『人文学報』第47号 

1979年3月

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「満州事変」以後の対中国政策


表紙

古屋 哲夫


1「満州建国」の国策化と対中国政策

2熱河作戦・塘沽協定をめぐって
3広田外交の基本的性格
4対中国政策の行詰り
むすび



1「満州建国」の国策化と対中国政策

 「満州国建国」の国策化は、32年1月初旬に上京した関東軍参謀・板垣征四郎に対する処遇において、早くも明らかとなった。1月6日には、板垣と陸・海・外三省との間で「支那問題処理方針要綱」作成されたし、1月8日には、関東軍の軍事行動を賞揚した勅語が発せられている。この勅語は、前年には参謀本部が極力抑制しようとした筈の嫩江・遼西両作戦を、その具体名をあげて賞賛しており、政策の変換を天皇の名によって示すという意味を持ったものであった。片倉の前掲「政略日誌」は次のように記している。 (原本消失) 遠的」植民地化の意図を明らかにした。そしてさらに「満蒙は之を差当り支那本部政権より分離独立せる一政権の統治支配地域と逐次一国家たるの形体を具有する如く誘導す」として、すでに傀儡省政府をつくりそれをまとめあげて「満州国」をつくりあげようとしていた関東軍のやり方を追認したものであった。

  また関東軍の地位については、「満蒙に関する帝国の政策遂行は将来強力なる一国家機関の統制に帰属せしむるを要するも差当り軍の威力下に行ふを要す」との一項が設けられていた。 つまり、ここでの「軍」が関東軍を指していることは明らかであり、この項は当面、関東軍が軍事のみならず、政治・経済全般にわたり、満蒙支配の実権を掌握することを認めたものと解することができる。
次に「支那本部」に関しては、次のような方針が立てられていた。  

 

「支那本部政権の満蒙問題に対する関係に付ては、該政権をして満蒙に対する一切の主張を自然に断念せしむる如く仕向くるを以て主旨とす。従て同問題に関する支那本部政権との直接交渉は出来得る限り之を遷延するの策を執り、若し近き将来に於て該政権より直接交渉を提議し来る場合には大正4年条約其他一切の条約、協約及協定等の再確認及排日排貨根絶の具現を要求して之に対抗す」

 

 つまり、「満州国」を中国側に正面から認めさせることは不可能とみて、この問題についての交渉を回避し、この間に満蒙植民地化の実績をあげて中国側に奪回をあきらめさせようというわけであった。そして中国側から交渉を提議してきた場合には、21箇条条約など既成の条約・協定の再確認、云いかえれば、中国側の要求するであろう、不平等条約撤廃の方向を全面的に拒否すると同時に、逆に排日根絶の要求をぶつけようというのであり、この方針は簡単に云えば、交渉を決裂させるということにほかならなかった。

  当時、華北において親日政権樹立の策動が行われていたことは、前掲「政略曰誌」が「(1月)17日北京102電に依るに永津中佐は天津軍謀略と切り離し、新に張作相、張宗昌を擁立し京津政権の安定を期し、学良を下野せしめ其の私有財産には保護を与へ、又裁兵費銀百万元を与へんと企図するものの如し1)」と記していることからもうかがうことができる。しかし関東軍側の「満蒙問題善後処理要綱」(1月27日策定)では「北支方面に対しては、満蒙政権に対し動揺を与ふることなき親日政権を樹立する如く天津軍に協力すべきも、差当り満蒙の特異性と 混同せられざるの注意を払ひ軍として積極的施策を行はず2)」との態度を示していた。関東軍は後述するように、内蒙地方の「満州国」側へのとり込みに強い関心を示しており、一般的に「満州国」の周辺に親日政権をつくることを望んでいたことは、この「要綱」からも明らかであるが、この時点では「満州建国」そのものに全政策を集中することを要求していたとみられる。

1)、2)

『現代史資料7、満州事変』352、362頁


  ところでこの三省問で決定された「支那問題処理方針要綱」のうち「満蒙」に関する部分は、 字句を修正(例えば「帝国の威力の下に」を「帝国ノ支援ノ下二」とする)、簡略化したうえで、「満蒙問題処理方針要綱1)」として、3月12日の閣議で決定されるに至っているが、このことは、 陸軍・海軍・外務三省問で(現地軍又は特務機関の意見をも加えて)実質的に対中国政策が決定されてゆくようになる第一歩でもあった。
 ともあれ「支那問題処理方針要綱」は、「満州事変」後の中国に対する政策構想の出発点を示すものであり、その特徴は、(一)「満州国建国」の国策化(「建国宣言」後は「満州国育成」に変る)、(二)「満蒙」植民地化についての軍、とくに関東軍の指導権の容認、(三)中国中央政府との 関係の実質的断絶・空白化、と要約し得るであろう。従って以後の対中国政策は、(一)、(二)との 関連のもとで、(三)の空白がいかなる形でうめられてゆくかにかかってくる筈であった。

1)

外務省『外交年表並主要文書』下巻204-5頁。

 


  32年1月13日、「支那問題処理方針要綱」を得た板垣参謀が奉天に帰任するや、関東軍は、 一気に「満州国建国」の道を急ぎ始めた。1月15日より二週間の予定で内地より学者らを招いて法制及経済政策諮問会議開催、同27日板垣は、張景恵を委員長とし、奉天、吉林、黒龍江各省主席らで組織する委員会に表面的な建国準備にあたらせるなどの方針を決定、2月5日より25日まで関東軍参謀らは10回にわたり実質的準備のための建国幕僚会議開催、同16日より張景恵、蔵式毅、煕洽、馬占山らの中国側首脳会談が開かれ、18日東北行政委貝会の名で「独立宣言」発表、そして3月1日には、「満州国建国」が宣言されるに至るのであった。さらに関東軍は、「建国宣言」後すぐさま、特務部を中心に、満鉄経済調査会を動員しながら、満州における経済統制政策の立案にとりかかっているのであり1)、まさに関東軍は、当面、「満州国の建国・育成」という国策遂行の立役者の地位を獲得したのであった。

1)

「満州国」における経済統制政莱の立案過程については、原朗「1930年代の満州経済統制政策」(満州史研究会編『日本帝国主義下の満州』所収)参照、また、32年段階に立案された全般的統制政策の具体案については、満鉄経済調査会編『満州経済統制方策』(立案調査書類第1編第1巻)参照。


  こうした「満州国建国」は、軍部の政治的地位を飛躍的に高めるという結果をもたらした。「満州国建国」の国策化とは、「満州国」の防衛・発展の観点から出されてくる軍部の要求に、 他の政治勢力も同意してゆくという政策決定過程が、基本的に制度化されたということにほかならなかった。同時にまた軍部のなかでも、直接に「満州国」を支配する関東軍の地位が格段に強まり、その要求と行動が、対外政策、とくに対中国政策の形成に大きな規定力を及ぼし得るようになったということでもあった。

  軍部の要求が、全政権の中軸に据えられるようになったことは、「満州国建国宣言」の約半年後、32年8月27日の閣議で、「満州国」承認・国際連盟脱退の方針にともなって、決定された「国際関係より見たる時局処理方針」のなかにみることができる。同方針は、

 

「万々一連盟等カ帝国ニ対シ重大ナル現実ノ圧迫ヲ加ヘ来ルニ於テハ、我方亦実カヲ以テ之ヲ排除スヘキコト勿論ニシテ、政府ハ其ノ如キ場合に備フル為メ早キニ及ンデ軍備ノ充実、非常時経済及国家総動員ニ付テモ充分ニ考慮ヲ加ヘ、断乎タル決意ト周到ナル用意ヲ以テ今後ノ事態ヲ処理スヘク1)


と述べ、「満州国建国」→国際連盟脱退→国際的孤立化という状況のなかで、全政策が「軍備拡張・国家総動員体制の確立」という方向に指導されることを示した。かつて「満蒙問題の解決」、「国家改造」のスローガンは、軍部革新派が権力の中枢に位置するとともに、「満州国育成」・「国家総動員体制の確立」におきかえられていった。そして同時にまた、半年前には空白であった対中国政策が次第に方向づけられつつあることをも、この「方針」は明らかにしていた。

