『帝国議会誌』第48巻

1979年7月

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第八八、八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第八八回帝国議会 貴族院・衆議院解説
第八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説

第八八回帝国議会 貴族院・衆議院解説
終戦工作の模索
対ソ交渉、失敗に終わる
ポツダム宣言をめぐって
原爆投下とソ連参戦
降伏の過程
東久邇宮内閣と米軍の進駐開始
第八八回議会の召集
第八八回議会の状況

第八八回帝国議会 貴族院・衆議院解説



終戦工作の模索

 1945(昭和20)年6日12日、第八七回議会は、戦時緊急措置法・義勇兵役法などを成立させて閉会し、「本土決戦」のかけ声はこれを機に一層声高く叫ばれるようになった。しかしこのときすでに、沖縄での戦闘は絶望的な状態となっており、政界の裏面では、もはや戦争の継続を不可能とみて、戦争の終結のための方策を摸策する動きも具体化してきていた。

  第八七回議会での「本土決戦」論の背景をなしているのは、迫水書記官長・秋永総合計画局長官らによって作成され、6月8日の御前会議で決定された「今後採るべき戦争指導の基本大綱」であり、同大綱は「速かに皇土戦場態勢を強化し皇軍の主戦力を之に集中す」 として、本土決戦方針を正面から打ち出したものであった。しかしこれより先、5日11、12、14日の3日間にわたって開かれた最高戦争指導会議の構成員だけの会議では、すでに日ソ中立条約の不延長を通告してきているソ連に、今後とも中立の立場を守らせその対日参戦を防止するための交渉を開始することが決定されたが、同時にこの交渉を「参戦防止のみならず、進んではその好意的中立を獲得し、延いては戦争の終結に関し我方に有利なる仲介を為さしむる」(外務省編「終戦史録」、332頁)という方向に発展させるという点でも原則的な意見の一致がみられていた。もっとも「戦争終結」問題に関しては、その仲介の代償としてどのような条件をソ連に提示するかといった点で論議がまとまらず、当面の対ソ交渉は「好意的中立の獲得」までで止めることとされたが、しかしともかくもこの対ソ交渉方針は、「戦争終結」問題が軍部をも含めた戦争指導者のトップ・グループの間で討議され始めたことを示す点で注目すべきものであった。

  最高戦争指導会議は1944年8月、小磯内閣の時期に、大本営政府連絡会議に代わって設けられたものであり、首・外・陸・海の四大臣に、参謀総長、軍令部総長を加えた6名を正式の構成員とし、これに内閣書記官長、内閣総合計画局長官、陸・海軍省の軍務局長が幹事として加わるという形で組織されていた(必要に応じ他の国務大臣、参謀次長、軍令部次長などを出席させる)。東郷外相が日ソ交渉方針の決定にあたって、この構成員のみの会議を画策したのは、「幹事をも加へた会議となると構成員間の懇談が困難になると共に強硬意見が多くなる傾向がある」(東郷茂徳「時代の一面」、317頁)のを心配したからであったが、それが杞憂でなかったことは、前述した6月8日の御前会議で決定された本土決戦方針が、前々日の最高戦争指導会議に幹事側で用意されたものだったことをみても明らかであった。そして戦争終結の方向を進めるためには、この本土決戦論を抑える方策を考えねばならなかった。

  こうしたなかで、戦争指導者を終戦の方向に動かすうえで、大きな役割を果たしたのは、内大臣の木戸幸一であった。6月8日の御前会議々案及参考書類を事前に一読することを得た木戸は、「御前会議々案参考として添附の我国々力の研究を見るに、あらゆる面より見て、本年下半期以後に於ては戦争遂行の能力を事実上殆ど喪失する」(「木戸日記」下巻、1208頁)とみたが、それにも拘らず、本土決戦方針が御前会議で決定されるという事態に強い衝撃をうけた。そして彼は御前会議と同じ6月8日、自ら「時局収拾対策」を起草して終戦工作に乗り出してゆく決意を固め、その構想を次のように記した。

 

「敵側の所謂和平攻勢的の諸発表諸論文により之を見るに、我国の所謂軍閥打倒を以て其の主要目的となすは略確実なり。

 

一、従って軍部より和平を提唱し、政府之によりて策案を決定し交渉を開始するを正道なりと信ずるも、我国の現状より見て今日の段階に於ては殆ど不可能なるのみならず、此の機運の熟するを俟たんか、恐らくは時機を失し、遂に独逸の運命と同一轍を踏み、皇室の御安泰、国体の護持てふ至上の目的すら達し得ざる悲境に落つることを保障し得ざるべし。

 

一、依って従来の例より見れば、極めて異例にして且誠に畏れ多きことにて恐懼の至りなれども、下万民の為め、天皇陛下の御勇断を御願ひ申上げ、下の方針により戦局の拾収に邁進するの外なしと信ず。

 

一、天皇陛下の御親書を奉じて仲介国と交渉す。対手国たる米英と直接交渉を開始し得れば之も一案ならんも、交渉上のゆとりを取るために、寧ろ今日中立関係にある蘇連をして仲介の労をとらしむるを妥当とすべきか」(同前、1209頁)。


 つまり彼は、軍部から和平を提唱して交渉を始めるという「正道」を踏むことは今日のところ望みがなく、それが出来るまで侍つというのではドイツの二の舞となって「国体の護持」すら出来なくなる、従ってこの状況を打開するためには、天皇の発議・「御勇断」による以外に方法はなく、具体的には、親書を奉じた勅使を派遣してソ連に仲介を頼むのがよい、と考えたのであった。この宮廷外交的方法は、内大臣という彼の地位を十二分に活用することを前提とするものであり、木戸は翌9日から積極的に活動を始めた。

  まず6月9日天皇に拝謁した木戸は、自作の時局収拾対策の内容を説明し、首相はじめ陸海外相らとその実現について協議することを許されたが、第八七回議会で各大臣が多忙であったため閉院式の行われた6月13日に鈴木首相、米内海相と翌々15日に東郷外相 と会談し、この際急速に戦争の終結をはかるべきだとする点で全面的な同意を得た。木戸はさらに18日には、難関とみられた阿南陸相の説得をも試みており、「敵が本土作戦を敢行する際に一大打撃を与えて然る後に戦争を終結に導くべし」と論ずる阿南に対して、「米軍が本土上陸作戦のための展開を終ったあとでは、敵の終戦条件はより厳しいものとなり、結局玉砕するところまで行くほかはなくなるということでは、国体護持も覚束かない」と反論、阿南をも和平工作着手に同意させた。こうした木戸内大臣の下工作のうえに立って、18日夕刻より、鈴木首相の召集により最高戦争指導会議構成員の会議が開かれ、参謀総長・軍令部総長は阿南陸相と同じく、一撃後の和平論を唱えたと 伝えられるが、東郷外相はこの会議の結論について「日本としては米英が無条件降伏の主張を固守する場合戦争の継続は致方ないが、我に相当の戦力ある間に第三国殊にソ連を通して和平交渉に入り、米英との間に尠くとも国体護持を包含する和平を為すことが適当であ る。又九月末頃迄に戦争の終末を見得れば尤も好都合であるから、ソ連の態度を七月上句迄に偵察した上、可成速に戦争終結の方途を講ずることに大体意見が一致した」(前掲「時代の一面」、326頁)と記している。

  これで終戦工作着手についてのトップ・クラスの合意は出来あがったわけであるが、木戸内大臣はさらに、さきの本土決戦方針が、正式の御前会議決定であることとの関連をもふくめて、終戦の方向を確固としたものとするため、天皇自ら最高戦争指導会議構成員に対して、終戦方策推進を指示されるよう奏請、6月22日に召集された構成員会議において天皇は、「戦争の指導に就ては曩に御前会議に於て決定を見たるところ、他面戦争の終結に就きても此際従来の観念に囚はるることなく、速に具体的研究を遂げ、之が実現に努力せむことを望む」(「木戸日記」下、1213頁)と指示した。それは本土決戦方針を頭から否定したものではなかったが、「戦争の終結」を当面のより大きな課題とすることを意味するものであった。



対ソ交渉、失敗に終わる

 最高戦争指導会議の構成員の間で、「戦争終結」の方向が固まってきたといっても、それは中立関係にあるソ達に仲介を依頼して、無条件降伏ではない、出来るだけ有利な和平条件を獲得してゆく、という点での合意にすぎなかった。しかしソ連がそうした日本側の期待に応ずるかどうかは、はなはだ疑問であり、軍部側には将来の米ソ対立を顧慮してソ連が日本に対し好意的態度をとるであろうという楽観的見方も存在したが、東郷外相らは、ソ達を日本に有利に誘導しようとするなら、相当の代償を払わねばならないと考えていた。5月11〜14日の最高戦争指導会議構成員会議でもこの点に関して論議が行われており、対ソ代償として「ポーツマス条約及日ソ基本条約を廃棄して大体日露戦役前の状況に復帰せしむる、其場合猶朝鮮の自治問題は別として之を我方に保留し、南満州は中立地帯とする等に話し合ひが纒った」(前掲「時代の一面」、320頁)といわれる。しかしこうした利権供与によってソ連を動かそうとすることも、もはや困難な状況となっていた。

  東郷外相は、対ソ交渉の糸口をつくるため、元首相で駐ソ大使の経験もある広田弘毅にマリク駐日ソ連大使との接触を依頼し、広田は散歩のついでと祢して箱根の強羅ホテルにマリクを訪問、6月3日、4日の2回にわたる会談を行った。ここで広田が、日ソ関係を根本的に改善し「相当長期間に亘り日ソ間に平和関係の持続するが如き方途」(前掲「終戦史録」、349頁)をたてたいという日本政府の意向を伝えたのに対し、マリクは研究することを約したが、以後マリク側からは会見の申し出なく、17日広田からの食事への招待も時間がないと断ってくる有様であり、日ソ交渉は早くも最初からソ連側の気乗薄な態度に直面して停頓してしまった。

