『人文学報』第66号

1990年3月

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近代日本における徴兵制度の形成過程


 

古屋 哲夫

はじめに
1 徴兵令以前の「徴兵」問題
2 鎮台の編成とその問題点
3 徴兵令の制定と初期の徴兵実績
4 徴兵制度の定着
おわりに



は じ め に

 近代日本の軍事制度の一つの特徴は、徴兵制度が第二次世界大戦にいたる、あいつぐ戦争を 支えながら定着していったことにみられる。武士とその従者を単位とする幕藩体制の軍事力編成が、現実の実戦に役立たないことは、すでに幕末の段階で明らかに認識されており、幕府・諸藩の軍事改革は、銃隊を軸として軍事力を組み直そうとする目標を共有するものであった。それはまず、個々の武士=従者の関係を切断し、これまでの従者を軍事力の中心に押しあげる ことを意味した。刀剣を武器として自立した戦闘者であることを誇りとする武士を、部隊のな かの1銃卒とすることは期待し難いことであった。旧来の武士は、銃隊の指揮者としての能力を獲得するか、軍事官僚に転ずる以外には、軍事面では期待きれない存在と化しつつあった。

 こうした方向は同時に、武士以外の諸階層を軍隊に動員する道を開くものであった。しかしそれは、これまで貢租を負担することによって軍事力の直接の担い手となることから免れていた農・工・商の諸階層にとっては、新たな負担であり、迷惑な話であった。彼等は軍隊への動員にざまざまな形で抵抗することになり、この抵抗を克服しようとする過程で、徴兵制度が導 入されることになった。従って当初、徴兵制度は期待きれた成果をあげることが出来なかった。 その定着までには、徴兵令発布から10年以上の歳月が必要であった。それは、制度の側が修正されると同時に、社会の側にも、制度をつつみ込む仕組みがつくられてくる過程でもあった。

 本稿は、陸軍を中心としてこの過程の基本的問題点を明らかにすることをめざしており、そのことは近代日本の軍国主義を解明する一助となりうると考えている。



1 徴兵令以前の「徴兵」問題

 明治政府の法令中に最初に「徴兵」の語があらわれるのは、明治元年閏4月19日の「陸軍編制」1)に関してであった。それは諸藩に対して、1万石につき10人、当分之内3人の兵員を京畿の警備にあてるため差出すべきこと、1万石につき50人の兵員を在所に備え置くべきこと、1万人につき300両の軍資金を差出すべきことを命ずるものであったが、5日後の閏4月24日、 その細目として「徴兵并軍資金之儀」が達せられている。

 その内容は、徴兵については、17、8歳から35歳頃迄の「強壮之者」をえらぶ事、「当分之内小銃并要具布団持参之事」、軍資金は3分の1ずつ正月5月9月に納める事、「軍服并月給御賄等」は朝廷より下ざる事、在所に備置く兵隊は、「御沙汰次第出兵之覚悟勿論二候事」という5項目から成るものであったが、その目的は、中央政府の直属軍隊をつくるというよりも、 戊辰戦争のざなかにあって、中央政府から藩に対する軍事指令権を確立することにあったとみるべきであろう。しかしここでは、「強壮之者」という漠然としたものではあっても、兵隊の条件が身分・階層よりも健康状態に求められるようになっていることに注意しておかなくてはならない。さらに6月12日には、在所に備置く万石につき50人の兵隊についても、中央からの 指示によって近国なら25人とか30人、遠国なら20人といった具合に出兵すべきものと説明し、 従って「老若弱士ヲ省キ健壮之者」を「精撰」しておくことを求めている。

 この徴兵は、翌明治2年2月10日に至り、「東北平定」と「兵制御一定之御詮議振モ被為在候間」との理由のもとに、「一先帰休」が命ぜられた。この時期には、中央政府の軍事力に関 して、藩(とくに雄藩)の兵力に依存しながら中央の力を強めてゆくか、藩に依存せずに独自の徴兵によって直轄軍をつくってゆくかという二つの構想が対立しており、前者は大久保利通 に、後者は大村益次郎に代表きれていた。両者は同年6月の会議において、新たな首都となっ た東京の警備について論争しているが、このときは大久保の勝利に終り、薩長土3藩の軍隊がこれにあたることとなった。千田稔氏はこの軍隊を「兵食給与が政府から支給される」「身分上は諸侯に帰属する封建軍隊」であり、さきの「陸軍編制の徴兵と同じ」性格を持つものと規定きれている2)。そして実際にも「鹿児島藩徴兵」「山口藩徴兵」「高知藩徴兵」と呼ばれ、のちに「佐賀藩徴兵」も加えられている。

 ところでこの会議で大村は、農兵を徴集して親兵をつくることを主張したと云われているが、 仮にそれがこの会議で承認きれたとしても、具体的にすぐさまその徴兵に着手できるというものではなかった。それは、「陸軍編制」の系列にみる既成の藩兵の徴集という意味での徴兵とは異り、銃隊を中心として部隊としての戦闘力を発揮する洋式軍隊の建設を目的とし、そのために兵員の素材を武士から農民、さらに広く国民一般へと拡大することを企てるものであり、 従ってそこでは、洋式訓練のための士官・下士官を予め用意することが必要であった。この時期の大村の動きについてはよくわからないことが多いが、実際に残きれた業績としては、兵隊の徴集方式についての意見や計画よりも、士官・下士官の養成機関の設立の方が大きい。

 大村は、ききの兵制会議の直前、明治2年5月に、開成所に管理きれていた横浜語学所を兵部省の管轄に移しているが、この学校は元来、幕府がフランス軍事顧問団を教師として開校したものであり、大村はこれを引きついで、士官養成に役立てようとしたものであった。言らに 同年8月には、京都河東に下士官養成のためのフランス式伝習所が開設ざれ3)、ついで翌9月4日には大阪に陸軍兵学寮が設置きれている4)。この兵学寮は大阪を中心に新軍隊を創出しよ うとする大村の構想によるものであり、ききの横浜語学所も兵学寮のもとに移され、さらに大阪に造兵廠も建設されるに至っている。しかしこの9月4日には大村は京都で襲撃されて重傷を負い、11月5日には死去している。

 「大村が倒れたあと兵部省は大混乱におちい」5)、その混乱は翌明治3年8月に山県有朋が 欧州視察旅行より帰国して兵部省の実権を握るまでつづいたとされる。しかしこの間にも兵部省は、明治3年初頭から実質的に開校された兵学寮の活動を基底に置きながら、藩軍事力の編成に介入し、その画一化をはかるという方向を打出していた。それは直接にはこの年の1月から2月にかけての長州藩諸隊の反乱をきっかけとして、藩軍事力の統制の手がかりをつかむことが急務と言れるに至ったことを示しているように思われる。

 諸隊反乱が鎮圧きれた直後の明治3年2月20日、「常備編隊規則」が兵部省より各藩に対し布達された。それは部隊の編成の仕方を指示するものであり、歩兵は60人を以て1小隊、2小 隊を以て1中隊、5中隊を以て1大隊(10小隊)とし、砲兵の場合は砲2門を以て1分隊、3分隊(砲6門)を以て1隊とすると同時に、「石高壱万石ニ付一小隊之割合ヲ以テ可相定事」と規定した。1万石につき60人という数は、ききの陸軍編制と同様であるが、この部隊編成の指示は、藩軍事力への介入を意味し、こうした画一的な編成によって、中央は小隊単位での藩兵の出動、移動を命じ得ることになる筈であった。そこにみられる「若万石一小隊之割合二不足候ハ丶其旨兵部省江伺出差図ヲ受可取計事」との但し書きは、「小隊」を部隊の最小単位に統 一しようとする兵部省の意図を示していた。また兵士の資格については「兵士年齢ハ拾八歳ヨ リ三十七歳迄タルヘキ事、但是迄之隊士中三十七歳以上卜錐其人ニヨリ強壮之者ハ格別之事」 とされており、これも陸軍編制の場合とほぼ同じであるが、在所の藩兵まで含めて、かつての徴兵の線に統一することをねらったものと云えた。

  さらに「練兵式之儀ハ先ツ是迄相用来候式ニテ不苦候事」と当面は訓練のやり方を各藩の自由にまかせているが、この規則に前文に「先般兵学寮被設置近々各藩江モ入寮被差許一定之制式二相帰候様御運ヒ相成」と述べられていることは、近い将来に兵学寮の方式に統一することを示唆したものであった。

 ここで予約されている各藩からの兵学寮入寮については、4月3日になって、大藩4人迄、 中藩3人迄、小藩(5万石以上)2人迄、小藩(5万石未満)1人という枠が示きれているが、 そこには兵学寮卒業者を通じてフランス式の編成・訓練を普及きせ兵制統一の基礎をつくろう とする意図を読みとることができる。すでにこの頃、明治政府は、フランス公使ウートレに対 して、幕末につづく第2次軍事顧問団の派遣を要請していた6)

  この時、軍制全体についてどのような構想が画かれていたかは明らかでないが、9カ月後に制定される徴兵規則と関連きせて考えると、この常備編隊規則が、「士族卒族之外新二兵隊取立候義被相禁候」として、藩が一般庶民を兵隊に取立てることを禁じているのは、当面、藩の常備軍と、庶民からの徴兵による中央政府直轄軍という2本立ての軍制が構想され始めていることを示すものではなかったであろうか。なおこの規則は府県にも準用されたが、明治政府は、明治元年8月23日の布達で府県が新たに兵員を取立てることを禁じており、その点は、この規則の準用にあたっても繰返し強調きれている。明治政府にとって、旧幕領を中心とする府県の 士族は信用し難いものと考えられたことであろう。

  しかし藩兵もまた、ききの4藩徴兵きえも、政府の期待に沿う存在ではなかった7)。鹿児島藩徴兵の場合をみると、明治3年3月に一部の交代を行っているが8)、さらに8月にも交代を 申出、9月には在京部隊を帰藩させている9)。しかもいずれの場合にも、同藩からの要求によ って外国船が使用されていた。そしてこの間、他の諸藩からも交代の要求が出されていたこと は、同年9月2日、兵部省から次のような上申10)がなされているからもうかがうことが出来る。

 

鹿児島、山口、高知、佐賀四藩徴兵之儀、昨年出張後各藩都合ヲ以、小内兵士交代為致居候処、元来斯ク御徴相成居候上ハ、交代等之儀モ御規則被仰出、其節ハ往来之旅費丈御下ケ渡二不相成テハ、各藩頗ル困窮之情実も御座候二付、左之通御定メ相成度、至急御治定可被下候、

    一ケ年交代卜相定メ、
   但其節ハ往還旅費、食料共、御定メ通り被下、船ニテ往還便利之藩ハ、船御雇遣シ賃銭御仏相成度候事、

 
 つまり、これまで規定がなかったため、各藩の都合で行われていた交代を、1カ年毎と定め、 その代りその際の費用は国庫の負担とするという訳である。この兵部省の上申に対して、大蔵省からの回答は容易にもたらされなかったが、それはちょうどこの時期に「藩制」が布告されたことと関連していたことであろう。

  「藩制」は「知事、大参事、権大参事、少参事、権少参事、大属、少属、権少属、史生」などの役職を規定して、藩庁構成の画一化をはかるとともに、藩財政の大枠を定め、藩に対して、歳入歳出の明細書の提出、藩債、藩札の整理計画の樹立などを命ずるものであり、明治政府の藩体制への介入を決定的に強めるものであった。

  ここで、軍事費については、藩高を現米10万石とした場合に、知事(藩主)家禄を1万石と した残り、9万石の1割、9000石の割合とし「但其半ヲ海軍資トシテ官二納メ半ヲ陸軍資ニ可充事」と規定された。この陸軍資はさきの1万石につき1小隊の常備軍の費用にあてるもので あり、政府は海軍の費用は藩からも上納を得るが、陸軍に関しては、府県の貢租から支出する以外にないことになった。そして9月29日には、兵部省に対して「現米三十万石並諸藩上納之海軍資金年々其省へ御渡可相成候間、海陸軍諸般之用度ニ可充事」との指示がなされている。

  このような形で軍事に関する財政負担の枠組みがつくられてくると、徴兵については、財政面では元来藩の陸軍資が負担すべきものを、兵部省がまかなわねばならないという形になるのであり、この面からも徴兵が問題となってくるのは必然であった。さきの徴兵交代費用の件については、大蔵省は10月4日になって、「徴兵交代之節、旅費被下方之儀ニ付、別紙御廻し見 込御問合ニ付取調候処、此程御布告之通、各藩おゐて軍資米備置相成候上は、出京迄之旅費ハ、 右之内ヲ以テ仕払、帰藩之節は、兵部省定額三拾万石之内ヲ以取賄可然」11)との方針を提示した。すなわち、徴兵上京の費用は「藩制」で規定された陸軍資によって藩が負担し、帰藩の費用は兵部省の年額30万石の定額予算のなかで支出するというのである。