1)

外務省編『外交年表並主要文書』下巻206頁。




同「方針」別紙には次のような「対支那本部策」が掲げられていた。

 

「最近支那本部に於ケル地方政権ノ分立状態ハ益々顕著トナル傾向アル処、我方二於テハ右政局ノ推移ヲ注視シツツ、比較的穏健ナル態度ヲ執ル政権に対シテハ成ル可ク其立場及面目ヲ尊重シ或ハ進ンテ好意的態度ニ出テ我方二有利ニ誘導スルコト各種案件ハ事情ノ許ス限リ各地方政権トノ間ニ実際的解決ヲ計リ以テ事端ノ発生ヲ避クルニ努ムルコト1)


  この方針の前提となっている「地方政権ノ分立状態ハ益々顕著トナル傾向」とは、現実認識というよりはむしろ政策的願望であり、中国の地方的分立状態を益々顕著ならしめようとする意図を示すものであった。すなわち当時の中国には旧軍閥の勢力が残存していたとは云え、独立した地方政権が存在していたわけではなく、従って、「各地方政権トノ間ニ実際的解決ヲ計」るということは、日本との間の対外的案件を解決しうるような地方政権をつくりあげるということにほかならなくなってくる。

1)

外務省編『外交年表並主要文書』下巻207頁。


  同時にまた、日本が承認している国民政府と交渉せずに、地方政権との間で案件の解決をはかろうというこの方針は、中国に対する正常な外交ルートを休眠状態におくものであり、現地交渉の日本側当事者として現地軍部の地位を認めたものとみることができる。

  要するにこの「対支那本部策」は、日本の対中国政策が、関東軍・天津軍など出先軍部のなかで画策され始めていた、親日(日本の満州支配を容認する)政権樹立策を容認し、中国の分裂を促進する方向に動き始めたことを意味するものであり、そのことは、翌33年以降の熱河作戦→関内作戦→溏沽停戦協定という−速の過程のなかで、現実に明らかになってくるのであった。



2熱河作戦・塘沽協定をめぐって

 1932年9月15日、日本政府は正式に「満州国」を承認したが、この時にもまだ関東軍は、「満州国」完成のためには、熱河省を服属させるという課題が残されていると考えていた。関東軍は当初から「満州国」の範囲として、奉天・吉林・黒龍江の東三省に熱河省を加えた四省を予定しており1)、「建国」準備の段階から、熱河省主席湯玉鱗を参加させようとした。しかし湯は、東北行政委員会には名を連ねたものの、「満州国参議府副議長」への就任を断って熱河から出ず、熱河省服属を「建国宣言」までに実現させることはできなかった。当時北満の抗日勢力鎮圧に主力をそそいでいた関東軍は、「熱河省は政治的解決に依り自ら求めて合流し来る如く先づ湯玉鱗を支持す」2)との方針をとり、交通・通信・飛行場の整備などによる熱河への勢力浸透を当面の目標としていた3)。つまりこの段階では関東軍はまだ、湯を通ずる兵力によらない熱河省服属に期待をかけていたとみられる。

1)

例えば、板垣・石原らの関東軍参謀と協議の上、31年10月21日同軍顧問松木侠が立案した「満蒙共和国統治大綱案」参照。(『現代史資料7、満州事変』228−9頁)

2)

前出「満蒙問題善後処理要綱」(同前、362頁)

3)

関東軍司令部、32年4月4日、「対熱河政策」(『現代史資料11、続満州事変』788頁)


  と云っても、関東軍は「政治的解決」の方式に固執していた訳ではなく、それが出来なければ、軍事力を以てしても熱河省を「満州国」に加えるという方針をとっており、32年7月、熱河省朝陽寺で小衝突事件がおこるや、熱河作戦のために「一ヶ師団及騎兵一旅団ノ増派 1)」を中央に要求し、軍事侵攻を準備したのであった。

1)

『現代史資料7、満州事変』491頁。


  しかし、関東軍にとっては最初からの予定であったとは云え、「満州国」正式承認によって、日本政府自身が満州侵略に一つの区切りをつけた以上、熱河作戦が新たな侵略となり、対中国政策の新たな実践となることは明らかであった。この点について須磨弥吉郎(当時公使館一等書記官、のち南京総領事)は熱河作戦直前に(33・2・16)「日満両国の内政上熱河を斯くも性急に解決するの要ありや疑無き能はず」との批判を記しているが、それは国際関係への憂慮と同時に、対中国政策の面から云って、「日支直接交渉の『リザーブ』としても熱河問題解決に余裕を残し置くこと得策にして……早急に熱河軍事を押進め蒋をして窮地に陥らしむる如きは賢明の策にあらず、寧ろ熱河問題を契機として蒋一派を直接交渉の方向に誘導し日支関係を常軌に引戻す様仕向くること肝要なるべし1)」という観点にもとずくものであった。

1)

同前、491-2頁。


  すでに述べたように、中央では当面「日支直接交渉」を無視する方針が決定されており、須磨の意見が顧慮される余地はなかったが、しかし、関東軍にしても熱河作戦が新たな段階を画するものであり、従って新たなる理由づけが必要であることは諒解していたと思われる。関東軍は前述の兵力増強要求に際して、「学良正規軍関外進入ヲ敢へテスル場合之ヲ贋懲駆逐スヘキ手段方法二関スル中央当局ノ考慮」1)を問い合せているが、このことは熱河作戦が、張学良軍が再進入してきたことを理由にしなければ実施し難い状況となっているという意識を示すものと云える。云いかえれば、熱河作戦は「満州国」防衛という新たな観点からする最初の作戦といういうことになるのであり、従ってたんなる熱河省の軍事的制圧にとどまらず、「満州国」周辺の反満抗日勢力を駆逐するという方向に作戦目標自体が拡大され、さらにそれらの地帯における親日政権樹立という策謀にもつながることになるのであった。

1)

同前485頁、この問い合わせに対して参謀次長からは、性急な兵力使用をいましめるとに、「熱河問題ニ関スル当方ノ企画ハ其機ニ臨ミ通報スヘク、要ハ外交的手段其効ナキニ至ラハ必要ノ兵力ヲ以テ得ル為シ限リ直路平津地方ヲ衝クニ在リ」との返電がとどいている。このとき参謀本部でどのような計画が練られていたか明かではないが、「平津地方(北京・天津地方、当時北京は北平)ヲ衝ク」は極めて重大な表現であり関東軍がそこから関内進出が中央に容認されるものと判断したとしても不当ではあるまい。なお「外交的手段」とは出先軍部による懐柔工作を指すものと思われる。


  ところで、関東軍の熱河服属工作は、その後も一向に進展せず、内地よりの増援部隊を得て準備を整えた関東軍は、33年2月より3月にかけて熱河作戦を展開し、さらに4月10日からは、自ら国境と予定していた長城線をも越えて、関内への進撃を開始していった。この関内進撃は、前述したような熱河作戦の性格を示すものであるが、ここではまず、関東軍がこの作戦開始前に丁強軍、李守信軍という2つの傀儡軍をつくりあげていたことに注目しておかなくてはなるまい。

  第1の丁強軍は長城線の南側に進出させることを目的としたものであり(丁強は本名李際春、前年まで天津で日本軍の手先として動いたとみられる)、丁強は32年12月より錦州を根拠として、日本人予備将校の指導のもとに募兵を開始、33年3月段階では「集中状態極めて不良」であったが、4月にはようやく軍の体裁をととのえ、関東軍と共に関内に侵入するに至った。関東軍参謀部第二課の「機密作戦日誌」はその状況を次のように記している。

 

「李際春は爾後鋭意兵力の充実に努め4月初旬頃には中村少将区処の下に約1,500の兵力を以て明水糖辺門方面より義院口東方駐操営北方長城の線に前進し途中鄭桂林匪軍を駆逐し且長城の線に於て趙雷の指揮する正規兵一大隊を寝返らしめ其兵力3,000に達し日本軍の石門寨攻撃に協力するに至れり。爾後軍(関東軍)は更に丁強軍に若干の援助をなし是を操縦するに至る1)


