『日本議会史録』3

1991年2月

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「翼賛体制と対米英開戦」<第76〜80回帝国議会>


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古屋哲夫

1新体制と第二次近衛内閣の成立
2第七六議会と翼賛会論争
3対米英戦争への道
4緒戦の勝利と翼賛選挙

4緒戦の勝利と翼賛選挙
(1)宣戦布告と第七八回議会

(2)第七九回議会の状況
(3)翼賛選挙の実施―第二一回総選挙―
(4)翼賛政治会の結成と第八〇回議会
無任所大臣の変遷
―主要参考文献・史料―


4緒戦の勝利と翼賛選挙



(1)宣戦布告と第七八回議会


 12月8日の夕刊(9日付)は、「帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」、「帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊並に航空兵力に対し決死的大空襲を決行せり」という大本営発表や「宣戦の詔勅」などとともに、臨時議会を12月5日に召集(会期2日)する旨の詔書をも掲載していた。政府は開戦直に議会を開き、軍事予算の増額を実現するとともに、緒戦の勝利によって国民の戦意高揚をねらったものと思われるが、その思惑どおりに勝利の報道が次々にもたらされてきた。

  真珠湾攻撃の大戦果、マレー半島・フィリピン・グアム・香港への進攻など、戦勝の興奮のなかで開かれたこの臨時議会では、「拍手」ばかりが目立っていた。たとえば、16日の衆議院本会議での東条首相の施政方針演説 は、20分にわたったと報ぜられたが、その速記録には、23回にわたる(拍手)が記録されている。それは政府に従順な議会の姿を示すものであり、続いて政府から追加予算案の委員会審査省略の要求が出されると、異議なく受け入れ、臨時軍事費28億円、一般会計464万円の追加予算案は、賀屋蔵相の説明を聞いただけで、質疑もなく本会議で即決可決されている。

  この議会に提出された法案は、戦時保険臨時措置法案、敵産管理法案など政府提出の5件のみであり、いずれも原案どおり可決成立しているが、そのうちでも っとも重要なものは「言論、出版、集会、結社等臨時取締法案」であった。この法案は、戦時における取締りの強化を目的とするものであり、まずこれまで届出制であった政治結社や政治集会をすべて許可制とし、既存の団体にもあらためて許可申請を行うことを命じた。この時期にはすでに政治結社は、右翼的国家主義団体のみになっていたが、これらの団体もこの再審査の段階で解散してゆき、後述するように翼賛選挙後は、翼賛政治会が唯一の政治結社となっている。

  しかしこの法律はこうした政治結社・政治集会を対象とするだけでなく、「時局ニ関シ造言飛語ヲ為シタル者」は2年以下の懲役か禁錮または2000円以下の罰金、「時局ニ関シ人心ヲ惑乱スベキ事項ヲ流布シタル者」に1年以下の懲役か禁錮または1000円以下の罰金に処するというのであり、一般庶民の政治あるいは戦争についての意見も、これらの条項への違反として処罰される恐れがあることになった。

  この議会ではこれらの法案のすべてを、委員長報告どおりに討論なしに可決し、衆議院では全議案を通過させたあとで、大東亜戦争の目的貫徹に関する決議案を全会一致で可決して閉会している。議員たちもまた緒戦の勝利に酔いしれていたというべきであろう。



(2)第七九回議会の状況

 第七八回臨時議会が閉会して一週間後には、第七九回通常議会が、12月24日召集、会期は12月26日から翌年3月25日まで90日間という昨年の通常議会と同様の日程で開催された。

