『帝国議会誌』第1巻

1975年6月

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第五五回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第五五回帝国議会 貴族院解説
第五五回帝国議会 衆議院解説


第五五回帝国議会 衆議院解説

1衆議院議員の選挙
2衆議院と政党
3第五五議会

2衆議院と政党
初期の政党抑圧政策
民党と吏党
藩閥と政党
党勢拡張案と二大政党の確立
政党内閣の条件


護憲三派の解体
民政党の成立
無産政党創立運動
無産政党の分立


2衆議院と政党



初期の政党抑圧政策

 憲法や議会制度の制定者たちが、政党活動を議会政治の基礎とは考えていなかったことは、第一議会開会を前にした明治23(1890)年7、集会及政社法を公布して政党活動への抑圧を強めたことからも読みとることができる。集会及政社法は、明治13年に自由民権運動弾圧のために制定された集会条例を全面改正したものであるが、そこに盛られていた政党活動抑圧のための条項は殆んどそのままひきつがれていた。

  すなわち、集会条例は、政治集会の開催や政治結社の設立を警察署の認可制のもとにおき、政治集会には制服の警察官を派遣して集会を解散させる権限を与えるという抑圧体制の確立をめざしていた。そして更に政治運動の具体的形態についても、政治集会を屋外で開くこと、政治に関する事項を論議するために、その趣旨を広告し、または委員もしくは文書を発して公衆を誘導すること、他の政治結社と連結通信すること、などが禁止された。つまり一般民衆に働きかける方法を、警察の監視下での屋内政治集会だけに限ろうというわけであった。

  この条例は明治15年の改正で一層強化され、地方長官に特定の運動家に対する管轄区域内における演説禁止権(1年以内)、結社解散権、内務卿に全国にわたる演説禁止権(1年以内)を与えると共に、新たに政治結社が支社をおくことが禁止された。つまり政党が地方 支部をおくことが認められなくなったわけであり、これまでの支部は解散するか、独立の政治結社に再編するかしなければならなかった。しかしそうすると今度は、旧支部と旧本部との連結・通信が禁止されるという仕組みであった。合法的な全国的組織活動は殆んど不可能にされたといってよい。

  集会及政社法は、このような政党活動への抑圧規定をそのままひきついでいた。前述の諸規定のうち、演説禁止権が削除され、結社解散権が内務大臣に移されたほか、政治結社設立の認可制が届出制に変えられるなど、若干緩和された部分もあるが、議会及び政党活動に関しては次のような新たな制限が加えられた。@、まず新たに、帝国議会開会中は「議院ヲ距ル三里以内ニ於テ、屋外ノ集会又ハ多衆運動ヲナスコトヲ得ス」との条文が設けられた。もちろん屋外政治集会は一切禁じられているのだから、ここで言うのは非政治的な集会や運動である。例外として認められるのは、「祭葬講社学生生徒ノ体育運動及其他慣例ノ許ス所ニ係ルモノ」に限られた。つまり大衆が非日常的な形で集まることを一切禁止して、議会に対して大衆的圧力がかかる可能性を封殺してしまおうというわけであった。 A、「政社ハ標章及旗幟ヲ用ヰルコトヲ得ス」という規定も、言論・文書による大衆への働きかけの禁止を更に徹底させたものということができよう。

  新たな規制のうち、とくに政党と議会との関係に直接にかかわってくるのは、B、「政社ニ於テハ法律ヲ以テ組織シタル議会ノ議員ニ対シテ其発言及表決ニ付議会外ニ於テ責任ヲ負ハシムルノ制規ヲ設クルコトヲ得ス」という条文であった。これによれば、政党の所属議員が議会内でその党議に反する行動をとったからといって、除名などの処分に付することは困難になる筈であった。こうした集会及政社法に登場した新しい規定は、これまでの一般的な政党・政治運動抑圧政策のうえに、議会と大衆の接触を切断しようとする新たな観点からの規制が加えられたことを意味した。それは政党に関して言えば、政党が包含するであろう一般大衆と、議員集団との分離をねらったものにほかならなかった。

  この集企及政社法によって、第一議会をめざす諸党派の連合運動には警察の絶えざる干渉が加えられたし(指原安蔵編『明治政史』参照)、また選挙干渉で有名な明治25年2月の第二回総選挙では、石川県の松田吉三郎外4名の候補者を公認する旨の広告が板垣退助・ 大隈重信の名で北陸新報に掲載されると、政府は同法違反として両者を起訴するという事件さえ起こっている(広告案を知らなかったという理由で免訴、林田亀太郎著『日本政党史』上巻)。この法律の規制が緩和されない限り、政党活動の正常な展開は不可能であった。

  第一議会から第三議会にかけて毎議会ごとに野党側が、集企及政社法改正案を提案しつづけたことは、政党活動の基礎条件を確保しようとする意欲を示すものであった。これらの改正案はいずれも衆議院を通過したが貴族院で否決された。野党側のねらいはともかくもこ「政談集会ハ屋外ニ於テ開クコトヲ得ス」「政社ハ委員若ハ文書ヲ発シテ公衆ヲ誘導シ又ハ支社ヲ置キ若ハ他ノ政社ト連結通信スルヲ得ス」という二つの条文を削除することであった。しかしそれが実現しがたいとみるや、第四議会では前者については「屏障若クハ欄柵ヲ設ケタル地域内」に限って屋外政治化合をみとめる、後者は「政社ハ他ノ政社ト連結スルコトヲ得ス」という部分だけを残して他の部分を削るという妥協的な案が衆議院を通過した。このことは政党活動にとって、党員の派遣や文書の頒布によって大衆に働きかけること、支部を設置することが最も切実な要求であったことを示している。従って貴族院の再修正に対して、前者については「自由な交通が遮断された地域内」という更に厳しい条件をうけいれる代わりに、後者についてはその主張を貴族院側にのませたことからもうかがうことができる。政党間の連結通信の禁止などは、警察に干渉の余地を与えるにしても、厳密に実行することは不可能であった。

  このことは逆にみれば、民党と呼ばれた野党側にも大衆運動によって議会に圧力をかけようという意図はなくなっており、党内的にも議員中心の体質が固まってきていたことを示している。この改正法は明治26年4月に公布されるが、これによって始めて政党は全国的な地方組織を碩立することが出来るようになった。支部という形で政党の下部組織が全国的に固まってくるのは日清戦争以後のことであったとみられる。さらに政党と藩閥の妥協が進んだ明治33年になると、集会及政社法は治安警察法にかわり、ここでは取締りの主たる対象は、政党から労働運動・農民運動などの社会運動に移されていた。政党に関しては、院内活動に対する責任追及の禁止は残されたが、政社間の連結禁止は削除され、屋外政治集会も警察の認可制のもとに原則として公認された。



民党と吏党

 予算案をめぐって政府と野党が激突した第一〜第四議会の時期には、自由民権の流れをくむ野党が民営、政府支特派が吏党と呼ばれた。第一議会で言えば民党は自由党・改進党であり、吏党は大成会・国民自由党であった。しかしこの時期には、政党としての実体をもっているのは、政府の厳しい政党抑圧政策と対抗しながら政治運動をつづけてきた民権派のみであって、 吏党側はたんなる議員集団にすぎなかった。例えば国民自由党は議員5名の小政党であり、第一議会後に解散してしまったが、こうした小政党が生まれたのは、彼等が自由党から国家主義=政府支持の方向に離脱したいわば転向グループであり、民権運動のなかで自らの党派を形成してきていたからであった。

  吏党の中心をなす大成会は、第一回総選挙後に結成された非民権派議員の社交団体にすぎなかった。従って政策や議会運営に関して統一した方向を打出すことは出来ず、第一議会閉会後には早くも分裂し、第一議会開会時に79名であった所属議員は、第二議会では 52名に減少、第二回総選挙で会そのものが消滅してしまっている。吏党系の党派がやや組織立ってくるのは、明治25年6月に結成された国民協会以後であるが、しかし結局独自の地方組織を確立することはできず、選挙ごとに勢力を失ってゆくという有様であった。この後もさまざまな政府系政党が生まれるが、いずれも議員集団という性格を脱することはできず、大政党に成長することなく消滅してしまっている。

  これに対して民党側は、自由民権運動以来の大衆的影響力を維持し、また明治11年の府県会規則によって府県会が開設されてからは、府県レベルでの利害の対立と結びつきながらその勢力を固めようとしてきていた。第二回総選挙において死者25名、負傷者388名(林田・前掲書)を数えるという政府の激しい選挙干渉下においても、なお民党側が過半数を制したことは、民党の蓄積してきた地盤の強さを示すものと言えた。しかし、民党側も集会条例→集会及政社法の抑圧下では、充分に党組織を発展させることはできなかった。第一議会を前にして、民党側が自由党は弥生倶楽部、改進党が議員集会所という議員だけの組織をつくって政務調査を行ったことは、1面では集会及政社法への配慮ともみられるが、他面から言えば、政務調査を行えるような党組織が未確立であることを物語るものであった。

