『エリア教科事典』1日本歴史

1975年10月

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戦争と破局

古屋 哲夫


 

1揺れ動く日本
2満州事変と国際連盟脱退
3中国との全面戦争
4第2次世界大戦の開始と日本
5太平洋戦争

4第2次世界大戦の開始と日本
ファシズム国家の台頭
第二次世界大戦起こる
新体制運動と大政翼賛会
日独伊三国同盟
南進か北進か
日米交渉から開戦へ


4第二次世界大戦と日本

 日中戦争が長期化しているあいだに、ヨーロッパでは、第二次世界大戦の幕が切って落とされた。ドイツの電撃的勝利によった日本の指導者たちは、ドイツの攻勢に呼応して、欧州諸国の東南アジア植民地を、日本の支配下に置こうとくわだてて、米英との対立を深め、太平洋戦争はさけがたい形勢となった。



ファシズム国家の台頭

 ソ連が英仏と結んで、ナチス=ドイツの侵略と戦おうとせず、独ソ不可侵条約を結んで、ドイツとの戦争にまきこまれまいとしたのは、それまでソ連を除外してヒトラーとの妥協に終始してきた英仏に対し、ソ連が根深い不信感をいだいていたからであった。

 ヒトラーがナチス党(正式には国家社会主義ドイツ労働者党)を率いて首相の座についたのは、日本が国際連盟を脱退した1933(昭和8)年のことであった。暴力的な突撃隊にささえられ、反民主主義・反ユダヤ主義・アーリア人種優越主義などを唱えるナチスを、重工業資本家や大地主たちが支持したのは、世界大恐慌の下で社会主義革命が起こることをおそれたからであった。

 政権をにぎったヒトラーは、たちまちのうちに共産党のみならず、すべての政党を解散させて、ナチス党の一党独裁体制をつくりあげた。ヒトラーがめざしたのは、国民生活のあらゆる分野をナチスの下に組織して国内支配を強化するとともに、ドイツの無力化を図ったベルサイユ条約を打破して、強大なドイツをつくりあげることであった。

 1933年1月に政権をとったヒトラーは、その年の10月には、はやくも国際連盟を脱退し、1935年になると再軍備宣言を行い、その翌年には非武装地帯とされていたラインラントに軍を進めた。こうしたナチス=ドイツの国際秩序への挑戦は、すでに1922(大正11)年にファシスタ党を率いて政権をにぎり、独裁体制をしいていたイタリアのムッソリーニを元気づけた。

 1935年10月にエチオピアに戦争をしかけ、1936年5月にこれを併合したムッソリーニは、10月にはチアノ外相をベルリンに送って、ヒトラーとの提携を実現する。そしてその翌月には日独防共協定が結ばれた。世界政治のなかで、侵略的国家の結合が一大勢力にのし上がってくるかにみえた。こうした独裁的な勢力は、イタリアのファシスタ(元来は結束という意味)党の名をとって、ファシズムとよばれるようになった。

 ファシズムは、それぞれの国によって具体的な形態は異なっているが、その特徴は古い観念を極端なまでに利用しながら、社会の不満分子を扇動し、労働者などの階級的、革命的集団をたたきつぶし、さらにいっさいの国民の自主的組織をも破壊して国民を画一的なわくにはめこみ、侵略戦争に動員していく点にあった。日本でも満州事変以後、天皇絶対、天皇への帰一を呼号個人主義・自由主義を攻撃し、議会制を無力化して町内会・部落会や各分野での報国会に国民を組織し、国民に画一的生活を強制するような体制がつくられていくが、それは明らかにファシズムの特徴を示していた。



第二次世界大戦起こる

 ファシズム国家の行動に対して、世界平和の維持をめざしたはずの国際連盟は、有効な対策を立てることができなかった。満州事変やイタリアのエチオピア侵略のさいにも、中小諸国からは経済制裁などの強力な手段をとって侵略をやめさせるべきだとの声が上がったが、連盟を主導していた英仏は侵略者と妥協しながらみずからの利益を守ろうとした。