  この議会では、昭和12年7月の第七一回特別議会以来4年5か月の間衆議院議長の座にあった小山松寿が辞任し、同副議長田子一民もこれにならったため、12月24日の議院成立に関する集会で、田子一民が議長に、 内ケ崎作三郎が訓議長に選出された(貴族院の松平頼寿議長、佐々木行忠副議長は任期中)。そして26日には開院式が聞かれているが、その日の朝刊は、香港のイギリス軍が前日に降伏した旨を報じていた。議会は12月28日から翌年1月20日まで年末年始の休会に入るが、この間の戦況報道をみると、1月4日にマニラ占領(2日)が報道されてからは、ニュースの中心はマレー半島の東西両岸を南下する日本軍の快進撃ぶりに移り、その間には「ビルマ各地を猛爆襲」(『朝日新聞』昭和17年1月7日夕刊)、「蘭印に敵前上陸、セレベス島メサドを占領」(『朝日新聞』昭和17年1月13日)などの記事がみられる。また19日付で磯谷廉介陸軍中将が香港占領地総督に任ぜられたことも発表されていた。

  1月21日の議会再開の翌日22日の朝刊は「皇軍ビルマに進入」を横組み大見出しで報じているが、25日朝刊になると「ビスマルク群島を急襲、ラバウルに敵前上陸」と日本軍が遠くニューギニア島東方にまで進出したことが明らかにされる。

  この後は、2月中旬までマレー半島からシンガポールをめざす南下作戦と「英領ボルネオ全要衝を占領」(『朝日新聞』昭和17年2月5日夕刊)、「海鷲、ジャバ島大空襲」(『朝日新聞』昭和17年2月6日)、「米蘭聯合艦隊壊滅す、ジャバ沖に歴史的大海戦」(『朝日新聞』昭和17年1月7日)といったインドネシア作戦とが戦況の軸として並行して報ぜられ、とくに2月10日朝刊の一面全部を 使った「シンガポール敵前上陸」についての報道以後は、同島における激戦が戦況ニュースの大半を占めることになった。

  こうしたなかで、再開議会の冒頭に行われた東条首相の施政方針演説は、「大東亜共栄圏建設ノ根本方針」という形で、早くも占領地処理問題に触れた点で注目されることとなった。この演説はまず「大東亜ノ各国家及ビ各民族ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ、帝国ヲ核心トスル道義ニ基ク共存共栄ノ秩序ヲ確立」することが大東亜建設の根本だとしたが、同時に「此ノ建設ニ当リマシテハ、大東亜防衛ノ為メ絶対必要ナル地域ハ、帝国自ラ之ヲ把握措置シ、其ノ他ノ地域ニ関シマシテハ、各民族ノ伝統・文化等ニ応ジマシテ、戦局ノ進展ニ伴ヒ、ソレヾ適当ナル処置ニ出ヅル考ヘデアリマス」と述べて、地域ごとに異なる扱いをする方針を示した。

  すなわち、それは具体的には、多年イギリスの領土であり、「東亜禍乱ノ基地」であった香港・マレー半島は「大東亜防衛ノ拠点」として日本が自ら把握する、フィリピン・ビルマは大東亜共栄圈建設に協力するならば「独立ノ栄誉」を与える、蘭印・豪州については、抗戦的態度は容赦なく撃砕するが、その住民が協力してくるならば、「其ノ福祉ト発展トノ為ニハ、帝国ハ十分ノ理解」を示す、今日なお「無意義ノ抗戦ヲ継続」しつつある重慶政権は「徹底的ニ破砕」する、というものであった。

  新聞はこの演説を「大東亜宣言」などともち上げたが、「共存共栄」の具体的道筋はその手がかりさえ示されておらず、日本が支配すれば、自動的に「共栄圈」ができ上がるかの如き幻想が感ぜられるだけであった。

  この議会でも、議会側の政府追随的態度は相変わらずであり、前の通常議会(七六回)の87件とほとんど同数の84件の法律案を成立させたにもかかわらず、審議は先の3月1日より半月も早い2月14日で終了し、あとは自然休会に入っている。結局この議会が実質的に開かれていたのは1月21日から2月14日という一か月にも満たない期間であった。そして、この間に次のような議案が成立していた。

  昭和17年度予算案は88億3700万円で、追加予算を加えた前年案予算に比べると1億7900万円の増加であったが、臨時軍事費のほうは180億円という巨額の予算となっていた。それは前通常議会に提出された58億8000万円の3倍を超えるし、またこの経費が開設された12年9月以来成立した予算の合計額289億3500万円と比べてもその急増ぶりをうかがうことができる。