  関東軍の関内作戦が長城線南側に丁強軍のような傀儡軍を配置し、「満州国」の外廓たらしめようとしていたことは、当時すでに外務省側にも明らかになっていた。例えば、内田康哉外相は4月20日発の在米英大使宛の電報で、関内作戦を長城線に隣接する中国軍根拠地を掃蕩することを目的としたもので、永久占領を意図するものではない、説明するとともに「ろく(さんずい・楽)河以東ノ地区ノ治安維持ハ結局丁強及寝返リ支那軍等ニ於テ之ニ当ルコトトナルベキ見込ナリ(此項極秘御含ミ迄 2)」とつけ加えている。

1)

『現代史資料7、満州事変』529頁。

2) 外務省文書、内田大臣より在米出淵大使、在英松平大使宛、合809号電。


  関東軍がつくりあげたもう一つの傀儡軍は内蒙工作1)のための李守信軍であった。李守信は湯玉麟軍の一団長であり、旅長崔武興の帰順について33年2月初旬関東軍側との交渉に立ち、結局彼自身がその軍を率いて日本側に投じたのであった。(同様のものとしてこの時期には劉桂堂軍があるが、その内容は明らかでない)関東軍は南に向かっては長城線をこえて関内作戦を実地するとともに、同時に西に向かっても国境予定線をこえて李・劉軍を押出したのであった。33年5月5日関東軍参謀長は参謀次長・陸軍次官にあてて次のような電報を送っている。

 

「劉桂堂軍及李守信軍ハ我方ノ指導ニヨリ多倫付近ニ在リシ山西軍ヲ撃退シ、4月18日同地一帯ヲ占領スルニ至レリ、軍ハ爾後同軍ヲ指導シ既定ノ方針ニ基キ察哈爾東境一帯ニ親日親満勢力ヲ扶植シ以テ反動勢力ニ対スル緩衝地帯タラシムルト共ニ逐次其勢力ヲ烏珠穆泌方面ニ拡張セシメ、将来戦ヲ考慮シ積極的ニ対外蒙諸調査ヲ開始シ度キ意見ナリ2)


  これに対して5月10日陸軍次官名で、劉・李両軍の4..5.6月分操縦費として45万円の使用を認める旨の返電3)が来ていることは、この関東軍の企図を陸軍中央部が承認したことを意味するものであった。李守信軍は7月13日には馮玉祥軍によって多倫を奪回されているが、8月13日には関東軍航空部隊の支援の下に再占領し4)、以後多倫周辺地区を支配、関東軍側はこれを察東特別区と称して、内蒙工作の起点とすることになってゆく。

1)

関東軍は、早くから「満州国」の西側にある内蒙古支配に強い関心を示している。前掲「満州事変機密政略日誌」によれば、31年12月には関東軍の支援のもとに、松井清助予備役大佐らによって内蒙古自治軍がつくられているし、また32年2月6日には「満蒙建設に伴ふ蒙古問題処理要綱」が決定されている。同要綱には、「満州国」に蒙古人のための自治省をつくり、将来は「満州国」の外廓をなす錫林郭爾盟・察哈爾部などを合流させてゆこうとする構想が示されている。なお内蒙古自治軍は32年2月25日、熱河軍と衝突、松井大佐も戦死するという惨敗を喫し解体しており、内蒙工作も熱河作戦まで具体的な進展はみられなかった。

2) 、3)、4)

『現代史資料8、日中戦争(1)』443―6頁参照。


  ここで重要なことは、関東軍が「親日親満勢力ノ扶植」という観点から、熱河省をこえて、内蒙と華北の二方面に進出を企てているという点であり、以後の関東軍は、内蒙工作と華北工作とを相互に連動するものとして捉えるようになり、そのことが、日本の対中国政策全体に大きな影響を与えることになるのであった。

  もちろん、北京・天津の前面にまで関東軍が迫っているという、この時点では、内蒙問題より華北問題の方が政治的焦点となっていたことは云うまでもない。しかも天津周辺には、義和団事件議定書を根拠として、もう一つの日本軍・支那駐屯軍(通称「天津軍」平時兵力1,800)が存在しており、関東軍と天津軍の工作が競合することによって事態は一層複雑になっていた。すでに天津では、「満州建国」に呼応しようとする陰謀が行われていたことは前にも触れたが、天津特務機関は関内作線に際しても、再び華北親日政権樹立の策動を起し、関東軍の軍事行動がこの策動を支援する形で展開されることをも要求していた。すなわち、4月11日、天津特務機関は関東軍参謀長に対して

 

「当方ノ工作発動ノ時期ハ本月20日稍前トナル見込ナルカ、発動ニ先立チ貴軍ノ戦場追撃部隊カ長城ノ線ニ引揚クル時ハ却テ悪影響ヲ及ホス虜アルニ依リ、成ルヘク最前線ヨリ撤退ノ気勢ヲ示ササル様後配慮ヲ煩シ度、尚古北口方面中央軍ニ対スル爆撃ハ同月15日頃ヨリ20日頃迄ノ間ニ於テ実施セラルルコトヲ希望ス1)


と打電している。関東軍側はこの要請を基本的に諒承するとともに、4月26日には関東軍参謀副長の名で(参謀長は上京中)、参謀次長に対して次のような意見を具申した。

 

「平津地方ニ蒋介石政権ノ延長ニ非ル別個ノ政権樹立セラル満州国ニ対スル直接間接ノ策動特ニ熱河省境ニ対スル軍事行動ヲ停止スルコトハ関東軍ノ最モ希望スル所ニシテ、之カ為段祺瑞ヲ押スモ閻錫山ヲ引出スモ敢テ不可ナシト考フ、但シ天津ノ施策ハ目下相当進歩シアレハ今直チニ其ノ施策目標ヲ変更スルコトハ一考ヲ要スヘク、暫ク北支ノ形勢ヲ静観シタル上貴方ノ施策ニ着手スルヲ適当ナリト考ヘアリ2)

 

1)、2)

関東軍参謀第2課「機密作戦日誌」(『現代史資料7、満州事変』529―30、534頁)


  天津特務機関の計画は、宋哲元・張作相などを動かし、張敬堯が北京でクーデターを行うのを合図に、旧軍閥系軍隊で北京を占領し親日政権を樹立、その頭首に呉佩孚を据えるという筋書 1)だったようである。同時に同機関は、石友三による傀儡軍の編成を企てており2)、関東軍作戦区域には、丁強軍、石友三軍という二つの傀儡軍が出現することになった。前掲の関東軍意見は(その後半は、陸軍中央部に段、閻などを引き出す画策があることを推測させるものであるが)、頭首が誰であれ、ともかく親日政権を樹立すべきだとして、この計画を強く支持したものであり、軍中央部もまた、参謀次長から現地軍に対する指示として、5月6日次のような「北支方面応急処理方策」を送付している。

 

「関東軍ノ武力ニ依ル継続ヲ基調トシ、且之ニ策応スル北支施策トニ依リ、現北支官憲ノ実質的屈伏若ハ其分解ヲ招来シ満支国境付近支那軍ヲ撤退セシメ該方面ノ安静ヲ確立ス (中略) 支那側ノ停戦策動ニ対シテハ依然内外各方面一致シテ厳然タル態度ヲ明示スルト共ニ北中南支那各方面ニ於テ夫々分立的傾向ヲ愈々助長スル如ク施策ス3)


  すなわち、軍中央部もまたこのとき、関東軍の関内作戦の圧力と天津特務機関の謀略によって華北を国民政府から分離し、そこから全中国分裂化を推進するきっかけを握み得るかもしれないという期待をいだいたとみられる。

1)

前掲「機密作戦日誌」4月18日、25日、30日、5月7日、12日の項などを参照(『現代史資料7、満州事変』530、534、536、544、547頁)、また呉佩孚工作については、例えば桑島天津総領事から、5月9日天津特務機関の大迫中佐が呉と会談し「差当リノ運動費トシテ5万元ヲ交付シ張作相立ツニ於テハ呉モ直ニ右運動ニ加ハル諒解ヲモ取付ケ、爾来板垣一派ハ当地ニ於テ百万元提供等ノ条件ヲ以テ極力張ノ奮起ヲ説得シ居ル」旨の情報が寄せられている。(外務省文書、5月16日発、桑島総領事より内田大臣宛、第272号電)