  同じ頃モスクワの佐藤尚武大使からは、今日のソ連がソ米関係を犠牲にしてまで日ソ関係の増進をはかるなどということはありえず、ソ連をして日本に有利な態度をとらせることは不可能であり、日本としては「国体擁護」以外のすべてをぎせいとして早期終戦をはかるべきだとする意見がもたらされていた(6月8日発、10日着、前掲書、466〜8頁参照)。しかし東郷外相はなおしばらく広田・マリク会談の線をおそうとしており、前述のようにソ連を仲介とする和平方針が決定されるや、6月19日、23日の2回にわたり広田と会談して、マリクとの交渉促を要請した。

  この結果6月24日広田・マリク会談が再開されたが、マリクは今回は日本側の具体的な提案を求めるという態度に出てきた。これに対し7月上旬までソ連の態度を偵察する方針をとっていた東郷は、終戦問題を直接に提示することを控え、「長期に亘り東亜の平和維持の為めにする相互支持及不侵略に関する協定を締結するを本義とし、上に付き満州の中立化、漁業権の解消を辞せざることとし、且交渉の間口を開放し置く為め其他ソ連の希望する諸条件に就きても論議するに異存」(前掲「時代の一面」、328頁)なしとの意向を伝えることとした。この案を6月29日の会談で広田から受けとったマリクは、これを本国政府にとりつぎ、本国よりの回答が来次第、次の会談を行うと答えた。しかしこの案にソ連政府が興味を示さなかったことは、以後広田からの再三の会談申し込みに対してマリクが病気と称してこれに応じなくなったことからもうかがわれた。

  当時戦局が最後の局面に来ていることは、誰の眼にも明らかになりつつあった。6月26日鈴木首相は「内閣告諭」を発表して「沖縄本島の守備遂に成らず」と沖縄戦の敗北を国民に告げ、「将に元寇以来の国難にして帝国の存亡を決するの秋なり」とし「進んで一切の行動を戦勝の一途に集中」(朝日、6・27)することを求めた。沖縄戦終了と共に、米軍機の空襲は中小郡市にまで拡大され、また7月に入ると、米機動部隊が日本近海を回遊しつつ攻撃を加えてくるという有様となった。当時の大本営発表にもとづく朝日新聞の紙面をみても、トップ記事の見出しは次のようにつづいている(日付は新聞発行日)。

  七・一一 再編の機動部隊接近す 艦上機延八百機、関東全域へ波状攻撃
  七・一五  東北・北海道南部に敵機動部隊 釜石附近を艦砲射撃
  七・一六 機動部隊、継続接近、室蘭市を砲撃
  七・一ハ 関東海面に再び機動部隊来襲
  七・一九 敵機動部隊執拗に蠢動 茨城沿岸へ艦砲射撃、関東に敵艦上機跳梁
  七・二五 機動部隊と策応し、B29六百、大阪・中京へ、艦上機波状攻撃、二千機西日本へ大挙来襲

 これらの記事は、日本側にはもはや、近海にまで進出してきた米機動部隊に有効な打撃を加える力がなくなっていることを示していた。

  こうした戦況のもとで、連合国側も終戦準備と戦後の体制づくりのために活発に動きはじめていた。6月26日連合国のサンフランシスコ会議は、国際連合憲章を採択、この間6月から7月にかけて、国民政府を代表する宋子文が、アメリカ、ソビエトを訪問、また7月中旬には米英ソ三国首脳会談が予定された。ソ連は日本の期待に反して連合国側との協力関係を強めようとしていた。スターリンはアメリカ代表に対して「ソ連陸軍は8月8日までに満州の敵陣地に対し然るべく展開する」と言明し(堀江芳孝訳「トルーマン回顧録1」、191頁)、対独戦終了3ヵ月後の対日参戦というヤルタ秘密協定を守る代わりに、そこに述べられている極東権益の獲得をも実現しようとして、宋子文との交渉 に臨んでいたのであった。いわばスターリンは、東郷外相が示した以上の権益を、ヤルタ秘密協定・中ソ友好条約(国民政府との)によって獲得しようとしていたといえる。

  こうした内実の動きまではわからなかったにせよ、東郷外相もソ連の活発な動きに情勢の急迫を感じ、6月28日モスクワの佐藤大使にあてて広田・マリク会談の経緯を知らせ、ソ連側の回答を促進するよう訓令するとともに、宋子文とソ連側との動向を探知するよう命じている。そして7月に入ると、三巨頭のポツダム会談に先立って終戦交渉を申し入れることが急務と考えられるようになり、東郷外相もこれまで気乗薄だった特使派遣の方式を最後の手段として採用することとした。結局特使には近衛文麿が選ばれ、首相は7月10日に最高戦争指導会議を召集して了解を求め、12日には天皇から直接に近衛に対し戦争終結のための特使としてソ連に派遣することが指示された。そしてこの夜、東郷外相は佐藤大便に訓令して、三国会談開始前にモロトフ外相に会見し、天皇の戦争終結に関する意図と、その実現のために近衛文麿に親書を持たせ特派したいとの天皇の内意を伝え、それに対する同意を求めると共に飛行機提供などの便宜を獲得するように命じた。

  しかしソ連側は、もはや全くこうした日本側の動きにとり合おうとはしなかった。6月13日佐藤大使はこの訓令に従ってモロトフに会見を申し入れたが、モロトフは時間の都合がつかないとしてこれを拒絶、佐藤はやむなくロゾフスキー外相代理にモロトフ宛書翰の至急取り次ぎを依頼すると共に、「本件に対するソ側の主義上の同意丈にでも急ぎ承知」(前掲「終戦史録」、451頁)したいという強い希望を告げた。しかしスターリン、モロトフらは、これに何ら答えることなく、翌7月14日夜ポツダムヘ向けて出発してしまった。このとき佐藤大使は、ソ連側が早急な回答を避けたものと判断し、「或はスターリンは今回の日本側申入れにつき米英首脳に内話しその意向を質したる上ならではソ側の態度を決定し難し」とする場合をも想定しており、「結局帝国において真実戦争終結を欲する以上無条件又はこれに近き講和を為すの他なきこと真に已むを得ざる所なりとす」(同前、453〜4頁)との意見を具申していた。

  事態はまさに佐藤が予想した通りに進展していった。 ポツダム会談は7月17日から開催されたが、翌18日の米ソ首脳会談については次のような記録がみられる。

 

「スターリンは、日本からの連結文書を受けとったと云って、トルーマンに天皇メッセージが添えられた佐藤駐ソ大使の覚書の写しを渡した。スターリンはそれは回答する価値があるかどうかとたずねた。トルーマンは(すでにその内容はマジックで知っていたがそ知らぬ顔で)、日本の誠意は信じられないと言った。するとスターリンはソ連と日本とはまだ交戦状態ではなく、日本人を安心して眠らせておくのがよいかも知れないから、近衛使節の性格や目的がはっきりしない点を指摘して、一時的で漠然とした返事をしてもよいと述べた。さもなければ全く無視して返答しないか、はっきり拒否するかであった。トルーマンは最初の案で満足だと答えた。これについてモロトフ外相も、近衛特使がなにを提案するのかはっきりしない以上、トルーマン大統領の考え方はまったく適当だと述べた。スターリンは日本への回答文をトルーマンに見せようと言った。大統領は、それには及ばないがご好意は多とすると挨拶した」(毎日新聞社編「太平洋戦争秘史」、278頁)。


 ここで話題とされた日本への回答文は、この18日夜、佐藤大使のもとにもたらされたが、それは、13日付けの佐藤大使の申し入れは一般的なもので何ら具体的提議を含まず、また近衛特使の使命も不明瞭であり、従って特使問題に付いて回答することは不可能だというものであった。これに対して東郷外相は21日特使の使命は、天皇の意を体してソ連政府に戦争終結のための斡旋を依頼し、これに関する具体的意図を開陳すると共に、戦時・戦後を通ずる日ソ協力関係樹立に関する事項を商議するにある、と答え、この回答は25日、佐藤大使からソ連側にもたらされている。

  東郷外相は特使派遣の意図を「無条件降伏に非る和平を招来せんとするもの」(同前、459頁)と説明しているが、この回答がソ連側に通告された翌日、7月26日には、日本の無条件降伏を要求するポツダム宣言が発表された。日本と中立関係にあるソ連は形式的にはこの宣言に加入していないが、ソ連首脳も来会しているポツダムで発せられたこの宣言をソ連も支持していることは明らかであった。以後の日本にとって戦争終結の道はポツダム宣言を受諾するか、否かという形でしかありえなくなったのであった。



ポツダム宣言をめぐって

 しかし、ポツダム宣言は、日本の和平派を絶望させたわけではなかった。東郷外相は7月25日発の駐ソ佐藤大使への電訓のなかで、アメリカの動向にふれて「米側スポークスマンの発言を検討するに大体において形式はあくまで無条件降伏を固執しつつも帝国が速かにこれを受諾せば実質においては条件緩和の用意ある旨を述べ居れり」(前掲「終戦史録」、463頁)とみているが、ポツダム宣言は東郷の予想した通り、形式的には無条件降伏を要求しつつ、実質的にはその条件を提示したものであった。

  ポツダム宣言はこ一三項からなる箇条書きの形式をとっており、その第一〜四項はいわば前文的なもので、 この宣言が日本に戦争終結の機会を与えることを目的 としていること、今や連合国側は日本に対し最終的打撃を加える準備を整えたこと、その力はナチス・ドイ ツに向けられた力よりも「測リ知レザル程更ニ強大ナルモノ」であり、我々の軍事力の最高度の使用は日本国軍隊の不可避的且完全な壊滅と同様に必然的に日本本土の完全なる破壊をも意味していること、従って今や日本国は無分別なる軍国主義者に引続き統御されて滅亡への道をたどるか理性の道にたちもどるかの岐路に立たされているとした。そしてこれをうけて最終の第一三項では、日本政府が直に全日本軍隊の無条件降伏を宣言し保障することを要求し、「上以外ノ日本国 ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」と結んでいた。

  しかしこの間にはさまれた第五〜一二項は「吾等ノ 条件ハ下ノ如シ」として、連合国の日本に対する要求の範囲と限度とを明示したものであった。すなわちまず第五項で、連合国側がここに示す条件から離脱したり、条件を変えたりすることはないと保障したうえで、その条件を次のように示した。