  両党とも第五議会までは、政党名を出さず、議院内部では弥生倶楽部・議員集会所の団体名によって活動していた。この名称をやめ議会内においても自由党・改進党と名のるようになるのは、明治27年第三回総選挙後の第六議会からであった。それは前述の集会及政社法改正によって、政党の全国的組織活動が可能になった時期であると共に、民党のなかに、藩閥勢力との妥協の方向が生まれつつあった時期でもあった。

  自由民権運動以来の民党の要求は、政費節減・民力休養と不平等条約撤廃の2つに要約することが出来る。 このうち前者は地租軽減が具体的な中心要求となっているように、地主の利害を基礎とするものであり、それ故に高い納税要件によって制限された選挙権のもと でも、地主が有権者の大半を占めていることによって民党は議会の多数を制し得たのであった。また後者は直接には、完全な独立の達成をめざすものではあったが、同時に対外膨張の要求に発展する可能性を秘めたものであり、この面ではすでに国家主義者とも手を握るという形で運動が進められていた。

  初期議会での民営の議会活動が予算案審議に集中されたのは、活動の中心が政費節減・民力休養の側面におかれていたことを示すものであった。民党側は一方で予算案審議において軍事費の削減をはかると共に、他方では地租条例改正案を提出して地租軽減を実現しようとしていた。しかし第四議会で製艦費削減が詔勅によって否定されたのを契機として、民党の活動の重点は、条約改正・国権確立の方向に移されていった。 そしてそれとともに政府派=吏党、反政府派=民営という図式は崩れてゆかざるを得なかった。

  第五議会を前にした明治26年10月、条約改正のために強硬政策をとれと主張する大日本協会が結成されると、吏党の国民協会も民営の改進党もこれに同調し、議会での政府反対派となった。これに対して自由党は 漸進的・現実的な外交政策を主張して対立し、むしろ政府に接近して行った。議会においても、対外政策を めぐる対立が中心となり、自由党と改進党との抗争が激化するというように、第四議会までの様相が一変してしまっている。もちろん、民党側が地租軽減の主張を放棄したわけではなく、地租条例改正案はその後も議会に提案されつづけているが、それはもはや党派の対立の決定的な軸となりえなくなっていた。そしてそれと同時に、輸入綿花関税免除法案が議員立法として提案され(第四・五・六議会)、航路拡張建設案が可決される(第八議会)など、産業政策に関する政党側の要求が農業以外の部門にも拡大してきたことに注目しなくてはならない。

  それは、資本主義発展のために積極的な政策をとることを政府に要求するものであったが、政府側もまた、 資本主義を育成・発展させることを一貫して経済政策の主軸に据えており、従ってこの側面で政党側から積極的提案が出されてくることは、政党との握手の可能性を増大させることを意味した。第九議会(明28・12〜29・3)では政府側から航海奨励法案・輸入綿花関税免除法案が提案され成立しているが、それらは政党側の要求をうけいれたものとみることができる。

  こうした民党の変化は、その基盤である地主層が、地主経営で蓄積した資金を農業面に還流させるよりも、急速な発展が予想される資本主義的な産業分野に投資しつつあるという事態を反映するものであった。そして以後、特定地方の鉄道・道路・港湾の整備を求める建議案や請願などが次第に数多く提出されるようになることは、こうした経済発展の基礎条件の整備が、有権者の共通の関心事となってきたことを示しており、従って政党側はこうした地方的利益の実現によって、 党組織の拡大をめざすことになるのであった。それは、 民党の政党活動が、政策路線の根本的変更を求めるものではなくなってゆくことを意味してもいた。



藩閥と政党

 日清戦争直後の明治28年11月、自由党が伊藤内閣との提携を宣言したことは、もはや民党対吏党という図式が通用しなくなったことを民党側も公式にみとめたことを意味した。伊藤内閣が自由党と提携した直接のねらいは、三国干渉に屈伏したことに対する対外強硬派の弾劾を封ずることにあったが、大局的に言えば、吏党が大政党となりうる見込みが立だない以上、藩閥にとっても、民党側と提携して議会の支持を得ることが、政権安定の必要条件と考えられるようになったことを意味していた。

  民党側から言えば、極めて限定された権限しか持たない衆議院における院内活動のみによって、政策の実現をはかることは困難であるとし、この提携で自由党が閣僚の椅子を要求して板垣退助を内相の座につけたように、政府の内部から政策立案過程に影響を与え、また政策実行者の地位を得ようとする方向に転換したことを示すものであった。もちろんそれは、藩閥勢力内部に一定の対立のあることを前提としており、提携にあたって河野広中が自由党総務会で「藩閥を政党に同化させ、藩閥の根底を掃蕩して政界を縦断し、もって二大政党対立の局面を開く」と述べているような構想を基礎とするものであった。「藩閥を政党に同化」させるという表現は政党側の願望にすぎなかったとしても、事態はともかくも藩閥と結合した二大政党制の方向へ勤いていった。となれば、政党活動の中心が、院内に於ける議案の審議よりも、藩閥勢力との提携工作、その際の猟官工作などにおかれるようになるのは必然であった。

  伊藤内閣をついだ松方内閣は、松隈内閣と呼ばれたように大隈重信を外相とし、進歩党(改進党を中心に小党派が合同して明治29年3月1日結成)を与党として発足している。しかしこうした藩閥勢力と政党の提携が すぐさま固まったわけではなかった。藩閥の一部を自派のなかにとりこもうとする政党側は、自派と提携した藩閥が同時に他派との提携を策することに強く反対した。松方内閣が退歩党との提携が破れて総辞職したあとに、伊藤博文が三たび首相の座につくと、自由党は最初はこれを支持する姿勢を示したが、すぐさま提携断絶に転換している。そしてそこに地租増徴案が出されると、自由・進歩両党が握手するという初期議会を再現するような情勢があらわれた。しかも両党は地租増徴案を否決して衆議院が解散されると、ついに明治31年6月22日合同して憲政党を結成、藩閥側も一歩後退してこの憲政党に内閣を渡す以外に良策はなくなり、6月30日には陸海軍以外の閣僚を党員で占めた大隈内閣が成立している。同党は8日10日の第 六回総選挙では定員300名中260名という絶対多数を獲得した。

  しかしこの内閣は議会の絶対多数を基礎としながら、わずか4箇月にして独自の予算案を編成することもなく崩壊してしまった。その直接の原因は閣僚の地位を めぐる内紛であったが、より根本的には、藩閥に代わる独白の政策体系を持ち合わせていなかった点にあった。 地租増徴反対=地主の地位の防衛という点では一致しても、その原因となっている軍備拡張を中心とした(日清)戦後経営政策と正面から対決しようとするわけではなかった。またこの時期には、商業会議所などの実業家団体も、地租を増徴せよと叫んで政治の舞台に登場 し始めており、地租増徴反対をどこまで貫徹できるかも問題であった。最初の政党内閣である大隈憲政党内閣がなすところなく崩れ去ったのは、結局のところ衆議院を握っただけでは、官僚・軍部・貴族院など権力機構の大半を握る藩閥勢力と対抗することができないことを示しているものと言えた。政党側はまた藩閥との結合の方向に反転して行った。憲政党は内閲崩壊と共に、自由党系の憲政党と、進歩党系の憲政本党とに分裂した。

  藩閥と政党の結合が本格的に成立した最切のものは、伊藤博文を総裁とする立憲政友会の創立であった。伊藤が政党組織を決意したのは明治31年4月、自由党が彼の第三次内閣に絶縁を声明し、衆議院の多数が彼の反対にまわった時からであると言われる。前述した ように政党(自由党)との提携を最切に成立させたのも彼の第二次内閣であったが、彼はその後の政党との交渉のなかで、こうした取引きに頼るよりも、自らの政党を持つ方がよいと考えたのであった。伊藤は最初、彼の直系の官僚政治家に知識人と実業家を加えた形での政党組織を考えていたが、この伊藤の動きを知った憲政党は、解党してこの新政党に参加する方針に踏み切り、伊藤もこれをうけいれて憲政党の四総務を政友会創立委員に加えた。伊藤の力をもってしても、新たな下部組織をつくることは困難であり、政友会は憲政党の地方組織を重要な柱として成立することになった(明治33年9月15日結成)。

  しかしこの結合は、藩閥の政党への同化というよりも、政党の藩閥への屈服という側面の方が強かった。

  伊藤のつくった宣言は「抑々閣臣の任免は憲法上の大権に属し、其の簡抜・擇用或は政党員よりし、或は党外の士を以てす、皆元首の自由意志に存す」と述べて、政党内閣制を真向から否定しているが、それは実際には、藩閥勢力の中枢をなし、伊藤自身もその一員である元老グループの決定には党員がくちばしをいれるのを許さないということを意味していた。元老グループは後年のように首相の選定権を握っていただけではなく、重要国務についての情報を与えられ重要政策の決定に関与していた。伊藤は政党の党首となることで元老の地位を捨てたのではなく、総裁独裁制をしくことによって元老としての行動に政友会を従屈させようとしたとも言える。

