『新修 大津市史』5 近代

1982年7月

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第1章 近代大津の出発

「歩兵第九連隊」




 

古屋哲夫

大阪鎮台大津営所
西南戦争

西南戦争
第九連隊の動員
田原坂の激戦
延岡から城山まで


西南戦争



第九連隊の動員

 明治8年(1875)春、ようやく予定の駐屯地大津に落ち着いたばかりの第9連隊は、翌々年には早くも動員されて、最初の実戦を経験することとなった。

  明治政府は廃藩置県の断行に成功したといっても、政府部内には新国家の指導をめぐって種々の政治的対立が続いており、とくに征韓論争に敗れた征韓派の下野以後は、それらの対立が、在野政治勢力を拡大し、その政府批判を強化するという事態を生み出していた。すなわち一方では、自由民権論が盛りあがってくると同時に、他方では不平士族の武力抗争がくり返されるようになった。そして明治7年佐賀の乱、明治9年秋月(福岡県甘木市)・萩(山口県萩市)の乱と続くなかで、私学校を拠点とし西郷隆盛を総帥として県政全体を掌握した鹿児島県士族の動向が注目を集めるようになっていた。

  私学校幹部は、他県士族からの勧誘をしりぞけて容易に立とうとはしなかったが、明治10年に入ると、政府による鹿児島からの武器・弾薬の引き揚げ、帰県した同県出身警部らによる私学校勢力の切り崩し工作などを契機として、ついに反政府武力抗争に踏み切ったのであった。2月初めから続々と鹿児島城下に集まっ た私学校勢は、ここで8大隊に編成され、2月14日から17日にかけて出発、北上を開始し、22日には熊本南方の川尻に集結した。その数1万3千といわれている。

  これに対して政府側ではすでに、2月10日山県有朋陸軍卿が近衛連隊、東京・大阪両鎮台に出征準備を命 じているが、2月19日に至り、明治天皇の鹿児島暴徒征討の詔を発するとともに、有栖川宮熾仁親王を征討総督、山県有朋・川村純義(海軍大輔)の両中将を参軍に任じて態勢をととのえた。そして同時に野津鎮夫少将を長とする第1旅団、三好重臣少将を長とする第2旅団を編成して九州に向け出征させている。

  このとき動員されたのは、基幹となる歩兵でみると、第1旅団が東京鎮台の第1連隊第3大隊と大阪鎮台の第8連隊第2大隊、第2旅団が近衛第1連隊の第1・第2大隊と、それぞれ2大隊ずつにすぎず、旅団と称してもこの段階では連隊に足りない兵力であった。そしてこの不足兵力を補うための第2次動員として、大津の第9連隊も動員されたのであった。といっても先の場合と同様に、連隊単位で動員されたわけではなく、大隊単位の場合が多く、中隊単位の場合さえみられた。

  第9連隊は先にみたように2個大隊で発足し、大津に移ってから明治9年になり第3大隊が編成されているが、そのうちまず、第1・第2大隊が動員され、明治10年2月27日名古屋鎮台の第6連隊第1大隊、大阪鎮台の第10連隊第3大隊とともに別働旅団に編成された。そして大山巌少将に率いられて3月1日博多着、前線に到着したところでこの旅団は解散、第9連隊第2大隊は第1旅団に、同第1大隊は第2旅団に編入されている。もっとも第1旅団・第2旅団といっても、この戦争の初期には旅団を単位とした戦闘が行なわれていたわけではなく、両旅団首脳が合議して指揮しており、会計・医・砲・廠・輜重なども共通であった。したがって「両旅団の名称あるも部隊の使用等全然混淆錯雑」し、実際には「単に中隊を以て戦闘単位と為し、大隊以上の編成は在れども無きが如く戦術上何等関係」がなかったという『明治十年西南戦史』。

  このことは、動員の際にもあらわれており、第9連隊第3大隊の場合には、中隊単位で動員されている。 すなわち、第3大隊の第3・第4中隊は第3旅団に、第3大隊の第1中隊は第4旅団に編入されているのであり、結局この戦役中、大津兵営に残った現役兵は第3大隊第2中隊のみであったと思われる。したがって大津第9連隊の大部分の兵隊たちは、第1〜第4旅団に分属してこの戦争を戦ったのであった。



