『大正期の急進的自由主義』

1972年12月

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ファシズム前夜の政治論


表紙

古屋 哲夫

1 行詰り状態の認識
2 「自由討議の精神」と治安維持法批判
3 地方分権主義の提唱
4 政党・議会の改革をめぐって
5 ファッショ化のもとで



5 ファッショ化のもとで


 日本の軍備の直接の対手は米国である。米国とさへ充分の妥協が行なはるれば、日本は先づ一兵を備ふる要もないと云ふて好い。…対手は何処までも米国である。日本は軍備を撤廃しやう、米国は何うして呉れる、相談は之で沢山だ(昭2・3・19、時評「財部海相の覚悟や如何」)。

  『新報』は1927年のジュネーブ海軍軍縮会議を前にしてこう書いていた。これはワシントン会議に対する態度と全く同様であり、軍備撤廃をめざして軍縮を行なえとする主張は、『新報』に一貫したものとなっていた。また、軍拡競争は日本の財政の耐ええないところであるばかりでなく、日本の財政は軍縮による救済を必要としているとの主張も変わってはいなかった。「ワシントン会議を成功せしめた加藤友三郎海相は…啻に我財政の破綻を救つたのみならず、又実に日本の海軍が、競争の結果惨めな劣勢に陥るの危険を防いだ」(同前)という評価は、『新報』の軍縮問題に関する基本的観点を示していた。

  『新報』にとっては、軍艦保有量の比率が少々悪かろうがそんなことは問題でなく、建艦競争を停止させることが先決であった。緊縮を必要とする財政のなかで「若し真に節減せらるべき部分があるとせば、陸海軍費を除いて、他には殆んど存在しない」(昭4・8・24、社説「浜口財政は整理緊縮の実に遠し」)とみていたのである。

  それゆえ、ジュネーブ会議が失敗に終わったあと、1930(昭和5)年、ロンドン会議が開かれると、その成功を願うとともに、「倫敦軍縮会議の財政的重要性」(昭5・1・25)、「倫敦会議に於ける主力艦問題」(昭5・2・1)、「倫敦会議による製艦費節約額」(昭5・4・19)などの社説を掲げ、いずれも財政的観点を中心として、協定の意義を強調したのであった。そして軍縮協定調印が確実となった4月19日号の社説では、これにより、建艦費に人件費・維持費などを加えると、「我海軍費の節約額は年恐らく1億2、3千万円に達するであらう。…軍縮会議はここに重ねて我財政の救主となつた」と大歓迎の意を示したのであった。

  したがって、この協定の調印が軍令部の意向を無視した統帥権干犯であるとの非難が起ってきたことは、『新報』の心外としたところであった。 1930(昭和5)年5月31日号に「統帥権の要求は議会制度の否認」なる社説を掲げた『新報』は、全権団が多少の対米比率の譲歩をもってこの協定をまとめたのは成功とみるべきであり、「軍令部としては、寧しろ国民の負担し得る限りの海軍費を以て国防の安全を期すべきであつて、我財政の安危を無視して国防の安全を説く如きは全く意味をなさぬ」と論じた。

  また統帥権については、「既に今日の時世に於ては許すべからざる怪物」であり、「結局は国民の負担たるべき兵力量の決定が、議会と内閣を離れたる軍部の帷幄上奏の如き冥暗裡の作用によつて左右せらるゝことの不当は云ふまでもない」として、政府の態度を支持したのであった。統帥権独立の主張を議会政治の否認を結果するものとみた『新報』は、またつぎのようにも論じた。

 

 我憲法は、天皇を輔弼し其の責に任ずる者は、国務大臣の外にあらざることを明記してをる、陸海軍統帥に就て亦天皇を輔弼し其の責に任ずる者は、国務大臣の外にあるべき筈がない。…仮りに憲法其他の法律の明文が何うあらうと、軍事を全く政府から隔絶した軍人独占の機関の支配に委すると云ふことは、我今日の国民の政治意識の断じて許さゞる所だからである(昭5・8・2、社説「濃厚化せる政変来の予想」)。

 しかしこうして、議会政治を常識化することに努めた『新報』も、軍部をはじめとする議会外部の勢力の活動が活発化し、それがしだいに、議会内部にも浸透しつつあることを感じないわけにはゆかなかった。

  すでに、その前年の1929年7月には、田中内閣が関東軍の張作霖爆殺事件の責任問題のため、予想外の時期に突然倒れるというできごとが起こっていたが、そのとき『新報』はつぎのように評していた。

 