2)、3)

前掲「日誌」5月6日の項参照(同前、543頁)


  しかし5月7日、クーデターを起こす筈の張敬堯は逆に北京で暗殺され、結局天津機関の謀略は不発に終り、関東軍も国民政府側と停戦協定を結び、事態を収拾するほかはなくなっていった。中国側では蒋介石は当面日本の要求に妥協する方針をとり、前年の下野・外遊により帰国した汪兆銘に行政院長復職を求め(3月30日就任)、また華北問題の処理については親日派の黄郛を起用することとし、5月3日の中央政治会議では、黄郛を委員長とする行政院駐平政務整理委員会の設置が決定されている(6月17日正式成立)。そして4月下旬からは中国側こうした汪―黄体制のもとで停戦のための日本側との接触を開始していた。天津機関の謀略に期待をかけてこうした動きを無視してきた関東軍や陸軍中央部も、これ以上の戦争拡大の準備はなく、結局、5月31日、関東軍代表・参謀副長岡村寧次少将と国民政府軍委員会北平分会代表・総参謀熊斌中将との間で、停戦協定が締結されるに至っている1)

1)

協定文及び経過については、関東軍司令部「北支に於ける停戦交渉経過概要」参照(『現代史資料7、満州事変』52―528頁)。


  塘沽協定と通称されるこの停戦協定は、関東軍側の要求を前面的に受けいれたものであり、長城線の南側に停戦ライン(地図参照)を設け、中国軍はその西あるいは南側に撤退し、以後しの線を越えて前進することはしないという点を内容とするものであった。つまり長城線の南側に停戦区域(「戦区」と通称)を設け、中国軍の撤退を飛行機などで確認した後で、関東軍は「自主的ニ概ネ長城ノ線ニ帰還」するという形で停戦が実現されたのであった。さらに日本側はこの協定を機として、「満州国」の存在を実質的に中国側に認めさせようとし、以後関東軍は前記政務整理委員会との間で、「満州国」と中国との間の鉄道・郵便・税関などの連絡の実現をはかってゆくこととなる。そして現地事務当局レベルでの協定という形で、34年6月1日より無電協定、同7月1日より通車協定、35年1月10日より通郵協定が実施されていった。

  塘沽協定以後のこうした動向は、「満州国」問題を事務的レベルでの交渉に押し込めておいて、日中両国が正面からはこの問題に触れないこととすれば日中関係改善の道がありうるのではないか、という期待を生じさせることとなった。次節でみる広田外交は、こうした期待に一つの根拠を置くものと云えた。

  しかし他面からみれば、この協定は日本軍に新たな攻撃に出る口実と拠点を与えるという側面をもつものであった。関東軍はまず、協定第一条の中国軍は停戦ラインをこえて前進せずという規定に附加された「又一切ノ挑戦攪乱ヲ行フコトナシ」との付則は、華北における排日運動全般を禁止するものだとし、従って第二条に云う飛行機による視察は、たんに中国軍の戦区からの撤退のみでなく「挑戦攪乱」行為全般の監視のために行いうるという解釈を押し出していった。のちの外交交渉で、「華北自由飛行」として問題化するのはこれである。さらに協定第四条の、停戦区域内の治安維持には中国側警察機関があたるとの規定には「右警察機関ノ為ニハ日本軍ノ感情ヲ刺激スルカ如キ武力団体ヲ用フル事ナシ」との条件がつけられており、関東軍はさきにふれた丁強(李際春)軍を「中国側警察機関」として、つまり中国側が経費を負担して、再編することを強要していった1)。また協定第三条の、中国軍の停戦区域からの撤退を確認した後で、日本軍も「自主的ニ概ネ長城ノ線ニ帰還ス」という規定についても、関東軍側は「停戦協定ニハ概ネ長城線トアリ、或ル場所ニ於テハ日本軍ハ当然長城以南ニ駐屯シ得ルノ権利ヲ有スルモノナリ」との解釈を押しつけ、山海関、石門砦、建昌営、抬頭営、冷口、喜峰口、馬蘭峪、古北口の6箇所で駐屯に必要な土地建物の貸与を認めさせたのであった2)

1)
2)

関東軍司令部、昭和8年7月6日「大連会議議事録」による。(外務省文書所収)
関東軍司令部、昭和8年11月15日「停戦協定善後処理ニ関スル北平会議議事録」による。(外務省文書所収)


  これらの事実は、戦区を傀儡勢力の支配下に置こうとする関東軍の意図を示すものであったが、同様の意図は、察哈爾省東部・多倫地区に進出した李守信軍の問題について、より露骨な形で示されていた。33年11月の、停戦協定善後処理会議に際して、関東軍は次のような方針を決定している。

 

「察東問題ニハ成ルヘク触レサル様注意スル事緊要ナリト雖モ、若シ支那側ヨリ本問題ニ言及スル場合ニハ左ノ如ク応酬ス
『目下察哈爾方面ハ極メテ平穏ニ維持セラレアルヲ以テ、北支政権ハ暫ク現状ヲ黙認シ専ラ河北省戦区内ノ整頓ニ努力スルヲ可トスル旨適宜申渡ス』
支那側ニ於テ右応酬振リニ満足セス強テ察哈爾ニ関スル言質ヲ求メムトスルニ於テハ左ノ如ク言明ス
一.停戦協定線ノ延長以北ノ察哈爾省ニハ正規軍隊ノ進入ヲ許サス
二.北支政権右ノ地帯ニ対シ何等カ企図ヲ有スル場合ニハ李守信ト協議セラレ度シ1)


  実際の会議では、中国側(黄郛)がこの問題をとりあげたが、深入りせず、従ってこの後段の「言明」はなされなかったが、そこにはすでに察哈爾省から国民政府の勢力を駆逐しようとする意図が明白に示されていた。これらのことは、関内作戦に呼応する天津特務機関の親日華北樹立工作は失敗に帰したとは云え、関東軍は停戦協定とその実施過程を通じて、華北と内蒙に自らのつくりあげた傀儡軍を植えつけ、侵略拡大の根拠を獲得したことを意味していた。

1)

関東軍参謀部、昭和8年11月2日、「察東問題ニ関スル応酬要綱」(前掲「北平会議議事録」別紙)


 要するに熱河作戦から塘沽協定、さらにその善後処理とつづく一連の過程は対中国政策についての2つの方向の可能性を示しているようにみえた。その1つは、この過程で中国側では汪=黄体制が登場し、日本側では関東軍の「満州建国」計画が一応完成したという日中双方の条件を前提として、満州問題を棚上げした形での親善関係の回復の道を探ろうとする方向である。そしてもう1つの方向が、熱河・関内作戦がともかくも華北停戦区や察東特別区を獲得したことを評価し、親日地方政権樹立の策動をつづけようとするものであることは云うまでもないであろう。

  この2つの方向は明らかに相互に矛盾するものであった。とくに第1の方向を実現するためには、第2の方向を抑圧し後退させて、折角出現した汪―黄体制、対日宥和派の立場を支援することが、どうしても必要となる筈であった。



3広田外交の基本的性格

 1933年9月14日、「満州国」承認、国際連盟脱退を果たし「焦土外交」の名を残した内田康哉に代わって、「和協外交」を唱える広田弘毅(前駐ソ大使)が外務大臣に就任した。そして10月3日からは新外相を迎えて首・蔵・外・陸・海各相による五相会議が、5回にわたって開かれ、軍事・外交・財政問題の調整をめぐる討議が行われたが、この会議では広田外相と荒木陸相との対立が1つの焦点となったと伝えられた1)。両者の対立がどのような形で妥協したかは明らかでないが、この五相会議でともかくも「国際関係ハ世界平和ヲ念トシ外交手段ニ依リテワガ方針ノ貫徹ヲ計ルコト2)」という一般方針が確認されたことは、軍部から自立した外交を復活させようとする広田の姿勢を示すものとうけとられた3)

1)

