  川村 竹治
  芳沢 謙吉
  竹腰 与三郎
  長岡 隆一郎
  中川 小十郎
  中村 純九郎
  内田 重成
  古島 一雄
  佐藤 三吉
  水野 錬太郎
  鈴木 喜三郎
  岩田 三史
  磯野 庸幸
  出光 佐三
  大西 虎之介
  吉村 友之進
  竹下 豊次
  多木 久米次郎
  中野 敏雄
  山上 岩二
  麻生 益良
  水野 甚次郎
  渋沢 金蔵
  下出 民義
  平尾 喜一
  諸橋 久太郎
     
同成会 入江 貫一
  伊沢 多喜男
  河井 弥八
  川上 親晴
  加藤 政之助
  米山 梅吉
  建部 遯吾
  塚本 清治
  次田 大三郎
  中川 健蔵
  丸山 鶴吉
  青木 周三
  菊池 恭三
  柴田 善三郎
  磯貝  浩
  大谷 五平
  熊谷 三太郎
  小坂 梅吉
  小坂 順造
  佐藤 助九郎
  坂野 鉄次郎
  塩田 団一郎
  平沼 亮三
     
会派に属さない議員 雍仁親王
  宣仁親王
  崇仁親王
  載仁親王
  博 恭 王
  武 彦 王
  恒 憲 王
  朝 融 王
  守 正 王
  鳩 彦 王
  孚 彦 王
  稔 彦 王
  盛 厚 王
  永 久 王
  恒 徳 王
  春 仁 王
  徳大寺 実厚
  大山  柏
  西園寺 公望
  毛利 元道
  醍醐 忠重
  華頂 博信
  小松 輝久
  勅子 伊  徳栄
  井上 通泰
  太田 耕造
  樺山 資英
  横山 助成
  吉田  茂
  吉野 信次
  田中 穂積
  田沢 義鋪
  滝  正雄
  黒田 英雄
  安井 英二
  松本 蒸治
  福永 吉之助
  後藤 文夫
  小山 松吉
  青木 一男
  安宅 弥吉
  広田 弘毅
  平生 釟三郎
  平塚 広義
  千石 興太郎
  小野塚 喜平次
  田中 館愛橘
  長岡 半太郎
  飯島 雷輔
  長谷川 赳夫
  片倉 兼太郎
  上野 松次郎
  野田 六左衛門
  姉崎 正治


 なお、この議会の会期中、根津嘉一郎(勅選・研究会)が死去、高倉篤麿(子爵・研究会)が辞職した反面、 家彦王が就任、阿部内閣の法相・宮城長五郎、法制局長官・唐沢俊樹が勅選議員に任命されている。新議員のうち、家彦王・宮城長五郎は会派に属さず、唐沢のみ研究会に入会した。また、この会期中にこれまで会派に属さなかった青木一男・安宅弥吉・平塚広義(いずれも勅選)が研究会に入会している。

  この結果、閉会時には、開院式当日にくらべて議員総数は一名増えて415名となり、会派別では研究会 が二名増の159名、分派に属さない議員が一名減の53名となっている。



阿部内閣から米内内閣へ


 すでにみたように、閣僚補充問題で政党との関係を 調整することに失敗した阿部首相は、第七五回議会の召集が近づくにつれて、内閣の立場の強化をめざして動き始めた。まず12月1日には、荒木貞夫・勝田王主計・小泉又次郎・久原房之助の4名を内閣参議に補充、 4日には、町田民政党・中島政友会革新派・久原政友会正統派・安達国民同盟・安部社会大衆党の五党首と会見し、今後も定期的に会合するとの約束をとりつけた。しかし各党とも、弱体とみられたこの内閣を積極的に支持することには気乗りうすであった。そして議会が近づくに従って、内閣の退陣を求める気運があらわれてきた。

