『日本内閣史録』4

1981年8月

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第34代第一次近衛内閣
(自 昭和12年6月4日  至 昭和14年1月5日)
―日中全面戦争へ―


中表紙写真 表紙

古屋 哲夫

1組閣とその特徴
2当面する内閣の課題
3蘆溝橋事件への対応
4上海戦から全面戦争へ
5戦時体制への移行と官庁機構の拡充
6内閣強化のこころみ
7初期の和平工作と和平条件

8トラウトマン工作・南京占領・「対手とせず」声明
9物資動員計画と国家総動員法
10徐州作戦と内閣改造
11和平工作の競合と宇垣外相の辞職

12武漢・広東作戦から東亜新秩序声明へ
13防共協定強化問題と近衛内閣の総辞職
※主要参考文献・史料

内閣総理大臣

近衛 文麿

農林大臣

有馬 頼寧

外務大臣

廣田 弘毅

商工大臣

吉野 信次

宇垣 一成 (昭13・5・26)

池田 成彬(兼任) (昭13・5・26)

近衛 文麿(兼任) (昭13・9・30)

逓信大臣

永井 柳太郎

有田 八郎(昭13・10・29)

鉄道大臣

中島知久平

内務大臣

馬場 ^一

拓務大臣

大谷 尊由

末次 信正(昭12・12・14)

宇垣 一成(兼任)(昭13・6・25)

大蔵大臣

賀屋 興宣

近衛 文麿(兼任)(昭13・9・30)

池田 成彬(昭和13・5・26)

八田 嘉明(昭13・10・29)

陸軍大臣

杉山 元

厚生大臣
(昭13・1・11設置)

木戸 幸一(兼任)(昭13・5・26まで)

板垣 征四郎(昭13・6・3)

海軍大臣

米内 光政

司法大臣

塩野 季彦

文部大臣

安井 英二

法制局長官

瀧 正雄

木戸 幸一(昭12・10・22)

船田 中(昭12・10・25)

荒木 貞夫(13・5・26)

内閣書記官長

風見 章



1組閣とその特徴

 昭和12年5月31日林内閣が総辞職すると、翌6月1日夕刻、天皇は、五摂家筆頭の家柄に生まれ公爵・貴族院議長の地位についていた近衛文麿に組閣の大命をくだした。この時、近衛は45歳の若さにしてすでに最も人気のある政治家であり、その出馬は各方面から期待されていたといってもよかった。

  しかし近衛自身は、前年の2.26事件直後に、一度組閣の大命を受けながら固辞して以来、積極的な動きを示さず、この消極的な態度をみた林首相は、辞職にあたって、杉山陸相を後継首相に推薦し、陸軍の立場を前面に押し出そうとしていた。これに対して元老西園寺公望は、「陸軍大臣を総理大臣にすることはよくない」と軍人首相の出現に反対し、「どうしてもこの場合近衛を出したらどうか、自分は今まで近衛を出すことは躊躇しておったし、またなるべく出したくないと思っておったが、自分に御相談とならば、自分の信念に基づかない者に賛成するわけには行かん」(原田熊雄述「西園寺公と政局」第5巻昭和26年322・323ページ)と強く近衛を推し、近衛もまた「もはや再び大命を拝辞するは臣下の道ではない」として首相の座につくことを決意したのであった。

  近衛の組閣工作は、貴族院議長官舎を組閣本部、河原田稼吉前内相を参謀として進められ、まず軍の意向のままに、杉山陸相、米内海相の留任を決め、同時に陸軍の強く推す馬場^一元蔵相を入閣させることとした。しかし馬場は広田内閣において革新財政を唱えて軍部の強い支持を得た反面、財界からは激しい反発を買っていた人物であり、この時も経済関係閣僚は馬場入閣に強い警戒の色を示した。たとえば蔵相には結城豊太郎前蔵相の留任や前横浜正金銀行頭取児玉謙次の起用が考えられたが、いずれも軍の膨大な予算要求や、軍を背景とした馬場の存在を考慮して入閣を拒絶している。結局蔵相は、大蔵次官賀屋興宣の昇任となったが、賀屋も商工大臣予定者と意見を交換するまでは正式回答を保留するという慎重さを示した。

  商相には賀屋とほぼ同年の吉野信次が登用され、この官僚出身の若手コンビによって、「財政経済三原則」が打ち出されることになるのであるが、彼等は同時に、軍部の意向に従って馬場を企画庁総裁にすえることに反対し、近衛は結局、馬場を経済関係からはずし、内務大臣とすることで妥協をはかった。企画庁総裁はとりあえず、広田外相の兼任としたが、すでに総理の経験もある広田に外相就任を求めたことは、外交面を危ぐしていた元老・西園寺をも安心させるものであった。

  その他、農林大臣には石黒忠篤を予定したが断られたため、近衛の古くからの友人で産業組合運動に力を入れていた有馬頼寧をとり、また司法大臣は平沼騏一郎直系の塩野季彦の留任、拓務大臣には大谷尊由、文部大臣には大阪府知事の安井英ニを起用した。

  政党の力が衰えたとは言っても、この時期にはまだ、政党との関係をどうするかは、組閣の際の大きな問題とされていた。近衛は林前首相のように政党排撃の態度は示さなかったものの、斉藤・岡田・広田各内閣の組閣の場合のように、政党党首を訪問して協力を求めることはせず、したがって党代表としてではなく、個人として民政党から永井柳太郎を逓信大臣に、政友会から中島知久平を鉄道大臣に引き抜いているが、永井も中島も近衛擁立の親軍的新党運動に加わっているとみられる存在であった。また衆議院議員からはこのほかに風見章を書記官長に滝正雄を法制局長官に起用しているが、両者はいずれも無所属の立場から既成政党を批判しており、衆議院議員の資格よりも、近衛周辺の昭和研究会のメンバーであることが注目された。

  こうした人選は、近衛が新軍的新党運動を内閣の一つの基礎としようとしていたことをうかがわせるものであるが、そのことは、政務官(政務次官・参与官)の選考にあたって、より明白になっていた。政務官は元来、政府と議会との連絡をはかる目的で設置されたものであるが、貴・衆両院議員の猟官運動の対象となる有害無益なものとの批判も起こり、林前内閣はその任用をとりやめていた。しかし近衛は、国民代表を行政府に積極的に参加させるとの観点から、人材本位で全政務官を衆議院議員から選任するという従来にない新方式を採用したが、この方式の実際の党派性については、当時の新聞はつぎのように評している。

  「今回の政務官の銓衝は政府をしていはしむれば人材本位であらうが、政友会に関する限り従来重視された地方団体関係を無視して居り、しかもその殆ど全部は中島鉄相を盟主とする国政一新会のメンバーであり、従来党の中枢的地位を占めていた鳩山系は全く影をひそめた感があり、党内に於ける両氏の現在の地位を反映したものとして興味深い」(「東京朝日新聞」6月25日付夕刊)。

  つまり、近衛内閣の政務官選任は、とくに、自由主義的な鳩山派と親軍的な中島派との対立が深まっている政友会に対して、中島派を支援しその分裂を促進する意味を持つとみられたのであった。



2当面する内閣の課題

 近衛内閣は6月4日の親任式によって正式に発足(政務官任命は6月24日)、近衛首相は同日夕刻の初の記者会見で「国際正義に基づく真の平和と、社会正義に基づく施策の実現に努めたい」とのべたが、当時、内閣が直面していた課題は第1には陸軍が中心となって推進してきている軍備増強や生産力拡充計画と、経済的諸条件との調整をはかること、第2には完全な行き詰り状態にある日中関係を打開する手掛りをつくり出すこと、などであった。

  第1の問題については、前年秋の広田内閣による大軍拡予算の決定以来、物価騰貴、輸入の激増=国際収支の悪化、為替相場の下落などといった事態が深刻化しており、これに対して賀屋蔵相、吉野商相のコンビは、@生産力の拡充、A国際収支の適合、B物資需給の調整という3点を政策の基本におくという「財政経済三原則」を提起し、6月15日の閣議で承認を得た。この三原則は、生産力拡充を政策の第1目標とし、この実現のためには、輸入力増強のための輸出の増進、輸入原料を生産力拡充に集中するための需給調整を行なわねばならないとするものであった。さらに賀屋蔵相は次年度予算編成について、従来どおりの「金の予算」に加えて、重要物資の需要額を推定した「物の予算」の提出を各省に求めるという構想を打ち出していたが、これらのことは、すでに日本経済が、輸入物資の需給調整から全般的な経済統制を必要とするような段階にさしかかっていることを意味するものであった。

  第2の日中関係については、前々年(昭和10年)以来の華北自治(分離)工作、冀東政権の設立、冀東特殊貿易の強行といった事態は、中国側からは日本の新たな侵略の強化とみられ、学生の抗日運動を先頭に、「内戦停止・一致抗日」の叫びは中国民衆を広くとらえるようになっていた。そして前年(昭和11年)12月の西安事変、この年2月の中国国民党三中全会(第5期中央執行委員会第3回全体会議)を経て、国民党、共産党両党とも国共合作=抗日統一戦線の方向に動きはじめていた。国民政府も、日本による華北における行政の妨害、主権の侵害を排除することを対日政策の中心課題として打ち出すようになっていた。

  こうした日中関係の行き詰りは、近衛内閣成立のころにはジャーナリズムにもとりあげられるほど明白になっており、たとえば当面は日中関係を正面からとりあげることを避けて、「日本は日英協調の外廓をつくって、支那との交渉を円満に進める方がよいのではないか」(「東京朝日新聞」5月16日社説)といった論調もあらわれていた。こうした傾向は外務省内にも強くみられ、この内閣成立直後、イギリスから駐英吉田茂大使を通じて、中国幣制維持のための共同借款供与の申し入れが行なわれると、駐華川越茂大使は、天羽声明以来の対華政策を転換して、この借款に積極的に参加すべしとの意見を具申してきた(外務省記録昭和12年7月5日南京発、広田外相宛第479号電)。

  あるいはまた、以前より日英協調を唱えて奔走していた東郷茂徳欧米局長は、「第1次近衛内閣となり広田外相も熱意を示したので更に強く各方面に説いた結果、先づ北支及中支に於ける(日英の)利害関係を調節し漸次国交全般に及ぼすこととし、漸く在英吉田大使に訓電を発する所迄漕ぎ付けた」(東郷茂徳「時代の一面」昭和27年101ページ)。そしてさらに吉田大使バトラー英外務次官との会談が予定されたが、蘆溝橋事件が起こったため、結局実現にいたらなかったといわれる。しかしともあれ、当時こうした形での日英協調策が考えられていたことは、近衛内閣が具体的に、新たな対中国政策を構想しえないままで蘆溝橋事件をむかえたことを意味するものであった。



