『近代日本における東アジア問題』

2001年1月

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対中国政策の構造をめぐって


 

古屋哲夫


まえがき
1満州における駐兵権問題
2満蒙分離の発想と軍隊の威信の強調
3利権要求の拡大と現地軍の行動
4治安維持政策への後退
5国際協調と満蒙問題



まえがき

 「アジア」という言葉は、日本の近代の中でさまざまな形で機能し、近代化の進展とともに、しだいにより深く浸透していった、といってよいであろう。しかしそれは、日本とアジアとの近隣関係から自然に生まれてきたというものではなかった。むしろ日本の近代が、アジアとの関係と、欧米との関係に対して、二元的に対応しながら出発したために、実際の具体的接触以上に「アジア」という言葉を多用する結果をもたらしたように思われる。

  ここで「アジア」とは主として「東アジア」を内容としており、前近代の鎖国海禁体制を前提としている。そして東アジアの近代化への方向については、抽象的には、この閉鎖的な体制下の限られた「情報」からでも生み出され得る、「西欧の侵略」と「アジアの敗北」というイメージと、それへの対応策を相互に模索する形で、アジアが動きだすという可能性を考えてみることもできるかもしれない。しかし実際には、そうした危機感にもとづくアジア間の具体的接触がはじめられる以前に、「黒船」以来の日本と欧米との交渉が先行し、欧米文化を吸収しながら、日本の「国民国家」が、アジアとは離れた形で実現された。そしてそのことが、アジアの近代を特殊なものとすることとなった。

  以後日本は、「国民国家」を強化するために、アジアとの接触に乗り出したともいえる。そこでの日本人のイメー ジの中では、欧米の一部と手を握りながら、アジアの指導・支配権を掌握しようとする方向と、アジア諸民族に欧米に対抗すべき連帯者となるよう近代化を促そうとする方向とが、交錯しながら膨脹してゆくこととなり、そこから日本の対アジア政策やアジア観の基層が形成されたといってもよいであろう。

  それはもちろん、度重なる戦争を軸としたアジアの政治過程に直結している。しかしそれと同時に、欧米との関係をも含めて、アジア間のヒトやモノ、文化や経済の交流も拡大しているのであり、さらに、日本を媒介としない、あるいは日本に対抗するための文化や運動も発展することとなった。そしてそのなかでは、日本の政治的地位を弱体化させるような効果も現れてくることになる。

  それは東アジア全体に、前近代を克服する様々な関係が、様々なレベルで形成されてきたということであり、その全体を把握するためには、「近代東アジア世界」といった視点を持ち込むことが必要になってくるように思われる。 もちろんその「世界」とは単一な安定した秩序を持つものではなく、対立や闘争を含みながら同時に、構造的に連関 している関係そのものとして捉える以外にはない。

  そうした視点を設定してみることが、近代日本の研究の新たな展開のためにも必要ではないかというのが、この論文集にいたる共同研究を発足させた動機であった。そしてとりあえず、京都大学人文科学研究所日本部のメンバーたちが、それぞれの研究の中でアジアの問題、あるいはアジアとの関連をどのように捉えているのかを、相互に検討してみることとした。

  研究テーマを「近代東アジア世界の構造連関」としたのは、前述のような問題関心によるものであり、1992年度から4年間を期限とする共同研究とした。当初、私が班長をつとめ、2年後に私が停年退職した際には、参加者の推挙によって、山室信一氏に引き継いでいただいた。

  研究の成果は、本書所収の諸論文となったが、研究会には、石川禎浩、瀧井一博、塚本明、狭間直樹、藤井譲治、 森時彦、横山俊夫の諸氏の参加も得、瀧井、塚本、狭間、藤井、横山の各氏には、報告もしていただいた。また、ロナルド・トビ氏は、外国人客員教授として、研究所の活動に貢献された。

  出版に当たって、研究テーマそのままでは書名にしにくいとの問題が出された。率直に言って、本書が「構造連関」を具体的な形で提示したとはいえず、まだ研究目標として残されているという感が強い。そこで書名は内容に即して、「近代日本における東アジア問題」とすることとした。

  新たな研究への展開は、我々自身の課題でもあるが、本書がそのような方向に寄与することが出来れば幸いである。

 2000年1月

古 屋 哲 夫

 

追記

本書の執筆者である飛鳥井雅道氏は、2000年8月31日逝去された。本書の刊行が、ご存命中に間に合わなかったことをお詫びするとともに、謹んで、ご冥福をお祈りする次第である。





1 満洲における駐兵権問題


近代日本における対外政策は、はじめから、軍事的観点を起点として形成されてきたといえるが、さらに、日露戦争の勝利の結果、中国情勢への対応が、対外政策全体を拘束するという構造が形成されたとみなくてはならない。それは日露戦争の最も大き成果が韓国併合であり、以後、朝鮮半島の植民地支配が、対外政策の基礎とされ、それを動揺させるような条件を排除することが、対外政策全体の最大の課題となったということを意味するものであった。いいかえれば、朝鮮問題が併合により対内問題化された結果、対中国政策がそれを保護する第一線に位置付けられた、 ということにもなろう。そしてそれは、直接には、日露戦後の対中国政策を、戦争によって獲得した満洲における権益を、いかにして軍事的に強化するか、という観点から出発させることになった。

  日露講和条約によって日本が獲得した在満権益とは、ロシア権益の残りの期間を、「清国政府ノ承諾」を条件として、譲り受けたものであり、具体的には1923年(大正12)に満期となる(露清原条約の期限が25年)遼東半島租借権と、運転開始から36年後の1939年(昭和14)年に中国側に買戻権が生ずる南満洲鉄道経営権を中心とするものであった。しかし日本側は、これらの権益の運用による経済的利益を期待していたわけではなく、南満洲を朝鮮支配の保護壁ともなる軍事的勢力範囲とすることを課題としていた。

  すでにポーツマス講和会議が開催されていた1905年8月における元帥山縣有朋の意見書をみると、「何等かの名義のもとに、若干の軍隊を哈爾賓(ハルビン)以南の要地に駐屯せしめて、以て一方には媾和によりて我が有に帰 したる鉄道を保護し、一方には露国将来の南下運動を控制するの手段」とすることを主張しているが、反面では、満洲という狭い範囲の経営の上に、鉄道守備隊としての軍隊の駐留経費を加えれば、鉄道経営の収支が償うわけがない、したがってその経費の補填のために、撫順炭鉱などの利権の開発が必要だとしていた(1)。つまり山縣にとっては、満鉄はまず第一に、鉄道守備兵の名目による軍隊駐留権の獲得を主眼にしたものだったと言える。ロシア側も鉄道守備隊の駐留は、公式には獲得していない権利であり、東清鉄道に関する原契約では、すべての襲撃から鉄道とその従業員を守るのは、清国の義務とされ、鉄道会社は付属地内の秩序維持のために、警察を任命する権限を待つだけであった。 しかしロシア側も講和会議において、日本側が想定した以上の駐兵権を要求しており、日本側は、このロシアの要求を制限しながら、同時に自らの駐兵権をも公文化するという策略に出ていた。

  ポーツマス会議で講和条約の合意が成立した後の1905年9月3日、ロシア全権ウイッテは、両軍の撤兵条件に関する追加条款案を提示したが、その中には両国政府は鉄道守備兵を置く権利を留保し、その数は線路1キロメートルにつき同数とし、具体的には両軍司令官の協定によるとの内容が含まれていた。これに対して日本側全権小村寿太郎は、「軍司令官ニ協定ヲ全然放任スルトキハ勢多数ノ兵ヲ駐メントスルニ至ラン」との観点から、守備兵の具体的な数を一定しておくことが必要であるとし、1キロにつき5名以内とする案を提示した。そしてウイッテが「到底同意シ難シ」「是非共制限ヲ設クルトノコトナラハ成ルヘク多数ニ定メ置キタシ」として「一キロ二十名」とする対案を出したのを捉えて、「十五名」の線で協定を成立させ、講和条約追加約款にその内容が盛り込まれた(2)

