『大正期の急進的自由主義』

1972年12月

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ファシズム前夜の政治論


表紙

古屋 哲夫

1 行詰り状態の認識
2 「自由討議の精神」と治安維持法批判

3 地方分権主義の提唱
4 政党・議会の改革をめぐって
5 ファッショ化のもとで



3 地方分権主義の提唱


 1925(大正14)年4月、政友会は高橋是清に代えて、参謀次長・陸軍大臣を歴任して大正期陸軍の中枢を歩んできた田中義一を総裁に迎えた。『新報』はこのできごとをとらえて、「民衆政治家の出現を待つ」と題する社説(大14・4・18)をかかげ、政友会が田中をかついだのは、田中が元老方面のおぼえめでたく、金も動かせ、つぎの政権がかれにくるという希望がもてることなどの理由によるのであろうが、このような事態が現われた「根本の原因は、我政界の行詰りにある。換言すれば、真に民心を収攬し、其力を組織立つるに足る政治家及政党がないことだ」と断じた。

 

 今回田中男が突如として政友会の総裁に就任したのは、詮ずる所我国に未だ民衆基礎の政治の起らず、其起るは前途尚ほ相当遼遠なることを示すものである。希望は、かの普通選挙制実施の結果に懸けられるわけだが、併し民衆の力は、之に組織を与ふるにあらざれば、有効に働かない。

 この組織化の問題には多くの人が気づいているにもかかわらず、それが実現しないのは、民衆を「組織立つべき思想がない」からだと指摘するのである。そしてこの「思想」について、つぎのように書いている。

 

 思ふに、其第一は、個人の精神的及物質的生活の自由、少くもそれに対する機会均等を得せしむることである。第二は右の目的を達する為め、必要なる資源を見出すことである。ここには租税制度その他が問題とならう。誰れか速かに此思想をつかんで、民衆政治家となる者ぞ。国民は其出現を長目して待つてをる。


 しかし、『新報』はただ手をこまねいて、このような「思想」が生まれるのを待っていたわけではなかった。この時期に新たに声高く主張しはじめていた地方分権主義は『新報』にとって、民衆を組織立てる思想という意味をもっていたのである。

  『新報』はすぐに1922年3月18日の「小評論」で、「労働運動乃至政治運動」に対する警察の「乱暴な干渉」をやめさせるにはどうすればよいかという問題に、つぎのように答えて、地方分権主義への一歩を踏み出していた。

 

 (警察の干渉をやめさせるには)警察制度を根本的に改造し、政府の手から之を奪ひ、地方自治体の管轄に移す以外に、之を矯正する方法はあるまい。…警察を地方自治体の管轄に移すと同時に必要なるは知事の公選である。…地方の自治を発達せしむる上から見、又知事を中央政府の爪牙として、勝手な干渉を選挙其他に加ふる弊風を杜絶する上から見、最も必要な改革である。警察のみを地方自治体の手に移しても、其自治体が政府の手代の管轄する所では役に立たない。

  しかし『新報』が地方分権主義を重要な主張の1つとして取り上げるに至るのは、関東大震災を契機としていた。すなわち『新報』は、被災地復興が大規模に計画的に行なわるべきであり、その場合、被災した土地を市町村の公有とすべきだと主張したのである*。そしてその背景には、地主が土地の値上がりにより不当に不労所得を得ているという考え方があった。つまり、被災地を安い価格で買収して(代価は長期公債を交付)市町村の公有とし、市町村を地主とすることによって、復興による土地の値上がりの利益を市町村に与え、同時に都市計画実行の妨げとなっている土地問題を解決しようというのであった。

*

震災地復興問題については、大12・10・1、社説「罹災市町村は土地公有を断行すべし」、大12・10・6、社説「東京以外罹災市町村の復興と政府の援助」、大12・10・13、社説「重ねて罹災市町村の土地公有断行を勧む」、大12・10・27社説「都市計画の難問は土地問題に在り」、大12・11・3、社説「収用土地の価格」、大12・11・10、社説「土地偏護の妄執」などを参照されたい。