3蘆溝橋事件への対応

 近衛内閣成立のほぼ1か月後の7月7日夜、北京南方の蘆溝橋付近で夜間演習中の日本軍に対して、10数発の小銃弾が打ちこまれるという事件が発生した。この日本軍は前年5月の支那駐屯軍(明治34年の義和団事件議定書を根拠として駐留している軍隊であり 「支那駐屯軍」は、当時の日本側の正式の呼び方である)の増強により豊台に進出してきた部隊であったが、この増強自体が華北侵略体制の強化とみる中国側の抵抗を強める要因となっており、事件の背景をなすものであった。そして事件前夜の状況はつぎのように悪化していた。

  「昭和12年6月、中国の対日空気が険悪であって、対日作戦の準備を急いでいるとの情報がしきりであった。 石原作戦部長、武藤作戦課長は万一の場合を考慮して、作戦課の公平匡武少佐と井本熊男大尉に天津、張家口、包頭、大同 、太原、石家荘、済南、青島付近の地形を視察させ、公平少佐はさらに上海付近中支を視察して7月はじめに帰京した。当時支那官憲の視察妨害ははなはだしく、しばしば身の危険すら感じた。とくに蘆溝橋に立って、宋哲元軍事顧問桜井徳太郎少佐の説明を受けつつ、地形一般を視察した際などは、まさに中国兵に検束されようとした。蘆溝橋付近は文字通り日支両軍一触即発の間にあった」(防衛庁防衛研修所戦史室編「大本営陸軍部(1)」昭和42年429ページ)。

  事件発生は夜間の10時半すぎであったが、兵隊1名が行方不明(間もなく帰隊)であったこともあり、豊台の大隊主力も深夜蘆溝橋付近に進出して中国軍と対峙、翌朝には両軍が交戦する事態となり、以後も小ぜり合いが続いた。

  こうした状況に対して、軍中央部も政府も当初は不拡大方針で対応した。翌7月8日、参謀本部は「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クヘシ」(「現代史資料9・日中戦争(2)」昭和39年3ページ)と指示し、現地では北平特務機関(機関長松井太久郎大佐)が中心となって、停戦交渉がはじめられた。内閣も9日の臨時閣議で「不拡大、現地解決」の方針を決めた。しかし陸軍部内が不拡大方針で統一されていたわけではなかった。一方で、事件を拡大すれば、中国との全面戦争にまきこまれ、対ソ戦備も完成できなくなるとの不拡大論が主張される反面、他方ではここで一撃を加えれば中国側を屈服させ、華北を満州国の緩衝地帯とすることができるとする一撃派の勢力も強かった。同じ参謀本部でも、石原莞爾作戦部長が強硬な不拡大論をとるのに対して、武藤章作戦課長は一撃論の中心人物とみられる、といった有様であった。そして10日には、武藤課長の下で、関東軍および朝鮮軍からの応急派兵および内地三個師団・航空兵団の動員派兵案が作成されたが、この日には、中国から蒋介石が直系中央軍を北上させるとのニュースもはいっており、石原部長も形勢ひっ迫の場合を考慮してこの派兵案に同意するなど、しだいに一撃派の勢いが強まっていった。そして近衛内閣も軍内の一撃派に相応ずるような派手な動きを示すようになった。

  華北派兵案は、派兵に関する声明、経費などの案件とともに7月11日の臨時閣議で承認されたが、この日の近衛首相の行動をみると、午前11時半〜午後1時半五相会議、午後2時〜3時40分臨時閣議、午後4時22分東京駅発、葉山御用邸で天皇に事変の経過とその対策につき奏上、8時48分東京駅着、ついで9時より首相官邸で言論界代表、9時半より貴衆両院代表、10時より財界代表と会見して協力を求めるという、まさに重大事態を思わせる活動ぶりであった。

  派兵声明は、10日夜の現地での小衝突、中国側第一線兵力の増加、中央軍への出動命令などをあげて、中国側に平和的交渉の誠意なく、「今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ」と断じ、「北支治安ノ維持」「排日侮日行為ニ対スル謝罪」「今後斯カル行為ナカラシムル為ノ適当ナル保障」などを要求したものであった(外務省編「日本外交年表並主要文書」下巻昭和30年366ページ)。この声明はすでに、問題を現地の第29軍(軍長宋哲元)に対する謝罪・保障要求から、南京中央政府に対する「計画的武力抗日」体制の解体要求へと拡大させる方向を示していたと言える。

  また同夜の各界代表への協力要請は、この内閣の組閣過程で近衛首相が政党尊重の立場をとらなかったことを考慮した風見書記官長が、この際政界の協力をおおやけに懇請しておく必要があると提議したところ、賀屋蔵相からは財界に、馬場内相からは言論界に、同様の手をうってくれとの要求が出た結果であった。この日、広田外相を動かして内地師団動員案を阻止しようと奔走していた石射外務省東亜局長は、この夜の会合について、「行って見ると、官邸はお祭りのように賑わっていた。政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向に滑り出さんとする気配なのだ」(石射猪太郎「外交官の一生」昭和25年272ページ)と記している。政府はこの日、事態を「北支事変」と呼ぶと発表した。

  しかし現地ではこの夜、各界代表への協力要請が行われるより前の午後8時、特務機関長松井太久郎大佐と第29軍代表張自忠の間で、@第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、責任をもってこの種の事件の再発を防止する、A中国軍は盧溝橋付近より撤退し、治安維持は保安隊をもってする、B中国側は抗日団体の取り締りを徹底させる、という3か条よりなる停戦協定が調印された。陸軍中央部もこのニュースによって、一応内地師団の動員を延期し当面は協定の実行状況を監視することとした。しかし、関東軍より2個旅団、朝鮮軍より1個師団の増援をうけた支那駐屯軍では、これによって華北制圧の計画を立てうるようになり現地交渉が長びくとともに強硬論は、現地と中央を通じてしだいに勢いづいていった。

  現地交渉は停戦協定調印後も、その実施のための具体的条件をめぐって続けられた。すなわち、中国側の誰が謝罪し誰を責任者として処分するのか、中国軍を具体的にどの地点まで撤退させるか、といった点が問題とされたが、日本側は、抗日的な人物を責任ある地位からしりぞけ、中国軍および国民党関係機関をできるだけ広い地域から排除することをめざしており、塘沽協定・梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定などと同じやり方で、この事件を解決しようとしていたといえる。そして7月17日には、陸軍中央部は、@宋哲元の正式陳謝、A責任者の処罰と馮治安第37師長の罷免、B八宝山(盧溝橋北方)からの中国軍の撤退、C7月11日の解決条件への宋哲元の署名、を最低条件とし、19日を履行期限とする要求を中国側第29軍につきつける方針を決定し、五相会議もこれを了承した。
しかし中国側にも、これ以上日本の言いなりになるわけにはゆかないという気運が盛りあがっていた。7月17日の蒋介石の演説は日本の新聞にもつぎのように報ぜられた。

  「(一)中国の国家主権を侵すが如き解決策は絶対にこれを拒否す、(二)冀察政権は南京政府の設置せるもので、これが不法なる改廃に応ぜず、(三)中央の任命による冀察の人事異動は外部の圧迫により行はるべきものにあらず、(四)29軍の原駐地に制限を加へることを許さず、以上の4点は日支衝突を避け東亜の平和を維持する最小限度の要求である、要するに中国は平和を求むるも、やむを得ざれば戦ひも辞せず」(東京朝日新聞7月20日)。

  現地では、日本側が期限とした19日深夜、29軍代表は懸案の停戦協定実施条項に調印したが、同じ日、南京政府は、いかなる現地協定も中央政府の承認を必要とすると日本側に通告しており、日本の要求が容易に実現される見通しは立たなかった。そして中国軍の北平周辺からの移動が進まないうちに、7月25日には北平と天津のほぼ中間にあたる廊坊で、翌26日には北平広安門で日中両軍の衝突事件が起こり、最後通牒を発した支那駐屯軍は28日より全面攻撃を開始したのであった。翌29日、日本軍はほぼ永定河以北の北平・天津地区を占領していた。



4上海戦から全面戦争へ

 華北での日本軍の全面攻撃によって、事態はいわゆる「一撃派」の主張した方向に展開されることとなったが、しかし「一撃派」といえどもこの段階で、中国との全面戦争を望んでいたわけではなかった。彼等は内地師団の動員派兵(7月27日発令、第5・6・10師団)をまち、保定、滄州、石家荘付近において、北上してきた中国中央軍の精鋭に一撃を加えれば「南京政府ヲシテ敗北感ニ基ク屈伏ヲ余儀ナカラシムルト共ニ」「却ツテ迅速ナル一撃ニ依リ全面戦ヲ避クルノ結果ヲ期待シ得ヘシ」(防衛庁防衛研修所戦史室編「支那事変陸軍作戦(1)」昭和50年232ページ)と考えたのであった。しかしこれは中国の抗戦力をあまりにも低くみる安易な情勢判断にもとづくものであり、実際には、戦場を華北に限定することさえ不可能であった。抗日気運は中国全土をおおっており、日本政府は7月28日揚子江沿岸在留の日本人約2万9千名に引揚げを命じ、海軍掩護のもとに8月9日、上海までの引き揚げを完了したが、この日の夕刻、海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が、中国保安隊に射殺されるという事件が起こり、戦線は上海にも飛火することになった。

  当時、華中の警備責任は海軍とされており、第3艦隊司令長官は、中国側に差し当りの処置として、保安隊の即時撤退と軍事施設の撤去などを要求、上海に艦艇を増派し陸戦隊を増強したが、中国側も中央軍を送り込んで対抗し、ついに8月13日午前中から日中両軍の衝突がはじまった。そして14日に中国空軍が日本艦艇や陸戦隊への爆撃を企てると、15日には海軍航空隊が杭州、南昌、南京などの中国空軍基地を爆撃するなど、戦闘はたちまちエスカレートしていった。

  近衛内閣はすでに8月13日の閣議で、海軍より要求の、上海への陸軍派兵案を承認していたが、さらに翌14日深夜の閣議では「帝国政府声明」を決定し、15日朝発表した。この声明は、中国側の挑戦的態度、行動をあげ「帝国トシテハ最早隠忍其ノ限度ニ達シ、支那軍ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ」(「日本外交年表並主要文書」下巻370ページ)とのべて、これまでの現地解決の方針から、南京政府に対する軍事行動に転ずることを明らかにしたものであり、実質的には宣戦布告の意味をもつものであった。