  しかし藩閥と政党の関係は、こうした形ではなお安定することができなかった。政友会内部には伊藤が党首としてよりもむしろ元老として行動しようとすることへの批判が高まっていったし、また落閥の側からみれば、元老兼党首という伊藤の存在は、藩閥勢力の独自性を弱め、対政党工作を困難にするものとみられたのであった。第四次伊藤内閣をついだ桂首相は、伊藤に元老か党首かの選択を求めたが、これが拒絶されると、今度は山県・松方両元老の上奏にもとづいて、明治36年7月天皇から伊藤に対して、枢密院議長に就任することを求める勅語が下された。この結果、伊藤は枢密院議長に就任し、政友会総裁は西園寺公望がつぐことになった。

  このことは藩閥側が、政党の勢力の貴族院や官僚機構などへの滲透は許しても、元老の地位は政党から超然としたものとして維持してゆくという方針を貫いたことを意味した。藩閥とは元来、明治維新の主導権を握った薩長討幕派連合であり、それが明治国家の支配的政治勢力にまで成長したものであった。従ってこの再生産のきかない「維新の勲功」を基礎にしている以上、その力が永続的なものでないことは明らかであった。軍部にしろ官僚にしろ、陸海軍大学校や帝国大学の卒業者が次のリーダーとして成長しつつあった。

  しかし、他面から言えば、藩閥は権力機構における統合的役割を果たしてきたものでもあった。たてまえの上では天皇のもとでしか統合されないという分立的な明治国家の権力機構も、実際にはそれぞれの機構の統卒者が藩閥の一員であるという形で統合されてきたのであり、統合の最終責任者が元老であった。元老たちは、大体日露戦争後には権力機構の最高責任者の地位から退き、統合的役割にのみ専念することになったが、同時にそれは、藩閥が事実上消滅してゆくなかにあって、不文の制度としての元老を、権力の中枢に確立し維持してゆこうとすることでもあった。

  のちに最後の元老となった西園寺も、元老として遇されるようになるのは、実質的に政友会総裁の地位を退いた大正政変以後であり、元老となった西園寺は、全体の政治情勢の動向に重きをおき、政友会あるいは政党一般を格別に引上げようとはしなかった。

  こうした初期政友会の動向は、政党が、藩閥との結合・官僚政治家の吸収によって、官僚機構・貴族院などには影響力をふるい得るようにはなっても、軍部にはその力を及ぼし得ず、また元老勢力からは切断された形で安定したことを示すものであった。政友会に対抗する勢力が、桂太郎の立憲同志会結成(大正2)に参加し、二大政党の1つとしての憲政会(大正5、同志会・中正会などが合同して結成)に発展してゆくのは、こうした政友会の発展を前提とし、それに対抗する社会的諸力を吸収することによってであった。それはいわば政友会のつくり出した枠組みのなかでの政党政治の発達にほかならなかった。



党勢拡張策と二大政党の確立

  総裁としての伊藤博文を失ってからも、政友会は次表にみるような順調な発展を示し、日露戦後から大正政変にかけては、桂太郎内閣と西園寺政友会内閣とが交互に登場する、いわゆる”桂園時代”を出現させた。 政友会は成立以来14年余にわたって第一党の地位を独占してきたが、そのなかでもとくに明治41年の第一〇回総選挙以後は安定した絶対多数を確保していた。大正4年の第一二回総選挙で同志会153対政友会108とはじめて敗北し、第三八議会では197名の絶対多数を有する憲政会が成立したが、すぐ次の第一三 回総選挙で政友会は第一党の座を回復するに至っている。しかしこのように、政友会を破り得る政党があらわれたことは、政友会独走時代が終わり、二大政党対立時代が始まったことを示すものであった。

  ところでこのような日露戦後の政友会の発展は、原敬の指導によるところが大きかった。彼はまず、元老・藩閥勢力の力を認め、これと取引きしながら政党の地位を引上げてゆくことを基本方針としたのであるが、その際、衆議院での絶対多数を維持することを取引きの基礎条件と考えていた。しかしたんに絶対多数を確保していても、それが統制されていなければ、藩閥側に対する圧力とはなり得なかった。例えば、党内の諸グループが個別に藩閥側と交渉したのでは、彼等から操作される結果に終わることは眼にみえていた。従って原の政党指導策は次の3点を中心とするものとなっ た。すなわち、(一)常に衆議院の絶対多数を確保しうるような政策を積極的に実行すること、(二)この絶対多数を統制するために、党員とくに指導的党員の不満を解消するのに努めること、(三)藩閥との交渉ルートを自分だけで独占することなどであり、これらの点が実現されるとすれば、藩閥側は常に政友会=原敬を交渉相手に選ばざるを得ず、また彼のもとに統制された絶対多数は、この交渉における彼の地位を押土げる役割を果たす筈であった。

 こうした党勢拡張政策を実現するために、原は常に内閣に入っては内相の地位を要求し、知事の更迭を行って政友会の勢力を地方官のなかに拡めることに努めると共に、地方名望家の要望にこたえ、彼等を政友会に組織しようとした。前にもふれたように鉄道・港湾・道路・学校の建設などが党勢拡張の手段として利用されることになった。とくに第一次西園寺内閣で欽道国有が実現してからは、鉄道の利用価値が増大した。西園寺内閣の大蔵大臣でのち憲政会総裁となった若槻礼次郎は、鉄道国有の弊害について、「それは鉄道の敷設を利用して党勢の拡張をはかったことである。鉄道を敷かなければならんところへは敷かないで、人口の少ない山の中などへどんどん鉄道をかける。ここの者は政友会へはいらんからかけてやらん。ここの者は政友会へはいるからかけてやる。この調子で鉄道を党勢の拡張に利用した」(『古風庵回顧録』)と述べている。こ うした積極的な党勢拡張政策が行われると、地方名望家も、政党と結びつくことが、その地位を維持するために必要となってくるわけであった。

  また貴族院の反対によって実現されなかったが、郡制廃止法案、小選挙区制を実現するための選挙法改正案などを提出したのも、地方制度における藩閥の勢力を削減し、政友会の絶対多数を維持することをめざしたものであった。さらに彼が貴族院や地方官・特殊会社などに党員をおくり込もうとしたのも、党勢拡張の一手段であったが、同時にそれは党内の不満をおさえ、統制を維持するためにも役立つものでもあった。しかしこうした方法は、いずれも政権の座につかなければ有効に利用できるものではなかった。絶対多数を維持するためには、政友会を常に政権から近い距離においておくことが必要であった。

  原敬はそこで、この時期の藩閥のなかでは最も政権担当能力があるとみなされていた桂太郎との間に、政権授受についての諒解をとりつけるという方法をえらんだ。つまりお互にあまり行詰まらないうちに、政権をゆずり合おうというわけである。第一次西園寺内閣の成立にあたっては、原は当時日比谷焼打事件に発展する程に反対の気運が高まっていたポーツマス講和条約に賛成することを条件に政権の引きわたしを求めたのであった。そして西園寺内閣の次に桂内閣が成立すると今度は政友会を与党の地位におき、その次の内閣を約束させた。そして原はこの提携を維持するために、桂の黒幕である元老・山県有朋と接触を保つことを試みていた。

  こうした形の提携がつづく限り、桂太郎と政友会以外に政権担当者を求めることは困難であった。また他の党派が藩閥を引込んで第二の政友会をつくることもできなかった。憲政本党は明治43年に又新会などと合同して、立憲国民党を組織したが、同党では政友会を勤かしこれと結んで桂内閣を打倒すべきだと主張する一派と、桂をひきいれて第二の政友会をつくろうとする一派とが対立していたが、桂−原の関係が切れなければこのいずれの可能性も生まれてはこなかった。

  しかし桂−原の関係も永続することはできなかった。政友会の基盤が拡大したことは、下から盛り上る世論を無視できなくなるということでもあった。日露戦争後には戦争中の非常特別税が永続化されたことで不満が強まっており、それは次第に財政難を無視しても軍備を拡張しようとする軍部を「横暴」と非難するようになった。第二次西園寺内閣はこうした世論にこたえて行財政整理を実行しようとしたが、二箇師団増設を主張する陸軍の反対にあって総辞職するに至っている。そしてそのあとに内大臣に就任したばかりの桂太郎が三たび内閣を組織するや、「閥族打破・憲改擁護」を叫ぶ護憲運動が大衆的支持を得て拡大し、政友会もこの運動に加わっていった。最初この動きに消極的であった原敬を護憲連動に立ちあがらせたのは、桂の新党組織であった。

  桂の新党計画はその周辺の官僚政治家を核として、国民党の桂派及び吏党の系統をひく中央倶楽部を中心におき、さらに政友会の一角を切り崩すことをもくろんだものであったが、政友会切崩しには完全に失敗し、結局同志会は93名の議員を集め得たに過ぎなかった。 従ってこの段階では、桂の第二の政友会をつくろうとする試みは、原敬の確固とした党内統制力の前に敗れたといってよい。この同志会が以後政友会に対抗する大政党に発展することができたのは、政友会に反対あるいは対抗を企てるあらゆる勢力を吸収したからであり、いわば長期にわたる政友会優勢時代の下で、さまざまな不満が蓄積されていたからであった。

