1 貴族院中心の組閣
(1)加藤に非ずんば加藤
大正11年(1922年)6月6日、高橋是清首相が閣僚の辞表をとりまとめて奉呈すると、摂政宮(現天皇)は翌日、内大臣松方正義に後継首相について下問すると同時に、興津の別邸で病床にあった西園寺公望に対しては徳川侍従長をさしむけた。このときすでに元老はこの2人だけであり、西園寺はこのときは病気を理由に松方に一任する態度をとっていたから、後継首相推挙の責任は一に松方の肩にかかることになった。
そこで根方は、枢密院議長の清浦奎吾と、元老以外の生存者では唯一人の首相経験者である山本権兵衛とを相談相手とすべく来邸を求めたが、山本は自分がかかわるべき問題ではないとして、葉山の別邸に出かけてしまった。元老が元老以外の特定の資格のある者―枢密院議長と首相経験者―を選んで首相選任についての相談を侍ちかけたというのは今までに前例のない出来事であったが、また、そのうちの一人から”そっぽ”を向かれるというのもこれまででは予想もされないことといってよかった。山県の死によって、明らかに元老の地位は低下していた。
山本の協力を得られなかった松方は、清浦と2人だけで協議し、第一候補をこれまで四代の内閣(大隅・寺内・原・高橋)にわたって海軍大臣をつとめあげた加藤友三郎、第二候補を憲政会総裁の加藤高明とすることとした。いわば「加藤に非ずんば加藤」というわけであり、このうち加藤友三郎は松方、加藤高明は清浦が推薦したものと伝えられる。友三郎の場合には海相としての実績に加えて、ワシントン会議の全権委員の一人として海軍軍縮条約をまとめあげた手腕が高く評価され、次期内閣にとってワシントン会議で調印された諸条約の実施が大きな課題となる点が考慮されたのであった。また高明の場合には、政友会内閣である高橋内閣が行き詰まった以上、次は野党第一党の憲政会に政権を渡すべきだとする、いわゆる「憲政の常道」論を名目としたものであっ た。
そしてこの「加藤に非ずんば加藤」の方針をきめると、清浦が使者となって6月8日山本、翌9日西園寺を訪問したが、これに対して西園寺が、松方がよいといえばそれでよいと答えたのに対して、山本は「開き直り、自分は今日斯の如き御相談を蒙る資格なし、摂政宮殿下より御召とあれば是非なき次第なるも、元老より御相談を受くべき筋なしとて、一言の下に之を刎付けた」(岡義武・林茂校訂「大正デモクラシー期の政治―松本剛吉政治日誌」(以下「松本政治日誌」)昭和34年185頁)といわれる。しかしともかく清浦からこの報告をうけた松方は、6月9日午前早速加藤友三郎を招いて奮起をうながしたが、友三郎 は固辞してうけず、松方は再考を求めて会談を打ち切るほかはなかった。そこで彼は友三郎辞退の場合を考えて、夜になって加藤高明とも会談している。
この席で松方は、もし加藤友三郎が辞退して組閣の大命降下するときはどうするかと問い、加藤高明は「私は政党の首領であるから大命降下の節は何時にても御請けする」と答えたというし、また軍部大臣や大蔵大臣の人選などについても意見が交されたといわれる(「松方政治日誌」230頁)。つまりこの会談は、憲政会にとって政権が意外に近いところまできていることを意味するものであった。憲政会は大いに色めき、幹部は有力者を歴訪して暗躍をはじめた。
(2)あわてる政友会
ところでこの当時、憲政会は野党第一党とはいえ衆議院に100名そこそこの勢力を有するのみであり、また元老側も加藤高明に好感を持っていないとみられており、したがってこの政変で、憲政会内閣の成立する可能性はきわめて少ないというのが一般の見方であった。とくに政友会では、加藤友三郎海相が辞退すれば、高橋是清総裁への大命再降下しかありえないとする見方が支配的であり、9日夜には加藤の辞意が固いとのニュースをきいて、祝杯をあげるという有様であった。
ところが夜半になって、内務次官の小橋一太が第二候補が加藤高明であることをかぎ出し、先輩の政友会幹部床次竹二郎に今夜中に友三郎に引きうけさせねば、憲政会内閣が出来ると告げたため、床次は直ちに家をとび出 して徹夜の奔走をはじめた。
「政友会は俄に大狼狽を始め、昨夜(9日)深更から今朝(10日)にかけ領袖総掛りで右往左往に飛び廻り議長官舎を中心として必死の大運動を開始した。先づ野田、岡崎、床次、山本達の諸氏が順次個別的に加藤海相を其官邸に訪ひ百方言葉を尽して男(加藤友三郎は男爵)の出盧を哀訴嘆願したが、更に横田千之助氏は高橋総裁の代理として加藤男を訪ひ、若し貴下が大命を拝受せられるならば政友会は極力之を援助するから是非受諾せられたいと種々慫慂する所があった」(「東京朝日新聞」大正11年6月11日付夕刊(10日発行))。
このとき総裁を代理した横田は、「政友会に於ては加藤男と折衝の上、遂に党員は一名も入閣せしめず、無条件にて加藤内閣を援助することを誓へり」(「松本政治日誌」186頁)という。こうした政友会側の猛運動の結果、加藤は10日に予定していた松方への返事を11日に延期し、10日夜には政友会の貴族院議員(交友倶楽部所属)水野錬太郎を招いて協議を重ねるにいたっている。このことは加藤が政友会の支援のもとに、政友会と友好的関係にある貴族院の研究会・交友倶楽部を基礎として組閣を引きうける方向に動いてきたことを意味していた。
これに対して憲政会側では、加藤友三郎内閣さえ阻止すれば政権にありつけるとあって、松方の邸へ押しかけるとか、急拠「憲政擁護」大演説会を開くとか、あわただしい動きをみせた。世論のなかにも、例えば『東京朝日新聞』が「加藤男推薦に反対(中間内閣は何人でも)」(6月10日)と題する社説をかかげ、「現代に於て政党に関係なき官僚や軍閥が、起って超然内閣を組織するといふ事は殆んど過去の夢で、現代人は如何にしても之に承服は出来ない」といった観点から、これまでの反対党である憲政会に政権を渡すべきであると論じているように、憲政会に有利な動きもみられた。しかし憲政会のいう「憲政擁護」も「加藤に非ずんば加藤」という元老路線を前提 としている以上、所詮政治運動として迫力のあるものとなりうるはずはなかった。
6月11日朝、加藤友三郎は松方正義を訪れて内閣組織の決意を固めた旨回答、松方は昼すぎ参内して、摂政宮に加藤を推挙、直ちに加藤に組閣の大命が下された。組閣は床次竹二郎、水野錬太郎らを参謀としてすすめられたが、夕刻までには閣僚の選考を終わり、翌12日午後1時50分より親任式が行なわれて加藤内閣は正式に成立した。
閣僚の顔触れをみると、加藤首相が海相を兼任、内田康哉外相、山梨半造陸相がそのまま、大木遠吉が法相よ り鉄相に移って留任している。新任の閣僚では、元大蔵次官で日露漁業社長の地位にあった市来乙彦を蔵相に、慶応義塾大学総長の鎌田栄吉を文相に登用したのが注目された。そのほか行政裁判所長官の岡野敬次郎を法相、貴族院の子爵議員で研究会幹部の前田利定を逓相、朝鮮で度支部長官をやったことのある荒井賢太郎を農商務相、組閣参謀をやった水野錬太郎を朝鮮政務総監から内相にそれぞれ起用している。これを議会の会派からみると、貴族院の研究会所属が大木、前田、荒井、市来の4名、同じく貴族院の交友倶楽部所属が水野、 岡野、鎌田の3名となっており、この内閣が貴族院最大の会派である研究会と貴族院における政友会別働隊の役割を果たしている交友倶楽部とを2本の支柱としており、さらにそのことによって、衆議院での政友会の暗黙の支持を確保するという仕組みのうえに成り立っていることをうかがうことができる。
この内閣を世人は、中間内閣、超然内閣、官僚内閣、変態内閣、逆転内閣などと呼んだが、このうち 「変態」とはこうした政友会との陰徴な関係を指しており、「逆転」とは政党内閣への流れを逆転させたとする評価に立つものにほかならなかった。
2 シベリア撤兵問題
(1)ついに撤兵に踏み切る
この内閣の第一の課題が、ワシントン会議で結ばれた条約の実施や同会議で提起された問題の処理など、いわばワシントン会議の後始末であることは、内閣成立の過程でも自明のこととされていたが、このなかで実際に内閣が最初に手をつけたのは、シベリア撤兵の問題であった。