  内閣はさらに翌々17日の閣議で「従来執リ来レル不拡大方針を抛棄シ戦時体制上必要ナル諸般ノ準備対策ヲ講ス」(「支那事変陸軍作戦(1)」264ページ)との方針を決め、そのため9月初旬に臨時議会を召集することとした。そして9月4の臨時議会(第72議会)の開院式では、戦線の詔勅に代わる異例の勅語がくだされ、そこではこの戦争の原因は中華民国が「深ク帝国ノ真意ヲ解セス、濫リニ事ヲ構ヘ」たことにあるとし、戦争の目的は「一ニ中華民国ノ反省ヲ促シ速カニ東亜ノ平和ヲ確立セントスルニ外ナラス」とのべられていた。その前々日9月2日の閣議では、事態の拡大に対応して「北支事変」の名称を「支那事変」と改称することが決定され、結局、日本側は中国との戦争を以後、「事変」という呼び方で押し通してしまっているが、これは宣戦布告をするとアメリカの中立法などが発動されて、戦略物資の獲得が困難になることがおそれられたからであった。

  中国側でも国民政府は8月14日「抗日自衛宣言」、翌15日全国動員令を発し、またこの間の、抗日統一戦線の結成をめざす国共合作交渉も、9月22日には華北の共産党軍を国民革命軍第8路軍(3個師団、軍長朱徳、副軍長彭徳懐)に改編するという具体的成果を生み出していた。もはや、一撃で中国が屈服することは望みうべくもなくなっていた。

  上海戦線には、8月23日から、第3・第11師団を基幹とする陸軍兵力(上海派遣軍、司令官松井石根大将)が投入されたが、この兵力をもってしても中国軍の抵抗を排除することはできず、9月1日には天谷支隊、9月7日には重藤支隊をつぎつぎと増派、さらに9月11日には、内地より新たに第9、第13、第101の3個師団の動員派兵が決定された(この増派決定を機会に、不拡大派の石原作戦部長は辞任を申し出、9月27日関東軍参謀副長に転出、後任は下村定少将)。しかもこの増援を加えて5個師団に及ぶ兵力をもってしても、上海戦線は膠着状態が続き、10月20日には新たに、第6、第18、第114の3個師団を基幹とする第10軍を編成、11月5日杭州湾に上陸させて、ようやく上海地区の制圧に成功するといった有様であった。

  しかもこの間、華北でも戦争は本格化しつつあった。前述したように、華北では内地よりの3個師団の集中をまって、保定付近で中国中央軍との決戦を行なうとの作戦構想が立てられていたが、中国中央軍の北上は日本側の予想より早く、湯恩伯軍は北方のチャハル省より長城線に進出してきたため、保定作戦以前にチャハル作戦が必要となった。チャハル作戦は8月中旬より、かなりの苦戦のうちに遂行されたが、このため、兵力不足が感ぜられるようになり、8月31日にはさらに4個師団(第14、第16、第108、第9師団)を増派するとともに、従来の支那駐屯軍は、第1軍・第2軍よりなる北支那方面軍に改変された。方面軍司令官寺内寿一対象に与えられた命令は「敵ノ戦争意志ヲ挫折セシメ戦局終結ノ動機ヲ獲得スル目的ヲ以テ速ニ中部河北省ノ敵ヲ撃滅スヘシ」(「支那事変陸軍作戦(1)」91ページ)というものであり、参謀本部は石家荘―徳州をつらねる線以北に戦面を限定して作戦目的を達成することを望んだ。しかし9月24日保定を占領した日本軍は、後退を続ける中国軍を追って、10月10日には石家荘をこえ、10月18日にはその南200キロメーターの(原文さんずい+章)河の線にまで達していた。日本軍は中国軍の退避戦法に乗せられ、戦面は河北省南端まで拡大された。しかも戦局終結の動機獲得という即戦即決の作戦目的は、中国軍の自給戦略によって達成することはできなかった(「大本営陸軍部(1)」484ページ)。



5戦時体制への移行と官庁機構の拡充


 中国戦線に派遣された兵力は、9月中旬の段階で華北8個師団、上海5個師団、計13個師団に対し、杭州湾上陸が敢行された11月になると、上海9個師団、華北7個師団、計16個師団に膨張した。戦争の規模はもはや日露戦争をこえており、軍部では早くから軍需品の補給を問題にしなければならなくなった。当時「現に貯蔵する弾楽量は戦時計画上の兵力30コ師団に対する4ヵ月分であり、対支正面に15コ師団を使用するとせば、おおむね8ヵ月の補給」(「支那事変陸軍作戦(1)」233ページ)を満たすにすぎず、したがってこれだけの規模の戦争を続けてゆくためには、生産力を軍需に集中すること、そのために国民生活を統制することが必要となるのは明らかであった。

  前述の「暴支膺懲」声明の出された8月15日は日曜日であったにもかかわらず、大蔵・商工両省では朝から経済統制法立案のための首脳会議が開かれ、他の省庁でも9月の第七二臨時議会に向けてこれに呼応する動きがあわただしくなった。経済統制は資金と物資、とくに輸入物資の両面から考えられ、資金の貸付け、会社の設立・増資などを制限する臨時資金調整法、特定物資の輸出入、それらの物資を原料とする製品の製造・配給・消費などの統制権限を政府に与える輸出入品等臨時措置法が、当面の統制の2本の柱とされることになった。このうち後者は、民需用原料の輸入をおさえて、軍需品の輸入を確保しようとするものであり、この法律によって早速10月から、綿花・羊毛の輸入制限、民需用綿・毛製品へのスフの混用が強制されることになるのであった。

  第七二臨時議会ではさらに、軍需工業動員法の適用に関する法律、臨時船舶需給法、臨時肥料配給統制法などのほか、臨時軍事費特別会計法が成立し、軍事費は事変終結までを一会計年度とする特別会計によって運用されることとなったが、その財源の大部分は公債に依存していた。したがって、こうした形で戦時経済を維持してゆくためには、他面では、消費の節約、公債購入や貯蓄などの強化が必要であり、そのために国民精神総動員運動が鳴り物入りではじめられることにもなるのであった。

  近衛内閣は8月24日の閣議で、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を三大スローガンとする運動方針を決定すると、ついで議会閉会の9月9日には国民精神総動員に関する内閣告諭を発し、翌々11日には日比谷公会堂で政府主催の大演説会を開催、近衛首相自ら演壇に立ち、馬場内相、安井文相らがこれに続いた。そして以後、政府から各界への働きかけによって、10月12日には、有馬良橘海軍大将を会長とする国民精神総動員中央連盟が結成され、神社へ武運長久祈願、勤労奉仕、生活改善、生産増強、愛国公債購入、貯蓄報国など、さまざまな形で、国民を戦時体制に馴致させようとする運動が展開されることとなった。運動は、中央連盟を民間団体とすることで、民間からの盛りあがりの外観をつくろうとしたが、地方組織の中心は知事を会長とする地方実行委員会であり、運動の実際は、知事―市町村役場―町内会・部落会という行政組織に担われた官製運動にほかならなかった。

  近衛内閣は、一方でこうした国民生活の統制、国民精神の動員などの組織づくりをはじめると同時に、他方ではこれらを指導するための官庁機構を整備・拡充し、さらにその中心としての内閣を強化することを企てていた。まず9月25日には、内閣情報委員会の内閣情報部への昇格が実現されたが、それは、これまで各省の情報・宣伝業務の連絡・調整にあたってきた情報委員会を、専任の「情報官」をもち、マス・コミ関係など学識経験者を参与とする情報部に改組し、各省をこえる情報・宣伝政策の実施機関たらしめようとするものであった。当時すでに、総力戦の一局面としての「宣伝戦」の重要性が唱えられるようになっており、内閣情報部はのち、第2次近衛内閣のもとで、さらに内閣情報局に昇格することとなっている。(昭和15年12月6官制公布)。

  内閣情報部設立の1か月後、1月25日には今度は企画院が発足した。企画院は、すでに昭和2年5月、田中内閣時代に総動員計画機関として設立され、以後、総動員計画の準備にあたっていた資源局と、この年の5月に内閣調査局を国策統合機関として改組したばかりの企画庁とを合併したものであり、その主要な任務は「平戦時ニ於ケル総合国力ノ拡充運用」に関する立案と「国家総動員計画ノ設定及遂行ニ関スル各庁事務ノ調整統一ヲ図ルコト」(企画院官制第1条)とにあると規定されたが、実際には、物動(物資動員)計画の作成と実施が中心業務となり、戦時経済運営の中軸的機関となっていった。総裁は国務大臣待遇とし、初代総裁には、法制局長官の滝正雄(後任は船田中)が横すべりした。

  企画院についで問題となったのは厚生省の新設であった。厚生省は近衛内閣成立当初から「保険社会省」の名称で問題とされていたものであり、徴兵検査における体力の低下を憂慮した陸軍の強い要求から出発し、兵力と労働力の確保という観点から構想された新省であった。すでに7月9日の閣議で『保険社会省組織大綱』が決定されたが、蘆溝橋事件以降の事態の急迫のため後まわしとされ、ようやく12月になって具体化が進められることとなった。しかし、枢密院での保険社会省官制案の審査は、保険監督行政の管轄をめぐる対立、民間保険業界の圧力などによって紛糾、結局、省名を「厚生省」に変更するなどの妥協により、新省は翌昭和13年1月11日になって発足した。初代厚生大臣は、前年10月病気を理由に辞意を表明した安井英二に代わって、文部大臣として入閣したばかりの木戸幸一が兼任することとなった。



6内閣強化のこころみ

 ところで木戸の入閣は、同じ宮廷グループの一員をなす(内大臣秘書官長)木戸を近衛の閣内での相談相手として首相の立場を強めようとする意図をもつものであったが、この時期には、戦時体制のなかでの内閣の指導性の強化ということも大きな問題となっていた。当時そのための方法としては、@少数閣僚制や大臣と各省長官の分離など内閣制度そのもの改革、A内閣改造、B参議制や審議会などによる外からの補強などが論議されていたが、結局比較的容易に実現できるという点から、内閣の相談役として各界の大物を集めて「内閣参議」とする案が進められた。10月15日公布された官制は、参議を「支那事変ニ関スル重要国務ニ付内閣ノ籌画ニ参セシムル」ものと規定し、出身別にみると陸海軍各2名、政党3名、財界2名、外交界1名計10名の参議が任命された。

  このなかでは陸海軍の4名の比重が大きいが、具体的にみると、陸軍では重臣グループの信任の厚い宇垣一成と、かつての皇道派の総帥荒木貞夫、海軍では、宇垣と並ぶ長老の岡田啓介元首相をねらったが断られたため、その身代わりとしてとった安保清種と、ロンドン条約問題当時の強硬派としてその後右翼にうけのよい末次信正といった具合に、軍内の各潮流の代表者が選ばれていた。その他の顔ぶれをみても、政党では民政党から町田忠治、政友会から前田米蔵、政友会を脱党して既成政党解消を唱えている秋田清、産業界代表として郷誠之助、金融界代表として池田成彬、国際連盟脱退の際の日本代表で満鉄総裁の地位にある松岡洋右などが選ばれており、各界勢力の均衡人事という印象の強いものであった。参議会は定期的に、近衛首相と参議たちとの昼食会として開かれたが、参議の意見を政策に反映させるといった動きはみられず、結局この制度は実際には、首相がその支持勢力を誇示し、あるいは内閣改造の際の閣僚のプールとして利用するといった機能に終始していた。12月14日、馬場内相が病気のため辞任(1週間後の21日逝去)すると早速参議のなかから末次が後任内相に登用されている。