  まず、12月20日には、前月26日に結成された ばかりの右翼小会派=時局同志会が、阿部内閣不信任の態度を明らかにしたが、こうした右翼の動向は、軍部がこの内閣を見放し始めたことを反映しているとみられた。ついで12月26日開院政が行われたあと、 240名の代議士を集めた有志代議士分が開かれ、内閣退陣を求める決議を行うという新しい形の動きがあらわれた。政・民両派の幹部はこの動きを静観する姿勢をとったが、翌27日には有志代議士会代表16名 は首相を訪問して決議文を手渡すと共に、時局が重大な際であるから議会での不信任決議は避けたいとして、休会中に内閣が自発的に総辞職することを求めた。以後有志代議士会は内閣退陣要求の署名を集めることと し、翌40年(昭和15)1月7日には署名者総数は276名に達したとして、その全員の氏名を公表した。

  これに対して阿部首相は政党出身閣僚などの支持を得て、解散をもって対抗しようとしたが、1月8日の閣議で、汪兆銘政権樹立に関する「日支新関係調整要綱」が決定されると、軍部の側がこれを機会に退陣すべきだとする態度を明らかにしてきた。陸軍では近衛文麿を引き出して、強力な政治体制をつくろうとし、武藤章軍務局長らが画策を始めたし、吉田海軍大臣も1月9日には西園寺の秘書原田熊雄に対して「この内閣は一刻も早く辞めた方がよいと思ふが、実は総理は、どうも秋田か久原か判らないけれども、誰かから勧められて、しきりに解散すると力んでいる。しかしいま解散することはよくないと思ふ、解散しても、めどがない、また予算の関係から云っても、陸海軍は事変中に非常に困る」(「西園寺公と政局」第八巻、156頁)と語っていた。

  阿部首相も、こうした軍側の態度が明らかになった ところでほぼ辞職を決意し、11日には原田に対し「結局閣内不統一で辞めるよりしやうがない、陸軍大臣は 初め解散に賛成しておったけれども、しまひになって陸海軍大臣揃って、『解散は困る』と言ってきた、で自分としては、前にも言ったやうに、恨拠もなしに付和雷同する有志代議士あたりが騒いだからといって、内閣をただ投げ出すのはよくない、筋を立てて、やはり解散にまで侍って行きたかったのだが……」(同前、160頁)と辞意をもらしていた。

  阿部首相の辞意が固まるにつれて、湯浅内大臣らは、後継首相の選定に動き始めた。湯浅は13日午前、まず陸軍からも要望のある近衛文麿に会見して出馬をうながしたが、近衛はどうしても固辞して受けなかった。そこで湯浅は午後に予定されている近衛と畑陸相との会談で、そのことを直接に陸相に話してくれるよう頼むと共に、貴下がだめなら誰がよいかともちかけると、池田成彬はどうかと推薦したといわれる(矢部貞治「近衛文麿」下巻、46頁)。湯浅はすでに平沼元首相からは、近衛がだめなら木戸幸一か荒木貞夫という意見も聞かされていたが、彼自身は次の候補として米内光改元海相を推そうと考えていた。

  1月14日、阿部内閣が総辞職すると、湯浅は早速、岡田啓介・近衛文麿・平沼騏一郎らの首相経験者の意見をきいたうえで、西園寺の了解も得て、天皇に米内を推薦、いよいよ米内内閣が成立することとなった。前述したように、米内は平沼内閣時代(海相)には、 陸軍の推進しようとする防共協定の一般的軍事同盟化に強く反対して米英との協調が必要であるとの立場をとり、陸軍や右翼からは親米英派として攻撃されていたが、この組閣にあたっては、天皇がとくに畑陸相を招いて、陸軍の米内内閣への協力を確認されたこともあって、大きな障害は起こらなかった。

  米内は平沼内閣の蔵相・石渡荘太郎、厚相・広瀬久忠の二人を参謀として組閣を進め、まず畑陸相、吉田海相の留任、有田外相・小磯拓相という平沼内閣時代の閣僚の復活、法相に検事総長・木村尚達の起用などを決め、ついで政党との交渉にはいった。