 我内閣の更迭が、殆ど総ての場合に於て、政治的責任の無い側面の力に依つて起さるゝことを遺憾に思ふ。…併し斯様に我政治に毎々に裏面の力、或は政治的に無責任の力が強く働くかの原因を考ふるに、畢竟政治そのものに、斯かる力を働かしむる隙があるからに外ならない。…例えば今度の田中内閣の場合にしても、不戦条約或は満州某重大事件の如き、議論の存する問題は(其何れの議論の正しいかは別として)総て議会で公に之を討論することを回避し、而して政府は議会を通さず窃かに之を処理しやうと計つた。斯う云ふ態度を政府が採り、而してそれが成功する限り、議会は事実上政治に無力ならざるを得ぬ。…而して議会が政治に無力なれば、自然之に代へた力が現れて政治を動かさゞるを得ず、即ち裏面の力、政治的無責任の力が権柄を持つに至るのである(昭4・7・6、時評「田中内閣倒る」)。


  この「裏面の力」、「政治的無責任の力」は、ロンドン条約問題を機としてしだいに膨張していった。そうした背景のもとで、1930年11月には浜口首相が狙撃され重傷を負ったが、このときも『新報』は、浜口内閣に「果して政府専断の嫌ひはなかつたか、国民の或部分に不平を醸成する因はなかつたか」(昭5・11・22、社説「首相遭難の根因」)として議会政治の民主化を求めたのであった。しかし、議会の外で強まってきたファッショ的動向を、議会政治の改良によって吸収することは望みうべくもなかった。むしろ、議会のほうが、ファッショ的動向に巻き込まれつつあった。

  軍部との結びつきを強めつつあった政友会が、幣原首相代理の発言をとらえて議場を大混乱に陥れたとき、『新報』もついに問題はすでに議会主義の枠をはみ出していることを認めざるをえなかった。『新報』はこの事件をとらえて、「国を挙げて非合法化せんとす」と題する社説(昭6・2・14)をかかげた。そして、幣原失言問題による「衆議院の暴動化」の底に「根本的な政状の変化」があることを指摘しようとしたのである。

  この社説はつぎのようにいう。「近年の我衆議院が動もすれば暴動化する真因は、我政治制度が全体として非合法化せる結果」である。ここで政治の合法的とは「万機公論に決す」ことであるが、わが国の政治の現状では、選挙は「金力と警察力に支配せら」れ、議会では多数党が政策の良否にかかわらずその欲するままを強行し、したがって「内閣の更迭は、議会の討論の結果からは絶対に起ら」ず「我国の政治は、常に一種のクーデターが行なはれてゐるに等しい」、在野党は「理窟では政権を掌握する機会は来ないから如何なる無理な方法を講じてゞも、反対党内閣を傷つけやうと」し、「議会は暴力横行の惨状をも呈するに至るのである」。しかもこのような暴力横行は議会だけのことではなく、労働争議・小作争議、家主と借家人の関係など「仔細に我国の現状を観察すれば非合法行為の瀰漫せること実に驚くべきものがある」。ではこのような現象は一体どう説明すべきなのか。

 

 過去の歴史に之を観るに、総て社会の制度が固定し、柔軟性を失ひたる時には、極つて非合法的暴力が盛行する、暴力に依っての外には、固定したる社会の制度を動かし、多数者の要求を充す方法が無いからだ。近代の社会は、此制度の固定を防ぐ手段としてデモクラシーの制度を発明した。万機公論に決するそれである。が此近代の発明も、今や再び効能を失ひつゝあるのであらうか。それとも又特に我国に於て其運用の正しからざる為め、上記の如き現象を呈し国を挙げて非合法化せんとしつゝあるのであらうか。

  ここでの「非合法化」とは、「暴力横行」の現象を核として、デモクラシーの発展を阻害するすべての動きを把えようとしたものであることは明らかであろう。『新報』はまだ、軍部の政治的動向やファシズムの問題に眼を向けず、問題を「暴力横行」一般に解消し、一般的な行詰り論の枠組みで把えようとしているといえる。しかし、情勢は、デモクラシーの効能を疑わしめるまでに進行し、「国を挙げて非合法化しつゝある」と断じたことは、感覚的にではあれ、ファシズム前夜の雰囲気を鋭敏に感じとっていたというべきであろう。

  金解禁のもとで、世界恐慌にまきこまれた日本経済は不況のどん底に落ち込み、政治の裏面では、不発に終わったとはいえ、軍中枢部をも含んだクーデターが計画(三月事件)されているときであった。そしてこのほぼ半年後には、「満州事変」が文字どおり「非合法」に開始されることになるのであった。

  『新報』のいらだちを示すような社説がつづく。1931年4月18日号では、井上蔵相が議会末期の言明を閉会直後に手の裏をかえすようにひるがえして、政友会領袖から膝詰談判で辞職を迫られるという事件を取り上げ、「近来の世相たゞ事ならず」と論じた。ついで5月2日号では、「指導階級の陥れる絶大の危険思想」と題して、最近の「治者階級・指導階級」が「何とかなるさ」という「棄鉢的慰安」にかくれていると指摘した。

