『「満洲国」の研究』 第1部 「満洲国」の成立 第2章

1993年3月

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「満洲国」の創出



 

古屋 哲夫

はじめに
1満洲建国路線の形成
2建国過程の諸側面
3満洲国の基本構造
むすび

註釈

2建国過程の諸側面
@連省工作と奉天支配

A関東軍の行政指導体制
B自治指導部をめぐって
C国家構想の問題点―自由・協和・自治―
D建国強行の諸条件


2建国過程の諸側面



@連省工作と奉天支配

 関東軍は中国側独立運動への対抗と抑圧を意図して建国路線への転換を決定した以上、その態度を早急に明確にし、公表することが必要であった。10月4日、関東軍司令部が張学良政権に対する関係断絶の声明26)を発し、同8日には奉天から撤退した張学良政権の次の拠点である錦川に爆撃を加えたのは、その様な路線の転換を明示したものであった。

  4日の声明はまず、敗退した張学良軍が「到ル処集団シテ暴戻ヲ恣ニシ」「匪徒ト化シ秩序破壊ノ限リヲ尽」したとし、「之等ノ徒輩ヲ隷下トセル旧東三省政府ニ対シ同等ノ位置ニ立脚 シテ国際正義ヲ論シ得ヘキヤ、外交交渉ヲ談シ得ヘキヤ」と述べて、張学良政権との関係を断つことを明らかにした。そして、「軍ハ政治外ニ超然トシテ専ラ治安ノ維持ニ任シ」ているとしながらも、「固ヨリ軍ニヨリ治安ヲ維持セラレアル奉天省城内ニ政権ヲ樹立シ或ハ密ニ此処ニ策謀スルカ如キハ断シテ之ヲ容認セス」として、先の「満蒙問題解決案」の文言に「策謀」 まで含めてより強硬なものとして公表したのであった。  

  さらに声明は、「然レトモ満蒙在住三千万民衆ノ為共存共栄ノ楽土ヲ速ニ実現センコトハ衷心熱望シテ已マサル所ニシテ道義ノ上ヨリ之ヲ観ルトキハ速ニ之カ統一ヲ促進スルハ蓋シ我皇国力善隣ノ誼ヲ発揮スヘキ緊急ノ救済策ナリト信シアリ」と続いている。この文章ははなはだ読みづらいものであるが、その要点は、日本人を含む「三千万民衆ノ共存共栄ノ楽土」としての独立国の建設を促進することが日本の道義的任務だと主張する点にあったといえよう。

  この声明は日本の新聞にも全文掲載され、その反響について片倉参謀は「本公表文は爾後異常の反響を与へ軍の外交権の侵害なりとか、軍が政治に干与すとか、論難之れ事とせられ、殊に枢府、内閣方面の空気悪化す、然れ共一方国民輿論を激憤熱狂せしめたることは与って力ありしなり」と述べているが、こうした反発が必至であったとしても、関東軍にとっては、この時点での態度の明確化が必要であったと思われる。そして同時にまた、満蒙独立運動を掌握するためには、独立過程についての構想をも明確にして行かなければならなかった筈である。

 

関東軍が新政権樹立に動き出した当初には、9月26日に次のような構想27)が立てられていた。

(一)

九月二十八日に煕洽に独立を宣言せしむ。
引続き張景恵、張海鵬、千し(くさかんむり+止)出に独立を宣言せしむ。

(二)

奉天省城内は一週間位の後張学良を推戴せざるの決議を声明せしむ。

(三)

溥儀は先ず吉林、次いでとう(さんずい+兆)南に位置せしむ。

(四)

各方面に顧問を附す。吉林……大迫中佐   哈市……吉村予備中尉   張海鵬・甘珠爾児……和田 勁・甘粕正彦


  それは簡単にいえば、奉天とその他の地方とを別々に処理するという二元的構想であり、奉天では関東軍が直接に、その他の地方には顧問を送り込んで指導し、拠点としては吉林ととう(さんずい+兆)南、 とくにとう(さんずい+兆)南を重視するというものであった。

  そして関東軍の目標が「独立国家建設」に転換されるとともに、この構想のうえに、「独立」 にともなう問題が付加されねばならなかった。つまり「独立」は中国中央の国民政府からの独立であるとともに、形式的には日本からの独立でもなければならなかったが、すでにみてきたように、関東軍はこの「新独立国家」に対する独占的指導権を要求しているのであり、その点を「独立」の条件のなかに最初から組み込んでおくことが必要と考えられたのであった。前述の「満蒙問題解決案」なかには次のように記されている。

 

確乎タル新政権成立セハ(其位置とう(さんずい+兆)南ト予定ス)……左記条件ヲ容認セシメタル後其独立ヲ認メ楽天ヲ之ニ交付ス。

1、

新独立国ノ政治八日支(蒙古ヲ含ム)同数ノ委員ニ依り之ヲ行ヒ各民族ノ平等ナル幸福増進ヲ図ルヘキコト。

2、

国防ハ之ヲ日本ニ委任ス。

3、

鉄道(通信)ハ之ヲ日本ノ管理ニ委ス。


  このうち「日支同数ノ委員」とは、「平等」の観点からではなく、後の「内面指導」に通じるような政治的発言権の確保の要求とみるべきであろう。つまりここで想定されているのは、日本側に指導された独立運動→新政権樹立と、日本側の奉天支配とが平行的に進行し、最後に両者は日本の政治的発言権と軍事・交通等の支配とをその中枢に包み込む形で「新独立国」に統合される、という過程に他ならなかった。

  しかしこの構想は、独立運動が「確乎タル新政権」を作り出すという前提が崩れることによって、すぐさま修正を余儀なくされることとなった。

  当初関東軍側が、吉林ととう(さんずい+兆)南を新政権の拠点と考えたのは、煕洽と張海鵬に期待したからであった。このうち吉林の場合には、進出した日本の軍事力を背景として、9月28日照洽が自ら長官となって独立を宣言28)し、民政庁長孫其昌以下の首脳部を任命29)して省政府と称した。 これに対してとう(さんずい+兆)南の場合には、石原参謀が「とう(さんずい+兆)南は元来将来の政権樹立の為、張海鵬をして治安に任ぜしめ我兵を派遣せざるを有利とする30)」との意見であったとされるように、日本軍の直接の進出なしに、独自に親日政権を樹立し蒙古の勢力をも吸収し得る拠点と考えられていたと思われる。しかし実際には、張海鵬はその期待に応えるほどの力はなく、日本側から資金や武器の援助31)を得て10月1日になってようやく独立を宣言したが、その後も黒竜江方面の制圧をのぞむ日本の要求に対して、「張海鵬は軍事費輸送材料の不足を名とし敢へて容易に出動せず32)」という状態であった。結局、とう(さんずい+兆)南に「確乎タル新政権」が樹立されるという期待は、消滅せざるを得なかった。