  桂内閣が大衆運動にかこまれてわずか二箇月で総辞職したあとには、政友会・国民党を与党とした山本権兵衛内閣が成立するが、この内閣がシーメンス事件で倒れた時、元老たちが大隈重信を後継首相に推したのは、かつての改進党→進歩党の指導者であり、早稲田 大学の創立者としても人気のあった大隈を前面に押し出すことで、政友会に一撃を加えることを意図したものであった。

  大正4年3月に大隈内閣のもとで行われた第一二回総選挙は、大隈の人気と、藩閥勢力の一員大蔵兼武内相による露骨な選挙干渉とを組み合わせることによって、はじめて政友会を一敗地にまみれさせ元老勢力の期待にこたえたものであった。政友会創立後はもちろん、その前身の自由党憲政党時代を通じても、108対153という大差で第二党の地位に落ち込んだのははじめてのことであった。

  この政友会の敗北は、大隈の人気や選挙干渉によって増幅されているとは言え、政友会に対する不満が、それと対抗する政党を生み出す程に蓄積されていることを示すものであった。政友会の党勢拡張が特定の名望家の地位を強める形での政府事業の実施と結びつい ていたとすれば、その地位を弱めるような事業を求める者にとっては、対立政党が強化されることが利益であった。また旧来の政友発支持層と対抗しながら成長してくる新興勢力が新しい政党を求めるようになるのも自然であった。

  大隈内閣末期の大正5年10月、同志会を中心とした、同内閣の与党三派の合同によって憲政会が結成された。憲政会は197議議員を擁する絶対多数党となったが、政友会が多年にわたって築いてきた地盤を相手として、 これだけの大勢力を維持する力はなかった。翌大正6年4月、寺内内閣のもとで行われた第一三回選挙では、政友会165対憲政会121と再び政友会に敗退する。しかしこれまで、自由党・憲政党・政友会以外の党派では、進歩党・憲政本党の極めて短い時期を除いては、100名の勢力を維持することができなかったことを 考えると、この数字は二大政党制の基礎ができつつあることを示すものであった。

  以後の憲政会発展の道は、政友発の強固な地盤を前提とし、それに対抗するさまざまな勢力を吸収してゆくことであった。のちに憲政会が、民主主義的な批判政党として独自の存在となっていた国民党と肩を並べて普通選挙を主張し、原敬の政友会内閣に対抗するに至ったのも、反政友的な新興勢力をその基盤のなかに加えていたことを示すものであった。従って護憲運動に参加した政友会が進歩的で、これに反対して藩閥桂太郎を中心に結成された同志会が反動的にみえたのは一時的のことにとどまり、同志会が憲政会に成長するに従って、政友会は農村的で、憲政会は都会的といわれるような、政友会の体質の古さの方が指摘されることになるのであった。

  政友会はこの後原内閣のもとで、大正9年第一四回総選挙によって278名(定員464)という絶対多数を回復しているが、これは前年の選挙法改正による小選挙区制の結果であり、二大政党制への方向を逆転させるものではなかった。また原敬の党内統制は、彼のみを卓越した存在とする結果となり、彼の死(大正10年11月暗殺される)後、党内の主導権争いが表面化するのは必至であった。原のあとをついで、高橋是清が首相・政友会総裁となったが、高橋内閣は閣内不統一のため、わずか六箇月で総辞職するに至っている。

  政友会の内紛は、単なる主導権争いではなく、二大政党の確立という形で、政党全体の勢力が増大しているという情勢のなかで、いかにして政権を獲得してゆくのかという政治路線の対立を内包するものであった。そしてその対立は次第に激化し清浦内閣に対する態度をめぐる大分裂を結果してゆくことになった。



政党内閣の条件


 桂―原の提携による桂園時代の政権たらい廻しは、桂が軍部・官僚にわたる勢力をもつ準元老的実力者であるという条件に支えられていた。つまり元老たちも、彼の意に反して彼の行動に●肘を加えることは困難であり、逆に言えば桂を通じて元老を動かすことも可能であった。しかし彼の死(大正2・10)のあとには、 このような存在はみられなくなっていた。原は大正6年の総選挙で政友会を第一党の地位にひきもどし、寺内内閣を与党としてたすけたが、今度はそれによって次の政権の座にすわれるという保証はなかった。少数野党に政権を渡したとしても、大隈内閣における同志会のように、次の総選挙で逆転することが可能になってきたとすると、たんに第一党の地位を占めているだけでは、元老から政権担当者に指名されるきめ手に欠けることになった。

  寺内内閣の後継首相に原敬が椎されたのは、元老たちが、米騒動という重大事態に直面して政党を前面に出すことが必要と考え、また原敬の政治力に信頼をおいていたからであった。原が「平民宰相」として、国民から新鮮な印象をもってむかえられたことは、こうした元老の期待にこたえるものであった。彼はこの人気を基礎にして国防の充実・教育の振興・産業の奨励・交通機関の整備という四大スローガンをかかげ、いわゆる積極政策を推進していった。その内容は、八八艦隊などの軍拡計画に着手し、戦後恐慌にあたっては日銀に巨額の救済融資を行わせるなど、軍部や財界と協調する政策をとると共に、他方では鉄道や学校の建設などの常套手段によって政友会の地盤を強化し、その成果を小選挙区制によってより効率的に吸い上げようとするものであった。しかしこうした積極的党勢拡張政策は多くの汚職事件をひきおこして国民の反感を買い、原首相自身が暗殺されるという結果を招いたのであった。米騒動にあらわれた国民の不満を転換させるために登用された政友会が、国民の反感を買うに至ってはもはや利用価値は失われたといってよい。しかもなお元老たちが、高橋是清を起用して、実質的に原内閣を継続させようとしたのは、暗殺によって政権が移動するという悪例を残してはならないという配慮からであった。

  このとき、高橋是清の起用を発議したのは西園寺であったが、元政友会総裁の経歴をもつ西園寺にしても、政党内閣論者ではなく政友会内閣を維持することに全く執着してはいなかった。原敬暗殺のほぼ3箇月後、大正11年2月1日に山県有朋が歿すると、元老は松方正義と西園寺の二人だけとなったが、松方は87歳の高齢であり、首相選任における西園寺の比重は一だんと高まっていった。そしてその西園寺が高橋是漬についで推そうとしたのは田健次郎であり(このときは松方の希望をきいて加藤友三郎をとる)、さらに彼は加佐歿後には山本権兵衛、つづいては清浦奎吾を根方に提議 してその同意を得ているのであった。西圈寺は政友・憲政ともに党内が統一しておらず、両党首とも政権担当の資格に欠けると判断していたのである。とくに憲政会総裁加藤高明に対しては、加藤が大隈内閣の外相として対華二一箇条の要求を強行したことから、その外交政策に強い危惧の念を抱いていたとみられる。

  ところでこうした元老の動向は、政党側に、政党内閣の条件についてのさまざまな臆測を生み出すことになり、そのことがまた党内紛争を激化させる原因となっていた。とくに原敬内閣以来の絶対多数を維持し続けている政友会の場合には、政権移動にあたってこの絶対多数が無視されるのは、高橋総裁が無能だからだとして総裁排撃運動がおこされるという有様となった。すなわち、加藤友三郎内閣の時期には、政友会は藩閥・官僚内閣をたすけて次の内閣をねらうという原敬以来の方針を踏襲して与党の地位に立った。憲政会・革新倶楽部はこの貴族院中心内閣に対して憲政擁護の叫びをあげたが、政友会の絶対多数にはばまれ、なす所なく終わった。しかし加藤友三郎内閣の次に山本権兵衛内閣が出現すると、政友会内部の総裁排撃運動が表面化しはじめてきた。そしてさらに山本内閣が虎の門事件で総辞職して短命に終わったあとに、貴族院の研究会を基盤にした清浦奎吾内閣が出現し、絶対多数が三たびにわたって無視された時には、政友会は深刻な動揺にみまわれた。

  政友会は二つの方向に分裂した。高橋総裁を中心とする一派は、この際憲政会及び革新倶楽部と握手して憲政熊沢運動をおこし、将来にわたって貴族院・官僚内閣が出現する余地を封ずるべきだと主張した。それはいわば政党内閣以外に選択の余地がないように元老 を追いつめてゆこうということでもあった。これに対 して床次竹二郎を中心とする反総政派は、総裁を元老の期待にそえる人物にかえ、清浦内閣に協力すること によって、次の内閣を獲得しようと考えていた。それはあくまでも原敬的な政権獲得方式をおしすすめてゆくということであり、元老西園寺もまた政友会が全休としてこの方向に動くことを期待していた。主として内務畑で原敬の片腕として活躍してきた床次は、事態がこの方向に進展するものとすれば、自分こそが首相の最有力候補となると考えていた。床次派は結局脱党し、大正13年1月29日政友本党を結成したが、このとき政友会に残った者一129に対して、脱党して政友本党に加盟した者149名と脱党者の方が20名 も多かったことは、原敬時代に蓄積された床次的感覚が如何に強く政友会を支配していてかを示すものと言えよう。

