『人文学報』第38号

1974年10月

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北一輝論(2)


古屋 哲夫


6 『国体論』からの転回
7 辛亥革命への参加
8 中国革命認識の特徴
9 「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退
(以下次号)



6『国体論』からの転回

 『国体論及び純正社会主義』(以下『国体論』と略称)が発売禁止の処分をうけたことは、北のその後の思想的展開を容易にし、また促進する1つの条件となったとも考えられる。この著作で彼が主張した根本的命題は、国家意識の普及と強化によって国家を発展させることが、人類を進化させる原動力となる、というものであった。しかし彼がこの命題をうち立て証明しようとしたのは、そこに止まるためではなく、それを基礎としてその次の問題にとり組むための準備であった筈である。

  日露戦争前夜の彼の問題関心に即して言えば、『国体論』は「帝国主義と社会主義」との原理的関連についての彼なりの答えを示したものではあったが、日本帝国主義を欧米帝国主義と区別して「正義」であると価値づけたことの根拠までは提示してはいなかった。それは、この著作において、「公民国家」と性格づけたままで残されている諸国家の特殊性の問題を世界=人類の進化過程のあり方とどう関連づけるのかという点にかかわってくる問題でもあった。そしてその際、普通選挙による無血革命や、世界連邦の連邦議会による世界平和の達成といった『国体論』の結論をそのまま維持するとすれば、日本国家の使命について語るとしても、後年の北とは異なった語り方をしなければならなかったであろうし、後年の如くに語るとしたら、幸徳秋水と共に「余が思想の変化」について述べねばならなかったのではあるまいか。発売禁止処分を北はこのようなわずらわしさから脱れるために利用したように思われるのである。

  『国体論』は、自費出版にも拘らず、相当に大きな反響を得た 1)。そしてそのなかから、社会主義者と大陸浪人という二つの手が彼に向って差し出されたのであった。結局のところ、彼は大陸浪人の手の方を握ったのであるが、この選択そのもののなかに、すでに『国体論』以後の問題関心の変化の方向を読みとることが出来る。

1)

『北一輝著作集』第3巻(1962年4月、みすず書房)には、『国体論及び純正社会主義』に対する書評10編、『純正社会主義の哲学』に対する書評13編が収録されている。


  『国体論』が刊行されたのは、1906年(明治39)5月9日であり、5月14日には発売禁止処分に付されたが、北が社会主義者と直接の接触を持ったのはこの直後からであった。堺利彦が使を派して、発禁本を売りさばいてやらうと申出たのがその直接のきっかけと思われるが、彼は社会主義者と接触した模様を叔父本間一松にあてた6月の手紙で、次のように報じている。

  「先日浦本の叔父様見送りの帰りに、片山潜氏を訪れ、色々話し侯。大に崇敬の情をこめて歓待せられ、談聊か万国社会党大会の日露戦争否認の決議に及び候へども、氏も何となく自信の動揺せることは認められ侯。しかし多くの議論に於て相違有之候に係らず、社会党が皆一将を得しかの如く歓び迎へられるるには満足罷在候。然れども少々考ふる処も有之、先日『光』に論説の寄稿を願はれ候へど、体よく断はり、全く遊撃隊として存せしめよと申居り候。……咋日より社会党の公判傍聴に赴く。今の処社会党はホンの卵子にて、到底権力者と戦闘するには堪へず候。」(3-496頁)

  北が、当時の日本社会党の実際上の中央機関誌であった「光」ヘの寄稿を断り、社会主義の本隊に入るのを避けて、自ら「遊撃隊」と位置づけたのは、直接には、『国体論』の分冊再刊に奔走していたことも関係していたかもしれない。彼は、発禁のおそれのない部分から分冊刊刊することを考えており、この手紙も、『純正社会主義の哲学』刊行(7月13日出版)のための金策を依頼したものであった。しかしより根本的には、日露戦争論をはじめ「多くの議論に於て相違有之候」と述べているように、社会主義者との間の思想的な違いを、じかに身をもって確認したためであったと考えられる。そしてその直後から始まった直接行動か議会政策かをめぐる日本社会党内部の論争をみることによって、北は社会主義者たちとの距離を測り、自らの思想を展開する方向を見定めていったのではなかったであろうか。