  この結果、関東軍参謀部も各地の独立運動を統合して新政権を作るという構想を捨て、まず従来の省政府を親日的なものにし、省の連合の上に新国家を作るという方針に転ずることとなった。奉天の場合にも、親日的省政府を立てることが、連省的結合を演出するうえで必要とされたが、このレベルでの工作は、各省の有力者を集めて各省の代表とするということに重点を置くものであり、統治の実際に触れるものではなかった。

  しかし新国家の創出を企てる以上、既成の有力者を勢揃いさせて事足りるわけはなく、新しい統治の内容とそれを支えるイデオロギーを生み出す必要のあることは明らかであった。そこから、奉天省行政の改革を実現して「善政の実」をあげ、新国家の統治の見本をつくり出そう という発想が生み出されていった。

  10月24日には、関東軍司令官の決済を得た新しい「満蒙問題解決の根本方策33)」が決定されたが、そこには次のように述べられている。(なお、張作霖時代の奉天省は張学良の易幟後こ遼寧省と改称されている。)

 

一、

遼寧省には我方の内面的支持に依り特異の行政府を樹立し善政の実を挙げ、此間吉黒両省の親日政権の迅速なる確立並安定を期す。
熱河省に対しては逐次形勢の好転を侯つ。

 

二、

吉黒両省の政権略ぼ確立するや直に我方の内面的支持に依り拙速を旨として右両者並遼寧省行政府の連省統合を行ひ、並に我要求条件を容認する新国家の樹立を宣言せしむ、且同時に奉天省城を主都たらしむ。


  ここで両項目にわたって強調されている「我方の内面的支持」は、やがて「内面指導」の用語に置き換えられて行くのであり、独立運動→新政権樹立工作と奉天支配との二元的進行という構想は、かくして、「内面指導」を軸として、従来の省機構の掌握による連省工作と奉天周辺からの行政改革の実現という方向に転換されることになるのであった。そしてそこには、状況をこの方向に打開して行くためには、軍事力を積極的に使用して行くという意図が秘められていた。つまりこの転換は、黒竜江方面の制圧を張海鵬軍に期待しがたく、日本軍の進出を必要とするという判断を基礎とするものであった。

  10月下旬以降、関東軍は黒竜江省の実権を握った馬占山軍に一撃を加えるための北進を企図 し、これを抑制しようとする軍中央部との折衝を重ねているが、結局11月4日から6日の嫩江作戦についで、18日からの総攻撃で19日にはチチハルを占領34)した。しかしここでは、親日政権の樹立のための有力者を押立てることが容易でなく、翌32年1月1日になってようやく、それまで日本側から期待されながら躊躇していた張景恵が馬占山の了解を取付けて黒竜江政府の独立を宣言するに至っている。

  この間、遼寧省では11月7日に地方維持委員会による独立宣言が布告され、同20日には奉天省と改称、12月15日には臧式毅を首席とする奉天省政府が成立35)した。こうした「拙速を旨とし」た連省工作の進展に対して、奉天省では「善政の実を挙げ」るとのスローガンを掲げ、「独立」に対応する統治の内容を作り出すことを目指して、日本人指導の行政が、「自治」の名のもとに展開されてゆくのであった。



A関東軍の行政指導体制

 関東軍が、奉天軍政を単に治安維持のための一時的措置と考えていたわけではなく、むしろそれを起点として、軍の力を背景とした行政への介入=行政指導を一般化してゆこうとしていたことは、9月27日、関東軍命令として各部隊に達っせられた「占領各地善後要綱36)」にう かがうことが出来る。そこには方針・要領として次のように記されていた。

 

行政指導ノ目標ハ一視同仁ノ主義ヲ体シ日支両民族ノ福祉ヲ図リ既往ニ於ケル支那軍閥政治ノ弊風ヲ去り住民ヲシテ帝国ノ国威ヲ謳歌セシムルニ在リ。
行政ハ支那人ヲシテ自ラ実施セシムルヲ本旨トスルモ占領後旧支那側官吏ノ離散、市井ノ混乱、人心ノ不安等ヲ顧慮シ軍ニ於テ所要ノ指導ヲ為ス。


 ここでは、行政指導の必要の根拠として「旧支那側官吏ノ離散」などを挙げているが、それは日本軍の軍事行動に対する反対や抵抗の結果であり、日本軍の進出にともなって必ず起こっ てくる現象といえる。したがってこの「要領」でゆけば、日本軍とともに行政指導が必ずやってくることとなろう。しかも「軍閥政治ノ弊風ヲ去リ」「帝国ノ国威ヲ謳歌セシムル」こと、つまり張学良の統治に反対し日本の発展を支持させるという行政指導の目標を掲げることは、その実現のために日本人の行政指導員を送り込むことを前提とした方針であったといえよう。

  さきの建国路線への転換を示した10月4日の声明の直後には、関東軍内部では次のような文書が作成されていた。

 

満蒙権益確立要領(10、5起案 10、6訂正)37)

其一  方 針

満蒙ヲ帝国ノ実質的支配下ニ統制シ以テ日支両民族ノ共同発展ヲ期ス。

其二  要 領

一、

邦人ヲ速力ニ公私諸機関ノ細胞ニ食入ラシメ実勢カノ把握ニ務ム。

二、

統一セル新政権ノ確立ヲ待タス速カニ各地ノ新タニ独立セル政権ヲ指導シ逐次商租問 題ヲ初メ凡ユル不当圧迫ノ実質的解決ヲ実現ス。

三、

学良及其政府ノ資本ニ属スル諸企業ハ邦人ノ指導ニ依リ復活セシム。


其三  実施ノ綱概

一、

新ニ出現スル各地ノ政治機関ハ邦人ヲシテ指導セシメ逐次之ヲ各県ノ細胞ニ及ホス。

二、

警察機関ハ速力ニ地方ノ安定ヲ期スル為鉄道沿線ヲ中心トシテ逐次側方ニ其勢カヲ拡張ス。

三、

従来政治諸機関ヨリ出シタル不当ナル命令就中排日的指令ヲ廃棄シ親日主義ノ命令ヲ宣布セシム。


 この「要項」の眼目が、邦人=日本人を各種機関の指導的地位に送り込むことにあるのは明らかであるが、この時期にすでに「各県ノ細胞」にまでねらいをつけている点は注目しておかなくてはならない。関東軍は9月23日に早くも、軍に接近してきた「青年連盟の運動を合流」 させることを決定38)しているが、こうした人材を確保しえたことも、県レベルまで展望にいれた指導体制を構想する条件となっていたことであろう。

