『人文学報』第36号

1973年3月

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北一輝論 (1)


 

古屋 哲夫

は じ め に
1帝国主義と国家の必要
2社会の進化と個人
3公民国家=社会民主主義論
4国体論批判の性格と天皇機関論
5社会主義運動論の特徴と矛盾



はじめに


 故田中惣五郎氏の著作『日本ファシズムの源流―北一輝の思想と生涯』が刊行されたのは1949年であった。それは最初の北一輝に関する研究書であると共に、その題名が、北についてのその後の一般的イメージを代表するようになった点でも、記憶さるべき著作であった。この北を「日本ファシズムの源流」とする見方は、現在でもある程度常識化しながら流通しているし、それは北をとりあげる場合の基本的観点を示してもいると今でも私は考えている。しかし、そのことは、すでに北の歴史的位置づけが確定されたということを意味してはいない。常識的に言っても、「源流」は必ずしも「主流」であることと同義ではないし、また「源流」と言っただけでは、それが唯一の、あるいは基本的な源流であるのか、複数のもののなかの一つのものという意味なのかも明かではない。

  まず、「大政翼賛会」に象徴されるような支配体制のファッショ化の観点からみれば、2・26事件において銃殺されてしまった北が「主流」に位置していたとは言えない。しかしまた、1919年(大正8年)大川周明にむかえられて上海から帰国した北、及び彼が持ち帰った『国家改造案原理大綱』(のち『曰本改造法案大綱』と改題刊行)が、その後のファッショ化を促す大きな衝撃力となったことも否定し難い事実であろう。とすれば、その間には如何なる関連が存在したのであろうか。問題は、体制化した日本ファシズムに対する北の特殊性とは何か、北が日本ファシズムの源流となりえた衝撃力とは何かという二つの観点を中心として解かれねばならないであろう。

  たしかに北の思想は、1937年文部省が国民教化をめざして発表した『国体の本義』などの立場からみれば、異端とされざるを得ないような性質を持っていた。その点について、2・26事件直後の1936年5月、将校閲覧用に作成された「調査彙報」第50号は『日本改造法案大綱』を次のように批判している。「要するに著者の根本思想は強烈なる社会民主主義の上に立ち、極端なる機関説を採り、天皇の神聖と我が国体の尊厳を冒涜し奉るものにして、表面尊皇の念を装へるも其内包する思想を検討するとき、彼の所謂国体観は絶対に我が軍人精神と相容れざるのみならず、日本臣民として正視するに忍びざるものと言ふべし1)」と。それは以後の日本ファシズムの主流からする基本的な北一輝批判の観点を代表するものでもあった。2)

1)

『北一輝著作集』第3巻所収、621〜2ページ、なお、『北一輝著作集』については、以下(3−621頁)の如く略記する。

2)

例えば、1941年4月、司法省刑事局「思想研究資料」特輯第84号として刊行された山本彦助検事の報告書『国家主義国体の理論と政策』も、北について「彼は、不敬不暹思想の抱懐者であって、我国体と,全く相容れざるものである」と述べている。(東洋文化社復刻、1971年、112頁)


 なるほど北は、すでに早く、1906年(明治39)に自費出版した最初の著作『国体論及び純正社会主義』において、自らの立場を「社会民主主義」と規定し、いわゆる国体論の妄想を打破せんと企てた。そこでは天皇は、帝国議会と共に国家の最高機関を構成する要素として性格づけられていた。そして北は20年後の1926年(大正15)、『日本改造法案大綱』の刊行にあたって、自分の思想は「二十年間嘗て大本根抵の義に於て一点一画の訂正なし」「一貫不惑である1)」と述べ、『国体論及び純正社会主義』の序文をその附録として収録したのであった。2)

1)

「第3回の公刊頌布に際し告ぐ」、大正15年1月3日付、2−360頁。

2)

北が、発売禁止のうきめにあった『国体論及び純正社会主義』に後年まで強い執着を持っていたことは満川亀太郎の次の記述からもうがじえる。「しばらくは猶存社に平和なる日が続いた。北君は朝夕の誦経が終ると、15年前の著作たる『国体論及び純正社会主義』に筆を入れるを日課としていた。」(満川亀太郎箸『三国干渉以後』1935年、平凡社、246頁)
おそらく北が、満川や大川周明らの招きで上海から帰国した1920年のことであろう。しかしこの時、北がどのような加筆、訂正を行ったか今のところ明かでない。


 北が一貫不惑であったかどうかは評価の分れるところであるが、彼の「社会民主主義」が日本ファシズムの主流と異質であったことは疑いないところである。同時にまた、北の「社会民主主義」は、世の一般の社会民主主義とも箸るしく異質であった。従って、北一輝研究は、まずこの異質の内容を明らかにすることから始めねばならなくなる。