 

 経済界の深刻なる困難に伴ふて社会不安が益々増大し、破壊思想が非常の勢を以て蔓延しつゝある。次代相続者たる青年の好んで読むもの、語る所、為す所を、試に吟味せよ、今の治者乃至指導者階級の人々とは、実に雲と泥程に違つてゐる。早きに及んで、社会不安と破壊思想蔓延の機会を絶ち原因を除かないと、経済難より幾倍恐るべき禍ひに煩はされねばならぬ。(この治者乃至指導者階級の)卑怯な、一日逃れ的の宿命論を叩き潰さなければ、困難は決して救はれない。

  そして若槻首相に対しては、翌年のジュネーブ陸軍軍縮会議に向けて、断然進退を賭して軍閥と血戦せんことを求めた(昭6・7・4、社説「軍閥と血戦の覚悟」)。しかし翌々月、9月18日、「満州事変」を起こした軍閥は、軍縮問題などふきとばして、軍備拡張の道を歩み始めるのであった。

  そして、10月、『新報』は再び「非合法化」のテーマを取り上げた。今度は『新報』にも軍部とファシズムの問題がみえていた。10月31日号の社説「非合法傾向愈よ深刻化せんとす」は、さきの2月14日号の社説「国を挙げて非合法化せんとす」の要旨を繰り返したのち、つぎのように述べている。

 

 然るに記者は、最近の我国状を見て愈声を大にして、此警告を繰返すの必要を痛感するを遺憾とする。斯く云ふ理由はここに具体的には述べ難い。記者には其自由が許されてゐない。が唯だ抽象的に次ぎの如く説くことは出来るであらう。曰く、我今日の政治経済状態に対する国民の不満と失望とは以外に深刻にして、其結果は、元来最も合法的なるべき思想の持主の間にさへ、最早合法的なる事に我慢し切れぬ状勢を現しつゝあると。…併し等しく非合法運動であつても、自分等の給料の減額に反対してストライキを起こす程度に止るならば、問題はまだ軽い、国政全体に不満を抱いて、非合法活動を企つる者あらば、これ国乱るゝの兆である。

  ここで「述べる自由を許されてゐない」こととは、おそらく橋本欣五郎らを中心に企図され未遂に終わったクーデター事件(十月事件)に関する情報であったと推測される。そして「最も合法的なるべき思想の持主」とは軍人をさし、「国政全体に不満を抱く非合法運動」という表現で、青年将校らのいわゆる国家改造運動、昭和維新運動を暗示しようとしたものであろう。そして『新報』は、これら軍部の動向を「国乱るゝの兆」と憂慮したのであった。この社説はつづいて、近年わが国にもイタリアのファシズムを賛美する者さえ少なからず現れていることを指摘したのち、つぎのように結んでいる。

 

 記者は、今の我国は、有史以来稀に見る危機に立てることを断言する。而かもそは啻に内政に於てのみならず、外交に於て亦然り。が此外交の危機なるものも、其因つて来る所を尋ぬれば畢竟内政に対する国民の希望の喪失に根底する。のみならず国民の内政に対する不平不満は、一方には外交をも危機に導くと共に、又他方には、其内政の拠つて立つ経済組織そのものゝ否定にも向はしめつゝある。資本主義の敵は独り共産主義者のみではない。

  これがファシズムをさしていることは明らかであろう。ついで『新報』は、軍部を日本におけるファシズムの中心とみる論説を発表した。翌1932(昭和7)年2月20日号の社説「我が国に於けるファシズムの役割」がそれである。この社説は、『新報』には珍しく左翼的で生硬な文章であったが、まずファシズムの特徴をイタリアの場合を中心として、つぎのように要約した。

 

一、フアシズムは資本主義経済が破綻に瀕し、その政治支配が震撼さるゝ時に発生する。ニ、それは反資本主義と同時に反共産主義を唱へ、之によつて、先づ中間層と農民の支持を得、労働者をも掴まうとする。三、それは労働者農民の経済闘争にまで飽くなき弾圧を加へる。四、それは議会制度を否定して、独裁政治を断行する。五、それは排外国粋主義を主張する。…その根本は民衆に対する公然たる弾圧政治にある。