  これらの提言は、実現されることなく終わったが、しかし『新報』はそれを通じて、市町村を主体とし、土地に対する租税を財源とした地方自治体の活動に、現状打破の力を求めるようになっていった。『新報』はまず、このような観点から、全国町村長会の動向に目を向けた。

  1924年8月9日号の社説「町村自治権拡張の運動」は、8月27日に開かれる予定の全国町村長会の臨時総会において、府県知事の公選・郡長廃止とその職権の町村自治権への移嘱、市町村に対する国務委任範囲の拡張、地租および営業税の地方移譲、町村の分合などを要求する建議案が決議される形勢にあることを報じた。そしてその「精神的基礎」として、前年11月8日の臨時総会が、中央集権の矯正と地方自治権の拡張、根本的な行政および軍制の整理、地租および営業税の地方委譲などを決議したことを取り上げ、その精神をつぎのように理解した。

 

彼等は…政治の腐敗、経済の行詰は、地方自治権の尊重と拡張、換言すれば地方自治の改善刷新と相待つのでなければ、到底真の解決は出来ぬとの信念に立ち、そして同時に、地方自治の改善刷新は、必らず行政及軍制を改革して国民の負担を軽減し、税制を整理して、自治体の財源を先づ豊富にするのでなければ、是又到底達せられぬと主張するものである。

  つまり、「自治権拡張の運動が、遂に一国全体の行財両政整理にまで突き進めるは、誠に自然の帰結」というのであり、それは逆にいえば、地方自治権拡張運動こそが、政治の腐敗・経済の行詰りを打開する力を持つとの認識にゆきつくものであった。『新報』はすぐさま、地方分権主義の主張を正面からうち出していった。

  その翌日、1924年9月6日号は「行政改革の根本主義―中央集権から地方分権へ」と題する社説をかかげた。この社説は、政治の行詰りの根本原因を中央集権主義の行詰りにあるとみることにより、地方分権主義の行詰りを打破する力として対置したのであった。まず明治維新以来の「我が政治が国民の政治でなくて官僚の政治であり」、中央集権主義であり画一主義であったのは、「有ゆる一切の施設は中央政府の諸僚によつて考案実施され、民業の発達亦中央政府の指導に俟つ外に手の出しやうはない」という状況のもとではやむをえなかったとする。しかし現在ではこの状況は変化し、「政府の指導的地位は、最近ニつの理由によつて、全く根本から動揺するに至つた」というのである。

  「二つの理由」とは、一つは「官僚が国民指導の力を失つたこと」であり、他は「国民が官僚以上の実力を養つたこと」に求められている。そしてさらに、「老ひたる官僚頭目の口から、国民思想の悪化とか、国民思想の善導とか、国民思想の統一とか云ふ繰言を聞くに至つた」のは、国民が官僚の指導から離れて「独立独行し得るに至」ったためであるとみているのであるが、この点は、思想・言論の自由の問題との関連においても注目に値すると思われる。つまり『新報』は、国民が官僚の指導を離れているにもかかわらず、行政組織は官僚が国民を指導しえた時代のままに残されていること、これこそ「我が政治が最近各方面に於て著るしく行詰るに至つた根因」であるとの結論に到達したのであった。

 

 元来官僚が国民を指導すると云ふが如きは、革命時代の一時的変態に過ぎない。国民一般が一人前に発達したる後に於ては、政治は必然に国民によつて行はれるべきであり、役人は国民の公僕に帰るべきである。而して、政治が国民自らの手に帰するとは、一は斯くして最もよくその要求を達成し得る政治を行ひ、一は斯くして最もよく其政治を監督し得る意味に外ならない。このためには、政治は出来るだけ地方分権でなくてはならぬ…我現在の行詰を打開する第二維新の第一歩は、政治の中央集権、画一主義、官僚主義を破殻して、徹底せる分権主義を採用することである。

 この社説はいわば、『新報』の分権主義宣言ともいえるものであった。以後、昭和初年に至るまで、この分権主義の立場が、『新報』の国内政治論を特色づけることになるのであるが、それを内容からみれば、府県廃止論と地租・営業税、とくに地租の地方委譲論を柱とするものであった。