  こうした財政の膨張を支えたのは、直接には公債制度であり、その基礎として管理通貨制度を恒久化し、強化するための日本銀行法の改正もこの議会で成立している。しかし同時に、インフレ防止のためには増税も必要とされ、第七七回議会での間接税中心の増税に続いて、この議会では直接税中心の増税案が用意されていた。すなわち、所得税、法人税、相続税などの直接税の税率の引上げ、免税点、基礎控除の引下げによる増税のほか、間接税についても、織物消費税、物品税、印紙税などを増徴するとともに、電気瓦斯税、広告税、馬券税の新設などによって平年度に11億5000万円の増税をもくろむのであった。このほかにも17年度分として、煙草の値上げ(16年11月1日実施)による専売益金増1億4600万円、国鉄運賃値上げ分2億9000万円、郵便料金引上げ分8400万円が予定されており、国民負担が一挙に増大した有様をうかがうこともできる。

  国民生活に関しては、物不足に対する消費規制の拡大強化という面でも、この議会はひとつの画期をなしていた。たとえば15年6月から六大都市の家庭用・小口業務用の砂糖を対象として始められた配給切符制は、この議会中に、69府県の主要都市での味噌、醤油等の通帳による割当配給制(17年1月10日実施)、衣料品総合切符制(17年1月20日実施)に拡大されたが、この議会での法案としては、戦後にまで受け継がれて食糧統制の基本となった食糧管理法の制定をあげておかなくてはならない。

  すでに米については15年8月20日に米穀配給統制規則が公布(9月10日実施)され、16年4月1日か ら六大都市で通帳制による配給が実施されており、この間小麦粉にも統制が拡大されていたが、この法律はそれをさらに食糧全般に及ぼそうとするものであった。すなわちこれによって米、麦のすべてを政府が買い上げ、食糧営団を通じて配給あるいは貯蔵するとともに、いも類などのその他の食糧も、勅令をもって指定すれば、政府の統制下におかれることとなり、米を他の食糧で代替する総合配給制も可能となることになった。この法案でもうひとつ重要なことは、地主に対して小作米を政府に売り渡すことを命じている点であり、小作農は地主に代わって小作米を政府に供出し、その代金を地主に支払えばよいことになった。このことは現物小作料を事実上金納制に変えることであり、その後の生産者米価の引上げと小作料額の据置きによる実質小作料率の低下もあって地認主の農村支配力を著しく弱め、戦後の農地改革を成功させる条件にもなっていた。

  この議会にはまた、戦争の進展に呼応した南方開発金庫法案が提出された。この法案は条文上は南方地域における資源の開発や利用に必要な資金を供給し、通貨・金融の調整を図るために、資本金一億円、全額政府出資の南方開発金庫を設立することを規定するものであったが、実際には軍隊に続いて占領地に入ってゆくことを予定された機関であった。説明に立った賀屋蔵相は、「当分ノ間ハ本邦ト南方諸地域トノ間ニ特殊ノ場合ヲ除キ、資金ノ移動ヲ認メナイ」とし、その間はもっぱらこの金庫が資金の供給にあたるとの方針を示した。また現地軍の使用する「軍票」を現地通貨と交換するなど、その処理にあたりながら、債券を発行して「現地資金ノ潤沢ナル調達ヲ図ル」といった構想も述べられていた。

  この議会は全体としても、日本人の南方への夢を安易にふくらませようとしていたといえるかもしれない。自然休会中の2月16日には、前日のシンガポール占領を祝して両院とも本会議を開き、東条首相の所信表明、東条陸相と嶋田海相の戦況報告を聞き、陸海軍への感謝決議を可決している。また3月8日、日本軍がビルマの首都ラングーンを占領、さらに3月1日の上陸以来一週間でほぼジャワ全島を制圧、9日に蘭印軍が降伏すると、 両院は3月12日に再び祝賀の本会議を開き、同様の儀式を繰り返していた。