  解散時 新議会
憲政会 103 154
政友会 129 101
革新倶楽部 43 29
護憲三派合計 275 284
政友本党 149 114


 しかし、結果はまさに護憲派路線の勝利であった。大正13年5月の第一五回総選挙の結果は上の表の通りであった。

  清浦内閣がなすところなく総辞職すると、松方がすでに病のため首相選任の議にあずかることを辞退していたため(大正13・7・2歿)、唯一人の元老となっていた西園寺は、ついに第一党の憲政会総裁加藤高明を次の首相に推薦せざるを得なかった。このことは、元老・藩 閥勢力をたすけながら、いわばその代償として政権の座を獲得するという原敬的な方式にかわって、衆議院の絶対多数を占める諸政党が、政党内閣以外の内閣を認めないという点で協定し、この態度を固守することで政権を獲得してゆくという新しい方式が、はじめて成功したこ とを意味していた。

  それはもちろん、藩閥勢力がすでに解体しており、元老が独自の手兵を持ち得なくなっているという状況のもとではじめて可能となったものであった。貴族院にしろ官界・財界にしろ、すでに政党の勢力は強く滲透しており、中心的人物の多くが政党となんらかのかかわりを持つに至っていた。そのような情勢のなかで、二大政党のに協力なしに政権を維持することは不可能に近かった。こうした事情は、藩閥出身でない西園寺が唯一人の元老となったことによって、より増幅されてあらわれていたとも言える。すでに第一次山本内閣総辞職のあと組閣の大命をうけながら、結局内閣を成立させることができなかったという前歴をもつ清浦を、政党の実力が向上してきているこの時期に、あえて再起用せざるを得なかったことは、西園寺の側が政党から離れた首相適任者を見出し難くなっていたことを意味するものであった。床次の失敗は、こうした情勢の変化をつかみ切れなかった点にあった。

  これらのことは、政党の支持なしに政治を行いえなくなったということにほかならず、また加藤護憲三派内閣が実現した普通選挙はこうした政党の比重を更に高める筈のものであった。いいかえれば、政党の地位が他の政治勢力によって脅かされない限り、政党政治が続くという見通しが開けてきたということでもあった。



護憲三派の解体


 護憲三派運動は、政党内閣時代への展望を開いた点で画期的であったが、個々の党派への影響は複雑であった。総選挙における護憲三派の勝利にしても、その内実は勝利と言えるのは憲政会のみであり、政友会・革新倶楽部の減少を憲政会の躍追でおぎなっているという形であった。また与党としての飛躍を夢みた政友本党にとっても、35名減という選挙結果はショックであった。憲政会の勝利は政友・政本の同志討ちに助けられたとは言え、同党が二大政党の一つとしての実力を備えたことを示すものであつた。しかしこの憲政会にしても過半数には程遠く、単独で政権を維持することはできなかった。勝利・敗北といっても憲政・政友・政本三党の差はわずかであり、いずれも次の政権を担う可能性を持つと考えていた。また護憲三派の連合は、政党内閣制への展望を開くことを目的としたものであり、その目的が達せられた以上、次の政権をめざす党争によって解体してゆくことは必至であった。

 第五〇議会(大正13・12〜14・3)で護憲派の当面の目標であった普通選挙と貴族院改革が実現すると、早くも政友会が次の政権獲得に向かって動きはじめた。それはまず、総裁をかえて革新倶楽部を吸収するという形で実現した。政友本党が分裂したとはいえ、なお憲政会を上回る勢力を有していた政友会が、総選挙によって護憲三派の首位を維持できなかったばかりでなく、革新倶楽部と合わせても憲政会に及ばないまでに転落したことは、高橋総裁の威信を全く失墜させることとなった。加藤内閣に農商務大臣として入閣していた高橋もまた、もはや大臣・総裁の地位に執着する気はなく、かねての持論であった農商務省の農林・商工両省への再編が実現すると、大正14年4月3日、大臣・総裁を辞職する意向を明らかにした。ついで4月10日田中義一が政友会総裁に就任し、政友会から野田卯太郎が商工大臣、岡崎邦輔が農林大臣として人閣する。政友会がかつての長州軍閥の直系として参謀次長の地位にのぼり、原・山本(第二次)内閣の陸相を歴任した田中を担ぎ出しだのは、総理大臣候補として高橋よりはるかに有力だとみたからであった。田中もまた加藤首相の懇請にも拘らず入閣しなかったのは、次の総理をねらってのこととみられた。

  田中が総裁に就任した一箇月後の5月1日、革新倶楽部が政友会と合同したことは、合同反対派が「既成政党に打破された」と批判したように、同倶楽部のこれまでの主張からすれば奇妙なことであった。しかし国民党→革新倶楽部という小会派を長年にわたってリードしてきた犬養一派は、護憲運動下の総選挙においてさえも党勢が後退するという現実に直面して、小会派維持をあきらめたのであった。政友会の一員となった犬養毅は逓信大臣を辞任、憲政会の安達謙蔵が代 わって入閣し、護憲三派内閣は、憲政・政友連立内閣となった。

  革新倶楽部との合同によって所属代議士を139名に増加させた政友会は、次にいよいよ憲政会との提携断絶の方向に動き始めた。政革合同の翌々7月、浜口蔵相(憲政会)から税制整理案が示されると、政友会出身の閣僚は、この案に政友会の年来の主張である地租 の地方委譲が含まれていないとして激しい攻撃を加えた。地租委譲とは、国税のなかで急速にその比重が下ってきた地租を地方税に移すということであり、それによって、地方財政の基盤を強化することを目的としたものであった。この主張は、加藤友三郎内閣下の第四六議会で、憲政会が地租軽減案を提出したのに対抗 して政友会が打出したものであり、この議会で政友会は地租委譲建議案を成立させている。従ってこの時以来、地租軽減か地租委譲かということは、両党間の一つの争点となっていることは確かであった。

  浜口蔵相の税制整理案はこの点については、地租二分減という憲政会の主張をまず実現させ、地方税の整理については後日に譲るということで政友会との妥協をはかろうとするものであった。しかし政友系閣僚は、この案は政友会を無視するものだとして激しい非難をあびせ、ついに7月31日、加藤内閣は閣内不統一を理由にして総辞織するに至った。政友会が地租委譲問題で憲政会と対決したのは、この政策で国民の支持が得られると考えたからであり、のちに地租委譲は田中内閣の主要政策の一つにも掲げられることになるのであった。

  ところで、政友会がここで倒閣に踏み切ったのは、憲政会と手を切れば、政友本党との提携、さらには合同が可能になり、それによって政権獲得の見込みがあるとみたからであった。護憲派路線の勝利によって床次の政治感覚の古さが明らかになり、また田中総裁の就任で政友会の様相が変わってくると、政友本党のなかには、政友会への復帰を求める動きがあらわれてきた。床次もまた、政友会が憲政会との提携を絶つことが、提携・合同の条件だとの態度をとり護憲運動の流れをたち切って、政友派政権を実現することをねらっていた。

  内閣総辞職が行われた7月31日夕刻、両党幹部が早速会合し、「主要政策を同じうする政・本両党は、虚心坦懐、相提携して、時局の安定を図らん事を期す」 との声明を発表したことは、両党がともかく提携して多数派を形成すれば、元老から次期政権担当者と認められる可能性があると考えたことを示していた。しかし西園寺は、このような策動を無視して再び加藤高明を首相に推した。第二次加藤内閣は、憲政会のみを与党として発足する。政友本党も野党としての立場を宣言した。事態がこのまま推移すれば、解散・総選挙に至ることは必至であった。

  しかし各党とも解散を回避しようとし、政局は「不明朗」と評されるような複雑な動きを示すことになった。普通選挙・中選挙区制というはじめての試みが、どのような結果をもたらすかについての不安が共通していた。とくに政友本党の場介には、新しい有権者にアピールする要素は少なく、さきの総選挙についで再び敗北する可能性が強かった。質的に大差ない地盤から言って、三党が二党に整理されてゆくにちがいないと一般に考えられていた。従ってその過程でどれだけ勢力を拡大できるかが各党の関心事であった。もちろん政友本党が政友会に復帰すれば問題は単純となる筈であった。しかし政友本党の側からみると、政友会と合同して多数党となってみても、果たして政権がとれるのかという疑問が持たれた。政友・政本の提携で多数を形成したにも拘らず、政権が少数党の加藤高明の手にとどまったことは、元老が田中を評価していないからだとする見方が生まれていた。もしそうだとすれば、政友会と結ぶことは政権から遠ざかることであり、むしろ憲政会を援助しながら政権にありつき、そのうえで総選挙に臨むならば、政友会を打破・吸収して二大政党の1つになれるかもしれない、と床次は考えるようになるのであった。絶対多数をとって政局を押し切ろうとするよりも、元老との取引きに頼ろうとする所に、床次の反護憲派的な古さと弱さとがあらわれていた。そして各党の総選挙回避の願望が政友本党にこうした策動の余地を与えたのであった。