  この問題がどう結着したか明らかでないが、閏10月3日には、山口・佐賀両藩の徴兵交代兵が上京している12)。しかし、鹿児島藩は「藩制」以後の政府の介入に反発し、ついに交代兵を 出さなかった。明治3年9月下旬からは、4藩徴兵は、鹿児島藩を欠いた3藩徴兵に変じていたものと思われる13)

  こうした4藩徴兵をめぐる混乱は、国民一般からの新たな徴兵による政府直轄軍建設の構想を具体化きせるきっかけとなったに違いない。明治3年11月13日、太政官から府藩県に対して、「徴兵規則」が発せられた。それは「一万石ニ五人ツヽ大阪出張兵部省へ可差出事」としている点で、大阪中心の大村の発想をうけつぐものであるが、同時に「士族卒庶人ニ不拘身体強壮ニシテ兵卒ノ任二堪へキ者」を撰ぶべきこととして、初めて国民一般からの徴兵という原則を 明示した点で画期的なものであった。

  また、府藩県の地方官に徴兵の選抜を命ずる点では、さきの「陸軍編制」の場合と同様の発想にもとづいているが、徴兵の条件については、「年齢二十ヨリ三十ヲ限り身材強幹筋骨壮健長ケ五尺以上ニシテ兵役二堪ユヘキ者」と具体化したうえで、地方官の選抜した者にさらに医官の検査を受けきせ、地方官には不合格者のある場合にはそれに代る「再選代人」を差出すことをも命じている。つまり、徴兵選抜の過程は、地方官によるものと、兵部省の管轄する医官の検査という2段階を経ることとされた。さらに「一家ノ主人又ハ一子ニシテ老父母アル者或ハ不具ノ父母アル者」は選抜してはならないという、のちの免役にあたる条項も登場しており (服役期間は4年で希望者には再役を許す)、これらの点では、のちの徴兵令の出発点とみることが出来る。そして、官公吏や学生などのちの免役にあたる者などを選抜の対象からはずすことも、地方官の裁量にまかされていたことであろう。

  しかし、「衣食給料等」はすべて兵部省から支給するとしたが、大阪まで徴兵を差出す費用 は地方官、服役をおえて帰郷する費用は兵部省の負担とするというのであり、4藩徴兵の交代費用区分と相通ずる考え方にもとづいていた。

  ともかくも、この「徴兵規則」による国民一般からの徴兵は、次の日程(差出期限)によっ て実施されることになった。

  五畿内・山陰・南海道 明治四年一月二十五日より二月一日まで
  東海道・北陸道 同四月二十五日より五月一日まで
  西海道 同八月二十五日より九月一日まで
  東山道・山陽道 同十二月二十五日より明治五年一月一日まで


  この4期への地域の割り振りが、どういう規準にもとづいていたか不明であるが、徴兵規則の実施は、最初の段階で早くも種々の困難に直面し、明治4年2月29日に第2期以下はほぼ3 カ月づつ差出期限を延期する旨の布達が出され、結局実施されないままに終ったとみられる。

  このような事態がおこってきた基本的原因は、農民層の徴兵への強い抵抗であった。例えば、 服部敬氏は、五条県(奈良)吉野郡の状況について、次のように述べられている14)

 

(明治)三年十一月、五条県は徴兵規則の大略を布達するとともに、「別紙規則大略之趣ヲ以、強壮之者取調、来ル十二月二十日限無遅延可申出候也」と命じ、更に郡総代に対して、 郡毎に相談をして必ず期限までに届け出るように申し渡した。これに対して村々は、五条県に口上書を提出して「年齢強壮ニシテ兵卒之任二堪ベキ者無之候二付、此段奉申上候」 と届出るか、「徴兵否書上帳」を提出して該当者を列挙すると共に「右之者余人二候得共身之長無御座或者病身二而御用之趣難勤侯間容赦願上候」と願い出すかして、徴兵の差し出しを断った。


 要するに、徴兵規則の条件を満す者はいないという訳である。勿論、県側はこの言い分を認めず、徴兵差出しを厳しく督促したが、結局規定の人員を集めることが出来なかったという。
 
  こうした兵卒適格者なしとする形での抵抗は、全国的なものであったと考えられる。例えば、 徴兵第4期に属する白河県(福島)は、大政官への伺(明治4年3月9日付)のなかで、「当県ノ 儀ハ士族卒ノ貫属無之二付管下布告相募り候得共、執レモ御規則二相叶罷在候者無之趣届出、 唯今ニテハ一人モ差出候者無御座候」と述べているし、また第2期に属する韮山県(静岡)は明治4年2月、村々からは頻りに、一旦兵員に加わった者は「自然士風二感化シ耕耘ノ賤業ヲ嫌」うようになるとして、「農籍ヨリ人撰ノ儀ハ御免徐願度」との申立てがなきれていると伝 えている15)

  そしてこのような申立てが認められない場合には、金銭により徴兵を農村秩序の外に居る者に肩代りしてもらおうとする代案が出きれる。韮山県の伺でみると、「兵一員二付一ケ年兵賦金三十両」を上納する代りに、それによって他府県の「士族卒」を徴兵する案が出されていた。 この伺に対する指令は記録きれていないが、「士族卒庶人ニ不拘」との原則を打出した明治政府がそのような案を受けいれた筈はない。もちろんこうした案が出きれること自体、「士族卒」=旧武士層なら兵役を拒否できないとする通念が広く存在したことを示しているが、それによ って実際に「士族卒」の徴兵は農民の徴兵より容易となったのであろうか。

  この時の士族卒と徴兵との関係は具体的には明らかにされていないが、千田稔氏は「農民の徴兵忌避は各地共通にみられたであろうから、徴兵用員の基幹は貫属士族卒で占められた」16) と推測きれている。しかし武士意識の所有者である士族卒もまた、農民と同列となる徴兵を忌避し、官員・学校・邏卒(巡査)といった方向に流れていったのではなかろうか。服部敬氏は 「堺県における辛未(明治4年を指す−引用者)徴兵はかなり徹底して実施きれ」「しかもこれら徴兵はほとんどが農民」であったと指摘きれているが17)、この時期の徴兵全体についても、 農民の徴兵忌避にも拘らず、農民からの徴兵が強行きれたという側面を重視する必要があるように思われる。

 そしてその場合、ききのような、兵賦金上納により士族卒を代人とする方式が不可能とすれば、農村内部で代人を求めざるを得なくなる。そこでは、農村秩序からはずれた「無頼無産ノ輩」を雇いあげ徴兵として差出すという発想が生まれていた。徴兵第2期に属する小菅県(東京)の伺18)のなかの次の一文からは、そうした地方官の意識を読みとることができる。

 

当県ニ於テハ士族卒貫属ノ者一人ノ外無之、依テ平民中ヨリ追々撰挙之手続相運上侯へトモ、御維新以来漸々教示必罰ノ目途ヲ定メ博戯ハ勿論袖手無産ノ徒追々厳重勧業候二付……(中略)……従前無頼無産ノ輩モ、自然即今ニテハ夫々一已活業ノ道追々苦心尽力仕候風俗臨居候折柄、今更徴二応シ兵員二加入仕候テモ期満帰農ノ砌猶其節活業ノ通如何有之、至極之貧民迚モ此段深猜忌仕、寧ロ旧業固守仕度一般ノ情実、殆撰挙ノ道差支当惑仕候…

 
  つまり、「無頼無産ノ輩」できえも容易に徴兵しえないというわけであるが、さらにそうした「忌避ノ民情」のもとで徴兵を強行しようとしても「官給ノ外更二下民一般ヨリ本人望ミニ任セ多少ノ金穀給与不仕候テハ実地徴募ニ応シ候者無之」状態であることを強調する。そしてこの伺は結局、規定の徴兵人員が集められない場合には、「応徴ノ者有之」まで差出を延期するか、でなければ「民費ヲ以」て人を傭うことを認めてほしいというものであった。それは「始テ営所ニ来ル費用ノ外ハ一切地方官ヨリ給与ス可カラサル事」という徴兵規則の規定自体に違反するものであり、兵部省も「右様ノ儀一々御聞届相成候テハ実に全州一般二関係致シ甚不都合」とこれを拒否しているが、しかし実際には、徴兵の確保を迫られた郷村では、規定以外の給与を負担しなければならなかった。

  さきの吉野郡徴兵の場合で云えば、「吉野郡中と木津組が支給する二両二分は、二等兵卒の月給一両二分を遙かに上回って二等伍長のそれに相当し、これに給料を合わせた四両は四等軍曹の月給九両から食料費五両を差し引いた額に匹敵する」19)という。しかも彼等はそのうえ、 吉野郡総代にあててこの給与の値上げを要求、それが認められなければ脱走すると脅しをかけ、 実際に「吉野郡の徴兵六人の内五人が、入営後半年もたたない間に揃って脱走し、しかも四人が堂々と村に帰っている」20)という有様であった。

  そしてこのような事態が決して例外的なものでなかったことは、明治4年5月3日付で兵部省大阪出張所が各地方官にあてて、徴兵のなかには、「府県庁或ハ郷村へ金子其他品物等無心申立」てる者があると聞くが「以ノ外ノ事」であり、「決シテ私ニ給与致ス間敷候事」と指 示21)していることからもうかがうことができる。しかし一片の通達で事態を改善しうるものではなく、堺県の場合のような、徴兵「五三人中の少なくとも二五人が脱走し、その内の四人は 再脱走している」22)例も明らかにされている。

  これらの例をみると、ここでの徴兵を強行しつづけることは、郷村に大きな動揺をもたらし、 軍の規律にも混乱を持込むことになるのは明らかであった。徴兵規則の実施が中止されたのは、このような状況に直面して、徴兵体制の立て直しが必要とされたからであろう。

  常備編隊規則につぐ徴兵規則の制定によって藩常備軍の中央からの掌握と、徴兵による政府直轄軍の創設という二つの方向の並立の形で展開されるかにみえた建軍政策は、徴兵の挫折によって、当面は再び前者の方向に収斂することになった。それは徴兵規則制定後もつづけら れていた政策であり、明治3年12月22日には、さきに述べた2月20日制定の「常備編隊規則」 を更に詳細にする規定が、太政官から布告されている。
 
 それはまず「各藩常備兵ノ儀ハ総テ大隊ヲ以テ編制可致、大隊未満ノ藩ハ中隊小隊ヲ以テ可編制事」「歩兵二大隊ニ付一砲隊相備可申事」と規定すると共に、万石以上の藩で端数の分は予備兵を置いても或いは兵員を廃してもよい、として一層部隊の画一化を進めた。そしてさら に、大隊長を少佐、中隊長を大尉、副官・小隊長を中尉、半隊長を少尉、砲兵隊長を大尉、同副官・分隊長を中少尉と統一し、その任用方法にも介入するというのが、この法令の中心となっていた。すなわち、大中小尉は統一的規則が出来るまでは当分の間従来通り「藩庁ニテ撰挙」することを認めたが、少佐については「従来ノ分」を含めて藩が選んだ者を「藩庁ヨリ伺出奏聞ノ上被仰付侯事」として、中央からその任命について干渉の余地を残した。そしてその少佐に、曹長、権曹長、軍曹、伍長という下士官の任命権が与えられている。同時にこの法令の別紙では、海軍・陸軍の軍服、帽子、徽章などが階級別に絵入りで規定されていた。

  つまり、徴兵規則実施の反面では、各藩の軍隊はこうした同じ軍服と編制を持つ部隊へと再編きれつつあったのである。



2 鎮台の編成とその問題点

  徴兵規則の制定は、鹿児島藩の4藩徴兵体制からの脱落を契機とするものではあっても、それに代りうるものではなかった。鹿児島藩の支持協力を確保することは、明治政府を維持するために欠くべからざるものとされ、明治3年12明には、岩倉具視みずから勅使となり、大久保利通、山縣有朋らを従えて鹿児島に下っている。そしてその結果、郷里に引きこもっていた西郷隆盛は上京し、明治政府への支持体制は、今度は3藩親兵として再建されることになった。