(3)翼賛選挙の実施―第二一回総選挙―

 第七九回議会が開かれている間から、代議士たちの関心は次の総選挙に移っているといってもよかった。前年、選挙法改正が紛糾して、結局衆議院議員の任期が一年延長されたことは前に述べたが、東条内閣は昭和16年12月には任期の再延長は行わず、現行選挙法によって総選挙を実施する方針を固めつつあると報ぜられていた (『朝日新聞』昭和16年12月4日)。また選挙に関連しては、選挙法改正よりもむしろ、形成されつつある翼賛壮年団が選挙においてどのような役割を果たすかという問題のほうに関心が集まるようになっていた。

  すでにこの年の夏ごろから、大政翼賛運動の実践団体として、翼賛会の地方組織とは別に「同志的結合」による壮年団をつくろうとする動きがあらわれ、翼賛会本部も9月24日には「翼賛壮年団結成基本要綱」を決定してこの動きを認めた。「翼壮」と略称されるようになるこの運動の性格については、もはや地域や職域の組織化に割り込むことは困難であり、「選挙を中軸とする挙国政治の地盤育成」の方向に向かうであろうと評され(『朝日新聞』昭和16年9月6日)、本部側も9月26日の支部組織部長会議において、翼壮の「翼賛選挙を期するための積極的態度は寧ろ慫慂すべきである」と述べていた(『朝日新聞』昭和16年9月27日)。

  以後、翼壮は各地で結成が進められ、第七九回議会休会中の17年1月16日には、その全国組織として大日本翼賛壮年団が結成された(団長は安藤翼賛会副総裁)。それは政府側の選挙準備に呼応するものであり、湯沢内務次官は1月28日の衆議院予算総会で総選挙を4月30日に実施するよう準備していると言明した。

  2月15日から議会が自然休会に入ると、17日には選挙準備のために、東条首相が兼任していた内相の地位に湯沢次官を昇格させ、翌18日の閣議では「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」(内閣情報局『週報』282号所収)を決定した。それは選挙に向かう民衆の意識をあらかじめ一定の内容に方向づけようとするものであり、「最適ノ人材ヲ議会ニ動員スル」ために「候補者推薦ノ気運ヲ積極的ニ醸成セシム」という点に重占をおくものであった。その基礎をなしているのは、議会を国策実現に協力する機関ととらえ、選挙とはそうした役割を果たしうる人材を探し出して、議員になることを依頼するのが本来のあり方だと考える選挙観であった。

  しかし候補者推薦制度を政府自身の手で実現することは、選挙法を変えなければ、違法な選挙干渉となることは明らかであり、したがってそのためには、いちおう政府から離れた機構をつくることが必要であった。そこで政府は2月23日、各界の有力者として33名を招いて翼賛政治体制協議会(翼協)を開催、翼賛選挙実現の具体策をつくり上げることを求めた。同会では、趣旨説明ののち政府側が退席、出席者は、この協議会そのものを政事結社として、推薦制の運用にあたることを決定した。つまり政府が有力者を招いただけで、たちまち候補者推薦機構ができ上がったというわけであった。33名の顔ぶれは次のようなものであった。

  阿部 信行 安藤紀三朗 ☆井田 磐楠 石黒 忠篤 ☆遠藤 柳作 ◇大麻 唯男 ☆大河内正敏
  ◇太田 正孝 ☆太田 耕造 ◇岡田 忠彦 ☆小倉 正恒 ◇勝  正憲 ☆児玉 秀雄 小磯 国昭
  ☆後藤 文夫 ☆伍堂 卓雄 ☆酒井 忠正 ☆下村  宏 末次 信正 ☆千石興太郎 高橋 三吉
  ☆瀧  正雄 田中 都吉 徳富猪一郎 ◇永井柳太郎 ☆平生 三郎 ☆藤原 次郎 藤山愛一郎
  ◇前田 米蔵 ☆矢吹 省三 ◇山崎達之輔 ☆結城豊太郎 ☆横山 助成    
(☆は貴族院、◇は衆議院に議席を有する者)


