『人文学報』第38号

1974年10月

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北一輝論(2)


古屋 哲夫


6 『国体論』からの転回

7 辛亥革命への参加
8 中国革命認識の特徴
9 「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退
(以下次号)



9 「東洋的共和政」論の再構成と国体論批判の後退


 「支那自らが自立独行すべき一国家」として存立することが「日本の利益」(2-28頁)でもあると主張する北の立場からすれば、日本のあるべき対中国政策は、中国革命に干渉せず、中国革命を阻害するような列強の政策を阻止することを基礎として構想されねばならなかった筈である。従ってそこから日中の「両輪的一致策」を求めるとすれば、列強に日中共同して対決する という局面を想定することが必要であった。そしてさらにこの共同の対決のなかから「日本国権の拡張」を引き出そうとすれば、それに見合った形での革命中国の積極的な対外政策を予定 しなければならなくなる。『支那革命外史』執筆中断の際に北がつきあたっていた問題はおそ らくこの点にかかわるものであったと思われる。

  つまり民衆の「大勢」のもつ群衆心理的浮動'性を重視し、それを統御するために「栄誉の国柱」 を立てねばならないといった捉え方では、中国革命のなかに対外行動に立ちあがる強力なエネ ルギーを見出すことは困難にならざるをえない。しかも当時の中国の政治情勢は、袁世凱の帝 制計画は失敗に終ったとは言え、いわゆる第三革命とは旧官僚勢力の内部分裂を示すものにす ぎず、革命運動は完全に停滞してしまっていた。従って対外行動に立ちあがる力は、何よりも まず、革命の停滞を打破しうる力でなくてはならなかった。法華経読誦に専念し始めた北は、 そこにこのような中国革命の原動力についての新たなイメージを得る助けを求めたことであろう。そして執筆を再開した彼は、政治責任を負わない大総統について論ずろ代りに、やがて現われるであろう武断的英豪について語り始める。「革命とは地震によりて地下の金鉱を地上に 揺り出すものなり。支那の地下層に統一的英豪の潜むことは、天と国民の渇望とが証明すべし。 之を人目に触れしむることは地震の後なり」(2-159頁)。そしてその英豪に「大殺戮を敢行し得る器」(2-153頁)たることを求め、またそれによって「東洋的共和政」論を再編成したのであった。その基礎となっているのは、言うまでもなく中国革命の原動力についての新たな構想にほかならなかった。

  中国革命のエネルギーをつかみ直そうとする北の作業は、まず「自由」の問題を再検討する ことから始められた。すでにみたように、彼が中国民衆は自由の意識にめざめていないと指摘 したのは、アメリカとの対比に於いてであり、従ってそこでの「自由」とは、アメリカ的な、 社会秩序の核となる「自由」にほかならなかった。このような秩序形成力をもった自由が中国 民衆の間に欠如しているとの認識は、北は一貫して持ちつづけている。しかし同時に、「社会的解体の意味における自由」(2-144頁)という新たな観点を提起し、この意味における自由な らば、中国社会にも存在していると主張し始めるのであった。つまり革命がおこるということは、社会が解体して革命を起す自由が得られたということではないかというわけである。北はこの点について次のように書いている。

  「固より革命に当りては旧き統一的権力を批判し否定し打破し得る『思考の自由』と、其の自由思考を実行し得る程度にまで旧専制力の弛頽し了はれる『実行の自由』を要す。是れ社会 的解体の意味に於ける自由なり。従って革命とは自由を得んが為めに来るものに非ずして、自由を与へられたるが故に起るものなりとも考へ得べし」(2-144頁)と。勿論それを「自由」の 名で呼んだとしても、 近代的秩序を形成するための「自由」とは異ることは北も認める。「即ち同一なる自由にして未だ新たなる統一的権力を得ざる時期の−例えば腐朽せる旧専制政治の弛緩せる結果として生ずる、脱税し得る自由、法網を免れ得る自由、罪悪を犯して罪する力を見ざる自由、 兵変暴動を起して征討されざる自由、 帝力我に於て何かあらんの自由は、是れ革命前の政治的解体と称すべきものにして近代的意義の自由に非ず」(2-143頁)、それはむしろ「野蛮人及び動物の生れながらに有する本能的自由」(同前)とも言うべきものであろう、しかし、人間が「物格」として支配されていた中世を脱するためには、一度こうした「本能的自由」の階段を経ることが必要なのだと北は主張するのである。