  ここで二・二六事件以後の各内閣における政党出身閣僚の数をみると、広田内閣=政友・民政各2名、林内閣=ゼロのあとは、近衛・平沼・阿部の三代の内閣が政・民各1名となっていたが、米内はその比重を政・民各2名に復活させ、しかも各党総裁との交渉を通じて入閣者を得るという方法をとった。この結果、民政党から桜内幸雄を蔵相、勝正憲を逓相に、政友会革新派から島田悛雄を農相に、政友会正統派から松野鶴平を鉄相に起用することとした。とくに、蔵相の地位に政党出身者を据えたのは、蘆溝橋事件から敗戦までの間でこの内閣だけであり、こうした米内内閣の姿勢は、政党勢力を重視したものとして注目された。その他、内相にはすでに拓相・逓相の経験をもつ児玉秀雄、文相には文部次官・九大総長などを歴任した松浦鎮次郎、厚相にはかつての新官僚のリーダーであり初代内閣調査局長官をつとめた吉田茂をあて、1月16日新内閣が成立した。組閣参謀の石渡は内閣書記官長、広瀬は法制局長官の地位についていた。

  東京朝日はこの内閣を「米内大将の人望がその傘下に各方面の人材を集め得たものといふべく、その意味で挙国一致内閣の色彩は濃厚であるが、その反面米内内閣の中心が何処にありや判然としない難点がある。……新内閣に各方面の勢力を反映せしめる事は一応成 功せるも、雑然たる諸勢力の雑居は内閣の針路を帰一 るに当り必ず問題を生ずべく、又新内閣の顔触れから見てこの内閣が革新性を持つものとはいひ難い、革新的といふよりも寧ろ現下の動揺せる政局の現実にどっしりと腰を据えて外交と経済の神経過敏な動揺を政治的に防止しようとの態勢が窺はれる」(1・16)と評していた。しかしこの内閣の親米英的性格に対する反発も強く、松岡洋右・末次信正・松井石根らは内閣参議への留任を拒否して辞任してしまっている。

  内閣成立直後の1月21日には、千葉県野島崎沖35海里の地点で、ホノルルより帰航中の浅問丸(1万6000トン)をイギリス軍艦が停船させて臨検、ド イツ人船客21名を連行するという事件(浅問丸事件)がおこり、前年の天津租界事件以来の排英運動が高まってきた。事件そのものは、2月6日イギリス側が遺憾の意を表し、ドイツ人9名を日本側に引渡す、日本側は以後交戦国の軍籍にあるものを乗船させないよう手配する、ということで一応解決したが、この解決に不満の声も強く、こうした事件の積み重ねは国民を次 次第に好戦的方向に馴致することになるのであった。

  しかもこの間、1月26日には、すでに述べたように日米通商条約が失効し、この時期には最終段階にまで進んできていた汪兆銘政権樹立工作も、米英との対立を激化させる要因となるものにほかならなかった。



汪兆銘政権の樹立

 浅間丸事件をめぐる日英交渉が行われているさなかの1月24日から26日にかけて、青島では汪兆銘・王克敏・梁鴻志の三者会談が開かれ、汪兆銘政権の母体となる中央政治会議組織法などを決定した。王克敏は日本軍が北京につくりあげた傀儡政権=中華民国臨時 政府主席、梁鴻志は同じく南京における傀儡政権=中華民国維新政府主席であり、この三者会談は、汪政権が、こうした日本軍占領地域の傀儡政権をまとめあげる形でつくられていったことを示すものであった。しかしこれは汪が最初から意図した形ではなかった。

  1938年12月18日、重慶を脱出してハノイに着いた汪は、39年5月上海を経て東京に入り、平沼首相以下の主要閣僚と会談、6月18日天津に渡り、以後中国各地で新政権工作に従事することとなった。汪としては、日本と妥協しながらも、三民主義を掲げ国民党を名乗る新政権を発足させる考えであり、従って既成の傀儡政権を排除したいと考えていた。彼はまだ38年11月20日、影佐禎昭・今井武夫と高宗武・ 梅思平の間で調印された「日華協議記録、同諒解事項」の範囲内で中国側の自主性を確立しようとしており、 日本側が同年11月30日、「協議記録」にさまざまな利権要求を付着させた「日支新関係調整方針」を御前会議で決定していることを知らないでいた。

  汪はまず、国民党の伝統を呼称するため、平沼内閣が総辞職した8月28日、上海で第六次国民党全国代表大会なるものをでっちあげた。「大会は8月28日午前10時に開会して午後4時30分散会したが、参加者たちを重慶側テロ団の迫害から守るため30日まで続行したように発表された。日本の新聞は30日付夕刊で一斉に、『純正国民党の発足』とうたって、この大会が28日から30日までの3日間にわたって盛大に挙行された旨を大きく報じた」(「支那事変陸軍作戦(3)」、27頁)。