それは清国の了解なしに、その主権を侵害する鉄道守備兵駐兵権を設定したものであった。それは現に軍隊が存在しているという既成事実を権益に転化させようとするものであり、日露両国は清国の主権侵害の共犯者となったことを意味し、また、以後の満洲支配についての日露共同行動の可能性をしめしたものでもあった。ところで講和条約はロシアから日本への権益の移転譲渡は、「清国政府ノ承諾」を条件とするとしており、それにもとづいて、1905年11〜12月にそのための北京交渉が開かれたが、そこで清国側がもっとも強い反発をしめしたのは、この鉄道守備隊の問題であった。北京交渉における清国側全権袁世凱は、「当初ノ露国トノ条約ニモ清国自ラ鉄道保護ノ責ニ任 ス」との条項があり、また「元来兵ハ火ノ如ク物ヲ焼ク、而シテ清国ハ焼カレテ苦ミタルノ前例アリ、故ニ可成禍根トナルヘキ火ヲ存セサルコトヲ希望ス、兵アレハ大ナリ小ナリ禍ノ元トナルニ付残スヘカラス(3)」と述べて、「鉄道守備兵ヲ留ムルハ清国ノ主権ヲ害シ治安二妨ケアルヲ以テ其ノ撤退ヲ請フ(4)」と強く主張している。結局この問題は日本側が、ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同様に撤兵するという条件を付けただけで押し切ってしまうが、小村寿太郎全権は、ロシアの撤兵など起こりえず、したがって日本の撤兵もありえないものと考えていた(5)。この鉄道守備兵が、租借地守備兵とともに、後の関東軍を構成することとなる。

  ここから日本側は、満洲においては鉄道の獲得によって駐兵権が生ずる、という方式を打ち立て、ロシアから譲渡された以上に、駐兵権付きの鉄道権益を拡大することによって、南満洲を「勢力範囲(6)」にとりこもうと企てるにいたった。同時にまたそこには、鉄道付属地の名目によってハルビンをはじめとする広大な市街地を建設し、警察を含む排他的行政権を行使したロシアの前例を、一層強化して踏襲しようとする意図もふくまれていた。したがって、日露講和後の清国に対する交渉において、もっとも紛糾したのは、前述の駐兵権問題についで鉄道権益をめぐる問題であった。日本側はロシアから獲得した長春・旅順間の鉄道(のちの南満洲鉄道=満鉄)に加えて、長春・吉林間の敷設権 および戦時中に日本軍が敷設した安奉線(安東・奉天間)と新奉線(新民屯・奉天間)の維持運用権を要求し、これを主権にかかわる問題として全面的に拒否しようとする清国側と激しい応酬を繰り返すこととなる。その結果、1905年12月に調印された、「満洲ニ関スル日清条約」(実質的内容は附属協定)では、吉長線も新奉線も協定附属の取極に譲らざるをえず、前者は清国の自主建設により、資金の不足分を日本からの借款による、後者は日本から清国に売渡し、その改築のための費用を日本より借り入れる、という譲歩をよぎなくされている。結局協定本文には、安奉線が残されただけとなったが、これも軍用軽便鉄道を商工業用に改良することは認めるが、18年後には清国に売り渡すべきことが規定されていた。それは安奉線についての日本の権利が、長春・旅順間の鉄道とは全く異なるものと して協定されたことを意味していたが、日本側、とくに現地の実権を握る陸軍は、条約には目もくれず、安奉線を駐兵権や附属地を持つ満鉄の支線とすることを実力で押し切ろうとしていた。

  実際に、満洲よりの日露両軍の撤兵期限である1907年(明治40)4月になると、遂に、安奉線上の本渓湖の市街に新たに日本軍が進出し、同時に日本の警察官出張所が設置されたとして、清国側からの抗議が提出された。こ れは前年8月に陸軍が主導して在満権益を管轄するために設立された関東都督府(都督は陸軍大将または中将、初代は 大島義昌大将)が、既成事実を作り出しはじめたことを意味した。そして外務当局もこれを追認する態度を示している。日本側のやり方を条約違反とする清国の抗議に対して、同年5月18日林董外相は、安奉線は満鉄の支線であり、守備隊の駐屯や警察官派遣の権利も満鉄と同様だとの態度をとるよう奉天総領事に指示している(7)。それは条約よりも既成事実を押し通せ、ということであり、対満洲政策の一つの性格が早くも形作られつつあったことを示している。 その後、1909年(明治42)には、在満権益に関して、「間島ニ関スル協約」「満洲五案件二関スル協約」など についての妥協が成立(いずれも9月4日調印)するなかで、安奉線改築交渉だけば行き詰まり状態のままであり、結局日本政府は同年8月6日、交渉打切りを通告し、軍隊の支援のもとに独断で改築を強行していった。この通告のなかで、清国は「守備隊及鉄道警察撤退等ノ如キ線路ノ改築ト秋毫ノ関係ナク、而モ之カ応諾ハ…帝国政府ノ不可能 トスル所タルコト明白ナル問題ヲ提起シ之ヲ以テ改築工事施行ノ条件ト為サム」としたと非難しているが、他方で小村外相は伊集院駐清公使に対し、改築強行への抗議の中の「守備兵及警察問題ニ付テハ貴官ハ此際単ニ之ヲ聞流シ置カレ、別ニ反駁ノ措置ヲ執ラレサル様致サルベシ」と指示していた(8)。それは条約の文面と、それを根拠とする抗議を黙殺することにほかならず、この安奉線改築の強行に対しては、満洲各地に抗議運動が拡がり、満洲最初の本格的排日運動が展開されることとなった。そして同時にそれは、間島問題に関連する側面を持つものでもあった。

  安奉線が朝鮮半島と満洲を直結するものとして重視されたことはいうまでもないが、日本側は他面では、韓国北東部に隣接し多数の韓国人が居住する間島地方に、領事館及分館を設立して、韓国人に対する領事裁判権を行使するこ とで、日本の勢力を浸透させることを企図していた。そして清国側が容易に実行しないことを予期しながらも、日本の希望を記録しておく意味で、前記「間島ニ関スル協約」に、清国が吉林から間島を経て韓国北部の会寧に達する鉄道を建設する際には、吉長線と同一の弁法によることという一項を押し込んでいる。しかし中国側は辛亥革命後も、一貫してこの吉会線構想を拒否しており、満洲事変以前には交渉が成立する見込みさえも立たなかった。

  つまり、日露戦後の対中国政策は、その基礎に、「交渉」によっては解決しえない部分を抱えこむ形で出発しているのであり、この時点においてすでに、中国との平穏な交渉によって、利権の拡張を図ることは不可能になっていたと言える。したがって日本の対中国政策の構想は、列強との協調に頼る以外になくなっており、実際にも日露両軍の満洲撤兵期限(1907・4・15)の3か月後、7月30日には、いち早く第一次日露協約を締結し、附属の秘密協定において、満洲を横断して南北に分かつ「分界線」を設定、日本はその南、ロシアはその北から分界線をこえて、 鉄道・電信に関する権利を獲得するための活動をしないことを約束した。さらにその3年後には、第二次日露協約 (1910・7・4調印)によって、第一次協約に規定された鉄道・電信の分界線を、「特殊利益」の分界線と規定し直すことによって、日露両国による満洲支配体制、すなわち「両国ノ関スル限リニ於テ満洲ノ事態ヲ決定スル(9)」ような体制を造りだすことをめざしていた。

  こうした過程において、在満権益のそれぞれに異なった、しかも比較的短期な残存期間を延長し、権益の永続化をはかることは、日本側の一貫した基本的要求であったが、安奉線問題に見られたような清国側の強い反発を前にしては、要求を切り出す手がかりを得られないままに、好機を待つ以外になかった。しかしこの間、裏面では、中国中央政府の弱体化、さらには解体への期待が、潜在的に高まりつつあったと見てよいであろう。そして1911年の辛亥革命以後の中国情勢は、まさにこのような期待を刺激するような混乱を呈するにいたるのであった。