  ところで、近衛首相とその周辺で考えられていた内閣強化をめぐるもう1つの問題は、国務と統帥の関係の改善ということであった。当時、首相周辺では「実質的に内閣を国務統帥の統合の府たらしめようとする案」(風見章「近衛内閣」昭和26年52ページ)なども考えられはしたものの実現の可能性はなく、そこで次善の策として出されたのが、総理大臣を構成員の1人とする大本営の設置という構想であった。これなら明治時代の大本営会議への伊藤博文の出席という先例もあるというわけであり、風見書記官長が中心となって軍部への働きかけをはじめた。これに対して軍部内には最初は宣戦布告なしの大本営設置に反対する空気が強かったが、杭州湾上陸の第10軍が編成された10月下旬になると、参謀本部は設置論に傾いていった。すでに北支那方面軍にならって、上海方面でも上海派遣軍と第10軍を統轄する中支那方面軍の編成が準備されており(11月7日発令)、2つの方面軍にふくれあがった大兵力を能率よく統帥するには、大本営が必要だとする意見が強まったのであった。

  この結果、大本営は参謀総長、軍令部総長を幕僚長として天皇に直属する最高統帥部として、11月20日宮中に設置された。しかし軍側は、近衛側が期待した「総理大臣を構成員とする」ことには反対であり、代わりに政略戦略の双方にわたる重要案件については必要に応じて関係閣僚と統帥首脳との会談を行ない、そのうちとくに重要なものについては御前会議を奏請して聖断を仰ぐことという代案が示された。そしてこの会議が、大本営政府連絡会議と呼ばれることとなった。11月24日「第1回大本営政府連絡会議が首相官邸で開かれ、首相、書記官長、陸海軍両大臣、両次長、両軍務局長が出席し、懇談を行った。参謀次長は、対ソ作戦準備と対支使用兵力の制約されている実情を説明した」(「支那事変陸軍作戦(1)」416ページ)という。なお参謀総長の閑院宮、軍令部総長の伏見宮という両皇族総長は、通例の会議には出席しないということが了解事項とされていた。

  近衛側からみて不満足なものであったとはいえ、これでともかくも統帥部への発言のルートができたのであるから、これをいかに利用し、軍部に対して何を主張するかが、つぎの問題であった。そして政戦両略にわたる最も重要な問題が、日中戦争をいかに収拾するかという問題であることも明らかであった。



7初期の和平工作と和平条件

 戦火が上海に広がり、中国大陸に大兵力を注ぎこまねばならなくなった9月下旬の段階になっても、軍首脳部が「短期決戦、早期解決」を望んでいたことは、9月20日、参謀総長が軍令部の了解を得て上奏した『作戦計画ノ大綱』において、積極作戦を10月末までと限定し、それでも敵が屈伏しないときは以後は「持久作戦」の段階に移るという構想がのべられていることからもうかがうことができる(「支那事変陸軍作戦(1)」301ページ)。つまり、いわゆる「一撃派」の強硬論者でさえ、できることなら10月いっぱいでこの戦争を終わらせたいと考えていたわけであり、したがって「不拡大派」の方は最初から和平工作に奔走していたのであった。

  すでに蘆溝橋事件直後の7月11日、石原部長のもとの参謀本部第2課では、「速カニ近衛首相(止ムヲ得ザレバ広田大臣)ハ聖諭ヲ奉戴シ危局ニ対スル日支和戦ノ決定権ヲ奉シ直接南京ニ至リ国民政府ト最後的折衝ヲ行フ」(日本国際政治学会編「太平洋戦争への道」別巻 資料編昭和38年257ページ)との案が起草されており、石原は風見書記官長を通じて内閣にこの案を申し入れた。近衛はこの案に乗り気になったといわれるが、風見はたとえ近衛が南京で話をまとめてきても、それで軍を統制することができる保障はないと反対し、広田も南京行きに消極的であったため、この案は結局実現せずに終わった。そこで近衛は、杉山陸相の了解を得たうえで、宮崎竜介を密使として南京に送ろうとしたが、宮崎は7月24日神戸から乗船したところを、憲兵隊にスパイ容疑として逮捕され、この計画も失敗してしまった。しかしこの時、近衛首相やその周辺で和平のための条件が具体的に考えられていた形跡はなく、近衛は「肩書」や「顔」の効用に安易に頼ろうとしていたように思われる。

  これに対して、華北の日本軍が北京・天津地区を制圧した7月末になると、具体的条件を準備して和平工作を行なおうとする動きもあらわれた。その中心となったのは、外務省の石射猪太郎東亜局長であり、柴山兼四郎陸軍省軍務課長、保科善四郎海軍省軍務第1課長らの了解をとりつけながら、陸海外3省間で和平条件の作成を進めた。そして同時に、交渉の基礎をつくるため、まず外交官として永年の中国在勤の経験を持つ在華紡績同業会理事船津辰一郎を極秘のうちに派遣し、国民政府内の親日派として知られる外交部亜州司長高宗武との間に内交渉を行ない、そのうえで正式の外交ルートに乗せるという方法が考えられ、在京中の船津は8月4日東京をたって上海に向かった。

  和平交渉は8月6・7日に決定されたが、それは当面の停戦のための条件と、その後の「日支国交全般的調整案」とにわけられていた。まず停戦条件としては、@永定河以東及以北地区の非武装化、A日本軍隊の事変前への自発的縮小、B塘沽協定、土肥原・秦得純協定、梅津・何応欽協定の廃止、C冀東政権及冀察政務委員会の解消と同地区の行政の国民政府による掌握の承認(ただし同地区の行政首脳者は親日有力者を希望)、であり、日本側では「全般的に極めて軽い停戦条件」(「支那事変陸軍作戦(1)」246ページ)と考えていた。

  しかし@の非武装地帯は、従来の諸協定による非武装地帯をふくみ、さらに北京・天津地区を加えた広大なもの(したがってBの諸協定廃止が可能となる)であり、またC項の希望条件は内政干渉のてことなるものである、つまりこの停戦条件は塘沽協定以来の諸協定と同じ発想にたつものであった。また国交調整案の主要な内容は、@「支那ハ満州国ヲ今後問題トセストノ約束ヲ隠約ノ間ニナスコト」、A日中防共協定の締結、B抗日排日の厳重取り締り、C華北自由飛行・冀東特殊貿易の廃止、などであるが、このなかでも一般的防共協定は、広田三原則以来、中国側が強く反対していたものであり、交渉は困難を予想された。しかもこれらの条件を知った川越大使が訓令を無視して船津を排除し、8月9日高宗武との直接交渉に乗り出したため、裏面工作を先行させるとの構想も崩れた。そしてそのうえにこの日大山中尉射殺事件が起こり、戦闘が上海にも拡大することとなったため、川越大使による交渉も進展しないままに消滅してしまった。しかし、この時つくられた和平条件とその発想は、その後も日本側指導者の間に基礎的なものとして生きのびてゆくこととなった。

  たとえば、10月1日首・陸・海・外四相間で決定された『支那事変対処要綱』での「時局収拾ノ条件」をみると、船津工作の際の諸条件を基礎とし、そのうえに、@上海周辺での非武装地帯の設定、A満州国の「正式」承認、B内蒙方面に関する要望の承認、などの諸条件を上積みしたものとなっている。このうち@は上海戦の開始に対応するものであり、Bは張家口を占領した関東軍が、9月4日察南自治政府を樹立するといった動きを反映するものであった。つまりここでは、戦面の拡大に合わせて条件を上積みしてゆくという方針がとられているわけであるが、さらにそのうえに、「国民ノ戦果ニ対スル期待」を満足させるために、国交調整交渉と同時に、賠償や海運・航空・鉄道・礦業・農業などにおける合併経営といった利権要求を持ち出して交渉に入ることも考えられていた。

  しかし、といっても、『支那事変対処要綱』の基本方針は、これらの利権要求のための戦争拡大を望んだわけではなく、まだ「今次事変ハ・・・成ルヘク速カニ之ヲ終結セシメ」るべきだとし、そのためには、「支那及第三国ニ対シ機宜ノ折衝及工作ヲナス」ことも必要だと協調していた(「支那事変陸軍作戦(1)」347〜351ページ)。日本側は「事変解決」は日中間の直接交渉によらねばならないと主張していたが、しかし、中国を直接交渉の座につかせるような第三国のあっせんは歓迎するというわけであった。

  これに対して中国側は国際的な世論が日本の行動を抑制することを期待して国際連盟に提訴し、連盟の勧告によってベルギーのブリュッセルで9か国条約会議が開かれることとなった。同会議の招請状は10月21日、日本政府にももたらされたが、この日広田外相は駐日ドイツ大使デイルクセンに対し、日本政府はこの会議を紛争解決に有害なものとして参加を拒否するであろうとのべるとともに、日本は中国と直接交渉する用意があり、ドイツやイタリアのような国の仲介を歓迎すると言明した(三宅正樹「日独伊三国同盟の研究」昭和50年78・79ページ)。このころ、参謀本部の石原第一部長も、馬奈木敬信中佐を通じてドイツの仲介による事変解決を画策していたといわれるが、当時のドイツは軍事使節団の派遣や武器援助によって国民政府と親密な関係を保っている一方、日本とも防共協定で結びついているという関係にあり、ドイツ外務省には、日中間の戦争の拡大はソビエトを利するだけだという見方が強かったといわれる。そしてこのような立場からドイツ側は、前述の広田の言明を帰として、中国駐在大使トラウトマンを中心に日中間のあっせんに乗り出すこととなった。



8トラウトマン工作・南京占領・「対手とせず」声明

 トラウトマン工作と呼ばれたこの交渉は、11月2日の広田、デイルクセン会談から実質的に開始されたが、この会談で広田は和平条件としてさきの『支那事変対処要綱』の主要な内容をつぎの7項目に要約して示した。 @内蒙古自治政府の樹立、A華北での非武装地帯の設定と親日的行政長官の任命、鉱物採掘権交渉の続行、B上海非武装地帯の設定、C反日政策の廃止、D共同防共、E日本商品への関税引き下げ、F外国人諸権利の尊重。そして同時に広田は、戦争が継続される場合には、この「条件ははるかに加重されるであらうと強調した」(「日独伊三国同盟の研究」85・86ページ)。