 まず翼協は阿部信行を会長に推し、会長指名の13名の小委員会が具体案を作成することとなり、2月28日の総会で決定されたが、その骨子は次のようなものであった。すなわち(一)翼協が全国にわたる衆議院議員候補者の推薦を行う、(二)そのために東京に本部、各都道府県に支部をおき、政事結社の届出をなす、(三)支部会員(15名ないし20名)は本部から委嘱し、支部長は支部会員から会長が指名する、(四)推薦すべき候補者は各支部で選考して内申し、本部で決定する、(五)翼協は総選挙終了後に解散する、つまり翼協は、候補者の推薦と推薦候補者のための選挙運動を行うだけの組織とし、永続的な政治団体にはしないこととした。

  これによれば政府側の「翼賛選挙貫徹運動」は、まず総選挙の告示までは政府自身や翼賛壮年団・在郷軍人会・大日本婦人会などが啓蒙運動を展開し、告示後は翼協が直接的な選挙運動を行うという形になるわけであった。翼協は3月17日、政事結社の届出をなし20日の総会で支部長・支部会員を決定、発表し、各支部は28日からいっせいに候補者の選考を始めている。本部は各選挙区ごとに定員と同じ数の候補者を推薦するよう指示して、全議席の独占をねらったが、調整のつかない選挙区もあり、全体では定員数と同じ466名を推薦しているが、 その内訳をみると、10の選挙区で定員の一名増、10の選挙区で定員の一名滅の候補者が推薦されていることがわかる。また現議会との開係でみると、現議員236名、元議員18名、新人212名で、新人の比重の高いことが注目される。新人中には、岸商相、井野農相らをはじめとする官公吏、翼賛会支部・壮年団・在郷軍入会の幹部など、これまで政党に関係のなかったものが多いが、当選の可能性という観点をも加えて、現議員の半数強も推薦されていた。

  しかし総選挙は、推薦候補一色で塗りつぶされたわけではなかった。右翼団体からは翼協は現状維持的とする反発が起こり、また鳩山一郎、川崎克らの組織する同交会は、翼協による推薦を「公選」を規定した憲法に違反するものと批判した。大日本帝国憲法三五条は、「衆議院ハ……公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス」と規定してい た。結局これらの右翼団体や同交会は、非推薦候補を立てて、政府と翼協に対抗することとなった。

  4月30日に行われた第二一回総選挙の結果は、翼協推薦候補の当選者が381名に達したが、非推薦候補からも85名が当選している。最大会派の翼賛議員同盟は197名の前議員を当選させているが、そのうち21名は非推薦であった。非推薦当選者のなかで右翼勢力は、東方会が中野正剛・大石大・三田村武夫ら6名のほか、赤尾敏(建国会)・笹川良一(国粋大衆党)・佐々井一晁(大日本党)らを加えると20名を数えたが、自由主義的な同交会のほうは、鳩山一郎・川崎克・安藤正純・芦田均ら9名にとどまった。しかしこのなかには、選挙演 説での言動を不敬罪として起訴されながら当選を果たした尾崎行雄らかおり、また先の第七五回議会で反軍演説を行って議員を除名された斎藤隆夫も、兵庫五区から最高点で当選するなど、一貫した政治批判活動にも根強い 支持のあることが示されていた。もちろん全休としてみれば、戦勝気分が東条内閣支持を通して推薦候補への投票に流れたことは明らかであり、翼協推薦の新人候補が、49選挙区で最高点で当選していた。