  徴兵規則実施の困難が明らかになっていた明治4年2月22日、太政官は、鹿児島藩より歩兵 4大隊、砲兵4隊、山口藩より歩兵3大隊、高知藩より歩兵2大隊、騎兵2小隊、砲兵2隊を召し出して「御親兵」とすることを発表した。それが徴兵でなく、親兵とされたことは、国内の反政府騒擾を鎮圧するための直接的軍事力として出動することよりも、むしろ天皇の周囲を 軍事的イメージで固めることによって天皇の権威を高め、政府の立場を強めることを目的としたものであることを意味していた。4藩徴兵体制の弱体化は、明治3年12月13日、名古屋、広 島、岡山、 熊本の4藩に東京守衛のため、それぞれ1大隊の差出しを命ずる、という形で補充されている23)

  この時期には、実際に農民一揆と結びついた反政府騒擾が頻発しており、明治3年12月には松代藩(長野)の騒擾が隣接の中野県に波及し数万人の規模に拡大しているが、このとき政府は12月24日、民部大丞吉井友実を派遣すると共に、徴兵3中隊に中野県出張を命じ、兵部省 兵部権少丞澤宣種のひきいる佐賀藩徴兵1大隊を出兵させた。そして同時に名古屋藩・松代藩 ・大垣藩など19藩に対して、「兵部官員」が兵隊を引率して出張し、出先において出兵を申付けることがありうることを通告している24)。さらに明治4年2月19日には、日田県(大分)の騒擾に対して、さきの東京守衛の熊本藩1大隊の派遣が命ぜられているが25)、このときには、とくに陸軍少将四條隆謌が巡察使に任ぜられ、さきの中野県に対する場合と同様な体制が、より大規模にしかれたと思われる。「陸軍省浴革史」は「陸軍少将兼巡察使四條隆謌ヲシテ日田県二赴キ、鹿児島、熊本、山口三藩ノ兵ヲ発シテ之ヲ鎮撫セシメ、尋テ西海道三十藩ニ令シ、巡察使ノ指揮ヲ受ケシム」26)と記している。なお4年2月にはこのほかにも、徳島藩兵1大隊が甲府県へ、岡山藩兵1大隊が福島県に出兵を命ぜられている27)

  つまり、親兵が編制される過程では、その反面で政府は、実際に諸藩の兵隊を動かし始めているのであり、諸藩常備兵に対する指揮権が実質的に形成されつつあったとみることが出来る。 従って親兵は、その出動によってではなく、その存在そのものによって、政府の立場を強化す る役割を担うものであった。

  政府は2月に親兵を編制し、3月に日田騒動を鎮圧すると、4月には諸藩常備兵に対する指揮・動員体制を制度化するために、鎮台の組織に乗り出してきた。明治4年4月23日、太政官は、石巻を本営とする東山道鎮台(分営は福島、盛岡)と、小倉を本営とする西海道鎮台(分営 は博多、日田)を置くことを布告するとともに、「追々諸道ニ鎮台ヲ置キ兵務ヲ総括シ全国ヲ保護」する方針であることを示した。そして同月中には、熊本・佐賀両藩に対し1大隊づつを西海道鎮台に、豊津藩に対し1中隊(翌月1中隊追加して1大隊となる)を日田分営に差出すことが命ぜられ28)、東山道鎮台へは東京から「半大隊」が派遣されたという29)

  この時点で鎮台がどれだけの実質を持ち得たかは疑問であるが、3藩親兵の威力を背景として、諸藩常備兵を鎮台に吸収し再編成する体制はととのったと云える。そしてそれはまた、廃藩置県に対する軍事的対応でもあった。廃藩置県は7月14日に断行されたが、それと同時に制定きれた兵部省職員令により陸海軍分立の傾向が明確となり、陸軍側は兵部省陸軍部内条例、 陸軍士官兵卒給俸諸定則などを定めたうえで、8月20日、鎮台を4箇所に増置すると共に、諸藩常備兵の鎮台への再編に着手した。各鎮台の定員は最初は次のように配分されている。

  東京鎮台、本営・東京 常備歩兵十大隊
   第一分営・新潟 〃 〃一 〃
   第二 〃・上田 〃 〃ニ小隊
   第三 〃・名古屋 〃 〃ー大隊
  大坂鎮台、本営・大阪 常備歩兵五大隊
   第一分営・小浜 〃 〃一 〃
   第二 〃・高松 〃 〃一 〃
  鎮西鎮台、本営・小倉 当分熊本 〃 〃二 〃
   第一分営・広島 〃 〃一 〃
   第二 〃・鹿児島 〃 〃 四小隊
  東北鎮台、本営・石巻 当分仙台 〃 〃 −大隊
   第一分営、青森 〃 〃 四小隊


  この兵力の合計は23大隊と10小隊、すなわち24大隊であり、1大隊600人という前述の規定によると1万4400人となる筈であった。そして廃止された藩の常備兵はこの枠内で召集され、鎮台兵に再編されることとなった。そのほかには「大中藩之常備兵ハ其県下へ一小隊ツヽ、備置へキ事」とされたが(1万石以下の藩兵は解隊)12月になると、鎮台から各県庁の管轄に移されて「兵隊之称号可相廃候事」と指示され、さらに明治5年1月には「自今総而解隊致シ、辛未十二月相達候通各県管轄高ニ応シ捕亡吏差置可申事」との通達が出されているのであり、軍隊 と分離した警察組織のなかに吸収されていったのであった。また、この4鎮台制に関する規定の末尾では、前述したように3カ月づつ延期されていた徴兵規則による第2期以後の徴兵を、 さらに期限をつけずに延期することを規定しており、これによって徴兵規則は実質的に廃止されたと考えられる。つまり当面は旧藩常備兵の再編による鎮台制の確立に専念し、徴兵問題はとりあげないというわけであった。そして同時に大阪での建軍構想も放棄された。明治4年10 月には兵部省大阪出張所は廃止され、12月には兵学寮も東京に移転されている。

  しかし軍備の将来のあり方ということになると、この時期にも兵部省幹部は、国民一般からの徴兵を基本的なものと考えていたと思われる。明治4年12月24曰、兵部大輔山縣有朋、兵部少輔川村純義、同西郷従道は連名で意見書を提出し、「兵部即今ノ目途ハ内二在り、将来ノ目途ハ外二アリ」として、対内的軍備から対外的軍備への拡大を唱えているが、その中で兵制の基本については次のように述べられている。

 

全国ノ男子生レテ二十歳ニ至り、身体強壮家二故障無ク兵役ニ充テシム可キ者ハ、士庶ヲ 論セス之ヲ隊伍二編束シ、期年ヲ経更番シテ家二帰ルヲ許スヘシ、然ルトキハ全国一夫ト シテ兵ナラサル無ク、人民ノ住ム所トシテ守備アラサル無シ30)


 つまり、ここでは予備兵の充実が強調され、国民皆兵の原則にもとづく徴兵制が、兵制の理想ときれているわけであるが、現実の鎮台制から何時どのような形で徴兵制に移行するのか、については何も述べられていない。それは実際には、発足したばかりの鎮台の状況とその運営のあり方とに、強くかかわってくる問題であった。

  なお海軍の場合は、徴兵の範囲外と考えられており、すでに廃藩置県以前の明治4年2月17 日、太政官より府藩県にあてて、「今般海軍水卒検査ノ上御撰用相成候間、海辺漁師ノ内十八歳ヨリ二十五歳ヲ限り、身体壮健ニシテ且懇願候者、地方官二於テ名前取調来ル六月中兵部省可申出事」との布達が出されている。海軍は陸軍にくらべて、はるかに人数が少いこともあり、 最初から海に慣れ親んだ者から志願者を募るという方式が基本とされていた。

  ところで、鎮台の発足にあたって、どの藩の兵隊がどの鎮台に召集されたかは、今のところ明らかになっていない。また鎮台内部の実態についても殆人ど資料が残されていない。従って 数少い資料から推測する以外にないが、そうしたやり方ででも、発足直後の鎮台の問題を徴兵令制定の前提として考えておかなくてはならない。

  鎮台の設置に際しての基本的な問題は、藩常備兵を鎮台兵に再編するということであり、それは藩の軍隊を国家の軍隊に変えるということを意味した。従ってそのためにはまず、藩への帰属意識を絶ち切り、国家への忠誠心を植えつけ、上下の命令=服従関係を軸とした新しい規律を確立しなくてはならなかった。4鎮台制制定の翌月、明治4年9月29日に兵部省が布達した「鎮台本分営権義概則」第2条は「元藩兵召集之上彼是無ク徐々混合結隊スヘシ」と規定し、 藩の結合を崩して諸藩の兵隊を混合させることを求めているが、それは鎮台編制の出発点をなす作業であったとみることができる。ついで同年12月には、兵隊に読み聞かせるべき規律とし て「読法」が制定・配布された。それは国家への忠節、上官への敬礼、服従などを要求するとともに、徒党・脱走盗奪賭博・押買押借・喧嘩闘争並放蕩酒狂・戦場での怯儒恐怖の所業などを禁止し、処罰の対象とすることを宣告するものであった。

  ところでこの最初の「読法」は、『法令全書』によれば、明治4年12月28日に「海軍読法別紙之通相定候条此旨相達候事」として布達され、翌明治5年正月(曰付欠)には「先般差廻シ候読法取消之儀相達置候処、今般更二別冊之通り改正候条此旨及布告候也」として早速改正案 が出されている(本文はひらがなとなる)。この間の事情は不明であるが、後者の末尾に「其他委細の規則は其隊長より申示し候事」とあるところからみると、海軍側で作成きれた読法を、 陸軍側の要求をいれて改正したものではないかと推測される31)

  両者を比較してみると、前者では1条となっていた敬礼・服従の問題から服従の部分を独立させたため、全体が7条から8条に増加していること、脱走等に関する条文が、「脱走、盗奪、 賭博及平民婦女老幼ヲ劫虐スル等ノ悪事不可致事」から、「脱走盗奪賭博等の悪事は其科に応し罪科申付候事、但し武器軍服を携へ脱走する者は一層厳科に処し候、脱走後三日を出ずして帰営する者は軽科に処し候事」と改められ、この条だけに処罰についての具体的な条件が附されたことなどが注目される。そしてこのことは、現実の鎮台で、不服従や脱走が大きな問題 となっていたことを反映しているように思われるのである。

  問題は鎮台以前にすでに親兵のなかからもあらわれていた。親兵は明治4年4月28日に、鹿児島藩兵が1番大隊から4番大隊、山口藩兵が5番大隊から7番大隊、高知藩兵が8番・9番大隊に編制きれたが、廃藩置県直後の7月24日には、早くもこのうちの4番大隊を廃止(他の番号はそのまま)する旨の通達が出されている。これは鹿児島藩兵のなかから帰県する者が続出したためであるが、その原因は次のように見られていた。

 

抑モ従前藩兵ノ組織ハ、隊長兵士同営同食難苦ヲ一ニシ、操式ノ時ニ指揮命令ヲ聴クノミ、 平生ハ毫モ異ナルコトナシ、然ルニ親兵ニ徴セラレ、仏式ニ準ヒ隊式ヲ定メラルニ至リ、将校兵卒ノ階級、待遇供給ノ方高下アルニ及ヒ、自然隊員中志望アル者ヲ服スルヲ得ス、論議物情隠ナラス、ゲンニ於テ解隊其所志二任スルコトトナシ、或ハ転シテ文官二就クアリ、 或ハ諸生トナリ学ニ就クアリ、或ハ去テ帰県スルアリ……32)


 こうした新しい軍隊秩序や待遇への不満は鎮台にも充満していたと考えられる。明治5年2月2S曰兵部省は陸軍省・海軍省に分割きれ、それと同時に陸軍省は『陸軍省日誌』」33)の刊行を始めているが、その明治5、6年分で眼につくのは脱走兵の手配書である。それは、生国、身長のほか、額・鼻・眼・口・顔色などを簡単に記し、更に「持去リシ官物」をも列挙(サーベ ル、軍服、軍帽、靴、毛布など)するという形式のものであるが、明治5年は3月から11月(太陽暦移行により12月3日が翌6年1月1日となる)まで9カ月で36件、明治6年は12カ月で48件(1 件で数人の場合もある)、平均1カ月4件の手配書が掲載きれている計算になるのである。

  これらは、ききの読法で云えば、「厳科」に処せられる脱走兵のうち行方不明の者のみであ り、「軽科」に処せられた者までを含めれば、脱走は相当の数にのぼったと考えられる。そしてさらにその背後に、何等かの理由を設けて除隊を願い出る者がより多く存在したであろうこ とは、明治5年4月25日の東京鎮台に対する布達からもうかがうことができる。すなわちそれは「服役ノ儀満三年迄ヲ限り候事」と服役期限を明確にする反面、「右之通被定候上ハ向後故障有之徐隊願出候共、一切採用不相成候間、現今不得止情実有之候者ハ可遂詮議候条至急取調来五月限り可申出候事」として5月以後の徐隊願を採用しないことを明確にし、徐隊への流れを断ち切ろうとしたものであった。しかしききの脱走兵手配書の動向は、こうした措置によっ ても、鎮台の状況が容易に改善きれなかったであろうことを示している。従って鎮台安定化のためには、新たな補充兵を送り込むことによって、兵隊の質を変えてゆくことが必要となる筈であり、それはまた新しい兵制への移行を構想することにもなる筈であった。当時の軍首脳部もまた、こうした問題を意識していたことは、親兵の近衛兵への再編のなかにみることが出来 る。