  満洲青年連盟の10月23日付の報告39)によれば、まず金井章次理事長以下の理事・支部長等8人が軍司令部の無給嘱託となり、ついで各地の支部長等13人が加わり、10月17日までに瀋海鉄道・半天電話局・マッチ印税の整理を完了させ、東北交通委員会の設置、被服廠・兵工廠・ 迫撃砲廠・東北大学工場・東北工務局・財政庁・実業庁・煙税の整理などの事業を進行させていたという。

  同連盟の幹部・山口重次は「10月12日の会議で、軍から青年連盟に、奉天市の行政と官営事業復活を一任された」と回想40)しているが、この頃にはすでに、関東軍の経済顧問として駒井徳三、国際法顧問として松木侠の任用が決定しており、ついで日本人を顧問・諮議とする行政指導の体制が制度化されようとしていた。

  関東軍は10月19日、「行政機関顧問諮議等ノ選定内規41)」を定めて「各機関邦人顧問及諮議等ノ選定ニ関シテハ予メ軍参謀長ノ承認ヲ受クヘキモノトス」と規定し、さらに翌日決定の「行政機関邦人顧問及諮議服務要領42)」には、「顧問及諮議ハ業務ノ樞機ヲ把握シ各機関ノ主要業務ハ必ス主席顧問ノ承認ヲ受クルニ非サレハ発動セシメサルモノトス」「顧問及諮議ハ軍ノ統 轄ノ下ニ業務ニ服ス。各機関ノ主席顧問ハ常ニヨク軍参謀部及最高顧問ト連絡シ其意図ヲ承知シアルヲ要ス」との規定が置かれていた。

  これによれば、行政機関の枢機は顧問及諮議に把握され、その顧問及諮議は関東軍参謀長の承認の下に選定されるばかりでなく、日常的に関東軍の統轄の下におかれることになるわけであった。さきにみた「我方の内面的支持」とは、このように行政に密着した内面に「顧問及諮議」が位置し、さらにその内面に関東軍(直接には参謀部)が居るという二重の構造をもつものであった。そしてこの構想によって、早速具体的な機構づくりが始められている。

 土肥原市長のもとに置かれていた奉天市政は、この頃には趙欣伯を市長とする中国側に移管され、10月20日に就任式が行われている43)が、そこには顧問・中野琥逸、諮議・大迫幸男・ 後藤英男の名がみられる44)ように、中国側への実質的な市政の返還ではなく、新しい行政指導体制への移行であり、独立国を目指す全般的な機構づくりの一環として位置付けられるものであった。

  新しい機構づくりの方針は、前述の「服務要領」に附録として付けられている「遼寧省政治機関復活要領45)」に示されているが、その特徴は、「機関ノ組織及政治ノ実施ハ善政主義ト邦人ノ実権掌握トヲ基調トス」としたうえで、地方維持委員会の名目によるものと、関東軍直轄のものとの二元的な機構が構想されている点であろう。

  まず地方維持委員会には、金井章次を顧問、黒柳一晴・升巴倉吉・甘粕正彦を諮議として、遼寧省機関の復活に当たらせるが、「政治運動ニ利用セシメサルタメ省政治機関ノ組織ハ緊急ノ必要ニ依ル最小限度」とし、当分の間、財政庁・実業庁・法院の三機関にとどめるという方針がとられた。具体的には、地方維持委員会がその組織や権限を規定した臨時弁法を作成し、長官を選定して関東軍司令部の承認を得るという方式46)がとられ、10月19日には遼寧省財政庁(長・翁恩裕)が、10月21日には同実業庁(長・高毓衡)と法院(長・趙欣伯)が開庁47)している。

  この両庁の関庁が急がれたのは、財政庁には「税制ノ改正並予算ノ編成其他二関スル実行案 ヲ作製」するための財政整理委員会、実業庁には「各種産業ノ指導統制ニ関スル実行案ヲ作製」 するための産業計画委員会を設置することとされていることにみられるように、これらの業務の掌握が、国家建設を見通すためにも必要と考えられたからであろう。

  遼寧省機関の復活と同時に、省を超える機構としては、「東北四省全般ノ交通統制」のために「軍直轄機関トシテ交通委員会48)」が組織され(10月23日成立)、また軍事面では、「軍隊ハ独立シテ軍司令官ノ直轄トシ省及県、市ノ各機関ハ軍隊ノ所持ヲ許サス49)」として、省長が 軍隊の指揮権を持つような事態を排除したのであった。そしてそれは軍事と交通は日本側が掌握するという新国家構想が、具体的に歩み出したことを意味するものでもあった。

  以上に見てきたような機構造りが、さきの方針にいう「邦人ノ実権掌握」に力点を置いていることは明らかであるが、それはその「実権」の運用が、方針のもう一つの目標である「善政主義」によって為されるということで正当化される、という構造をもっいるように思われる。

  「善政主義」に関連しては、「施政指導ノ主眼ハ旧来ノ軍閥的弊風ヲ打破シ善政ヲ施行スルニ在リ」「徴税ハ善政ノ主旨ニ則り軽減ニカム」と述べられているだけであり、これだけでは具体的なイメージがつかみにくいが、機構造りの方針全体からみると、地方自治の指導を通して「善政」を具体化することが意図されていたといえよう。

  さきの遼寧省機構復活を最小限度にとどめるとの方針は、直接には民政や教育に関する機関、 つまり民政庁や教育庁は当面復活させないということを意味しており、この分野は省から独立の指導機関の下で、まず地方自治の問題として処理するという方針がとられていたのであった。

  そこには、これまで軍事をも含めて軍閥支配の拠点となっていた省の力を弱めて中央集権的な体制を作ろうとする意図と、統治の実態を変えて民衆をつかむためには省機構を通してではなく、直接により下部の県のレベルに働き掛け「善政」を実現しなければならないという認識とを読み取ることができる。

  要するにここでは、省政・関東軍直轄事業・地方自治という三つのレベルでそれぞれ独自に行政指導を展開することが構想されていたといえよう。そこで次には、この地方自治の問題を もう少し立ち入って検討しておきたい。



B自治指導部をめぐって

 自治指導部の問題を最初に取り上げたのは、前述の「遼寧省政治機関復活要領」であり、そこには「以上ノ各機関(省など…引用者)ヨリ独立シテ別ニ指導部ヲ新設シ自治機関タル各所民衆ノ啓蒙政之カ精神的統合ニ任シ反逆行為ヲ防止ス」トノ規定が置かれていた。そしてそれを 保障するために、指導部の経費は「省ノ負担」とされたが(指導員は省から費用を受け取って県に 出掛けて行くことになる)、県の行政は省から独立して施行できるように、「省ノ財政ハ間接税ニ依り直接税ハ自治機関タル県、市ニ委譲スルヲ本則トス」として、県には独立の財源が与えら れていた。