  第六項、日本における軍国主義者の権力及勢力は永久に除去されねばならない。
  第七項、日本に平和的秩序が建設され且つ日本国の戦争遂行能力が破砕されたとの確証を得るまで、連合国は日本を占領下におく。
  第八項、カイロ宣言の条項は実現され、日本国の主権は本州、北海道、九州及四国ならびに連合国側が決定する諸小島に局限される。
 

第九項、日本国軍隊は完全に武装解除されたのち、各自の家庭に帰り平和的且生産的生活を営むことが許される。

 

第一〇項、吾等は日本人を民族として奴隷化し又は国民として滅亡させようという意図を持ってはいない。しかし俘虜虐待を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加える。日本政府は民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去し、言論・宗教・思想の自由並に基本的人権を確立しなければならない。

 

第一一項、日本国は軍需産業を除き、その経済を維持し且公正なる実物賠償の取立を可能にするだけの産業、そのための原料の入手を許される。

 

第一二項、前記諸目的が達成され、且つ日本国民の自由に表明された意思に従い、平和的傾向を有し責任ある政府が樹立されたならば、連合国の占領軍は直ちに日本から撤退する、


というものであった。

  日本側はラジオ放送によってポツダム宣言を知るこ とになるが、これに対する反応を松本俊一外務次官は次のように記している。

 

  「ニ十七日の朝の定例の外務省幹部会で、払は此の宣言で敵は無条件降伏の条件を示して、日本の最後の反省を促して来たものであるから、日本としては結局之を受諾することに依って戦争を終末させる以外にない。元来私は無条件降伏ということは多少言葉の遊戯に属するもので、愈々講和となれば必ず一種の交渉を必要とする……と考えていたが、今度の宣言はわれわれの考え方を勇気ずけるものであるから、国民にはかくす所なく全文を読ませ又かりそめにも之を拒否する様な態度は採るべきではない。日本としては此際黙っているのが最も賢明で、従って新聞にはノーコメントで全文発表する様指導するのが適当であると考えると述べて、一同の賛成を得て大臣にも伝えた。大臣も同意見で、閣議等でその点を力説するといった」(前掲「終戦史録」、510頁)。


  ポツダム宣言を作成したアメリカ側の意図も、日本本土への進攻を行わずに、日本を降伏させようとする点にあった。沖縄戦が最終段階に来ていた6月で18日、ホワイト・ハウスでの最高軍事会議は、九州上陸から日本本土侵攻作戦を開始する方針を決め、さらに6月29日の統合幕僚長会議は11月1日に九州上陸作戦を開始することとした。これは、中国大陸に居る日本軍はソ連が参戦し撃破することを前提したものであった。しかしこの間、陸軍長官スチムソンは、アメリカ兵の多大の流血が予想される本土進攻を行わずに、日本の降伏を実現する方法はないかと考えるようになっていた。彼は打倒の対象を日本の軍国主義者に限定し、将来の平和国家としての日本の存続を認めるような条件を明らかにすれば、日本の支配層の内部にもこれに呼応して降伏を推進しようとするような自由主義的勢力があらわれてくるかもしれないと期待した。そ して、7月2日、トルーマン大統領への覚書で、こう した条件を明示した連合国首脳の声明を発表することを提議し、さらに「本官個人の考えでは、その声明を行なうにあたっては、われわれは現皇室のもとにおける立憲君主政体を排除するものではないということを 付言するならば、警告受諾の可能性を相当増すものと思われる」(前掲「太平洋戦争秘史」、275頁)とつけ加えた。この天皇制容認の部分は削除されたが、ポツダム宣言はこのスチムソン覚書を基礎にしたものであった。 そして日本の和平派は、スチムソンの間待通りの反応を示したが、しかし戦争終結のためには本土決戦派の反対をどう抑えるかが問題であった。

  7月27日の最高戦争指導会議構成員会議でも、軍令部総長が、ポ宣言はいずれ世上に伝わることになる と思われるが、このままにしてむくと士気にも関することになるから、此際此宣言を不都合だという大号令を発すべきだ、と主張しはじめ、首相と外相が反対してやっと、今暫らくソ連の出方を見て処理するというところに落着かせた。そして同日午後の閣議では、同宣言を国民に発表する方法・程度について論議が交わされ「結局の処、政府に於ては此際阿等の意思表示を しないこと、新聞等に対しては情報局で或るべく小さく取扱はしむるやう指導すること、従って又事務当局で宣言を短縮して発表せしむることに決定した」(前掲「時代の一面」、340頁)といわれる。

  しかし翌28日の朝日の紙面をみると、「米英重慶、日本降伏の最終条件を声明、三国共同の謀略放送」という見出しの下に、さきにみた第五〜一三項目がほば忠実に要約・掲載されているが、さらにつづけて「政府は黙殺」という短い記事と、「多分に宣伝と対日威嚇」と題する解説的記事がのせられており、軍部強硬派の世論指導がうかがわれた。東郷外相はこれを閣議決定違反と抗議したが、この間、軍部の強硬論が首相をも動かしており、鈴木首相は28日午後の記者会見でポツダム宣言黙殺の態度を明らかにしたのであった。 この記事は朝日では30日付けの紙面トップに掲載さ れているが、問題の部分は次のようなものであった。

最近敵側は戦争の終結につき各種の宣伝を行っているが、これに対する所信はどうか

首相

私は三国共同声明はカイロ会談の焼き直しと思ふ、政府としては何等重大な価値あるものとは思はない、たゞ黙殺するのみである、われわれは断乎戦争完遂に邁進するのみである。


  この首相の言明は、日本政府がポツダム宣言を拒否して、戦争を継続する態度を決定したものと受けとら れても致方ないものであった。日本の和平推進派は、この宣言によってしか戦争を終わらせる方法がないことは理解したが、抗戦強硬派を抑えるだけの力がなかったためもあって、直ちに宣言受諾の方針を出すことはできず、東郷外相らはなおソ連の仲介による交渉の可能性に期待を残していた。しかしポツダム宣言が、その条件を変更しえないものとして示したことは、こうした交渉に応じないことを意味しており、またアメリカは、この宣言を日本に強要するための新たなる手段をも用意していたのであった。



原爆投下とソ連参戦

 アメリカは、自国の兵員の出来るだけ少ない損失で日本を屈伏させることを望み、そのためにまず、ヤルタ秘密協定によりソ連からドイツ降伏3ヵ月後の対日参戦の約束をとりつけ、次にポツダム宣言の発表という方法がとられたことはすでに述べたが、この時にはすでにアメリカは、原子爆弾という新兵器を完成し、その対日使用を決意していた。

  アメリカの原爆実験が最初に成功したのは、ポツダム会談開始とほぼ時を同じくした7日16日であり、このニュースはただちにポツダムにいるトルーマン大統領にとどけられた。この新兵器の意義についてスチムソンは「今やわれわれはまさに革命的性格を持った兵器を造りあげたのであり、これを敵に対して使用する時は、われわれが望んでいたとおりの衝撃を日本の指導層に与え、平和を望む一派の地位を強め、軍部の地位を弱める結果を期待してよいことが明らかだった」 (前掲「太平洋戦争秘史」、284頁)と述べているが、それはいいかえれば、原爆の使用が日本にポツダム宣言を受諾させる力になるということにほかならなかった。そしてこの方式により、本土上陸作戦なしに日本降伏が実現するとすれば、アメリカがこれまで強く望 んでいたソ連の対日参戦も無用になるわけであった。 当時、ヨーロッパの戦後処理をめぐって、ソ連と米英との対立が深まっており―ポツダム会談もその調整を主要な目的の一つとしたものであった―アメリカの指導者は、米軍が主力となって戦ってきたアジアでは戦後処現問題へのソ連の介入を封じたいと望むようになっていた。そしてそのためには、ソ連が参戦する前に原爆を使用して日本を降伏させてしまうのが望ましいと考えるようになった。

  ポツダム宣言の発表より2日前の7月24日、早くもトルーマン大統領の承認の下に、日本への原爆投下命令が下された。それは、8月3日ごろ以降、天候が目視爆撃を許す限り、できるだけすみやかに、最防の原爆を、広島・小倉・新潟・長崎のうちの一つを目標 として投下せよ、というものであり、以後準備のでき次第、第二発も前記目標に投下することを命ずるものであった。まだ実験成功後1週間であり、使用可能な形での原爆の完成は第一号8月1日、第二号8月6日、 第三号8月24日ごろと予定されていた(同前、285頁)。いわば、ポツダム宣言は、日本に対する無警告の原爆攻撃とセットになった政策として出されていたのであった。

  こうした原爆の完成という新事実に気づかない日本の指導者は、なおソ連の斡旋に期待をよせ、東郷外相 は、8月5日スターリンとモロトフがモスクワに帰っ たとの情報により、8月6日駐ソ佐藤大使に対し至急モロトフと会見し、近衛特使問題についての回答を督促するよう命じている。しかしすでにこの日の午前8時すぎ、最初の原子爆弾は広島をかいめつさせていたのであった。陸軍側は当初原子爆弾であることを認めず被害を軽現しようとしたが、翌7日のアメリカのラジオは、アメリカが原爆を使用したことを認め、日本が降伏しなければさらに使用をつづけることを強調したトルーマン大統領の声明を放送していた。

  この最初の原爆の使用は、すぐさま直接に日本を降伏させるという効果はもたらしはしなかったが、ソ連の参戦を早めることによって、日本の指導者を全くの窮地に陥れたのであった。アメリカ側が勝利へのソ連の貢献を封ずるために原爆を性急に使用すれば、ソ連も戦後問題への発言力確保のために対日参戦を早め、こうした動きがまたアメリカの第二発目の原爆投下を早める、というように、米ソの動きはこの対日戦最終段階で競合的に展開されたといえよう。原爆が広島に投下された翌日の8月7日、モスクワではソ連側から佐藤大使に対し、モロトフ外相が翌8日午後5時に会見するとの連絡がもたらされた。これは近衛特使問題を申し入れてからはじめての、モロトフからの会見の通告であった。しかしそこでモロトフから佐藤に手渡されたのは、特使問題への回答ではなく、日本に対する宣戦布告の宣言であった。ソ連側は、日本側がポツダム宣言を拒否したことによりソ連による調停の基礎は失われたとしソ連は戦争の終結を促進するため、ポツダム宣言に加入し、8月9日より日本と戦争状態に入ることにした、というのであった。9日午前0時を期 してソ連軍は一せいに満州進撃を開始した。