  陸軍省が独立した直後の明治5年3月9日、親兵は近衛と改称され、同時に近衛条例が制定されたが、ここで近衛兵の補充については「毎歳本省ニ於テ其欠員ノ多寡ヲ量り、国内諸営団ニ就テ、壮兵ノ行状謹格ニシテ技芸二精通スル者」をえらぶという新しい方式がつくられることになった。「国内諸営団」とは、鎮台の本分営における兵団と解され、従って近衛兵は鎮台兵のなかから選抜されるというわけである。そしてそのことは逆に「近衛ノ兵卒ハ全国諸隊ノ 精選ナルヲ法トスル」という近衛の新しい性格づけを可能とすることになった34)。つまり、鎮台とは別個に設置きれた「三藩親兵」はこれによって「三藩」から切り離され、補充を通じて漸次鎮台との関係を密にし、やがて優秀なる鎮台兵の集団に変質することになるわけであった。 従ってのち明治6年10月、征韓論による西郷隆盛の下野とともに、鹿児島出身の近衛兵が大量に脱隊帰郷した事件も、一面からみればこうした変質を促進する結果をもたらすものとなった。

  ところで「壮兵」という語は「士族兵」と解きれることもあるが、近衛兵を「国内諸営団」 の「壮兵」から選抜するという規定は、鎮台に「壮兵」が常に存在するという一定の兵制を前提としたものではなかった。近衛条例と殆んど同時に(3月12日)配布された鎮台条例35)をみると、壮兵に関しては、「予備隊兵卒ノ欠員ハ本省ニ於テ年々壮兵賦兵ノ儀ヲ輿シ年毎ニ一次之ヲ充ルヲ以テ常例トス」という規定があるだけであり、後述する山県有朋の意見書「論主一賦兵」での用法と同じく、壮兵=志願兵、賦兵=徴兵という範囲で理解しておくほかはない。 つまり近衛条例における「壮兵」とは、鎮台兵のなかで、さらに近衛兵としての任期の服役を志願する者36)を意味したと思われる。

  このように、鎮台条例が補充方式の選択(壮兵か賦兵か)を、年毎の陸軍省の協議にまかせていることから明らかなように、この時点ではまだ、鎮台の将来の兵制については何の決定もなされてはいなかった。しかしこれ以前の1月10曰に布達きれた鎮台官員条例が「帥」(司令官)の任務として「賦兵徴募ノコトヲ専ラ取扱フヘキ事」など賦兵に関する多くの条項を含んでおり、また鎮台条例配布と同時(3月12日)に、高畠道憲、大島貞薫、宮本信順の3名が 「徴兵懸」に任命37)されていることなどからみると、陸軍省が徴兵制の採用を志向し、準備していることは明らかであった。従ってこの準備が整うまでの鎮台兵補充は、志願兵募集の形で行われることになり、その募集過程での問題はまた、徴兵制準備に反映されることになるのであった。

  鎮台兵の補充は、『陸軍省日誌』によれば38)(それ以前は不明)、次のような形で行われ始めた。まず明治5年3月20日、陸軍省は石川県に対して、「元金沢県解隊歩兵之内二小隊、今般東京鎮台第三分営兵補闕トシテ召集申付侯間、別紙召集兵概則二照準致シ精選差出可申候条此旨相達候事」と命じ、さらに7月5日には全く同じ形式で、岩手県に対して「元盛岡県解隊歩兵之内一小隊」を「東京鎮台本営補闕」として差出すことを求めている。このやり方は、解隊させた旧藩常備兵を、鎮台の予備兵にしようとする陸軍省の意図を示すものであるが、それが容易に実現きれなかったであろうことは、3月29日陸軍省が酒田県に対して、召集を申付(時日不明)けておいた「元大泉県歩兵一小隊」が今以て出張してこないのは「不都合」であると し、「至急出張候様」督促していることからもうかがうことができる。

  ところが、8月2日になると、佐賀・小倉・長崎・三潴4県に対するものとして、「其県四民之内歩兵望之者、別紙召集兵概則に照準致精選、鎮西鎮台ニ差出可申候事」「召集兵員数、 元佐賀県廿名、元中津県十五名、元柳川県十名、元大村県十名」という新しい内容の布達があらわれてくる。そしてこの「解隊歩兵之内」から「四民之内歩兵望之者」への転換の事情を物語るものとして、8月27日の長崎県に対する次のような布達をあげることが出来る。

 

元島原県解兵之内二十名鎮西鎮台へ差出侯様先般相達置候処、適当之兵員無之段申出候、 就テハ同県四民之内歩兵望之者二十名召集概則に照準致精選同台へ可差出、此旨更ニ相達 候事


 つまり解兵=旧藩常備兵のなかには、召集に応ずる者がなく、募集の対象を四民(士農工商) に拡げなくてはならなくなったというわけであった。従って以後は「四民」からの志願者募集方式に転換きれてゆくことになった。なお、召集概則はこれらの史料では省略きれているが、 他の史料39)から類推すると、「身体強壮ナル者(県下ノ医員ニテ一応検査ヲ受クヘシ)」、年令20歳以上30歳以下、身長5尺以上、「自家ノ産業ニ於テ故障ナキ者」といった内容であったと思われる。

  この召集概則による召集の実績は明らかになっていない。しかしさきの徴兵規則実施の際の困難な状況が大きく変化したとは考えられず、四民からの志願兵募集による鎮台兵補充方式はすぐざま行詰り、その打開のために、徴兵制の早急な施行が求められるようになったと推測き れる40)。この翌年に始まる徴兵は東京鎮台から順次実施きれたため、明治7年にまだ未実施であった東北地方(明治6年7月の改正で仙台鎮台管下となる)の状況について、明治7年5月4日、 陸軍省は太政官に対して次のような伺を提出した41)

 

仙台鎮台ノ儀ハ近来兵員多分減少致候間、徴兵着手マテノ間ハ其管下ニオイテ壮兵召集補闕可致筈ノ処、志願ノ者無之現今一日モ難差置場合ニ立至り候、就テハ徴兵令ヘ掲示有之候期限ニハ後レ侯へトモ只今ヨリ更ニ同管下ニオイテ賦兵召募イタシ度、尤モ同台ハーケ年徴員一千四百八十六人ノ処、本年ハ差向キ歩兵一大隊丈召集イタシ度此段相伺候也


 この伺はこのまま認められ、仙台鎮台管下でも、予定を早めて歩兵1大隊の徴兵が実施きれるに至っている。この仙台鎮台における壮兵
=志願兵徴募の行詰りから徴兵令の早期実施への転換は、明治政府の徴兵制に至る道筋を間接的に物語っているように思われる。すなわち、藩の軍隊を国家の軍隊に再編するために設置した鎮台には旧藩常備兵の不満が充満し、それを改 善するための役割を果すべき補充兵の募集において、とりあえず実施した志願兵方式が,(解兵=旧士族兵に対しても、四民=一般国民を対象としても有効に機能しえないとしたら、強制的な徴集方式としての徴兵制の実施が急がれることになるのは必然であった。



3 徴兵令の制定と初期の徴兵実績

 徴兵令制定の過程をめぐって、「陸軍省沿革史」は、山縣有朋の意見書「論主一賦兵」とそれに註記する形での曽我祐準、大島貞薫、宮本信順らの意見を伝えている。この山縣意見書は 「壮兵ヲ廃棄シ賦兵一般ノ制度ヲ建ントス」42)との根本方針を明示すると共に、常備軍・.予備軍 ・国民軍の編成、国民皆兵原則、服役年限、徴集方法、下士官・近衛の特例などに触れたものであるが、しかし実際の徴兵令で大きな問題となる免役については、何も述べられていない点が注目される。そしてその代りに、次のような特殊な徴集方法を提起している点が大きな特徴であった。

 

常備軍ハ本年賦兵抽籤セル者ヲ以テ編成シ、春秋両度ニ召集シテ各鎮二分配ス、家産ヲ以テ上中下ノ三等ニ分チ、上等ノ者ヨリ抽籤シテ順次ニ中下等ニ至ル、其著手ノ方法ハ別ニ記ス43)


 このうち、徴兵検査合格者のうちから抽籤により徴員を決定するという方法は、そのまま徴兵令に採用されたが、春秋2度の召集については、この意見書で2年となっている常備服役期間を3年にすれば、年に1度でよいという曽我祐準の修正意見の方が採用きれている。しかし 問題は後半の家産を3等に分けて上等の者から徴集するという規定であった。別に記すとされた「著手ノ方法」についての記述が見当らないので具体的内容はわからないが、この点については、大島貞薫の反対意見が附されている。大島はまず「三等ノ別固ヨリ難シ」として、上中下への区分が困難であることを指摘しているが、それ以前に「家産」を相互に比較しうる形に確定すること自体が極めて困難なことは云うまでもない。大島は更に、「上ノ者ハ毎二入隊シ、 下ノ者ハ毎ニ入隊セサルニ至ラン、恐クハ公平ナラサルニ似タリ」と述べて、その結果が不公平になることを批判しており、こうした批判によって、この方法も、徴兵令には採用されずに 終った。

 しかし、山縣がこのような家産三分論を持ち出したのは、前述したような「四民」から志願兵を募集することでさえ行詰っているという状況の下で、20才の男子を強制的に徴集するというより強硬な政策を実施するためには、徴集の範囲をより狭く限定する必要があるとの考えに もとづくものであったに違いない。そしてその考えは、家産三分論が批判されたことによって、 免役条項拡大の方向に展開されることになったように思われる。

 すでにこれまでにとりあげてきた法令のなかでも、「医官ノ検査ヲ受ケ合格セサル者」「一家ノ主人」「一子ニシテ老父母アル者」「不具ノ父母アル者」(以上「徴兵規則」)、身長五尺以下の者、自家の産業に故障ある者(以上「召集概則」と推定)などの免役条項がみられたわけであるが、さらに明治5年10月7日の「除隊取扱規則」で除隊を許可する条件とされた次のような規定も、免役条項をつくりあげるうえに影響していた筈である。

 

一、嗣子ニシテ父母ヲ失ヒ他ニ兄弟無ク営産ニ差支候者

 

一、独子独孫ニシテ父母祖父母病気或ハ極老ニ及ヒ其者ナケレハ余年ヲ保ツ能ハサル者

 

一、兄弟有リト雖モ病気或ハ不具或ハ幼稚ニシテ父母ノ病気ヲ看護スル事能ハサル者


 実際に制定された徴兵令の免役条項は次の如きものであるが、このうち、官公吏や軍人、官僚などの予備軍としての各種学生などは、徴兵規則の適用などにあたっても当然除外されていたと考えられるのであり、結局、これまで父母の病気などの条件のもとで免役されていた嗣子 ・独子独孫を、これらの条件なしで、しかも養子を含む形で一般的に免役とした点が、徴兵令の免役拡大の核となるものであった。

          常備兵免役概則

 

第一条

身ノ丈ケ五尺一寸(曲尺)未満者

 

第二条

羸弱ニシテ宿病及ピ不具等ニテ兵役ニ堪ザル者

 

第三条

官省府県ニ奉職ノ者、但等外モ此例ニ准ズ

 

第四条

海陸軍ノ生徒トナリ兵学寮ニ在ル者

 

第五条

文部工部開拓其他ノ公塾ニ学ヒタル専門生徒及ヒ洋行修業ノ者並ニ医術馬医術ヲ学フ者、但教官ノ証書並ニ何等科目ノ免許書アル者(科目ノ等未定)

 

第六条

一家ノ主人ダル者

 

第七条

嗣子並二承祖ノ孫

 

第八条

独子独孫

 

第九条

罪科アル者、但徒以上ノ刑ヲ蒙リタル者

 

第十条

父兄存在スレ共病気若クハ事故アリテ父兄ニ代り家ヲ治ル者

 

第十一条

養子、但約束ノミニテ未夕実家ニアル者ハ此例ニアラス

 