すでにワシントン会議の開催が決定された時点で、シベリア出兵をつづけているのは日本だけとなっており、 これ以上国際的に孤立しながら出兵をつづけてみても、何の利益にもならないことは明らかになっていた。そこですでに原内閣時代の大正10年(1921年)8月から、極東共和国(1920年成立、チタを首都とする過渡的政権)との間に撤兵条件を協議するための大連会議を開き、またワシントン会議で日本代表は、条件が整い次第撤兵することを約束した。大連会議は、極東共和国を非共産主義の緩衝国として維持し、そこに経済的進出をはか ろうとする日本側の思惑のため、結局大正11年4月16日になって決裂したが、その直前の4月10日からはジェノアで、ソ連代表も出席して旧ロシアの債務処理問題や経済復興問題を討議するための国際会議が開かれており、このことは革命後のソ連がようやく安定し、国際的にもその存在がうけいれられるようになってきたことを意味していた。もはや撤兵を引きかえに何らかの利権を得ようとする策謀の余地はなくなっていた。そしてこ うした状況のもとで極東共和国側からの積極的な働きかけも行なわれていた。
この内閣の親任式が行なわれた6月12日、極東共和国国営通信社「ダリタ」の通信員アントーノフは外務省に松平恒雄欧米局長を訪ね、チタ政府側は誠心誠意日本との交渉再開を希望しており、自分は交渉の性質・場所および時期につき日本側との予備交渉の権限を委任された。ただし交渉開始に先立って、@ソビエト政府の代表を交渉に参加させること、A撤兵完了の時期を予め明示することを承諾されたいと申し入れた。これに対して日本側でも、ジェノア会議が開かれるような状況になっては、国際的に撤兵を強要されるといった不利な事態が起 こることも憂慮されるようになっており、6月23日の閣議で、10月末日までに沿海州より撤兵するという方針を決定し、翌日政府声明の形で公表した。またアントーノフの申しれに対しても、ソビエト政府の交渉参加を認め、交渉場所としては大連を提議することとしたが、予備交渉の結果、会議は9月4日から長春で開かれるこ ととなった。
この間政府側は、さらに長春会議の成り行きにかかわらず撤兵を進めることにし、7月15日には尼港(ニコラエフスタ)をふくむサガレン州の樺太対岸地方からも9月末までに撤兵するとの方針を発表した。これによって残る日本軍は、北樺太占領軍のみとなったが、これは尼港事件(「原内閣」の項参照)解決のための保障占領であり、シベリア出兵とは性質が異なるというのが日本側の言い分であった。
撤兵は声明どおり順調に進められ、まず9月27日北樺太対岸地方よりの撤兵を終わり、10月25目に沿海州からの撤兵が完了している。
(2)長春会議の決裂
さて長春では、日本代表松平恒雄外務省欧米局長、極東共和国代表ヤンソン外相、ソビエト代表ヨッフェが9月4日に初顔合わせを行ない、翌5日の全権委任状交換から正式会談にはいったが、会議は最初から代表の権限などをめぐって紛糾した。ヨッフェはまず、日本代表の権限は極東共和国の範囲に関する交渉に限られている点をとりあげ、極東共和国とソビエトが政治的にも経済的にも緊密な関係にある以上、日ソ関係全般を討議の対象としなければ意味がないと強調した。
これに対して日本側は、協定の適用範囲を極東共和国とすることには固執したが、その協定には、一方に日本、他方に極東共和国とソビエトが調印すること、協定成立後ひきつづきソビエトとの間で通商に関する暫定協定締結に関する交渉を行なう、との案を提示し、ともかくも会議は、さきの大連会議の際の議題となっていた協定案を再度とりあげるという形ですすめられた。協定案のうち、敵対的行為および有害な宣伝の相互禁止、相手国民の自国内での旅行・居住の自由や生命財産の安全の保障などの点では合意に達し、とくに敵対的行為および有害な宣伝の相互禁止の条項はソビエトにも適用することにし、日ソ間で文書による取決めを行なうこととした。
しかし、自国内で相手国民の企業活動を相互に認め合うという条項や、極東共和国が鉱山採掘や森林伐採などに関して外国人に加えていた制限を撤廃することとした条項などには、ソビエト側が強く反対し交渉は行き詰った。これらの条項は、極東共和国を共産主義でない、いねば「有産民主制」といった段階にとどめておこうとする日本側の意図を示すものであったが、ヨッフェは外国からの干渉と不離の関係にある「緩衝国」の観念や構想 は今日では全く意味がなくなっていることを強調し、ソビエトと極東共和国との一体化の方向を示唆していた。
しかし長春会議が一挙に決裂してしまったのは、9月23日になってソビエト側が、北樺太からの撤兵の時期を明示し、それを協定の本文か附属文書中に規定することを要求してきたためであった。これに対して日本側は北樺太駐兵は尼港事件解決のための保障占領であり、尼港事件についての交渉は、この協定とは別に協定成立後ひきつづいて行なうことに予備交渉でも了解がついているではないかと反論した。この日本側の主張に対してヨッフェは、ソビエトにも極東共和国にも責任のない尼港事件と、北樺太駐兵とは別個の問題であり、たしかに尼港事件については後で別の交渉にゆずることは了解しているが、それは北樺太駐兵を含むものではないとの論理を展開したのであった。つまりソビエト側は、その領土を日本軍から完全に解放することを協定締結の基本目標にしていたわけである。
それは北樺太占領はシベリア出兵とは別個のものだという日本側のこれまでの主張を頭から否定するものであり、日本側はこの時点で会談決裂を決意した。9月25日、松平代表は、ソビエト側がすでに大連会議でもこの会議の予備交渉でも了解済みとなっている事柄を否認するような態度をとる以上、このうえ交渉をつづけることは出来ないと声明、ヨッフェロシア領が完全に解放されないような協定は何の価値もないとしてこの会議に終止符を打った。21日間にわたり、会合13回に及んだ長春会議も、再び何の成果もなく決裂してしまったのであった。
なお、日本軍の沿海州撤兵が完了した20日後の11月15日、極東共和国はソビエト・ロシアに吸収されて解消し、さらに12月30日には全ロシアを統一するソビエト社会主義共和国連邦の結成が宣言された。それはシベリアに「緩衝国」をつくり出そうとする日本の野望を完全に打ちくだいたものであった。
3 軍縮の実施
(1)海軍軍縮
ワシントン会議の諸成果のうち、最も社会的に注目されたのは何といっても、現にある軍艦を沈めたり、スクラップにしてしまうという海軍軍縮条約であった。同条約を日本は調印国中で最も早く大正11年(1922年)8月5日に批准したが、それと同時に既成艦14隻の廃棄を中心とする具体案を作成し準備作業を開始した。なお5か国の批准書寄託が完了して条約の効力が発生したのは、この内閣の末期、大正12年8月17日になっており、実際の撃沈やスクラップ化はこれ以後になっているが、日本側は条約発効を既定の事実とみて作業を進めており、大正12年度予算ですでに軍縮の成果を示している。
ところで廃棄される14隻の処分方法をみると、戦艦の安芸・薩摩・鹿島・香取の4隻をはじめ、巡洋戦艦の生駒・伊吹・鞍馬の3隻に敷設艦の津軽、一等海防艦の肥前・石見を加えた計10隻は沈めるか、または解体する、日露戦争時の連合艦隊の旗艦三笠は各国の承認を経て記念物として保存する、朝日・敷島・摂津の3艦は武装を解いたうえ、特務艦として保存する、というものであった。
このほか、建造中の赤城・加賀は航空母艦に改造、土佐・紀伊・尾張・天城・高雄・愛宕の6隻は建造を中止 し、造船所などには契約解除にともなう賠償または補償を支払うこととした。さらにこうした艦艇の縮小に対応 して海軍全体の組織の縮小も行なわれ、舞鶴・鎮海を軍港から要港に格下げする、竹敷・永興・旅順の各要港を廃止する、教育本部と建築本部を廃止し海軍省内の教育局・建築局に縮小する、などの措置がとられており、これによって、海軍軍人の整理は准士官以上約1700人、下士官兵約5800人に及んだ。
また建艦の中止に伴い、大正11年10月10日には早くも呉海軍工廠で4000余名、東京海軍造兵廠で950名の職工が解雇されているが、以後職工の整理は総計1万4000名に達したという。