2満蒙分離の発想と軍隊の威信の強調


辛亥革命に際して日本政府は、立憲君主制への改編によって清朝を存続させる方向に、列強の共同干渉を誘導しよ うとしたが、イギリスはこれに反対し、清朝側の実権を握った袁世凱を支援し、清朝の廃止を条件として、内戦停止 を実現しようとした。結局このイギリスの工作が成功し、1912年1月1日南京において、孫文を大総統として成立した中華民国政府は、袁世凱が清帝退位・清朝廃絶を実現させると、同年2月14日孫文の辞任を認め、改めて袁世凱を大総統に選出している。しかしこれで事態が安定したわけではなく、袁世凱による独裁体制の強化と、それに対する革命派の武力抗争が、第二革命(1913・7〜9)、第三革命(1915・12)などの形で繰り返されることとなる。

  ところで日本が主導しえなかったこうした経過の中でも、日本の対中国政策のなかに、様々な特徴が蓄積されてくる点に注目しておかなくてはならない。その第一は、中国全体の情勢を制しえないならば、むしろ分裂を促進して日本が操作しうる地域を造りだそうという発想が生まれてきたという点である。たとえば、在清国公使伊集院彦吉は、1911年10月18日の時点で、清朝にもはや中国全土を統治する力はないとして、「中清ト南清ニ尠クトモ独立ノ二ケ国ヲ起シ、而シテ北清ハ現朝廷ヲ以テ之カ統治ヲ継続セシムヘシ」「何レノ途北清ノー角二清朝ヲ存シ、永ク漢人ト対峙セシムルハ帝国ノ為得策ナリト思考ス(10)」との意見を外相におくり、さらに11月19日になると、清朝の情勢がより困難となりこの三分案の見込みもうすれたとし、第二案として清朝をして「十八省以外満蒙等ノ地域」に国を保持させる、それも駄目で清朝滅亡の際には第三策として新共和国の首都を武昌など中国中央に置かしめ「満蒙ノ地域ヲ遠ク辺外二置キ漸ク閑却セシムル(11)」との意見を具申している。それは親日的地域の確保のための中国分割とい う発想に行き着くことになろう。さらに翌12年2月になると、いわゆる大陸浪人川島浪速らが、参謀本部や関東都督府と連絡しつつ、北京より脱出させた清朝粛親王を擁し、蒙古の王公らをも参加させて、満蒙独立国を造り出そうとする画策が実際に行われるに至っている。この試みは失敗におわるが、その意図を川島は、清国「分割ノ已ムヲ得ザル場合ト為ルモ、満蒙ハ已二我手中二在ルト同様ナリ(12)」と述べていた。この中国分割の発想は、満洲における特殊利益分界線を延長して、内蒙古を東西に分けるというこの時期に締結された第三次日露協約(1912・7・8調印、全文秘密)に連動していることも明らかであろう。日本側の主観においては、ここで「満洲問題」は「満蒙問題」に拡大されたことになった。

  この間に付加された対中国政策における第二の特徴として、中国現地において日本軍人が侮辱されたと日本側が解釈した場合には、「原因の如何にかかわらず」、中国側に責任者の処罰と謝罪を行わせて、日本軍の威信を守るという方式が打ち出されてきたことに注目しておかなくてはならない。いわゆる第二革命の時期に、日本人が被害を受けたとする、漢口・エン州・南京の三事件がおこっているが、ここでは紙数の制限があるので、とくに問題の多い漢口事件を取り上げることにしたい。

1911年10月10日の武昌蜂起から辛亥革命が拡大してくると、12月には日本陸軍は、歩兵一大隊と機関銃隊からなる「中清派遣隊」(清朝滅亡後、中支那派遣隊と改称、ワシントン会議後に山東守備軍と共に撤退)を漢口に派遣した。同隊は居留民保護を掲げ、漢口の日本専管居留地の隣に兵舎を建設したが、当時漢ロ総領事に赴任した芳澤謙吉は、「揚子江の上流にしかも居留地外に日本の兵営を建築するという事は、中国の主権を侵害するものであるとして、中国地方官憲及び新聞界では喧々囂々としてこれを非難した(13)」と回顧している。第二革命において漢口は北軍の占領下 に置かれ、停車場付近は無数の天幕を張り歩哨を立て、戒厳地区としていた。この区域に13年8月11日、中支那派遣隊の西村少尉が兵卒1名を連れ、偵察のため中国軍の制止を無視して進入したため、暴力的対立を引き起こし、一時中国側に抑留された、というのがこの時期に漢口事件と呼ばれたものの概要である。

この事件について、中支那派遣隊司令官からの報告は、無抵抗の西村少尉らが、理由もなく暴行を受け、軍服をぬがされるなどの侮辱を受けた、とするものであったが、芳澤総領事はこれを信用せず、自ら調査して西村らの横暴と暴行について牧野伸顯外相(第一次山本内閣)に報告すると共に、その末尾に次のように陸軍の態度を批判していた。すなわち西村事件につき「陸軍側ニ於テ軍服ヲ着用シタルモノニ対シ、斯ノ如キ侮辱ヲ加フルハ甚タ不都合ナリトノ説アルモノノ如キモ、軍服ヲ着用スルモノハ自己ノ軍規ヲ守ルト同時ニ、他ノ軍規ヲモ尊重スヘキモノナルハ云フ迄モナク、弱国ナリト侮リテ歩哨ノ注意ヲモ顧ミサルカ如キ行動果シテ之レアリトセハ、其曲寧口我ニアルノミナラス、甚タ好マシカラサルコトヲ仕出力シタルモノト云ハサルヘカラスト思考ス(14)」。

しかし陸軍中央部は、現地の調査も行わずに、「日本将校凌辱事件」として、賠償・責任者の処刑・上長官の処分謝罪などに加えて、漢口の日本兵営敷地の日本居留地への編入・日本軍用無線の設置といった新たな利権を含む要求書を、楠瀬幸彦陸相から牧野外相に提出している。牧野は首相、海相と協議して、この際の利権要求を「不適当」と して退けた(15)がその他の要求については、「事件ノ発端如何ニ拘ラズ(16)」「漢口侮辱事件ハ帝国陸軍ノ名普及威厳ニ関スル点ニ於テ陸軍ハ固ヨリ政府モ重大視シ、之ガ救済ニ必要ナル条件ヲ要求スルコトニ決シタ(17)」とし、中国側も処罰・謝罪などの条件をのんで解決している。

このことからは、日本側の非行が原因となった事件でも、原因の如何にかかわらず、現地での「日本軍の威信」を守ることを優先させるという解決方式を先例としてゆこうとする方向を読み取ることができる。芳澤総領事が先の外相宛電報の中で「満洲地方ニ於テハ此ノ種ノ事伸ニ付テハ支那側ヲ抑圧シテ事件ヲ終結セシムルコトヲ得ヘシト雖(18)」と述べていることからみれば、満洲ではすでに実際に、こうした方式が蓄積されていたことであろう。そしてこのような先例の蓄積は、「日本軍の威信」の確保を第一義とするという条件によって、日本の対中国政策が実質的に拘束されるようになってゆくことを意味していた。そしてその翌年の第一次大戦への参戦は、対中国政策にさらに決定的な影響を及ぼすこととなった。



3利権要求の拡大と現地軍の行動


1914年7月、ヨーロッパで第一次大戦が勃発すると、日本政府(大隈内閣、加藤高明外相)は日英同盟を利用して強引に参戦(1914・8・23、ドイツに宣戦布告)し、11月には膠州湾、青島と山東鉄道全線を、ドイツの権益として占領した。そしてこの軍事行動とともに、列強が欧州の戦場で対決している以上、東アジアの平和の維持は日本にしか果せない任務だとする主張が世論を席巻するようになり、そのような立場にある日本の権益を強化することは、当然のこととして意識されるようになった。さらにそこから、「東洋文明」といった日本を超える用語を駆使しながら、「アジアの盟主」となることが日本の使命である、といった「使命感」に多くの日本人がとらわれてゆくこととなった(19)。しかしこの「使命感」のもとで実際に行われたのは、日本側の欲するあらゆる案件をまとめあげた二十一箇条要求を中国に突き付けることであった。