東京朝日は五相会議について「外交工作の限度に見解尚一致せず」(10・17)と報じ、その主要な対立は、対ソ関係において平和的外交工作の余地ありとみるか、対ソ関係は益々悪化するとみて、「国防第1主義の建前」をとるか、という点にあったと伝えている(10・18)。

2)

後述の外交方針をも含めて「五相会議決定の外交方針に関する件」参照(外務省編『外交年表並主要文書 』下巻、275−7頁)。

3)

東京朝日は、広田の活躍を「内田前外相当時その存在を疑はしめた霞ヶ関のために万丈の気焔を吐き、軍備工作に対する外交工作の独立を見事に打ち樹て得たのである」(10・22)と評していた。


  五相会議決定は、対中国政策の面でも、これまでの主流を占め、また陸・海軍側から改めて主張されてもいた 1)「中国の分立的傾向を促進する」という方向を抑えようとする姿勢を示した。そこには「帝国指導ノ下ニ日満支三国ノ提携共助ヲ実現」、「北支地方ノ好転機運ヲ助成」、「反日政策ヲ放棄シ排日運動ヲ根絶セシムルタメ常ニ厳粛ナル態度ヲモツテコレニ臨ミ」など、中国に対して日本の優越的地位を認めさせようという志向が表面に打出されているが、同時にまた重要なことは「最近帰任セル蒋作賓公使ガワガ方ニ対シ何等力期待又ハ希望等ヲ申出ルコトアル場合」を想定して、「支那側ニシテ現実ニ誠意ヲ示スニオイテハワガ方マタコレニ相応ズル好意的態度ヲ執ルヲ可トス」という政策が示されたことであった。これは、「満州建国」方針の決定以後初めて、中国国民政府との間の外交交渉を再開しようという方針が公式に決定されたことを意味した。そうした観点から云えば、この方針の前半は、軍部の要求をも中国の地方政権にではなく中央政府に向けさせようとする意図を示すものとも読める。

1)

五相会議に対して軍部側で用意した文書としては、海軍の「対支時局処理方針」(9・25)と陸軍の「帝国国策」(10・2)が残されているが、いずれも対中国政策に関しては、さきにあげた32年8月27日閣議決定の、中国における地方政権の分立状態を促進しようとする方針をうけつぐものであった。(『現代史資料8、日中戦争(1)』9−13頁)


 
しかしこのとき広田新外相が、中国自体に対する積極的政策を用意していたというわけではなかった。前掲の五相会議決定にみられる「両国関係ノ改善ヲ焦ルガゴトキ印象ヲ与フルハコレヲ避クルヲ要ス」との一節も、軍部の要望1)とともに広田の消極的態度をも反映したものと云えよう。当時広田の当面の関心は、すでにこの年(33年)6月から開始されていたソ連との北満鉄道買収交渉を成立させて、日ソ関係の緊張を緩和することと、34年の予備会議から35年の本会議へと続く筈の海軍軍縮交渉とに向けられていた。そしてこの海軍軍縮問題をめぐって、かつてのワシントン会議におけるように、アメリカが極東問題に積極的に介入してくることを憂慮し、それに対抗するためには中国との間に何らかの了解を成立させておくことが必要だというのが、彼の中国政策の発想の仕方であったと思われるのである。

1)

荒木陸相は10月7日の車中談で「支那の問題についても広田新外相になったからといって日支親善等とあまりあせり過ぎてはいけない」(東京朝日、10・8付夕刊)と述べている。.


  五相会議決定の外交方針においても、「1935年前後ニオケル国際的紛糾ヲ未然ニ防止」するという観点が強く打出されており、「満州事変ニヨリ国交関係ニ変態ヲ来シ……将米アルイハ国際会議ニオイテ互ニ連結シテ帝国ニ当ラントスル」かもしれない中国・ソ連・アメリカのうち「出来得ルダケ多クヲワガ方ニ牽付クルヲ得策トス」という点が強調されていた。そしてそのための前提としてまず中国と列国との「連結」を「未然ニ防止」することから広田の対中国政策は出発するのであった。

  すでに33年5月には、渡米した国民政府財政部長宋子文が5千万ドルの綿麦借款(アメリカから綿花及び小麦を輸入し、その処分代金を中国側が借款として利用する)を成立させ、また同じ頃、国際連盟から対中国技術援助のためライヒマンが中国に派遣されるなどの動きがあらわれていたが、34年3月に国際連盟からさらにモネーが訪中するや、広田外相は、須磨南京総領時事に対して「支那ノ建設事業ニ対スル国際合作ハ……立案も実行も共ニ日本ヲ主トスヘキモノ」であり「日本ノ権威ト実力トヲ『バック』トスルコト」なしには有効に行いえないというふうにモネーを説得することを命じた。そしてさらにこうした問題に対する一般的指針を次のように指示した。

  広田はまず日本が「東亜二於ケル平和秩序ノ維持」を「自己ノ責任ニ於テ単独ニ之ヲ遂行スルコト」は、日本の国際連盟脱退からくる「当然ノ帰結」であるとし、従って「支那側ノ日本排斥運動ハ勿論以夷制夷的ノ他国利用策ハ終始一貫之ヲ打破スルニ努メ」ねばならないが同時に「以夷制夷的」の政策を成り立たせる列国の中国援助にも反対しなければならないと主張する。

 

「満州上海事件後ノ情勢ニ顧ミ若シ此ノ際列強カ支那ニ対シテ共同動作ヲ執ルコトアラハ右ハ其ノ形力財政的、技術的其ノ他如何ナル名目ヲ以テスルニ拘ラス必ス政治的意味ヲ包含スルコトトナルヘク、其ノ結果ハ直接支那国際管理ノ端ヲ啓キ又ハ分割若ハ勢力範囲設定ノ緒トナルコトナシトスルモ支那ノ覚醒及保全ノ為メ不幸ナル結果ヲ招ノ虞アリ、帝国ハ主義トシテ之ニ反対ヲ表セサルヲ得ス。(中略)
以上ノ見地ニ基キ現下支那二対スル外国側ノ策動ハ共同動作ハ勿論各別ノモノト雖(支那力依然トシテ外国ノ勢カニ依リ我方ヲ牽制セムコトヲ夢見ツツアル事情ニモ顧ミ)一応之ヲ破壊スル建前ニテ進ムコト肝要ナリ」


  この方針は4月17日、天羽英二外務省情報部長が公表(いわゆる天羽声明)したため国際的にも問題化したが、要するにこの段階での広田外交は、中国が対外援助を獲得する道を「破壊」しつつ、中国の屈伏を待つ、という性格のものであったと云えよう。そして広田は当面、塘沽協定善後処理の成り行きを見守るという態度に出たのであった。

  塘沽協定後、日本側が提起した「満州国」との通車・通郵等の問題は中国側当事者を箸るしく困惑させ、責任者・黄郛は4月9日から13日にかけて南昌で蒋介石・汪兆銘とその対策を協議しているが、この三巨頭会談により、「満州国」不承認の範囲内でこれらの問題を処理するという原則が決定された。ここでの中国側の方針が、日本の侵略の拡大を押しとどめることを先決とするものであり、満州問題の解決は将来のこととして、この際塘沽協定善後処理では譲歩しても、ともかくこれ以上の侵略はしないという原則を日本に認めさせようとするものであったことは、三巨頭会談直後の汪兆銘の次のような提議からも明らかであった。

  4月18日、南京で有吉公使と会談した汪兆銘は、「広田外相ノ国際和平工作ニ対シテハ自分モ大ニ敬服シ居リ就テハ此ノ機会ニ何トカ両国関係ノ改善促進ノ途ヲ講ジタキ希望アリ」と切り出し、関係改善のための二つの原則を提示した。その第一は「両国ハ共存共栄スヘキモノタルコト」つまり日本は中国に対し英国が印度に対するような態度をとらず、両国関係を対等のものとするという一般的原則であり、第二のものは「両国ハ満州問題ヲ将来誠意且ツ和平的方法ヲ以テ解決」するという満州問題処理に関する原則であった1)

1)