降伏の過程


 東郷外相は8月8日には原爆投下を転機として戦争終結をはかるべきだとする意見を天皇に奏上していたが、9日早朝、ソ連参戦を知るや早速鈴木首相をたずねて戦争を出来るだけ早く終わらせねばならないと説き、首相もこれに同意して和平への動きは一挙に高まった。すでに前日の上奏にあたって東郷は、天皇から「此種武器(原爆)が使用せらるる以上戦争継続は愈々不可能になったから、有利な条件を得ようとして戦争終結の時機を逸することはよくないと思ふ、又条件を相談しても纒まらないのではないかと思ふから成るべく早く戦争の終結を見るように取運ぶことを希望す」 (前掲「時代の一面」、342頁)という終戦への積極的な指示を与えられており、和平派はさきに木戸内大臣が示した天皇のイニシアティヴによる終戦という方式を暗黙の諒解として動き始めたようにみられた。8月9日の木戸日記には次のように記されている。

 

  「午前九時五十五分より十時迄、御文庫にて拝謁す。ソ連が我国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり、幸に今朝首相と面会の約あるを以て直に協議すべき旨奉答す。

  十時十分、鈴木首相末家、依って聖旨を伝へ、此際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、尚其際、事重大なれば重臣の意見をも徴したき思召あり、就ては予め重臣に事態を説明し置かるる様依頼す」(「木戸日記」下巻、1223頁)


  ついで午前11時近くから、最高戦争指導会議の構成員会議が開かれ、鈴木首相からポツダム宣言受諾の提案がなされたが、もはや戦争継続の困難は軍部にとっても明らかであり、彼等も原則的にはこの提案に反対しなかった。しかし阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3人は、「国体護持」を留保条件とするのみでポツダム宣言を受諾するという東郷外相の案に反対し、なおそのうえに、「保障占領は成る丈け之を差控へしめ已むなき場合にも東京等を除き且之を小規模とすること、武装解除は我方に於て自主的に之を行ふこと、戦争犯罪人の処分は我方に於て行ふこととすとの条件を附加する必要があると主張した」(「時代の一 面」、343頁)。これに対して東郷は、そんな条件を つけることはポツダム宣言を拒絶したものとみられ、交渉は不成立に終わるおそれがあると反論、その場合の戦争継続の見通しなどをめぐる論議がつづけられたが、予定されていた閣議のため、結論を得ないまま打ち切られた。長崎に二発目の原爆が落とされたのは、この会議が始まった頃のことであった。

  この時すでに東郷は、天皇主導の終戦方式を考えており、「閣議は2時から開催せられたが、其以前自分は総理に、閣議の結果は意見の一致困難があると思ふが、其場合には聖断を仰ぐ以外に方法なしと思ふが、其以前陸相の辞職等に依り内閣の機能を発揮し得られないことのないように注意してほしいことを内話した」(同前、344頁)という。午前2時すぎから始まった 閣議は、夕刻の休憩をはさんで夜10時すぎまで続けられ、豊田軍需相、小日山運輸相、石黒農相らがそれぞれ戦争継続が困難であることを述べたが、論議は結局、午前中の最高戦争指導会議構成員会議の場合と同様、ポツダム宣言受諾に際しての条件の問題に終始した。そしてこの間、首相・外相の周辺や和平推進派の動きは、御前会議方式の実現へと集約されていった。

  例えば「閣議の最中午後4時過、松本(外務)次官は、又々心せかれるまヽ迫水書記官長を訪い、長崎にまた原爆が落ちたことを報らせ、閣議は纒るはずはないから聖断を仰ぐよう、各々外相、首相に頼もうと促した。迫水書記官長は、その方向でやってるんだ、お互にもっとやろうと答え、相励ました」(「終戦史録」、571〜2頁)という。また同じ頃「4時には重光元外相が内府を訪い、四条件附では決裂必至なりと述べ、 聖断をお願いするよう内府において善処すべきであると力説した。木戸内府は重光元外相の意見に賛成した」 (同前、580頁)という動きもみられた。

  午後10時、鈴木首相は結論を出さないままに閣議を打ち切り、11時東郷外相とともに参内、今夜ただちに正規の最高戦争指導会議を御前会議として開かれるよう奏請、天皇はこれを許可して深夜の御前会議が11時50分から開会され、とくに平沼枢密院議長の出席も認められた。この会議では首相からこれまでの経過を説明し、外相案を原案として討議が始められたが、陸相・両総長らがこれに反対して条件の附加を主張するという、これまでと同様のパターンがくり返された。この間、外相案の字句の修正なども行われたが、議論の出尽くしたところで、鈴木首相は起って天皇の判断を求めた。天皇はここで外相案を採択するとの決断を下し、出席者の1人、保科善四郎海軍省軍務局長のメ モによれば次のように述べたといわれる。

 

 「従来勝利獲得の自信ありと聞いているが、今迄計画と実行とが一致しない、又陸軍大臣の言ふ所に依れば、九十九里浜の築城が八月中旬に出来上るとのことであったが、未だ出来上って居ない、又新設師団が出来ても之に渡す可き兵器は整って居ないとのことだ、之ではあの機械力を誇る米英軍に対し勝算の見込なし、朕の股肱たる軍人より武器を取り上げ、又朕の臣を戦争責任者として引渡すことは之を忍びざるも、大局上明治天皇の三国干渉の両決断の例に做ひ、忍び難きを忍び、人民を破局より救ひ、世界人類の幸福の為に斯く決心したのである」(「終戦史録」、599頁)


  ここで決定された日本政府の申入案は、ポツダム宣言が「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」之を受諾するというものであり、8月10日、スイス、スエーデン政府を通 じて、米英中ソ四国に通告された。

  この申し入れに接したアメリカ政府首脳の間では、日本の条件をうけいれ、天皇を利用することが利益であるとの考え方が強かった。結局バーンズ国務長官が起草し、英ソ中三国の承認を得た11日付の回答文は、天皇の地位についての日本の条件に正面から答えることなく、終戦過程で天皇の権威を利用する意図を示し、間接に天皇の地位が保全されることを暗示するという巧妙なものになっていた。日本側はこの回答を公式電より先に12日午前0時すぎ、ラジオ放送で傍受したが、そのうち天皇に関する部分は次のようなものであった。

 

 「降伏の時より 天皇及日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為その必要と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。

  天皇は日本国政府及日本帝国大本営に対し、ポツダム宣言の諸条項を実施する為必要なる降伏条項著名の権限を与へ且之を保障することを要請せられ、又天皇は一切の日本国陸、海、空軍官憲及何れの地域に在るを問はず左官憲の指揮下にある一切の軍隊 に対し、戦闘行為を終止し武器を引渡し及降伏条項実施の為最高司令官の要求することあるべき命令を発することを命ずべきものとす。(略)

  最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵ひ、日本国国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす。(略)」


  これは外務省の作成した訳文であり、天皇の権限が最高司令官の「制限の下に置かるるものとす」の部分 は、サブジェクト・ツー(従属する)をできるだけ柔い表現とした苦心の作であったが、しかしこれで一体、日本側留保条件をなす「国体護持」という根本目的が達成されるのかどうかということは、改めて問題となる点であった。とくに軍部は、外務省とは独白にこの回答文を分析し、12日午前8時には参謀総長・軍令部総長が上奏して、アメリカの回答は天皇を従属させ日本を属国化するものと非難し(「敗戦の記録」、288頁)、また中堅将校のなかにはクーデターを賭しても、この受けいれに反対しようという動きさえ生じてきた。 軍部以外でも平沼枢密院議長や鈴木首相も軍部の再照会論に同調するなどの動揺がみられ、情勢を不利とみた東郷外相はこ12日午後の閣議を結論を出さないまま散会に導き、木戸内大臣らとともに首相を説得、態勢の立て直しをはかった。彼等にとって天皇がアメリカ の回答通りでよいからと早期終戦を望んでいることが大きな支えとなっていた。木戸日記は記す。

 

 「(一二日午後)九時半、鈴木首招来室、今日種々協議の経緯につき話あり、余は今日となりては仮令国内に動乱等の起る心配ありとも断行の要を力説、首相も全然同感なる旨答へられ、大に意を強ふしたり」(「木戸日記」下巻、1225頁)


  翌8月13日は朝から最高戦争指導公議構成員会議、夕刻4時からは閣議が開かれ、前日につづく論議が続けられた。軍部強硬派が最も問題としたのは、天皇が従属的地位に置かれることと、将来の統治形態は日本国民の意思により決定されるとした点であり、これは日本の国体を否認するものだというのであった。これに対して東郷外相らは、降伏条件の実施にあたって統治権に制限があるのはやむをえないとしてむしろアメ リカ側が天皇の地位を認めている点を強調し、また日本国民の大多数は国体を支持するものと信ぜられると反論した。そして日本側がこうした問題に固執することは、連合国側をも硬化させ、天皇否認の要求さえ提起されるおそれがあるとして、アメリカの回答の即時受諾を主張した。しかし軍強硬派の反対をくずすことは出来ず、閣議は首相から各大臣の意見をただした結果、豊田軍需相が去就不明、桜井国務相が首相一任のほか、米内海相、広瀬蔵相、石黒農相、太田文相、安井国務相、左近司国務相、岡田厚生相、小日山運輸相、下村無任相が東郷外相の即時受諾案に賛成したが、阿南陸相、松阪法相、安倍内相が反対論を固執していた。 首相は最後に、「閣議の有りのままを申し上げて重ねて聖断を仰ぎたい」と述べて閣議を散会したが、統帥部は意見不一致のまま御前会議を開くことに反対し、 参謀総長・軍令部総長は深夜まで東郷外相をとらえて談じ込んでおり、通常の手続では最高戦争指導会議を召集することができなかった。