  二十一箇条要求は、15年1月18日中国政府に提出されたが、其の内容は、第一号・ドイツ権益処分などの山東問題に関する要求(四条)、第二号・南満洲及び東部内蒙古に関する要求(七条)、第三号・漢冶萍公司に関する要求(二条)、第四号・中国沿岸島嶼の不割譲に関する要求(一条)、第五号・顧問、警察、兵器などに関する要求(七条)からなるものであり、加藤高明外相は日置益公使に対する訓令のなかで、一〜四号は是非とも貫徹を図るべき事項、五号は中国にその実行を勧告する希望条項だと述べている。このような広汎な要求に強い衝撃を受けた中国側では、革命派も反袁闘争を中止して「一致対外」を主張、さらに日本への反発は中国大衆をナショナリズムの方向に突き動かすという情勢を生み出していた。したがって交渉は難航し、とくに第五号は中国側が主権に関する問題として交渉を拒否、また内容を知ったアメリカの抗議などもあり、結局5月7日、第五号を切り離した形で最後通牒を発し、同9日ようやく中国の同意を得るという経過をたどっている。

二十一箇条については種々の問題があるが、これまで述べてきた対中国政策の構造との関連でいえば、第二号要求が中心となる。この要求の日本側原案は、中国政府が「南満洲及東部内蒙古ニ於ケル日本国ノ優越ナル地位ヲ承認スル」(最終的には「両国間ノ経済関係ヲ発展セシメムコトヲ欲シ」と修正)との前文を掲げた上で、関東州租借期限及び鉄道期限の延長、「南満洲及東部内蒙古」における居住及び商工業の営業・農業のための土地所有・鉱山の採掘などに関する日本側の広範な権利を規定したものであった(20)。これによって、前に述べたようなそれぞれ期限の異なる関東州・満鉄・安奉線の権益を永続化する(99箇年に延長)という基本的要求はようやく実現されたことになり、また第三次日露協約を実質的に認めさせることにもなった。しかしここで新たに獲得した南満洲における土地商租権、東部内蒙古における合弁農業経営権などは、中国行政当局の抵抗にあって、容易に進展しないという事態が続くことになる。

  むしろ第一次大戦下で目に付くのは、前述した鉄道付属地経営権や、軍の威信を確保する事件解決方式など、条約面に現れない既得権の高圧的行使や、軍を背景とし、あるいは軍に依拠した陰謀的行動の横行であった。とくに袁世凱が自派による帝政運動を組織し、1916年1月1日帝位について洪憲元年と称したのに対して、反対派が第三革命に立ち上がるという事態に対応して、大隈内閣が反袁運動支援の方針を決定したことは、こうした傾向を著しく促進することになった。

16年3月7日の閣議では、中国の混乱した状況に対して日本が取るべき方針は「優越ナル勢カヲ支那ニ確立シ、同国民ヲシテ帝国ノ勢カヲ自覚セシメ、以テ日支親善ノ基礎ヲ作ルニ在リ」とした。そしてそのためには、袁世凱が権力の座にあることは障害になるとし、「何人力袁氏ニ代ハルトモ之ヲ袁氏二比スルトキハ帝国ニ取リテ遥ニ有利ナルヘキコト疑ヲ容レサル所ナリ」とする。しかし日本政府が直接に正面から袁世凱に圧力を加えることは、列国の反対を招くとともに、「進退ニ窮シツツアル袁氏ノ為ニ活路ヲ開ク」結果となるから避けるべきだというのであり、反袁派を背後から操作しようというものであった(21)

  この方針は具体的には「適当ナル機会ヲ俟テ南軍ヲ交戦団体ト承認スルコト」などをあげているが、実際には山東に居座った日本軍(侵攻以来ワシントン会議後まで7年以上駐留)や、満鉄守備隊を含む関東都督府の現地軍が関与あるいは支援したことが、最も重要であったと見られる。本稿ではその詳細を検討している余裕はないが、大隈内閣末期の16年8月、西原亀三が作成した情報集(後藤新平が配布し翌年の第三九特別議会で問題化)「山東省ニ於ケル革命党ト日本人」「満蒙ニ於ケル蒙古軍並宗社党ト日本軍及日本人ノ関係、付、鄭家屯事件ノ真相(22)」が、概要を知る上で興味深い。前者は多くの不良日本人を含む革命派の暴状と、日本軍人の関与、日本軍の鉄道沿線支配の状況についても指摘している。後者はいわゆる第二次満蒙独立運動についての参謀本部の関与や、満鉄付属地における蒙古軍の保護などを叙述している。これらの点についての問題は多いが、ここでは後者の付録とされている鄭家屯事件に触れるにとどめたい。

この事件は16年8月、日本人商人が中国兵と争論になり暴力を受けたとして、日本人巡査とともに中国軍兵舎に抗議にゆくが受け付けられず、其の支援に日本軍が出動して戦闘になったというものである。しかし鄭家屯とは満鉄の四平街から西に約88キロ行った遼河に面した町であり、赴任したばかりの林権助公使も「我兵員ヲ駐屯セシメ得ル権利アルヤ否ヤ甚タ疑ハシキ地方(23)」と述べているが、この条約上の権利のない地点になぜ日本軍が存在していたのか、という問題から考えてみなくてはならない。

この日本軍と満蒙独立運動との関係は明らかでないが、基本的にはそれよりもまず、この時期に、日本側の強い希望により、内蒙古への鉄道の最初として、四平街・鄭家屯間の建設が決定され測量などが開始されていたことと関連 していたと思われる。この鉄道は中国政府の所有、経営となるものであるが、その資金は日本からの借款により(横浜正金銀行が担当)、建設の実務は日本人技師長の指導のもとに行われることになっていた。現地軍部はこの過程に対応するように、鄭家屯方面を中心とする満鉄守備隊の行軍演習を繰り返しており、満嶺日本領事館より中国側に通知 された宿営を伴う行軍演習(最長7泊)だけで、15年1月より16年2月の間に16回を数えている(24)。それは鉄道建設中に日本軍の威信を浸透させ、其の行動を黙認する雰囲気をつくろうとしていたものと思われる。鄭家屯事件においても、日本軍が攻撃されたという点が中心とされ、中国側の一方的な処罰、謝罪といった、先の漢口事件と同様な解決方式の上に、日本の必要とする地点への警察官の駐在、軍事・警察顧問の任用などの希望や要求が重ねられているが、中国側の抵抗も強まっており、実現は困難であった。

  大隈内閣の反袁政策は、結局のところ、現地日本軍と其の周辺の日本人の横暴への反感を広めただけに終わったよ うにおもわれる。そして16年6月に当の袁世凱が死去し、さらに10月の大隈内閣から寺内内閣への交替によって、次の援段政策に転換されることとなった。それは、袁世凱死後の国務総理として北京政府の実権を握った段祺瑞の「援助」に転じようというのであった。

援段政策の中心は、西原借款と呼ばれた大規模な借款を与えて、段祺瑞の立場を強化し、それによって日本の意図する方向に中国を動かそうとするものであり、戦争による好景気によってはじめて可能になった政策であった。しか し、袁世凱が築いた北洋軍閥は段によって統一されることなく、むしろ次第に分裂してゆくのであり、とくに日本の支持のもとに、中国が第一次大戦に参戦(1917年8月)してゆく過程では、参戦反対は日本の干渉への反対をも意味するものとなっていた。

  結局、段祺瑞の勢力は、日本の援助が露骨になればなるほど弱体化する結果となり、西原借款もその大部分が行政費や軍事費に使われて不良債権化することは必然であった。この間、段は総理の地位からの辞職と復活を繰り返しているのであるが、彼の復活を支えたのは各省の軍事責任者である督軍であり、其の中心には張作霖が位置していた。援段政策は、その支柱としての張作霖をも支援することとなっているのであり、彼を満洲全体の支配者に押し上げるという結果を残すこととなった。張作霖が東三省巡閲使の地位を得るのは、大戦末期の1918年9月であった。