  しかしこの時期には情勢は急速に動きつつあった。上海戦線では10月末から中国軍の後退がはじまり、11月5日の第10軍の杭州湾上陸で戦局は決定的に変化、11月11日中国軍は総崩れとなり、上海を占領した日本軍は19日には早くも蘇州・嘉興の線に達した。当初参謀本部は日本軍の進撃をこの線にとどめて以後の政治的解決に期待する方針であったが、現地の中支那方面軍には、この際敗走する中国軍を追って首都南京を攻略することが事変解決に第一義的価値ありとする意見が強まった。とくに、杭州湾上陸の第10軍にこの傾向は強く、軍首脳部は11月15日には独断でも南京進撃を敢行するとの方針を決定した(「支那事変陸軍作戦(1)」419ページ)。軍中央でも石原に代わった下村参謀本部第一部長は、現地軍に同調、最後まで南京攻略に反対していた多田参謀次長もついにこうした動きにひきずられた。結局12月1日中支那方面軍に南京攻略命令がくだされることになり、同軍はただちに進撃を開始して12月13日南京を占領した。

  この間、華北では軍による傀儡政権づくりが進められ、南京占領の翌日12月14日には、北京に中華民国臨時政府が設立された。また蒙彊方面では、9月4日の察南自治政府に続いて、10月15日大同に晋北自治政府、10月27日綏遠に蒙古連盟自治政府が関東軍によってつくり出され、11月22日には張家口で三者を統轄する蒙彊連合委員会が組織されている。敵の首都を占領し、現地軍によってつぎつぎと地方政権が樹立されるという、このような状況のもとでは、蒋介石の国民政府が奥地の一地方政権に転落してゆき、その代わりに日本軍が育成した地方政権が中国の新しい中央政権に発展する、そうした形で事変を解決できるという幻想が、政府のなかにも軍部のなかにも強まっていった。しかもこの間、蒋介石はブリュッセルの9か国条約会議に期待を寄せ11月5日にトラウトマンによってもたらされた日本側の和平条件に対しても、これを公式にとりあげようとはしなかった。

  ブリュッセル会議は11月3日より開催されたが、一貫して日本の立場を支持したイタリアの活動などもあり、結局日本に対する経済制裁といった実効ある措置をとることはできず、11月24日閉会した。そしてこれによって期待を裏切られた蒋介石は、12月2日改めて、トラウトマンに日本側の和平条件を「和平を討議する基礎」(「日独伊三国同盟の研究」90ページ)として受け入れると回答してきた。この回答は12月7日、デイルクセンより広田外相にもたらされたが、広田は11月2日に示した条件は、もはや交渉の基礎となしえなくなったことを示唆するとともに和平条件については改めて陸海軍とも協議のうえで提示したいと答えた。

  この間すでに陸軍側では、参謀本部が起草した「支那事変解決処理方針」を陸軍省側と協議決定しており、結局新しい和平条件はこの案を基礎とするものとなった。新条件は12月14日〜17日わたる大本営・政府連絡会議、17・18日の閣議を経て21日の閣議で決定されたが、さきの11月2日の広田・デイルクセン会談で示された条件とくらべると、非武装地帯の拡大(華北・内蒙・華中)、内蒙防共自治政府と華北特殊政治機構(「日満支三国ノ共存共栄ヲ実現スル二適当ナル機構」)の承認、賠償の支払い、保障駐兵などの条件が加重されており、12月23日にこの新条件を広田外相から示されたデイルクセン大使は、これでは中国側が受諾することは難しいとのべたが、広田は「変化した軍事情勢と世論の圧力とがこれ以外の定式化を許さなかったのだ」(「日独伊三国同盟の研究」94ページ)と答えたという。

  しかしこの時までに、広田外相や陸海軍大臣をも含めて、近衛内閣の側には、蒋介石政権との和平を進めようという積極的意志はなくなっていたとみられる。新条件提示の翌日12月24日の閣議では『支那事変対処要綱(甲)』が決定されているが、この決定は、蒋介石が屈伏せずに、日本軍占領地域が拡大してゆく場合には「今後必スシモ南京政府トノ交渉成立ヲ期待セス」、華北の「防共親日満政権」を「拡大強化シ更生支那ノ中心勢力タラシムル如ク指導」(「日本外交年表並主要文書」下巻381ページ)し、同時に経済開発及統制のための国策会社を設立して内地資本の積極的大陸進出をはかるとの方針を打ち出したものであった。近衛内閣は、明らかに、和平工作よりも、華北親日政権の拡大強化と経済進出という方向に傾いていたが、しかし、戦力の限界を考えて長期戦を避けようとする参謀本部は、依然として早期和平を期待していた。

  中国政府からの和平条件についての回答がもたらされないままに年があけ、「1938年1月7・8日になると、和平交渉無用論が圧倒的となり、近衛氏としても、その関係幕僚たる陸海外三相が、それを妥当だとするにいたったので、それにしたがわざるをえなかったのは、とうぜんである」(「近衛内閣」104ページ)と風見書記官長は書いているが、このころには和平問題をめぐる政府・軍部間の折衝も活発となっており、1月11日には御前会議として開かれた大本営政府連絡会議で、「支那事変処理方針」が決定された。この方針は、@中国側が和を求めてきた場合の和平条件を再確認するとともに、A中国側が和を求めてこない場合には、中国の現中央政府を相手にせず、新興政権の新中央政府への育成をはかる、という2つの場合を想定したものであった。つまりこれによって、@の和平が実現しなければ、以後の政策は自動的にAに移行するということになるわけであった。

  その翌日、1月12日堀内謙介外務次官はドイツ側に対し、もう2、3日以上は待てないとして、中国政府の回答を督促、その結果13日付の回答が、14日夕刻に広田外相にもたらされが、その内容は日本側が新たに提議した条件の性質と要求の詳細を知らせて欲しい、というものにすぎなかった。この時ちょうど開会中であった閣議はただちにこの回答を誠意のないひきのばし策だと断じ、交渉打ち切りに意見が一致したが、これをきいた大本営側(陸海軍統帥部)は連絡会議の開催を要求してきた。

  翌1月15日に開かれた大本営政府連絡会議では、交渉打ち切りに反対する大本営、とくに参謀本部側に対して、内閣側からは、陸相、外相、海相らが中国政府には和平への誠意がみられない点を強調して交渉の即時打ち切り論をくり返した。とくに米内海相は「政府は外務大臣を信頼する。統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任である、政府は辞職のほかはない」とつめよったといわれる(「支那事変陸軍作戦(1)」475ページ)。結局参謀本部側も内閣を倒してまで主張を貫くことはせず、交渉打ち切りを黙過することになり、内閣は翌16日、「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手トセス、帝国ト真ニ提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ、是ト両国国交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」(「日本外交年表並主要文書」下巻386ページ)との声明を発した。

  この声明は、軍事力を背景として、蒋介石政権に代わる新しい中国中央政府をつくり出すことができるという安易な情勢判断にもとづくものであり、近衛内閣はこの声明によって、日中戦争を新たな段階におしすすめることになるのであった。



9物資動員計画と国家総動員法

 「対手とせず」声明が発表された1月16日の閣議は、企画院作成の「昭和13年物資動員計画」を承認、決定していた。「物動」と通称されるようになるこの計画は、できるだけ多くの物資を戦争に向けて動員することを目的とするものであったが、実際には、重要物資を輸入に頼っているという日本経済のあり方からいって、その年の輸入可能量(輸入力)を予測し、これを軍需、民需、輸出産業用に割りあててゆくというのがその中心的な作業となっていた。そこでは軍需の問題とともに、輸入を支える輸出力の確保が大きな問題となるわけであり、やがて輸出の実績に応じて輸入を割り当てる輸出入リンク制が登場することにもなるのであった。「昭和13年物動」をみても、当初計画では、輸入力30億円と想定していたが、6月23日の閣議では24億2400万円と改訂しなければならなくなっており、それにともなって民需が大きく圧迫され、国民生活はしだいに窮乏化してゆくこととなった。

  物動計画が経済運営の中軸とされるなったことは、「対手とせず」声明によって日中戦争の長期化が避けられなくなり、その長期戦に耐えるためには、国民生活全般を戦争に向けて動員し統制することが必要になってきたことを意味していた。物動計画決定1週間後の1月23日、近衛内閣は、33項目からなる「国家総動員法案要綱」を発表し、折から開会中の第七三議会に同法案を提出する準備を進めていることを明らかにした。

  同要綱は「国家総動員とは戦時又は事変に際し国防目的達成のため国の全力を最も有効に発揮せしむるやう人的及び物的資源を統制運用するを謂ふ」と定義したが、それは同法案にいう総動員の対象が、これまでの軍需工業動員法の場合のように、物資や設備という物的なものにとどまらず、人や業務という人的なものにまで及ぶことを示すものであった。そしてその動員・統制のやり方は、国家総動員のために必要な場合には、国民の徴用、雇用と賃金等の労働条件、労働争議の予防と解決、物資の生産・修理・配給・消費・輸出入の制限や禁止、物資の収用、会社の設立・増資・利益金の処分、工場等の設備や鉱業権等の管理・使用・設備の新設・拡張・改良、カルテルの統制、価格・運賃等の統制、出版物への掲載の制限・禁止、発売禁止、集会・大衆運動の制限・禁止、職業能力の申告など、非常に広汎な事項について、あらかじめ政府に命令を発する権限を与えておこうとするものであった。

  このことは大日本帝国憲法のもとにあっても、きわめて異例のことであった。この憲法においても、国民の権利義務に関する事柄は、議会の審議を経ることが必要な「法律」の形で、1つ1つ決めてゆくことが原則と考えられていたのであり、この法案のように、広汎な権限をまとめて政府の手にゆだねてしまうようなことは前例のないことであった。したがって政党の中からは、強い反発もおこり、3月4日の政友・民政有志代議士の集りでは「同案は憲法の精神に違反するとの強硬なる反対論に一致」(「東京朝日新聞」3月5日)したと伝えられた。貴族院にも反対の空気が広まった。

  そこで政府も、反対の強い集会と大衆運動の制限・禁止に関する条項と、30日以内に2回以上発売禁止処分に付された場合には、その新聞の発行そのものを禁止することができるという条項を削除し、諮問機関として「国家総動員審議会」を設けるなど、内容を若干緩和した法案を作成し、2月19日衆議院に提出し、24日の本会議に上程された。審議は、最初から斉藤隆夫(民政)の違憲論が展開されるなど緊迫したものとなり、委員会段階では、説明員として登壇した佐藤賢了中佐がやじをとばした宮脇長吉(政友)議員を「だまれ!」と一かつするなどという事件も起こっている(3月3日)。