民政党の成立

 第二次加藤内閣成立後も、政友会は政友本堂との提携強化による憲政会との対決の方向をとり、新内閣成立直後の8月4日、田中は床次を訪問、両者は「提携は野党の立場にありて、将来個々の問題に就き、其の時に協定する事」を申合わせた。しかしこの申合わせを具体化するために、両党の共同政務調査会を設置するという政友会の提議を断ったことは、政友本党が憲政会との提携の方向に動き始めたことを意味するものであった。大正14年12月、第五一議会が召集されると、この動きははっきりと表面化した。まず政友会が、この議会の常任委員長を野党側で独占することを政友本党に提議し、両党の交渉が開始されたが、委員長の配分をめぐって交渉は決裂、第二次加藤内閣成立以来ともかくもつづいてきた両党の提携はここで断絶 した。

  しかし床次の思惑は、指導理念に欠け、党員を統卒する力を持たなかった。憲政会との伝統的な政策の相異を強調して、政友会との合同を主張してきた中橋徳五郎・鳩山一郎らの一派は、この機会に「由来天下の人心を疑惑させた憲本提携の風説が実現して、政治は更に妥協苟合の旧弊に堕落せんとして居る」と床次を批判して脱党、政友会に復帰していった。なおこの際、脱党派の声明書が「殊に頃来、吾々の心を寒からしめた満州の兵乱に関しては、事毎に機宜を失して殆んど国威を辱かしめんとし」と述べているのは、幣原外交と田中外交という対外政策の対立が、すで両派間で意識されつつあったことを示すものとして注目される。 満州の兵乱とは11月から12月にかけての郭松齢の反乱で張作霖が危機におちいった事態をさしている。

  中橋一派の復帰によって、政友会は161名に達し、 憲政会の165名と肩を並べるまでになった反面、政友本党は86名に転落したが床次はなお憲・本提携の方向をおいつづけた。第五一議会開中の大正15年1月29日加藤高明が病死した際、憲政会総裁となっ た若槻礼次郎が首相に推され、加藤内閣をひきついだことは、元老がなお憲政会を信任しているという見方をうらづけるものとなっていた。たしかに田中政友会総裁の身辺には、この議会で中野正剛が陸相時代の機密費乱用を攻撃したように、多くの疑惑が待たれていた。田中に政権は来ないと判断した床次は憲政会と提携し、若賤内閣は政友本党にたすけられてこの議会を 無事通過する。しかし議会後に朴烈事件が問題化すると、事態はまた混沌としはじめた。

  朴烈は朝鮮人アナーキストで、関東大震災直後の大正12年9月3日妻の金子文子と共に摂政暗殺の容疑で逮捕されている。これが事実とすれば、大雲災後の朝鮮人虐殺を正当化する理由として利用できるものであった。この裁判は第五一議会が閉会した大正15年3月25日に終わり、朴烈・金子文子には大逆罪で死刑の判決が下された。しかし起訴理由が秘密結社から爆弾輸入の準備、さらに摂政への投爆計画と二転点三転しているように、証拠のあいよいなものであり、議会後の4月5日になって無期懲役に減刑された。ところが7月になると右翼の手でいわゆる径写真をのせた文書がばらまかれ、この問題が政争の具に供されるに至った。

  径写真とは予審取調室で、朴列・文子が寄り添って写っているものであり、これは予審判事が、朴の歓心をかい誘導訊問にのせてゆこうとして、朴と文子とを 会わせ、写真をとって与えたものであった。右翼ぱまず、大逆犯人のこのような扱いは、司法官僚の腐敗を 示すものだと攻撃し始めたが、やがて問題はこのよう な犯人に減刑を奏請した若賎内閣の責任を問うという形で政治問題化された。

  すでに関東大震災のあとでは「国民精神作興ニ関スル詔書」が出され、ついで虎の門事件がおこると「国体明徴」が唱えられるようになり、さらに護憲三派内閣の手で普選法とならべて治安維持法が制定されるというように、天皇制イデオロギーの強化によって、革命運動や階級闘争をおさえ込もうとする考え方が既成勢力のなかで一般的になっていた。そして、護憲連動を階級闘争を激化させるものと非難し、「国体の擁護」を政綱の最初に掲げていた政友本党は、この点では最右翼の政党であり、朴烈事件で動かないわけにはゆかなかった。政友本党も憲政会との提携から一転して、 政友会と共に内閣糾弾の方向に踏み切った。第五二議会を前にした大正15年12月14日、田中・床次両総裁は会談して相互の協力を約束する。憲政会側には総選挙への気構えが高まり、議会解散は必至とみられた。

  しかしここで今度は若槻首相が解散回避に動き出した。第五二議会開会前日ので12月25日大正天皇が病死、昭和天皇の時代が始まったが、この昭和時代の最初から予算案不成立などの事態がおこらぬよう政治休戦にしようというわけであった。極秘の折衝には貴族院研究会の青木信光・水野直らがあたったが、若槻は議会終了後の6月頃内閣総辞職を行うことを条件に、田中・床次に妥協を求めたとみられている。両者ともこの解散回避策に同意し、次のような筋書がつくられた。

  (一)、野党側は議会再開後2日間質問を行ったのち第3日目に内閣不信任案を提出する。(二)、不信任案が提出されたとき、政府は議会に停会を命ずる。(三)、停会 直後に若槻首相は、政・本両党首と会見し、この3者で「新帝新政の初めに当たり、お互に政治の公明か望むを以て、今後は各自党員を厳に戒飭し、言論を謹み、益々国民の議会に対する信頼を厚くすることに努力すべし」との申合わせを行う。(四)、ついで両党首は代議士会に出席して不信任案を撤回する。ただしこの際、「大喪に当たり深く考慮する処ありて」この挙に出たとだけ説明すること。

  昭和2年1月18日に議会が再開されると事は全くこの筋書通りにすすんだ。この三党首会談は、党幹部にも極秘にしてすすめられたため、憲政会内にはこの解散回避に強い不満の声があがったが、もはや致し方なかった。翌年の総選挙の結果からみれば、ここで解散すれば、憲政会の勝利は確実だったのではないかとみられている。従ってこの妥協は野党側にとっては、満足すべきものであった。

  しかし憲・政両党の半数程度の勢力に落ら込んでいる政友本党としては、手をこまねいていては政権にありつくことは不可能であった。そこで床次は、憲政会が床次を支持するならば元老は若槻の次に床次を首相に推挙するに違いないとの情報に賭け、再び憲政会との提携に走った。彼の思惑から言えば、この提携は床次内閣を支える程強固でなければならなかった。昭和2年3月1日、憲・本両党は強固なる連盟を形成して政局の安定を維持すること”そのためには連合政務調査会を設置して重要政策を協定し、次期総選挙では地盤協定を行って必勝を期すこと”という覚書が成立し、 憲法連盟ができあがった。しかし事態は床次の思惑とは異った方向に進展した。

  若槻内閣が余裕をもって総辞職し、憲政会が床次内閣の成立を援助してくれるというのが床次の期待であったが、若槻内閣はそうした余裕もなく金融恐慌の処理につまづいて総辞職してしまった。このときの金融恐慌は震災手形の処理と関連して起こってきたものであり、第五二議会で同手形処理法案の審議が行われている間にも、二流銀行の破綻などの混乱が起こっていた。震災手形とは、関東大震災のため支払い不能とな った手形を日銀が再割引きし、実質的に支払い延期の措置をとったものであったが、実際には不況のため震災がなくても支払い不能になっているような不良手形が数多くふくまれており、そのために整理が長びいていた。しかもこの不良手形の大半は第一次大戦中に投機的に急膨脹した鈴木商店の振り出したものであり、 それをかかえ込んでいるのは台湾銀行であった。従って震災手形処理法案にも、台銀救済のためのものではないかという批判が加えられていた。第五二議会でも種々の激しい論戦が展開されたが、三党首会談の妥協にもとづいて結局この法案は通過成立した。

  しかし議会閉会直後の4月4日には、ついに鈴木商店が休業し、それにともなって台湾銀行の破綻も明らかになり、事態が金融恐慌に発展することは避けられなくなってきた。ここで若既内閣は日銀に特別融資を 行わせて台湾銀行の救済にのり出すことを決意したが、 震災手形法案成立に際してこれによって財界は安定す ると言明していた手前もあり、臨時議会を召集せず、 緊急勅令の制度を利用しようとした。しかし、この勅令案の審査にあたった枢密院は、4月17日に至って本件は憲法に規定する緊急勅令の条件に該当しないと して否決してしまった。

  このことは、審議のなかで、枢密顧問伊東已代治が対中国問題をもとりあげて若槻内閣の施政を攻撃し、「今日ノ恐慌ハ現内閣ノ内外施政ノ失敗ニ基クモノナリ」(「枢密院会議筆記」)と断じていたように、内閣不信任を意味するものであった。内閣にとっては、あらためて臨時議会を召集するという方法が残されていたが、若槻首相はその日のうちに閣僚の辞表をまとめて総辞職した。翌日ついに台湾銀行も休業、これをきっかけとして銀行は全国的に取付け騒ぎに見舞われ、約20行が休業におい込まれるという金融恐慌に発展した。