  このように、省のレベルと県のレベルとを分離したことには、この時点では、連省工作から 新国家建設への展望が必ずしも明確でなかったことも関わっていたと思われる。自治指導部の設立に当たったのは、満鉄社員(課長)で満洲青年連盟幹部の中西敏恵らであるが、彼に対して板垣関東軍参謀は「新しい政権が何時出来るか今の処一寸見当がつかん。……二年かかるか、三年かかるか、或は五年かかるか一寸判らない。……従って一日も早く秩序を回復し、治安を維持し、中央政権の如何に拘らず、各地方各県が夫々独立して生きて行ける様にしなければならぬ。その方法を考へて貰ひたい50)」と指示したという。関東軍首脳部は、有力者を集めて中央政権の形をととのえるという仕事がおくれた場合をも考慮して、それとは切り離して直接に県レベルを掌握することを急ぎ、新国家の実質を作り出そうとしていたのであった。

  10月24日に決定された「地方自治指導部設置要領51)」はまず、満鉄沿線の各県から自治を 施行し漸次拡大することとするが、その内容は「軍閥ト関係アル旧勢カヲー掃シ県民自治ニヨル善政主義ヲ基調トス」との「方針」を掲げた。そして次のような実施過程を想定していた。 すなわち、自治指導部は「日本人ヲ以テ主体トス」る県自治指導委員会を組織し、その指導によって「各県ニ於ケル有カナル個人又ハ団体ヲシテ県自治執行委員会ヲ」結成させる、同委員会は、従来の県知事を廃して県政の実施に当たる、さらに「善政」の具体例としては、「悪税 ノ廃止、県吏ノ待遇改善、各民族ノ融和、旧軍閥トノ絶縁」などの項目が掲げられていた。ここでは建国工作とは、満鉄沿線から県政の実権を奪取して、県を次々に親日派のもとに囲い込んで行くものとイメージされていたといえよう。

  自治指導部は、于冲漢を部長、中西敏憲らを顧問として11月1日に成立、同10日に自治指導部条例52)が公布され正式に発足しているが、同条例によれば、奉天に設置された本部は統務・ 調査・連絡・指導の4課と自治監察部・自治訓練所からなり、そこから各県に自治指導員を派遣することとなっていた。指導員は主として、満洲青年連盟と笠木良明・中野琥逸をリーダーとする大雄峰会から起用されたようであり、中西は11月22日の青年連盟支部代表者会議で、すでに満鉄沿線21県中17県に指導員を派遣したこと、指導部の構成は「地方総数50名、本部30余名、内連盟関係27名・雄峰会28名・其他33名」となっていることなどを報告53)している。もっとも指導部の活動はこの正式発足以前から実質的に始められており、例えば、11月25日に自治執行委員会(指導委員長甲斐政治、委員石垣良隆・紀藤義也・末廣栄二)の始政式が挙行された鉄嶺県では、「去月27日以来奉天指導部本部より専任指導員2名」が着任して準備に当ったと報ぜられている54)

  指導部の活動について当時の青年連盟の幹部・山口重次は、「自治指導部は、はじめは満鉄沿線の16県に実施する予定で発足したのだが、この16県はどこにも青年連盟の支部があって、全員が直接、間接に手伝ったので、たちまち実績があがってしまった。そこで、つぎには 鉄道沿線から遠く離れた奥地の十数県に自治指導員を派遣することになった55)」と回顧しているが、その「実績」の中身は明らかでない。当初の方針である従来の県長を廃して自治執行委員会を結成させるという観点からみた31年末の状況は、12月30日付けの「満洲日報」によれば次のようであったという。

  すなわち、この記事56)は「奉天新政権成立後、省内各県政府は自治執行委員会若くは県公署と改称したが、于し(くさかんむり+止)山・張海鵬両氏の勢力範囲各県は未だ改称せず依然県政府として知事を 県長と称している」として、奉天省の県をその点で区分すると、自治執行委員会が9県、県公署が11県、県長が25県、その他錦州政府(張学良)勢力圏が12県と分類している。

  もっともこの執行委員会方式がどのように意義付けられていたのか明らかではなく、実際には、山口重次が「満洲で民衆を組織するには、いろんな方法があるが、一番簡単なのは、農務会、商務会という既存の民間組織を利用することである57)」と述べているように、既存の組織の幹部たちに税負担の軽減・贈収賄の打破などの目標を示して協力を求めるといった活動に力点が置かれていたものと思われる。

  そしてその背後には、中国社会とくに農村では、国家意識が稀薄である反面、国家から切れた自治の伝統は強力に保持されているという認識が一般的に存在していた。例えば自治指導部が成立と同時に発した「宣伝第一号58)」には「自治指導部の指導の目標は、都市及び農村旧社会に対して、伝統的自治体たる家族制度―公祠―土地廟制―同業組合並に宗数的外皮を冠する諸種の民衆団体の伝統を基調とし、地方の文化的・経済的発展段階に従ひ、民生の向上に資せむとするものである」と述べられているが、それは「伝統的自治」を温存しそれに依拠することができれば、政権を目指す政治運動を弾圧しても、中国社会を統治できるという考え方を 基礎とするものであった。

  結局自治指導部は、日本の軍事力によって旧来の省レベルの力が解体されているという条件のもとで、県レベルの自治の掌握に一定の役割を果たしたとみることができるが、同時にその過程で、建国工作にイデオロギーを注入し、国家構想をめぐる論議を生み出した点にも目を向けておかなくてはならない。



C国家構想の問題点―自由・協和・自治―


 関東軍は10月初旬より自治指導部の設置にかけて、青年連盟や大雄峰会のみならず、すでに 中国研究者として著名であった橘樸とも接触している59)が、それは満洲国にいたる国家構想づくりへの着手と関連していたと思われる。そして10月下旬からは、次々と新国家案が登場してくることになる。

  まず10月21日、「国際法顧問松木侠は車板垣、石原各参謀等と数次の意見を交換し」「満洲建国第一次の具体的策案」として「満蒙共和国統治大綱案60)」を作成した。この案日本との関係を大きく扱っている点が特徴であり、新国家そのものに関しては、政体は立憲共和制とし、 大総統の下に立法・司法・行政・監察の四院を置く、立法院は上下両院より成り、下院議員の選挙は制限選挙とする、などの骨組みを示しただけのものであった。また統治方針として「成るべく官治行政の範囲を少くし官吏を減少し自治的行政を行ふ」との項目がみられるものの、その自治の内容は明らかでなく、民族問題については「満洲と蒙古の行政区画を確然と区別し蒙古人をして漢民族の圧迫より免れしむ」と述べられているにすぎなかった。