第十二条

徴兵在役中ノ兄弟タル者

  
  このほかに、免役に準ずる措置として、「徴兵雑則並扱方」第十五条に「自己ノ便宜ニ由り 代人料金270円上納願出ル者ハ常備後備両軍共之ヲ免ス」という規定が設けられていた。

  ききにみたように、明治5年3月12日に徴兵懸が任命きれて以後、山縣有朋の「論主一賦兵」の検討から免役制の作成に至る過程は、極めて急ピッチに進められたと考えられ、早くも 同年11月28日には、「徴兵詔書」と「徴兵告諭」が、ついで翌明治6年1月10日には「徴兵令」 が布告きれるに至っている。

  ところで藤村道生氏はかつて、この本来同時に出きるべき「詔書」「告諭」と「徴兵令」との間に、15日間(太陽暦移行のため)の間隙があるのは、これらと同時に陸軍省から提出された 「四民論」と題する意見書が左院によって批判きれしりぞけられた結果、徴兵令のうち「四民論」にもとづいていた部分を修正しなければならなかったためだと推論された44)。つまり陸軍省が作成した徴兵令原案は、実際に施行されたものとは違うというわけである。

  「四民論」45)の内容については藤村氏が詳しく検討されているのでここでは繰り返さないが、 要するにさきの家産三分論的発想によって、四民=士農工商のみならず、皇族・華族・僧侶を も含めて、各階層の相互あるいはざらにその内部に、当面の徴兵についての差別を設けてゆこうとするものであった。例えば、豪農・常農・小農、豪商・中商・下商などの区分を設けて区分の方法をも指示し、農民については「一ケ年ノ食糧ヲ蓄フル者以上」を徴兵する、商人につ いては「下商以下ハ此往キ五ケ年ノ間兵役ヲ免除」するなど、それぞれの階層についての徴兵方法を別個に規定したものであったが、そのなかで最も問題なのは、「士族卒ノ事」と題された次のような部分であった。

 

士族卒ノ兵役ニ就クハ固ヨリ其分ナリ、夫一日名禄ヲ存スレハ則チ一曰其職ニ就カサルヲ得ス、此故ニ他ノ徴兵卜違ヒ齢二十歳ノ者ハ徴兵免役規則ノ内、本人嫡子並独子独孫及ヒ兄弟ノ在勤ニ係ハラス徴募シ検査抽籤ノ上常備兵ニ充ツ、尚ホ時宜ニ依り乃至二十五歳迄ノ者ハ布令ニ応シ其年ノ徴募ニ就ク可キ事


 これによれば、さきの「常備兵免役概則」全12条のうち、第6、7、8、11、12の5カ条が士族卒には適用されないことになるのであった。「四民論」と同時に提出きれた「癸酉徴兵略式」(明治6年の各県別徴兵員数を規定したもの)には、「免役規則ニ当リ尚ホ四民論ニ照シ差障無之者」を精選すべきことを命じているが、規定以上の免役となる他の階層に対してはともかく、 士族卒に対しては、藤村氏が修正されたと考えられるような、何等かの留保規定が法文上に明 記されていなくてはならなかったであろう。

  このような「四民論」の存在を、藤村氏は「士族と卒を中心とする士族軍隊の建設を意図」 したものと評価されるが、そうなると「抗顔坐食シ甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者」という「徴兵告諭」にみられる武士への激しい敵意とはどう整合するのであろうか。これ までみてきた状況から云えば当時の陸軍省は、志願兵募集から強制徴集への転換を急務とする 政策判断と、画一的機械的徴集を当面は無理とみる現実認識との間に揺れうごいており、そのなかから、この両面に適合的な案として、過渡的に士族層を徴集の主たる対象とするという 「四民論」が浮上してきたように思われる。しかし「四民論」が四民平等の原則的観点から否定され、徴兵令が「四民論」の痕跡をとどめない形で施行され、農民中心の徴兵が実際に始め られても、四民論を主張した筈の勢力からそれに抵抗する動きがおこらなかったことは、「四民論」が、士族の価値を重視する士族軍隊論ではなかったことを示しているのではあるまいか。

  徴兵令の施行と同時に、四鎮台制は全国(北海道・沖縄は除く)を六軍管に区分する六管鎮台制に改正された(第一軍管─東京鎮台、第二軍管─仙台鎮台、第三軍管─名古屋鎮台、第四軍管─大阪鎮台、第五軍管─広島鎮台、第六軍管─広島鎮台)。そして徴兵は、それぞれの鎮台管区で陸軍中佐又は少佐を正使、尉官を副使とする徴兵使が軍医・書記を引につれて巡回し、徴兵検査を実施 し、徴員を決定するというやり方で実施きれることになった。免役概則に照合して徴兵検査を 受ける者を決め、検査場まで引率して行くのは、戸長の職務ときれた。

  徴兵令は、最初の明治6年には東京鎮台管区だけに施行され、翌年に名古屋・大阪両鎮台管区に拡大、明治8年に至ってはじめて全国に施行された。この徴兵の実績については、陸軍省が明治8年の状況をまとめた『陸軍軍政年報』(明治10年3月刊)のなかで公表したものが最初である。この年報はその翌年には内容を拡充し、改めて『陸軍省第一年報』と改題して刊行され、明治19年分を扱った『第十二年報』までこの形式が続いているが、その翌明治20年分から はさらに『陸軍省第一回統計年報』に改められ、内容も説明のない数字だけの年報に変っている。なお『第八年報』までは、当時の会計年度である7月1日から翌年の6月30日までの1年間となっているが、以後は暦年方式に変えられることとなり、その過渡として『第九年報』だけは明治16年の7月から12月までを扱っている。徴兵の実施は2月15日の徴兵使巡行で始まり、徴員は4月20日から5月1日迄に入営することになっていたので、『第九年報』には徴兵に関する記述はない。

  ところで、徴兵令は常備軍の服役期間を3年とし、1年の徴員数を1万560人、その3年分の3万1680人を平時の定員と予定していたから、徴兵令が実施されても最初のうちは、それ以前からの壮兵と新しく入隊してきた徴兵とが、同じ兵営に混在し、壮兵から選抜きれた下士官が徴兵の直接の統制にあたることとなった。そしてこうした状況のもとでは、訓練にあたる現場の将校の徴兵に対する評価が、徴兵令の運営を方向づけることになったと思われる。ききの 『陸軍軍政年報』のなかの「六管鎮台景況報告」の項にみられる次のような記述は、そうした 観点からも注目しておかなくてはならない。

 

東京鎮台──
 「諸種ノ兵隊稍軍紀ヲ識リ定規ヲ守ルト雖モ間或ハ市中ニ放酔シ、逃亡シテ郷里ニ走ル等弊ナキ能ハス、放酔ハ壮兵ニ多ク逃亡ハ賦兵ヲ最トス、其然ル所以ハ壮兵ハ兵タル久フシテ法ニ慣レ、賦兵ハ日浅フシテ法ニ耐ル能ハス、到底壮兵ヲ解キ全ク賦兵ノミニシテ孜々之ヲ教導セハ、遂ニ此弊ヲ除クニ至ルヘシ」「二月九日ノ布令(後述)アルヤ明治四五年間召集人壮兵漸次解隊シ、其余ハ悉ク賦兵ナルヲ以テ宿弊モ一掃シ、 其軍紀ヲ守り定規ヲ奉スルノ度益々淳良ニ至ルヲ得へシ」

 

仙台鎮台──
  「歩兵第四連隊卒其挙動一般静粛ナリ、然レトモ衆多ノ中或ハ営内ノ規則ヲ厭ヒ脱走、或ハ遊歩日ニ当り放肆ナル者等僅々ナキニ非卜雖トモ、嘗テ解除セシ壮兵ニ比スレハ一層軍紀ヲ守ル者卜謂フヘシ、而シテ独り下士ニ在テハ帰営時限ヲ誤り又ハ営内ヲ潜出スル等、軍紀ヲ紊ル者一時旧ヨリ多シ、蓋シ該隊現在ノ下士ナル者大率旧藩々ヨリ召集ノ壮兵ヨリ抜擢セシ者ニテ、先般同期ノ壮兵悉皆解除ニ至ルト雖トモ其身ハ未夕服役ヲ免ル丶能ハス、且期限ノ久シキニ倦厭シ遂ニ此怠惰ヲ生ルニ至ルカ如シ」

 

大阪鎮台──
  「昨年ノ徴兵ハ大ニ軍紀ヲ遵奉シ本年ノ徴兵ハ漸次ニ営則ヲ了解セリ、然レトモ近頃当台犯者ノ多キ之ヲ往日ニ比スレハ甚夕過多ナルヲ覚フ、……其犯者ノ過多ナル所以ヲ察スルニ近来伍長ノ其責任ヲ担当セサル者尤多キニ由リ、其三月ヨリ七八月ニ至リ、伍長ニシテ無故逃亡軍紀ヲ犯ス者二十五人、蓋シ兵ノ父母トナリ親ク起居動作ヲ 監視シ、其誘導教育ノ責アル者ニシテ近頃ノ動作アル本台目下ノ大患ナリ」

 

熊本鎮台──
  「昨今徴募シタル賦兵ノ如キハ、尤モ能ク号令ヲ守ル、故二罰ヲ被ムル者稀ニシテ、却テ下士又ハ壮兵中二在り、其第二十二大隊ノ如キハ全体ノ卒挙テ壮兵ナリ、 旧染ノ弊習ヲ存シ、罰ヲ受ル者多キニ居ル」


 ここには、徴兵の方が壮兵より扱いやすく、下士官を含めてすべての壮兵が除隊して徴兵だ けになれば、軍紀の乱れていた壮兵時代を克服して、軍紀の確立した軍隊をつくることが出来 るという、現場の将校たちの思いが反映されているとみることが出来る。すでに東京鎮台に対 して壮兵の服役を3年とする通達が出きれていたことは前にふれたが、明治8年2月9日にな ると、近衛及び全鎮台に対して改めて「全国壮兵漸ヲ以悉皆免役申付候」と布達きれた。これがききの引用中に云う「二月九日ノ布令」であるが、このことは、軍中央部も兵卒素材の獲得方法としては、現場の意見をいれて、徴兵制に依拠してゆくことを明確にしたことを意味している。つまり、もはや徴集についての「四民論」的な配慮は棄てられたということであった。

  士族出身である将校にとって、同じ階層の出身者よりも、つい先頃まで被支配階級であった農民以下の庶民の方が扱いやすかったに違いないし、またそうした士族の優越性を利用すれば、 軍紀が確立できると考えられたに違いない。そして、士族による農民の掌握を基礎とするこの方式は、兵卒を社会関係から切り離して、敬礼等各種の形式的行動の強制から上官への絶対服従に導こうとする軍隊教育を生み出し、日本軍隊の基本的性格を方向づけることになったと思われる。さらにこの士族の優越性は、軍学校卒業者のエリート性に引きつがれ、兵卒たちは彼等の権威に媒介きれて、天皇を頂点とするピラミッド型の忠誠の体系のなかに組み込まれてゆくのであった。

  しかし軍首脳部が、徴兵令によって徴集された兵卒の素質にほぼ満足したということは、すでに予想きれていたこととは云え、その反面で兵卒の円滑な供給を阻む徴集面での障害の存在 を、より切実ないらだたしい問題と感ぜざるを得なくなるということでもあった。徴集面での最も大きな障害は、広い範囲で設定きれていた免役条項を利用した徴兵忌避の横行であり、そのため、徴集人員の確保が困難になるという事態きえ起っていた。ききの『軍政年報』によれば、明治8年の徴兵において早くも、「第一軍管々下徴兵ニ欠員ヲ生」じ、「更ニ追募ノ令ヲ発 シ毎府県一層綿密ニ調査シ漸ク定額ニ充ルト雖モ、猶補充ノ数ヲ欠クニ至」ったという。文中の「補充」とは、次の徴兵までの1年間に生じた常備兵の欠員を補うための補充兵を指しており、徴兵令では、「常備一ケ年ノ徴員二分ノ一以内」と規定きれ、実数は各兵種別に年毎に決定きれるが、歩兵では大体常備徴員の5分の2=4割が規準とされた。つまり、明治8年の第一軍管区(東京鎮台)では、最初は予定の常備兵数を徴集することができず、再度の調査でも補充兵までは確保することができなかったというのである。