  しかしこの13日には、軍のクーデターの動きに加えて、米軍政が空から、日本政府の通告とアメリカの回答をのせたビラをまき始めており、国民の間にも、 これまで極秘のうちに行われてきた終戦工作が知られ、動揺が広まることがおそれられる情勢となった。こう したなかで、翌14日朝鈴木首相、木戸内大臣は、天皇白身に御前会議を召集してもらうという異例の手続で一挙に終戦を実現することを決意し、天皇はこの奏請をうけて全閣僚及び最高戦争指導会議員(構成員及び幹事)全員の召集を命じた。そして午前10時50分より開かれた最後の御前会議において、天皇は、鈴木首相の経過報告と、阿南陸相、梅津・豊田両総長の 反対意見を聴取したのち、「国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい」(「終戦史録」、701頁)との断を下した。さらに天皇は「国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前にも立つ」と述べ、内閣は至急終戦の詔書を用意するよう命じた。御前会議は14日正午に終わった。

  この天皇の決断には、軍首脳部も全く服従する態度を示した。天皇の名によってポツダム宣言の受諾が決定されたうえは、支配層の次の課題は、天皇の権威によって事態を平穏に収拾し、連合国側に天皇制の存在価値をより高く認識させるということであった。そしてこの事態収拾のために、天皇自身のラジオ放送を行うという案は、すでに8日11日には木戸内大臣・石渡宮内大臣らによって天皇の諒解も碍られていたものであった。また天皇は翌12日には皇族公議を召集し戦争終結についてその協力を求めていた。御前会議につづく8月14日午後から閣議では終戦の詔勅案の審議が行われ、午後11時づけで発布されると同時に、ポツダム宣言受諾の連合国側への正式の通告が打電さ れた。宮中ではそれにつづいて、翌日正午に予定された「玉音放送」の録音盤が作成された。その直後、一部中堅将校が森赳近衛師団長を殺害し、ニセの師団命令によってクーデターによる戦争継続を企てたが、夜明けとともに出動した田中静壱東部軍管区司令官によって、あっけなく鎮圧されている。以後も東京周辺に駐屯する将校などの間に、降伏反対の動きもみられたが、いずれも短期間に消滅していった。軍部のなかにも、もはや戦争を継続する意欲や力が消え失せていたといってよかった。



東久邇宮内閣と米軍の進駐開始

 8月15日正午の「玉音放送」についで、枢密院での終戦についての経過報告をおえると、鈴木内閣は午後3時すぎ総辞職した。木戸内大出は今回は重臣会議を開くことなく、平沼枢密院議長と協議しただけで、 陸軍大将・軍事参議官の地位にある東久邇宮稔彦王を 後継首相とし、近衛元首相の助力を求めるとの方針を きめ、午後6時すぎこの旨を奏上した。天皇は翌16日午前10時すぎ東久邇宮に組閣を命じ、ここにはじめて皇族内閣が成立することとなった。日本軍の武装解除、占領軍の受けいれという当面の問題を円滑に処理するためには、天皇の権威と直結した皇族を押し立てることが必要と考えられたのであった。

  組閣は近衛文麿・緒方竹虎を参謀としてすヽめられ、17日には次のような顔ぶれが決まり親任式が行われた。

  内閣総理大臣 稔彦王
  外務大臣 重光 葵
  内務大臣 山崎 巌
  大蔵大臣 島津 寿一
  陸軍大臣(兼任) 稔彦王
  海軍大臣 米内 光政
  司法大臣 岩田 宙造
  文部大臣(兼任) 松村 謙三
  厚生大臣 松村 謙三
  大東亜大臣(兼任) 重光 葵
  農商大臣 千石 興太郎
  軍需大臣 中島 知久平
  運輸大臣 小日山 直登
  国務大臣 近衛 文麿
  国務大臣 緒方 竹虎


 このうち近衛は、副総理格とみられ、緒方は内閣書記官長と情報局総裁を兼任している。また文相には前田多門、陸相は下村定が予定されていたが、両人の上京が間に合わぬため兼任で発足し、8月18日になって前田文相、ついで8月23日には下村陸相の親任式が行われ、兼任が解かれた。さらにこの間、8月19日には、無任所の国務大臣としてかつての皇道派の主脳・小畑敏四郎(予備役陸軍中将)が補充されているが、これは皇道派好みの近衛の推挙によるものとみられた。

  新内閣は戦争を終わらせるためにまず停戦を実現させることから始めねばならなかった。すでに東久邇宮に組閣が命ぜられた16日午前には、アメリカ政府から、14日付けの日本政府の通告をポツダム宣言及び11日付連合国側回答の完全なる受諾と認める、との公文と同時に、停戦に関しても、日本軍隊に急速に停戦を命令し、その実施の日時を連合国最高司令官に通報すること、同最高司令官の指令を受けとりうる十分な権限を持った使者を同司令官のもとに派遣することなどを要求し、最高司令官にはマッカーサー元帥が任命されたことを伝える公文も、スイス政府を通じてもたらされていた。そして同じ頃、マッカーサー司令部との無線連結もつながり、同司令部も停戦の発動日時 の通報及びマニラヘの使者の派遣を要求していた。これに対して、全軍隊への停戦命令は16時午後4時、天皇の名によって下令されたが、使者の決定と派遣は新内閣の最初の仕事となった。

  新内閣が成立した8月17日、東久邇宮首相は次のように記している。

 

  「午後八時から最高戦争指導会議を開き、首相兼陸相の私、重光外相、米内海相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長、近衛・緒方両国務大臣が出席、連合国側から要求してきた降伏条項実施のための、一定要求事項を受理する権限を有す代表者をフィリピンに派遣する件、および終戦にともなう諸件を協議した。フィリピン派遣の政府代表は、参謀次長河辺虎四郎中将を全権とし、陸海外三省より若干名の随員を任命した。会議は約二時間で終わる」(東久邇稔彦「一皇族の戦争日記」、208頁)


  翌18日全権委任状を下附された河辺全権らは、19日マニラに向い21日に帰京しているが、マニラでは、米軍の進駐日程を打ち合わせると共に、日本側の調印を要求される降伏文書、日本陸海軍に対する一般命令第一号を受領してきた。一般命令一号は、日本軍武装解除のための処置・手続きを定めたものであるが、このなかでとくに重要なのは、各地の日本軍に対する 降伏すべき相手の指示であり、それは戦後の政治に大きな影響を与えるものとなった。

  例えば、日本本土と北緯三八度以南の朝鮮に在る日本軍はアメリカ陸軍部隊最高司令官に、小笠原・沖縄 の日本軍はアメリカ太平洋艦隊最高司令官に、満州・ 樺太・千島列島・北緯三八度以北に在る日本軍は、ソ ビエト極東軍最高司令官に降伏することとされたのであり、ここから、沖縄・小笠原が日本本土から切り離された存在となり、北緯三八度で朝鮮が分裂するという事態が生じたのであった。このうち一般命令一号の原案では、ソ連の管轄区域に千島が含まれておらず、 これに対してソ連は、千島列島の全部と北海道北半分(釧路とルモイを結ぶ線以北)をソ連に降伏すべき地域に加えることを要求してくるという一幕もみられた。アメリカはこのソ連の要求のうち、千島については譲歩する代わりに、北海道に関する要求を拒否して、この命令を確定したのであるが、このことは、アメリカが日本本土の単独占領という方針を貫徹しようとしたことを示していた。従って当初、日本に進駐する軍隊は、米軍のみと予定され、河辺全権の主張する日本側 の事情をも考慮して次のような日程で進駐を実施することとされた。

8月26日、

(1)先遣部隊、空路厚木飛行場到着。(2)海軍部隊、相模湾到着、東京湾進入。

8月28日、

(1)最高司令官随行空輸部隊、厚木飛行場着陸開始、(2)海軍および海兵隊、横須賀軍港附近上陸、(3)上記部隊は直ちに指定された地域を占領

8月29日〜30日、

空輸及海軍部隊、引続き到着。

8月31日、

降伏文書調印。

9月1日、

先遣部隊鹿屋飛行場着陸。


  東久邇宮内閣は、こうした戦時体制の解体、復員、 占領軍の進駐という事態に対処するため、とりあえず最高戦争指導会議を廃止(22日裁可)して、終戦処理会議に改組し、その下部機構として終戦事務連結委員会を設置する、軍需省・大東亜省などの戦時行政機構を廃止するなどの措置をとることにし、8月22日終戦処理会議・終戦事務連絡委員会を設置、8月26日には軍需省・大東亜省・農商省を廃止して商工省・ 農林省を復活させ、中島軍需大臣を商工大臣に、千石農商大臣を農林大臣に任命した。このうち、終戦処理会議は、かつての最高戦争指導会議の構成員である首・外・陸・海四大臣と陸海両総長のほかにとくに近衛国務大臣を加えて構成員とし緒方書記官長を幹事とする最高機関であり、その下部機関としての連絡委員会は、外務大臣を委員長、内閣書記官長を副委員長、各省局長を委員とする実務的委員会であった。このほか8月24日設置の横浜・厚木地区をはじめ、鹿屋・館山などに連合軍受入設営委員会がつくられ、また8月 26日には外務省の外局として終戦連絡中央事務局が創設されている。つまり、この事務局が占領軍の要求を受ける窓口となり、さきの終戦処理会議―連絡委員会がその実施にあたることになる筈であった。

  こうした占領軍受入体制の整備の反面では、占領軍との衝突や不満の爆発を防ぐため、軍隊の復員が急がれていた。8月25日には「整斉迅速ナル復員ヲ実施シ」て「戦後復興ニカヲ致サンコト」を求める勅語が出されているが、実際には復員は軍隊に蓄積されていた物資を山分けする形で進められていた。東久邇宮首相も8月28日のこととして次のように記している。

 