  これに較べるとその翌々日の23日に関東軍司令官に提出された満洲青年連盟の「満蒙自由国建設綱領61)」は種々の特色を持つものであった。まず中央政府には、総統・副総統・中央執行委員会を置くというのであるが、それは「南京政府ニ対抗スル意味ニ於テ組織形態ハ同政府ヲ参照」した結果であった。つまり国民党なき国民政府とでもいうべき構想であり、中央執行委員会は「各省ヨリ選出又ハ推薦セラレタル代表ヲ以テ組織」されることになっていた。前述の松木案の四院制も中国の伝統に依拠したものではあるが、そこにはこのような南京の国民政府への強烈な対抗意識を読み取ることはできない。

  しかもこの案は、国民政府の組織形態に依拠しながら、そのナショナリズムを「民族協和」 により解体することを狙ってもいた。すなわち、「居住各民族協和ノ趣旨ニヨリ自由平等ヲ旨 トシ現在居住者ヲ以テ自由国国民トス、但シ外国官吏及軍人ヲ除ク」との規定は、他国の国籍を有する者(官吏と軍人以外)も満洲に居住すればこの国の国民とすることを意味するものであり、満洲在住日本人は日本国籍のままこの自由国国民となれるのであった。そしてそこから、 日本人もこの国の国民として堂々と正面から政治に参加すべきだ、「日本人ガ顧問又ハ諮議トシテ政治二関与スルコトハ面白カラズ、国家ノ直接構成分子トシテ参与スルヲ得策トス」との主張も導き出されてくることになった。

  さらにそのうえに、「民族協和ノ趣旨ニヨリ徹底的門戸開放主義ヲ計」るという主張を重ねてみると、「自由国」とは、誰でも自由に国民になれる国という意味で選ばれた名称であった と考えられてくるのである。しかしこの「自由」と諸民族の「協和」がどのように結び付き、 その「協和」がどのようにして保証されるのかといった問題は明らかでない。この案のもう一 つの特徴としては、「軍閥ヲ排シ徹底的文治主義ニヨリ支那本部ヨリ分離シ、東北四省ノ経済的文化的開発ノ徹底ヲ期ス」として「文治主義」を標傍している点をあげることができる。ここでの「文治主義」とは、軍事力を統治の手段にしないということであろうが、それは軍事的な問題は日本に任せて、独自の軍事力の発展を企図しないということを前提とするものであり、いわば日本の軍事力の傘のもとでの「文治主義」にほかならなかった。

  この案は、関東軍側に一定の影響を及ぼしたと思われる。11月5日の陸軍大臣の指示が、新政権の支那本部=国民政府との絶縁について明確な態度を示さないことに反発した関東軍参謀たちは、11月7日には、「軍の企図する所は一の自由国の建設にして、対世界的完全なる所謂国家の形式を謂はざるも、支那本土の凡百の政権とは完全に絶縁するものとす」との方針を決定62)している。この「自由国」が青年連盟の案に依拠したものであることは、この決定を基礎として松木侠が新たに起草した案が「満蒙自由国設立案大綱63)」と題されているばかりでなく、その「綱領」の最初に「軍閥政治を排除し文治主義に依りて統治を為す」との項目が掲げられていることからもうかがうことができる。

  といっても、この案が青年連盟側の発想を全面的に受け入れているというわけではなく、基本的にはさきの「満蒙共和国統治大綱案」を受け継ぐものであり、従って青年連盟案との相違も一層明白となっていた。

  第一には、青年連盟案では「自由国」の基礎とされていた「民族協和」の問題が全く取り上 げられていないという点である。すでに見たように、青年連盟案でも「自由」と「協和」の関連は明らかとはいえなかったが、この案はその弱点をついて、「自由国」の意味を日本人の自 由を中心とするものにとらえなおしており、「自由」については、「内外人に対しては出来る丈 け平等の取扱を為し、従て帝国臣民の満蒙自由国内に於ける活動は何等差別を設けず自由なら しむ」と述べられているに過ぎない。

  第二の相違点としては、「自治」の位置付けの違いをあげておかなくてはならない。すなわち青年連盟案では、県を自治の単位として、「県民ノ選挙シタル者及県知事ノ推薦セル地方ニ於ル学識又徳望アル者」をもって「県自治会」を、「各県自治会ヨリ選挙セラレタル代表者」 をもって「省執行委員会」を、「各省ヨリ選出又ハ推薦セラレタル代表」をもって「中央執行委員会」を組織するというように、県の自治を基礎にして政治機構を組み上げている。これに対してこの松木案では、自治を県市のレベルに限って認めるというものであり、地方に対する関心はむしろ、これまで軍閥の基盤になっていた省の権限を縮小して中央政府に集めるという中央集権化の方向に向けられていた。

  つまり建国工作はすでにみてきたように、「連省自治的に中央政府を作」ることから始めるが、その後は「漸次中央政府の権限を拡張し殊に軍権、司法権、税権等を統一して各省区の権力の縮小を図る」ことを目的とするというわけであった。そしてそのことが可能なのは、地方での自治が中央と切り離され、中央を拘束しないという条件を前提としているからであり、その点については次のように述べられている。

 

国家建設の作用は下層政治機構即ち県市の自治を完成せしむると同時に上層機構即ち省の独立を確認し漸次中央機構の樹立を期す。
即ち右両作用は同時に之を実施し上下両機関の連絡統制を完全に行うを要す。


 ところがこの案には、「満蒙独立国は民主政体たる可きものなり」「満蒙独立国は立憲政体とす」という項目も含まれているのであるが、そこでもその「民主」や「立憲」は、「下層」から「上層」を制限・統制するような内容を持たないように規定されていることに注意しておかなくてはならない。すなわち「民主政体」とは「実際上民意に基く政治を布き得る制度」であり、従って「元首―君主なりと大総統なりと将又委員長たるとに論なく―たるものは民意を代表するものたらざるべからず」、いいかえれば、君主を戴いていても、その君主が民意を代表していれば民主政体だというのである。しかもその民意については、中国の伝統思想では「天子は天命を行うもの即ち今日の言を以てすれば民意を代表するものたらざる可らず」と述べられているだけであり、それでは「天命」が「民意」だということになろう。つまり天子が天命によって善政を行えば、それは民意を代表する民主政治だということになり、民主主義によって民意を形成する必要などなくなってしまうのである。

  なお付け加えておけば、この案がつくられた3後の11月10日には、溥儀が土肥原の策謀による暴動に紛れて天津を脱出し、18日には旅順に到着している。

  こうした「民主政体」の理解からいえば、立憲制の内容も制限されたものになるは当然であっ た。「立憲政体」については次のような説明がなされている。

 