  『新報』が知事公選論を支持したことはすでにふれたが、それは自治体の首長は公選であるべきだという民主主義の原則論的な観点からの主張であり、その点は、のちにいたるまで一貫していたとみることができる。たとえば、1924年9月27日号の社説は「市町村長に市町村会の解散権を与ふべし」と論じたが、府県の問題にもふれながら、民主主義の原則をつぎのようにのべている。

 

 府県長官及部長等は今日でも官選だが、府県を置く限りは、之も亦民選とすべきである。吾輩は総ての場合に於て、自治体の長及其吏員を、自治体民の意志に依らず、天下りせしむることに反対だ。…自治体の長に解散権を与ふる必要条件はそれが民選であることである。


 しかし、これはあくまで既成の自治体というものを前提とした議論であり、地方分権主義を全面的に展開するためには、一体自治体とはどのような役割を果たすべきものなのか、そのためには、どのような条件が望ましいのかといった問題に答えねばならなかった。

  『新報』はまず、自治体は「小なれば小なる程」よいという原則を立てた(大14・6・6、社説「地方自治制と市町村」)。といっても、何も仕事ができないほど小さくては仕方がないが、「相当独立した仕事の出来る限り」は、「地域の比較的小なる」ことが地方自治体の「肝要な点」であるというのである。せまい地域であればこそ、住民は政治に直接に関与しその可否を判断することができる。また政治の善悪は、すぐさま住民の利害に関係するのだから、住民も無関心でいるわけにはゆかなくなる。さらに、このような地方自治体の政治のあり方が実現されれば、それは「国民の公共心と聡明とを増進する実際教育の役目」を果たすことになる、という点を『新報』はとくに強調したのであった。

  これに対して中央政治のような「大なる地域にわたる政治」においては、「多数の国民には直接の利害なく、理解し難き事柄が多い」うえに、「政治に関する機会は頗る乏し」いのだから、政治に関する実際教育の役割などを期待するわけにはゆかない、とする。つまり『新報』は、国民の政治的関心の低下という事態に直面して、一方では次節でのべるような、政党や議会を政策本位に改造するための方策を提唱したのであるが、それだけでは政治的関心を高めることはできない、地方自治における政治的実際教育を基礎とすることによってはじめて、中央政治をも改革しうるような、高度の政治意識を生み出し、組織することができると考えたのであった。

  このような観点からすれば、真の地方自治体としての活動を期待できるのは市町村である、という結論が生まれるのは当然であった。府県は住民が自分の利害のうえに立って、自ら政治を行なってゆくには広すぎると考えられた。したがって府県会は「衆議院を一層劣等にしたる如き政争にのみふけり、知事と其下僚とは、中央の諸官衙に於ける役人以上の官僚ぶりを発揮し」ているのは、府県が自治体として発達する条件を備えていないからだ、ということになるのである。

  しかるに、現行の地方自治制度は、この最も基本である市町村にほとんど自治の実質を与えていない。それは税制に最もよく表れており、府県はともかくも、独立税を賦課する権限を与えられ、歳入の半額以上はこの独立税によっているのに対して、町村の場合には、「租税収入の9割8分迄は国税及府県税付加税」であり、市の場合でも税収の8割以上は付加税である。これでは、市町村には「政治上に最も肝要なる租税の増減に就て、些の自主権も」与えられていないというほかはない。

  以上のような、地方分権主義の意味づけと現行制度への批判とを媒介として、『新報』は知事公選論から府県廃止論へと転じた。『新報』はすでに1924年8月30日号の社説「行財政整理の中心」で府県廃止にふれていたが、1925年6月20日号の社説「市町村に地租営業税を移譲すべし」および同年9月12日号の社説「町村自治権拡張の為に府県制を廃すべし」において、自治体としての府県を廃し、「府県庁は中央政府の出張所」とせよとの主張を正面からかかげた。そして府県廃止の効果として、つぎの3点をあげた。

 

 第一、町村に独立税賦課の範囲が拡張せられる、…第二、府県制廃止の結果、自治体としての府県の仕事の大部は、勿論町村に渡される、…第三、選挙騒ぎの弊害が少なくなる(大14・9・12、社説)。