しかし条約による主力艦縮小が実現された反面、条約に規定されていない補助艦艇の面では強化拡張がはから れており、これまでの建艦計画である88艦隊計画継続費のうち、軍縮によって不用となった額は3億8790万余円にのぼったが、反面、補助艦艇建造費として1億8069万余円が追加計上されることとなり、継続費全体の縮小額は2億721万余円となっている。これを大正12年度予算でみると、海軍軍縮による節減額は、4764万余円であった。
(2)陸軍軍縮
海軍軍縮の実現が、陸軍にも軍縮を求める強い世論を生み出したことは、大正11年春の第四五議会、衆議院で 「陸軍軍備縮小建議案」が可決されたことからもうかがうことが出来る。そして陸軍もこれを機会に軍縮に踏み切ったのであった。さらに加藤内閣は成立後の最初の閣議で、軍縮の準備が出来次第、次の議会を待つことなく実施に移す方針を決め、第一次軍縮は早くも8月15日に実施されることとなった。
ところで陸軍軍縮の場合には、さきの軍縮建議案が示した「歩兵の在営期間を1年4か月に短縮すると同時 に、諸機関の整理を断行して年額4千万円の経費を節減せよ」という線を規準にして論ぜられているが、陸軍側はまず、建議案の要求するような在営年限短縮は、学校など軍隊以外での軍事教育の普及を前提としなければならず、今すぐには実現できないと主張し、軍縮の中心を平時兵力の削減におくことにした。しかもその場合にも、作戦の基礎となる師団の数はそのままとし、各兵科にわたって整理する人員を抽出するという方式がとられた。例えば歩兵の場合をみると、これまで四中隊で編成されていた大隊を三中隊に編成替えすることで、一大隊につき一中隊、合計220中隊、3万3000人を減ずるが、その代わりに一連隊に二機関銃隊を新設するというものであった。つまり兵員数を削減する代わりに、兵器や装備の近代化を図るというのが、この軍縮の基本的方向といえた。他の兵科をみても、騎兵、野砲兵、工兵などが縮小された代わりに、野戦重砲兵、鉄道兵、通信兵、航空兵などは増員されている。
しかしともかくも、将校・下士1800名、兵卒5万6000名、馬匹1万3000頭の整理縮少が実現されたことは、明治建軍以来拡張一本槍の歴史のうえで画期的なことであった。陸軍側は、この数字は五個師団ない し六個師団分にあたると説明している。また問題の在営期間については、現役兵の入営時期をおくらせて40日縮減し、さらに予備役以後の演習召集・簡閲点呼を減らして召集日数を47日縮減する、つまり全兵役期間を通 じ87日間を減らすこととした。しかしこれらの措置による経費節減額のうえに、シベリアや山東などからの撤兵による節減額を加えても、大正12年度予算に計上できるのは、約2300万円にとどまり、議会側の要求す る年額4000万円には、はるかに及ばなかった。そこで陸軍側は、大正12年度以降にも、独立守備隊の廃止、憲兵隊・軍楽隊・軍学校・衛戌監獄の整理などを行なってゆくこととし、10年計画で4億円を節減する、 したがって10年間をならしてみれば、年額4000万円の節減が実現されることとなると説明した。
この軍縮は、陸相の名をとって山梨軍縮と呼ばれるようになったが、野党側からはこの軍縮を不徹底とする批判が強く出され、結局、加藤高明内閣の時期になって、宇垣一成陸相の手で第二次軍縮が実施されることになるのであった。
4 対中国政策の混迷
(1)深まる孤立
この内閣は、対中国政策においてもまた、ワシントン会議から生み出された問題を処理することからはじめねばならなかった。まず内閣成立直前の6月2日、山東懸案解決に関する条約が批准交換を終わって発効したため、6月25日から北京で、山東省の旧ドイツ権益などを中国に返還する際の細目協定をめぐる交渉がはじめられた。この交渉は12月5日にいたってすべての問題で協定に達し、日本側はそれにしたがって、12月10日膠州湾租借地行政を中国政府に引き継ぎ、同月17日には青島派遣軍の引きあげを完了、さらに翌大正12年1923年)1月1日を以て山東鉄道を返還、これで第一次大戦以来紛糾をつづけてきた山東問題もようやく解決したことになった。
しかしこの解決は、日本の利権要求が国際的な支持を得ることが出来ず、日本が後退を余儀なくされるという形での解決にほかならなかった。日本はもはや、かつての帝政ロシアのような、お互いの特殊利益を認め合いながら対中国政策を進めうるようなパートナーを失っており、したがって自分だけの特殊な利益を要求しようとすれば、たちまち国際的に孤立するほかはなくなるというのが、ワシントン会議の生み出した帰結であった。そしてそのことを確認するかのように、アメリカからは、石井・ランシング協定廃棄の要求が出されていた。
この協定は、大正6年(1917年)11月2日、石井菊次郎特使とランシング米国務長官との間に交わされたものであり、両国が中国の領土保全と門戸開放・機会均等の原則を支持することを声明する反面、日本が領土の近接する中国において特殊の利益を有することを認めた点を特徴とするものであった。しかし、中国に関する9か国条約が調印された以上、その例外をなすようなこの協定は廃棄すべきだというのがアメリカの言い分であった。アメリカはすでに高橋前内閣の末期、1922年5月4日付覚書で廃棄を申し入れてきていたが、日本側 はこの内閣になってから外交調査会にかけ、8月29日になってこの申入れに同意する旨の覚書を決定したのであった。
この対米覚書は、石井・ランシング協定の廃棄から生ずる誤解を防ぐためとして、元来同協定は「九国条約ト何等抵触スルモノニアラズ」、またそこで言われている「支那ニ於ケル日本ノ特殊利害関係トハ単ニ両国ノ地理的隣接ヨリ生セル現実ノ事態ヲ指セルモノタルニ過ギズ」、したがってその特殊利害関係は「外交文書ヲ以テ明 示的ニ之ヲ認ムルト否トニ拘ラズ存在スルモノ」であることを強調していた。つまり、日本が中国に対して持つ特殊利害関係は、この協定の存続とかかわりなく存在しているのだから、この協定の廃棄は「支那ニ対スル日本 ノ地位ノ変化」を示すものではない(外務省編「日本外交年表竝主要文書」下巻昭和25年33頁)、というのが日本側の見解であったが、しかしアメ リカがわざわざこの協定を廃棄したのは、そうした特殊利害関係を基礎にした日本の特殊な要求を認めることは出来ないという意思表示に他ならなかったであろう。
この対米覚書は12月27日になってアメリカ側に手渡され、その結果翌大正12年(1923年)4月14日になって、米国務長官と日本大使との間の交換公文の形で、石井・ランシング協定の廃棄・失効が公式に確認 されたのであった。
(2)日華郵便協定と枢密院の不満
ワシントン会議は、中国問題に関する日本の立場を孤立させるとともに、その反面では中国の日本に対する民族的立場からの抵抗を強めるという結果をも生み出していた。そしてそのことは、これも九か国条約の副産物と して出されてきた中国との郵便協定締結の過程で早くも明らかになってきた。
問題の発端は、九か国条約審議の過程において、中国領内で外国が無断で郵便局を開設しているのは中国の主権侵害であるとの論議が起こされ、その結果、九か同条約に附帯して、現に中国に存在する外国郵便局(日英米仏の四か国)は、「租借地内ニ在ルモノ又ハ条約ニ依り特ニ規定セラレタルモノ」を除き、すべて大正12年1月1日までに撤廃すべし、との決議が行なわれたことであった。日本もこの決議にしたがって、日本郵便局を撤退させることとし、その後の郵便連絡を確保するため、郵便物等の交換協定のための交渉にはいり、12月8日には協定の調印に達した。そこで政府は協定正文の到着を待って枢密院に諮詢の手続きをとったが、枢密院からは、諮詢の手続きと協定の内容の双方について強い不満が表明されるという予期しない事態に直面することとなった。
枢密院の不満はまず、この郵便協定が批准を要せず、また調印に際して何等の留保もしていないから、調印と同時に効力を発生するものであるとし、したがって政府はすでに効力の発生した協定をあとから枢密院に持ち込んでいることになり、これでは審議の仕様がない、というのであった。さらにまた、枢密院側は、政府がこの協定に関する参考として「南満州鉄道附属地郵便協定」を提出した点をつき、何故これを枢密院の詢議に付さないのかと詰問した。そしてそれは枢密院側がこの協定の内容に強い不満を持ったことを意味していたし、また郵便協定における日中間の重大な争点を衝くものでもあった。