立憲政体とは立法、司法、行政の三権を分立し各々独立の機関に於て之を分掌せしめ互に相侵犯せしめざること並に人民代表より成る機関をして国政特に立法に参与せしむること是れ法律的意義に於ける立憲政体なり。而して立憲政体の政治的意義は代議政治にして議会に多数を制する政党が内閣を組織するの義なり。満蒙独立国を立憲政体と為すの意は単に法律的意義に於て然するのみにして政治的意義に於ける立憲政治は之を執らず。その理由は満蒙に於ける民衆の政治意識が未だその領域に達せざるものと認めらるるが故なり。


 ここで求められているのは、三権分立の形式であり、政党に媒介された代議政治を排除するのであるから、「人民代表」もまた形式的なものとなるのは必然であったといえよう。すなわちこの案は、「自由」「民主」「立憲」などの用語を用いながら、これらの用語が一般的に意味しているような内容を持たないものであるが、さらに「満蒙独立国」といいながら、その独立性をも一層弱めるものとなっていた。

  すでに見てきたように、日本による軍事・交通などの掌握は、新国家に対する日本側の基本的な要求としてこの案でも繰り返されているが、さらにその上に「満蒙自由国を指揮監督する為に当分の間帝国臣民より或る顧開府を設け、重要なる事項例へば条約の締結、重要法令の公布等に対する同意権を保留す」として、日本人による顧開府の設立を構想しているのである。

  この「満蒙自由国設立案大綱」は、満洲国建国に至る関東軍の基本的考え方が固まってきていることをうかがわせるが、その性格をより明白にするために、橘樸の構想を対置しておくことにしよう。

  橘はまず11月23日の日付のある論稿64)で、無名氏の「満蒙の自由国建設案」としてこの「大綱」を取り上げ、そこに提示されているのは「集権と分権、官治と自治とを非有機的に突きまぜた鵺的国家組織」であり、「民主政体を明言した点は一見識である」が、「但し『法律的立憲政体』といぶか如き不透明な考へ方は淡然と撤回して貰いたい、専制政治の方が良いと信ずるならば、率直に所信を披瀝すべきではないか、『出来るだけ』の自治を与へるといふ考え方も不透明である、『自由国』の看板に詐りなくば、『出来るだけ』などと出し憎みせず、徹上徹下の自治政治を許したらいヽではないか」「筆者は何故か集権制を理想であると主張しながら、 一言隻句も其理由を示さない」などと批判した。

  ついで12月10日には、「満洲新国家建国大綱私案65)」を執筆して、民族連合国家・分権的自治国家の構想を対置した。この橘私案の第一の特色は、この国家を構成する各民族を対等とする原則から出発し、「個人的デモクラシイの要求と、建国に功績ある日本民族の立場とを斟酌 して、代表者数を割当て、自治国家の最高機関たる国民議会を構成」し、さらに「この方法を 省以下の行政自治体にも適用する」という点に見られる。そして国民議会での民族比率を、漢民族7・満洲族3・朝鮮族2・回教族2・蒙古族2・日本民族7・白哲族1とし、省以下の比 率は人口を斟酌して別に定めることとしていた。そこでは日本民族が建国の功績として優遇さ れているとはいえ国民議会の約3割に止まるのであり、こうした各民族の比率が保障された国民議会を「国家の最高機関」とするという発想は他の案には見られないものであった。

  満洲青年連盟の民族協和論も、こうした各民族の国家機構における発言権の保障という方向に発展してはいなかった。青年連盟はこの年、柳条湖事件より前の6月13日、5項目の決議66)の一つとして、「満蒙二於ケル現住諸民族ノ協和ヲ期ス」との叫びを挙げて以来、民族協和論の先駆者と見做されるようになったが、その内容は翌月発行の『満蒙三題67)』によれば、次のようなものであった。

 

日本移住民の満洲に於ける生存の活路は、当然満蒙在住の目覚めたる、更に又圧迫と搾取にあへぐ諸民族と相提携し、純理純情の上に立って民族協和に精進し日本文化を背景とする共和68)の楽園を満蒙の天地に招徠することで無ければならぬ。(中略)満蒙在住百万の先住蒙古民族と同数の日本臣民たる韓民族並びに数十万の日本民族は半封建的東北政権の暴虐なる鉄蹄下に、生存権を揉瀾せられて、死滅に直面して居るを、今や生死の頂点に立つ吾等は自ら救ふと共に同一運命の弱小民族を救ふ為に、唯前進の一路を選ばねばならぬ。是が我が日本民族の目前に投げられた天命であり特権である。


 ここでの民族協和とは、満洲社会に蒙古・朝鮮・日本などの少数民族の発展を受け入れることを求めるものであるが、それを各民族の対等性の確保によってではなく、日本民族の優越した地位の確立によって実現しようとするものであった。従って自治指導部の活動などにより日本人の指導が受け入れられると、それを民族協和の実現と評価するような傾向をもつものであった。それは自治のとらえ方の違いにも関連していた筈である。

  橘私案の第二の特色は、社会生活の全般にわたって自治を認め、それを国家の基礎に置こう としている点である。彼は、行政自治体(町村、県、省、国等)・経済自治体(各級協同組合、農会、商会、ギルド)・社会自治体(各種の文化宗教慈善団体、階級的共済結社等)・総合自治体(家族及其連合、自然部落及其連合)という四種の自治体を想定した上で、「国民の自治に対する完全保障を建前とすること」を主張していた。そして「自治とは、消極的には国民が団体の力を以て自ら其生存をはかることを意味し、積極的には同一方法により其福祉の増進をはかることを 意味す」るというのである。

  こうした広範な自治体制実現のための過渡的中核的機関として、自治指導部に特殊な地位を与えている点に、橘私案の第三の特色をみることができる。すなわち自治指導部は「各種及び各級の自治体を適当に指導し、且つ協力せしむることにより」自治体制を建設し、それが完成 したところで廃止されるというのである。

  従って、建国過程も他の案とは著しく異なった形で構想されていた。まず各省に親日政権が成立したところで奉天に中央「仮」政府を組織し、「国民議会の組織に準したる建国大会を速に招集」する、この建国大会は憲法を制定するとともに、自治指導部を追認する、自治指導部は憲法に従い県・省・国の選挙を積み上げて各級議会を成立させ、正式の中央政府を発足させ るというのが、この案の描く建国過程の大筋であった。つまり「各級行政自治体の最高機関を議会とし、議会は執行及び監察の両委員会を組織す」というのであるから、議会なしには正式の政府はありえず、従って議会を生み出すための自治指導部の活動は、建国の鍵を握ることになる筈であった。