  第一次大戦下の日本の対中国政策は、侵略性の膨張として特徴づけることができるが、列強のすべてが参戦し、中国に手を出すいとまがないという条件のもとで、初めて実現したものであり、従って戦争の終結とともに転換を迫られることは必至であった。しかしこの間に蓄積された政策や行動の経験は、その後の政策を拘束し続けてゆくとみなくてはならないであろう。



4治安維持政策への後退

第一次大戦を終結に向かわせる最初のきっかけとなったのは、ロシア革命の進行であったが、日本の政府も軍部も、それが日本の対中国政策に変更を迫るような、新たな国際的連関を生み出してくることは、容易には予測しえなかったと思われる。1917年二月革命で帝政ロシアが消滅したことは、一方では日露協約に依拠していた日本を孤立化させると同時に、他面では、この戦争を専制主義に対する民主主義の戦いとして性格付けることを可能にし、アメ リカ参戦(17年4月)の一つの導因となった。そしてそのアメリカ大統領ウィルソンが掲げた民族自決など平和に関する十四箇条は、朝鮮・中国など披圧迫民族の動向に大きな影響を与えることになる。

しかし日本の当面の関心は、十月革命で勝利してドイツとの単独講和を実現させたボルシェビキ政府に対する、連合国側の武力干渉の実現に向けられていた。日本はチェコ軍団救援というアメリカの提議に乗る形で18年8月、シベリアに出兵するが、その中心となった軍部は、列国との協調よりもシベリアに日本独白の傀儡勢力を作り上げるこ とを意図していた。すでに参謀本部は露独講和交沙中の「大正7年1月特ニ少将中島正武等ヲ西伯利ニ派遣シ、露国穏健分子及反過激派露軍ヲ支持シ以テ過激派勢力ニ対抗スヘク指導セシ」め「且我中央部ハ資金、兵器等ヲ供給シテ彼等ノ援助二努メ(25)」ていたという。それは前述した段祺瑞援助政策の延長上にあるものといってもよいであろう。

  しかしこの出兵のさなかの18年11月、ドイツの屈服によって第一次大戦は終結し、翌19年1月からは、パリ講和会議が開かれることによって、事態は大きく転換し始めることになる。この会議は民族自決の原則によって世界を改造するものとして、被圧迫民族から大きな期待を寄せられることとなり、日本はそうした期待を背景とする中国・朝鮮のナショナリズムの高揚に直面しなければならなくなった。

  まず、日本の対外政策の基底である朝鮮支配が揺らぎはじめた。朝鮮においては、公正な講和のなかで民族自決が実現されるという期待をバネとして、独立を求める運動が立ち上がってきた。1919年3月1日のソウルでのデモに始まったことから、三一独立運動と呼ばれるようになったこの運動は、日本軍による弾圧にもかかわらず、2か月にわたって朝鮮全土に波及し、さらに国外での独立運動の形成にも大きな影響を与えた。同年4月の上海における大韓民国臨時政府の組織もその一つの成果であった。

  そしてそれに続いて、中国で反日運動が吹き荒れることとなる。対戦末期に参戦した中国では、これで戦勝国の一員になったという祝賀気分があふれ、南北和平論が叫ばれるようになっていた。18年9月に寺内内閣に代わって成立し原内閣は、段祺瑞援助政策からの転換をはかり、同年12月2日には、日英米仏伊五国による中国南北政府に対 する和平勧告が行われ、翌19年2月上海で南北和平会議が開かれた。そして会議そのものからはなんの具体的成果も得られなかったにもかかわらず、パリ講和会議に向けて、広東政府の代表も加えた統一全権団が組織されるという全く異例の事態が実現したのも、日本の利権要求を阻止しようとする意図が、南北に共通していたことを示すものであろう。

講和会議において中国全権は、対独開戦によりドイツとの条約は無効になったのだから、山東半島におけるドイツの権益は日本の仲介を経ずに、直接に中国に返還されるべきだと主張した。それは日本が仲介の代償として、すでに4年半にわたって山東に駐屯し続けている日本軍の存在を背景としながら、利権を要求してくることを予期したものであった。日本軍は、青島を攻撃・占領する以前に、ドイツ兵に守られているわけでもない中独合弁の私立会社の経営する山東鉄道を占領(26)しているのであり、日本の参戦がたんにドイツの軍事力の打破のみでなく、新たな権益の獲得を目指していることは明らかと見られた。これに対して日本側は、ドイツ権益の無条件譲渡を要求し、その後で専管居留地や鉄道権益の設定と引替えに、膠州湾租借地を中国に引き渡すとの方針を決めており、この要求が承認されなければ、講和条約に調印しないとの強硬な態度を示した。当初中国に同情的だったウィルソンも、国際連盟の成立を優先させるために、中国の期待を裏切って、日本の主張を認めることとなった。

中国の要求が講和会議で無視されたとのニュースに対して、5月4日北京の学生たちは、要求貫徹の示威運動に立上り、列国公使館への請願に始まったこの運動(五四運動)は、たちまちのうちに親日派官僚への攻撃・曹汝霖邸の焼打ちへと転じ、以後2か月にわたって主要都市に波及するとともに、罷課(学生スト)・罷市(商店スト)・罷工(労働者スト)の三罷闘争を軸とする全国的運動に発展した。そしてその具体的内容は、日貨排斥の形をとった排日運動となり、それを背景として、中国全権は講和条約調印を拒否した。五四運動に中国の広範な階層が参加したというこ とは、二十一箇条要求反対を契機として形成されてきた中国ナョナリズムが、反日と社会改革とを結合させる形で成長してきていることを物語っていた。

そしてこの間に、前述の三一独立運動は、朝鮮本土においては武力鎮圧されたものの、シベリア出兵への反撃とも連携しながら、周辺地方に拡大しつつあった。日本がまず直面したのは、シベリア国境に接する間島地方における武装反日闘争の展開であった。間島での運動は、3月13日に日本総領事館のある竜井村に集まった数千人の朝鮮独立を叫ぶ示威運動以来、各地に波及し、さらに奉天省・吉林省・東部シベリアなどに移住している朝鮮人もこれに呼応する。そして朝鮮国内での運動が弾圧されるとともに、これらの地域からは、日本側の諜者によって、武器の調達、秘密結社の結成、軍事訓練、決死隊の組織、朝鮮潜入計画などが伝えられてきた(27)

  三一独立運動当時のシベリアは、18年11月のクーデターでオムスクの軍事独裁政権を掌握したコルチャックが、 連合国の支持を得て、モスクワを目指す進攻を企てるなど、表面的には、反共勢力に制圧されたかに見えた。しかしその内実は、徴兵、徴税の強行に対する農民層の抵抗が、各地で武装反乱を広めつつあり、また前線でも4月下旬から赤軍の反撃が始まると、コルチャック軍はたちまちのうちに敗北し、7月には総崩れ状態となり11月にはオムスクを捨ててイルクーツクヘ敗走し、壊滅してゆくのであり、こうした19年後半の状況は、朝鮮独立運動のための武器獲得を容易にしたと思われる。

そして武装化による運動の昂揚は、朝鮮国内に逆流することとなった。独立運動に関する朝鮮総督府警務局資料は、20年上半期(1月−6月)に「武力に訴えたもの約60件を記録している(28)」という。それはまさに朝鮮支配の危機であった。列国がコルチャックに代わる反共政権樹立をあきらめて、チェコ軍の引揚げ完了を理由としてシベリア撤兵を決定したのはこのような時期であり、日本のみが占領地域を沿海州南部に縮少しながらも、出兵継続の態度を取ったのは、そこにこうした危機を見いだしたからにほかならなかった。原内閣は20年3月31日付で「我カ接壌地方ノ政情安定シテ鮮満地方ニ対スル危険除去セラレ」るまでは出兵を続けると声明(29)した。

それは日本が、朝鮮・満洲の「治安維持」という観点まで後退して、政策を組直すことを余儀なくされるに至ったことを意味した。そして具体的には、シベリアに過激派と反日朝鮮人を排除した緩衝国家を造り出すことで、出兵を収拾しようという方向が模索されはじめた。20年4月には、日本軍は縮小された占領地域の中で、過激派の武装解除を強行するとともに、ウラジオストックの新韓村など反日朝鮮人の拠点を襲撃、掃蕩しているが、これに呼応して、 満洲でも朝鮮独立運動の制圧が企てられていた。