  「午前十時より閣議を開き、午後一時終る。閣議で『軍需品の放出はただちに中止し、すでに部外に渡した物資もできるだけ回収する』ことを決定して、全国に指令を発した。終戦後、全国各地で陸海軍人が軍需品を倉庫、あるいは貯蔵所から持出しだので、世間がやかましくなり、非難の声がさかんにあがり、新聞紙上でも大いに書き立てた。閣議でも、この話が出た時、前内閣から留任した小日山運輸大臣が、『鈴木内閣が、総辞職前日の閣議で、武器以外の軍需品は連合国軍が進駐してくれば、いずれは没収されるのだから、その前に分散、隠匿あるいは復員軍人に与えるのがよいときまり、内閣の指令として各方面に通告した』と語った。前内閣から何の申送りもなかったので、新内閣は何も知らなかったが、これではじめてその事情がわかった。よって閣議で、前内閣の指令を取消すところの新指令を出したが、時期すでにおそく、その流出を止めることは困難であった」(「一皇族の戦争日記」、219〜20頁)。


  ともあれ、こうした措置によって本土の軍隊は急速に解体してゆき、一部抗戦派将校の叫びも何ら効果ある動きとはならなかった。占領軍の進駐は、23日の暴風雨により関東地方の通信輸送施設や飛行場にかなりの被害が出たため、進駐予定は48時間づつ延期され、8月28日午前8時30分、先遣隊一番機が厚木飛行場に着陸、こヽに日本占領の第一歩がしるされることとなった。翌々30日午後2時、マッカーサー元帥も第八軍司令官アイケルバーカー中将と共に厚木に 到着、ただちに横浜に総司令部を設置、ついで9月2日に降伏文書の調印式が予定された。

  占領軍の進駐が混乱なく実施されたことは、軍事力の解体とともに、米英に対する敵対心も、国民の間から急速に消え去りつつあることを意味していた。それは終戦にあたっての天皇制の威力を示したものともいえたが、しかし家庭へと復員していった国民の心を天皇制のもとにつなぎとめておくためには、何よりもまず国民の間から戦争責任追及の動きが高まること、とくにそれが革命的に発展することを抑えねばならず、それには新たなイデオロギーが必要であった。そしてそのために用意されたのが、国民総懺悔論であり、五箇条の誓文=民主主義論であった。

  占領軍先遣部隊の到着した8月28日の夕刻、記者会見を行った東久邇官首相は、まず「詔書を奉体し連合国から示す条文を忠実に実行することが国体を護持し、わが民族の名誉を保持する所以」だと強調し、ついで「この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し 懺悔しなければならぬと思ふ。全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」と述べて、総懺悔による国内の団結を説いた。そして最後に五箇条の誓文を読みあげ「この際この御誓文を読み奉ってわれわれ国民はこの困難に善処しなければならぬ」(朝日、8・30)と結んだ。この記事をかかげた朝日が、同じ紙面の社説のなかで「正に一億総懺悔の秋」と書いたように、当時は、この首相談話を支持する空気が一般的であり、こうしたイデオロギーを打ち破るような国民の動きは、すぐにはあらわれてこなかった。

  こうしたなかで9月2日午前9時から、東京湾に進出した米戦艦ミズーリ号の上で、降伏文書の調印式が行われ、天皇と日本政府を代表する重光葵外相と大本営を代表する梅津美治郎参謀総長とが調印、ここに太平洋戦争に公式に終止符が打たれたのであった。



第八八回議会の召集


 第八八回議会は、8月24日公布の召集詔書により、9月1日に召集された臨時議会である。この議会の召集は8月23日の閣議で決定されたが、この時は前述 したように8月31日に降伏文書調印が予定されており、その翌日9月1日に臨時議会を召集し、9月2〜3日の会期で国民に戦争終結の経過を知らせ、戦後の復興への協力を呼びかけようというのが最初の構想であった。しかし占領軍の進駐日程降伏文書調印期日などの48時間くり下げにともない、開院式を9月4日とし、4、5日の2日間を会期とすることとした。

  この議会における国務大臣、政府委員、議長・副議長、全院委員長・常任委員長、議員の会派別所属は次の通りであった。

国務大臣 内閣総理大臣 東久邇宮稔彦王
  外務大臣 重光  葵
  内務大臣 山崎  巌
  大蔵大臣 津島 寿一
  陸軍大臣 下村  定
  海軍大臣 米内 光政
  司法大臣 岩田 宙造
  文部大臣 前田 多門
  厚生大臣 松村 謙三
  農林大臣 千石 興太郎
  商工大臣 中島 知久平
  運輸大臣 小日山 直登
  国務大臣 近衛 文麿
  国務大臣 緒方 竹虎
  国務大臣 小畑 敏四郎
 
政府委員(9・1発令) 法制局長官 村瀬 直養
  情報局次官 赤羽  穣
  内閣調査局次官 長崎 惣之助
  逓信院総裁 松前 重義
  逓信院次長 小林 武治
  外務次官 松本 俊一
  外務省政務局長 安東 義良
  終戦連絡中央事務局長官 岡崎 勝男
  内務次官 古井 喜実
  内務省警保局長 橋本 政実
  大蔵次官 山際 正道
  陸軍次官 若松 只一
  陸軍中将 吉積 正雄
  海軍次官 多田 武雄
  海軍中将 保科 善四郎
  司法次官 黒川  渉
  文部次官 大村 清一
  厚生次官 亀山 孝一
  農林次官 重政 誠之
  商工次官 椎名 悦三郎
  運輸次官 平山  孝
政府委員追加(9・3発令) 逓信院次長 新谷 寅三郎
 
〔貴族院〕 議長 徳川 圀順(公爵・火曜会)
  副議長 酒井 忠正(伯爵・研究会)
  全院委員長 島津 忠重(公爵・火曜会)
  常任委員長 いずれも互選するに至らず閉会となる。
 
会派別所属議員氏名
 
開院式当日各会派所属議員数 研究会 164名
  公正会 64名
  火曜会 45名
  無所属倶楽部 29名
  同和会 26名
  交友倶楽部 26名
  同成会 22名
  会派に属さない議員 36名
  412名
 
研究会 林  博太郎
  堀田 正恒
  徳川 宗敬
  樺山 愛輔
  副島 道正
  大木 喜福
  渡辺  昭
  黒田  清
  柳原 義光
  柳沢 保承
  山本  清
  二荒 芳徳
  後藤 一蔵
  酒井 忠正
  溝口 直亮
  児玉 秀雄
  橋本 実斐
  久松 定武
  伊東 二郎丸
  入江 為常
  稲垣 長賢
  井上 匡四郎
  今城 定政
  波多野 二郎
  西大路 吉光
  西尾 忠方
  錦小路 頼孝
  北条 雋八
  保科 正昭
  本多 忠晃
  伊集院 兼高
  戸沢 正己
  土岐  章
  富小路 隆直
  大河内 正敏
  大河内 輝耕
  大島 陸太郎
  岡部 長景
  河瀬  真
  加藤 泰通
  谷  儀一
  立花 種忠
  冷泉 為勇
  曽我 祐邦
  裏松 友光
  梅園 篤彦
  植村 家治
  野村 益三
  柳沢 光治
  松平 親義
  松平 忠寿
  松平 乗統
  松平 康春
  舟橋 清賢
  米山 国臣
  青木 信光
  綾小路  護
  秋田 重季
  秋月 種英
  秋元 春朝
  安藤 信昭
  阪谷 希一
  実吉 純郎
  清岡 長言
  京極 高修
  京極 高鋭
  北小路 三郎
  由利 正通
  水野 勝邦
  三島 通陽
  宍戸 功男
  仙石 久英
  八条 隆正
  織田 信恒
  高橋 是賢
  高木 正得
  大岡 忠綱
  大久保 教尚
  藤井 兼誼
  斎藤  斉
  稲葉 正凱
  渋沢 敬三
  市来 乙彦
  今井 伍介
  八田 嘉明
  坂西 利八郎
  西野  元
  星野 直樹
  長  世吉
  大橋 八郎
  太田 政弘
  小倉 正恒
  河原田 稼吉
  唐沢 俊樹
  賀屋 興宣
  横山 助成
  田口 弼一
  竹内 可吉
  黒崎 定三
  山川 端夫
  松村 真一郎
  松本  学
  藤原 銀次郎
  藤沼 庄平
  伍堂 卓雄
  寺島  健
  有賀 光豊
  青木 一男
  安宅 弥吉
  木村 尚達
  結城 豊太郎
  湯沢 三千男
  三井 清一郎
  宮田 光雄
  勝田 主計
  白根 竹介
  下村  宏
  平塚 広義
  関屋 貞三郎
  堀切 善次郎
  山岡 万之助
  広瀬 久忠
  村瀬 直養
  鈴木 貞一
  正力 松太郎
  森山 鋭一
  内田 信也
  井坂  孝
  小泉 親彦
  堀切 善兵衛
  斎藤  樹
  勅子 李  埼鎔
  三重 伊藤 伝七
  鹿児島 岩元 達一
  北海道 板谷 宮吉
  新潟 飯塚 知信
  長崎 橋本 辰二郎
  宮城 二瓶 泰次郎
  福岡 大藪 守冶
  東京 小野 耕一
  徳島 奥村 嘉蔵
  岐阜 渡辺 甚吉
  鳥取 米原 章三
  島根 田部 長右衛門
  兵庫 滝川 儀作
  松岡 潤吉
  大阪 中山 太一
  石川 中島 徳太郎
  栃木 上野 松次郎
  鹿児島 上野 喜佐衛門
  高知 野村 茂久馬
  滋賀 野田 六左衛門
  北海道 栗林 徳一
  熊本 山隈  康
  奈良 松井 貞太郎
  熊本 古荘 健次郎
  山口 秋田 三一
  千葉 斎藤 万寿雄
  愛媛 佐々木 長冶
  青森 佐々木 嘉太郎
  茨城 結城 安次
  千葉 菅沢 重雄
  静岡 鈴木 幸作
  京都 大橋 理祐
 