  以上見てきたような様々な国家構想は、新しい国家をめぐる種々のイデオロギーを提供し、赤裸々な占領=領有化諧を建国路線に転換させてゆくうえで大きな役割を果たしたといえる。 しかし青年連盟の民族協和論にしても橘の自治主義にしても、現実の建国工作をリードするような力は持ち得なかった。自治指導部が華々しく登場したとしても、それは関東軍の主導権の下においてであった。



D建国強行の諸条件


 11月段階では、当面自治指導部の活動に期待するかにみえた関東軍も、12月に入ると性急に建国工作の具体化に踏み込んでおり、その後は一気に「建国宣言」にまで駆け上っている。そこでこの過程を明らかにするためには、なぜこの時期にそのような変化が生まれたのかを検討することから始めなくてはならない。

 12月に入って最初の重要な動きは、「満蒙国策の樹立に/政府いよいよ乗り出す/まづ出先で連合協議」(東京朝日、12、5)と報じられたような、内閣の対満政策への介入の気配に対する関東軍側の反発であった。この頃には、若概内閣は安達謙蔵内相の協力内閣運動をめぐる閣内対立で崩壊す前の状態にあったが、しかしここで対満政策立案機関が設立されれば、それは当然に次の内閣にも持ち越され、以後の内閣に対満政策についての発言権を保証することにもなり兼ねないものであった。

  関東軍側はこの報道に強く反発し、逆に対満政策に対する「独裁的」指導権を明確ならしめようとするに至った。12月3日の片倉日記には次のように記されている69)

 

夕刻到着せる軍務一九九電に依れば内田(満鉄)総裁を会長とし関東長官、軍参謀長、奉天総領事、満鉄副総裁等を委員とし総理大臣監督の下に臨時満洲事務委員会を設け、純軍事行動以外の満洲対策実施事務に関する事項の調査審議をなさしむるの案を立て研究中なりと。

 

軍は徒に事務を繁雑とし建設的方策を快速に実現するに不向きなるを以て同意し難き件等を関参四七五号にて報告せり。


  しかしその後も「東京発電は頻々として委員会設定の件を電報し来るを以て此際更に軍の態度を鮮明ならしむるの要ありとし」、翌々5日には「過渡的制度」として統治部設置案を作成 して中央に打電している。そしてその設置理由として、現在の情勢に於ては「各種機関の合議制は結局満蒙懸案解決を所期し得」ず、「威力ある簡明直截の独裁的機関」による「活気ある指導を必要」としているとし、「軍目下の機関に統治部を新設し在満諸機関は側面より之を支持するを最も合理的となす」と主張70)していた。

  それは関東軍が、満洲建国の過程を統治部を通じて独占的かつ独裁的に指導し、他の機関をそれに従属させるということに他ならないが、ここではさらに、この体制を建国後に延長してゆくことまで考えられていた。つまり建国後は、統治部は「支那側の機関にして帝国臣民より或る顧問府」となり、関東軍司令官は関東庁・満鉄などの日本側在満機関を支配する「満洲都督」に格上げすることが構想されていたと思われる。

  同じ12月5日の松木侠起案「満洲都督府官制参考案」第一条には「都督は満洲に於ける陸軍諸部隊を統率し関東州及南満洲鉄道附属地に於ける民政を管轄し並に鉄道鉱山其の他帝国の権益に属する事業を統理す71)」と記されていた。満洲建国後は都督府と顧開府が連携して満洲 を支配するというのが、ここで描かれていた構図であった。

  この方針に基づき、12月15日にはこれまでの参謀第三課72)を廃して、その業務をも引き継ぐ形で統治部を新設することが決定73)された。統治部は関東軍司令部の一機構とされたが、財政顧問駒井徳三を部長とし、嘱託などの名目で協力してきた民間人をより明確に組織するものであった。そしてさらにその組織を、建国業務を担い得るように一層拡大しようとしていることは、統治部に置かれた5課の分掌事項が、次のように国家行政全般をカバーするように規定74)されていることからも明らかであろう。

 

行政課……地方、警保、法務、学務

 

財務課……経理、税務、金融

 

交渉課

 

産業課……農務、商務、工務、鉱務

 

交通課……鉄道、逓信、自動車、港湾


 山口重次は次のように回想75)している。

 

統治部の仕事は、奉天、吉林、黒竜江三省政府の最高顧問および、東北交通委、瀋海鉄路、東北電政管理処、各中国側銀行、自治指導部などの最高顧問を監督・指導することで、部長に駒井徳三、次長・野村次右衛門(満鉄)、部付・総務・根本博中佐、航空班・児玉秀雄大佐(予備)、技術班・是安正利、行政課長・松木侠(満鉄)、産業課長・松島鑑(満鉄)、交通課長・山口重次、といった人事構成でスタートした。


  関東軍との関係をみると、「服務指針76)」では「統治部長ハ車司令官ニ隷シ」「軍司令官ニ具申スヘキ事項ハ予メ参課長ニ開陳シ其ノ承認ヲ受クヘキモノトス」と規定されているだけであるが、さらに上記の人事構成のなかで唯一現役軍人が任ぜられている「部付・総務」には、 「部務細則77)」よって大きな権限が与えられていることがわかる。即ち「部付ハ……幕僚部トノ連絡ヲ図リ秘書、文書、人事ヲ掌理」するのみならず、「特ニ部付ニ於テ処理スルモノ」として、「1 航空ニ関スル事項、2 自治指導部ニ間スル事項、3 支那側顧問ニ関スル事項、 4 其他各課ニ属セサル事項」が列記されているのである。

  これによれば、各省顧問や自治指導部の活動は、「部付」将校を通じて軍司令部に直轄されており78)、従って統治部の5課が対応しているのは、形式的には中央政府の行政であり、実際には新しい中央政府の組織と政策を作り出すことであったと見てよいであろう。

  もちろんこうした建国工作のための機構がつくられたというだけで、実際の工作が進展するわけではない。ところがこの時期には、機構が整備されるのとほとんど同時に、内外の情勢も動き始めたのであった。すなわち統治部設置の方針が出されたのが12月5日、実際に業務が始められたのが12月18日であるが、この間に、関東軍に満洲建国を急がせる要因が次々にあらわれてきたのである。

  まず第一には、12月10日パリで開かれていた国際連盟理事会で、日本側が提案していた現地調査団派遣に間する決議案が可決されたことである。それは日本側からいえば、国際連盟の決定を先送りするとともに、中国全体の排外運動や治安維持能力をも調査の対象として、列強の同情を集めようとしたものであり、さらに決議案採択に当たって、日本代表は「匪賊・不逞分子」の討伐権を留保すると宣言していた。