  「先ず天賦人権説によりて人類としての動物的本能より覚醒せざるべからず。耕作用に馴育 したる家畜の鎖を断ちて、曠野に放たれたる猛獣としての人類に覚醒されざるべからず。而し て中世的権力の鎖は腐朽して自ら断たれたり。家畜は檻を出でて猛獣の天賦を現はしたり。… …則ち近代史が自由なき中世史より脱却せんが為めに人類をj寧猛なる破壊に駆る期間を名けて 革命と云ふ」(2-150頁)。つまり北は家畜の段階を脱するためにはまず人間としての本能を自由 に発揮しみることが必要だとして、近代をつくり出す力をそのような本能的エネルギーに求めたのであった。そしてそのエネルギーは中世的な権力や秩序を破壊するだけではなく、近代的 な権利主体としての個人をつくり出す力にもなるというのであった。「支那は明らかに人類的生活の権利に覚醒したり。四億萬民が各自権利の主体にして君主と其 の代官とのために存する物格にあらずとの覚醒は、実に中世的君主政治を排除して近代的共和政を樹立し得べき根基にあらずして何ぞ。各入悉く権利主体たる覚醒は切取強盗の中世的権利思想に対抗して、労力の果実に対する所有権の神聖を主張せしむ」(2-148〜9頁)と。

  しかし猛獣としての破壊と反抗が個人の覚醒と権利の基礎となりうるとしても、その新しい基礎の上に立つ新しい秩序は、社会的解体状況のなかから自生的に形成されるものではないと北は考えた。いわば猛獣には猛獣使いが必要だというわけである。そして彼はこの猛獣使いと しての「専制」権力の問題を提起してくるのであった。彼はまず原理的に言って革命は専制的権力を必要とすると主張した。「凡て革命とは旧き統一即ち威圧の力を失へる専制力が弛緩 して、新たなる統一を求むる意味に於て強大なる権力を有する専制政治を待望する者なり」 (2-143頁)と。つまり「社会的解体の意味における自由」とは、いわばアナーキーな破壊力と して作用するだけで、新たな建設力とはなりえないとみる北は、この「一切の統制なき本能的自由」(2-145頁)を専制権力によって「圧伏」しなければ、破壊の過程がつづくだけで新しい秩序を建設することは出来ないではないかというのである。しかし旧秩序の破壊力として荒れ狂った本能的自由をただ単に圧伏してしまったのでは、革命はそのエネルギーを失って失速・ 墜落するほかはない。そこで革命に必要とされる専制権力は、本能的自由のアナーキーな暴走を抑えると同時に、それを国民の「心的傾向」(2-160頁)の改造の方向に導かねばならないと いうことになる。そしてアメリ力がこのような専制権力を必要としなかったのは、アメリカの 独立が本能的自由によって中世を打倒する革命ではなく、「掠奪より免れんとする人類の本能 に従って」「中世的掠奪者を本国に放棄したる近代的人類」(2-159〜60頁)による新社会の建設 という例外的な事例にほかならなかったからだとされるのであった。

  北がこのような本能的自由という新たな観点をもち出してきたのは、革命の中心に国民の 心的傾向の改造=「国民信念の革命」(2-162頁)という問題を位置づけるためであったと言ってよ い。彼は「革命の根本義が伝習的文明の一変、国民の心的改造に存する事」(2-169頁)を主 張し始める。つまり社会的解体の結果として露出する本能的自由は、たんに秩序や制度を破壊するだけでなく、その基底にあって民衆を捉えてきた信念や教義をも破壊する点で革命の根底的な力となりうるのであり、同時にまた、専制権力による国民の改造を可能にする条件をつく り出すものでもあるというのであった。「革命とは数百年の自己を放棄せんとする努力なり。 制度に対する自己破壊は即ち国民信念に対する自己否定なり」(2-169頁)とする北は、この旧来の信念を自己否定した国民を新たな信念の形成に導いてゆくことが専制権力の任務であり、 それがまた革命の中核となる過程にほかならないとみるのであった。そしてそこから更に、自己否定によって本能的自由のレベルにまで解体された国民は、革命の必要に応じた形で改造す ることが出来るという論理を引き出すに至っているのである。