この満鉄附属地郵便協定は、附属地内の日本郵便局については、暫定的に現状を維持することをきめた簡単なものであったが、そのことは満鉄附属地の性格についての日中双方の見解の対立が解けなかったことを示していた。すなわち日本側は、満鉄附属他の日本郵便局は「租借地内ニ在ルモノ又ハ条約ニ依り特ニ規定セラレタルモノ」という廃止の除外例にあたるとしたが、中国側は日本の主張は「適法ノ根拠ナシ」と反論し、結局日本側も問題を他日の交渉事項として、とりあえず現状維持を承認させることで妥協したのであった。
つまり日本の在満権益の主要なものは、たんにロシアの利権を引きつぐことだけを中国側に認めさせただけで、以後は既成事実の積みあげによってその内容を拡大するというやり方がとられており、その点は満鉄附属地に最もはっきりとあらわれていた。元来、ロシアと清国との契約でも鉄道附属地の性格はあいまいなものであり、その広さが明確に規定されていたわけでもなかった。日本側はこのあいまいさを利用して広大な土地を附属地のなかにとり込み、政府は満鉄会社にも一種の行政権を与えて、附属地を租借地に準ずる形で支配していったのであった。それは中国側からいえば、中国の承認を得ていない不法なものであり、郵便局もその不法なものの一環にほかならなかった。したがって郵便局問題が再交渉となり、そこで中国側の言い分を認めないとしてもそうした交渉自体が満鉄附属地の支配のあり方全体をつき崩す可能性を持つものであった。
枢密院の憂慮したのはまさにこの点に関してであった。
12月29日の枢密院本会議で審査委員会の報告に立った伊東巳代治枢密顧問官は、満鉄附属地郵便局について「支那国ヲシテ現状維持ヲ承認セシムルハ暫定的ノ原則ニ過キサルコトヲ明記シタルハ正ニ……帝国ノ地歩ニ一大譲歩ヲ敢テシタルモノト言ハサルヘカラス、是レ実ニ帝国ノ利害ニ照シ容易ナラサル事項タルコト論ヲ埃タス、而シテ此ノ一事ヨリ惹テ租借地、南満州其ノ他支那国全般ニ対スル帝国各種ノ権利ニ後累ヲ及ホスノ虞ナシトセサルニ想到スルニ於テ真ニ国家ノ得喪二鑑ミ切々憂慮ニ堪ヘサルモノナキコト能ハサルナリ」(国立公文書館蔵「枢密院会議筆記」による)とその危惧を訴えている。そしてこの日の枢密院会議は内田外相の弁明にもかかわらず、内閣の措置は遺憾に堪えずとする弾劾的上奏案を可決した。これに対して内閣側も上奏して経過説明を行ない、摂政は12月31日同協定を裁可、1月1日からの実施に間に合わせた。さらに摂政は1月22日になって、加藤首相と清浦枢密院議長の双方に「善ク話シ合フ」ことを求め、第四六議会終了直後の3月29日、31日の両日にわたって開かれた加藤首相と枢密院側との懇談会において、首相が内閣側の手落ちをみとめてこの問題は一応落着した。
しかし枢密院側がおそれた中国の民族主義的な動向は、この間にも日本の満蒙権益に焦点を合わせた形で具体化してきていた。すなわち3月10日、廖中国代理公使は内田外相に対し、本国国会の決議にもとづくとして、いわゆる二一箇条条約廃棄の要求を提議してきた。すでに二一箇条条約は最後通牒によって脅迫されたものであり無効であるとする主張は、第一次大戦後中国側が一貫してくり返してきたものであり、ワシントン会議でも提起されていたが、ここで改めてくり返されたのは、この3月27日で露清間の原条約による関東州租借期限が切れるという事情に対応したものであった。
つまり、二一箇条条約の最大の眼目は、日本がロシアからひきついだ諸権利の期限を九九か年延長させる点におかれていたのであり、したがって二一箇条条約が無効となれば、最も早くまた短い期限で締結された関東州租借権がまず満期となるというわけであった。内田外相は3月14日、廖代理公使に「貴国政府ノ提議ニ対シテハ何等応酬スルノ必要無之候」(「日本外交年表竝主要文書」下巻35頁)と回答しているが、しかし中国において、二一箇条条約無効の声が、旅順大連回収の叫びへと高まり拡まってゆくことを阻止することはできなかった。
(3)対軍閥不干渉方針
中国のなかに民族主義的な動向が強まったとはいえ、まだ軍閥割拠の政治状況を脱することは出来ず、軍閥間の軍事衝突も一層激化していた。この内閣成立前後の時期をみても大正11年(1922年)4月から6月にかけては奉天軍閥張作霖が北京をめざして進撃し直隷軍閥の呉佩孚軍と衝突したものの、かえって敗北して満州に逃げ込み東三省独立を宣言するという第一次奉直戦争が起こり、また6月から8月にかけては、広東政府を組織 していた孫文が陳炯明軍に敗れて上海に逃れるといった事態も起こっている。こうしたいわば流動的な軍閥割拠状況に対してどう対応すべきか、というのがこの時期の内田外相を悩ませていた問題であったが、これに対して内田が出した答えは、とりあえず特定の軍閥との関係に深入りすることなく、しばらく形勢を観望するという消極主義であった。
まず内田は、前高橋内閣時代の奉直戦争において張作霖を援助しようとする動きを排し、4月22日の閣議で不干渉方針の決定にこぎつけているがこの際彼は、その理由をつぎのようにのべている。すなわち内田はまずこれまで一般に張作霖の背後に日本あり、呉佩孚の背後に英米ありとみられているが、この認識を是正しなければ、軍閥戦争のために排日運動が高まったり、日本が英米と対抗するという不利な状態に陥ったりする危険があるとした。具体的に言えば、若し奉天軍が勝利して北京の政局を左右するとすると、日本の手先・傀儡の支配に反対するという形で排日の材料にされるであろうし、また逆に奉天軍が敗れれば、日本の支援をうけたものの敗北としてうけとられ、日本を侮蔑し英米を信頼する動きが広まるに違いない、したがって、予め不干渉政策を確立し、この立場を北京外交団などを通じて対外的に充分明らかにしておかねばならないというのであった。
内田のこのような主張はさらに日本が信頼するに足る軍閥を見出すことが出来ないという認識にも通じていた。彼は日本に最も接近していた張作霖についてさえも「事実我支援ヲ受ケサル張作霖ハ単ニ我ニ好意ヲ表セサルノミナラス、今日迄ノ経験ニ徴スルモ其老獪ナル或ハ其権勢ヲ利用シ裏面ニ於テ我勢力駆逐ノ方法トシテ排日ヲ宣伝スルコトナキヲ保セス」(「日本外交年表竝主要文書」下巻23頁)として、強い不信感を表明していた。そしてこの内閣成立後の7月27日の閣議では、参謀本部が中国軍閥のもとに軍事顧問を送り込むことが、逆に日本が軍閥に利用される原因をつくり出し、またこの軍事顧問たちによって軍首脳が動かされることから、軍と政府との二重外交が生ま れることを強調し、軍事顧問派遣の際には外務省の意向を尊重するという方針を決定にもち込んでいた。
内田外相は「日本の対支政策ノ根本義ハ内政不干渉一党一派ニ偏セス漸次支那人民全般ノ自覚向上ヲ促シ其ノ 平和的発展ヲ援助スルニアル」(「日本外交年表竝主要文書」下巻31頁」)とのべているが、それはさらに他の列強が「一党一派」を支援することにも反対するものであった。例えば、1922年7月10日アメリカ政府は、国際借款団に北京政府の希望する行政費借款を引き受けさせることを提議してきたが、これに対して内田外相は、現在の北京政府が国際的に承認された唯一の政府であるにしても、その実態は国民とは没交渉な一部の勢力を代表するにすぎないとして、借款供与に反対したのであった(12月12日閣議決定)。
内田はその消極的対中国政策を「日本ハ支那人民全般ヲ背景トスル統一的政府ノ目鼻ノ付ク迄ハ斯カル財政援助ヲ行ハサル態度ヲ持続シ居ル状態ナリ」(日本外交年表竝主要文書」下巻32頁)とのべているが、しかしそれはたんに、混沌とした軍閥の抗争に巻き込まれることを防ぐという原則だけではなく、西原借款という寺内内閣時代からの悪しき遺産をどう有利に処理するかという観点をも含むものであった。