  同じ20年4月、朝鮮総督府は張作霖との間に、朝鮮人取締りについての協議を始めた(30)。その結果5月には、奉天省では日本人顧問の指揮のもとに、日本憲兵及び警官に中国側警官を加えた捜査班によって、朝鮮独立運動団体参加者の検挙が実施された。しかし、間島を含む吉林省では、省長徐鼎林の抵抗にあって実現せず、7月になると朝鮮軍、 関東軍の意向を背景とした赤塚半天総領事から張作霖に対して「支那軍隊ト協同ノ名義ノ下ニ我カ軍隊ヲ以テ掃蕩ヲナスコト(31)」を要求したが、古林省当局による朝鮮人取締りが行われたにとどまり、それを不満とした日本側は、次には自ら乗り出してゆくこととなった。

  結局、10月になると間島地方琿春の日本領事館分館襲撃事件(32)を機として、朝鮮軍より六箇大隊、シベリア派遣軍から一個旅団の兵力(33)が投入され、12月にかけて、反日独立運動の徹底的弾圧が実行された。しかし日本が自ら直接軍事的に介入することは、あくまで臨時の措置に止めざるをえず、したがって日本の治安要求への中国の日常的協力が必要と考えられた。11月30日の閣議では、撤兵に当たっては、「将来ニ於ケル共同討伐乃至帝国軍警越境ニ関スル日支協定ヲ訂立スルコト肝要ナリ(34)」として、満洲における日中共同の治安維持体制を作り出そうとする意図が示された。しかしこれに対して小幡公使は、中国の状況は「欧州平和会議以来極度ニ昂進セル主権擁護自主外交乃至利権回収論ハ溶々トシテー世ヲ風靡スルノ勢」であるとし、閣議の求めているような「支那ノ主権体面乃至ハ其ノ利害ト両立セザルガ和牛性質」の要求は「中央政府ョリハ絶対二承諾ヲ取付ケ得ル見込ナシ(35)」と述べているが、この見通しの通り、北京政府との交渉は進展しなかった。しかもこの間に、「勢力範囲」主義は国際的に否認されつつあり、結局日本は、日本に抵抗する徐古林省長の更迭を北京政府に認めさせる(36)など、実際には、日本に妥協的な張作霖が、満洲全体において支配的な独自の地位を確立しながら、自発的に日本に協力する勢力に成長してくることに期待をかけざるを得なくなっていた。

  満蒙を勢力範囲とする日本の主張が否定されたのは、1918年10月アメリカ政府の日英仏三国に呼び掛けに始まる、中国に対する新しい国際借款団結成の過程においてであった。それは4か国の銀行団によって、中国に対する重要な借款を管理しようとするものであるが、戦争終結後には、もはや西原借款のような日本の独走は実際に不可能となっており、日本側からみれば、中国市場に流入してくるであろう欧米の資本力に対抗するよりも、満蒙を日本の特殊利益地域としながら新借款団に加入して、発言権を確保した方が有利であると考えられた。しかし、満蒙における事業を包括的に借款団の対象から除外しようとする日本の「包括的満蒙除外主義」の主張に、米英が強く反対したため交渉は長引き、かつてのロシアのような提携相手を失って孤立した日本は、結局この主張を取下げざるをえず、除外範囲を満鉄とその関連事業や鉄道予定線などを具体的に列挙して承認を求めるという列挙主義に後退することで、ようやく妥協に漕ぎ着けたのであった。新四国借款団契約が正式に調印されたのは、琿春事件と同じ20年10月であった。

  第一次大戦中の野放図な日本の対中国政策は、次第に各方面より、締め付けられつつあったといってよい。対独講和条約の第一編に国際連盟規約が掲げられたことに象徴されるように、国家間の関係については、当面日本も、「国際協調」の一翼を担わざるをえなくなっていることは明らかであった。しかもその外側にソビエト連邦という新しい国家が出現する一方で、中国では軍閥内戦が繰り返されている。日本にとっても、状況はより複雑になっていた。



5 国際協調と満蒙問題

第一次大戦後の東アジアにおいて、日本と最も鋭く対立する可能性を持っていたのは、日本のかつての同盟者である帝政ロシアを打倒し、ソビエト連邦の形成に向かいつつある革命ロシアの勢力であった。彼らは、列強の軍事干渉を自力ではねのけ、アジアでは最後までシベリア出兵に固執した日本と対峙することとなる。しかしこの時点で、レーニンらの革命指導者たちは、ロシア革命をドイツ革命につなげるという世界革命への展望を実現できなかった代わりに、国内建設のための「息継ぎ」を可能にする状況が生まれたと捉え、戦時共産主義から新経済政策(ネップ)ヘ の転換を実現させた。

  そして外交面ではそれに対応して、資本主義国家と対等な国家として、国際関係の中に復活することに重点がおかれることとなり、やがて1924年以後には、スターリンによって理論的にも、世界革命論から一国社会主義論への転換が図られることとなる。そこではまた、干渉を避けるために資本主義の国際秩序とも協調する国家としてのソ連と、世界革命機関としてのコミンテルンの使い分けも生じた。日本の側からいえば、1925年の日ソ基本条約による国交の樹立と、治安維持法の制定による革命運動の弾圧とは、この使い分けに対応するものであった。

このようなソ連の動きはアジアではまず、中国に対する政策の中に現れていた。たとえば、1919年7月に外務人民委員カラハンの名で発表された「中国人民及び南北中国政府に対する声明」では、帝政ロシアが中国から侵略した、中東鉄路(日本では東支鉄道と呼んだ)を含む一切の権益を無償で還付する、としていたのに対して、翌20年9月の北京政府に宛てた第二次カラハン声明では、中東鉄路の扱いは、両国政府間でその経営に関して特別の取決めをする、という形に後退していた(37)。それはこの間に、ソビエト政府の関心が、反帝国主義運動の原則的実践から、国家としての利益の確保という方向に転じたことを示しているように思われる。そこには、この権益を無償還付することにより、元来一体のものであり日露戦争の際の分割譲渡によって成立している日本の権益にゆさぶりをかけるというような発想は見られない。それはソ連の政策が、当面、日本に脅威を与えるものではないことを示していた。

  中国では1923年、いわゆる二十一箇条条約がなければ、この年に遼東半島租借権の期限が切れるということから同条約の無効を主張する「旅順・大連回収運動」が展開されたが、中東鉄路の確保を目指すソ連の外交政策は、こうした中国の利権回収運動と連携することを困難にしていたように思われる。翌24年5月調印の中ソ国交回復協定のなかで、中東鉄路については、純商業的企業として両国の共同経営とすると規定していた。これによりソ連の駐兵権が正式に放棄されたのだから、前述したように、日露戦後の交渉のなかで、鉄道守備兵問題について、ロシアと同様の措置をとるとの約束を日本から取り付けていた中国側は、日本軍の撤兵を要求する根拠を得たことになる。しかしこの時期に並行して日ソ会談を行っていたソ連は、同年9月、日本の支持を背景としている張作霖とのあいだにも中東鉄路に関する協定を結んでおり、中国側のそうした行動を期待していなかったことは確かである。

  ソ連の対日外交は、1921年8月以来、大連会議、長春会談、東京予備会談、北京会談と断続的に続けられているが、その駆け引きは巧妙であり、ソビエト側はまず、民主有産制の極東共和国を前面に立て、日本側の緩衝国家ヘの幻想を誘いながらシベリアでの停戦を実現し、ついでソ連(22年11月極東共和国など諸共和国を統合してソビエト連邦成立)が主体となって、日本の利権要求を抑えながら、25年1月の日ソ基本条約の調印に至っている。しかし其の性格は守勢的であったとみるほかはない。この間、24年2月にイギリスがソ運を承認すると、ヨーロッパ諸国も承認に踏み切っており、この時期に、平穏な国家関係を回復し、紛争を避けながら一国社会主義の実現を図るというソ運の構想が実現に向かったといってよいであろう。それは反面からいえば、ソ連の存在が、長期的戦略における脅威、あるいはイデオロギー上の敵として政策構想の基底に組み込まれたにしても、当面の政策的対応を必要とする存在ではなくなったことを意味していた。