  研究史の上から言っても、北一輝研究が盛んになったのはこの問題が提起されてからであるが、その場合、問題がファシズム主流からの異質性、とくに国体論=天皇制イデオロギーの批判者という観点を軸として立てられたことが特徴と言えた。そしてそれはファシストとしてのそれまでの北のイメージを180度転換させるような効果をもたらした。 最近の研究動向は、この観点から、北を日本ファシズムの問題から切り離しても通用する独自の思想家ないし革命家として再評価しようとする方向に傾いているように思われるのである。
ところでこの北一輝の新しいイメージを最初に提起したのは、久野収氏の「日本の超国家主義一昭和維新の思想1)」であった。久野氏は、まず北を「昭和の超国家主義の思想的源流2)」と位置づける。そしてこの「超国家主義」は「明治以来の伝統的国家主義」から切れていると同時に、第2次大戦期の支配的思想とも異質だというのでる。つまり氏は、明治の国家主義と、昭和の体制化したファシズム思想とを連続したものと捉え、「超国家主義」をその対極に置こうとしたのであった。

  そしてこの「超国家主義」は天皇を伝統のシンボルから変革のシンボルに捉え直すことで伝統的国家主義への反抗を試みたが、2・26事件の失敗によって、結局「明治以来の国家主義に屈伏し、併合された3)」とみるのである。

  このような位置づけから言えば、明治の国家主義に対立する点で、「超国家主義」と「民本主義」とは共通の性格を持つことになり、この論文は、北一輝と吉野作造をそうした共通性で捉えた点で、それまでの北一輝のイメージに深刻な衝撃を与えたのであった。氏は明治以後の状況について次のように述べている。「天皇中心のシステムは、だんだんと統合力、求心力をうしない、まだ外部からはみえなくても、内部から解体をはじめた。この時伊藤の作った憲法を読みぬき、読みやぶることによって、伊藤の憲法、すなわち天皇の国民、天皇の日本から、逆に、国民の天皇、国民の日本という結論をひき出し、この結論を新しい統合の原理にしようとする思想家が、二人出現した。主体としての天皇、客体としての国民というルールを逆転し、主体としての国民、客体としての天皇というルールを作ろうというのである。 一人は、吉野作造、他は、北一輝であった。吉野は、議会と政党の責任内閣を基礎として、このルールの実現をくわだて、北は、軍事独裁を通じて、このルールの実現をくわだてた4)」。そして、吉野の民本主義が大衆をとらえずに挫折したとき、代って北の超国家主義が舞台の正面に立ちあらわれたとみる久野氏は、その間に「土着的シンボルの回復」、「社会主義とナショナリズムの結合」といった問題をも示唆したのであった。

1)

久野収、鶴見俊輔共著『現代日本の思想』所収、岩波書店、1956年。

2)

同前139頁。

3)

同前181頁。

4)

同前138〜9頁。


  この久野氏の問題提起は、北一輝研究を大きく発展させることになった。1959年には北の主著を復刻した『北一輝著作集』第1巻・第2巻が刊行され、さらに72年には、その後松本健一氏らによって発掘された北の初期の論文や関係資料を集めた第3巻が続刊された。しかし同時にまた、その後の研究は、久野氏のシェーマを基礎とし、それを増幅するという傾向を持つに至っているように思われる。それは大まかに言えば、一つは氏の言及した「土着」の問題から、土着革命家としての北一輝像をつくろうとする傾向であり、もう一つは明治から第2次大戦期に至る支配的国家主義に対する批判者・反逆者としての北のイメージをさらに引きのばして、北のなかに戦後改革をも透視する進歩的側面を読みとろうとする傾向である。

  例えば鵜沢義行氏は、『国家改造案原理大綱』の思想を「天皇ファシズム」と規定しながらも、その「国民ノ天皇」の部分は、戦後の象徴天皇の「過渡的原理」を暗示するものと読み込んでいる1)。また村上一郎氏は北のなかに「天皇制を逆手にとって天皇制を打倒する方向2)」をよみとろうとし、河原宏氏は「土着革命の構想─北一輝が自らに課した課題、したがって彼の思想がかもしだす異様な魅力はかかってこの一点に要約されるであろう3)」と述べる。さらにG.M.ウィルソン氏は北を近代化の推進者だったとして次のように言っている。「北は、社会主義者たちが国民の中のナショナリズムに働きかけて、これを自分たちの支持源とすること、すなわち、国家とそのシンボルたる天皇を、『全国民』の要求に従うものにすることを望んでいた4)」「(北の国内改造案)は明らかに、近代の社会問題に対する一種の福祉国家的な考え方を示している5)」「北は近代化推進者(モダナイザー)であった6)」と。

  そして最後に松本健一氏の次の一節を引用しておこう。「北一輝の思想は今日なお生き残っており、国民国家をもつき動かす可能性をさえもっている。……なぜならば,北は明治国家を天皇制国家として把握せずに、近代国家の成立、つまり国民国家として把握したからである。だからこそ8月15日以後のいわゆる『民主憲法』によって、北の国家改造法案のほとんどが実施されるという状態が現出したのである。けれど、北の内在論理としての『超国家主義』は、この国民国家が他の国民国家と相剋し、争い、超国家─世界連邦にまで突き進むと説いており、それこそが北の超国家主義思想だったと思えてならない。つまり超天皇制国家であるのはいうまでもなく、 超国民国家でさえあったということだ(手段は帝国主義戦争であるにせよ)。それゆえに、国民国家の形態を法制度上でいちおう成就した今日でも、北の思想が有効である所以があるのであり、そこに北の怖ろしさがあるのだと思わざるをえない7)」。