つまり内田は、現在の北京政府の外債整理案は「支那民論ノ反対強烈ナル西原借款」を除外しており、「外債整理ノ点ヨリ云フモ寧ロ他日ノ比較的我ニ有利ナル機会ヲ捉フルコト」が必要だというのであった。そしてその機会は、ワシントン会議で開催が予定されている中国関税特別会議であり、この際に「列国ト共同シ」「関税増徴ノ問題ニ関連シテ外債整理及支那財政ノ根本的整理」をはかるべきだとしたのであった(日本外交年表竝主要文書」下巻28頁)。
要するに内田外交として展開されたこの内閣の対中国政策は、民族主義・利権回収運動を横軸とし、軍閥抗争を縦軸として展開される中国情勢を前にして、西原借款という重荷を背負いながら好機を持つという、いわば待機主義を基本とするものであった。前述の枢密院の動きに加えて、2月19日の第四六議会貴族院で「貴族院ハ国際政局ニ於ケル帝国ノ地位及其ノ責任ノ重大ナルト国民ノ経済的生存ノ意義トニ鑑ミ対外国策ヲ確立シ東洋平和ノ基礎ヲ鞏固ナラシムルコトハ緊切ナル要務ト認ム」という「外交にニ関スル決議案」が可決されたことは、こ うした内田外交へのもどかしさや不満の表明とみることができよう。
5 行財政整理と大正12年度予算案
この内閣のもとで、海軍だけでなく、陸軍をも含めた軍縮が行なわれたことは、たんに当時の平和主義的風潮を示すだけではなく、慢性化する不況のもとで財政負担の軽減が強く求められていたことによるものでもあっ た。
大正9年のいわゆる反動恐慌のあと、10年後半期には中間景気と呼ばれるような現象があらわれたが、経済の実勢の裏付けのない思惑的な投機に支えられたものにすぎなかったため、大正11年2月、大阪の著名な投機家石井定七が破産すると、たちまち景気は下降していった。しかもこの事件で、住友、野村、第一などの大銀行をふくめた42の銀行が石井への貸付けを行なっていたことが明らかとなり、銀行の不健全な経営が問題とされた。つまり、最初の不確実な貸付が回収困難となると次々と追加貸付けを行なって、結局銀行と債務者が共倒れになるという危険が指摘されたのであった。そして実際にも11年11月下旬に京都の日本積善銀行、熊本の九州銀行が破綻したのをきっかけとして、以後年末にかけて全国的に銀行取付け騒ぎが勃発し、多くの中小銀行が休業に追い込まれていった。「財界の景況はこれを画期にして、真の深い沈衰状態に転入した。……近く景気の一陽来を期待する夢は、もはや殆んど全く消えてしまった。そして財界は文字通りの整理期の不況と苦悩とに直面した」(高橋亀吉「大正昭和財界変動史」上巻昭和29年409頁)のであった。
こうした不況のもとにあって税収の減少は必然であり、すでに大正11年度予算から財政は緊縮の方向に転じていたが、大正12年予算案ではより一層の緊縮がはかられねばならなかった。また他方では不況下での減税要求の高まり、公債消化の行き詰まりといった事態にも目をむけねばならなかった。
そこで加藤内閣は、経費の節減、租税整理、公債整理を財政方針の一つの軸としたが、しかし他方では、こうした財政整理で得た財源によって可能な限り積極的な施策にも手をつけようとしていた。まずこの内閣が行なった経費の節減をみると、その最大のものはなんといってもすでにのべた軍縮の実施であったが、そのほかにも種種の行政整理が企画されていた。すなわち内閣は6月20日め閣議において、内閣書記官長宮田光雄、法制局長官馬場^一、大蔵次官西野元、大蔵省主計局長田昌の4名を行政整理準備委員に任命して整理の推進をはかることとし、まず9月18日には、臨時外交調査会、防務会議、臨時産業調査会、臨時教育行政調査会、拓殖調査委員会などの諮問機関の廃止を公示、ついで11月1日には、国勢院を廃止しその事務の一部を継承するものとして統計局を復活し、また拓殖局を拓殖事務局に縮小するといった機構改革を実施している。
しかしこれらは、第一次大戦中設けられた機関ですでに実質的には不用となっていたものの整理が中心であり、行政機構の抜本的な簡素化というには程遠いものであった。むしろこの際の行政改革のなかでは、11月1日に同時に実施された社会局の新設の方が注目された。社会局は労働行政の統一という観点からつくられた部局であり、内務省の外局とされたが、その所管の範囲は「労働に関する一般事項」を軸としながら、従来農商務省で扱われていた工場法や社会保険に関する事項、国勢院で扱われていた労働統計事務、所管のはっきりしていなかった国際労働事務などに及ぶものであった。
社会局の新設が決定されたのは9月8日の閣議であるが、このころには農商務省の小作制度調査会で小作争議調停法の立案がすすめられており、こうした動きは、日本においても社会政策の問題が本格的に取りあげられるようになってきたことを示すものであった。
つぎに税制整理については、内閣成立の翌月7月19日に臨時財政経済調査会の答申が出されており、この答申は国税は所得税を中心にするとともに一般財産税を創設することとし、地租・営業税は地方に委譲するという大幅な改革を指示していた。しかし内閣は大正12年度では応急的な改正にとどめ、所得税における利子所得への課税の強化、営業税の課税規準及び税率の改正、石油消費税と売薬営業税の廃止等を実現したが、減税という点からみれば、大正12年度予算で1444万円の負担軽減にとどまっていた。
大正12年度予算のもう一つの特色は、原内閣が国防充実計画実施のためとして停止した国債整理基金特別会計への減債基金の繰入れを復活したことであった。この基金繰入れの停止は実際には公債償還の停止を意味し、このため公債価格の下落と新規募集に対する市場の消化カの低下が目にみえてきたため、内閣は大正12年度に4200万円の減債基金を一般会計から繰り入れることに踏み切ったのであり、同時に国債発行の抑制を実施した。すなわちこの内閣は、前内閣から大正11年度分として3億3419万円にのぼる募債計画を引きついだが、この計画を圧縮して1億7800万円の公債発行にとどめたし、また大正12年度の募債額は1億5940万円に抑えた。これは原内閣時代の募債額からみれば半額に近い水準であったが、減債基金繰入れ額からみればその4倍に達しており、公債整理の観点からみれば不徹底の評をまぬがれぬものであった。
加藤内閣はこうした行財政整理の反面、義務教育国庫負担額の増額(年額1000万円から4000万円へ)、治水事業の拡張(1488万円の追加)、港湾修築事業の拡張(340万円の追加)などの政策をも大正12年度予算に盛り込んでおり、結局予算規模は13億4600万円に達したが、なお前年比1億3600万円の減額となっていた。予算規模は前年につづいて1億円をこえる減額を実現したこととなった。
6
第四六議会をめぐって
(1)陪審法案の成立
大正12年春の第四六議会は、絶対多数の政友会が与党の立場に立っており、野党の内閣不信任案を否決し、予算案及び関連法案を原案通り成立させたほか、政府提出法律案48件中44件を成立させており、その意味では波瀾の少ない議会であった。しかしそのなかで、原内閣以来の懸案であった陪審法案が、貴族院での執拗な反対を排して成立したことは、一つの注目に値する事件であるといえた。
陪審制は明治43年政友会が党議としてとりあげたものであり、一般国民を司法に参与させるための、立憲政と不可分の制度として主張され、とくに原敬がその実現に力を入れてきたものであった。しかしこの制度が司法権の独立を犯し、帝国憲法に違反するという反対論が枢密院及び貴族院の一部で強く唱えられており、枢密院が陪審の結論の裁判官に対する拘束力を弱め、また陪審に付する事件の範囲を限定するなどの修正を行なったうえで、ようやく陪審法案を可決したのは、原敬歿後、すでに高橋内閣時代となった大正11年2月27日のことであった。高橋内閣はこの陪審法案を折から開会中の第四五議会に提出、衆議院は通過したが、貴族院では反対派議員の審議引きのばしにあい、結局審議未了・廃案とされたのであった。
