『人文学報』第39号

1975年3月

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北一輝論 (3)


古屋 哲夫


10 亜細亜モンロー主義

11 改造法案への契機



11 改造法案への契機


 『支那革命外史』を書き終えた北は、すぐさま、中国への渡航を企てた。直接の目的は譚人鳳のもっていた10万円の不渡公債をつかって、資金をつくることにあったとされているが、天津で領事館警察に抑留され送還されてしまった。しかし1916年(大正5)6月には上海に渡り、妻すず子と共に同志長田実の経営する医院の2階で居候生活をはじめた。そしてこの生活が、19年(大正8)12月、大川周明の訪問にこたえて帰国の途につくまで続いている。

  北が再度中国に渡ったのは、資金関係の問題を別にすれば、中国を反英・反露の方向に動かすことを意図したものであったであろう。しかしすでに軍閥割拠の時代にはいっていた中国情勢のなかで、宋教仁という盟友と黒竜会という後援者とを共に失ってしまっている北は、中国側に働きかける手だてをつくり出すことが出来なかった。彼に出来ることとしては、日本の為政者や同志に対して自らの意見を送りつけること位しかなかった。のちに「6年(大正)2月11日、神武建国の其日に於て、不肯北一輝なればこそ断乎として支那の対独断交に参加すべき理由なきを彼等に指示し」(2−357頁)と書いているところからみると、北はこの時、中国の参戦に反対する意見書を日本の有力者に送ったものと思われる。しかし同年8月、中国は彼の意に反してドイツ・オーストリアに宣戦を布告した。この間、3月にはロシア2月革命によって彼が当面の敵としたツァーリズムが倒れた。4月にはアメリカも聯合国側に立って参戦している。『支那革命外史』に於ける、「希くは諸公の活眼達識能く一転独米と結んで英露を撃破し以て抑塞せる国力の向ふ所を南北に分ちて恣に放たしむることなきか」(2−191頁)という北の訴えが実現する可能性は完全に消滅してしまっていた。11月にはレーニンのソビエト政府が出現する。

  翌1918年(大正7)1月、ウィルソンの14か条の平和原則が発表されると、その影響は民族自決権を中心として中国にも広まり、11月には「独逸の対抗力なき全敗と云ふ意外なる結果」(2-210頁)を以て第一次大戦は終った。19年(大正8)1月、ヴェルサイユ宮殿でウイルソンの14か条を中心として講和会議が開かれると、そこでの討議はたんなる戦争の後始末ではなく、「世界改造」をめざすものとしてうけとられた。講和会議からの報告に中野正剛は「世界改造の巷より」と名づけ、馬場恒吾は「改造の叫び」と題した。「改造」が新しい流行語となったことは、講和会議のさなかの、19年4月、雑誌「改造」の創刊に象徴されていると云ってよい。しかしこの「改造」の潮流は、民族自決・デモクラシー・平和主義という、北の思想とは異質の方向をめざして流れ始め、彼の周囲にも日本帝国主義に反対する中国民衆の運動が大衆的な盛り上りを示し始めてきた。5・4運動の波は6月に入ると上海で最高の高揚を示した。北は長田医院の2階から、「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を「投函して帰れる岩田富美夫君が雲霞怒涛の如き排日の群衆に包囲されて居る」(2−355頁)のを空しく眺めねばならなかった。

  『支那革命外史』の末尾において、すでに中国革命と思想的に離れてしまっていた北は、この過程においてその距離を実感として捉えたに違いない1)。「眼前に見る排日運動の陣頭に立ちて指揮し鼓吹し叱咤して居る者が、悉く10年の涙痕血史を共にせる刎頸の同志其人々である大矛盾」(2−356頁)は、北の思考を祖国日本の対外政策の問題へとかり立てるものであった。自らの眼の前に盛上る排日運動を、「英米相和する時巴里に於て日本全権の被告扱となり、支那に於ては全部に亙る排日熱の昂騰となる」(2−211頁)として、外からの影響の結果と捉える北の認識から云えば、あるべき中国革命を発展させるためには、この外からの影響を断ち切ることが必要であり、そのためには、日本の対外政策の変革を求めることが緊急の課題となる筈であった。

1)