  第一次大戦後の日本が、もっとも直接的な対応を迫られたのは、ソ連の存在を無視して進められたアメリカの政策であった。アメリカの主導のもとに、21年11月から22年2月にわたって開かれたワシントン会議は、軍縮問題についての日米英仏伊の五か国会議と、東アジア・太平洋問題を討議するために、さらに中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルの四か国を加えた九か国会議の二種類の会議から成り立っていたが、この会議に極東共和国もソビエ ト政府も中国の広東政府も招かれなかったことは、アメリカがウィルソンの理想主義から後退していることを意味していた。

この会議において最初に調印された日米英仏の四国条約は、日英同盟を終わらせるために、太平洋方面の権利を相互に尊重することを約束したものであり、日本の孤立を象徴するものでもあった。そしてその孤立の背後に、二十一箇条要求など大戦中の日本の政策への批判があることは日本政府も十分に意識しており、全権団に対する総括的訓令は、「独り帝国過去ノ施措政策ノミヲ批判セムトスルカ如キ形勢ヲ生セシメサル様臨機適応ノ措置ヲ執ラルヘシ(38)」と指示しているが、孤立を脱するようなキメ手があるわけではなかった。

  すでに批判の目を持ってみられているシベリア出兵については、この会議の中で、なるべく早期の撤兵を保障する旨声明せざるを得なかったし、さらに講和条約調印を拒否している中国からは、山東問題に加えて、武力で脅迫されたいわゆる二十一箇条条約は無効だとの要求を突き付けられることになった。これらの問題は若干の譲歩によって切 り抜けたが、しかし対中国政策全体は、領土保全・門戸開放・機会均等というアメリカの主張を柱とする九か国条約に規制されることになり、そこには勢力範囲政策を排除することも明文化されていた。

  そして九か国条約はまた、こうした原則のもとに、中国が「自ラ有力且安固ナル政府ヲ確立維持スル」ための完全なる機会を供与すると規定しているが、それは現実にはこの会議に招請されている北京政府が、強固な統一政府に発展することを支援するという意味を込めたものと見てよいであろう。そして同時に締結された中国の関税に関する条約では、中国政府の歳入の増加を図る目的で、関税に関する特別会議を開くことを約束しており、いわば北京政府支援の協調体制として出発した点に、ワシントン体制の一つの特徽がみられた。

  ところでこの対中国政策における協調は、もう一つの、はじめての軍縮の実現という大きな成果を背景とすることで強化されていたといってよい。日本国内でもワシントン体制が積極的に受け入れられたのは、「軍縮」が平和を求める「世界の大勢」にそうものとして歓迎されたことを基礎としていた。ワシントン会議で実現されたのは、海軍の中の主力艦に関するものだけであったが、国内ではそれに続いて、陸軍軍縮が山梨陸相と宇垣陸相の手によって、二回にわたって実施されおり、軍縮は当面の政治的課題として定着していった。そこには慢性的な戦後不況のもとで、装備近代化の費用を捻出しようとする軍部の意図も存在しているが、しかし軍縮の気運は全体としては国際協調路線を支えるものであったといってよいであろう。

要するにワシントン体制は、軍縮と門戸開放をつなぐ国際協調で中国の中央政府を支援しながら経済発展を図ろうとする方向を持つものであった。しかしそれが安定したものとなりえなかったのは、中国中央と見なした北京政府が、分裂と抗争を繰り返す軍閥の連合に他ならなかったからであった。そしてそこには、日本が満洲における治安維持政策の支柱として期待した張作霖も、中央政府への参加を目指す軍閥の一員として含まれていた。張作霖も北京の政争と深くつながることによって成長してきた勢力であり、常に中央への進出を企てる存在であった。実際にも張作霖は、1920年の安直戦争、22年の第一次素直戦争、24年の第二次素直戦争と関内軍閥との内戦を繰り返し、25年11月には部下の郭松齢の反乱にあって一時は窮地に追い込まれている。それに対する日本の対応については、すでに紙幅がないので別稿(39)を参照していただきたいが、こうした事態は、朝鮮支配のたのめの治安維持の支柱と頼んだ張作霖が、中国本部との関係では、軍閥内戦による混乱を満洲に持ちこむ存在となっていること意味しているわけであり、「治安維持」の問題には、朝鮮との関係の上に、中国本部との関係が重ねられることとなった。

日本側の対策の基本は、1921年5月の段階で原内閣が決定した「張作霖カ東三省ノ内政及軍備ヲ整理充実シ牢固ナル勢カヲ此ノ地方ニ確立スルニ対シ、帝国ハ直接間接之ヲ援助スヘシト雖、中央政界ニ野心ヲ遂クルカ為、帝国ノ助カヲ求ムルニ対シテハ、進ンテ之ヲ助クルノ態度ヲ執ラサルコト適切ナル対策ナリ(40)」という考え方であった。それは、もし張作霖が満洲を中央から実質的に分離して支配し、中央政府もそれを容認するとすれば、列強との協調政策と満蒙治安維持政策との併存が可能となるという想定の上に立つものであった。

  しかし実際に混乱が満洲に持ちこまれる場合にはどうするのか。協調政策の旗手とされる幣原貴重郎が最初に外相の地位についた直後に、第二次素直戦争が勃発するが、戦乱が満洲に波及しそうになると、幣原は外交ルートを通じて両軍に対し「帝国自身ノ康寧懸リテ同(満蒙)地方ノ治安秩淳ニ存スル所」として、内政不干渉を唱えながら同時に「日本ノ権利利益」を「十分尊重保全」することを要求している。それは若しこの要求が満たされなければ、軍事力によっても満蒙を混乱から守るという発想につながりうるものであり、そうなればそこから、現地の軍事力である関東軍に、政治的登場の機会を与えることにもなるわけであった。

  翌年の郭松齢事件の際にも、幣原は外相の地位にあったが、今度は両軍への警告は、幣原ではなくて関東軍司令官の名によって行われているのであり、それは関東軍が、第一次大戦下で蓄積された「軍の威信」を背景とし、「統帥権の独立」という制度に守られながら、満蒙治安維持の主体としての地位を要求し始めたことを意味していた。

  「統帥権の独立」の問題は、国内政治における効果よりも、軍中央部でさえ、植民地駐留軍の行動を効果的に統制 し得ないという結果を生み出した点がより重要であったと言わなくてはならない。関東軍はそこから、治安維持に関する独自の判断による行動計画を準備するようになるのであり、特定の政治勢力がそれを利用して、いわば関東軍を迂回することによって、政策全体の転換を図るという可能性が生まれたということでもあった。そしてそれが現実となるのは、軍閥内戦の繰り返しと、コミンテルンに支持された国民革命の展開によって、ワシントン体制が相手としたはずの北京政府そのものが解体するという過程においてであった。

  すでにコミンテルンは1920年の第二回大会で「民族・植民地問題に関するテーゼ」を採択して、植民地・従属国の民族解放運動に目を向けており、22年1月にはワシントン会議に対抗してモスクワに極東民族大会を開き、アジア各地の共産党の組織化を進めているが、そうした活動のなかでの最大の成果は、24年1月の中国における国共合作路線の形成であった。共産党の組織力を吸収した国民党は、26年7月から軍閥打破・中国統一を目指して、国民革命軍による北伐を開始、年末には南京・上海を攻撃する態勢を整えるという破竹の進撃ぶりを示した。