  しかしともかくもこれで党中央執行委員会首席の名目を得た汪は、9月19日南京で王克敏・梁鴻志との第一回三者会談を行い「中央政治委員会組織条例草案」を提示したが、これによれば政治委員24名ないし30名中、臨時・維新両政府関係者に割りあてられたのは6名にすぎず、この会談は両政府側の強い反発によって不調に終わった(同前、28頁)。汪はまだ日本側の汪への期待が急速にうすれており、現地日本軍と密着している傀儡政権の方が有利な立場にあることを 理解できないでいた。すでにさきの「日支新関係調整方針」は「新支那ノ政治形態ハ分治合作主義ニ則り施策ス」と述べているが、それは汪がめざすような中央集権体制の確立を頭から否定するものであった。

  元来、日本側の汪への期待は、汪に呼応して雲南軍・四川軍が反蒋独立に立ちあがるという点にあったのであるが(「第七四回帝国議会貴族院解説」参照)この点が実現されないとなると、汪の利用価値は、辛亥革命以来の長い活動歴にもとづく国民党長老としての名声を、 傀儡政権の補強のために利用する、いいかえれば既成の傀儡政権を汪の名声でまとめあげることによって、より大きな傀儡政府をつくろうとする方向に求められたのであった。

  日本から汪への要求は、10月の興亜院での討議を経て11月1日決定、つづいて上海で汪側に提出された。それは「日支新関係調整方針」を具体化したものであるが。具体化の過程で更に多くの要求が付け加えられており、まだ「日華協議記録」を基本と考えていた汪側を驚愕させるような内容となっていた。汪側はこの要求に激しく抵抗したが、結局若干の修正をかちえただけで日木側と妥協、12月30日秘密諒解事項を含む「日支新関係調整ニ関スル協議書類」(「太平洋戦争への道・資料編」、286〜295頁)が成立した。

  日本側がここで汪側に押しつけたのは、「満州国」の承認をはじめ、「北支及蒙彊ニ於ケル国防上並ニ経済上日支間ノ緊密ナル合作地帯ノ設定」、「揚子江下流地域ニ於テ経済上日支間ノ緊密ナル合作」、「南支沿岸特定島嶼ニ於ケル軍事上緊密ナル合作」を実現することを柱とし、これに多くの要求を付加したものであった。たとえば、政治面ではまず中国側は日華防共協定を締結し、その有効期間中は蒙彊・華北への駐兵を認める(防共駐兵)、またそのうえ平和克復後治安確立に至 るまでの一般的駐兵(治安駐兵)をも認める、中央・地方政府・軍隊・警察にわたって日本人顧問を採用する、臨時政府は「北支政務委員会」と改称して広汎な行政権を与え、蒙古連合自治政府の「高度防共自治権」を認める、などの内容が盛られていた。これによれば汪政権が出来ても、その支配は華中・華南に限られることになり、しかもその際、従来の維新政府の「主要人物ノ体面ト地位トニ関シテハ之ヲ考慮」する、つまり新政府の相当の地位につけるとすれば、新政府成立による実質的変化もさして間侍できないことになるわけであった。また経済面では重要部門の合弁方式によ り、日本資本を浸透させることが予定されていたが、 とくに「北支ノ国防上必要ナル特定丿事業」などについては、日本の出資を55%として支配下におくことが 考えられている。つまりここにみられるのは、地域的に濃淡の差をつけながらも、全中国を日本の管理下におこうとするものであったといえよう。

  しかし、ともかくも汪兆銘はこのような日本の要求をうけいれることで、政権樹立のめどをつけ、さきの青島会議にまでこぎつけたのであった。ついで3月20日には、政権樹立の具体的問題を討議するため、南京で中央政治会議が開催され、国民党から陳公博・周仏海ら10名、臨時・維新両政府から各5名、中国社会党・中国青年党・蒙古連合自治政府などから各2名、 合計30名の代表が参集した。そしてこの会議での決定にもとづくという形式をとって、30日、汪兆銘を首班とする新政権が樹立された。そしてその式典は、国民政府の重慶からの帰還と唱えて、還都式と呼ばれた。