  北の中国革命論は、この論理を踏切板として明らかな逆転をとげる。そしてそれまで中国民衆の「大勢」を基礎として、辛亥革命以来の中国革命の過程を捉えようとしてきた筈の北は、 今度は内に対する武断主義と外に対する軍国主義とを革命の必要として中国革命の未来に押しつけはじめる。内に対する武断主義は、本能的自由をかきたてながら、旧社会を破壊し、革命権力を創出し、国民信念を革命する過程を見通すために、また外に対する軍国主義は、この武断主義を基礎とすると同時に、日本の国権拡張を前提とした「日支同盟」論を引き出してくるために不可欠の観点であった。そしてそのことは北が、中国革命が軍国主義的な国民を作りうるという論理を持ち出すことによってはじめて、それが如何に幻想的であったにもせよ、とにかく日中の両輪的一致策にについて語りうる地点に達したことを意味しているものでもあった。

  北はまず中国革命における国民改造の方向を、国民を服従的かつ文弱にしていた儒教文化を排除して、「国家のための国民」(2-189頁)をつくり 出すという形で提示した。「支那の文弱による亡運は孔教に在り」(2−161頁)とみる北は、孔教の教義もそれにもとずく「文士制度」も共に革命の敵として打倒しなければならないと断じた。即ち「君臣の義を人倫の大本となし政道の根軸とする教義は、其の枝葉と雖も共和国に公許すべからざる異端邪説となれり。平和なる無抵抗主義の信条は、支那の山河が天下の凡てなりと考へし時代にすら多くの価値なき者なり。武断政策によりて各省を統一し、軍国主義を掲げて外敵を撃攘すべき救世済民の英雄を弾劾する結果を導くに至っては寸言の存在をも許す能はず」(2-162頁)。そしてまた、このような教義にもとづく文士制度は「治国平天下の論策を職業となし、行政的能力なき者が官を売買するに至りて」(2−161頁)中国の衰弱を決定づけたというのである。そして今や革命の進行と共に、この孔教は急速に国民から棄てられつつある、「第一革命に於いて共和制を樹立したること其事が孔教の否認なり、官僚討伐其事が文士階級の一掃なることに於いて亦孔教の終焉なり」(2−163頁)、しかしその害毒が一掃されたわけではないと北は言う。『支那革命外史』前半における「群集心理」の問題は、ここでは儒教文化の残存の問題におきかえられてしまっている。

  北は、群集心理にかつぎあげられた孫文、というさきのくだりを今度は次のように書き改めてゆく。「孔教に発せる文士制度の害毒は中世的文士の亡ぶると共に今や却て革命的階級の或る部分と国民との心的傾向に宿りて―見よ一たび言論文章の徒に大総統と参議院を委ねたり。是れ答案を英文又は日本文に求めたる形式の変更に過ぎずして依然たる科挙法の精神を継承する者。空虚なる言論を崇敬する文弱なる心的傾向なくんば、誤謬の知識を伝ふるに過ぎざる英語の達人を大総統に迎ふるの理あらんや」(2−161頁)。

  彼はもはや、群集心理の問題にかかわり合う必要はなかった。群集心理は孔教の害毒を洗い流し国民信念の革命をすすめることによっておのずと姿を消してゆく筈であった。従って革命の停滞を破るべき亡国階級との闘争は、本能的自由をかき立てるような暴力的な形で構想されねばならなかった。彼は内に対する武断主義を奏の始皇帝のイメージを援用しながら語り始める。即ち「教理其者に対する革命家は支那に於いては太古唯一人の奏始皇帝ありしのみ。『書を焚き儒を坑に』せしと伝へらるゝ者、後の反動は是を別個の説明に求めざるべからずと雖も、要するに孔孟の文士教を以てしては禹域の統一断じて望むべからざるを洞見せしが故なり」(2−162頁)、「而して凡て国家の統一と国民の自由の為めに将に屠殺さるべき中世的代官等は実に孔孟の文士教を信仰する文士制度の遺類なり。―窩濶台汗と上院の諸汗とは書を焚き儒を坑にすべき大使命の下に立てる者ならざるべからず」(2−163頁)。「窩濶台汗と上院の諸汗」とはあとでみるように、中世蒙古史のイメージで、革命中国の専制権力を言い表したものであるが、北はこの権力に「焚書坑儒」の武断主義を求めたのであった。「自由の楽土は専制の流血を以て洗はずんば清浄なる能はず」(2−154頁)、「革命は速やかにギロチンを準備せざるべからず」(2−156頁)と。