公正会 岩村 一木
  岩倉 道倶
  伊藤 一郎
  伊藤 文吉
  井田 磐楠
  稲田 昌植
  井上 清純
  今園 国貞
  伊江 朝助
  飯田 精太郎
  原田 熊雄
  西  酉乙
  坊城 俊賢
  東郷  安
  小畑 大太郎
  大井 成元
  大蔵 公望
  奥田 剛郎
  渡辺 修二
  加藤 成之
  神山 嘉瑞
  高崎 弓彦
  高木 喜寛
  鶴殿 家勝
  中川 良長
  中御門 経民
  村田 保定
  向山  均
  久保田 敬一
  倉富  釣
  山根 健男
  八代 五郎造
  矢吹 省三
  前田  勇
  松岡 均平
  松田 正之
  松平 外与麿
  益田 太郎
  深尾 隆太郎
  近藤 滋弥
  安保 清種
  明石 元長
  浅田 良逸
  北大路 信明
  北島 貴孝
  肝付 兼英
  宮原  旭
  水谷川 忠麿
  三須 精一
  柴山 昌生
  島津 忠彦
  東久世 秀雄
  毛利 元良
  関  義寿
  周布 兼道
  杉渓 由言
  河田  列
  古市 六三
  本多 政樹
  佐竹 義履
  桜井 武雄
  小原 謙太郎
  多久 龍三郎
  松村 義一
 
火曜会 岩倉 具栄
  伊藤 博精
  一条 実孝
  二条 弼基
  徳川 家正
  徳川 圀順
  徳川 慶光
  桂  広太郎
  鷹司 信輔
  九条 道秀
  山県 有道
  近衛 文麿
  三条 公輝
  島津 忠承
  島津 忠重
  井上 三郎
  池田 仲博
  池田 宣政
  細川 護立
  東郷  彪
  徳川 頼貞
  徳川 義親
  大炊御門 経輝
  大隈 信常
  大久保 利謙
  伊達 宗彰
  築波 藤麿
  鍋島 直泰
  中山 輔親
  中御門 経恭
  黒田 長礼
  山内 豊景
  山階 芳麿
  松平 康昌
  前田 利建
  小村 捷治
  小松 輝久
  浅野 長武
  西郷 吉之助
  西郷 従徳
  嵯峨 実勝
  佐竹 義栄
  佐佐木 行忠
  四条 隆徳
  広幡 忠隆
 
無所属倶楽部 大山  柏
  石黒 忠篤
  李家 軫鎬
  太田 耕造
  吉田  茂
  吉野 信次
  田辺 治通
  滝  正雄
  黒田 英雄
  安井 英二
  松本 蒸治
  大野 緑一郎
  東郷 茂徳
  後藤 文夫
  小山 松吉
  鮎川 義介
  広田 弘毅
  千石 興太郎
  遠藤 柳作
  富田 健治
  小林 一三
  阿部 信行
  橋本 清之助
  安藤 紀三郎
  田中 館愛橘
  長岡 半太郎
  山田 三良
  姉崎 正治
  新潟 長谷川 赳夫
 
同和会 勅男 若槻 礼次郎
  勅男 幣原 喜重郎
  岩田 宙造
  稲畑 勝太郎
  徳富 猪一郎
  小原  直
  田所 美治
  田中 都吉
  中川  望
  村上 恭一
  村田 省蔵
  山田 孝雄
  松井  茂
  児玉 謙次
  江口 定条
  出渕 勝次
  有吉 忠一
  赤池  濃
  沢田 牛麿
  左近司 政三
  佐々木 駒之助
  堀江 季雄
  広島 松本 勝太郎
  大阪 佐々木 八十八
  山県 三浦 新七
  岩手 柴田 兵一郎
 
交友倶楽部 久我 通顕
  勅男 山本 達雄
  犬塚 勝太郎
  橋本 圭三郎
  岡  喜七郎
  川村 竹治
  長岡 隆一郎
  中村 純九郎
  内田 重成
  古島 一雄
  水野 錬太郎
  埼玉 岩田 三史
  神奈川 磯野 庸幸
  福岡 出光 佐三
  和歌山 吉村 友之進
  宮崎 竹下 豊次
  佐賀 中野 敏雄
  埼玉 永瀬 寅吉
  岡山 山上 岩二
  大分 麻生 益良
  広島 水野 甚次郎
  群馬 渋沢 金蔵
  愛知 下出 民義
  福島 諸橋 久太郎
  京都 奥  主一郎
  香川 合田 健吉
 
同成会 入江 貫一
  河井 弥八
  米山 梅吉
  田中 武雄
  次田 大三郎
  丸山 鶴吉
  青木 周三
  下条 康麿
  愛知 磯貝  浩
  福島 大谷 五平
  山梨 河西 豊太郎
  長野 片倉 兼太郎
  福井 熊谷 三太郎
  長野 小坂 順造
  富山 佐藤 助九郎
  岡山 坂野 鉄次郎
  静岡 三橋 四郎次
  秋田 塩田 団一郎
  神奈川 平沼 亮三
  茨城 渡辺 覚造
  沖縄 当間 重民
  東京 岩波 茂雄
 
会派に属さない議員 雍仁 親王
  宜仁 親王
  崇仁 親王
  博 恭 王
  武 彦 王
  恒 憲 王
  邦 寿 王
  朝 融 王
  守 正 王
  鳩 彦 王
  孚 彦 王
  稔 彦 王
  盛 厚 王
  恒 徳 王
  春 仁 王
  徳大寺 実厚
  西園寺 八郎
  毛利 元道
  醍醐 忠重
  華頂 博信
  木戸 幸一
  有田 八郎
  小林 (足+斎)造
  古野 伊之助
  前田 多門
  南  次郎
  勅伯 野田 (金+章)憲
  朴忠 重陽
  韓 相 龍
  伊東 致昊
  金田  明
  緑野 竹二郎
  林 献 堂
  許   丙
  松阪 広政
  緒方 竹虎
なお、会期終了日の各会派所属議員数は開院式当日と変わりなかった。
 
〔衆議院〕 議長 島田 俊雄(島根・日政会)
  副議長 勝田 永吉(大阪・日政会)
  全院委員長 漢那 憲和(沖縄・日政会)
     
常任委員長 予算委員長 太田 正孝(静岡・日政会)
  決算委員長 一松 定吉(大阪・日政会)
  請願委員長 清   寛 (岐阜・日政会)
  懲罰委員長 西方 利馬(山形・日政会)
  建議委員長 豊田  収 (鳥取・日政会)
 