外務省文書、須磨南京総領事より広田大臣宛、4月20日発、第368号電による。


 
これに対して有吉は「満州国ノ存在ハ既成ノ事実ニシテ如何トモ変更スル余地無」しと駁したが、汪もまた中国側から云えば「満州問題解決セサル限リ国民ノ感情ハ止マス……親善モ困難ナル事態」であることを強調し、「例ヘハ満州問題ハ両国間ニ於ケル海上ノ暗礁ト等シク之ヲ取去ル必要在ル処、今直ニ取り去ル事ハ困難ナルニ付該暗礁ヲ一時其保留シ置キタル儘船ヲ通航セシメントスル次第ナリ、即チ右ノ如キ原則ヲ定メ置クハ国民モ拠リ所力出来ル次第ナリ」とその考え方を明らかにしていた。

  広田はこの提議に対してすぐには何の具休的反応も示さず、北満鉄道をめぐる対ソ交渉・軍縮予備交渉などに取り組んでいた。しかし34年10月から12月にかけてロンドンでの海軍軍縮予備会談が不調に終り、12月29日、ワシントン条約廃棄の通告を行う頃から、広田も対中国政策に積極的になり始めたようにみえた。35年1月22日、第67議会での外相演説に於て、広田は軍縮問題に関し「不脅威・不侵略の原則」を唱えたが、それは同時に中国への動きかけの布石とも観測され、東京朝日は次のような記事を掲げていた。

 

「外相は単に議会において不脅威不侵略の原則確立の要を強調するのみならず、実際問題としても若し支那側において応諾するにおいては、曰支直接交渉において不脅威不侵略の原則を実現すべき曰支両国間における単独的政治協定を締結する用意をも進めつつある実情にある。……しかも外相が右の如き積極的熱意のもとに対支政策の建直しを決意した理由は、ロンドン海軍予備交渉を通じ英米殊に米国の態度は、対支問題に関し日本と意見の一致を見ざる限り、単に海軍問題の専問的技術的見地のみによっては到底新海軍協定の成立を困難視する関係にあったことを痛感したによるものと信ぜられる」(1・19)


  そしてこうした広田外交の重点が日中関係改善に移される気配に応じて、中国側も積極的に動き始めた。蒋介石は1月29日には公使館付武官・鈴木美通中将と、翌30日には有吉明公使と会談したが、これは「満州事変」以後蒋の発意によって行われた初めての会談として注目された。さらに2月19日、蒋・汪らの意をうけて、帰任の途次来日した国際司法裁判所判事・汪寵恵は、岡田首相をはじめ軍部有力者とも会談、26日離日に際しては広田外相に対し、(1)日中関係の平和的処理、(2)両国の対等関係の確立・不平等条約の撤廃・在華日本軍隊の撤退、(3)中国は排日を取締り、日本は中国の地方政権を支持しない、ことなどを申入れた 1)。またこの間、 2月20日南京の中央政治会議では、汪兆銘行政院長が、中国の統一と建設には長期の平和を必要とするとして日中関係改善を説き、国民政府は、排日運動取締りを全国に通達している。

1)

上村伸一箸『日本外交史19、日華事変(上)』、88頁参照。


  これに対して広田外相も、2月21日の衆議院臨時利得税委員会で「私一身としては蒋介石氏の心事や態度にみじんも疑惑を持った事はない1)」と述べ、また3月1日の同決算委員会では、 中国との関係が「絶対に好転しつつあることは疑の余地がない2)」などと述べるなど「親善」のムードを高めるのに努めた。しかし、広田外相によって現実に実現されたことは、35年5月 になって、さきに述べた汪寵恵から提案されていた、曰中間で公使館を大使館に昇格させたということだけであった。いわば広田外相は軍部から独立した外交政策を復活させるかのような期待を抱かせながら、一年以上も積極的な対中国政策は何一つ実行しなかったわけであり、この間、実際には、出先軍部と駐平政務整理委員との交渉に原則的承認を与えていたのであった。

1)、2)

東京朝日、2月22日、3月2日、




4対中国政策の行詰り


 広田外相が「日中親善」ムードをふりまいていたとき、関東軍をはじめ出先軍部のなかには、 国民政府の力を弱め、親日地方政権をつくろうとする企図が一貫して強まりつつあった。 塘沽停戦協定の当事者である関東軍は、当初、駐平政務整理委員会(同軍では華北政権と通称していた)の傀儡政権化をねらっており、34年2月9日には北平駐在武官に対し、通車・通郵問題実現を黄郛に督促すると共に「同人南下ノ際、北支政権ノ権限拡大強化及国民党部ヲ北支ヨリ駆逐スルコトニ付蒋介石ヨリ充分ノ保障ヲ取付クル様激励 1)」せよと指示している。

1)

外務省文書、菱刈駐満大使(兼関東軍司令官)より広田大臣宛、第215号電34年2月15日発。


  しかし黄郛は同委員会を国民政府の下部機関とする原則を変えず、また前述の蒋・汪・黄3巨頭会談の決定に従って、「満州国」不承認の態度を貫いたため、交渉は難航し軍部の不満は次第に高まっていった。まず通車問題は、「満州国」鉄路総局と、中国の北寧鉄路局が半額づつ出資して設立する第三機関・東方旅行社が運営にあたり、毎日一回北平、奉天の双方から直通列車を運転する(乗員は山海関で交替)こととし、34年7月1日より運転が開始されたが、次の通郵問題は、関東軍側が「通郵ニ関スル事務ハ双方郵政機関ノ間ニ之ヲ行フ 1)」として、通車問題におけるような第三機関の設立に反対したため紛糾がつづいた。通郵問題に関する正式会談は9月28日から開始され、10月26日には関東軍側は前記郵政機関問題のほか、「通郵ハ満州国ナル文字ヲ表示セサル新切手ニ依り実施」するが「在来ノ切手ヲ使用スル場合ニモ正規ノ 料金ヲ納付セリト認メラレルモノニ対シテハ不足税ヲ徴収セザルコト」(この部分も中国側反対)などの最終案を提示した。これに対しては、国民政府内部から強い反対があり、11月14日の中央政治会議では否決の形勢さえみられた。

1)

通郵交渉に関しては、軍令部「支那特報」第1号(昭和10年1月15日)による。(外務省文書所収)


  この問題は結局、蒋介石、汪兆銘らの斡旋により、11月24日中国側が関東軍案を基本的に承認、35年1月10日から通郵開始されたが、この間、中国側の強硬態度が伝えられていた11月16日、中国各地の陸軍武官は上海に集合して数日間にわたる武官会議を開いており 1)、その内容については、北平からは次のような情報が伝えられた。すなわち同会議はその「申合セトシテ『国民政府ヲ打倒シ親日区域ヲ拡大スルノ国策ヲ遂行スルコト』ヲ関係方面へ通電セル趣ナルガ、其ノ具体手段トシテ西南援助及反蒋運動ヲ鼓吹セントスルモノト察セラル、(現ニ当方面ニハ某々機関関係者ト黄郛反対ノ支那要人等ト結託シテ北支独立運動ニ従事シ居ル者アリ、既二戦区内玉田二於ケル石友三部下ノ保安隊二3万元ヲ提供セル支那要人アルヤノ聞込アリ)」2)

1)
2)

外務省文書、有吉公使より広田大巨宛、第886号電、34年11月27日発。
同前、北平・若杉書記官より広田大巨宛、第449号電、34年12月12日発。


  しかもこうした方向は、出先軍部のみでなく、中央にも浸透しつつあった。34年12月7日、 陸海外三省の関係課長間で決定された「対支政策に関する件 1)」をみると、 総論的部分では 「支那をして帝国を中心とする日満支三国の提携共助に依り東亜に於ける平和を確保せんとする帝国の方針に追随せしむ」、「外国側の対支援助を極力排撃すること」など、さきに述べた五相会議決定や天羽声明の線を基本に置きながらも、曰中関係改善については「我が方より進んで和親を求めず」と極めて消極的態度を示した。そして各論的部分になると、広田外相のふりまく「親善」ムードとはうらはらな国民政府敵視政策が露呈されてくるのであった。

1)