  そしてさらに北は、亡国階級の財産を掠奪し没収し、彼等を亡命を許さない敏速さで打倒せよと叫ぶ。一切を力関係に還元しながら北は言う。「租税とは掠奪が法律の美服を着たる者なり。国家の存立のために必要なる物質的資料を徴集せんとして強要する掠奪力の最も強大なる最も組織的なるものが則ち法律なり。国家が平和に存する時租税となり、軍事行動をとる時徴発となり、物資徴収組織を根本的に一変せんとする革命の時に於いて掠奪となる」(2−118〜9頁)。「勇敢なる掠奪、大胆なる徴発、一歩の仮借なき没収、斯の如くにして一切の政治的腐敗財政的紊乱を醗酵する罪悪の巣窟は顛覆せられ、茲に始めて新政治組織新財政制度を建設すべき基礎を得べし」(2−125頁)と。そしてこの過程で亡国階級の亡命を許すならば、彼らは外国の干渉をひき込むてさきになるであろうと警告したのであった。

亡国階級打倒の過程がこのような形で進行するとすれば、それは「国民の軍事的精神其者を一変すべき信念と制度に対する根本的革命」(2−171頁)となる筈であった。そしてそこから、列強と武力で対決する軍国主義も生れてくると北は言うのである。「即ち不肖は革命の支那が一大陸軍国たるべき可能的目的に向って躍進すべしと推断せんと欲す」(2−168頁)、「革命の支那が孔教の文士制度と共に其文弱文明を否定して蒙古共和国の軍国主義に急転し得べき事は、実に革命なるが故の真理なり」(2−169頁)、「一大陸軍国たる支那の将軍は革命的青年と4憶萬民の泥土中より出ずべし」(2−172頁)と。しかも彼は、革命の過程における対外的緊張そのものがこのような外に対する軍国主義を形成する契機となるであろうと予測するのであった。

  「革命の支那が武断政策によりて国内を統一し軍国主義に立ちて外邦に当るべしとの以上の推定は、即ち支那と英露との衝突避くべからざるを断決せしむるものなりとす」(2−173頁)。北は英・露両国を中国に対する最大の侵略者とみ、中国革命はこの両者との軍事的対決を避けることは出来ないと断じた。「英国にシンガポールと香港とに拠れる経営を放棄せんことを望むは、尚露西亜に西比利亜鉄道の割譲を求むる如き不可能事にして、―即ち国家の存亡を賭して争はざれば能はざる事」(2−174頁)であり、「支那の革命」は「革命と同時に対外戦争を敢行せざるべからざる……運命を負へるものなり」(2−187頁)と北は言うのである。

  北はまず、中国の財政的独立を奪い、自己の利権保持のために亡国階級を支援しているイギリスは、革命が許すことの出来ない侵略者であるとする。「支那が財政的独立を得ることは、直に埃及の如く其れを侵しつつある英国の駆逐を意味す。己に海関税を奪ひ将に塩税を奪はんとする彼は、支那の財政革命と同時に若くは前提として先ず第一に革命政府の許容する能はざる侵略者なり。挨及が英国の主権の下に於て財政の独立を得べしと言ふ愚論無し。支那の革命政府は中世的代官階級の維持に腐心し其維持によりてのみ自己の利権を保持せんとする英国の駆逐を先決問題の一とせざるべからず」(2-173頁)、とすれば、中国革命は亡国階級に対するのと同じく、掠奪・没収・徴発の方法を以てイギリスともたたかわねばならないと北は言う。 「英国資本の利払ひを拒絶すべし。主権は絶対なりの原則に従ひて必要の場合彼れの資本其者を収得すべし」(2-174頁)と。

  このようなイギリスの経済的侵略に対して、ロシアは蒙古の侵略にみられるように領土的侵略を中心にしていると北は言う。そしてこのロシアの侵略を許すことは、たんに蒙古を失うだ けではなく、列強の中国分割を呼びおこすことになるのだと北は言う。「蒙古其者は支那の大を以てすれば数ふるに足らざる如し。而も蒙古に露西亜の北的侵略を導くことは直ちに西蔵に英国の南的経営を迎へ、仏の雲南貴州を求むるあれば英は更に揚子江流域を呑まんとし、露独亦協定して山西陜西の森と山東の海より呼応し、対岸の島国は狼狽して亦ツーロンに上陸すべ し。蒙古一角の喪失は則ち全支那の割亡を結果す。即ち蒙古西蔵は浅薄なる支那学者等の考ふる如き中世史の外藩にあらずして,英露の経略に対抗して支那の存立を決する有機的一部なり」 (2−179〜80頁)。北は中国革命の求める「統一」とは、漢民族によるいわゆる中国本部だけの統一を意味するものではなく、「支那の国民的理解は共和旗の下に五族を統一する大共和主義」 (2-147頁)を意味するものと理解する。従って、周辺からの中国分割を認めるということは、 日本を例とすれば、北海道をロシアに九州をイギリスに米仏などに夫々その欲する所を与えて本州だけの明治維新で満足するのと同じではないかと反論しているのである。