 上海時代の北の中国情勢に対する意見を直接に示す資料は今のところまだ紹介されていない。しかし北が満川亀太郎にあてて自らの意見を書き送っていたことは確認することができる。満川は北からの手紙を二つの会合で公開している。その一つは、1918年(大正7)11月22日の老壮会第4回例会であり、この会合で「独逸の敗退に伴う英米勢力の増大は我国の生存を脅圧し来るや否や」を論議した際、満川は「右問題に関する在支那北輝次郎氏の来翰を披露」した。(「老壮会の記」「大日本」大正8年4月号」もう一つは、ヴェルサイユ会議に対応するため、佐藤鋼次郎中将を発起人として結成された国民外交会の席上であり、満川は次のように回想している。「私は当時久し振りに、北一輝氏が上海から私に宛てて送って来た対支時局観を謄写刷りとし、或る日のこの会合に配布したことがあったが、松田源治氏が最も卓見として共鳴していたことを今猶記憶している」(『三国干渉以後』190〜1頁、1935年9月、平凡社)。この二つの会合で示された北の手紙が同じものだったのか、違うものだったのかわからないが、北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」で「拝啓、過日の書簡を広く示され誠に感謝します」(2−207頁)と書いているのは、これらのことを指しているものと思われる。しかしそれにつづけて「支那の事終に実行時代に入りましたので、今後は鮮血の筆が小生の拙文に代て御報告申すであろうと信じます」(2−207〜8頁)と述べている背後に、どのような情勢認議があったかは、今のところ推測することが出来ない。
なお、満川と北の関係については、あとで改めてとりあげることにしたい。

 

と云っても、北はこうした激変する国際情勢のなかで、改めて日本の対外政策のあり方を再検討しようとしたわけではなかった。後年、「私の根本思想を申しますれば、この『支那革命外史』に書いてある日本の国策を遂行させる時代を見たいと謂ふ事が唯一の念願でありまして」 1)と述べているように、すでにこの時、日米経済同盟と対英一戦、つまりアメリカと手を握って、イギリスを倒すことを以て、北は確固不動のあるべき国策と考えるに至っていた。従って問題はそのために何を為すべきかであった。そしてこの観点からみれば、アメリカ参戦後の北の関心が「今後日本の方針は如何にして英米を引裂くことに成功すべきかに在り」2)という点に集中してゆくのは必然であった。北がヴェルサイユ条約が調印された1919年(大正8)6月28日、満川亀太郎に書き送った「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」もこの点に関する論議にほかならなかった。

 1)

2・26事件関係憲兵隊調書、3−445頁。

2)

「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」のなかに、昨年(大正7年)満川に送った手紙の一節とし て引用されている。2−211頁。

 

 北はここで、まず「柄にも無き世界改造といふ大望に逆上」した「口舌の雄」(2−209頁)してウィルソンの理想主義を否定し、ついで「日米両国の完全なる提契あらば、疲弊せる英仏伊を屈服せしむる易々たるものであった」(同前)にも拘らず、この提契をなしえなかった両国外交を批判する。それは勿論アメリカの野心を中国からそらせて、イギリスの植民地に向わせ、「英国を分割すべき共同目的」(2−212頁)に導いてゆくという観点からなされた批判であったが、その根底には人類進化の現段階では、あらゆる強国は「世界ノ大小国家ノ上ニ君臨スル最強国家」(2−280頁)をめざして領土拡張に狂奔するものだとする彼特有の進化論が前提されていることに注意しておかなくてはなるまい。そして彼はこの見地から「日本は米国に向て亜弗利加の独領占有を約束し、米国は日本に向て赤道以南の南洋独領を約束する。……国際聯盟か亜弗利加独領かと云ふ二つを提出した時、ウヰルソンと雖も後者を取るは自明の理である」(2−210〜1頁)とみるのであるが、この同じ見方は、相手を食わなければこちらが食われるという形で、北の危機感を極度に増幅させる結果を招くことにもなるのであった。