  このうち、中心はいうまでもなく第一と第二であるが、それはそのまま『新報』が到達した地方自治論の構想を示すものであった。

  それは、従来の『新報』の論調からいえば、大きな転換であった。第一の独立税の問題にしても、地租委譲によって市町村が独自に徴収しうる財源を拡張し、地方自治の基礎を確立しようとすることにほかならないが、それまでの『新報』は、地租委譲に反対の立場に立っていたのであり、その論点の180度の転換を示していた。たとえば1921(大正10)年7月2日号の『新報』は「地租営業税地方委譲不可」とする社説をかかげ、地租委譲は、ただでさえ不均衡な地方財政をますます不均衡にするだけだと反対していた。そして地方財政を救うためには、地方にとって最大の負担である義務教育費を国庫負担にすべきであるとし、

 

されば若し地租営業税を依然として国庫に収納し、而して之に相当する金額を、義務教育費として、必要に応じ、各地に配分するならば、恰度、義務教育費は全額国庫が負担することとなり、而かも殆ど過不足なき状態を示すのである。

と論じているのである。のちにみるように、『新報』は、地方分権主義を提唱して以後は、義務教育費国庫負担論は、地租委譲と対立する中央集権主義であるとして真っ向から反対するにいたるのであり、この論点はまさに逆転しているといってよい。このことは、『新報』の観点が、地方財政の救済という点から、地方自治の確立へと転換したことを示すものにほかならなかった。

  地租委譲は1924年の全国町村長会についで、25年には政友会が党の重要政策の1つとして取り上げるにいたり、以後昭和初年、田中内閣時代を通じて政治的争点として争われた問題であった。『新報』はこれらの動きに支援をおくりながら、地方分権主義を確立していったのであった。

  新しい立場からの『新報』の地租委譲論の特徴は、第1には、地租委譲論を、改めて市町村中心・府県廃止を軸とする地方分権主義のなかに位置づけられたことであった。すなわち、地租の地方委譲という場合の地方は、府県でなく市町村でなければならないという点が強調されたのは当然であったが、同時に、市町村の地租課税に対する中央からの干渉をやめて自由な課税を認め、市町村の中央からの自立を促進する形で問題が解決されねばならないとしたのであった。

  『新報』の地租委譲論の第2の特徴は委譲する地租に不労所得税としての性格を与えよと主張したことであった。『新報』は、すでに土地増価税を主張し(第10章参照)、また、震災復興問題でも地方分権問題とは別に、地価の騰貴により地租の負担が著しく軽くなり、地主は不労所得を得ていることを強調していた(たとえば、大12・11・10、社説「土地偏護の妄執」)。そして「現代の租税制度に対する重大なる要求の一が不労所得の没収にあること、而して其不労所得の源泉として土地が最も大なるものに属することは、理論として蓋し何人にも異存なき所」(大14・5・2、社説「不労所得課税の目的を以て地税を改革せよ」)というのが、『新報』の原則的主張となっていた。

  これは、地租に不労所得課税の性格をもたせれば、大幅な増収が可能であるということにほかならず、やがて地方分権主義と結びついて、この大増収が可能な地租を、市町村に与えるならば、市町村は中央から自立した独自な活動をなしうるであろうとの主張に発展してゆくのであった。

  前掲社説では、国税としての地租を不労所得課税の方向に改革してから地方に委譲すべきだとしていたが、翌月には、「地租に就ては、之を市町村に移譲すると同時に、今日の土地台帳制は全然廃して、不労所得課税の趣旨に依る収益税に改めねばならぬ」(大14・6・20、社説「市町村に地租営業税を移譲すべし」)と主張するにいたっている。それはさらに、地租の課税基準を地価から賃貸価格に代えようとする動きとも関連して地租は「それぞれの地方の状況に応じて、何んなにも親切に一筆毎に実際の賃貸価格なり、地価なりを調査し得る」市町村に与えてはじめて課税の目的を達することができるという、より積極的な主張に発展していったのであった(大15・4・17、社説「国税地租の破綻」)。