  アメリカから帰国した幸徳秋水が、「世界革命運動の潮流」と題する講演を行い、議会政策以外の「社会的革命の手段方策」として、総同盟罷工=革命的ストライキの問題を提起したのは、北が先の手紙を書いたのと同じ月の月末、6月28日であり、 更にその要旨は7月5日の「光」に掲載された。すでに述べてきたことからも明らかなように、社会主義者たちと根本的に発想を異にする北の「社会民主主義」が、社会主義者たちと交わるのは、社会主義運動の第一着を普通選挙の実現に求めた点だけであったと言ってよい。従って普通選挙論という接点が、社会主義者の側から突き崩されてきたことは、北の側にも、その普通選挙=無血革命論の根拠の再検討を迫る衝撃をもたらしたとみることが出来る。そして彼はそこから、普通選挙=無血革命論─従ってそれを投影したにすぎない世界連邦会議の投票による世界平和という構想をも─思想の変化について語ることなしに捨て去っていったのではなかったであろうか。大陸浪人からのべられた第二の手は、北にこの方向に動き出す大きなきっかけを与えたものと言う ことが出来る。それは「革命評論」のグループであった。

  「革命評論」は宮崎滔天、池享吉、和田三郎、萱野長知、平山周、清藤幸七郎らを同人として、1906年(明治39)9月5日付で第1号が発行されている。そしてこの創刊号が北の手許にも送られて来たのは、このグループに好意をよせていた社会主義者たちの紹介によるものだったのであろう。月2回発行、1号10頁のこの小雑誌は、「誰か20世紀を以て世界革命の一期にあらずと云ふ者ぞ、然り現時の文明を鞭って、百尺竿頭一歩を進転せしむるは、正に今時に在り」(「発刊の辞」第1号)として、ロシアと中国の革命運動に関する論評・記事を中心に編集されていった。

  この20世紀は世界革命の時代だとする指摘を、北は世界、とくに隣接諸国の革命と日本帝国の発展との関連の問題として受けとめたことであろう。彼は早速弟のヤ吉を革命評論社に派遣する。「16日(9月)……此日森近運平氏及北輝次郎氏の令弟来訪、北氏は殊に令兄の代理としてその著書を恵贈せらる。謹んで謝す。」と「革命評論」第3号(8月5日発行)の「編輯日誌」は記している。第2号の発行は9月20日だから、北は創刊号を読んだだけで弟をさし向けたことになる。北自身の革命論社訪問はその約50日後の11月3日のこととして、第5号(11月10日発行)の「編輯日誌」に記録されている。

  「3日、……此日北輝次郎氏来訪、寛談数刻、氏談半にして断水に向ふ、『暗示の進化』なる文を艸せし鳳梨とは雖、断水指し示す、氏即ち鳳梨を見てハアー! アノ方ですかと太だ怪訝の色あり、鳳梨仍て頭を撫して私語して曰く、僕の顔は余程変ってるかナと、聞くもの豈に同情に堪へんや、北氏今回著す所の『純正社会主義の経済学』又発売禁止の厄に逢ひしと、古人曰く口を塞く水を塞くよりも酷だしと、况んや高尚なる理想をや、政府者未だ此の意を解せずと見ゆ。」

  文中の「暗示の進化」は第4号(10月20日発行)に掲載されている一文であり、「人間萬事信念に職由せる暗示を以て支配せらる」と書き出し、暗示の基礎となる信念が時代と共に変化することを指摘したものであるが、その中の次の一節が恐らく北の眼をひきつけたのではなかったかと思われる。「然れども世の進運に供ふて此の根底なき暗示は次第に消滅し、太守様と握手し徳川様と膝を交ゆるも『目も潰れず罰も当らず』と云ふ心念を認識すると同時に、萬乗の君は神聖なりと云ふ暗示時代に推移し来れるなり」─この一節は筆者の意図がどうあったにせよ、「萬乗の君は神聖なり」というのも、時代と共に変化する暗示の一つにすぎないとの主張と読める。

  この小論ののっている第4号のトップは「暗殺と思想の変遷」と題する評論であるが、「暗殺」の記事が多いというこの雑誌の特徴にも当然北の眼がむけられていたことであろう。2号には「帝王暗殺の時代(歴史的観察)」、3号には「暗殺の露西亜」、さらに1号から「雪雷編(近日発刊)秘密小説虚無党、発売元春陽堂」の広告が連戦され、ゴチック体の「虚無党」の文字が人眼をひいている。北は『国体論』第二分冊としての『純正社会主義の経済学』の出版を準備しながら、「革命評論」のこのような雰囲気に関心を強めて行ったことであろう。そして『純正社会主義の経済学』が発行(11月1日付)後直ちに発売禁止処分となるや、革命評論社をおとずれ、すぐさま同人に加わったとみられる。そしてその日、幸徳秋水に次のように書き送った。

  「拝復御見舞奉謝候。今度は如何なる故か別して癇癪も起きず、国体論の未練がサッパリと切れた為め、近来になき霽光風月の心地致し候。何が自己に適するか、自己の任務が何であるかの如き考へも致さず、只自由の感が著しく湧きて、モウ何でもするぞと云ったやうな元気なり。先づ病気を征服して真に奮闘します。」(明治39年11月3日付3-507頁)