  しかし、革命中国が英露二正面作戦を遂行することは如何にして可能なのか。ここで北は中国にとっての敵・英露は、日本にとっても敵であるとし、両国が「日支同盟」を以て共同の敵 に立ち向うという局面を想定する。「窩濶台汗の共和軍が英人を駆遂し蒙古討伐を名として対露一戦を断行する時、日本は北の方浦港より黒龍沿海の諸州に進出し、南の方香港を掠し、シ ンガポールを奪ひ……」(2-182頁)と彼のイメージは拡がる。そしてそのなかの主要な局面を 日英・中露の対決として構成する。つまり、英露対日中の対決を「日英戦争」と「露支戦争」の組合せを柱として考えようというのである。一方で「実に支那の英国を駆逐すべきことは、唯日本と英国との覇権争奪に於て日本を覚醒せしめ後援すれば足れり」(2-173頁)、「日英開戦の大策は、今や将に支那革命の展開に伴へる必然の運命となれり」(2-175頁)、とみる北は、他方では、「支那の分割か保全かを端的に決定する者一に唯窩濶台汗と其諸汗とが露西亜を撃破 し得るや否やに存す」(2-178頁)と言う。つまり彼は日英戦争が日本の発展の必然の道であるのと同様に、「対露一戦」は、中国革命の成否を分つ分岐点になるというのであった。北は「対露一戦」をたんに列強の侵略を打破するために必要な方策としてだけでなく、同時にまた革命を徹底させ、文弱な中国を一大陸軍国に転換させる跳躍台としても想定しているのであった。

  「支那は対露一戦を以て山積せる革命的諸案を一挙に解決し得べし」(2-187頁)とする北は、国家存亡の危機→挙国一致→民衆の対外戦への蹶起→全社会的変革の実現という図式を画いているのであった。「腐敗堕落して国内の革命的暴動をすら鎮圧する能はざりし都督将軍等の代官階級は逃亡して『泥土の将軍』と『地下層の金鉱』とがゴビ砂漠の陣頭に立つべし。……代 官に購買せられたる『最悪なる人民』の中世的軍隊は四散して、『国家の為めの国民』に覚醍せる至純なる農民の組織せる愛国軍を見るべし」(2-189頁)、「不肖は固く信ず、対露一戦の軍費は代官階級の富を没収徴発することによりて得べく、政治的財政的革命亦対露一戦に依りてのみ始めて望むべしと」(同前)。従ってまた革命中国の政治権力も、この過程のなかではじめて確立されるということになってくる。北は言う。「徹底的革命後の大総統は断じて露支戦争の凱旋将軍ならざるべからず。兵は4億萬の組織さるべき国民軍あり。資は亡さるべき代官階級の富数十憶萬の山積せるあり。 而して各省乱離の統一、財政基礎の革命、 一大陸軍国の根柱、自らにして成る」(2-190頁)と。

  このような北の中国革命論は、いわば二つの想定を組合せ、逆転させてゆくという形でつく りあげられていると言える。彼はまず第1には、本能的自由による破壊の局面と、専制的革命権力がそのエネルギーを「国民信念の革命」に誘導する局面とを想定する。そしてそこから軍国主義的国民の形成の可能性を示唆する。しかしこれは革命の基礎過程についての観念的想定 に他ならず、そのなかから中国革命の停滞を打破してゆく現実的契機を引き出すことは出来ない。そこで彼は次に現実の問題として、中国革命と帝国主義列強との対立が激化するという局面を想定する。それは確かに現実の中国情勢に根拠を有するものではあるが、しかし現実の中国情勢をこの列強との対立、とくに英露の中国侵略の問題に局限している点でまた観念的であることを免れがたくなっている。つまりそこではその他の問題は捨象され、例えば国内の革命過程はさきの観念的想定におきかえられてしまう。そして北の中国革命論はこの二つの想定を 次のように組合せることによって構成される。