  そして日本の場合には、すでに数個のファッショ団体が存在し無産党が社会ファッショに転化する例がみられるが、しかし「事態の進行は其等の中のどれかゞ中心となる様には動いてゐぬらしい。寧ろ近来、それ等の諸団体を創作しつゝある主体は近時問題とさるゝ特定のフアシズムである」。けれどもかれらは、公式に宣言綱領を発表していないから、直木三十五の「軍部との会見」(『東京日日』昭7・2・11)をみることにするというわけである。つまり、日本の場合には軍部が、ファッショ団体を「操作しつゝある主体」だとしているのであった。この記事で軍部の意見として伝えられているのは、ワシントン条約の廃棄、平和思想に誤られた外交官の「強行教育」、「支那」への進出(戦争も可)、東洋モンロー主義・資本主義打倒、政党政治の否定、インターナショナル的思想の否定などであるが、記者はそれについて「フアシズムのあらゆる特質はここに頗る鮮かに現われてをる。而も、日本に於けるフアシズムの特殊性は、正しくそれが日支の紛争と密接に結合してゐる点にある」と指摘する。

  そして、ファシズムの鼓吹する戦争熱は、「支那の中央政府乃至は地方政府への攻撃といふよりは寧ろ支那民衆への攻撃を準備する…日本のフアシズムは今や其等の支那民衆の上に君臨せんとしつゝあるのだ」とし、「而も、支那民衆に向けられたフアシズムは同時に我が国内の民衆にも向けられてゐる。蓋し、満蒙国家だけがフアシズムであり、日本の態様だけが他のものであることはあり得ないからだ」と結んでいる。

  『新報』はようやく軍部とファシズムの問題をその視野のなかに収めたが、すでに「満州」侵略は既成事実化し、約3ヵ月後には五・一五事件によって、国内の政治体制も痛撃をうけるにいたったのである。ファシズムにどう対処すべきかを論ずるいとまもなく、この衝撃に直面しなければならなかったというべきであろう。

  五・一五事件直後の『新報』は、まず「新鮮溌溂たる人物を選ぶこと」などによる人物の刷新と、大胆な不況打開策とにより人心を一新せしめることをとなえた(昭7・5・21、財界概観)。また五・一五事件の原因として、つぎの3つをあげた(上掲号、社説「国難転回策、先づ景気を振興せしめよ」)。第一の原因は言論の自由の欠如にあるとし、言論の自由によって社会は秩序を保ちつつ進化するのであり、そこでは共産主義もファッショも恐るるに足りないと『新報』の持論を主張する。第二の原因はあらゆる部面の指導者が無能化したことであり、かれらはその地位を少壮者に譲るべきであるとする。そして第三の原因は「極端なる不景気」に求める。そして「記者は最近陸海軍の青年将校の間に、政治に対する甚だしき不満の空気の充満せる、其最も大なる原因として、彼等の生活及位地の不安を挙げざるを得ない」、「幸にして近く経済界が好景気に転じ、国民の多数に生活の不安なからしめ得れば、少なくも当面の不平は消散せられ、社会は著しく安泰を加へるであらうと信ずる」と述べている。

  ここにはもはや、ファシズム論的な視角は消え失せている。「非合法化」という見方を手がかりとして、ファシズムの問題をも視野にとりこもうとしていた『新報』は、再び大正末期以来の行詰りを問題としてきたのと同じ次元に後退していった。この社説はつぎのように結んでいる。

 

 今日は非常の国難の時期だと云ふが併し記者から見れば、此局面を転回するの策は、実はさして面倒な事ではない。蓋し以上挙げたる三項目を実行すれば其転回は易々たるからだ。而して記者は先づ其中最も手つ取り早く行ひ得る策として、新内閣が断乎として第三項の景気振興策に精進せんことを望む者である。

と。7ヵ月前の「有史以来稀にみる危機」との認識はどこにいったのであろうか。『新報』は、自らの危機感を緩和することによって、この困難な時代を耐え忍ぼうとしたにちがいない。『新報』の論調は、政治論よりも、社会不安を除くための経済危機の克服を正面に押し出し、それこそ「国難打開策」のかぎであると協調するようになっていった。

  といっても『新報』は、以後も部分的にはデモクラシーの観点を、みずからの批判の原理として固執しようとしていた。たとえば、五・一五事件のあと、強力内閣を期待する声が起こると、『新報』は超然内閣に反対し、最も強力な内閣は、責任の明確なる単一政党内閣だと主張し(昭7・5・21、財界概観、昭7・5・28、社説「超然内閣に期待を懸くるの謬想」)、これをのちにいたるまで政界批評の基準とした。また地方自治強化、選挙公営、議会常設などの主張も繰り返され、とくに言論の自由の主張は可能なかぎり一貫してとなえられていった。これらのことは、思想史的に高く評価されるべきであろう。

  しかし、問題を常にデモクラシーの全体的な発展という観点にまで引き戻して論ずるという態度は、五・一五事件の衝撃によって、後景にしりぞいたといってよいように思われる。それは、個々の批判の観点をできるかぎり堅持しながらも、全体として「満州事変」を肯定してゆかざるをえなかった過程に照応するものであった。逆にいえば、以後は情勢に押されて、批判の観点が1つ1つ手放されてゆく過程ともいいうるであろう。