  「国体論の未練がサッパリと切れ……只自由の感が著しく湧きて」と北が書いたのは、革命評論社の雰囲気のなかに、『国体論』の思想を、『国体論』の結論とはちがった方向に発展させる可能性の如きものを感じとったからではなかったであろうか。北の来訪を記した次の号、第6号(11月25日発行)には、最近北の執筆と推定されるようになった「自殺と暗殺」(署名は外柔)が掲載された。私もこの推定を支持したい。

 この小論は、天皇制のもとでは、自殺にまで至る「煩悶」は、「革命的暗殺」に転ずる可能性のあることを指摘したものであった。「余輩は煩悶の為めに自殺すといふものゝ続々たるに見て、或は暗殺出現の前兆たらさるなきやを恐怖す」(3-137頁)と書き出したこの論文は、「煩悶」とは何かについて次のように展開される。即ち「煩悶とは個人が自己の主権によって他の外来的主権に叛逆を企つる内心の革命戦争」(3-138頁)なのであり、外的権威に服従して「個人なるものなく、自己なるものなく、自己の自主権によりて社会的思想と歴史的慣習の上に批判せんとする人格」(同前)がなければ「煩悶」の起る筈がない。とくに日本に於ては、天皇は「国民の外部的生活を支配する法律上の主権者たるのみの者ならず、実に其主権は思想の上にも学術の上にも道徳宗教美術の上にも無限大に発現するもの」(3-139頁)であり、そこでは忠君愛国の道徳があれば足り「煩悶」の生れる余地はない。従って「煩悶」の生ずるのは、外国の事実に心を躍らせて「恣に比較研究をなし、終に等しく自己の主権を以て評価せんとするが故」(3-138頁)にほかならないと。そして「爾乱臣賊子の徒は天皇主権の領土を法律の範囲内にのみ縮めて己に思想界の版図に掠奪の叛旗を翻がへし得たりしか」(3-139頁)と述べたこの小論は、「あゝ誰か煩悶的自殺者の一転進して革命的暗殺者たるなきを保すべきぞ」(3-139〜40頁)という一文で結ばれていた。

  そこには「自己の主権」から、いわゆる国体論を復古的革命主義=反革命と批判して弾圧され、暗殺に肯定的な革命評論社に没入していったこの時期の北の心情がにじみ出ているように思われる。そしてそれは、後年「幸徳秋水事件等の外に神蔭しの如く置かれたる冥々の加護1)」について語っているように、日本の社会主義者のなかでは幸徳一派への親近感となってあらわれてもいた。しかし、いわゆる国体論に叛旗をひるがえしたとは言え、明治天皇英雄論によって、日本帝国をその根底において承認した北の思想には、天皇暗殺を志向する何のモメントも存在してはいなかった。彼にとっては、あるべき国家意識の基礎を問うための国体論批判の次には、その国家意識を集中強化するための、あるべき使命感の模索が思想的課題となる筈であった。この課題を北がどの時点でどれ程自覚的に捉えたかは明かではない。しかし、革命評論社に入るとすぐに中国革命同盟会にも入会し、国際主義派孫文を排して国家主義派の宗教仁との結びつきを強め、大陸浪人の生活様式になじむ2)と共にその大アジア主義をうけいれてゆくという北の歩みは、この思想的課題への一つの迫り方を示していることも確かであった。

l)

『日本改造法案大綱』「第三回の公刊頒布に際して告ぐ」(2-359頁)

2)

「革命評論」は10号(明治40年3月25日付)までしか出なかった。その後北は翌明治41年夏から黒沢次郎方に寄宿し、大陸浪人とのつき合いを深めてゆく。この間の北の生活を、黒沢次郎・北ヤ吉両氏の談話にもとづいて叙述した田中惣五郎氏は、「北の黒沢時代の仕事といえば、中国の革命党と往来し(たまには日本の革命党とも)、革命資金をうることであり、その資金を流用して、自己も生きてゆくことのくり返しであったといえる。」(『増補北一輝』114頁、1971年1月、三一書房)と評している。