『現代史資料8、日中戦争(1)』22―24頁。


  まず「対南京政権方策」は「国民政府の指導原理は帝国の対支政策と根本に於て相容れざるものあるを以て、南京政権に対する方策の基調は、同政権の存亡は同政権に於て曰支関係の打開に誠意を示すか否かに懸ると云ふが如き境地に窮極に於て同政権を追込むことに存する」とする、ついで「対北支政権方策」については「北支地方に対し南京政権の政令の及ばざるが如き情勢」をつくり出すことを希望するが、その急速な実現は「我方に於て巨大なる実力を用ふるの決意なき限り困難」であるとし、当面の政策を次のように述べている。すなわち、

 

「差当り北支地方に於ては、南京政権の政令が北支に付ては同地方の現実の事態に応じて去勢せらるる情勢を次第に濃厚ならしむべきことを目標とし、……我方権益の維持伸張に努むると共に少くとも党部の活動を事実上封ぜしめ且北支政権下の官職等をして我政策遂行に便なる人物に置き替へしむる様仕向け、以て北支地方の官民が同地方に於ては排日は行はぬものなりとの先入的の観念を持つに至る様の空気を醸成」してゆくことが必要だというのであった。


  つまりここで示されている政策構想は、国民政府から全く独立した華北政椎をつくりあげることは困難としながらも、国民党機関を排日の根源として排除し、日本の「政策遂行に便なる人物」に華北の実権を与えるよう国民政府を追いつめてゆこうというものであった。この方針が決定された約一か月後の35年1月4日には、大連で新任の板垣征四郎参謀副長を中心に、天津・北平・上海等の駐在武官をも加えた関東軍幕僚会議が開かれており、こうした方針の実行について協議されたものと推測される。その内容を直接に示す資料はないが、当時の新聞はこの会議の目的を「最近蒋介石政権の対日態度は何等誠意の認むべきものなく、排日侮満の底意を包蔵して改めず……蒋介石政権の分派たる北支政権も又内面はこれと一体となって我が互譲的態度を裏切ること再三ならず」という観点から「対支政策の再今味」をなすことにある、と報じていた 1)

1)

東京朝日、1月5日付夕刊。


  同時にまたこの頃には、大規模な軍備拡張計画の実現のためには、満州の資源だけでは不足であり、華北の資源をも確保しなければならないという要求が強まっており、こうした軍事経済的観点が華北支配の欲求を一層拡大強化しているという点にも眼を向けておかねばなるまい。 32年1月以来、満鉄経済調査会委員長として、関東軍の満州経済統制計画の立案にかかわってきた十河信二が、34年7月同委員長を辞任し、以後興中公司の設立 1)の中心となってゆくことは、この満州から華北への経済要求の拡大に見合う動きであったと云うことができる。また35年3月30日の日付のある「関東軍対支政策」には次のように書かれてもいた。

 

「北支ニ対シテハ実質的経済カノ進出ニ依り日満卜不可分ノ関係ヲ逐次増強スルニ努ム、之ガ為メ左ノ如ク施策スルヲ要ス
1. 停戦協定及附属取極事項等ニヨリ我己得権ヲ公正ニ主張シ以テ北支那政権ヲ絶対服従ニ導ク
2. 将来民衆ヲ対象トシテ経済的関係ヲ密接不可分ナラシムル為メ、綿鉄鉱等ニ対シ産業ノ開発及ビ取引ヲ急速ニ促進ス2)


  要するに、34年末から35年初めにかけての時期は、軍部のなかに、経済的要求をも含めて、新たな華北侵略の企図が明確になってきた画期ともみることができよう。いわば華北は、たんなる「満州国」の外廓陣地ではなく、軍需資源の補給給基地として、従ってより広大な地域を指す言葉として捉え直されるようになるのであった。

1)

興中公司は資本金1千万円、金額満鉄出資の国策会社であるが、その設立経過は次の如くであった。「興中公司設立計画は、関東軍に、在支駐在武官及満鉄3者の一致意見により、1935年(昭和10年)初頭より設立計画を進め、3月満鉄社議決定の上直に満州国駐在特命全権大使経由総理大臣に認可申請を為し同年8月2日附正式認可あり、12月20日大連にて創立総会を開くこととなった。興中公司は上述の如く対支経済工作の為の一元的統制機関として生誕したのであって、この意味にて日本の対支経済工作の組織に一転機を画するものであり、此の方針は1938年(昭和13年)11月北支那開発株式会社の創立せられる迄継続したのである」(大蔵省編『日本人の海外活動に関する歴史的調査、北支編』35頁)。

2)

秦郁彦著『日中戦争史』(増補版)327頁。


  このような華北への侵略意図の拡大は、関東軍においては内蒙工作の強化と並行するものであったが、さらに内蒙方面から中国軍を追いおとすことによって、華北への圧力を生み出そうとすることも意図されていたように思われる。すでに関東軍は塘沽協定調印直後の33年7月16日には、蒙古側行政機関に日本人指導者を入れ、特務機関を増設し、「対支排撃の色彩を有する自治政権の樹立を促進」する方針 1)を定め、また34年1月24日には、殆んど漢人種より成る李守信軍を逐次蒙古人と入れ替え、錫林郭勒盟各旗固有の護衛兵を蒙古自衛軍に強化するための経費計画2)なども作成していた。

1)

関東軍参謀部「暫行蒙古人指導方針要綱案」(『現代史資料8、日中戦争(1)』447−8頁)

2)

関東軍参謀部「対察施策」(同前468―470頁)


  しかしこうした内蒙工作を実現させるには、同地方より中国軍を撤退させることが必要であり、関東軍はそのための機会をねらっていたと思われるが、34年12月、宋哲元軍が察哈爾省沽源方面より熱河省に進入したとしてその撤退を要求、翌35年1月23日から24日にかけて宋軍と衝突し、之を長城線外に駆逐した 1)。この事件は日本側では殆んど注目されなかったが、中国側は強い関心を示し2)、駐平政務整理委員会はこの機会に察東方面全域にわたる問題の検討を提議した。しかし既成事実の積み重ねをねらう関東軍は現地交渉を主張し、結局2月2日宋軍に対し「支那側は将来誓って兵を満州国に入れ関東軍を脅威し若は関東軍の神経を刺戟するが如きことは勿論密偵其の他も満州国内に進入せしめざること、……尚支那側が陣地を増強し若は兵力を増加するが如き行為あるに於ては関東軍は軍に対する排戦的行為なりと見做すこと」3)などの要求を承認させている。そしてこのことは、察哈爾省に駐屯する宋哲元軍に対して、大きなくさびを打ち込んだことを意味した。

1)、3)

『現代史資料8、日中戦争(1)』76頁。

2)

例えば、35年1月30日、有吉公使と会談した際、蒋は「(広田)外相ノ論説ニ共鳴スル為……内外ニ声明スル決心ヲ固メタルカ其矢先察哈爾事件勃発シ中国民心動揺セル為己ムヲ得ス一時之ヲ思ヒ止リタル次第」と述べ、有吉がこの事件は「地方的ノ小問題」と口にするや、同席した黄郛は「支那トシテハ重大問題」と言葉をはさんだという。(外務省文書、有吉公使より広田大臣宛、第80号電、35年1月31日発)


  広田外相は、こうした状況に何の対策も講じないままに、5月17日在中国公使館の大使館昇格を発表したが(大使は有吉公使の昇任)、その3日後の5月20日には、これに対抗するかのように関東軍は孫永勤軍討伐のためと称して、長城線をこえて、停戦区域への出兵を強行した。 孫永勤は34年12月反満抗日分子を糾合して熱河省に進入、日本軍に撃退されて停戦区域に逃げ込み、それを中国側官憲が援助しているというのが、関東軍の云い分であった 1)

1)

参謀本部「支那時局報」第25号、35年5月22日(外務省文書所収)