田原坂の激戦

  野津・三好両少将に率いられた第1・第2旅団の先発部隊が博多に上陸した明治10年2月22日「熊本城をめぐる本格的な戦闘が開始されていた。当時熊本城には、第6軍管鎮台本営がおかれ、歩兵第13連隊が配備されていたが、司令官谷干城少将は、とりあえず小倉分営の第14連隊(司令官乃木希典少佐)に対して本営に合することを命じるとともに、籠城策をとって西郷軍を支えながら援軍を待つことに決した。しかし第14連隊のうち開戦までに熊本城に入城しえたのは半大隊にすぎなかった。 

  これに対して西郷軍は、2月22日早朝よ り熊本城総攻撃を開始したが、翌日の攻撃でも これを抜けないとみるや、包囲持久策に転じ、主力は北進して第14連隊の熊本城入りを阻止、2月26日からは南下してきた第1・第2旅団との戦闘に入った。そして3月に入ると、熊本北方の田原坂(熊本県鹿本郡)方面の攻防が戦局の焦点となり、第9連隊の諸部隊もまずこの戦闘に投入されることになるのであった。 しかもこれまで実戦の経験のない兵隊たちは、突如として激戦のまっただ中に押し出されてはなはだしい苦戦を強いられている。

  第九連隊の所属部隊が最初に前線に到着したのは、3月5日であり、第1大隊が右翼の吉次越方面に、第2大隊が左翼の田原坂方面に配置されているが、その緒戦のありさまをみると、まず3月7日、第2大隊の第1・2・3中隊が田原坂攻撃に向かうが、前進するにしたがって西郷軍の挟撃にあい、高地から狙撃され、抜刀隊に切り込まれるなど、大きな損害をうけて敗退を余儀なくされている。この戦闘での第9連隊の損害は死者が士官1、下士卒22で、負傷者が士官5、下士卒59であったというが、その他 に「失踪66、翌日帰投28」という数字が記録されているのが興味深い『征西戦記稿』巻7。

  また第9連隊の第1大隊方面では、同大隊の第3・第4中隊が戦闘に参加しているが、攻撃が進展しなかったばかりでなく、その夜には西郷軍の夜襲をうけて一時は総崩れのありさまとなっている。さらに3月9日には第1大隊第1・第2中隊が戦闘に参加するが、この部隊の状況について『征西戦記稿』は、「第九連隊兵ハ是日始メテ戦ニ臨ム。因テ頗ル逡巡ノ色アリ。五藤大尉等叱糟励、衆始メテ奮進ス。遂ニ賊ノ首線一塁ヲ抜キテ之ニ拠ル。諸隊尚ホ進ンデ其ノ第二線ノ塁ニ逼ラントス。忽チ賊数百アリ。抜刀我ガ左右ニ突入ス。我ガ兵銃槍之ニ当ル、殆ンド将ニ乱レントス。五藤奮激督戦シテ之ヲ卻ケ、遂ニ之ニ死ス」とある。

  この間政府側は次々と増援部隊を送り込み、3月10日、これまで第14連隊主力が配備されていた最左翼、山鹿(熊本県鹿本郡)方面に新編成の第3旅団をふりむけ、また3月14日にはさらに第4旅団を編成して、吉次越より右翼海岸に至る方面にあてた。そしてこの頃から政府軍は田原坂正面にも本格的力攻をくり返している。3月14日には、西郷軍の抜刀隊に対して政府軍側も始めて警視庁巡査による抜刀隊を組織して対抗 し、また翌15日の戦いについては「是ノ日ノ戦ハ開戦以来第一ノ劇戦ナリトス。夫レ田原坂・伊倉(熊本県玉名市)・二俣ノ開戦ヨリ昼夜劇闘既ニ十余日ヲ経テ、両軍ノ死傷甚ダ多シ。戦ノ劇烈ナル我ガ邦古今ノ歴史上ニ未ダ嘗テ見ザル所ナリ」と記されている『征西戦記稿』巻8。

  翌3月16日を休息日とした官軍側は、同月17・18日と正面攻撃を行なったが、西郷軍も一歩も退かず、19日さらに陣容を立て直し、20日早朝、前夜来の豪雨のなかを進撃、強攻してようやく田原坂を抜くことができた。しかし西郷軍の抵抗はなお強烈であり、熊本城との連絡が実現する4月15日に至るまで、20余日の激戦が必要であった。しかもこの連絡も官軍の正面攻撃が成功したというものではなく、八代(熊本県八代市)方面に上陸し、西郷軍の背後をついた別働旅団(別働第1旅団より別働第4旅団の4個旅団)の攻撃によって、西郷軍の熊本城包囲網が崩壊したことによるものにほかならなかった。