  革命評論社以後の北が、次第に黒竜会に近づいて行ったことは、1911年(明治44年)9月、同会が刊行した雑誌「時事月函」の編集にたずさわり、10月に辛亥革命が勃発すると直ちに、黒竜会から中国に派遣されたことからも知られる1)。しかしそのことは、彼が黒竜会の思想に全く同化してしまったと言うことではなかった。たしかに彼は日露戦争を肯定し韓国併合を支持する点では黒竜会と同じ立場に立っていたとみられる。もっとも彼が韓国併合をこの時点でどうみていたかを直接に示す資料はない。しかしのちの『国家改造案原理大綱』で、朝鮮は大国にはさまれているという地理的条件と、内部の「亡国的腐敗」のために亡びたとして、「其ノ亡国タルベキ内外呼応ノ原因ハ統治者ガ日本タラサル時ハ露支両国ノ焉レカナリシハ明白ナリ。……自立シ能ハザル地理的約束ト真個契盟スル能ハサル亡国的腐敗ノ為二日本ハ露国ノ復讐戦二対スル自衛的必要二基キテ独立擁護ノ誓明ヲ取消シタル事ガ真相ナリ。」(2-261頁)と述べていることからみると、北は朝鮮には自立する力がないという独断的な朝鮮観で一貫していたように思われる。

  そして北は、このような朝鮮にくらべて、中国の場合には、現に彼の身近かに存在する中国の革命運動家たちによって、清朝を頂点とする「亡国的腐敗」が打破されるならば、日本の発展と支え合うような新興国家が形成されるにちがいないとの期待を持ったのではなかったか。そしてそれはまた、社会を拡大することが生存競争の力を強化することになるという彼の進化論が、世界史の発展を大国による小国の同化として捉えていったこととも関連していたことであろう。あとでみるように、彼は朝鮮は日本と同化さるべきものと考えていたが、中国はすぐさま同化の対象とするにはあまりにも大きかった。

  彼が、韓国併合に狂奔する黒竜会首脳の活動を傍観しながら、その間中国の革命運動家との交流を深めていったことは、このような朝鮮と中国に対する見方の差にもとづくものとして理解できる。おそらく彼の観点からすれば韓国併合は既定の事実にすぎなかったのに対して、中国革命を支援して新興国家をつくりあげることが出来るかどうかは、日本の将来を左右するほどの決定的問題と映じたにちがいない。そしてこの立場からすれば、中国革命の支援とは、それによって中国における日本の利権を拡大することではなく、中国の亡国的腐敗を打破して新興国家をつくるためのものでなくてはならなかった。この点で彼は革命支援の代償として満州を獲得する等の利権を得ようとした黒龍会2)等の大陸浪人の主流と袂を分たねばならなかった。そしてまたこの点で彼は、中国革命のよき理解者と評されるような一面をも持ち得ることとなった。しかし同時に、彼は決して日本帝国の発展という彼の思想の基本的要求を放棄した訳ではなかった。彼は日本帝国の発展と新興中国の発展とを、日露戦争の肯定の上に構想することで、やがて、「日本ファシズムの源流」と呼ばれる地点に到達することになるのであった。

  いわば彼は、革命評論社から黒龍会を経て辛亥革命の内側にはいり得たことで、『国体論』の立場を脱皮すると同時に、既成右翼をもつき抜ける道を見出したといいうるであろう。彼はこの後、自らの立場を積極的に「社会主義」として語ろうとはしなかったし、『国体論』における「社会民主主義」は、『支那革命外史』においては、「国家民族主義」と表現されるに至るのであった。

1)

 黒龍会では、辛亥革命に関する現地からの電信の写しを綴って関係者に配布したようであるが、それには次のような序言が付されている。「支那革命軍ノ武昌ニ蹶起スルヤ、是ヨリ先キ、革命党ノ領袖等、密二内田良平二結托シ、事ヲ拳グルノ日、遙二声援ヲ約スル所アリ。10月17日、領袖者ノー人宋教仁上海ヨリ内田二飛電シ、我当局二向ッテ革命軍ヲ交戦団体卜公認スルノ交渉尽力ヲ依頼シ来ル。内田乃ハチ之ヲ諾シ、同時二従来革命党領袖間二信用アル黒龍会時事月函記者北輝次郎ヲ上海に簡派シ彼地二於ケル一般ノ状勢ヲ視察シ、併セテ革命党ノ為メ二斡旋スル所アラシム。」(西尾陽太郎編「辛亥革命関係資料」福岡ユネスコ協会編『日本近代化と九州』所収、424頁、1972年7月刊、平凡社)
なお、西尾氏の紹介されたものは、内田家所蔵の資料であるが、小川平吉文書にも同様の写しが保存されており(小川平吉文書研究会編『小川平吉文書』2、所収、1973年3月、みすず書房)『北一輝著作集』第3巻に収録されているのは、出所は明かにされていないが、ほぼ小川文書と同一の内容のものである。しかし、西尾氏紹介の内田文書には、他の文書にはみられない電信もふくまれているので、ここでは西尾氏編の資料集より引用させて頂くことにした。

2)

 内田ら黒龍会主流と北の違いについては次節参照。


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