『日本議会史録』3

1991年2月

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金解禁・ロンドン条約・満州事変


写真

古屋 哲夫

昭和4(1929)年7月2日

浜口内閣成立

同年12月26日

第57回通常議会開会

昭和5(1930)年1月21日

衆議院解散

同年2月20日

第17回衆議院議員総選挙

同年4月23日

第58回特別議会開会(同年5月14日閉会)

同年12月26日

第59回通常議会開会(6年3月28日閉会)

昭和6(1931年)4月14日

第二次若槻内閣成立

同年12月13日

犬養内閣成立

同年12月26日

第60回通常議会開会

昭和7(1932)年1月21日

衆議院解散

同年 2年20日

第18回衆議院議員総選挙

同年 3月20日

第61回臨時議会開会(同年3月25日閉会)

1浜口内閣、金解禁を断行
2第五八回議会とロンドン条約
3第五九回議会の混乱
4満州事変の勃発と議会の追随
坊さんと政党
主要参考文献・史料


坊さんと政党


 昭和5年2月の第一七回総選挙での、民政党の当選者数は273名とされており(たとえば、衆議員参議院事務局編『議会制度七十年史』帝国議会編下巻280頁)、この章でも、その数字によっておいたが、厳密にいうと、少し問題がある。

 というのは、総選挙後の第五八回議会の召集日には民政党議員数は171名に2名減少しているのであり、そのうちの1名は、選挙直後の2月26日に福島二区から当選した鈴木万次郎が死去したためとわかるが、もう1人が問題なのである。名簿をつき合わせてみると、それが岐阜二区から新しく当選した後藤亮一であり、召集日には無所属に登録されていることはわかるのであるが、なぜ民政党から無所属に転じたのかということになると、当時の新聞などをみてもなかなかその事情がつかめなかった。

 ところが、第五八回議会の速記録をみると、後藤亮一 は5月8日の衆議院本会議で、治安警療法改正案の提案者として、提案理由の説明を行っているのである。この改正は、「僧侶其ノ他諸宗教師」の政治結社加入権を認めさせるためのものであり、後藤は、大正14年の選挙法改正(男子普通選挙)で僧侶にも被選挙権が与えられたのに、治安警察法ではいぜんとして政治結社への加入を 禁止されているのは矛盾であると論じている。

 これで、後藤が僧侶であったことがわかるのであるが、同法のより広範な改正案を提起していた政友会の安藤正純(東京)は続いて発言して、先の当選者数の問題について次のように解説している。

 すなわち、先の総選挙後、民政党は当選議員数を273名と発表したが、衆議院側では272名と1名少なく 発表している。これは民政党が自ら公認した後藤君を数に加えているのに対して、衆議院側は、後藤君が僧籍にあって政党に加入できないから、彼を除いたのであり、現行法では衆議院側の発表のほうが適法である。したがって、安達内務大臣が民政党の領袖として、後藤君を公認候補として立候補させたことは、内務大臣自ら、治安警宗法を破ったということになる。それゆえ、こうした不都合な事態が起こらないように、治安警察法を改正しなければならないというのであった。

  後藤は、次の第五九回議会でも、昭和6年2月12日の衆議院本会議で、同様な提案を繰り返しているが、結局治安警察法の改正は、第二次大戦後まで実現できずに終わっている。

 なお、問題の治安警察法五条一項は、「左ニ掲クル者ハ政事上ノ結社ニ加入スルコトヲ得ス」として

 

一、

現役及召集中ノ予備後備ノ陸海軍軍人

 

二、

警察官

 

三、

神官神職僧侶其ノ他諸宗教師

 

四、

官立公立私立学校ノ教員学生生徒

 

五、

女子

 

六、

未成年者

 

七、

公権剥奪及停止中ノ者


という七項目にわたる条件を規定していた。

主要参考文献・史料