  しかし議会では総動員法案への批判が叫ばれる反面、この法案への賛否によってこれまでの政党を解体し、近衛首相をかつぐ強力新党をつくろうとする動きも表面化しており、新聞も「近衛首相党首の新党、政友参加の体勢成る、成否の鍵を握る民政党」(「東京朝日新聞」3月8日)などと報じていた。また政党解消を要求する防共護国団が、政友・民政両党本部を占拠する(2月17日)といった圧力も加わっており、政党幹部の指導力も著しく低下していた。結局政党側は組織的な抵抗を示すことなく、国家総動員法案は無修正で成立し、4月1日公布、5月5日施行された。

  同法はすでに実施されている軍需工業動員法を吸収したため、この部分は工場事業場管理令を発してただちに引きつがれたが、新たな方面への発動は、8月24日公布の学校卒業者使用制限令、医療関係者職業能力申告令を最初として、国民職業能力申告令(14年1月7日)、従業者雇入制限令(同3月30日)などと続いており、国家総動員法は「人」の動員の面から発動されていったのであった。「物」や「金」についてはなおしばらくは臨時資金調整法や輸出入品等臨時措置法などによる従来の統制方式が続けられている。またこの間、13年11月には、総動員法11条を発動して企業の配当制限を行なうかどうかが問題化したが、結局1割以上の配当を抑制するということにおちつき、総動員法が通常の企業の利益を認めるものであることが明らかにされた。

  総動員法案が成立した第七三議会では、広田内閣以来の懸案であった電力国家管理法案も難航のすえ成立しており、この審議の過程では「公益」と「私権」をめぐるイデオロギー論議が注目を集めていた。



10徐州作戦と内閣改造

 国家総動員法は、長期戦に耐えうる体制をつくることを目的としたものであったが、軍側も「対手とせず」声名によって、戦局が持久戦の局面に入るものと考えていた。つまり一方で、占領地の安定と経済復興をはかり、日満華経済ブロックを形成して現地の傀儡政権を強化するとともに、他方では「ソ・支二面作戦」を行えるよう軍備の拡充をはかるため当面は積極的攻勢作戦を実施せず、軍備の充実をまって一挙に蒋介石政権を屈服させようというわけであった。

  昭和13年春の状況をみると、第七三会議では、占領地経営のための国策会社設立を目的とした北支那開発株式会社法・中支那振興会社法が成立。北京では3月10日、日本が主導した中国連合準備銀行が開業、南京では3月28日、華中の傀儡政権として中華民国維新政府の成立式典が挙行された。この間「参謀本部は、まず新設6コ師団を当年(13年)7月までに編成すること、そしてこれらの兵団が編成される7月までは、絶対に新作戦は実施せず、態勢を固めるのを原則とし、兵団の整備と軍紀の振作を図るという方針を立てた。徹底的積極作戦を進めて一挙に事変解決を図るのは、昭和14年とする腹案であった」(「支那事変陸軍作戦(2)」昭和51年4ページ)といわれる。この戦面不拡大方針は、2月16日の大本営御前会議で決定されたが、それは、中国側戦力の過小評価を前提にしていたといえよう。したがってこの方針は、中国軍の大兵力と接触している現地部隊には不評であった。とくに済南から南下していた北支那方面軍揮下の第2軍は、目の前で活発な動きをみせている中国軍に一撃を加える作戦を強く希望していた。結局中央も決して深追いしないとの第2軍の言を信じてこの作戦を認可したが、このことは、戦面不拡大方針が崩れだすきっかけとなるものであった。3月13日第2軍は第10・第5の両師団に作戦開始を命じたが、南下した先頭部隊は3月25日ごろから徐州前面の台児庄付近で有力な中国軍の反撃をうけて苦戦し、4月6日には敵から離脱して後退することを余儀なくされた。

  この台児庄の戦闘を中国側は大勝利と宣伝したが、大本営は蒋介石軍の主力がこの方面に出現したと考え、戦面不拡大方針を完全に放棄して、4月7日には徐州作戦実施の命令をくだし、さらに、新設師団の編成が終わりしだい武漢作戦をも実施しようとするほどの変わりようを示した。徐州は南京と済南をつなぐ鉄道のほぼ中間点にあり、黄海に面した海州から鄭州を経て西安にいたる鉄道が交叉するという交通の要衝であるが、この徐州を北支那方面軍と中支那派遣軍(13年2月18日中支那方面軍を改編)とで南北から大きくつつみ込み、中国軍主力を包囲せん滅しようというのが大本営の構想であった。しかしこの作戦のために兵力が増派されたといっても、これだけの大包囲作戦には不足であり、また作戦構想も現地軍に徹底せず、5月19日徐州を占領したものの、中国軍主力を捕捉することはできなかった。そして6月18日には大本営は「初秋ノ候ヲ期シ漢口ヲ攻略スルノ企図ヲ有ス」(「支那事変陸軍作戦(2)」110ページ)との指示を現地軍に送っていた。

  こうした戦面不拡大方針の破たんは、政治的には蒋介石を相手にせず「事変」を解決するという「対手とせず」声名の構想が早くも崩れ去ったことを意味していた。近衛首相もこの声名が失敗であったことを認め、一時は辞職を考えたが、近衛が引き続き政権を担当することを望む声は強く、近衛も結局、内閣改造によって局面を打開しようとする方向に動いた。

  この内閣改造は二つのねらいをもって構想されていた。すなわち第一には「対手とせず」声明を修正するために、その直接の責任者である外相と陸相を更迭することであり、第二には、財政経済政策における指導力を強化して内閣全体を安定させるために、蔵相、商相などを更迭することであった。このうち最もむずかしいのは陸相の更迭であったが、近衛はまず、参謀本部に杉山陸相排斥の空気が強いのを利用し、閑院宮参謀総長に働きかけて杉山を辞任においこみついで後任に板垣征四朗中将を起用しようとした。当時近衛は板垣を石原莞爾につらなる不拡大派と考え、当時第5師団長として徐州作戦に参加していた板垣に対し、同盟通信社主幹古野伊之助を極秘の使者として入閣を交渉したのであった。

  5月23日、古野から板垣内諾の通報を受けた近衛は、翌日陸軍の長老で首相クラスの政治家と目されていた宇垣一成に、広田に代わって外相を引き受けることを求めた。これに対して宇垣は「1、内閣の一致結束を一層強化す、2、速かに対時局の方針を決定す、3、対支外交の一元化を期す、4、蒋政権を相手にせず云々に深く拘泥せず」(角田順校「宇垣一成日記」2昭和45年1242・1243ページ)との四条件をつけて入閣を受諾したが、このとき近衛は四条件に賛成すると同時に、「1月16日の声明は、実は余計なことを言ったのですから─併しうまく取消すやうに……」(「宇垣一成日記」2 1241ページ)とつけ加えたと言われる。この内閣改造にあたってこれまで文相兼厚相の木戸幸一を厚生大臣専任とし、陸軍出身の荒木貞夫を専任文部大臣に任じているが、この人事は「宇垣大将を迎える関係上バランスの都合で荒木大将を起用する必要が生じた」(「東京朝日新聞」5月27日)ものとみられた。

  内閣改造のもう一つの柱は、官僚出身の実務家型閣僚である賀屋蔵相、吉野商相に代えて、財界の大御所的存在である池田成彬を起用することであった。池田は三井合名常務理事として久しく三井財閥をリードするとともに、東京手形交換所理事長、日本銀行総裁などを歴任しており、財界に対して強い影響力を及ぼしうる人物とみられていた。新閣僚の任命は、徐州占領一週間後の5月26日に行なわれたが、板垣だけは内地帰還がおくれたため、陸相任命は6月3日となっている。また、大谷尊由拓相が北支那開発株式会社の初代総裁に転出したため、6月25日、宇垣外相が拓相を兼任することとなった。



11平和工作の競合と宇垣外相の辞職

 近衛首相が、内閣改造で得た板垣、宇垣、池田らの有力閣僚を中軸として一気に「事変」を解決しようと意気込んだことは、6月10日の閣議で、この顔ぶれに米内海相を加えた五相会議(首・陸・海・外・蔵の五相)を常設のものとしたことからもうかがうことができる。しかしそう思惑どおりに事が運びそうもないことは、早くも6月17日の第一回五相会議で明らかになってきた。この会議で板垣陸相は「支那事変指導に関する説明」を行ったが、その要点は(1)「支那ノ大勢ヲ制スルニ足ル要衝ノ占拠ヲ目標トシテ」積極的作戦を行なう、(2)「作戦ノ進展ニ伴ヒ謀略ヲ強化シテ益々親日反共諸勢力ノ助成ニ勉メ且速ニ之等ヲ統合包括シ得ヘキ中心機構ヲ樹立シテ雑勢力ノ吸収ヲ容易ナラシムルト共ニ……成ルヘク速ニ蒋政権ノ分裂崩壊少クモ其局地政権ヘト転落ヲ期ス」、(3)「若シ蒋政権ニシテ反省屈伏ノ実ヲ示シテ平和ヲ求メ来ルニ於テハ之ヲ清浄改組シ一地方政権トシテ対処シ新支那中央政権ノ傘下ニ統合セシム」(「太平洋戦争への道」別巻資料編262ページ)というものであった。

  この意見は、積極的作戦や謀略の強化などという手段方法の問題を別にすれば、蒋介石政権を局地政権に転落させ「新支那中央政権」によって「支那ノ再建」をはかろうとするものであり、「対手とせず」声明と発想を同じくするものであったといえる。ここで異なっているのは、「対手とせず」声明の補足声明(昭和13年1月18日)が、対手とせずとは否認よりも強い意味であり「国民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスルノデアル」(「日本外交年表並主要文書」下巻387ページ)とした点を撤回したことだけであろう。しかし、蒋政権が屈伏し改組した場合に、傀儡的新中央政権に加えてやるという程度では、「対手とせず」から「対手とする」への転換とは言いえない、つまり板垣が石原的な不拡大論者でないことはすでにこの時点で明らかになったと言えよう。

  しかも板垣の意見は、これだけにとどまらず、さらに「今次事変ハ事実上在支欧米勢力打倒ノ端緒」であり、「防共協定ト対米善処トニ依リ蘇(ソ連)英ヲ牽制シ支那抗日政権ノ欧米依存政策ヲ打破スル」という問題を提起した点で重要であった。それは「事変処理」の方法として、直接に蒋介石政権を打倒するという方法に加えて、外部の援蒋勢力と蒋介石政権とを切り離すという新たな観点が現実に重視されはじめたことを意味していた。そしてここから日独伊防共協定強化─援蒋ルート遮断─援蒋勢力打破という政策構想が生れ、それは蒋政権の直接的な打倒が困難になるにしたがって、しだいに政策の前面に押し出されることになるのであった。つまり板垣は、単に日中戦争不拡大論者でなかったばかりでなく、「事変処理」を「在支欧米勢力打倒」に拡大しようという、一まわり大きな拡大論者であったと言わねばなるまい。