  北はまず第1の想定で示した軍国主義中国の可能性を第2の想定に適用し、中国も英露との対立を戦争という方法で解決することが出来ると主張する。そしてそこから反転して、戦争こそが革命の基礎過程を引き出す現実的契機にほかならないとするのに至るのである。いわば、中国革命の根底に戦争を位置づけるわけである。そしてその戦争を「日英戦争」と「露支戦争」 の複合形態で設定することによって、日中関係を根底的に結びつけようというのであった。従 ってまた、革命中国の権力のあり方=「東洋的共和政」も、今度は基本的にはこの「露支戦争」 との対応から性格づけられてゆくことになるのであった。

  北は「東洋的共和政」を、『支那革命外史』前半の場合とは異って、ここでは「中世史蒙古の建国に模範」(2−158頁)を求めて構想しようとする。彼は中世蒙古がヨーロッパに向って大征服を敢行した事実に革命中国のイメージを重ね合せ、同時にまた、武将達による専制的共和制という独自の政治形態を引き出してくるのであった。「実に成吉,思汗と云ひ、窩濶台汗と云 ひ、忽必烈汗と云ひ、君位を世襲継承せし君主に非ずして『クリルタイ』と名くる大会議によ りて選挙されしシーザーなり。而してシーザーの羅馬よりも遙かに自由に遙かに統一して更に遙かに多く征服したり。…革命の支那は自由と統一との覚醒によりて将に最も光輝ありし共和政的中世史の其れを採りて窩濶台汗を求めんとす」(2-158頁)、「而も剣を横へて神前に集まれる数百の諸汗が大総統を選出して是れを大汗となす者、古代羅馬に比すべからざる大共和国 にあらずや」(2-160頁)。
北は「東洋的共和政」を、窩濶台汗としての終身大総統と軍事的革命指導者の集団としての 「クリルタイ」を中核とし、議会主義を排除する形で構成する。そしてそこでの彼の関心は、 如何にして革命指導者の専制体制を維持し安定させてゆくかという点に向けられており、その点では彼の関心は『支那革命外史』前半から一貫するものであったと言えよう。即ち、終身大総統制の問題についてみても、そこでは「総統一人の責に於てすると将た小数革命家の団集に任を分つと形式は云うの要なし」(2-158頁)と述べられているように、大総統個人への権力の集中を求めていのるではなく、安定した政治的権威の確立のための方策が模索されているのであり、それ故に大総統の「終身制」が主張されているのであった。

  また議会主義を排除するのも、革命期の議会は必ず反革命の拠点となり、革命権力の安定を 脅すものとなるとの観点からであった。革命が国民の心的改造を目的とするとすれば、その中途に於て国民の意思を問うことは、「投票の覚醒なき国民の法律的無効なる投票」を求めるという自己矛盾におちいるというのであった。北は「革命の或る期間に於て反動的勢力が必ず議会と与論とに拠りて復活を死活的に抗争すべしとの事実」(2-155頁)を強調しつつ、革命中国の政治体制を次のように画き出していた。「中華民国大総統とは所謂投票神聖論者の期待する如き翻訳的議会より選挙さるゝものにあらず」(2-157〜8頁)、「是れ革命後に於ては統一者其人のみが国民の自由を代表し、而して議会又は与論に拠るものゝ多くが反動的意志を表白する者なればなり。固より大総統は革命の元勲等によりて補佐せらるべし。而も彼等は投票の覚醒なき国民の法理的無効なる投票によりて議会に来るものに非ず。旧権力階級を打破せる勲功と力 とによりて自身が自身を選出すべき者、断じて世の所謂人民の選挙に非ず゜。即ち適切に云へば、彼等は新国家の新統治階級を組織すべき『上院』の人なり。真に国民の自由意志を代表する 『下院』は、下院を組織すべき国民を陰蔽せる今の中世的階級を一掃屠殺したる後ならざるべからず」(2-159頁)、「東洋的共和政は大総統と上院にて足れり」(2-160頁)と。 そして北が自ら構想した中国共和政を「東洋的」を名づけたのも、この点に大きくかかわっていたと思われる。 彼は中国に向って「断じて投票萬能のドグマに立脚する非科学的非実行的なる白人共和政の輸入に禍さるゝ勿れ」(2-159頁)と警告しているのであった。

  北の中国革命論は、以上みてきたように、「露支戦争」ヘの展望を基底におき、「窩濶台汗」 を呼び求める声で終っている。彼は『支那革命外史』を、「不肖は窩濶台汗たるべき英雄を尋ねて鮮血のコーランを授けん」(2-204頁)という−節で結んでいる。そして北は、このあるべ き中国革命と結合するために日本の対外政策の「革命的一変」を説くのであるが、その問題は節を改めて検討することとし、ここでは、以上のような「東洋的共和政」論を構想する過程で、 彼の国体論批判に一定の修正が加えられている点に眼をむけておきたい。