したがって加藤内閣のこの法案に対する態度は注目されるところであったが、原・高橋両内閣で司法大臣としてこの問題の直接の責任者であった大木遠吉は鉄道大臣として閣内にあり、また新たに大臣となった岡野敬次郎もこの法案の実現に熱意を示したため、陪審法案は前議会についで再び第四六議会に提出されることとなった。 同法案は3月2日衆議院を通過、3月5日よりいよいよ難関の貴族院での審議にはいったが、委員会では可決され、3月21日の本会議に上程された。ここで若槻礼次郎が4時間に及ぶ反対演説を展開すれば、花井卓蔵が2時間にわたる賛成演説で対抗するという激しい論戦が展開されたが、深夜11時すぎの記名投票では結局賛成派が圧勝、陪審法はようやくにして成立にこぎつけたのであった。
この法律によれば、陪審に付されるのは原則として「死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ該ル事件」か、または 「長期三年ヲ超ユル有期ノ懲役若ハ禁錮ニ該ル事件」で「被告人ノ請求」のあった場合であり、これらの事件は12人の陪審員から構成される陪審に付されることになる。陪審員は、30才以上の男子でひきつづき二年以上同一市町村内に居住し、直接国税3円以上を納める者を市町村長が陪審員資格者名簿に登録し、地方裁判所長が予め定められている市町村の順序にしたがって、この名簿から抽選するという形で選出されてくるのであり、こうして構成された陪審が裁判長の問に答えて、犯罪事実の有無を答申する、というのがこの制度の骨子をなすものであった。しかしその答申の拘束力には、「裁判所陪審ノ答申ヲ不当ト認ムルトキハ訴訟ノ如何ナル程度二在ルヲ問ハス決定ヲ以テ事件ヲ更ニ他ノ陪審ノ評議ニ付スルコトヲ得」との規定によって弱められ、裁判長が陪審の答申を採択しない可能性を認めており、この点、日本の陪審制度の不徹底性と評されている。
陪審法は5年の準備期間を経て、昭和3年10月1日から実施されたが、激しい論議の末に実現されたこの制度も国民の間に定着せず、陪審事件数は昭和4年以降減少の一路をたどり、太平洋戦争が激化した昭和18年3 月には、ついに制度の運用を停止され、そのまま今日に至っている。
(2)普選運動の動向
第四六議会に関して注目されたことの一つは、この議会に向けて、院外の普選運動が大衆的盛上がりをみせたことであった。加藤内閣は議会召集のせまった10月20日になってようやく衆議院議員選挙法調査会を置き(11月1日第一回会合)選挙法全般にわたって改めて調査するといった有様で、普通選挙の実現には熱意を示さなかったが、院外では普選を要求する動きが、議会開会に向けて次第に高まっていた。とくに加藤内閣を政党内閣への流れを逆転させたと批評した新聞記者の間には、この反動内閣に対しては一層強く普選要求をぶつけてゆかねばならないという考えが広まっていた。そしてこうした新聞記者の動きが、ここでの普選運動の高まりをリードする大きな力となっていた。
まず東京の新聞記者の間で普選記者同盟がつくられ、大正12年1月20日には、日比谷公園内松本楼で第一回在京記者大会が聞かれた。この会合には200余名の記者たちが参加し、国民新聞の馬場恒吾、東京朝日新聞の安藤正純、都新聞の大谷誠夫らが演説、また、2月18日を期し全国記者大会を開き、各地方から記者の上京を促しこれと協力して普選即行の運動を為す事、普選案上程案前に模範的大示威運動および国民大会を開く事などを申し合わせ、実行委員を選出した。ついで、2月6日の夜には、神田青年会館で記者同盟の演説会を開いて気勢をあげ、翌7日には普選派の憲政会、革新倶楽部などの代議士と記者側の実行委員とが会談、そこでの打合わせどおりに野党側は有志議員の議員提出の形で普選案を2月11日に衆議院に提出し、同時にこの日、野党側と記者同盟との連合の大会が開かれている。2月11日は紀元節であるが、同時に憲法発布の記念日でもあっ た。
2月18日には予定どおり全国より400余名の記者たちが参集して、全国普選記者大会が開かれ、「吾人は普選実行の目的を達するため凡ゆる立憲的手段を執るべし」との決議を採択、またこの前後には、西日本新聞記者大会(大阪)、東海普選連盟大会(名古屋)、普選即行神戸民衆大会、北陸三県新聞記者大会(金沢)などが開かれるなど、地方の動きも活発になっていった。そして普選案が2月24日の衆議院本会議に上程されることになると、その前日の23日に全国動員をかけて大示威行進を行なうことが計画され、当日の集合場所とされた芝公園には、正午までに3万人が集まったと報ぜられた(東京朝日新聞2月24日)。
示威行進は芝公園を出発して坂本公園で解散するというコースで行なわれ、「正一時となるや四方に起る爆竹の音を出発の合図となし、旗振り乍ら万歳々々を連呼して徐々に出発し始めた。一番先頭には尾崎行雄、古島一雄、三木武吉の3名が自動車に乗って案内役を努め、その後へ当日の総帥河野広中の自動車次ぎ、『万機公論』『普選即行』の二大旗が後へ従ひ松本君平、田中善立、田淵豊吉の3名は乗馬で旗に次いだ。そして楽隊の音勇ましく、普選歌を天まで届けといはん許りに歌ひながら行進した。100名位の一分隊には白バラつけた代議士が先頭に立ち、隊側には白襷の民衆警察隊と、真物の警官とが附き添って物々しく、順路なる増上寺前から大門に出で新橋、銀座へと出た。先頭が新橋駅前に来た頃、最後部は漸く芝公園の会場を発した程で、実に空前の長蛇の行列」(水野石渓「普選運動血涙史」大正14年476頁)であったという。
翌24日の衆議院本会議には野党側提出の普選法案(選挙権の納税資格を撤廃し、25歳以上の男子に選挙権を与える)が上程され、憲政会の降旗元太郎が趣旨弁明に立ったのにつづいて、政友会の戸水寛人が中流社会中心主義の立場をとり社会状態が改善されるまで普通選挙は見合わすべきだとの反対論を展開すると、次には革新倶楽部の前川虎造が賛成論で切り返す、といった形で討議がすすめられた。この日、芝公園では前日につづいて、普選派の国民大会が開かれ、午後5時すぎに閉会されるや、群衆は小旗を打ち振りながら議会へ押しかけようとして警官隊との小競合いを演じているが、このころ議場では、延会の討議によって普選案の討議は次回に持ちこされ ることになった。
事態がこうなってみると、普選派のリーダーたちは自分たちが動員した民衆をどう指導すべきかについて迷いはじめた。そしてこのままの形で運動をすすめれば、議会へ向かおうとする民衆と、警官隊との衝突が拡大するだけとして、結局民衆運動を24日の段階で打ち切ることとした。25日午後の実行委員らを集めた会合において、憲政会代議士小泉又次郎は、時期尚早を唱えて普選に反対する政友会を非難しつつ、しかし「この有様では今議会は到底目的を達する事は出来ない。この上吾人の目的を達せんとするならば遂には忌むべき手段に訴へてやるより外に途はない。で私としては民衆運動はこれを以って打ち切り各自自己の職業に就き、普選案に就いては凡て院内代議士に一任されたいと思ふ」(「普選運動血涙史」482頁)と提議し、会場は賛否両論でわき返ったが、結局小泉の提議が承認された。
衆議院での普選案審議はその後も2月26日、27日とつづけられたが、3月1日の本会議で加藤首相は、選挙権拡張については政府は目下慎重研究中であるとして本案に反対の意向を明らかにし、結局この普選法案は、委員会に附記されることなく、否決されてしまった。
普選運動が大きな盛上がりを示しながら、既成政党の指導者によってコントロールされ、中途で打ち切られてしまった点が、この議会での大きな特色であったが、同時に日本労働総同盟などのいわゆる無産運動の側が、こうした普選運動の成り行きに”そっぽ”をむいていた点もこの時期の特色といわねばなるまい。無産運動の側では、再提出の可能性のある過激社会運動取締法案や、政府側で準備のすすめられている労働組合法案・小作争議調停法案を三悪法とし、これに反対する運動に力を入れていた。前述の普選法案提出の2月11日にも、各地で三悪法反対の演説会や示威運動が行なわれており、普選運動と対抗するような様相を示していた。結局三法案のうち提出されたのは小作争議調停法案だけであり、それも審議未了に終わったことは無産運動側を喜ばせたが、ともかくもこの議会でこうした普選問題をめぐる状況の変化が明らかになっており、それは以後の内閣が普選実施へと傾いてゆく一つの条件となるものであった。
7 日ソ交渉の開始
(1)後藤・ヨッフェ会談