  こうした情勢のなかで、京都・清風荘に勅使をむかえた西園寺は、ちゆうちよなく田中義一を後継首相に推挙した。西園寺は、政本提携や点本連盟のような、 政権獲得のための策略を嫌っていたが、それは彼が藩閥の場合とちがって、こうした策略を逆手にとってみても、何ら得る所ない地位に居たことと見合っていた。 こうした西園寺の動向を完全に把みそこなった政友本党は、田中内閣の組閣と同時に憲改会との合同に突進 していった。それは床次にとって本意ではなかったが、一年後の昭和3年5月には現衆議院議員は任期満了となるのであり、この最後の機会を逸した以上もはや今までのような策動の余地はなくなっていた。

  4月20日成立した田中内閣は、財政家として定評のある前総裁高橋是清を蔵相とし、とりあえず緊急勅令で3週間のモラトリアムをしき、その間に臨時議会を召集して必要の法案を成立させるという方針をとった。この緊急勅令には枢密院も意義なく同意、4月22日から5月12日までのモラトリアムが施かれ、5月3日には第五三臨時議会が召集された。この間憲・ 本合同についての基本的諒解も成立、両党は院内団体として新党倶楽部を設け、合同を既成事実とした。与党政友会の166名に対して、新党倶楽部は230名の圧倒的多数を数えた。しかしこの議会の目的である銀行救済のための日銀特別融通及損失補償法案、台湾銀行に対する資金融通法案には反対するわけにはゆかず、若干の修正を加えただけで賛成し、野党的活動としては、さきの枢密院の緊急勅令案否決を非難する決議案を成立させただけにとどまった。

  新党倶楽部は、閉院式の行われた5月9日、準備委員を設けて具体的な立党工作にはいり、13日党名を立憲民政党と決定、6月1日浜口雄幸を新総裁として結党政を挙げた。政友本党はこの合同にも24名の不参加者を出しており(そのうちの有志は昭和倶楽部を結成し政友会に復帰)、実質は憲政会による政友本党の吸収と言えた。

  護憲三派運動以来、解散を回避しながら変態的に続いていた三党鼎立状態はこれで一応清算されたことになる。田中内閣も民政党の結成と前後して、5月28日には国民革命軍の北伐に対する第一次山東出兵の強行に踏み切り(北伐中止のため9月8日撤兵)、また6月 27日にはいわゆる東方会議を間催して満蒙特殊地域化の方針を決定するなど、弊原外交と対立する外交路線を明確に打出しつつあった。次の第五四議会が解散され、最初の普通選挙が実施されることは動かし難い情勢となった。

  なおここで、原敬内閣のもとで行われた第一四回総選挙以後、第五四議会に至るまでの各党派の所属議員数の変遷を示し、またこれまで触れなかった党派について筒単に解説しておこう。

  表中、庚申倶楽部は、寺内内閣の与党として結成された維新会の流れをひくものであり、第一五回総選挙で消滅。同選挙で選出された中立議員は中正倶楽部を結成したが、政友会・革新呉楽部の合同に際して、一部は政友会に走り、一部は革新倶楽部の反合同派と共 に、新正倶楽部を結成した。

  無所属倶楽部は、大正10年1月20日、松本君平・中野正剛らが、政界革新・既成政党打破を唱えて結成、 大正11年11月8日国民党と合同して革新倶楽部を組織した。

  実業同志会は、鐘淵紡績の経営者であった武藤山治が、大正12年4月23日、経済自由主義の立場から 政界革新を唱えて設立したものである。



無産政党創立運動

 普通選挙法が実現すると、次の総選挙で無産政党が新しい有権者の支持をどの程度獲得できるかが注目されるようになった。無産運動の側では積極的な普選への要求は後退していたが、普選が近づくとともかくも無産政党を組織して対応しなければならないとする効きが高まってきた。第一次大戦直後に普通選挙運動を収り上げる大きな力となっていた労働組合は、原敬内閣が普選案に解散で対抗し、第一四回総選挙(大正9年5月)が与党政友会の圧勝に終わると、急速に普選への意欲を失い、サンジカリズムの影響下におかれるようになった。大正10年の日本労働総同盟の大会が、2年前の大会で採択した普通選挙の主張を削除してしまったのは、そのような動向を代表するものであった。以後、労働運動のなかには議会主義への不信感がたかまり普池辺挙の実現にあまり力をいれなくなってしまった。農民運動の場合には、大正10年に地方議会の選挙権が市町村民税納付者に拡大されて以来、次第に 地方選挙と債極的にとり組むようになっていたが、総選挙では「棄権」すべきだとの意見も強く、普選運動は盛り上がらなかった。

  しかし、関東大震災直後に成立した第二次山本内閣が普選の実行に踏み切る姿勢をみせると、知識人の側から、無産階級も何の準備もなしに普選に臨むわけにはゆかない、無産政党を組織しなければならないといった意見が唱えられるようになり、鈴木茂三郎・嶋中雄三・高橋亀吉・青野季吉らの奔走によって大正13年6月、政治研究会が創立された。この会の目的は、無産政党組織のための必要な準備を行うことであった。そしてこうした知識人の運動は、無産運動全体のなかに政党問題への関心を高める役割を果した。

  大正13年2月の日本労働総同盟第13年大会は、サンジカリズムから現実主義への方向転換を示すものとして有名であるが、普選への対応についても、ブルジョア議会によって労働者階級が根本的に解放されることは期待できないが、「普選後においては選挙権を有効に行使することによりて、政治上の部分的利益を獲得する」という目標が立てられるようになった。この考え方からゆけば、無産政党は、選挙権を有効に行使するための組織だということになる。つまり、無産階級の解放のための基本的組織は組合であり、政党は組合員の投票が分散したり、組合員がブルジョア政党の選挙運動にとり込まれたりするのを防ぎ、また議会では政治的自由の拡大や社会政策的立法のための取引きを行う機関だというのが、当時の無産運動における一 般的な政党観であった。もっとも評議会等左翼運動の一部では、階級的前衛政党を志向する動きがあったが、 当時の左翼運動の指導者山川均の主張でこの動きは具体化するに至らなかった。

  かくてこうした政党観から、全国単一の協同戦線党という主張が生まれた。組合こそ階級運動の本体であるとすれば、政党は選挙や議会活動のための便宜的な機関であり、従って組合間の意見の対立をこえて、無産階級に共通な部分的利益を実現してゆけるような単一 政党でなければならないということになるのであった。 無産政党結成への具体的な準備は、すでに府県会議員選挙などと積極的にとり組んできた日本農民組合の提唱によって、大正14年8月、無産政党組織準備委員会が発足するという形で始められた。そしてそこでは、全 国単一の協同戦線党というのが共通の諒解となっていた。

  しかし現実には、総同盟の内部対立から左派が分裂 して日本労働組合評議会を結成(大正14・5)するとか、政治研究会でも左派の労働者や学生の進出によって、自由主義的知識人が排除されてゆくといったように、 いたる所で左右の対立が深刻化しつつあり、協同戦線 党の構想は現実には容易に実現し難いものとなっていた。評議会の分裂によって、日本労働総同盟は右派を代表する勢力となっており、総同盟対評議会の対抗関係が、左右対立の基軸を形成していた。無産政党組織準備委員会も最初は和気あいあいのうちに発足したが、 綱領規約問題の討議が始まると、対立は早速表面化した。左派は右派のプチ・ブル性を攻撃するという形で討議の主導権を握り、これに対して右派は、評議会と組織構成員が重複しているとして、政治研究会・無産青年同盟の排除を要求するなどの反撃に出たが、結局11月末には、右派を代表する総同盟が準備委員会から脱退してしまった。

  無産政党設立運動はここで大きくつまずいたわけであるが、しかし結局、総同盟と対抗関係にある評議会が自発的に準備委員会から脱退するという形で収拾され、12月1日、日農を中心として、農民労動党が結成された。評議会がこのような譲歩を行ったのは、全国単一の協同戦線党という構想が左派から提起されたものであり、従ってともかくもこの構想によって出発 した準備委員会を無為に終わらせるわけにはゆかないと考えたからであった。しかしこうして折角成立した農民労働党も、創立大会が終わった30分後には、若槻内相の名によって結社禁止処分に付されてしまった。 禁止の理由は、農民労働党が「名を政党にかり、実はわが国体と相いれない共産主義の実行を企図するものである」とする点を中心としており、要するに評議会系の勢力の活動を抑圧しようとするものであった。この結社禁止命令は、評議会系の共産主義者が去面に出ては、合法政党はつくれないことを意味するものと解された。そこで結社禁止直後から始められた無産政党再組織運動は、目農・総同盟・官業労働総同盟などが中心となり、評議会は自発的に身をひいて、合法政党結成を支援する態度をとった。その結果、大正15年3月5日、日農の杉山元治郎を委員長とする労働農民党が結成された。