(4)翼賛政治会の結成と第八〇回議会

 総選挙が終わった一週間後の5月7日、東条首相は先の翼協会員に貴衆両院議員・言論界・財界代表などを加 えた70名の有力者を首相官邸に招き、「国内政治力の結集」に尽力することを求めた。これに対して出席者は、政府側退場後、全員が委員となって翼賛政治力結成準備会を発足させることを申し合わせ、翌8日には、さっそく特別委員を選んで具休案作成にとりかかっている。その過程で岸商相、井野農相、賀屋蔵相ら7名の委員が追加されているが、早くも5月14日の準備会総会において、「翼賛政治会」(略称翼政会)を政治結杜として結成することとし、その宣言・綱領・規約などを決定した。そして準備会の会員全員が主唱発起人となって各方面に呼びかけ、創立総会を5月20日に開催することとした。

  翼政会結成の方向が明らかになると、内閣の側ではこれに呼応する形で、翌15日の閣議で「大政翼賛会の機能刷新に関する件」を決定したが、これは、これまで各省が主催してきた産業報国・農業報国・商業報国・海運報国の各運動をはじめ、青年団・婦人会・選挙刷新・貯蓄奨励・物資回収などの推進から、町内会部落会の強化に至るまで、国民運動・国民組織に関する指導すべて、大政翼賛会に集中するというものであった。

  それは、政治組織は翼賛政治会、国民組織は大政翼賛会に一本化し、政府との間に三位一体の関係をつくろう とする東条内閣の構想を示すものであった。政治面では、東条内閣は第七八回議会で成立した言論出版集会結社等臨時取締法に基づく認可権を背景とし、翼政会以外の政治団体を解散に追い込んでいった。翼賛議員同盟から同交会に至る院内交渉団体も、東方会などの右翼小政党も次々と解散を余儀なくされ、翼政会が唯一の政事結社となることとなった。結局、東条内閣のいう三位一体とは、政府と無関係ないっさいの組織の存在を許さないということにほかならなかった。

  5月20日、貴衆両院議員、大政翼賛会関係者、言論界・財界・各種団体代表者、元翼協支部長など900余人を集めて、翼賛政治会の創立総会が開かれた。総会はまず、総裁に阿部信行大将を推挙したが、阿部はさっそく衆議院より前田米蔵、山崎達之輔、永井柳太郎、大麻唯男、太田正孝、牛塚虎太郎の6名、貴族院より岩分道倶、石渡荘太郎、太田耕造、岡部長景、後藤文夫、伍堂卓雄、横山助成の7名、計13名を常任総務に、また翼協事務局長をつとめた橋本清之助を事務局長に指名して体制を整えた。さらに議会活動のためには、院内総務、院内幹事、議事審査部などのほか、これまでの各派交渉会に代わるものとして、議事協議会を設けることとした。

  こうして、大政翼賛会では吸収しきれなかった議会政治の局面も、翼政会によって統合されることになり、かつて翼賛会に抵抗した代議士たちも、もはや独立した活動の余地はなくなったとみて、ついに翼賛会に加入していき、無所属に残ったのは、尾崎行雄ら8名にすぎなかった。

  翼賛会の結成が急がれたのは、すぐあとに臨時議会の開催が予定されていたためでもあった。東条内閣は総選挙後の5月4日の閣議で、5月25日召集・会期2日間の第八〇回臨時議会の開催を決めたが、情報局はその目的を「計画造船の実施確保に関する議案につき協賛を求め」るためと発表した。5月27日の開院式につぐ両院本会議で東条首相は、「大東亜ニ於ケル要域ハ、悉ク皇軍ノ占有スル所」となり、ついで日本軍のビルマや南方への進出によって、「インド独立ノ歴史的第一歩ハ正ニ始」まり「濠州ハ太平洋ノ孤児」となったと呼号して、日本軍の作戦が、第一段階から第二段階に拡大していることを示唆したが、実際には早くも、作戦の拡大に伴う矛盾が、さまざまな面で露呈しつつあった。そしてこの議会召集の原因となった輸送力=船舶問題は、そのうちのもっとも基礎的な矛盾であった。つまり作戦のための軍による輸送力の徴傭は、占領地を含めた海外からの物資の輸送力の減少を結果するものであり、第一期作戦を4か月とみて、5か月目から陸軍の徴傭船を減らして「物動(物資動員)計画」のための船舶を確保するという妥協によって、戦争が始められたのであった。そこで企画院 は、陸軍の傭船量を昭和17年3月の214万トンから漸減させて、7月以降は104万トンで安定させるという案を出したが、陸軍はもはやそれでは承知しようとはしなかった。