  しかしこうした形式をつみ重ねてみても、汪政権が日本の傀儡であることは明らかであったし、とくに1月6日、日本側の態度に失望した高宗武らが上海から香港に脱出し、日本の要求の全貌を暴露したことは、汪側にとって大きな痛手であった。またこの時、蒋介石は冬季大攻勢を指揮して、中国軍の健在ぶりを実証 しており、日本側でも汪政権の樹立が、日中戦争の解決に役立たないことが明らかとなりつつあった。

  すでに前年(39年)9月23日、大本営は全中国にわたる政略戦略の統轄、具体的には新政権樹立工作・ 和平工作などを統一的に推進させるため、南京に支那派遣軍総司令部(「総軍」と呼ばれる)が設置されていたが、ここでも事変終結のためには汪政権樹立以外に、新たな重慶との和平工作が必要と考えられるに至っており、12月下旬からは香港で鈴木卓爾中佐と、宋子文の実弟で末子良と名乗る男との接触が始まっていた。

  40(昭和15)年1月1日、総軍参謀部は「事変解決ニ関スル極秘指導」と題する文書を作成、「昭和15年秋頃迄ヲ目途トシ特ニ事変解決ニ努カスルモノトシ、汪工作ヲ強化促進シツツ対重慶工作ヲ併進シ、適時対重慶停戦ノ機ヲ捕提スルト共ニ、汪・重慶ノ合流ヲ指導ス」(「現代史資料9・日中戦争2」、五三八頁)との方針を打ち出していた。

  汪政権樹立の最終段階では、総軍は、さきの宋子良を通ずる対重慶和平工作(「桐工作」と呼ばれる)に大きな期待をつなぐようになっていたが、それは国際情勢の激変を前にして、軍部が「事変解決」を焦り始めたことを示すものでもあった。日本の新聞が華やかに報道した南京還都式の裏面では、日本の戦争指導は混迷の度を深めつつあるのであった。



貴族院の状況

 この議会は、阿部内閣から米内内閣への政変のため休会期間が延長され、2月1日の首相・外相らの国務大臣演説から審議が開始された。貴族院では以後2月6・8・10・12・13・15日と本会議が開かれたが、法案に関する論議はなく、大河内正敏・大河内輝耕・内藤久寛・菅沢重雄(以上研究会)、松井茂(同和会)、阪谷芳郎(公正会)、山隈康(研究会)、中野敏雄(交友倶楽部)、小倉正垣(研究会)、安場保健(公正会)らによって、国務大臣演説に対する質問が行われた。質問内容は、日米通商条約の破棄、ノモンハン 事件以後の日ソ関係、東亜新秩序、浅間丸事件などの外交問題から、石油・石炭政策、米穀問題、電力不足、地方制度、国民精神の昂揚、教育問題など多岐にわたったが、注目をひいたのは2月2日の本会議で大河内輝耕が、高宗武により暴露された「日華協議書類」の問題をとりあげたこと位であった。大河内は新聞で報道された項目をとりあげ、その内容をただしたが、米内首相は「他日適当ノ機会ニ於キマシテ差支ナイ程度ノ御答ヲ致シタイ」(速記録第四号)と即答を避け、同月15日の秘密会に於て汪政権への要求の概要を述べたものとみられた。

  2月23日の本会議に至りようやく、衆議院を通過 した昭和一五年度予算案が上程された。一般会計58億2200余万円、臨時軍事費44億6000万円とその合計がはじめて100億をこえることで注目された大予算であった。さらに他の特別会計を加えると150億円に達するものであり、この予算が支障なく施行できるのかが一般に危惧されていた。予算案についての桜内蔵相の説明が終わると、岩田宙造(同和会)が議事進行について発言を求め、「政府ハ場合ニ依リテハ或事項ニ関シテ如何ナル質疑ニモ応ジナイ、答弁ヲシナイ旨ヲ以テ質疑ヲ予メ全面的ニ拒否スルコトガ出来ルモノト御考ニナッテ居ルノデアリマセウカ」「又実際、場合ニ依ッテハ質疑ヲ全面的ニ或事項ニ関シテハ拒否スルコトガアルカモ知レヌト云フ意嚮ヲ懐イテ居ラレルノデアリマセウカ」(速記録第一二号)と米内首相に迫った。これに対して米内は「議員ノ御質問ニ対シマシテ全面的ニ其ノ答弁ヲ拒否スルト云フヤウナ考ハ持ッテ居リマセヌ」と簡単に答えているが、岩田の発言は、具体的討議資料をなかなか出そうとしない政府の答弁態度に対して、議員側に強い不満のあることを示すものとして注目された。しかし予算案そのものについては、3月15日の本会議でさしたる討論もなく可決している。