  これに対して宇垣外相はこの五相会議で、「対英態度確立の必要を説き、日英調整の基本的態度を明確にしたいと述べ、また1月16日(対手とせず)声明は修正を要すると主張した」(「大本営陸軍部(1)」550ページ)と言われる。ここでの宇垣の主張や板垣との対立点の詳細は知りえないが、続く6月24日の五相会議では、ともかくも「事変」の早期解決をめざすという点では意見の一致が得られた。そして「支那事変ノ直接解決ニ国力ヲ集中指向シ概ネ本年中ニ戦争目的ヲ達成スルコトヲ前提トシ内外諸般ノ施策ヲシテ総テ之ニ即応セシム」(「大本営陸軍部(1)」548ページ)、との決定がなされたのであった。

  すでにこの時、宇垣外相も陸軍側も、それぞれ別々に対華和平工作を策しつつあった。宇垣に対しては、6月10日には、国民政府行政院長孔祥熙が講和の決心を固めたとの情報が、萱野長知(大陸浪人)→小川平吉(政友会の長老)のルートによってもたらされているが、6月23日からは、香港総領事中村豊一と孔の秘書喬輔三との交渉もはじめられた。この交渉では、宇垣が前年12月、トラウトマンに示した和平条件を依然として交渉の基礎としようとしたのに対して、孔祥熙側は満州国承認、華北の特殊地帯化、賠償の支払いなどに異議をとなえるとともに、日本側が蒋介石の下野を交渉の前提としようとしていることに強い反発を示した。結局この交渉は、蒋の下野問題で最初から暗礁にのりあげてしまった。

  一方陸軍側では、同じころ西義顕(満鉄南京事務所長)、松本重治(同盟通信社、上海支社長)などの仲介によって、高宗武(前外交部亜州司長)、周仏海(国民党中央宣伝部長)らの国民政府和平派との連絡を保っており、7月に入ると3日から21日にわたって高宗武が来日し、陸軍側のこの工作の推進者である影佐禎昭大佐(陸軍省軍事課長)をはじめ多田参謀次長、板垣陸相らとも会談している。さらに8月には高が病気入院したこともあり、8月29日から9月3日にかけて、周仏海が派遣した梅思平と松本重治とが5回にわたって香港で会談し交渉を進めた。そしてこの間、中国側は、日本が一定の期限内での撤兵を約束すれば、平和の可能性があり、その際には国民党副総裁の汪兆銘が和平派をリードして和平の推進役を引きうけるとの構想を明らかにしてきた。つまりこの和平工作は、さきの宇垣─孔祥熙工作よりはるかに有力で実現性のあるものと考えられるようになったのであった。

  このように和平工作で軍と対抗関係にあった宇垣外相は、さらに「対支中央機関」という難問にぶつかることとなった。すでに1月の「対手とせず」声明直後から、占領地に設ける国策会社の監督という新しい問題が生じたこともあって、満州をも含めて対中国政策全般を統轄する中央機関をつくろうという案が、企画院や法制局から出されていたが、これに対しては外務省が、外交一元化の必要、満州と中国を同一機関で扱うことは中国を満州国と同様な植民地とみなすこととなるなどの観点から強く反対し、この問題は未解決のまま内閣改造で中断していたのであった。ところが7月下旬になると今度は陸軍側から和平工作との関連で強い要求が出されてくることとなった。

  すなわち7月15日の五相会議では「漢口陥落後蒋政権ニ分裂改組等ヲ見サル場合既成政権ヲ以テ新中央政府ヲ樹立ス」(「支那事変陸軍作戦(2)」102ページ)との方針が決定されているが、新中央政府樹立のためには、これまで現地軍がそれぞれに行なっていた地方政権の指導を統一することが必要となってくる。しかもそのうえに汪兆銘工作が進展してくることになれば、事態はいっそう複雑となり、統一的指導のための中央機関を設置しなければならなくなるというのが軍側の主張であった。

  板垣陸相は、9月6日の五相会議に「対支院」と名づけた「対支中央機関」案を提出、海軍側もこれに同調して、9月21日の五相会議には陸海軍、法制局の共同案が出された。この案によれば対支院は、首相を総裁とし対華政策の企画と実行にあたることとなっていた。宇垣外相は五相会議でこの案をも強く批判したが、外務省側は対支院の設置そのものには反対しないとの態度をとり、佐藤尚武顧問らを中心として対案の作成が進められた。

  外務省の対案は、@対支院の対象地域を日本軍の占領地域とする、A対支院所管事項から「渉外事項」を除くこととする、B対華政策の決定は五相会議で行うこととし、対支院はその執行機関とする、というものであり、9月27日の五相会議に提出されたが、今度は軍部が強く反対してきた。問題の中心は@であり、同会議後の事務当局間の折衝ではA、Bについては軍側も外務省案を実質的にうけいれたが、「『対支院』の対象地域に関しては、占領地域案に根本的に反対し、戦争状態にあることはすなわち外交関係が存在しないことを意味するものであって、占拠地域と非占拠地域とを区別すべきでないばかりか、地域の限定は『対支院』の使命とあいいれないとして、あくまでも中国全土案を主張した」(外務省百年史編纂委員会編「外務省の百年」下巻昭和44年374ページ)という。

  こうした陸軍の強硬な態度の前に、外務省事務当局はやむなく陸軍の主張をうけいれることにした。しかし9月29日朝の外務省首脳会議では、宇垣外相は事務当局の妥協に反対し、「非占拠地域ニ対シテハ戦争中ノ今日占拠地域同様外交関係ナク且蒋政権ハ之ヲ相手トセストノ政府ノ声明アルコトハ之ヲ認ムルモ支那国民ハ之ヲ相手トシテ差支ナク非占拠地域ニ対シ外交上ノ手ヲ打ツノ余地ヲ残シ置クコト必要ナリ」(「外務省の百年」下巻374ページ)とその理由を明らかにして、そのまま近衛首相を訪問、外務大臣の辞表を提出するにいたった。陸軍案でゆけば、対華和平工作の実施は対支院の権限とされるわけであり、宇垣はこの外務省締め出しに強く反発したのであった。

  外相の後任はしばらく近衛首相の兼任としたのち、10月29日になって有田八郎が専任外相に任命されたが、この間対支院は名称を興亜院と改め、12月16日の管制公布で正式に発足することとなっている。興亜院は首相を総裁、陸・海・外・蔵四相を副総裁とし、総務長官のもとに政務・経済・文化・技術の4部を置き、占領地には連絡部を設けることとした。初代総務長官には陸軍中将柳川平助、政務部長には陸軍少将鈴木貞一が任命されている。



12武漢・広東作戦から東亜新秩序声明へ

 宇垣外相が辞職したころ、中国では武漢(漢口・武昌)と広東(広州)をめざす作戦が展開されているところであった。このうち武漢作戦の実施は参謀本部ではすでに5月末には決定されており、満州東部国境南端、張鼓峯付近でのソ連との国境紛争が解決(張鼓峯事件、8月10日モスクワで停戦協定調印)するころには本格的な準備が進められ、8月22日には作戦開始が命ぜられた。この作戦には、北支那方面軍から中支那派遣軍に転属された第2軍と、新たに編成された第11軍があたり、大別山系を横断する第2軍と揚子江をさかのぼる第11軍とが相呼応して漢口を攻略するという計画であった。このうちとくに、第2軍の山岳戦は補給の困難、マラリア患者の多発などもあり大きな損害をだしているが、ともかくも10月26日には漢口、武昌を占領することができた。

  一方、広東作戦は当初は、船舶の輸送力の点からみて、武漢作戦に引き続いて実施するとの構想が立てられたが、輸送力補充の見通しがついたため、9月7日の御前会議で武漢作戦と並行して行うことが決定されてものであった。この作戦のためには、台湾軍司令官古荘幹郎中将を司令官とし、3個師団よりなる第21軍が編成された。同軍は主力をもってバイヤス湾に上陸西進し、一部をもって珠江をさかのぼらせることとしたが、中国軍の抵抗は弱く、漢口占領よりも早く、10月21日には先頭部隊が広東に突入している。

  ところで陸軍が徐州作戦についで、これだけの大作戦の実施に踏み切ったのは、この作戦の勝利によって、日中戦争解決のめどが立つと考えたからであった。すなわち、武漢は中国全土を掌握する最後の中枢であり、これを失えば蒋政権はまさに奥地の一地方政権に転落する、そのうえ、広東を占領して香港に通ずる補給路を切断すれば、蒋政権は屈伏するか、分裂崩壊する、というのが日本軍部の読みであった。武漢・広東攻略直後の13年11月、大本営は中国情勢を「戦略的ニ之ヲ観レハ帝国ハ既ニ抗日支那政権ヲ破砕シ得タルモノト謂フヘク今後ハ攻略的進攻ヲ行ヒ有終ノ美ヲ発揮スヘキ段階ニ入リシモノナリ」(「大本営陸軍部(1)」573ページ)と判断していた。軍事的勝利とともに「政略的進攻」としての和平工作が進展していたことが、この判断の基礎となっていることは明らかであった。

  武漢陥落が近づいてくると重慶では汪兆銘が「和平救国」を公然と唱えはじめていた。そして汪は10月21日香港から重慶に帰った梅思平に和平工作の報告をきくや、和平に立ちあがる決意を固め、改めて高宗武と梅思平を代表に指名して日本側との交渉を命じた。この動きに呼応して日本側からは11月3日、新しい政府声明が発表された。この声明は第二次近衛声明とも呼ばれるようになったが(「対手とせず」声明を第一次近衛声明とする)、その特徴は、日本の戦争目的が「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」にあるとし、「東亜新秩序建設」なる新たなスローガンを打ち出した点にあった。そして新秩序の建設とは、「日満支三国相携え」「国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり」と説明して「支那国民」の協力を呼びかけ、さらに「国民政府は既に地方の一政権に過ぎず」と断じながらも「国民政府と雖も、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず」という国民政府への呼びかけをも含ませたものであった。

  この東亜新秩序声明は、影佐大佐ら陸軍の早期和平派が起草し、国策化を進めてきた『日支新関係調整方針、同要項』を基礎としたものであり、この「方針、要項」そのものも11月30日には御前会議で正式に決定されるにいたっている。この決定は多くの利権要求を含むものであったが、「日本は漸次租界、治外法権等の返還を考慮」する、北支蒙疆の防共駐屯以外の日本軍は「成るべく早期に之を撤収」する、戦費の賠償は要求しない、「などの項目をも含んでおり、御前会議決定の手続がとられたのはこれらの点が和平工作の促進に利用されたからであった。