  すでに2月下旬からラバウル(ニューブリテン島)を占領した日本軍に対する米軍機の来襲が増加していたが、 さらに日本軍が3月7、8日、ニューギニア北岸のラエ、サラモア占領を企てると、10日には米機動部隊の反撃によって、日本側は輸送船4隻が撃沈され、3隻が中破、、4隻が小破されるという開戦以来最初の大損害をこうむるに至った。それにもかかわらず日本軍は、ニューギニア南岸のポートモレスビー上陸を強行しようとしたが、船団護衛の日本機動部隊は5月7、8日にわたって米機動部隊と遭遇し珊瑚海海戦を展開することとなり、結局上陸作戦は中止されてしまった。これは日本軍の作戦のはじめての挫折であると同時に、この方面の戦闘が消耗戦の様相を深めてくる画期でもあった。船舶問題の緊急性はますます高まっていた。

  第八〇回議会に提出されたのは、計画造船実施のための産業設備営団法改正案・船舶建造融資補結及損失保障法改正案の二法案と、それに関連した追加予算案のみであり、議会は5月27日の開院式と施政方針演説ののち、28日一日でこれらの案件を両院で可決し閉会している。ここで成立した改正法案の内容は、産業設備営団の業務に計画造船に開する事項を追加するとともに、これまで造船の場合に限られていた政府の資金援助を、産業設備営団から船を買い受ける場合にも拡大することを主眼とするものであった。これによって造船はすべて同営団の管理下におかれることとなり、営団は、政府が決定した戦時標準船の設計(量産と資材節約のため構造を簡素化)と生産計画に基づいて、造船所への発注を行い、でき上がった船舶を海運業者に売り渡しまたは貸し付けるという業務を行うことになった。しかしこれによって船舶が増産される条件は急速に失われつつあった。

  この議会は、後からみれば、ちょうど戦局の転換点に位置していた。この議会が開かれているとき、連合艦隊は大挙してミッドウェーに向けて出発しつつあったが、6月5日のミッドウェー海戦は日本側の大敗北に終わっ た。そしてその直後の6月16日から始まるガダルカナル島での航空基地の建設は、敗北の次の局面を用意することになっていた。


 無任所大臣の変遷
 昭和15年12月、近衛首相は大政翼賛会や新体制問題をめぐる内閣の動揺を防ぐために、右翼の巨頭と目された平沼騏一郎を無任所大臣として入閣させようとしたが(本文338頁参照)、その際「無任所大臣の資格」という問題に直面することとなった。

  無任所大臣とは、内閣官制(明治22年12月24日公布)一〇条の「各省大臣ノ外特旨ニ依り国務大臣トシテ内閣員ニ列セシメラルゝコトアルヘシ」との規定に基づいて任命された大臣であり、内閣官制制定の前年、明治21年4月30日、総理大臣を辞任して枢密院議長に 任命された伊藤博文に「特ニ命シテ内閣ニ列セシム」との特旨が下された前例を法制化したものであった。以後、内閣官制によって、明治22年12月24日、大木喬任、 同28年3月17日、黒田清隆、同33年10月27日、 西園寺公望に同様の特旨が下されているが、いずれも枢密院議長任命と同時であり、「枢密院議長」の職にあるものの意見を閣議に反映させようとした措置とみられた。

  その後、日露戦争に際しては、閣僚に元老を加えた御前会議が聞かれているが、以後、大正期を通じてこの無任所大臣の制度はまったく利用されなくなっていった。

  再びこの制度に眼が向けられたのは、満州事変前年の浜口内閣においてであり、陸軍側が、宇垣一成陸軍大臣の病気に伴う一時的な代理でも、他の文官大臣に兼任さ れることを拒否したことをきっかけとしていた。昭和5年6月16日、陸軍次官の阿部信行中将がこの特旨によって内閣に列せられたが、これは明治期の例とは異なり、実質的には陸軍大臣臨時代理にすぎないものを、軍部の統制権独立の主張を受け入れるために無任所大臣制を利用したという変則的事態であった。