  こうして労働農民党は、右派の主導権を認める形でともかくも単一合法無産政党として発足したのであったが、発足してからは組織運動にあたって左派に対してどのような態度をとるのかということが、対立の焦点となってきた。総同盟は、評議会・無産青年同盟・水平社青年同盟などの左派団体の構成員の入党は拒絶すべきだと主張した。これに対して日農はこれらの同体の構成員がすべて共産主義者ではないのだから、原則としては左派にも門戸を開放し、例外的にはっきりした共産主義者の入党だけを拒絶すればよいとする方針を出した。結局、結党の翌月4月19日の中央執行委員会では、少差で日農側の門戸解放主義の方針が採択されたが、評議会側はこれに対応して組合員に対し労農党への積極的参加、支部の結成を呼びかけた。この呼びかけに応じて、各地で評議会系の支部がつくられ、これらの左派系支部は中央の承認を得られなくても非公認のままで活動をつづけ、このため、右派の握る中央部に対して、地方レベルの活動では左派が優位となるという現象があらわれた。

  こうした情勢に対して、総同盟は7月になると、再び左派団体の構成員の排除を強く要求し、いれられなければ脱退するとの強硬な態度を示した。日農側も単一無産政党を維持するためにこの要求に譲歩し、労働農民党は3箇月にして左派団体構成員に対する門戸閉鎖の方向に転じた。しかしこの時期になると、無産政党運動の基礎となってきた「協同戦線党」の構想そのものが崩壊してきており、無産政党の分立は避け難い情勢となっていた。



無産政党の分立

 協同戦線党の構想は、当時マルクス主義陣営の最高の理論的指導者と目されていた山川均が積極的に推進してきたものであったが、前年(大正14)秋以来、福本和夫(筆名北条一雄)が政治指導や党の問題を前面に押し出しながら、山川イズム批判を展開し始めていた。 福本の主張は筒単に言えば、自然成長的な発展を中心にして運動を考える山川に対して、意識的な指導の必要を強調し、自然成長的な運動は、外部からマルクス主義的意識を注入しなくては社会主義的政治闘争に到達しえないものだと主張したものであった。つまりこの主張は、組合が本隊であり、党を指導するものだという協同戦線党の理論を逆転させ、党による政治指導なしに社会主義への道はありえないとするものであった。福本は更に、現実の闘争よりも理論闘争を重視する「結合のまえの分離」を強調して運動に大きな混乱をもたらしたが、ともかくも「党」の指導性の問題を提起したことは、当時においては画期的な意味を持っていた。

  福本イズムが現実に影響力を持ちばじめた頃、運動の側からも政党の指導を求める声が実際におこってきた。労働良農民党中央が、左派への門戸開放をめぐって動揺している頃、京都府下では城南小作争議がたたかわれていたが、そのなかから「耕作権確立」の要求が たかまり、それがさらに議会解散請願運動という形に発展してきていた。耕作権の確立とは、小作争議において地主側の主要な対抗手段とされた農地への立入禁止の仮処分や立毛差押処分を全面的に禁止することを 直接の目的とし、さらに耕作権を土地所有権から独立した物権として地主の承諾なしに譲渡可能な権利にすることをめざすものであった。この実現のためにはもちろん議会での立法化が必要であり、それにはまず議会を解散させ、普通選挙権を行使して労農代表を議会におくり込まなければならないというのであった。

  この議会解放請願運動は、日農や評議会の支援によって全国的に拡大したが、それと共に労働農民党に対して左派にも門戸を開放して真の階級的単一政党となること及びこの連動を党が指導することを要求するようになった。10月19日の請願運動全国協議会は、この運動を労動農民党本部が指導しないならば、全国実行委員会が党にかわって直接指導にあたると声明するに至った。翌日の日農拡大中央執行委員会が、再び労働農民党に対して、左派への門戸開放を要求することを決議したのは、こうした大衆運動の盛り上がりを反映するものであった。福本イズムはまさにこうした大衆運動の側からの「指導部としての党」の要求に適合するものであり、この段階で左派の指導者たちは、協同戦線党の構想から離脱していったとみることができる。

  こうした情勢のなかで、もはや主導権を握ることができないとみた総同盟など右派の組合は、10月24日ついに労働農民党から脱退した。ちょうどその一週間前の17日には、3月に日農から分裂して全日本農民組合同盟をつくっていた平野力三一派が日本農民党の結成に踏み切っており、労働農民党が単一の無産政党であり得た時期はわずか半年余りにすぎなかった。労働農民党から分裂した総同盟も直ちに独自の政党組織に着手した。これらの右派勢力には、総同盟が何能な地域から地方政党をつくってゆこうとしていたように、元来全国単一無産政党という発想はなく、協同戦線党という構想にひきづられてきていたのであったから、左派の活動この構想から離れてくれば、右派もまた反共の方向に分離してゆくのは必然であった。すでにこの2月に、政治研究会を脱退した安部磯雄・賀川豊彦・嶋中雄三らが吉野作造・下中弥三郎らと結成した独立労働協会に総同盟の鈴木文治も加わっており、 総同盟が社会民主主義政党設立の方向に動いていることは明らかであった。そして労働農民党脱退後の11月には、安部磯雄・吉野作造・堀江帰一の3人の呼び かけに応ずるという形で、総同盟が中心となった新政党組織が進められた。

  しかもこの間、こうした反共を活動の軸にしている幹部の行き方に反発する総同盟の麻生久らと、労働農民党に左派の進出を助ける形になっている日農のあり方に反対する三宅正一・浅沼稲次郎らが握手して別個の政党を組織するという動きもあらわれてきた。結局、大正15年12月4日総同盟主流派を中心とした社会民衆党(中央委員会議長安部磯雄)が結成されたのにつづいて、9日には麻生・三宅らが日本労農党の創立大会を開くに至っている。そして麻生らの脱退にともなって組合レベルでも分裂がおこり、日本労働組合同盟が結成された。総同盟にとっては評議会の分裂につづ く2回目の大分裂となった。こうして無産政党は結成順に言えば、労働農民党・日本農民党・社会民衆党・日本労農党の4党が分立することになった。これはそれぞれ、労農党・農民党・社民党・日労党と略称された(以下略祢による)。

  総同盟や日農中間派が脱退したあとの労農党は、議会解散請願運動を積極的に指導し、左派勢力を結集する政党となった。12月13日の第一回大会では杉山元治郎に代わって大山郁夫が委員長に就任する。そしてその後は、社民党結成と同じ12月4日、山形県五色温泉で極秘裡に再建大会を行い、活動体制をととのえた日本共産党の指導下におかれるようになっていった。日本共産党はすでに大正11年7月15日、堺利彦らによって組織されていたが、翌12年6月の検挙、9月の関東大震災によって活動停止状態におちいり、13年3月、残務整理のビューローを残して一たん解党した。しかしコミンテルンは党の再建を指示し、ピューローは14年8月頃から、結党迄の中間機関とし て共産主義グループを組織するという形で再建活動に着手する。そしてこの再建準備活動のなかで福本イズムが指導理論としてうけいれられていった。

  共産党の勢力はまず、評議会などの大衆団体に滲透しついで労農党の主導権を握った。労農党は、議会解散請願連動につづいて、田中内閣の山東出兵に反対する対支非干渉運動、最低賃金法・失業手当法・8時間労働法などの制定を求める五法律獲得運動などを指導 し、無産政党中で最も大きな活動力を示した。しかし、福本イズムによる指導は全無産階級的闘争、すなわち政治的自由の獲得を第一義の課題として、労働争議などを機械的に街頭闘争や対権力闘争などに動員しようとする傾向をもち、下部組織は活発な活動の割には拡大しなかった。また労農党の、わが党の綱領と政策とを「いっさいの他党との鋭き対立において、全民衆の政治的自由の要求とピッタリ結びつけねばならぬ」という福本イズムにもとづく方針によっては、無産政党間の協力も困難であった。

  昭和2年9月から10月にかけて、普通選挙制による全国的な最初の府県会議員選挙が行われることになり、この際無産政党間の泥試合を避けようとする動きもみられたが結局成立せず、選挙の結果は労農党13人(立候補105人)、日労党3人(同33人)、社民党3人(同30人)、農民党4人(同26人)が当選したにとどまった。

  ところで、労農党が福本イズムによって活動していた間に、モスクワでは日本共産党代表を招いてコミンテルンによる日共綱領の作成が行われていた。コミンテルンでは、日本共産党の活動方針に疑問を抱いており、この会議では、山川イズムと福本イズムの両者が批判され、昭和2年7月15日コミンテルン常任委員会が承認したいわゆる「二七年チーゼ」は、党の大衆組織活動の強化を強く要求するものとなっていた。代表団の帰国によって共産党の方針が変化したことは、労農党が11月になってこれまで排撃していた日労党との無条件合同の方針を打出したことによって知られた。この合同は実現しなかったが、翌年の総選挙にあたっては、共産党の公然たる活動がみられるに至るのであった。



3第五五議会