軍閥勢力の敗北はもはや必至であり、動揺を余儀なくされたワシントン体制側は、反共クーデターによって国共合作を破壊した蒋介石に、次の期待をかけるほかはなかった。27年3月、南京占領の際の混乱に対して米英の軍艦が砲撃を加えるという事件が勃発すると、蒋介石は左翼を抑えつつ列強との妥協を図ろうとする態度を明確にし、4月にはクーデターによって南京に国民政府を成立させた。この過程で幣原外相は英国大使に対し「蒋介石ノ如キ中心人物ヲ見出シ之ヲ押立テ支那人自ラヲシテ問題ヲ解決シ時局ヲ収拾セシムルノ外ナシ(41)」と述べているが、それは前述の九か国条約にいう「自ラ有力且安固ナル政府ヲ確立維持スル」可能性のある勢力として蒋介石を評価したということになろう。

  そして蒋介石が態勢を立て直して北伐を再開すると、張作霖は之に対抗する最後の軍閥となるのであり、米英とともに蒋介石による統一を支持する国際協調政策と、張作霖を支柱とする満蒙治安維持政策とは、併存しえない状況に追い込まれてゆくことになった。ここで幣原に代わった田中義一首相兼外相は、山東出兵によって北伐を牽制する姿勢を示したが、それにもかかわらず張作霖が満洲に向かって敗走するという事態になると、両軍に満蒙治安維持を要求するという、前述した第二次奉直戦争における幣原外相と同様の措置を繰り返したに過ぎなかった。

  しかしここで、関東軍の中からは、満蒙に混乱を持ち込んだ張作霖を暗殺してしまうという、これまでの枠組みを 踏み越える行動が現われてきた。それは関東軍の中に、治安維持の主体としての意識と、独自の行動への欲求が蓄積 されていることを示すものであったが、その結果は期待とは逆のものとなった。張作霖の跡を継いだ張学良は、28年末には満洲に一斉に青天白日旗を掲げさせ、それによって、国民政府による中国統一が完成されることとなった。

  ついで29年7月の浜口内閣の成立により、再び幣原が外相の地位に戻り、翌30年4月海軍軍縮に関するロンドン条約に調印、5月には国民政府と関税協定を結んで中国の関税自主権を認める、という表面の動きを見ると、日本の政策は、国際協調路線に一元化されてゆくように見えた。しかしその背後では、「満票問題の解決」を叫ぶ軍部右翼の連合が出来上がり、関東軍の独走によって満洲事変が引き起こされ、政策体系は一挙に「満洲国の建設」へと転換されてしまうのであった。

  それは、ワシントン体制下の日本の対中国政策が、中国中央での軍閥抗争状況を前提として構成されており、その状況が除去されるとともに、政策内部の矛盾が露呈したということ、そしてその矛盾が、関東軍を媒介とすることにより、満蒙治安維持を絶対化する方向で解消されたことを意味していた。

  満蒙治安維持とはすでにみてきたように、ロシア革命と朝鮮独立運動に対抗して形成されてきた政策理念であり、特殊利益、勢力範囲といった要求が国際的に通用しなくなってくるとともに、全面に押し出されてきたものであった。 しかしそれは、他国の一部を自国の利益に従属させるという点では、勢力範囲と同じことであり、中国との対等の関係を確立するためには、破棄しなければならない要求であった。しかしそのことは、幣原外交においても、ほとんど意識されることはなかったように思われる。

  それは幣原外交もまた、国民の対中国意識のあり方に規制されていたということであろうか。第一次大戦中に強められ広められた中国に対する侮蔑を基礎とする優越感は、大正デモクラシーによっても解体されることはなかったし、さらにその基底では、満蒙を20万の将兵の血と20億の巨費であがなわれた明治天皇の遺産とみる天皇制的意識が形成され、大衆を呪縛していたことであろう。現地軍における統帥権の独立と、国内における大衆的中国侮蔑感とは、対中国政策の構造的改造を困難にするものであった。そしてその大衆意識は、満洲事変への共鳴板として鳴りはじめ、状況を一挙に転換させることになるのであった。




(1)

大山梓編『山縣有朋意見書』(1966年、原書房)278〜9頁。

(2)

『日本外交文書 別冊 日露戦争X』文書番号294、522〜3頁。

(3)

『日本外交文書 第38巻第一冊』文書番号148、284〜5頁。

(4)

同前、文書番号135、150頁。

(5)

同前、文書番号127、142頁。

(6)

清国との交渉方針についての明治38年10月27日の閣議決定は、冒頭で「今回露国ト講和ノ結果満洲ノ一部ハ帝国ノ勢力範囲ニ帰スルコトトナレリ」と述べている。外務省編『日本外交年表並主要文書』上(1955年3月、日本国際連合協会、のち原書房より再刊)51頁。(本書に収録されている文書は、『日本外交文書』よりも利用に便利な本書による)。

(7)

『日本外交文書 第四十巻第二冊』文書番号1139、326〜7頁。

(8)

『日本外交文書 第四十二巻第一冊』文害番号350・363、398・409頁。

(9)

前掲『日本外交年表並主要文書』上、332頁。

(10)

『日本外交文書 別冊 清国事変』文書番号531、377〜8頁。

(11)

同前、文書番号533、381頁。

(12)

栗原健「第一次・第二次満蒙独立運動と小池政務局長の辞職」、同編『対満蒙政策史の一面』(1966年6月、原書房)所収、141頁。

(13)

芳澤謙吉『外交六十年』(1990年、中公文庫)60頁

(14)

『日本外交文書 大正二年第二冊』文書番号404、438〜9頁。

(15)

同前、文書番号413、453頁。

(16)

同前、文書番号410、447頁。

(17)

同前、文書番号422、461頁。

(18)

同前、文書番号404、437頁。

(19)

古屋哲夫「アジア主義とその周辺」参照、同編『近代日本のアジア認識』(1994年3月、京都大学人文科学研究所、1996年7月再刊、緑陰書房)所収。

(20)

前掲『日本外交年表並主要文書』上、332頁。

(21)

同前、418〜9頁。

(22)

北村敬直編『夢の七十余年 西原亀三自伝』(1965年4月、平凡社東洋文庫)88〜112頁。

(23)

『日本外交文書 大正五年第二冊』文書番号663、604頁。

(24)

同前、文書番号617、762〜4頁。

(25)

参謀本部編『大正七年乃至十一年 西伯利出兵史』中(復刻版、1972年9月、新時代社)870頁。なお原書は「秘」扱いで大正13年2月1日印刷、参謀本部印刷所とある。

(26)

山東鉄道の占領については、臼井勝美『日本と中国―大正時代―』(1972年9月、原書房)50〜52頁参照。

(27)

「三・一運動日次報告(国外篇)」による。美徳相篇『現代史資料26 朝鮮(二)』(1967年1月、みすず書房)所収。

(28)

美徳相篇『現代史資料27 朝鮮(三)』(1970年1月、みすず書房)、資料解説34頁。

(29)

前掲『日本外交年表並主要文書』上、511頁。

(30)

斎藤朝鮮総督は、大正9年4月23日に原首相を訪れて、張作霖との交渉について報告している。原奎一郎篇『原敬日記』5(1981年9月、福村出版)233頁。

(31)

美徳相篇『現代史資料28 朝鮮(四)』(1972年6月、みすず書房)、65頁。

(32)

この事件については、東尾和子「琿春事件と間島出兵」『朝鮮史研究会論文集』第14集(1977年3月、龍渓書舎)所収を参照

(33)

『日本外交文書』大正10年第二冊、文書番号413、附記7、530頁。

(34)

同前、附記14、539頁。

(35)

同前、附記17、545〜6頁。

(36)

古林省長は、1920年9月2日付で督軍鮑貴卿の兼任となる。園田一亀『怪傑張作霖』(1922年4月、中華堂)289頁。

(37)

新島淳良「戦前の中ソ関係」『アジア・アフリカ講座』第二巻(1965年1月、勁草書房)所収、173〜6頁参照。

(38)

前掲『日本外交年表並主要文書』上、529頁。

(39)

古屋哲夫「日中戦争にいたる対中国政策の展開とその構造」同編『日中戦争史研究』(1984年12月、吉川弘文館)所収。

(40)

前掲『日本外交年表並主要文書』上、524頁。

(41)

「南京事件ニ関シ在本邦英国大使、幣原大臣来訪ノ件」外務省松本記録PVM27『南京事件交渉解決関係』所収。