  「講和会議に於ける英米の提携−現時の支那に於ける英米提携の排日運動−を大きくする時は−英米同盟の日本叩き漬ぶしという元冠来の恐怖を推論することが出来ます」(2−212頁)という北の言葉からは、このような形で増幅された危機感を読みとることが出来る。そしてこの危機感が、北に改造法案を書かせる一つの契機となったことを彼は『国家改造案原理大綱』末尾の一節に次のような形で書き記している。即ち「日本ハ米独其ノ他ヲ糾合シテ世界大戦ノ真個決論ヲ英国二対シテ求ムベシ…米国ノ恐怖タル日本移民。日本ノ脅威タル比利賓ノ米領。対支投資二於ケル日米ノ紛争。一見両立スベカラザルカノ如キ此等ガ其実如何二日米両国ヲ同盟的提携二導クベキ天ノ計ラヒナルカノ如キ妙諦ハ今ノ大臣連レヤ政党領袖輩ノ関知シ得ベキ限リニ非ラズ。一ニ只此ノ根本的改造後二出現スヘキ偉器二侍ツ者ナリ」(2−278頁) と。そしてまた同じ問題を、のちにはこう語ってもいる。「私は改造案を書きました時、既に日本の改造は日本の対外政策遂行上…止むを得ざる結果として国内改造に帰着するものと断じて、前半の国内改造意見よりも後半の対外策に付いて力説詳論した訳であります」1)

1)

2・26事件関係警視庁聴書、3−483頁。

 

 勿論この危機感だけだったならば、北は改造法案を書くまでには至らなかったであろう。彼を決定的に改造法案の方向に踏み切らせた第二の契機は、「日本危し」とする国内情勢に対する危機感にほかならなかった。1918〜19年には、改造をとなえるさまざまな団体が生まれ、それらは全体として云えば、デモクラシーや社会主義の方向を指向しつつあった 1)。いわば「改造思潮」は左への潮流として滔々として流れ始めるかにみえた。北が「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書き送ったちょうど1年前、1918年(大正7)7月から9月にかけて、米騒動が日本全国をゆるがせていた。米騒動は大衆運動発展の画期をつくり出し、1917年から急激な盛り上りをみせ始めた労働争議は、19年に至って一つのピークにまで達した。

1)

こうした状況については、伊藤隆「日本『革新』派の成立」(「歴史と人物」昭和47年12月号、中央公論社)参照。

 

  これらの情報を北が、どの程度、どのような形で受けとったかは明らかではない。しかし 5・4運動のうずまく上海に在った北は、排日・反帝の大衆運動の実感によってより鋭敏とな った感覚を以て、日本の情勢をうけとめたのではなかったであろうか。後に北は次のように回想している。「其の当時(大正8年)」は、日本国内に於ても、頻々として『ストライキ』が起り、米騒動が起り、大川周明が上海に私を迎へに来た時には、東京の全新聞は悉く発行不可能の『ストライキ』であると云ふ様な状態、世界の革命風潮が、日本をふきまくっている最中でありました」 1)。それは一般的には「ロシア革命あり、自由主義、共産主義の勃興時代」。2)として捉えられる。そしてその上に現実に全国的規模で米騒動がおこっているのであり、つい前年の出来事としてまだ強烈な残像を残しているドイツの革命による敗戦という事態が、日本の未来のものとして感じられてくるのであった。それは右翼や軍人の間に、程度の差こそあれ広く存在した感覚であったと思われるが、チャンスがあればすぐにでも大英帝国解体のための戦いを起したいと考えている北にとっては、特別に痛切な、決定的な危機感をひきおこし、改造法案作成の決定的な契機となったのであるまいか。官憲に対するものとは云え、次の述懐からは当時の北の心情が読みとれるように思われるのである。「私は必ず世界の第二大戦が起るものと信じまして、夫れには日本が戦争中、ロシアの如き国内の崩壊又はドイツの如き5カ年間の戦勝を続けながら最後に内部崩壊に依り敗戦国となった実例を見まして、日本は是等の轍を踏んではならない。即ち免がれざる世界第二大戦の以前に於て国内の合理的改造を為す事を急務と考へ、『国家改造案原理大綱』と題するものを書きました。之れは大正8年8月の事であります」3)

1)

2・26事件関係憲兵隊調書、3-445頁。

2)

同上、3−434頁。

3)

2・26事件関係警視庁調書、3-449頁。

 

 北はまさに、最初の総力戦としての第一次世界大戦を踏まえながら、デモクラシー、さらには社会主義革命へと流れるかにみえる「改造思潮」と対決することを決意したのであった。のちの言葉を借りれば、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造」1)を実現することこそが「革命的大帝国主義」(2−序3頁)に至る唯一の道と信じたのであった。そして北がこの点で先駆者たりえたのは、亜細亜モンロー主義の「天啓的使命」観をうち立て、イギリスを主敵とする世界戦略を構想していたからにほかならなかったであろう。

1)

2・26事件関係憲兵隊調書、3−434頁。


(未完)

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