  この関東軍の行動に呼応して数日後には天津軍も動き始めた。天津軍の場合には、天津日本租界で5月2日夜、「国権報」社長胡恩溥が、ついで3日未明「振報」社長白楡桓が暗殺された事件をとりあげ、5月25日この暗殺事件が国民党機関の指揮のもとに行われたことを確認したとし、中国側に強硬な要求をつきつけることを決定したものであった。つまり、この両新聞は天津特務機関の補助していたものであり、「日本軍の使用人」に対するテロ行為は、塘沽停戦協定違反であるというのが、その理由とするところであった。この事件そのものに対して天津軍の要求は、于学忠河北省主席の罷免、国民党機関・軍隊の平津地方からの撤退など過大なものであったが、 陸軍中央部も外務省と協議の上、6月7日「北支交渉問題処理要綱」 1)を決定して天津軍の要求を支持、中国側もこれに屈し、6月10日、軍事委員会北平分会委員会何応欽はこれらの要求を実現することを約した。(日本では天津軍司令官梅津美治郎の名をとって、梅津・何応欽協定と呼ばれるが、両者が協定に調印したというものではなく、天津軍の要求を中国側がに自主的な形をとって実行したものであった)

1)

『現代史資料8、日中戦争(1)』65−67頁。


  天津軍の要求が貫徹されるとひきつづき、今度は関東軍も同様な要求を中国側につきつけてきた。これも6月5日張北で日本軍特務機関員4名が宋哲元軍によって監禁されたという小事件を理由にして、察哈爾省からの国民党機関の撤退、塘沽協定の停戦ラインを北西に延長し(前掲地図参照)、その線以北からの宋軍の撤退等を要求、土肥原奉天特務機関長は6月27日に至り秦徳純察哈爾省主席代理にこの要求を認めさせた。この土肥原・秦徳純協定は、内蒙地方の掌握と共に、いわゆる梅津・何応欽協定で空白となった平津地方に宋哲元を押し出し、親日政権の基盤をつくろうとする意図を持つものであり、8月28日、国民政府が駐平政務整理委員会を廃止し、宋哲元を平津衛戍司令に任命したことは、こうした関東軍の策謀に屈したことを意味するものにほかならなかった。

  公使館の大使館への昇格という一見友好的な政策の直後から始められたこの関東軍と天津軍との連けい工作は、内蒙と華北を国民政府から切り離し、中国を分裂させようとする政策を大きく前進させるかにみえた。しかし実際には日本の対中国政策はここで二つの大きな障害に直面し、以後停滞したままで蘆溝橋事件を迎えたと云ってよい。その一つは、こうした軍部の露骨な政策によって、中国が決定的に抗日の方向に動き始めたということであり、もう一つは、イギリスの対中国援助にみられるように、日本の分裂政策に反対し中国の統一を促進しようという動きが現れてきたことであった。

  35年8月1日、中国共産党は抗日救国宣言を発表したが、国民政府内部でも、後退に後退をつづける親日派の対曰政策への批判は強まり、8月7日の中央政治会議では外交部不信任案が提出され、汪兆銘及びその直系が辞表を出すという事態にまで発展している。この時は蒋介石の慰留によって汪は辞表を撤回するが、結局11月1日には抗日派に狙撃されて重傷を負い、ついで12月25日には汪のもとで外交部次長として活躍した唐有壬が暗殺されるという形で、親日派の勢力は決定的に弱まってゆくことになるのであった。

  またこうした国民政府における親日派の没落は、広田外相が重視した筈の中国と列強との結びつきを阻止するという政策をも不可能とするものであった。35年2月、イギリスが列国共同借款による中国援助の動きをみせ始めると、広田は一貫して借款阻止の態度をとりつづけたが、イギリスは9月にはリース・ロスを派遣し、11月には幣制改革を成功させるに至っている。そしてこの間広田がなし得たことは、日本の中国への要求を、いわゆる「広田三原則」にまとめあげたということのみであった。

  この三原則作成の作業は、7月より陸・海・外三省間で始められ、10月4日に至り3大臣間の諒解として成立1)したが、その内容は中国に対し(1)排日言動の徹底的取締・欧米依存政策よりの脱却と対日親善政策の採用、(2)「満州国」の事実上の承認と接満地域での経済的文化的融通提携、(3)赤化勢力の脅威に対抗するため、外蒙接攘方面での協力、を要求するものであった。これは(1)排日の停止、(2)事実上の「満州国」承認、(3)共同防共と要約すること が出来るが、このうち「共同防共」がこれまでの対中国政策にみられなかった新しい要求であり、当初の関東軍の内蒙工作の擁護から翌年日独防共協定が締結されると、次第に中国に対するイデオロギー的呼びかけとして声高く叫ばれるようになるのであった。

1)

広田3原則の成立過程とその内容については、『現代史資料8、日中戦争 (1)』102−108頁参照。


 しかし、この3原則を中国側が実行した場合、日本が中国に何を与えるかについては全く触れるところがなく、日中関係打開に役立つ見込のあるものではなかった。中国側からはすでに9月7日、蒋作賓大使によって、(1)相互の完全な独立の尊重と不平等条約の撤廃、(2)両国間の真正の友誼の維持(相手国に対する統一の破壊、治安の攪乱、誹訪などを行わない)、(3)両国間の事件及び問題の外交機関による平和的解決(外交機関以外のものの行動或いは任意的圧迫手段の即時停止)という3原則1)が提出されていたが、広田は日本側3原則が承認されたのちでなければ、中国側3原則について話合うことはできないとし、結局交渉は物分れに終らざるをえなかった。

 

1)

中国側3原則とそれをめぐる広田・蒋会談については、外務省編『外交年表並主要文書』下巻、 304―308頁参照。


  この間、関東軍・天津軍などの出先軍部は、幣制改革による中国統一の進展に対抗するため、 華北五省(河北・察哈爾・山東・山西・綏遠)という広大な地域を一挙に国民政府から引き離そうとする策動を急いだ。すなわち、さきの宋哲元はじめ、河北の商震、山東の韓復渠、山西の閻錫山らを集めて華北自治を実現する、少くとも宋には自治宣言を出させようというのが、工作の中心となった土肥原の構想であったが、結局実現したのは、塘沽協定の停戦区域を地盤とした殷汝耕が、11月25日自治立言を発して冀東防共自治委負会の名乗りをあげたことだけであった。国民政府は、12月18日冀察政務委員会を発足させ、宋哲元をその委員長に任ずるという形で、宋の離反を防止し事態の収拾をしていった。すでに宋を平津衛戍指令の地位につけることに成功していた関東軍からみれば、事態は何も進展していないといってもよかった。翌36年からは、冀察政務委員会の傀儡化を進め、冀東政権と合体させるというのが、華北工作の当面の目標とされたが、それも何等の進展をみないうちに、盧溝橋事件を迎えるのであり、軍部の立場から云っても、対中国政策は35年の段階で完全な行き詰りに直面していたと云いうるであろう。



む す び


 以上みてきたことは、要約すれば、「満州事変」以後、1932年から35年の間に日本側で発想された対中国政策は、(1)親日、地方政権の樹立、(2)中国と列国との結合の切断、(3)共同防共という3種のものに過ぎず、そのいずれもが35年の段階で成功の可能性を失っていたということであった。従って日本がその方向を変えないならば、武力による問題の解決=全面戦争という方法しか残されていないことは明らかであった。
 しかも武力によっても、問題の解決が困難であることが明らかになってもなお、日本の戦争指導者の発想は、これらの政策の繰り返しの域を出ることが出来ず、戦争をとめどもなく続けてゆくことになるのであった。

 日中戦争が全面化した後で、日本側から打ち出された最初の戦争解決構想は、38年1月の「蒋介石政権を相手にせず」との声明であったが、この声明は日本がその占領地につくりあげた傀儡政権を育成してゆけば、蒋介石政権は一地方政権として没落してゆくというイメージにもとづくものであった。しかしこれが幻想にすぎないことが明らかになると、次に登場したのは「共同防共」を軸とする「東亜新秩序」の叫びかけによって相手を分裂ざせ屈伏させようとする策略であった。

 そしてそれでもなお、敵が屈服しないとなると、その抵抗の原因を外国の援助に求め、その援助をたち切ろうとする「援蒋ルート」切断政策の比重が高まり、やがてそれは、ヨーロッパでのドイツの勝利を媒介としながら、「援蒋国家」との対決に進み、新たな戦争に踏み込んでゆくことになるのであった。

  いわば日本は、その失敗に終った筈の3種類の対中国政策をくり返しながら、敗戦への道を歩んでゆくのであった。