  すなわち、「11月20日には、上海で高宗武、梅思平と影佐大佐、今井武夫中佐の4者の間で「日華協議記録」への調印が行なわれているが、それは日華和平の条件として、@日華防共協定の締結(日本軍の特定地域への防共駐屯を認める)、A中国側の満州国承認、B日本人の中国における居住、営業の自由の承認、日本の有する治外法権の撤廃(日本は租界返還をも考慮する)、C経済合作における日本の優先権の承認、D日本は在華日本人居留民の損害の補償は要求するが戦費の賠償は要求しない、E協約以外の日本軍は、平和克復後即時撤退を開始し、2年以内に完全に撤兵を完了する、という6条件を規定したものであった。そして日本政府がこの条件を発表すれば、汪兆銘らは蒋介石と絶縁して、日華提携ならびに反共政策を声明し、機を見て新政府を樹立することが約束されたのであった(今井武夫「支那事変の回想」昭和39年80ページ)。

  この時、中国側がもたらした「挙事予定計画」によれば「汪声明に呼応し先ず雲南軍が反蒋独立し、次で四川軍呼応す」「汪兆銘は同志を傘下に糾合し雲南、四川等日本軍の未占領地域に新政府を樹立して、軍隊を編成す」(「支那事変の回想」82・83ページ)とあり、汪は、日本軍と蒋政権の間に第三勢力としての新政府を立てて和平を推進しようという構想をもっていたことがうかがわれる。そしてこの計画が思惑どおりに実現したならば、「支那事変処理」は大きく前進することが期待されたのであった。12月1日、香港にいる高宗武からは「汪兆銘ハ6日重慶発、成都着、10日昆明ニ到着ス」(「支那事変の回想」299ページ)との連絡がもたらされている。



13防共協定強化問題と近衛内閣の総辞職

 汪兆銘工作が具体化してきた12月初旬には、近衛首相は政権担当の意欲を失っており、汪兆銘が重慶を脱出し、それに呼応する近衛声明を出したところで辞職することを考えるようになっていた。近衛の周辺には、たえず彼をかつぎ上げようとする新党運動がうずまき、とくに9月から10月にかけては、亀井貫一郎、麻生久らや、木戸厚相、塩野法相、末次内相の三相による新答案などがもたらされており、さらには「国民再組織」という新たな観点からの組織案も話題となっているが、近衛はこの時はこうした動きに乗ろうとはしなかった。近衛にとっては、夏からの課題となっている防共協定強化問題が、いよいよ重くのしかかってきていたのであった。

  「防共協定強化」とは日本側で名づけた呼び方であるが、その要点はこれまで防共協定で結びつけられている日独伊三国の関係をより強固な軍事同盟にまで強めようとするものであり、ドイツ側ではその対象をソ連のみにかぎらず、イギリスやフランスにも拡大することを望んでいた。この問題はすでにこの年のはじめからリッペントロップ外相と大使館付陸軍武官大島浩少将との間で話し合われており、陸軍がドイツの希望に同調する方向に動いていたことは、さきにふれた板垣陸相の「支那事変指導に関する説明」にもあらわれていた。そして陸軍からの提議によって7月19日の五相会議では、日独伊防共協定を強化する方向で研究するという方針が決定されたが、さらに8月5日、ドイツに駐在していた笠原幸雄陸軍少将が、ドイツ側の条約案をたずさえて帰国したことによって問題は一挙に具体化したのであった。条約案はつぎの三か条からなるものであった。

 

第一条

締約国の一が締約国以外の第三国と外交上の困難を生ぜし場合に於ては、各締約国は執るべき協同動作に関し直に評議を行なう

第ニ条

締約国の一が締約国以外の第三国より脅威を受けたる場合に於ては、此の脅威を排除する為、他の締約国は有ゆる政治的且外交的の支援を行う義務があるものとす

第三条

締約国の一が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合に於ては、他の締約国は之に対し武力援助を行う義務あるものとす


  この案は正式の外交ルートとは関係なしに、日本の軍部の意向をきくという形でもたらされたものであったが、事は重大とみた米内海相らの意見により、8月26日の五相会議に付議され、宇垣外相より提案された修正案が承認されている。この修正案はまず新たに前文をつけ、そのなかで「共産主義的破壊に対する防衛を強固にし且三国に共通なる利益の擁護を確保する為」として条約の目的を限定する、第2・3条の「脅威」と「攻撃」に「挑発に依らざる」の字句をつける、第3条の「武力援助を行う義務」を「武力援助に就き直に協議に入る」とする、などの修正を加えたものであった。この修正は、新たな条約をも防共協定の枠内のものとし、自動的な武力援助の義務を解除して、ドイツと英仏との対立にまきこまれる危険を避けようとしたものであった。

  この修正案は、8月29日陸海軍次官より駐独武官あてに送られたが、同時に陸軍次官(東条英機)は別にこの修正案についての説明を大島武官あてに打電し、この電報で早くも修正案に対する陸軍独自の解釈が示されていた。すなわち同説明電は、「『前文案』ハ本協定カ現存防共協定ノ延長ニシテ主トシテ蘇聯ヲ目標トスル趣旨ヲ明確ナラシメントシタル一案ニシテ英米等ヲ正面ノ敵トスルカ如キ印象ヲ与ヘサル様用語上ニ注意セルモノナリ」(「現代史資料10・日中戦争(3)」昭和40年180ページ)とのべているが、この「用語上ニ注意」という表現は、表面にあらわれなければ、英米を敵としてもよいとの意味にもとれ、実際に大島はそう理解したのであった。

  修正案に対するドイツ側の回答は、11月1日になってもたらされたが、その間に前述したように外相は有田八郎に代わり、また10月8日には、大島武官が現役をしりぞいて、駐独大使に任命されていた。ドイツ側の回答は2条で日本側がつけた「挑発によらざる」の字句を削除し、3条では援助を義務的なものとする規定を復活したうえ、さらに、4条として単独不講和条項をつけ加えたものであった。この問題は11月10日の五相会議にかけられたが、この会議では有田外相から提起された「本協定は『ソ』に対するを主とし英仏等は『ソ』側に参加する場合に於て対象となるものにして英仏のみにて対象となるものに非ず、勿論仏が赤色化したる場合の如きは対象たるべし」(「現代史資料10・日中戦争(3)」189ページ)との基本方針が決定された。有田はこれにもとづき、ドイツ案第4条の削除、有効期間を5年とする条項の新設、武力援助はソ連が単独にまたは第3国と共同して攻撃を加えてきた場合にかぎるという秘密議定書を加えるなどを内容とした第2次修正案を12月1日に決定、さきの五相会議の決定とともに大島大使に送った。

  しかしこれをうけとった大島は、さきにのべたような理解にもとづき、この方針は8月26日の五相会議決定と異なるとし、このような重要国策が僅々2、3か月のうちに変更されるとは信じがたいと激しく抗議してきた。これに対して有田外相は「本件にかんする方針は初めより防共に限定せられており何等変更せられていない」との回訓案を作成し12月初旬の五相会議に付議したが、これには板垣陸相から強い反対が出された。有田は、「板垣陸相は『8月26日の五相会議決定は、ソ連を主とするも従としては英、仏をも対象とする趣旨であって、ソ連以外を除外するものではない、11月11日の五相会議決定もその趣旨だ』と主張したので、陸相以外の各大臣は事の意外に驚きながらも、こもごも陸相の主張の誤りであることを強く主張した。しかし陸相はその所説を繰り返すだけで、一向要領をえなかったので、困惑した空気の下に当日の五相会議は閉じられたのであった。自分のかねがね心配していた事が俄然表面化した。それは陸軍と陸軍以外との対立であった」(有田八郎「馬鹿八と人は言う」昭和34年92ページ)と回想している。

  この対立により五相会議を開くことも困難となり、したがって大島大使への訓令を送ることもできなくなった。問題は英米に対する態度をどうきめるかという国策の分岐点にきていたが、近衛首相は自ら決断するよりも、辞職することを望んだ。しかし板垣陸相は、汪兆銘工作の中途での政変に強く反対し、近衛も当面、汪の動きを見守るよりほかはなかった。しかも、汪の重慶脱出はおくれ、工作は失敗かと気をもませる日々が続いた。 汪兆銘は結局、12月18日重慶を脱出、周仏海とともに19日ハノイに着いた。そして22日には、これに呼応して『日華協議記録』にもとづく第3次近衛声明が発表された。そこには前述『協議記録』の@からD項まではもり込まれていたが、最も重要なE項の2年以内の完全撤兵の問題には一言もふれられていなかった。12月19日に声明を発表した汪は「最も肝要なのは、全日本軍隊の中国よりの撤退で、それは普遍且つ迅速でなくてはならぬ」(「支那事変の回想」92ページ)と協調したが、しかしこの声明にこたえて、雲南・四川の将領が動くという気配はみえなかった。

  「支那事変処理」の期待は、またもや薄れつつあったが、近衛首相はもはや先をみる気力はなく、近衛内閣は年が明けるのをまって昭和14年1月4日総辞職した。

西尾末広議員除名される
──「スターリンの如くに」──

 国家総動員法案は、3月17日夕刻に委員会審議を終わり、同夜7時すぎの衆議院本会議に上程された。同法案については政民両党ともに批判的な空気が強かったが、結局政府や軍部の勢いにおされて、両党共同して無修正で可決する態度をきめていた。最後の委員会では「民政の豊田豊吉氏が『不満乍ら賛成』を表明したのに政友の西岡竹次郎氏が今までの政友の主張を裏表に飜して100パーセント積極的な賛成論を述べたときばかりは満場各人各様の奇異な気持でざわめいた。政府席までが苦笑していた」(「東京朝日新聞」3月17日)という。また本会議では「政民両党席は国家総動員法案の反対論者、修正論者にしてサッさと帰ってしまったものもかなり多いらしくこの劃期的大法案の運命を決する会議としては珍しく空席頗る多い」(「東京朝日新聞」3月7日)という有様であった。こうした政民両党内の苦々しげな空気に対して、この法案に最初から一貫して賛成してきた社会大衆党は得意気であった。

  本会議で、民政党の山本厚三、政友会の大口喜六、第一議員倶楽部の井坂豊光についで登場した社大党の西尾末広は、この法案の必要性を力説したあと、「旧来の陋習を破り」という五か条の御誓文をしっかり把握して大胆率直に、ムッソリーニの如く、ヒトラーの如く、スターリンの如く、日本の進むべき道を進め、と近衛首相を激励した。この演説に対して議場は「スターリンの如くとは何事だ」と騒ぎだし、西尾は「ムッソリーニ以下」を取り消したが、小山松寿議長は議長職権で西尾を懲罰委員会にかけた。委員会は西尾を議員除名とすると決定し、23日の本会議では3分の2以上の多数で承認した。政民両党は除名にあたって、西尾の演説は共産主義や社会主義の社会を建設することが明治天皇の御趣旨に副ひ奉るが如き言辞を弄したものだと非難する共同声明を発したが、その心情は、社大党のあまりの与党ぶりへの反感に出たものとみられた。

  なお西尾は、翌年の補欠選挙に当選し議席を回復している。




 

主要参考文献・史料

 

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