1)

「昭和維新の思想と運動」日本政治学会編『政治思想における抵抗と統合』、若波書店、1963年、129頁。

2)

『北一輝論』三一書房、1970年、32頁。

3)

「超国家主義の思想的形成─北一輝を中心として」、早稲田大学社会科学研究所・プレ・ファシズム研究部会編『日本のファシズム』早稲田大学出版会、1970年、4〜5頁。

4)

『北一輝と日本の近代』、岡本幸治訳、勁草書房、1970年、44頁。

5)

同前、79頁。

6)

同前、83頁。

7)

『北一輝論』、現代評論社、1972年、60〜61頁。


 北の著作には、それだけをとり出せば、このように読みうる部分がないわけではない。すなわち、これらの北一輝像に共通しているのは、『国体論及び純正社会主義』における国体論批判と、『国家改造案原理大綱』巻1「国民ノ天皇」とを結び、そこを北の思想の本質的部分として高く評価しようとしている点にあるようにみえる。しかし反面でこの評価は、北の国体論批判が、彼の「社会民主主義」の不可欠の一環であることを軽視する結果におちいってはいまいか。すなわち、明治維新で社会民主主義が日本国家の本質となったとみる彼の社会民主主義論は、国体論批判なしには成立しえないのである。従って、橋川文三氏が「奇妙な問題」「わかりにくいところ1)」と指摘したような、彼の言う社会主義・民主主義の特異性と切り離して、国体論批判だけを強調するとすれば、北自身の思想とは「思想系を異にする」―北の用語を借りれば―北一輝像にたどりつくことにならざるをえまい。私には、最近の北一輝研究の動向は、北を日本ファシズムの主流から区別するのに急なあまり、北の社会民主主義がもつ、一般の社会主義・民主主義に対する特異性に十分な分析を加えていないように思われるのである。 しかし、この面こそが北の思想の最も本質的な部分であり、それがまた北を日本ファシズムの源流たらしめる要因となっているのではあるまいか。

1)

「国家社会主義の発想様式―北一輝、高畠素之を中心に」、日本政治学会編『日本の社会主義』岩波書店、1968年、124頁。


 この問題もまた久野収氏によって指摘されながら、しかしその後掘り下げられないままに終っているように思われる。1959年「超国家主義の一原型─北一輝の場合1)」を書いて、『国体論及び純正社会主義』を中心に再び北一輝をとりあげた久野氏は、今度は北の社会民主主義のなかに、後年の「ファシズム化」の要因を指摘しておられる。すなわち、ここでは、『国体論』の段階と『改造法案』の段階の北とを区別し、前者で進歩的であった北は、後者ではファシストとして再登場するという見解が示される。その天皇論、国家構造論で進歩的であった北の社会民主主義は、その国家観によってファシストに転化するとして、次のように述べられるのである。

  「北の天皇論、国家構造論こそは、……国家目的のための“君民同治”“君民共治”の姿、民主共和をイデーとして認める君民共治の姿を明治憲法のなかに読み抜いた思想だといってよく、この思想こそ明治以後の日本人の進歩的部分の“原哲学”をなす天皇観だといえるであろう。……天皇観、憲法観、国家体制論、社会的理想像において、あれほど進歩であった北が、後年、中国の独立革命での体験を通じ、『法案』によって、ファッシストとして再登場する秘密の一つは、実に彼の国家観にひそんでいたと考えられる2)。」

  しかし、北の思想において、天皇観、国家体制論は進歩的で、国家観はファシズムヘ通じるといった分離が可能なのであろうか。氏は北の国家観を分析されたのち、 北の論理からは、「個人のなかに含まれる体制構想的契機、一言でいえば民主(デモクラティック)=自由的契機(リベラル)は落丁しないわけにゆかない3)」と指摘される。しかしこの点は果して北の天皇観、国家体制論と無縁なのであろうか。北の天皇機関論が天皇の特権の内容を検討しようとはせず、またその公民国家論が、公民国家か否かの本質判定にとどまり、それ以上の制度論に深入りしようとしないのは、この「落丁」との関連を除いては理解しえないのではあるまいか。

1)

『近代日本思想史講産』第4巻所収、筑摩書房、1959年。

2)

同前、145−6頁。

3)

同前、147−8頁。


 私には現在の北一輝研究の状況は、はなはだ混沌としているようにみえる。そしてそれは北の思想のなかから、何かすぐれた点をとり出そうとする意図が先走ってしまった結果ではないかと思われる。

  本稿は、第1に北の思想において、さまざまな要素がどのような関連をもち、どのように内容づけられているか、それはどのような発展方向をもっているのかを追求すること、第2に北の思想が、日本ファシズムの形成に参与する諸グループにどのような影響を与えたのかを明らかすることをめざしている。それが、日本ファシズムの形成過程と性格を解明するために、さらにまた、かつて久野氏が提起された日本の国家主義の問題を検討するためにも、必要にしてかつ有効な作業となりうるのではないかと考えているからである。

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