  このような、補充兵までは確保できないという事態は、翌明治9年は第六軍管(熊本)、明治10年は第四(大阪)、第六軍管、明治11年には、第一、第四軍管、明治12年に至ると、第一、第三(名古屋)、第四、第六軍管に及んだ47)。とくに明治12年の場合には、問題は補充兵以前の常備徴員確保の面で深刻となっており、「第一軍管ニ在テハ常備歩兵ハニ百七十三名、第四軍管ニ在テハ同六百六十二名ノ不足ヲ致セリ、故ニ第一軍管ノ不足ハ第二軍管ノ補充兵ヲ以テ之ヲ補ヒ、第四軍管ノ不足ハ第五軍管ノ補充兵ヲ以テ之ヲ充塞シ、僅ニ常備ノ数ヲ完備スルコトヲ得タリ」48)という有様であった。 このような事態の起って来る基本的原因は、免役条項に該当すると判定された免役者の増加 にほかならず、その有様は第1表の如くであった。すなわち男子20歳の徴兵適齢者は、さきの 「常備兵免役概則」に該当するか否かで区分され、徴兵連名簿か免役連名簿かに記載されることになるのであるが、すでにこの段階で八割以上が免役となっているのであり、徴兵適齢者30万人前後のうち、戸長によって徴兵検査場に引率されてくるのは、多くて4万人台であったということになる。西南戦争の影響とはいえそれが2万人台にまで落ち込むというのは、すでに制度の破綻といってもよかった。

  免役者の過半数を占めたのは、「嗣子並ニ承祖ノ孫」の項の該当者であった。「養子」も実子のない場合の養嗣子を意味しているのでここに加算されているが、法文上でも明治8年11月5 日の徴兵令改正によって、「嗣子並二承柤ノ孫」の項に「但養子約束ノミニテ未実家ニ在ル者ハ此例ニ非ス」との但書が附された代りに「養子」の項は削除され、「免役概則」は12条から11条にその分減少している。第1表の数値のうち、どれだけが「養子」であったかは明らかに
 

第1表 明治8−12年の徴兵・免役状況

明治
壮丁総数
徴 兵 連
名簿人員
免 役 連
名簿人員
壮丁中
の免役
者比率
免役理由と免役老中の比率
嗣子・承祖の孫

戸  主

定尺未満の者
8年 298,531 45,498 253,033 84.75% 149,719(59.16%) 72,183(28.52%) 24,881(9.83%)
9年 296.086 45.221 242.860 82.02% 155.659(64.09%) 66.592(27.41%) 13.984(5.75%)
10年 301.259 44.458 249.773 82.90% 161.012(64.46%) 72.024(28.83%) 10.080(4.03%)
11年 327.289 26.881 290.785 88.84% 188.264(64.74%) 88.481(30.42%) 8.241(2.83%)
12年 321.594 23.981 287.229 89.31% 186.879(65.06%) 88.772(30.96%) 6.739(2. 34%)

(註)

『陸軍軍政年報』、『陸軍省第一年報』〜『同第四年報』による。「壮丁総数」には、20才の男子のみではなく、前年において「翌年廻シ」とされた人員を含んでいる。その数を差引いた20才壮丁数を基礎として免役者比率を計算すべきであるが、明治8年に「翌年廻シ」された人数が不明なので、このままとした。その分を差引くと免役者比率は2%強づつ上昇すると思われる。また明治8年の場合には、徴兵連名簿人員にも「翌年廻シ」分が加算されており、それを差引くと免役理由別比率も若干上昇する筈である。各年が前年から引きついだ「翌年廻シ」分は明治9年 から12年にかけてそれぞれ8,005人、7,028人、9,623人、10,348人であり、従って明治8年の徴兵連名簿人員はおそらくその分数千人減少し、『第一年報』の「九年各軍管徴兵簿人員ヲ以テ之ヲ八年ニ比ルニ稍其多キヲ加ヘタレハ」との記述に合致することとなる。


  しえないが、明治10年から12年にかけての徴兵連名簿人員2万余人の減少は「嗣子」項目の2万余人の増加にほぼ見合っているのであり、その増加の主因が「養子」名目の取得にあったことは明らかであろう。すでに『陸軍軍政年報』は次のように述べて、この項目自体の改正を求めていた。

 

嗣子二長男ア'ノ養子アリ、或ハ弟ニシテ兄事故二係り相続人タルアリテ、其種類異ルト難 モ均ク嗣子名義アルヲ以テ一般免役二属スル者ナリ、就中長男ハ詐偽ノ者二非サルモ、養 子ノ如キハ其親戚相議シ既二養子ノ約ヲナシ、或ハ兄ヲシテ求メテ事故ヲ醸サシ〆准養子 トナリ、妄'ノー兵役ヲ避ン卜欲スル狡黙ノ徒アリ1,錐モ、下調以前ニ在テハ制限ナキヲ以 テ、府県庁二於テモ其如何ヲ詳悉スル事ナク願意ヲ得セシムルニ至ル……(中略)均ク之 ヲ免役二属スルトキハ名ヲ以テ欺キ詐ヲ以ヲ避ルノ憂ナキ能ハス、故二姑ク嗣子ノ種類ヲ 区別シ、其父兄不具廃疾或ハ五十歳以上二至り家事負担スヘカラサル者等ノ嗣子ヲ除キ、 其他ハ悉ク徴募スルトモ敢テ民間ノ支障ナク、又免役人員ヲ減スルニ至ルヘシ


  また「一家ノ主人」=戸主の場合にも、父親の隠居、分家、絶家の再興など戸主名義を獲得するためのざまざまなやり方が考え出きれたであろうことは、戸主の比率の漸増からもうかがうことができる。

  しかも、こうした免役条項乱用の間隙をぬうようにしてようやく徴兵連名簿に確保した人員 も、徴兵検査では不合格者が続出したようである。明治8年の状況について『軍政年報』は 「本邦徴募二応スル丁壮即四万五千四百九十八人ノ中一万○三百十五人ハ検査合格ノ者ニシテ、 二万三千二百六十八人ヲ不合格ノ者トス、其余ハ事故アリ除名或ハ翌年廻シ等ノ者ナリ」と述ベ、この合格率22.67%をフランスの場合の合格率75.58%と比較している。以後この種の数字は発表されていないが、明治10年徴兵を扱った『第二年報』は、「人民ハ逐年詐偽二長シ強者ハ採用セラレンコトヲ察シテ遁走シ弱者ハ落第ノ期スヘシヲ知り揚々トシテ検査場二上ル」と述べており、この傾向が続いていることを推測させる。

  こうした徴集人員確保の困難に対して、陸軍当局はまず、身長条件の緩和をはかった。明治 8年1月23日布達の「徴兵令参考」では「歩兵ニ限り五尺以上ヲ採用スルモ時宜二因ルヘシ」 と指示、同年11月の前述の徴兵令改正では、免役概則そのものを「五尺未満ノ者」とし、同時 に「徴兵令参考」のこの部分を「四尺九寸以上」と改正した。第1表中「定尺未満の者」の減少は、このような事情を反映している。しかしこの程度のことでは、徴兵制を維持できなくな ることは明らかであり、政府もついに徴兵令の全面改正に踏み切らざるをえなくなった。

  明治12年10月27日に公布された改正徴兵令は、これまでの免役を、除役・国民軍以外免役・ 平時免役・徴集猶予に区分したこと、徴兵検査の前に「徴兵下検査」という前段階を設けたこ となどが大きな特色であった。まず免役関係では、除役は「廃疾又ハ不具等」で兵役に堪ええ ない者と、「懲役一年以上及上国事犯禁獄一年以上実決ノ刑二処セラレタル者」を終身兵役から除くというものであり、また国民軍とは「全国ノ男子十七歳ヨリ四十歳迄ノ人員ヲ兵籍二載セ置キ全国大挙ノ役アルニ当り時機二従ヒ隊伍二編成シ以テ守衛ニ充ル者」であるから、国民軍以外免役とは、本土が戦場になるような事態にでもならなければ、戦時でも徴集されること はなく殆んど免役と同義であった。そして、戸主・独子独孫・「年齢五十歳以上ノ者ノ嗣子或 ハ承祖ノ孫」のほか官吏・戸長・府県会議員、官公立学校教員などがこの項に区分された。

  次の平時免役には「年齢五十歳未満ノ者ノ嗣子或ハ承祖ノ孫」や陸海軍生徒、海軍兵器局及 び造船所定雇職工のほか、医師開業免状、海員試験免状規則による船長・運転手・機関手の免状などの所持者、公立師範学校・中学校・専門学校、官立学校などの卒業者、外国に留学して 2年以上の学科を終った者など、特定の資格を有する者が含まれていた。また徴集猶予とは 「兄弟同時二徴兵二当ル者」「本人ヲ要セサレハー家ノ生計ヲ失う者」、身長が定尺に満たない者、病気中又ハ病後で兵役に堪えられない者のほか、卒業者が平時免役となる学校の在学者などの徴兵を1年づつ猶予するものであり、3年たってもこの条件が変らないときは平時免役とするというものであった。従って徴集猶予となった者が平時免役になる可能性は大きかった。

  こうしてみると、この改正は一番大きな問題であった筈の「嗣子」の免役についても、親の年齢50歳のところで区分したものの、結局50歳未満の者の嗣子きえも、平時免役にしているのであり、平時徴兵の観点からみれば、免役範囲を縮少したものではなかった。従ってこの改正 にみられる徴兵忌避対策は、免役に関しては次のような但し書をつけることによって、徴兵のがれとみられるような戸主或いは嗣子名義の獲得者を免役からはずすという点に限られていた。

 

戸主―但徴兵年齢以前二分家シ又ハ新タニ分家シタル女戸主二入婿シ或ハ絶家ヲ再興シ及ピ年齢五十歳未満ノ者隠居シ養子又ハ相続人ニシテ其跡ヲ継キタル戸主ハ此限二非ス 嗣子或ハ承祖ノ孫―(50歳以上の項にも未満の項にも同文の但書)―但徴兵年齢以後ノ嗣子或ハ承祖ノ孫ヲ分家シ或ハ五十歳未満ノ者ノ養子(本家ノ故ヲ以テ己ムヲ得サル者ヲ除ク)トシ又ハ絶家ヲ再興シ或ハ新タニ分家シタル女戸主二入婿シ、其他ノ子孫ヲ以テ徴兵年齢以前二更二定メタル嗣子或ハ承祖ノ孫ハ此限二非ス


  そして同時に、このような徴兵のがれに対する監視を強化するために、これまでの「公文ヲ布達シ民情ヲ上申スル事ヲ掌ル」徴兵議員をおき「戸長或ハ副戸長ヲ以テ之二任ス」るという制度を廃止し、代りにこの職務は「郡区長ヲ以テ之二任ス」る郡区徴兵事務官にあたらせるこ ととした。つまり、免役などに関する実質的認定権を、民衆と直接的な関係を持つ戸長から、 その上層の郡区長に移して情実を排除するというわけであった。郡区長である郡区徴兵事務官は、府県職員である府県徴兵事務官、軍側の後備軍府県駐在官である徴兵事務官とともに、身体検査をも含む徴兵下検査を実施し、徴兵適齢者を区分して各種名簿を作成することになり、 その後の徴兵使巡行よりも、この下検査の方が重要となった。第1表の「徴兵連名簿」に較べて第2表の「徴集名簿」の人員が少ないのは、前者がこれから検査を受ける人員であるのに対 して、後者は下検査に合格した人員であり、そのまま徴兵しうる人数であった。

第2表 明治12年改正徴兵令による徴兵・免役状況

明治
20才壮
丁総数
徴集名
簿人員
除役 人員
国民軍以外免役
平時免役
徴集猶予
除免役猶予
者の総数と
壮丁中比率
戸主
50才以上者
嗣子(内養子)
 
総数
50才以上者
嗣子(内養子)
総数
13年
260,586
21,800
5,327
85,946
58,761(18,972)
159,462
68,816( 26,563)
70,347
1,275
236,411
  %
90.72
14年
287,077
21,565
7,462
90,539
74,317(28,240)
175,961
72,341(28,365)
74,640
4,345
262,408
91.40
15年
253,663
20,383
6,930
76,171
68,749(28,307)
154,200
62,127(22,917)
64,291
4,112
229,533
90.48
16年
271,875
29,449
7,137
77,332
78,044(33,591)
164,958
58,337(17,575)
61,106
4,985
238,186
87.60
17年
298,685
41,182
8,129
82,767
81,403(32,000)
174,030
61,945(13,521)
65,255
5,392
252,806
84.63

「陸軍省第五年報」〜「同第十年報」による。但し「第九年報」は除く(本文参照)