  すなわち正面の戦線では、政府軍は第1・第2旅団をもって中央突破を策し、4月6日から8日にわたる総攻撃をしかけたが、結局失敗に終わっている。開戦より4月8日の戦いに至るまでの政府軍側死傷者7333人と記録されているが、その中心は第1・第2旅団であり、この日の両旅団の死傷者だけで288名を数えた。大津第9連隊の主力を合むここでの両旅団の損害の大きさは、以後、両旅団が正面では攻撃をとらずに、持久の策に転じることとなったことからもうかがうことができる。そして第3旅団による左翼大迂回作戦によって局面を打開することが考えられたのであったが、この作戦が実行に移される前に、背後からの別働旅団の攻撃が成功したのであった。4月14日午後4時、別働第2旅団右翼、山川浩中佐の率いる一隊が熊本城に達し、翌15日別働旅団首脳が入城しているが、北方正面では、15日午後自陣に火を放って退却した西郷軍陣地の黒煙によって、はじめてこのことを知るというありさまであった。正面軍を指揮した山県参軍・各旅団長らは、16日熊本城に入城している。

  またこれを機会に、4月19日には、損害が多くて一隊をなしがたいよ うな状態になっている部隊を合併して 新中隊を編成する措置がとられており、第9連隊第2大隊でもこうした合併中隊がつくられている。



延岡から城山まで

  ところで、南北から進んだ政府軍が熊本城の包囲を破って握手したことは、この戦争の軍事的主導権が政府軍側に移ったことを意味した。4月20日、熊本東部に南北に布陣した西郷軍に対し、政府軍 は8個旅団の兵力を集中して攻撃。この戦争のなかで最大規模の戦闘が行われ、この勝利によって政府側の優位はさらに動かしがたいものとなったが、西郷軍主力は一挙に熊本県南部で鹿児島・宮崎両県に近い人吉(熊本県人吉市)まで大幅な後退を行ない、支隊をこの両県に派遣して割拠持久の策をとり、その鎮圧は容易ではなかった。したがって、政府軍も鹿児島に宮崎にと転戦を余儀なくされるのであるが、ここでは、大津第9連隊の分属している第1〜第4旅団の位置を確かめながら、その戦いのあとをみておくことにしよう。

  4月20日の戦いに勝利した政府軍は、すぐには追撃に移らず、しばらく態勢をととのえたうえ5月に入って動き始めているが、以後の政府軍は数方向に分かれて進軍することとなった。すなわちまず西海岸では別働第3旅団が水俣(熊本県水俣市)より出水(鹿児島県出水市)を経て鹿児島に向けて南下する。次に人吉に対しては北から別働第2旅団、西から別働第4旅団が攻撃を加える。そしてこの2つの攻撃ルートの中間に第2・第3旅団があり、両方面の攻撃を支援しつつ南下する。またこの間に別働第1旅団、続いて第4旅団が海路鹿児島に上陸し、政府が新たに任命した岩村通俊県令を着任させて県庁を掌握している。さらに人吉への後退に際して主力と分かれて宮崎県に入り延岡(宮崎県延岡市)を拠点とし、大分県西南部の竹田に進出してきた西郷軍支隊に対しては、熊本鎮台兵と第1旅団とが対戦している。

  これら諸方面の戦闘状況をみると、まず6月1日に別働第2旅団が人吉を占領しているが、全体としては、政府軍の攻撃は西側と南側から進捗し、西郷軍をしだいに東北の方向、宮崎県北部に向けて追いつめていったということができる。すなわち、4月26日に別働第1旅団、5月4日に第4旅団が鹿児島に入り、周辺の西郷軍と激戦を交えつつ対峙していたが、6月25日、水俣・出水を経て宮之城街道を南下してきた別働第3旅団が鹿児島に突入したことによって形勢は一変した。この3旅団の連携により鹿児島周辺の西郷軍を撃退したが、この間、水俣・人吉の中間を南下した第3旅団は、第2旅団の支援を得て、6月20日大口、7月1日横川(鹿児島県姶良郡)に達し、さらに7月3日には加治木(同前)において第4旅団と連絡するに至っている。また、第2旅団・別働第2旅団は途中より東進して宮崎県に入って小林に進出し、他方別働第1旅団は、高須に上陸し鹿屋(鹿児島県鹿屋市)・串良(同肝属郡)と大隅半島を横断して志布志(同曾於郡) に至り北上の構えをみせた。いわば、一時数方面に分かれた政府軍は7月初旬の段階でふたたび連携し、人吉に次ぐ西郷軍の根拠地となった都之城(宮崎県都城市)を包囲する態勢をつくりあげたのであった。