  その後また9年間この制度は利用されなかったが、14年1月5日の平沼内閣成立に至って、前内閣の東亜新秩序声明=汪兆銘工作路線が連続していることを示すために、枢密院議長に就任した近衛文麿前首相が無任所大臣に任命されている。ついで翌15年7月22日の第二次近衛内閣の成立にあたっては、星野直樹企画院総裁を  「内閣員ニ列セシム」る旨の特旨が下されているが、こ れは、省より小規模な新たな機構としての企画院の長を 閣議に参加させるというこれまでにない目的を持った措置であった。

  近衛首相は、さらに、この制度を内閣強化のために利用し、平沼騏一郎の入閣を図ろうとしたわけであるが、 ここで、これまでの無任所大臣はその任用の目的はさまざまであっても、いずれもその官職(枢密院議長、陸軍次官、企画院総裁)に伴なって閣議に列することになっているのであり、官職のない者を任用することは制度の趣旨に反するのではないかとの疑義が出されてきたのであった。平沼はすでに、司法大臣から枢密顧問官・枢密院副議長・同議長、さらには総理大臣まで経験したとはいえ、この時には何の官職にもついていないことが問題となったのであった。

  これに対しては、従来の規定で民間人を起用しても差支えないとする解釈も唱えられたが、近衛内閣としては、枢密院の諮詢を経て、15年12月6日、「内閣官制第十条ノ規定ニ依り国務大臣トシテ内閣員ニ列セシメラルル者ハ親任官トス、前項ノ規定ニ依ル者ノ員数八三人以内 トス」との勅令弟八四三号を公布して、無任所大臣の地位を強化・安定させる措置に出たのであった。この規定の意味するところは、無任所大臣も他の官職を有すると否とにかかわらず、各省大臣と同格の親任官としての国務大臣に任命されるというのであり、しかもその員数を3人以内と規定することによって、無任所大臣を常置す ることを予定したものであった。

  この規定に基づいて、これまでは勅書が渡されるだけであったのに対して、無任所大臣の就任にあたっても親任式が行われ、「任国務大臣」の辞令も渡されることになった。12月6日、平沼と同時に、従来の無任所大臣であった星野に対しても改めて親任式が行われたが、星野の場合には今度は国務大臣のほうが本官となり、辞令には「任国務大臣兼企画院総裁」と記されていた。

  以後の内閣には、この規定に基づく無任所大臣を常置するようになり、その数も東条内閣の時代に「6人以内」 に増員された。そしてこの点は、さらに戦後の新憲法に基づく内閣法にも実質的に受け継がれている。


―主要参考文献・史料―

下中彌三郎編『翼賛国民運動史』昭和29年 翼賛運動史刊行会
伊藤隆『近衛新体制』昭和58年 中央公論社
赤木須留喜『近衛新体制と大政翼賛会』昭和59年 岩波書店
中村隆英・原朗「経済新体制」日本政治学会編『近衛新体制の研究』昭和48年 岩波書店
風見章『近衛内閣』昭和26年 日本出版協同
日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』第5・6・7 巻 昭和38年 朝日新聞社
防衛庁戦史室『大本営陸軍部』第2・3巻 昭和43・45年 朝雲新聞社
参謀本部編『杉山メモ』上・下巻 昭和42年 原書房
外務省編『日米交渉資料』昭和53年 原書房
東郷茂徳『時代の一面』昭和27年 改造社
木戸幸一『木戸幸一日記』下巻 昭和41年 東京大学出版会
矢部貞治『近衛文麿』下巻 昭和27年 弘文堂
保坂正康『東条英樹と天皇の時代』上・下巻 昭和54・55年 伝統と現代社
松岡洋石伝記刊行会編『松岡洋石』昭和49年 講談社