  従ってこの改正によって、確保しうる徴集人員が若干増加したことは確かであろう。そしてそのうえに、明治16年1月23日の大政官達によって府県に設けられた「兵事課」は、これまでの徴兵の時期だけ任命される徴兵事務官とは異って、年中活動する初めての常設機関であり、 その活動は大きな力を発揮することとなった。明治16年徴兵を扱った「第八年報」は、兵事課の設置により「大ニ該事務ノ進捗」をみたと述べ、翌17年徴兵を扱った『第十年報』は「積年ノ宿弊ヲ一洗スルカ如シ」とまで評価している。第2表にみられるように、徴集名簿人員を2万人台から4万人台に引上げたことは、「徴兵令創定アリシ以来末夕此多数ヲ観サル所」(『第十年報』)であった。
 
  しかし、この改正徴兵令の実績をみれば、戸主・嗣子といった戸籍上の名義による免役制度を維持する限り、徴兵数の飛躍的な増加を望み得ないことは明らかであった。第2表にみるよ うに、嗣子10人のうち、3人から4人までが養子というような事態が起っても、養子になるという民法上の行為を徴兵令で阻止することは出来ず、陸軍当局を「畢竟人民ノ詐偽ヲ暹クシ規避ヲ図ルニ因ル所ナリト雖モ、法ニ於テ之ヲ如何トモスルコト能ハス」(『第七年報』)と嘆かせることとなった。明治13年から1軍管2500人の輜重輸卒49)の徴集が開始され、常備予備後備を合せて1軍管2万5000人を確保することが目標とされたことは、外征可能な軍隊の建設が意図 され始めたことを示すものであった。そしてそのためには、免役制度の実質的改正が必要となることは明らかであった。



4 徴兵制度の定着

 徴兵令の2回目の全面改正は、明治16年12月28日に公布された。すでに10-11月に徴兵下検査は完了していたので、明治17年徴兵は、旧令で実施きれ、この改正令による徴兵が行われるのは、明治18年からであるが、この改正は、徴兵制度の運用を安定化する画期をなすものとなった。改正の眼目は云うまでもなく、免役条項の縮少であり、明治12年改正令の平時免役の部分は削除して免役からはずし、国民軍以外免役の部分については条件を強化したうえで、徴集猶予の名目の下で、実質的に平時免役に格下げするというのが、改正の核となる構想であった。 そしてその部分は次のように規定きれた。

  第十七条 左二褐クル者ハ徴集ヲ猶予ス、但其年補充員不足スルトキ、又ハ戦時若クハ事 変二際シ兵員ヲ要スルトキハ之ヲ徴集ス
第一項 兄弟同時二徴集二応スル者ノ内一人及上現役兵ノ兄或ハ弟一人
第二項 現役中死没又ハ公務ノ為〆負傷シ若クハ疾病二罹リ免役シタル者ノ兄或ハ弟一 人
第三項 戸主年齢満六十齢以上ノ者ノ嗣子或ハ承祖ノ孫
第四項 戸主廃疾又ハ不具等ニシテー家ノ生計ヲ営ムコト能ハサル者ノ嗣子或ハ承祖ノ 孫
第五項 戸主

  当時の平均寿命から云えば、60歳以上になれば、その労働によって一家を支えることは困難であり、従って第3項は第4項に近い内容を持ったと思われる。つまりこの改正によって、戸籍上の名義だけで免役になるのは、戸主に限られることになるわけであった。また1年毎の徴集猶予は、その理由の存する間は徴集を猶予するという規定に変えられ、官公立学校教員、官立学校・軍学校生徒などはこの項に移された。徴兵手続に関しても、府県の側には兵事課が、 軍側では府県駐在官に加えて郡区駐在官が置かれ、徴兵使巡行や徴兵下検査の制度は廃止、代って、郡区長と郡区駐在官が各種名簿を作成・点検し、兵事課長と府県駐在官が徴兵検査実施の中心となるという方式が採用された。これらの改正によって、徴兵状況が画期的に改善されたことは、第3表からうかがうことができる。

第3表 明治16年改正徴兵令による徴兵・猶予状況

明 治
20才の
壮丁総数
徴 集 数
徴 集 猶 予
除役
者数
猶予・徐役者
現 役
補 充
総 数
戸 主
60才以
下嗣子
総 数
総 数
壮丁中
比 率
18年
341,717
22,307
145,059
167,366
72,511
22,539
115,200
52,858
168,058
49.18%
19年
356,981
13,257
161,390
174,647
76,515
17,211
111,490
65,723
177,213
49.64%
20年(一)
326,288
18,331
87,782
106,113
   

134,718
   

25,530
108,589
145,917
254,506
78.00%
20年(ニ)
326,071
15,933
79,007
94,940
100,533
158,031
258,564
79.29%
21年
362,818
17,124
81,121
98,245
68,926
12,745
97,912
162,453
260,365
71.76%
(註)

『陸軍省第十一、第十二年報』、『陸軍省第一、第二回統計年報』による。*一・二次合計数以外記載なし。明治16年12月の徴兵令改正により、それまでの常備軍は現役と改称、現役と予備役 とを合せて常備兵役と称された。徴集数が著るしく過大、不安定になっているのは、輜重輸卒の徴集のためである。例えば、明治18年の輜重輸卒は、現役11,825名、補充兵116,739名、同年12 月3日の輜重輸卒概則の改正で一年の現役人員は軍管毎に1,200名から360名に改正され、以後は 2,000人台となるが、補充兵は明治19年の138,843名から減少するが21年でも67,123名を数える。

 
 この表で眼につくことは、まず徴兵猶予者(戸主と60才以下嗣子で8割前後を占める)の漸減であろう。この時期の『陸軍省年報』ではまた養子数が報告されなくなっているが、嗣子数の18年2万2539名から21年1万2745名への減少は、徴兵のがれのための養子名義の獲得が急速に封 じ込められていったことを示すものであろう。そしてこの過程で軍当局者が、徴兵の実施に自信と余裕を持ちはじめたことは、例えば、明治20年に2回にわたる徴兵を行っていることにもみることが出来る。これは、明治20年3月9日の徴兵事務条例の改正により、これまでの9月 1日〜15日の適齢者届出から、翌年の4月20日〜5月20日の新兵入営に至る徴兵過程を、4月の届出から年内の12月入営に繰り上げたことによるものであった。つまり明治20年の第1次徴兵は、明治19年に満20才に達した者を対象とし、第2次徴兵はこの年に20才に達する者を対象 としたものであり、このような1年2度の徴兵の実施は、徴兵制度が安定したとの自信がなければ不可能であったであろう。
 
  このことはまた、除役者の急増という点にもあらわれていた。第3表でも第1、2表との対比のため、猶予・除役者比率を算出しておいたが、この数字はもはやこれまでのような意味を 持ち得なくなっている。つまり、猶予者の漸減と除役者の急増によって両者の比重は逆転する のであるが、その中味は除役中の疾病者の急増であり、そのことは、軍側が徴兵から排除する病気、あるいは身体的欠陥の数を増やして、出来るだけ健康者を徴兵するという余裕を持ち始めたことを意味した。こうした傾向の出発点は、明治12年11月17曰の地方徴兵医官職務概則であり、そこでは除役・猶予にあたる疾患あるいは欠陥として15項目を指定しているが、その改正としての明治17年10月10日の陸軍医官徴兵検査規則によると「終身兵役二堪ユ可ラサル疾病 畸形」として、実に84項目をあげるに至っている。
 
  例えば、「眼」に関する項目をみると、前者では「盲目、両眼ノ白内障」の1項があるにす ぎないが、後者になると「眼瞼ノ内外翻転、眼瞼結膜ノ瘢痕性変性等」「涙瘻」「角膜虹彩等ノ 疾病ニシテ箸ク視カヲ妨クルモノ」「白内障・黒内障」「視力減退シテ尋常視力ノニ分ノ一以下二至ルモノ」「斜視眼」「近視眼」「遠視眼」「一眼ノ失明」「夜盲」という10項目に及んでいるのである。これらの項目の適用を厳しくすれば、除役者が急増するのは必然であった。
 
  つまり、第1、第2表の免役率・除免役猶予率の上昇が、民衆の徴兵忌避の勢いを示しているのに対して、第3表の除役猶予率の上昇は、軍の側の健康者選択基準の強化を示すものであった。従ってそれは、民衆の徴兵忌避が封じこめられたことを意味した。
 
  改正徴兵令の施行はまず、朝鮮における壬午事変(明治15年7月)、甲申事変(明治17年12月) をきっかけとした軍備拡張への関心の高まりをうけつぐものであった。明治15年というのは、1月4日に軍人勅諭が発布きれた年でもあるが、壬午事変後には、岩倉具視、山縣有朋らから 軍備拡張を求める意見書が出され、11月4日には明治天皇も地方長官に対して軍備拡張の必要を説く勅諭を発している。そしてすでに述べた翌明治16年1月の府県兵事課の設置が、こうした動向に対応する措置であったことは明らかであるが、それはまた軍拡の雰囲気を徴兵制度を 支持する方向に固めてゆく役割をも果すものとなった。そしてそこでは、政府の新聞としての 「官報」の発刊も、大きな力になっていたに違いない。そこで本稿では、これまで全く研究のなかった徴兵制度の定着過程を探る手始めとして「官報」記事を検討しておくこととしたい。
 
  官報の創刊は明治16年7月2日(1日は日曜のため)であったが、当初は各省庁や府県からの報告が大きな部分を占め、一定の官公吏が購読を義務づけられていたこともあって、大きな影響力を持ったと思われる。その「兵事」(明治19年から「陸海軍事項」と改称)の欄をみると明治 16年10月から徴兵下検査に関する記事があらわれ始めるが、府県からの報告はいずれも受検者数の増加を告げるものであり、このことが「官報」の側に記事掲載をうながすことになったと考えられる。以後翌年7月にかけて(明治17年の徴兵使巡行は3月15日から6月10日の間に変更)、 71回にわたり(多くは1回で数府県分を含む)、徴兵過程、徴兵結果が、兵種別徴員数までを含む報告として掲載されているのである。これらの受検者数の増加を競い合うような多数の記事は、 徴兵制度の定着を強く印象づけるものとなったに違いない。しかし翌18年になると徴兵実施に関する記事は消えうせてしまい、19年以後も、徴兵署の開設・閉鎖を告げる短い記事だけにな っている。それは官報編集者にとっても、府県側にとっても、明治16年改正徴兵令の実施過程は、ニュースとするに値しない程順調なものと意識きれてきたことを示すものと思われるのである。
 
  明治17年後半から代って、「兵事」欄の主役となるのは、軍隊の「演習行軍」に関する陸軍省又は府県からの予告あるいは報告であった。こうした行事は、たんに軍事訓練の観点ばかりでなく、一般民衆に軍隊の姿をみせ、近親感を抱かせようとするねらいをも持つものであったと思われるが、官報の記事のなかにも、「此ノ回ノ行軍ハ規律頗ル厳粛ニテ地方人民ヲシテ大ニ軍人ノ貴フヘキヲ感知セシメタリ」(「山口県報告」官報19・12・.25)といった記述もあらわれるようになっている。さらに明治20年に入ると「軍隊待遇」などの小見出しの下に、軍隊が地方において、府県兵事課員・郡長・戸長・一般人民などから受けた好遇についての「陸軍省報告」50)が掲載きれるようになり、それは実質的に地方官公吏に対して軍隊への待遇の仕方を指示する役割を果していたと思われるのである。
 
  そしてこの間、「演習行軍」記事の合間に、「徴兵慰労」と「兵事会」という二つの系統の記事が現われ、次第に増大してきていることに注目しなくてはならない。まず「徴兵慰労」と一括したなかには、徴兵服役者の家業を助けるために労力を提供するものと、服役者が満期帰郷後に、服役中の成績に応じて、慰労金を贈与するものとの2つの形態があり、前者は村の申合せ、後者は郡以上の規模での「徴兵慰労義会」などの組織によって運営しようというものが多く、次第に後者の形態が主流となっていったものと思われる。初期の官報でみると(かっこ内は官報日付)、前者では「徴兵服役者扶助規約」(熊本県、17・.7.・15)、「徴兵現役者ニ係ル耕耘助力」(長崎県、18・10・6)、後者では「徴兵満期帰郷者救助」(福岡県、17・8・8)、「徴兵報労金」 (愛知県、17・9・9)、「武揚協会設置」(高知県、18・1・21)などの記事がみられる。
 
  こうした組織化は、翌明治19年になると一挙に全国的に拡大することとなるが、その媒介となったのが、「兵事会」と一括した動きであった。それは、府県庁あるいは郡役所に、府県兵事課員、郡書記、戸長などを集めて行われた兵事事務の研究、打合せ会であり、兵事諮問会・ 兵事事務協議会、徴兵事務会などの名称が次第に兵事会に統一されていったようである。18年末までの官報では(掲載順)、岐阜・佐賀・愛媛・福岡・千葉・静岡・宮崎・広島・山口・群馬 ・愛知・山梨・神奈川・三重・滋賀・島根・岩手・福井・山形・高知・富山の21県からの報告が寄せられている。翌19年にはこれらの諸県に加えて新たに9県、20年にも新たに9県の報告が掲載されているのであり、明治20年までには、兵事会の開催が全国的に慣行化されたことと思われるのである。
 