  すでに西郷軍の損害は大きく、その抵抗力はいちじるしく弱まっていた。7月24日別働第1、別働第3、第3、第4の政府軍4個旅団はいっせいに進撃して都之城を占領、西郷軍は宮崎県を北東に向けて敗走することとなった。追撃の主力は第3・第4旅団であり、さらに警部・巡査を以て新たに編成した新選旅団が加わっている。そして海岸沿いに第4旅団、その左翼に第3・新選旅団、さらにその左翼には都之城攻撃に参加しなかった第2旅団・別働第2旅団が宮崎県の西部山地を北上するというのが大まかな配置図であった。そして7月29日高岡(宮崎県東諸県郡)、31日宮崎・佐土原(同宮崎郡)、8月2日高鍋(同児湯郡) と政府軍の進撃は快調となり、西郷軍はもはや崩壊しつつあったといってよい。

  こうした南から北上する5個旅団の政府軍に加えて、熊本鎮台兵とともに大分方面に突出しようとする西郷軍支隊と対峙していた第1旅団も、しだいに北方より延岡に迫り、ついに北上した政府軍左翼の別働第2旅団と連絡、8月12日には政府軍は6個旅団による延岡包囲網をつくりあげたのであった。翌々14日、政府軍は南方および西方よりいっせいに延岡に突入、北方に逃れた西郷軍は翌日最後の反撃を試みたが成らず、延岡北方、長井村付近で完全に政府軍に包囲されることとなり、西郷軍諸隊も次々と投降、この戦争もついに終局を迎えたかに思われた。しかし西郷隆盛ら首脳は各隊の強兵をすぐって突撃隊を編成、18日夜第2旅団の哨線を強襲し、不意をつかれた政府軍が壊乱状態におちいっている間に包囲網から脱れ出てしま った。この日の状況については「第二旅団ノ死傷・失亡ハ、熊(本)城連絡以来未ダ今日ノ如キアラザルナリ」 と記されている『征西戦記稿』。

  この後、西郷らは山間を逃れつつ、9月1日ふたたび鹿児島に突入、城山(鹿児島市)に籠るのであるが、もはや勝敗は明らかであった。9月10日前後には政府側は、8個旅団を集結して500に満たぬ西郷軍を包囲し、先の失敗にかんがみ慎重に包囲網を固めた。この8個旅団のなかに、大津第9連隊兵の配属されている第1〜第4旅団の含まれていたことはいうまでもない。山県参軍は9月19日になってようやく総攻撃の期日を9月24日に決定、各旅団より1〜2中隊ずつを出して攻撃隊を組織することとした。午前4時に始まった総攻撃は午前7時には終わり、西郷が自刃して果てたことは周知のところであろう。

  この戦争での政府軍戦死者は6843名、そのうち戦地で即死 した者4653名、負傷がいえずに死亡した者2190名とされているが、曹長以下の戦死者数を連隊別にみると、最も多いのは第11連隊の470名で、第9連隊は441名と第2位であり、近衛歩兵第1連隊の437名、第14連隊(小倉)の403名を凌駕している。ついでに大阪鎮台の他の連隊をみると第8連隊385名、第10連隊378名であり合計するとこの戦争で最も大きな損害をうけたのは大阪鎮台の兵隊たちであったことがうかがわれる『征西戦記稿』付録。

  なお、西南戦争の終結後、第9連隊の戦死者を祀る記念碑が、三井寺観音堂裏手の御幸山に建立された (写真35参照)。そして明治19年、大津では追善のための記念祭が行なわれ、能楽・煙火・競馬・角力などが催され、多くの観衆でにぎわったのである『松本てる子家文書』。