  すでに述べたように北は『支那革命外史』前半においては、中国革命における共和制の要求を、一方では「征服者の主権を転覆せずんば止まざる民族的要求の符号」(2-84頁)として積極的に解すると同時に、他方では「徳川に代ふべき天皇を持たず」(2-59頁)と消極的に理由づけていた。これに対して『外史』後半になると、この消極的な側面に議論の中心がおかれるようになり、その反面で日本の天皇制の価値が強く意識されるようになってくるのである。北自身後年この点について次のように述べている。「支那自身の漢民族中に、君主と仰ぐべき者がないために、大統領が度々起きたり倒れたり、又は袁世凱が皇帝となろうとしても1つも国内の建設が出来ないので、万民塗炭の苦しみを続け居るを見、痛切に皇統連綿の日本に生れた有難さを理論や言葉でなく、 腹のどん底に泌み渡る様に感じました1)」。この陳述は官憲に対するものではあるが、しかし『支那革命外史』の叙述のなかからも彼のこのような天皇制に対する意識の変化を読みとることが出来る。辛亥革命敗退の決定的な原因の1つを、革命派が政治的権威を打立てるのに失敗したことにあるとみた北は、革命政権安定の問題は大きな関心を払い 「終身大統領制」を提議するに至るのであるが、この思考の過程で彼は、革命派が革命の渦中で伝統的権威を利用できればそれにこしたことはないと考え始めたように思われるのである。

1)

二・二六事件関係憲兵隊調書、3-444


 北は「東洋的共和政」を論ずるにあたって、明治維新で確立した天皇制を「東洋的君主政」 としてその対極におき、フランス革命を君主政と共和政との間を動揺した「変態化の革命」(2-151頁)としてその中間に位置づけるという対比を用いた。そしてそこでは、革命は必ずしも伝統的権威を打倒することをめざすものではないという認識が前提とされていた。例えば彼 は、フランス革命についてこの観点から次のように述べている。「見よ。バスチールの破壊さるる時と雖も、軍隊の威嚇に対してミラボーが議会の神聖を叫びし時と雖も、飢民乱入してチュレリー宮殿の階上に鮮血の鎗が閃きし時と雖も、仏蘭西国民は帝王に対する忠順を失はざりき。彼等は古来貴族の横暴に対して抗争すべく常に王権の擁護を得たる歴史的感謝を持てるものなりき。彼等は不幸にしてルヰ16世なる売国奴を与へられしが為めに、当初の方針を持続する能はざりしのみ」(2-145頁)と。つまりフランス国民は「革命の統一的中心を王室に仰」 (同前)いでいたにも拘らず、亡命貴族の先導する列強の反革命軍に皇帝が内応するという事態がおこったため帝制打倒に向はざるを得なくなったのだというのである。

  そして彼は、このように統一的権力の中心を「王室」に求めて得られず、更に「『革命政府』に求め『公安委員会』に求め終に『奈翁』に求めて漸く安んずるを得」(同前)るというように「左廻右転」したフランス革命を革命の模範とすることは出来ないとする。言いかえれば、 革命の最初から統一的権力の中心を見定め、一貫してその実現に邁進するのが革命の望ましい姿だというわけである。そしてその点で明治維新は模範に足ると北は言う。「是に反して日本の皇室は約1千年の長き貴族階級に対する痛恨の涙を呑みて被治的存続を忍びしもの。而して明治大皇帝は生れながらなる奈翁なりき」(同前)、「最初より萬世一系の奈翁に指揮せられたる維新革命は革命の理想的模範たるものに非ずや」(2-146頁)と。

 では中国革命の場合はどうなるのか。中国には革命に利用し得る伝統的権威は存在していないとみる北は、最初から一貫して共和政を目標とし、そのなかから政治的権威を生み出すための一貫した努力を中国革命に求めるのであった。「『東洋的君主政』は2千5百年の信仰を統一 して国民の自由を擁護せし明治大皇帝あり。『東洋的共和政』とは神前に戈を列ねて集まれる諸汗より選挙されし窩濶台汗が明白に終身大総統たりし如く、天の命を享けし元首に統治せらるゝ共和政体なりとす。近代支那と近代日本との相異は終身皇帝と万世大総統との差のみ。連綿の系統なき支那は日本に学びて皇帝を尋ぬることを要せず」(2-158頁)。いわば彼は、統一的権力の中心を創り出す一貫性において、明治維新を学ぶべき模範として、フランス革命を学ぶべからざる悪例として提示したのであった。