  この兵事会の主たる議題は、徴兵制実施上の問題であったが、各地での徴兵慰労の動きが伝えられてくると、この問題もまた議題のなかで大きな位置を占めるようになってきたに違いな い。例えば官報明治19年7月6日号にみると、「埼玉県北埼玉郡役所ニ於テハ去月二十八日兵 事会ヲ開キ、郡長会長トナリ、主任郡書記及各町村戸長ヲ会員トシ、県庁ヨ'ノ兵事課長臨席シ、 兵事々務取扱ノ方法及徴兵慰労義会ヲ興起スルノ事件等ヲ議了シ翌二十九日閉会セリ」と報告 きれているが、この会議を指導し徴兵慰労の方針を提起したのは、兵事課長であった筈である。

  つまり、最初の徴兵慰労の発想は自発的であったにしても、その情報が兵事会に吸収きれることによって、改めて上からの方針として具体化されたのであり、明治20年末までに、33府県から徴兵慰労会(名称は徴兵慰労義会、武揚協会=高知県、 尚武義会=滋賀県などざまざま)の組織あるいは組織方針の決定が報告されている。そして、明治20年から21年にかけてこれらの組織は活動を開始し、更に未組織の地方にも浸透していったと思われるのである。

  しかしここで重要なのは、徴兵服役者に慰労金が与えられるようになったということ自体よりも、そのためにつくられた組織の性格であった。これらの組織の全容はまだ明らかにされていないが、一例として明治20年1月発足の滋賀県尚武義会をとりあげてみよう51)。この会を構成する三種の基本的な会員は明治22年末で名誉会員(一時又10年以内の年賦又は月賦で100円以上を義損する者)−135人、正会員(毎年1円以上又は一時に20円以上100円未満を義損する者)−1336人、義務会員(男子満17才になる年の1月より満19才となる年の12月までの者、陸軍現役に服する者、予備後備の兵籍にある者)−3万2318人となっており、義務会員については徴兵以前の者だけが月6銭を義損することが義務づけられている。つまりこの組織は、徴兵者を地域有力者、 徴兵をまぬがれた同年輩者、在郷軍人たちの監視のもとにおくものに外ならなかった。

  さらにまた、彼等が受取る慰労金は、優等(100−200円)から9等(2円50銭−9円)まで10段階に区分され、現役中の成績(精勤証書を獲得したか、二等卒から一等卒、上等卒に進級したか、 再服を志願して下士官となったかなど)によって、そのいずれかへ格付けされることになったが、 そのことは、兵営内の意識や価値感を郷土のなかに流し込むことにもなった筈である。こうした滋賀県尚武義会の例をどこまで一般化できるかは問題であるが、程度の差はあれ、こうした方向性は徴兵慰労組織全般に通じていたとみてよいであろう。

  ともあれ、これまでみてきたような明治20年を中心とする状況は、維新以来の行政の展開に沿うような形で成長してきた地方有力者層が、軍隊の「演習行軍」歓迎の雰囲気をつくり、徴兵制度をつつみ込むような力をつけてきたことを意味するであろう。徴兵制度は、こうした有力者秩序にとり込まれることによって、ようやく定着することができたのであった。


お わ り に

 明治22年1月22日、3回目の大改正を加えられた徴兵令が、この年の法律第1号として公布された。この改正によって、戸主・嗣子などの名義による特権は全く廃止されたが、それはまさに、徴兵制度が家制度との妥協とは異なる形で定着してきたことを反映するものであった。 今や戸籍名義による特権は、こうした定着過程をかく乱する要因にほかならなくなっていた。

  しかもこの改正徴兵令を、憲法発布(2月11日)の20日前に急遽公布したことは、「兵役ノ義務」(第20条)を「納税ノ義務」とともに、国民の最も基本的な義務と規定した憲法に見合う形で、徴兵制度を前以て安定きせておきたいとする支配層の意図を示すものであった。そして、徴兵制度が有力者秩序に包み込まれながら、「天皇の軍隊」を安定的に再生産し、その軍隊が戦争の勝利によって権威づけられてくるに従って、徴兵慰労金の如きものは、この軍隊の権威と矛盾する存在となってくる筈であった。

  日清戦争後には、慰労金は銀杯・木杯などの記念品に代えられていったが、そのことは徴兵制度が秩序の一部と化したことを意味した。近代日本の軍国主義は、「軍人勅諭」を基礎とする徴兵制度を不可分の一環とする秩序に見合うものとして成長してくるのであった。

1) 法令に関しては、特に注記しない限り『法令全書』によった。
2) 千田稔著『維新政権の直属軍隊』、開明書院,1978年、73頁。
3) 松下芳男著『明治軍制史論』上巻、有斐閣、1956年、49頁。
4) 同前、55頁。
5) 井上清著『日本の軍国主義T』、現代評論社、1975年、165頁。
6) 篠原宏箸『陸軍創設史』、リプロポート社、1983年、316頁。
7) 千田稔前掲書、134−6頁参照。
8)

鹿児島維新史料編さん所編『鹿児島県史料・忠義公史料』第6巻、巌南堂書店、1979年、544頁。 なお、『大政類典』第1編、108巻、34号文書には、「3月13日、鹿児島藩徴兵交代ニ際シ外国船 ヲ以テ之ヲ送致ス」との標題のもとに、8月の交代に関する書類も収録きれており、混乱を招く編集となっている。

9) 同前『忠義公史料』第6巻、739-41頁。
10) 同前、739頁。
11) 同前、740頁。
12) 『太政類典』第1編、第108巻、33号文書。
13)

高知藩徴兵の動向は明らかでないが、9月20日には、来る23日の招魂社大祭に於て「祭砲献納之儀可為勝手」との達しが、また12月5日には、徴兵大隊の階級・兵種別の人員・月給の規定が、いずれも兵部省から、山口・高知・佐賀藩徴兵あるいは三藩に対して発せられており、それはこの時点で三藩の徴兵が一部でも在京していることを示すものと思われる。

14)

服部敬「辛未徴兵の実態─五条県吉野郡を中心に─」、花園大学文学部史学科編『畿内周辺の地域史像─大和宇陀地方─」所収、256頁、1981年。

15) 『大政類典』第1編、108巻、第12号文書。
16) 千田稔前掲書、173頁。
17) 服部敬前掲論文、前掲書、264頁。
18) 明治4年4月27日、15)に同じ。
19)〜22) 服部敬前掲論文、前掲書272、265、274、268頁。
23) 「陸軍省沿革史」大山梓編『山県有朋意見書』所収、原書房、1966年、附録51頁。
24) 前掲『忠義公史料』第6巻、878-80頁。
25) 「大政類典」前掲巻、第84号文書。
26) 前掲「陸軍省沿革史」、前掲書附録、53頁。
27) 「太政類典」前掲巻、第88,89号文書。
28) 同前、85、86号文書。
29) 『陸軍省第一年報』(明治9年刊)中の「兵制沿革」による。
30) 前掲『山縣有朋意見書』44頁。
31)

兵部省は明治5年2月28日、陸軍省・海軍省に分割されるが、その後、同年9月28日、陸軍省は改正読法の各条に註釈をつけて改めて配布しており、改正読法が陸軍側の意にそうものであることを示している。

32) 前掲「忠義公史料」第7巻、172頁。
33) 『陸軍省日誌』は、1988年から89年にかけて、東京堂出版から復刻版が全10巻で刊行されている。
34)

大江志乃夫氏はこの点について、「壮兵=職業兵制」と捉え、近衛と鎮台の『二元兵制』がつくられたとされているが(『徴兵制』岩波新書、1981年、54頁)、それでは『国内諸営団』が何を指すか、『全国諸隊ノ精選』が何を意味するのかわからなくなる。

35)

3月12日は「東京法令全書条例並諸鎮台条例」を部内に配布する旨の通達が出された日付である。し かしそれ以前に、1月10日付で「東京鎮台条例」が「鎮台官員条令」とともに布達されており、 『法令全書』は3月12日の箇所に『大阪鎮台条例」のみを掲載している。

36)

「壮兵」の語の用法については、「論主一賦兵」の「壮兵ヲ廃棄シ」という部分について、大島貞薫が次のような意見をつけていることも参考になる。「下士官伍長等官費ヲ以テ教導団ニテ教育ス ル者、又二ケ年ノ再役兵、或ハ五ケ年ノ近衛兵等ハ、皆壮兵ノ種類ナルヘシ、且海軍、並騎、砲、工等ノ兵二ケ年ノ賦兵ノミニテハ、熟練ノ年月ニ乏シカルヘシ、然レハ壮兵ノ名ハ廃セスシテ、其用法ヲ取捨スル方宜カラン」(「陸軍省沿革史」、前掲『縣有朋意見書』附録、89頁)。

37) 『陸軍省日誌』前掲復刻版、第1巻、20頁。
38) 補充兵についての布達も、『法令全書』に収録されている場合には、註記しない。
39)

明治7年8月7日の府県に対する陸軍省布達第293号別紙の「(鎮台召集)兵卒検査概則」による。 この布達は各鎮台の歩兵補充のための召集に応じられるよう、あらかじめ「四民之内志願之者」を 取調べておくことを府県に命じたものである。なおここには「概則」の外に、「一、朝廷ノ為メ身命ヲ棄テ奉仕致シ可申事、一、陸軍省ヨリ被仰出候御規則及時々御布令等固ク相守り可申事、一、 私ノ故障ヲ以テ妄リニ退営願出申間敷事」という3カ条からなる「兵卒誓文」の雛型が附されている。

40)

藤村道生氏も徴兵令強行の「基本的理由は、従来の鎮台常備兵の召募が行詰っていたからであっ たと思われる」と述べておられる。しかし氏の場合は「徴兵令施行以前の鎮台常備兵の募集は、明治3年11月13日の徴兵規則によっていた」とされているが、徴兵規則はすでに鎮台開設以前に機能 しなくなっている。同氏「徴兵令の成立」「歴史学研究」第428号、1976年1月、10−2頁参照。

41) 『太政類典』第2編第219巻、18号文書。
42)、43) 前掲『山縣有朋意見書』附録、88、91頁。
44) 藤村道生前掲論文。
45) 「四民論」は『大政類典』第2編第217巻、2号文書のなかに、徴兵令の関係書類として、左院答議などとともに収録きれている。
46)

「六管鎮台」のうち「広島鎮台ノ如キハ全く報告ナキヲ以テ之ヲ欠ク」とあり、広島鎮台についての記述はない。なお、この項目は次の『第一年報』にも引きつがれているが、広島鎮台についての短い記述が登場している以外は、殆んど『軍政年報』の記述と同様(全く再録の部分も多い)で あり、『第二年報』以降はこの項目そのものが削除きれてしまっている。

47)

『陸軍省第一年報』から『第四年報』にいたる各年報による、但し明治11、12年分(『第三・四年報』)については、補充兵に関する叙述がないので各年の一覧表より判断した。なお明治9年の補充兵の合計は10090であるが、『第一年報』の合計欄には1090と誤記されており、それがそのまま『第四年報』の「(従明治9年至同12年)徴兵井免役人員比較表」に転記されている。(『日本近代思想大系4、軍隊・兵士』岩波書店、1989年には『第三・第四年報』の徴兵に関する概論部分が収録きれている)。 また補充兵数、明治9年から同12年にかけて、10090、7381、2819、2190と減少していることになるが、このうち明治9、10年分が、徴兵令の規定をはるかにこえた多数であったのが如何なる事情によるかは明らかにし得なかった。なお『軍政年報』は明治8年の補充兵数について記述してい ない。

48) 『陸軍省第四年報』、または前掲『近代日本思想大系・4』、115、6頁。
49)

『輜重輸卒は』輜重兵を補助して輸送の任にあたる者であり、常備役は6カ月であったが、予備役を 5年6カ月として、常備予備後備合せて10年という点では、他の兵種と変らないようにした。なお 明治13年2月18日陸軍省達甲7号「輜重輸卒概則」では、常備6カ月のうち訓練(小隊教訓、駄馬術、徒歩車輌術など)期間は3カ月としている。

50) 官報、明治20年.1・8、1・26、2・17、3・18、3・19、4・13、4・15、4・20、4・27、 6・11の各号参照。
51) 「滋賀県尚武義会景況」「兵事新報」第2−4号、明治23年5−6月。