第四六議会が開かれているさなかの大正12年2月1日早朝、前年の長春会議のソビエト代表だったヨッフェが船で横浜に到着、午後には築地の精義軒に入り、ここで彼を日本に招待した後藤新平と最初の会談を行なった。当時東京市長であった後藤は、ヨッフェが長春会議後もモスクワに帰らずに北京に南下し、さらに華南に入ろうとしているとの情報を得ると、ヨッフェが孫文と結ぼうとしているとみた。そしてこうした形でソビエトと中国の関係が出来あがる前に日ソ関係を打開しておくことを必要と考え、まず表面は彼個人の資格でヨッフェを招き、両国政府が交渉に入る糸口をつくり出そうとしたのであった。
このため後藤は大正11年11月、加藤首相にこの構想をのべて了解を求めたが、加藤首相はヨッフェ招致に賛成しただけでなく、松平欧米局長をして非公式に会談せしめてもよいとまで言明、後藤は首相に対ソ交渉の決意ありとみて以後積極的に工作を進めた。そして翌12年1月16日、神経痛に悩まされているヨッフェに、日本の温泉での療養をすすめる招電を発し、ようやくヨッフェ来日にまでこぎつけたのであった。
しかし加藤首相が了解を与えたにもかかわらず内務省にも外務省にもヨッフェを敵視する空気が強かった。「ヨッフェの来日に最も強く反対したのは、ヨッフェをひたすら共産主義宣伝の危険人物とみる内務官僚であったが、内田外相始め外務省幹部も半ばこれに同調していたのは事実であった。したがって、外務省はヨッフェの入国時の資格を全く私人扱いとし、たとえ支那駐在とはいえ一国の大使としてこれを遇せんとせず、しかも初め外務省は在上海総領事に電訓してヨッフェの来日延期を勧告せしめたり、ヨッフェ入国に際して内務省側等の乱 暴な取扱いにも黙認の形をとったりしたのみならず、その入国後も後藤子爵対ヨッフェ交渉中にもかかわらず、相当期間ヨッフェに暗号使用を拒否し続けたのである」(西春彦「日本外交史15 日ソ国交問題」昭和45年78頁)。民間にもまたヨッフェ来日反対の動きが強く、右翼団体が2度にわたって後藤の邸に乱入するという事件が起こっていた。
後藤は2月4日、このような状態に抗議するとともに、ヨッフェに暗号の使用ならびに特使無検閲の特権を認めることを要求する書簡を送っているが、ともかく女婿の医学博士佐野彪太らにヨッフェを診察させるとともに、2月10日には、療養のため熱海の海浜ホテルに送り込んだ。そして2月26日には海相官邸で加藤首相と会見、日ソ関係の現状打破への首相の英断を求める覚書を提出したが、さらに追加覚書を送ってソビエト早期承認の必要を力説したのであった。すなわち彼は「今日ニ於テ労農政府ノ承認ハ迅キニ於テノミ有効也。以テ利権 (経済的連鎖方法ノ提供)ノ交換問題タリ得ベシ、他国ニ追随シテノ承認ハ所謂二束三文ノ価値スラモ無カルベシ」 (鶴見裕輔「後藤新平」第4巻昭和13年421頁)とのべて世界にさきがけて、ソビエトを承認することを求めたのであった。
ヨッフェとの交渉は、後藤の老母の死去などのためおくれていたが、後藤が葬儀を終えて3月5目帰京するや、翌々7日、ヨッフェは後藤宛書簡によって、日ソ交渉開始の前提として、@両国平等の権利の承認、A法律上のソビエト承認、B北樺太撤兵時期の明示の三条件を示し、実質的交渉の口火を切った。後藤はこれを加藤首相に送って意見を求めたが、3月21日首相側からもたらされた回答は、尼港事件の解決や国際義務の履行など、一定の条件が満たされれば、ヨッフェの要求をうけいれるとするものであり、これに力を得た後藤は、3月29 日、30日の両日にわたり、熱海をおとずれてヨッフェと会談し、三条件の内容についての論議をかわした。
後藤はこの会談について4月10日加藤首相に報告したが、このころから内閣側も交渉に積極的な姿勢を示しはじめていた。そして4月20日には、この問題に関してはじめて内田外相が後藤と会見し、政府側覚書を提示したが、その内容は、政府間交渉の開始に主義上異議なしとし、交渉の最大の難関とみられる尼港問題については、実質的に北樺太利権(1億5000万円での北樺太買収か、鉱山森林利権などの獲得)との交換による解決案を示し、これを後藤の意見としてヨッフェ側の反応を探ることを求めたものであった。そして同時に、内田外相はヨッフェにモスクワとの暗号電報使用を許可し、必要のある場合にはヨッフェと外務当局との非公式予備交渉を行なう用意のあることを示した。後藤はこの案をたずさえて、4月24日、ヨッフェとの第二回熱海会談を行なったが、この段階で、後藤の仲介によって、ヨッフェと日本政府との予備交渉の開催はほぼ確定的になったといってもよかった。
(2)政府、予備交渉にのり出す
暗号使用を認められたヨッフェは、本国政府との連絡をとりはじめるとともに、日本政府との公式の折衝も近づいたと感じて、5月5日熱海より東京に戻り、再び築地精義軒に入った。この後、後藤は政府の依頼をうけて漁業問題をも、ヨッフェとの間で協議しているが、この間5月10日ヨッフェは、本国政府より日本政府との交渉に入る意思ありとの回答に接したとし、さきの交渉開始のための三条件をくり返す覚書を後藤に送った。これをうけて後藤は、5月22日には加藤首相を訪れ、自分が私人としてやれるのはこの程度までであり、これ以上のことは、政府のなすべき仕事であると強調した。そして政府の日ソ交渉開始への決意を求めるとともに、これまでの交渉のなかで考えた意見を、日ソ交渉基礎案にまとめて提出している。
これに対して内閣側も、6月2日の閣議で、後藤を介してヨッフェから提出されている交渉の条件は、日本側にとって満足すべきものではないが、しかしこの際、日ソ間の懸案を速やかに解決して修交通商関係を確立することが望ましいとし、正式交渉の基礎を発見するためソビエト政府との予備交渉に入るとの方針を決定、この方針は6月8日、後藤を通じてヨッフェにもたらされた。そして6月16日、ソビエト政府は改めてヨッフェを予備交渉代表に任命したことを通告してきた。日本側は、帰国中のポーランド公使川上俊彦を代表とすることとした。会議場にはヨッフェの病状が思わしくないことから、精養軒ホテルの彼が滞在している部屋の隣室があてられることとなった。
川上・ヨッフェ会談は6月28日から7月31日にかけて、12回にわたって開かれたが、その主たる議題は北樺太問題と尼港事件の解決方法の問題、とくに後者の問題であった。まず北樺太問題では、第一案としてすでに後藤・ヨッフェ会談の段階で1億5000万円で買収したいという日本側の希望が伝えられていたが、ヨッフェはこれに対し原則的には売却の可能性を認めたものの、その金額を最初10億ルーブル以上、のちにはソビエ ト専門家の意見として15億ルーブル以上と主張するにいたったため、日本側では金額の開きが大きすぎるとして実質的にこの要求を放棄し、北樺太での利権の獲得という第二案に交渉の中心を移した。
ヨッフェはこの点では、「利権」という言葉が行政権や警察権・軍隊駐留権などを含まないたんなる天然資源の開発を意味するものならば、それに日本を参加させることに異議はないと答え、日ソ合弁会社に利権を与えるという方式を提議した。これに対して川上は、合弁方式に反対し、日本政府または日本の会社に石油・石炭・森林などの長期利権を与えることを求めたが、ヨッフェは具体的問題についてはなお本国政府の検討が必要であるとして回答を留保した。
次に尼港事件については、ヨッフェはまずこの事件の責任は日本にあってソビエトにはない、とした。そして虐殺を行なったトリヤピーツィンの軍隊は、ハバロフスクおよびウラジオストックの赤衛軍司令部と関係を持っていたとする日本側の主張に対しては、当時極東にはソビエト軍は存在せず、外国軍隊の占領に対するロシア農民の反抗が存在しただけだと反論した。しかし現実に日本政府が、尼港事件を過度に宣伝してその国民感情を激昴させた結果、この事件を不問に付すことが出来なくなっていることは理解しているとし、日ソ親善の観点か ら、ソビエトは尼港事件に対し遺憾の意を表し日本側の損害を賠償する、同時に日本側もシベリヤで日本軍がひき起こした同様の事件に遺憾の意を表しその損害を賠償する、という相互主義の協定を結ぶ、しかし実際には公表しない外交文書を交換して、お互いにこの賠償は行なわないことを約束する、という解決方法を提議してきた。