  ところで、このような対比が、すでに皇統連綿たる天皇の価値を前提としていることは明らかであろう。北は万世一系について、連綿の系統について、更にはまた国民の信仰的中心としての天皇について語り始める。即ち「万世一系の皇室が頼朝の中世的貴族政治より以来700年政権圏外に駆除せられ、単に国民の信仰的中心として国民の間に存したこと」は維新革命における天佑であった(2-136頁)とされ、また明治維新は、「維新の民主的革命は一天子の下に赤子の統一に在りき」(2-147頁)と規定しなおされるのであった。『国体論及び純正社会主義』におけると同一の、「民主的革命」の用語が使われていても、その内容は全く異質のものとなりつつあった。かつての『国体論』に於て北は、「万世一系そのことは国民の奉戴とは些の係りなし」 (1-328頁)と断じ、皇統連綿たることを以て明治国家における天皇の地位を基礎づけることは、 維新革命に対する明らかな反革命であると斥けた筈である。そこでの彼は、維新革命によって天皇の性格が幕府・諸侯と同質な家長君主から公民国家の最高機関へと質的に変化したという点を力説し、維新の民主的性格について、「維新革命の国体論は天皇と握手して貴族階級を転覆したる形に於て君主主義に似たりと雖も、天皇も国民も国家の分子として行動したる絶対的平等主義の点に於て堂々たる民主々義なりとす」(1−353頁)と述べていたことはすでにみた通りである。

  しかし今や北は、国家意識にめざめ、国民と共に闘った維新の英雄という天皇観を捨てて、国民の信仰的中心として伝統的権威を保持していたが故に本能的自由の乱舞する討幕運動を統御 し専制者たりえたという側面から天皇を捉えようとするのであった。「然らば維新革命を見よ。 王覇を弁じ得る『思考の自由』と覇を倒して王を奉ずべしとする『実行の自由』とが、其の階級間に歯されざるほどの最下級武士によりて現われ、而して封建制の旧権力が是れを弾圧せんとして却て白昼大臣の頭を切り取られたる程度にまで腐朽せし社会的解体なりき。所謂勤王無頼漢と称せられし切取強盗の本能的自由を恣にすることを得て幕府を倒したるもの、維新革命は自由を与へられたるが故に来れるものなり。而も明治大皇帝の革命政府は……明白に統一 的専制の必要を掲げたり。而して革命の目的は一天子の権力下に一切の統制なき本能的自由を 圧伏することに在りとして、秋霜烈日の専制を23年間に互りて断行したり」(2-144〜5頁)。ここに述べられている天皇のイメージは、伝統的権威の上に立った「窩濶台汗」とみることも出来るであろう。

  ともあれ、北が『国体論及び純正社会主義』の柱をなした強烈な国体論批判を大きく後退させていることは明らかであろう。彼はこの10年後(大正15年1月)、『日本改造法案大綱』に寄せ た序文、「第3回の公刊頒布に際して告ぐ」の中で「『国体論及純正社会主義』は当時の印刷で1千頁ほどのものであり且つ20年前の禁止本である故に、一読を希望することは誠に無理であるが、其機会を有せらるる諸子は「国体の解説」の部分だけの理解を願ひたい」(2-361頁)と述べているが、それは公民国家論の部分だけを理解して欲しいということであり、もはやかつての国体論批判から離脱していることを告げる言葉とも読める。

  この北の天皇観の変化のなかには、おそらくは混迷をつづける中国情勢を見通そうとする執念と、維新の英雄をついだ病弱な天皇に対する思念とが二重写しに投影されていたことであろう。彼はもはや個人としての、或いは機関としての天皇よりも、国民を統合し得る伝統的権威 としての、いわば制度としての天皇により強い関心を寄せるに至っていたのではあるまいか。 天皇大権の発動により天皇を奉ずるクーデターの構想は、『国体論及び純正社会主義』から直接にではなくて、このような天皇観の変化を媒介として生み出されてくるように私には思われるのである。そしてその上に、『支那革命外史』における日本対外政策の「革命的一変」のイ メージを重ね合せた時、北はすでに「日本改造法案」の骨格をつくりうる地点に達していたのではなかったであろうか。(未完)

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