  『新報』はまた、このようにして地租を市町村に委譲するならば、「其税額は恐らく今日の数倍にすることが難くない」と確信し、これまで地方に「中央政府に依頼するの弊を養」い、「地方自治の道徳的堕落」の原因となっている「一切の地方事業に対する国庫補助金の全廃」が可能となると論じたのであった。(大14・7・4、社説「両税移譲と中央財政」)。そして、このための条件として、「地租の課税標準たる土地賃貸価格の査定を年々(若しくは年々たらずとも頻繁に)行ふの制度とせねばならぬ」(昭2・8・27、社説「重ねて地租の市町村委譲に就て」)こと、「其税率の決定を、市町村の自由」(昭2・12・10、社説「地方税改正に就て政府の熟考を望む」)にまかせねばならないこと、などを主張したのであった。

  では『新報』は、このような強固な財政的基礎を与えることによって、市町村にいかなる活動を期待したのであろうか。『新報』はまず、府県を廃止する場合、府県の行なってきた仕事のうち、「土木教育勧業等の大部分及警察の一部(行政警察)は「真の地方事業と呼ばれるべきもの」で、これは当然、市町村または市町村の連合団体の自治にまかさるべきだと考えた。したがって府県庁を縮小した中央政府の出張所の仕事は、これら市町村の事業を大局から統一することと、司法警察などとなろうと想定した(前出、大14・6・20、社説)。

  そしてつぎに、市町村がこれらの府県の事業をうけついでいく場合に必要なこととして、市町村が内容ある都市計画あるいは町村計画を立てること、および「事業を中心とした」市町村の連合を発展させなければならないことを強調したのである。市町村、とくに町村の連合は、直接には、単独の町村では、これまでの府県の仕事を引きつげないことを考慮したものであったが、『新報』はさらに積極的に、一定の事業計画のもとに、町村連合による事業経営の発展をのぞんだ。そして農村を例にとるならば、「耕地の改良、開墾、排水、用水、植林、動力機械の利用、耕作物の選択乃至副業の培養、教育、或は土地管理の方法の如き、夫々其地方の事情に応じて、一村或は事柄に依り数村数十村連合し一定の計画を設けて遂行すべきものではないか」(大14・6・13、社説「都市計画の意義の拡充と町村計画」)というのである。つまり、このような事業計画を確立実行することは、「取りも直ほさず、市町村に其経済教育の支配力を托す」ことを意味するのであり、教育の画一化による弊害などは「たちどころに根絶するであらう」(同前、社説)と断じたのであった。

  このような『新報』の自治論の発想の基底をなしていたものは、地方自治の根幹を産業自治に求めようとする志向であった。『新報』はすでに1924(大正13)年10月4日号・11日号に連載した社説において「町村を産業指導機関となすべし」と提唱し、「蓋し町村は産業自治の基本的組合と云ふべきものである」と規定した。また「我国の町村も、産業組合に基礎を置き、産業の自治及び発展の世話指導を中心本務となすべきものである。さうせぬ限り、我国には真の自治は起り得ぬ。又、真の産業発展も期し得ぬであらう」とものべている。そしてそこには、「面積の広さや単なる工作に依頼する農業は既に終りを告げ、農業の工業化」以外に、今後の発展の道はないとする認識がかかわっていたのである。

  このような『新報』の地方分権主義の展開をみると、それはもはや、地方自治による政治的実際教育によって、行詰りを打開する力を生み出そうとするという志向をこえて、従来のデモクラシー論とは異なった次元を展望しているようにもみえる。つまり、市町村の事業本位の連合を全国的に積みあげてゆくならば、それは、個人を政党によって議会に媒介するのとは異なった政治組織に到達するはずである。このころ『新報』は、他面では、職能代表制に関心を示しはじめていた。

 

 (現代では)国家の荷ふべき任務は、現在の議会の処理し得る能力に比し、あまりに複雑に、あまりに過多になつて(おり、したがって)新たなる時代に適合する議会制度とは、議会を今日の如く地理的代表者によつて組織する代りに、各職業別の団体より代表者を選出する、所謂機能代表となすことであると思ふ(大15・5・29、社説「英国炭鉱争議と議会政治の破綻」)。

 しかし、地方分権主義と職能代表制がどうかかわるのか、新しい政治組織はどうあるべきなのか、といった問題に、『新報』はこれ以上深入りしようとはしなかった。

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