  ついで3月18日になると、今議会の最大の案件である税制改正案が衆議院より一部修正のうえ回付されてきた。これは所得税法改正案など、45件の法律案より成り、国税・地方税、直接税・間接税など、税制のほとんど全面にわたる改正を行おうとするものであった。政府はその意図を、負担の均衡、経済政策との調和、税収の増加、税制の簡易化などをはかるためのものだと説明していたが、その主な点は次のようなものであった。

  まず、所得については、個人に対しては所得税を課すこととし、所得の種類(資産・勤労など)に分けて課税する分類所得税と、一定以上の所得者に課する総合所得税の二種類を設け、また法人に対しては、現行の第一種所得税と法人資本税を合した法人税を新設した。 つぎに地方税では、地租・家屋税・営業税を道府県及び市町村の独立財源とし、市町村税中の戸数割を廃止して市町村民税を新設したほか、地方分与税制度を創始したことなどが主な改正点となっていた。そのほか相続税・間接税などでは、租税の増収を目的とする改正が行われており、遊興飲食税5割、相続税・酒税・清涼飲料税などで3割、砂糖消費税で2割程度の増徴が企てられ、これらの税制改革全体で8億円という大増収が見込まれていた。

  これに対して衆議院は所得税等に対し、免税点や税率を引き下げる修正を行って貴族院に送ったが、貴族院ではこの修正によって初年度6200万円、平年度6500万円という額が減収となるが、その補填の方法が明らかでないという点が問題とされた。しかし質問にたった阪谷芳郎(公正会)は、この減収額は予算の節約又は経済界の変化により生ずるかもしれない不用額から捻出し、国庫剰余金その他からの流用は致さない覚悟であるとの桜内蔵相の言明に満足の意をあらわし、税制関係法案は衆議院の修正のままで可決、成立することとなった(速記録第二七号)。なおこの税制関係法案を貴族院が可決した3月24日が、予定された会期の最終日であったが、なお重要法案が未成立の状態にあるので政府はこの日、会期の二日間延長をはかっている。

  この未成立の重要法案の一つが石炭配給統制法案であった。この法案は、石炭増産のためには炭価を引きあげねばならないが、物価政策の立場からは炭価をおさえねばならないという矛盾を解決するため、石炭の流通を強力な統制のもとにおくことをねらったものであった。具体的には、資本金5000万円、政府半額出資で「日本石炭会社」を設立し、石炭の生産業者・輸入業者はその生産又は輸入した石炭をこの会社に売渡すことを義務づける、という規定が中心になった法案であった。そしてこのような石炭の集中によって、公定価格制を確立し、それを起点として販売機構の一元的系統化を実現しようというわけであった。この法案は3月22日に貴族院に送られ、26日、延長された会期の最終日にようやく可決・成立している。同様な統制会社法案としては、日本肥料株式会社法案もこの議会で成立したものである。

  このほか、未成年者を対象として毎年体力検査を行い、体力向上のための適切な対策を立てることを目的とする国民体力管理法案が成立、また悪質な遺伝性疾患を有する者に断種手術を認めると同時に、避妊手術・妊娠中絶等の乱用を厳重に取り締まって、健全な人口 増加をはかろうという国民優生法案についても、さまざまな意見が出されたものの、結局、衆議院が一部修正しただけで可決されている。

  この議会では政府提出法律案は110件にのぼった が、部分的改正案が多く、また戦時統制強化に関する法案があまりみられないのは、これらの問題が国家総動員法に一任され、同法にもとづく命令の形で処理さ れていることを示すちのであった。このうち108件が成立、未成立に終わった政府提出法律案は2件にす ぎなかった。

(古屋哲夫)