党派別所属議員氏名
 
召集日各党派所属議員数 大日本政治会 377名
  翼壮議員同志会 21名
  無所属 25名
  欠員 43名
  466名
     
大日本政治会 東京 牛塚 虎太郎
  中島 弥団次
  長野 高一
  駒井 重次
  川口  寿
  瀬母木 真六
  渡辺 善十郎
  今牧 嘉雄
  真鍋 儀十
  滝沢 七郎
  本多 市郎
  山田 竹治
  四王天 延孝
  大橋 清太郎
  本領 信治郎
  花村 四郎
  中村 梅吉
  前田 米蔵
  田中  源
  浜野 清吾
  八並 武治
  坂本 一角
  京都 田中 伊三次
  今尾   登
  中村 三之丞
  田中 和一郎
  池本 甚四郎
  田中   好
  川崎 末五郎
  岡田 啓次郎
  村上 国吉
  大阪 一松 定吉
  山本 芳治
  田中 藤作
  池崎 忠孝
  上田 孝吉
  山野 平一
  菅野 和太郎
  大川 光三
  吉川 吉郎兵衛
  勝田 永吉
  笹川 良一
  杉山 元治郎
  大倉 三郎
  松田 竹千代
  井阪 豊光
  神奈川 中   助松
  田辺 徳五郎
  佐久間 道夫
  小泉 又次郎
  野口 喜一
  野田 武夫
  岡本 伝之助
  河野 一郎
  安藤   覚
  山口 左右平
  兵庫 中井 一夫
  今井 嘉幸
  浜野 徹太郎
  前田 房之助
  阪本   勝
  白川 久雄
  小林 絹治
  黒田   巌
  吉田 賢一
  清瀬 一郎
  田中 武雄
  原  惣兵衛
  斎藤 隆夫
  佐々井 一晃
  長崎 伊吹 元五郎
  馬場 元治
  木下 義介
  中瀬 拙夫
  小浦 総平
  鈴木 重次
  川副   隆
  森    肇
  新潟 北  ヤ吉
  吉川 大介
  高岡 大輔
  佐藤 芳男
  小柳 牧衛
  三宅 正一
  加藤 知正
  今成 留之助
  石田 善佐
  増田 義一
  埼玉 松永  東
  宮崎  一
  遠山 暉男
  横川 重次
  坂本 宗太郎
  高橋 守平
  石坂 養平
  新井 堯爾
  出井 兵吉
  群馬 中島 知久平
  木村 寅太郎
  五十嵐 吉蔵
  清水 留三郎
  最上 政三
  木暮 武太夫
  千葉 多田 満長
  成島  勇
  篠原 陸朗
  川島 正次郎
  吉植 庄亮
  伊藤  清
  今井 健彦
  中村 庸一郎
  小高 長三郎
  茨城 渡辺  建
  小沢  治
  柳川 宗左衛門
  中井川  浩
  川崎 巳之太郎
  赤城 宗徳
  山本 粂吉
  佐藤 洋之助
  小篠 雄二郎
  栃木 船田  中
  高田 耘平
  矢部 藤七
  佐久間  渡
  菅又  薫
  森下 国雄
  松村 光三
  奈良 越智 太兵衛
  北村 又左衛門
  植村 武一
  三重 井野 碩哉
  川崎  克
  九鬼 紋七
  馬岡 次郎
  松田 正一
  浜地 文平
  田村 レイ
  長井  源
  愛知 加藤 鐐五郎
  下出 義雄
  小山 松寿
  林  正男
  山崎 常吉
  中埜 半左衛門
  桶口 善右衛門
  安藤 孝三
  野田 正昇
  富田 愛次郎
  本多 鋼治
  小笠原 三九郎
  大野 一造
  田嶋 栄次郎
  鈴木 正吾
  大口 喜六
  静岡 八木 元八
  山口 忠五郎
  山田 順策
  鈴木 忠吉
  金子 彦太郎
  大村  直
  勝又 春一
  太田 正孝
  坂下 仙一郎
  山梨 今井 新造
  田辺 七六
  堀内 一雄
  滋賀 堤  康次郎
  松原 五百蔵
  別所 喜一郎
  信正 義雄
  広野 規矩太郎
  岐阜 清    寛
  船渡 佐輔
  石樽 敬一
  伊藤 東一郎
  安田 桑次
  長野 松本 忠雄
  藤井 伊右衛門
  小坂 武雄
  小山  亮
  小山 邦太郎
  羽田 武嗣郎
  木下  信
  小平 権一
  吉川 亮夫
  中原 謹二
  吉田  正
  小野 秀一
  宮城 内ヶ崎 作三郎
  守屋 栄夫
  庄司 一郎
  阿子島 俊治
  村松 久義
  小山 倉之助
  福島 内池 久五郎
  小松 茂藤治
  加藤 宗平
  仲西 三良
  神尾  茂
  唐橋 重政
  植松 練磨
  星   一
  山田 六郎
  岩手 田子 一民
  八角 三郎
  泉  国三郎
  金子 定一
  小野寺 有一
  鶴見 祐輔
  青森 小笠原 八十美
  森田 重次郎
  竹内 俊吉
  長内 健栄
  山形 高橋 熊次郎
  木村 武雄
  近藤 英太郎
  西方 利馬
  伊藤 五郎
  池田 正之輔
  小林 鉄太郎
  秋田 町田 忠治
  信 太儀右衛門
  中川 重春
  川俣 清音
  斎藤 憲三
  福井 薩摩 雄次
  中西 敏憲
  猪野毛 利栄
  酒井 利雄
  添田 敬一郎
  石川 箸本 太吉
  桜井 兵五郎
  喜多 壮一郎
  青山 憲三
  富山 高見 之通
  中川 寛治
  赤間 徳寿
  松村 謙三
  大石 斉治
  鳥取 三好 英之
  豊田  収
  由谷 義治
  島根 田部 朋之
  原  夫次郎
  恒松 於菟二
  島田 俊雄
  岡山 岡田 忠彦
  久山 知之
  片山 一男
  逢沢  寛
  星島 二郎
  犬養  健
  小谷 節夫
  土屋 源市
  広島 奥  久登
  岸田 正記
  田中  貢
  永野  護
  木原 七郎
  肥田 琢司
  永山 忠則
  土屋  寛
  作田 高太郎
  宮沢  裕
  山口 西川 貞一
  林  佳介
  紀藤 常亮
  安部   寛
  西村 茂生
  窪井 義道
  八木 宗十郎
  伊藤 三樹三
  和歌山 中谷 武世
  松山 常次郎
  山口 喜久一郎
  角  猪之助
  小山 谷蔵
  森川 仙太
  徳島 谷原  公
  紅露  昭
  田村 秀吉
  三木 与吉郎
  三木 武夫
  香川 藤本 捨助
  三木 武吉
  前川 正一
  松浦 伊平
  岸井 寿郎
  愛媛 武知 勇紀
  岡本 馬太郎
  米田 吉盛
  山中 義貞
  河上 哲太
  村瀬 武男
  野本 吉兵衛
  毛山 森太郎
  高畠 亀太郎
  高知 松永 寿雄
  大石  大
  依光 好秋
  小野 義一
  福岡 森部 隆輔
  江口  繁
  松尾 三蔵
  赤松 寅七
  図師 兼弐
  楢橋  渡
  沖   蔵
  山崎 達之輔
  鶴   惣市
  松延 弥三郎
  橋本 欣五郎
  勝  正憲
  林  信雄
  大分 柏原 幸一
  金光 庸夫
  大島 高精
  一宮 房治郎
  山口 馬城次
  綾部 健太郎
  木下  郁
  佐賀 真崎 勝次
  池田 秀雄
  田中 亮一
  藤生 安太郎
  愛野 時一郎
  保利  茂
  熊本 荒川 真郷
  大麻 唯男
  松野 鶴平
  石坂  繁
  中井 亮作
  深水 吉毅
  三善 信房
  伊豆 富人
  宮崎 斎藤 正身
  三浦 虎雄
  曽木 重貴
  野村 嘉久馬
  小田 彦太郎
  鹿児島 高城 憲夫
  松方 幸次郎
  南郷 武夫
  小泉 純也
  津崎 尚武
  原口 純允
  東郷  実
  寺田 市正
  浜田 尚友
  宗前  清
  永田 良吉
  金井 正夫
  沖縄 漢那 憲和
  仲井間 宗一
  伊礼  肇
  桃原 茂太
  崎山 嗣朝
  北海道 山本 厚三
  安孫子 孝次
  正木  清
  松浦 周太郎
  吉田 貞次郎
  坂東 幸太郎
  前田 善治
  真藤 慎太郎
  大島 寅吉
  渡辺 泰邦
  手代木 隆吉
  北  勝太郎
  南条 徳男
  深沢 吉平
  星野 靖之助
  黒沢 酉蔵
  南雲 正朔
  東条  貞
  奥野 小四郎
     
翼壮議員同志会 大阪 河盛 安之介
  兵庫 金光 邦三
  木崎 為之
  新潟 長沼 権一
  稲葉 圭亮
  田下 政治
  群馬 蝋山 政道
  茨城 福田 重清
  栃木 森田 正義
  静岡 加藤 弘造
  森口 淳三
  山梨 高野 孫左衛門
  福島 牧原 源一郎
  青森 三浦 一雄
  楠美 省吾
  秋田 二田 是儀
  石川 村沢 義二郎
  鳥取 坂口 平兵衛
  岡山 森谷 新一
  高知 宇田 耕一
  中越 義幸
     
無所属 東京 河野  密
  原  玉重
  鳩山 一郎
  安藤 正純
  赤尾  敏
  津雲 国利
  京都 水谷 長三郎
  芦田  均
  大阪 田万 清臣
  紫安 辛九郎
  西尾 末広
  兵庫 河上 丈太郎
  新潟 中村 又七郎
  千葉 白鳥 敏夫
  栃木 日下田  武
  奈良 江藤 源九郎
  三重 尾崎 行雄
  山梨 平野 力三
  岐阜 三田村 武夫
  牧野 良三
  宮城 菊池 養之輔
  山形 松岡 俊三
  矢野 庄太郎
  福岡 松本 治一郎
  満井 佐吉


 なお、この議会の会期中に、福家俊一(日政会・東京一区)、有馬英治(無所属・福岡四区)、小山田義孝(無所属、秋田二区)が召集より除隊、復職し、従って会期終了時には大日本政治会が378名に、無所属が27名に増加している。



第八八回議会の状況

 この議会は、戦争終結の経過を国民に知らせることを主な目的として召集された議会であり、政府側からも具体的な議案は何も提出されなかった。また国務大臣の演説も、東久邇宮首相の演説が行われたのみであったが、その資料として、これまで極秘とされてきた 終戦に至る外交経過に関する報告書、陸海軍の損耗表、軍需生産の実績や財政・金融・運輸・厚生・農林各部門にわたる戦争中の推移、戦災状況に関する資料などを、貴・衆両院議員に配布したことは、これまでにない措置として注目を集めた。

  しかしこれらの資料は主として、日本の軍事力及び生産力が戦争を継続しえないまでに弱体化したことを示すものにほかならず、首相の演説もこれらの資料に頼りながら、ガダルカナル戦以後の戦力の弱体化を説き、さらにそのうえに原爆投下とソ連参戦という大打撃を加えられ最悪の事態におちいった時、終戦の「聖断」が下されたと説明するにとどまるものであった。すなわち、敗戦の原因を専ら物の状況に還元し、責任問題の追及は総懺悔論で遮断するというところに、この演説の基本的性格があらわれていた。そこで問われているのは敗戦の「責任」ではなく「原因」のみであり、従ってそこからは、更にさかのぼって「開戦」の「責任」を問題にしようなどという発想が生まれることはありえなかった。

  この首相演説に対して、貴族院では何の質問も行われず、ただ「聖旨奉体ニ関スル決議」、「帰還将兵ニ村 スル感謝決議」を採択しただけであった。衆議院でも、類似の二決議案(「皇軍将兵並国民勤労戦士ニ村スル感謝敬弔決議案」、「承詔必謹決議案」)が可決されているが、貴族院にくらべると議場はやや活発であった。

  まず芦田均が「大東亜戦争ヲ不利ナル終結ニ導キタル原因並其ノ責任ノ所在ヲ明白ニスル為政府ノ執ルベキ措置ニ関スル質問」を、松本治一郎が「戦災者救済ニ関スル質問」を書面で提出、議場では東郷実が首相演説に対する質疑のため登場している。このうち松本の質問は、陸海軍が無統制に処分した物資を至急回収 して戦災者に給与することを求めたものであったが、芦田の質問は戦争の原因・責任などの問題について自らの意見をかかげてそれに対する政府の所見を問うた長文のものであり、戦後最初の議会にふさわしいものといえた。しかしこの両者に対する政府の答弁書は、「傾聴ニ値ヒスルモノアリ」という程度のものであり、論議は発展しないままに終わった。

  この戦争の原因・責任には東郷も簡単にふれ、満州事変以来わが国の外交は「二元的ニ堕シ」、「政治ガ軍ト官僚トニ依ツテ壟断セラレ、政治ノ責任ヲ持タザル者ガ政治ヲ支配シ」などと述べたが、「ソレハ君等ガ協カシテ来タノデハナイカ」などと野次られるようでは突込んだ議論が出来るわけはなかった。東郷はまた首相演説がふれている戦後の復興対策についても質問を行っているが、抽象的なものにとどまっていた。一般的にいっても具体的な政策論議が展開されるようになるのは、この議会の後、占領軍による民主化政策が具体的な指令として提示されるようになってからのこ とであった。

(古屋哲夫)



第八九回帝国議会 貴族院・衆議院解説