  この決議案の成立は、日本の「外交上の勝利79)」と評される面を持つものであるが、しか し関東軍側からいえば、以後の国際的判断の基礎とされるであろう調査団報告のなかに、満洲国の成立を既成事実として書き込ませることが重要視されることになるのであった。翌32年1月4日、板垣参謀の上京に際して軍司令官が与えた指示のなかで、「満蒙中央政府」設立の時機について、「概ね2月中旬とし、遅くも2月下旬乃至3月上旬に於て着満すべき予定なる国際連盟派遣員到着の時機迄には建設する如くす80)」と述べられているように、調査団派遣決議の成立は、関東軍にとって満洲建国にタイムリミットが設定されたことと受け取られたのであった。

  第二には、その翌11日、若槻内閣が総辞職し、13日に荒木貞夫を陸相に迎えた犬養内閣が成立したことは、関東軍の満洲建国路線に対する抑圧が解消したことを意味した。12月23日の軍中央部の時局処理要綱案(陸軍省・参謀本部協定案)は「満蒙(北満を含む)は之を差当り支那本土政府より分離独立せる一政府の統治支配地域とし逐次帝国の保護的国家に誘導す81)」と述べて、「独立国家の建設意欲に弱く82)」と評されるような側面を示しつつも、建国路線を許容することを明らかにしていた。

  さらに第三の要因としては、11月に一戦を交えた黒竜江省の実力者・馬占山との間に了解を 成立させ、三省代表として有力者を勢揃いさせる見通しがついたことを挙げなくてはならない。 12月7日、板垣参謀は駒井顧問とともに海倫に乗り込んで馬占山と会見、この結果「虎穴虎児を獲たるの感あり、北満の形勢好転すべし83)」との期待が持たれ、馬占山も10日ハルビンの松花江をへだてた対岸、松浦鎮に出て張景恵と黒竜江省の問題について会談84)している。

  こうした動きはすぐさま、連省工作を具体化する方向に発展していった。例えば11日、「満蒙中央政権樹立に関する三省首脳会議はいよいよ来る20日奉天省政府内に開催に決し、10日袁金鎧氏の名を以て吉林・煕洽、黒竜江・張景恵、呼倫貝爾・貴福の諸氏に招電が発せられた85)」と報ぜられたのは、地方維持委員会が早速このような方向に動き出したことを示すものであった。

  この20日の首脳会議は関東軍に抑えられて実現しなかったとみられるが、しかしそれは関東軍が連省工作の具体化に反対していたからではなかった。むしろ関東軍側はここで一気に連省工作を実現するために、その推進力となり得るような指導力のある奉天省政府を作り出すことを先決と考えていたように思われる。すなわち関東軍側は袁金銭をさして評価しておらず86)、 柳条湖事件当時の遼寧省主席で軟禁中の臧式毅を起用し87)、12月16日には地方維持委員会を解散して改めて臧を省長とする奉天省政府を組織させ、これを連省工作の基礎とするという措置をとっているのである。当時日本側についた政治家のうちで最大の実力者とみられた臧式毅は、以後有力者をまとめあげる工作を担ってゆくこととなった。

  関東軍に建国を急がせた第四の要因としては、軍が顧問や指導員を送り込んで各種行政機関を掌握した結果、それらの財政を維持する責任を負わざるを得ないこととなり、その観点からも、国家を作り出すことが切実な要求になっていたという問題を考なくてはならない。

  関東軍の指導による奉天省機関の復興状況をみると、10月15日の東三省官銀号の開業88)に続いて、前述したように、同19日に財政庁、同21日に実業庁が復活しているが、麻痺状態に陥っている省行政を回復させるためには、まず財政の立て直しを緊急の課題とせざるをえなかった。 そのために、10月17日には関東庁財務課長源田松三に委嘱して基礎資料の収集にあたらせ、同27日には財政庁顧問とした朝鮮銀行理事色部貢にその資料を交付して予算案の編成を進めているが89)、その基礎となるのは、如何にして収入を確保するのかという問題であり、その際には、県財政の再建をも考慮することが必要であった。

  その結果、当面の策として直接税は県にすべて委譲し、省は間接税で運営するという方針90)が取られることになった。この時期の県財政の状態について、自治指導員からの報告91)のあっ た若干の県(いずれも奉天省)の県税収入をみると、次のような有様となっている。

7〜9月

10〜12月

7〜9月

10〜12月

荘河県

21,179元

17,291元

蓋平県

57,495元

16,214元

海城県

12,913〃

12,840〃

撫順路

22,873〃

9,807〃

瀋陽県

163,566〃

11,857〃

懐徳路

8,758〃

12,445〃

梨樹県

57,298〃

65,979〃

新民県

119,854〃

収入無し

昌図県

31,118〃

22,138〃

遼源県

15,820〃

26,170〃


  全体として、10〜12月期の落ち込みが顕著であり、県行政が崩壊しつつあることを推測させ るものであった。このうち収入の増加している県は、懐徳・遼源県について明記されているように、委譲された直接税を算入したものと思われるが、懐徳県の場合に「委譲税は未だ税捐局より引継ぎの運びに至らざりし為め単に之が収入見込額を記載せしに留る92)と注記されているように、それが実際にどの程度徴収できるかも問題であった。しかしこの段階では、直接税の委譲によってしか県財政再建のめどは立たなかったといってよい。

  では省財政のために残された間接税とは何かといえば、最初に問題になったのは塩税であった。塩は専売とされ、確実な財源であったが、同時に外債の担保にもなっていた。これに対して関東軍は、張学良政権が一定の外債のための割当て額を除き残額を省の収入としたやり方を 踏襲するとともに、吉林省の収入にも配慮している。12月18日付の関東軍参謀部の報告93)は次のように述べている。

 

吉黒かく運局は塩専売上の利益として一石に付哈大洋約二〇元を賦課しつつあるも従来は塩税と共に之を悉く張学良の為に収納せられたること既述の如し。然るに今や吉林省政府独立し之亦行政費を必要とするに至りたるを以て、奉天省政府は此利益部分を吉林省政府の収納たらしむることを認めたり。其結果十一月に於て差向塩売上代金中より哈大洋五〇〇、〇〇〇元の流用を認めたり。


  ここではすでに、奉天省政府が中央政府の役割を果たし始めていることがわかるが、塩税よりもさらに一層巨額で国際的にも大きな関係を持つ関税の場合には、その獲得のために、一層切実に新国家の樹立が求められたに違いない。実際にも満洲国は建国直後から海関接収を企て、その成功によって獲得した関税は、大同元年度一般会計歳入総額94)の35.7%(塩税は14.8%)、 大同2年度では33.2%(同13.9%)に達しており、この収入なしには満洲国の運営が困難になることは明らかであった。いわば関東軍側は、行政の掌握を深めるにしたがって、新国家への要求を強めざるを得ないところに追い込まれていったといえよう。

3満洲国の基本構造