これに対して川上は、ヨッフェの言う日本軍の引き起こした同様の事件とは、軍事行動のやむをえざる結果だと反論したが、ヨッフェは賠償は相互的でなければならない、という点に強く固執した。そこで川上は、物質的責任を負わない形ならば、ソビエト側だけが遺憾の意を表するという方式は可能かと切り込み、ヨッフェも遺憾の意の表明だけなら片務的でもよいと譲歩し、第五回会談以後は、尼港事件についてソビエト側が発表する文案をめぐる討議がつづけられたのであった。
この討議はついに全面的合意には達しなかったが、7月24日の第一一回会談でヨッフェは、この未決の部分を留保して他の問題の討議に移ることを求め、これまでの長春会議以来の日本側の要求とそれに対するソビエト側の態度を説明し、これで大体話は尽きているとのべ、川上が討議の次回への継続を提議すると、ヨッフェは突如として会議は本日で最後にしたいとの意向を表明した。すなわちヨッフェは、すでに双方から掛値のない主張が出つくしているのだから、これをそれぞれ本国政府に報告し、これを基礎にして本交渉に移るかどうかを決定すべき段階に来ているというのであった。ヨッフェは7月26日、予備交渉結果総括表を作成し川上にあてて送っており、31日は川上がこの総括表についての日本側の意見をのべ、結局会議はこの日を以て打ち切られたのであった。
ヨッフェが突如として会談を打ち切ったのは、ソビエト政府がヨッフェを召還し、新たにカラハンを送って、問題を一挙に解決しようとしたためとみられ、北京に着任したカラハンは9月22日、交渉再開に関する日本政府の意向を照会してきたが、日本側は関東大震災の後始末に忙殺されており、芳沢・カラハン会談が開かれるのは、翌大正13年(1924年)5月まで待たねばならなかった。
8 加藤首相の死と内閣総辞職
第四六議会が終わると、加藤首相は、海軍軍縮などワシントン会議の後始末が一段落したことを理由として、兼任していた海軍大臣に専任の大臣を補充することとし、4月初めの閣議で人選の一任を求めていた。海相の第一候補とされたのは軍事参議官の村上格一大将であったが、老齢を理由に固辞したため、結局、横須賀鎮守府司令長官で、すでに明治42年から大正3年にかけて海軍次官をつとめた経歴を持つ財部彪大将が起用されることとなり、5月15日に親任式が行なわれた。次官も井田譲治から岡田啓介に代わった。
またこのころには、加藤首相は新たな施政方針の確立をはかるため、岡野法相、宮田内閣書記官長、馬場法制局長官の3名に調査を内命しており、その調査結果に自ら手を加えるなど新しい政策の実現に意欲を示していた。そこに提示されている問題は多岐にわたるが、ソビエト承認問題はなるべく速やかに解決すること、普通選挙は、次々回の総選挙(解散がなければ大正17年)より実施出来るよう準備すること、第四六議会で政友会から建議が出された国税の地租を地方税の方に移すという地租委談論を実現の方向で調査・研究すること、義務教育年限の延長を次の議会に提案すること、農商務省を農務省と商工務省に分離すること、交通省を新設すること、など注目すべき提言もなされていた。しかしこのころすでに加藤首相は、再起不能の病魔におかされていた。
加藤は元来胃腸をわずらうこと多く、また久しく痔疾に悩まされていたが、大正11年12月23日、首相官邸に両院の各派代表を招いて予算内示会を開いた日の夜、突如激しい下痢にみまわれ、同時に発熱したため、同月27日の第四六議会開院式も欠席、翌年1月23日の施政方針演説を行なう前日まで病床にいるという有様であった。以後は政務の余暇をみては転地療養につとめているが、7月27日の閣議に出席して帰宅した夜から下痢をおこして病床にたおれ、ついに起つことが出来なかった。
加藤首相の病状については、8月19日初めて痔核兼慢性大腸炎と発表されたが、実は大腸癌であり、主治医は前年11月にはすでにそのことを確認していた。そして4月には肝臓にも転移が認められ、すでに手の施しようのない状態であったといわれる。
8月24日午後0時35分、加藤はついに首相の現職のまま死去した。享年63。翌25日、内田外相が臨時内閣総理大臣に任命され、内田は26日閣員の辞表をとりまとめて摂政宮に提出、加藤の葬儀が海軍葬として行なわれた翌々28日、組閣の大命は山本権兵衛に降されている。
結局加藤内閣は、ワシントン会議の後始末を終えただけで、次の新しい施策を打ち出さないうちに首相の死という思わざる事故によって退場を余儀なくされたのであった。
押収武器紛失事件
極東共和国との長春会議が決裂した1922年9月末ごろから、押収武器紛失事件なるものが新聞紙上をにぎわすようになった。押収武器とは、シベリア出兵中の日本軍がロシア軍から押収した武器や、チェコ軍から預った武器などを指しており、総量30万に及ぶ銃砲、弾薬などがウラ ジオストックに保管されていた。
ところが、8月7日になってチェコ側の要請により貨車に封印された形で保管されていた武器の点検を行なったところ、貨車のなかは空であり、19車輛にのぼる貨車全部がすりかえられていることが判明した。さらに9月の上旬 には、シベリア方面から奉天の張作霖に多量の武器が送ら れてきたという事実が明らかにされ、この武器が日本軍の押収武器なのではないかという強い疑惑が持たれるにいたった。
これに対して軍部側は、チェコ軍武器の紛失を認め、その責任者としてすでに内地に帰還していた第六師団の原浄一少佐を軍法会議にかけることにしたが、その反面、この失した武器と張作霖が獲得した武器との関連を強く否定し、また内閣も10月16日に同様な立場から「武器問題に関する説明」を公表した。一方、熊本の第六師団軍法会議は、10月14日、16日の両日に審議を行なったが、 ここで原少佐は、もし赤軍が勢力を得れば日本に不利だと考え、白軍(反革命軍)のミハエル大佐の要請に応じて、1月27日、独断でチェコ軍の武器を引き渡したとの陳述を行ない、軍法会議もこれを認めて10月20日、原少佐を懲役1年6か月、執行猶予2年の刑に処する旨の判決を下した。
しかし軍法会議が喚問した証人は、チェコ軍武器保管の直接の責任者であった山原信久大尉のみであり、19車輛に及ぶ貨車のすりかえが、一参謀の独断だけで実行できるかという疑問に充分こたえることなく、原少佐の単独犯行ということで、しかもその行為は「私利私欲」ではなく「専ら我国軍国家を思ふの高潔なる至情」(「東京朝日新聞」大正11年10月21日)に出たるものと賞賛する形でケリをつけてしまったのであった。しかしこの間、後備歩兵少尉井上晴能は『東京朝日新聞』に手記をよせ(10月14日よ18日付まで各夕刊に連載)、この年5月奉直戦争で敗色の濃い張作霖の依頼 をうけてシベリア派遺軍首脳との間で武器購入の工作にあたった経過を暴露した。そしてシベリアで購入しうる大量の武器と言えば、日本軍の押収武器しか存在していないこ と、この際の工作は失敗に終わったがシベリア派遺軍首脳部が張作霖援助に強い関心を示したことを指摘し、張作霖に渡った武器は確実にシベリア派遣軍から出たものとする確信を語っていた。
しかしここでも現地軍の陰謀は解明されることなく終わったのであった。 |
主要参考文献・史料
○加藤元帥伝記編纂委員会編「元帥加藤友三郎伝」昭和3年 同伝記編纂委員会
○前田蓮山「床次竹二郎伝」昭和14年 同伝刊行会
○岡義武・林茂校訂「大正デモクラシー期の政治―松本綱吉政治日誌」昭和34年 岩波書店
○升味準之輔「日本政党史論」第5巻昭和54年 東京大学出版会
○鶴見祐輔「後藤新平」第4巻昭和13年 同伝記編纂会
○外務省編「日本外交年表竝主要文書」下巻昭和30年 日本国際連合協会
○西春彦「日本外交史15 日ソ国交問題」昭和45年 鹿島研究所出版会
○高橋亀吉「大正昭和財界変動史」上巻昭和29年 東洋経済新報社
○揖西光速・加藤俊彦・大島清・大内力「日本資本主義の没落T」昭和35年 東京大学出版会
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