 1938年に3月にオーストリアを併合したヒトラーは、ついでチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求し、戦争の危機が高まったが、9月末、英仏首相はミュンヘンでヒトラー、ムッソリーニと会談し、ドイツの要求を認めて戦争を回避した。この会談には被害者のチェコも、チェコと相互援助条約を結んだソ連も招かれず、英仏はドイツの要求に従うよう、チェコに圧力をかけていた。

 しかし、ヒトラーはミュンヘン会談の協定線にとどまる気はなかった。翌1939年3月15日には、ドイツ軍はチェコスロバキア全土を占領してドイツの保護領とし、さらに次にはポーランドにねらいをつけた。英仏もさすがにポーランドに保証をあたえて、東欧諸国との連帯を強める政策に転じたが、ソ連との提携には熱意を示さず、ソ連を独ソ不可侵条約に追いこんだのであった。

 ヒトラーもまた英仏をみくびっていた。1939(昭和14)年9月1日早朝、宣戦の予告もなしにポーランド攻撃を開始してドイツ軍は、ここを1か月足らずで征服した。英仏はポーランドに対する保証義務に基づいて、9月3日ドイツに宣戦を布告したが、積極的に攻勢にでることなく、ドイツの電撃作戦を手をこまねいて見送ったにすぎなかった。

 英仏は戦争に対する準備がなく、ドイツも和平提案を行うなどして時をかせぎ、ヨーロッパでは半年にわたって休戦状態が続いた。この奇妙な休戦を破ったのは、1940(昭和15)年4月9日に始められたドイツ軍のスカンジナビア進攻であった。この作戦でデンマーク・ノルウェーを占領して側面を固めたドイツは、ついで5月10日に120個師団の大軍をもって、オランダ・ベルギーを経てフランスに向かう大進攻作戦を開始した。救援に向かった英仏軍は、ベルギー領内で包囲され、ダンケルクからかろうじて英国に撤退するありさまであった。6月14日にドイツ軍はパリにはいり、6月22日にフランスは降伏、ヒトラーは空襲をくり返しながら、イギリス本土への進攻をさけんだ。

 この間、情勢をうかがっていたムッソリーニも、6月10日戦果の分け前を期待してドイツ側に参戦し、ヨーロッパはファシズムの支配下にはいるかにみえた。



新体制運動と大政翼賛会

 ヨーロッパで第二次大戦が始まった当初、日本政府は、なりゆきを静観する態度をとっていた。ドイツが日本との同盟交渉を無視し、ソ連と手をにぎったことは明らかな背信行為と感じられたし、ヨーロッパの奇妙な休戦がどう動くかもわからなかった。また他方では、1939(昭和14)年7月に日米通商条約破棄を通告してきているアメリカとの関係を、調整することが当面の課題となっていた。しかし、日本の中国支配に反対するアメリカとの交渉は進まず、翌1940年1月、日米通商条約が失効して、アメリカとの関係は悪化するばかりであった。そこへドイツ軍の電撃的勝利が伝えられると、日本の指導者たちはふたたびナチスとの握手の方向に動きはじめた。

 オランダ・フランスがドイツに屈伏し、イギリスの敗北も間近いとみられるようになると、これらの国々が東南アジアにもっている植民地に目が向けられた。ドイツと協力してこれらの地域を手に入れれば、アメリカが戦略物資の日本への輸出を禁止しても、おそれることはないと考えられた。そしてともかくも、ドイツのような強力な政治体制をつくりあげて、積極的な行動に出なければならないとする気分が、国内にみなぎってきた。

 フランスが降伏して独仏休戦協定が結ばれた翌々日、1940(昭和15)年6月24日、近衛文麿が枢密院議長を辞職して、「新体制」確立に尽力するとの声明を発表すると、ほとんどすべての政治勢力は、新体制の中身もわからないうちからこの運動を支持した。陸軍は米内光政内閣をたおして近衛を首相におしあげようとし、諸政党はみずから解党して新体制のなかに地位を得ようとした。7月22日に第2次近衛内閣が成立すると、8月15日の民政党解党を最後として全政党が解党した。

 しかし近衛のほうも、はっきりした目標・構想をもっていたわけではなかった。したがって、政府によってつくられた新体制準備会は、軍部・官僚・政党をはじめ各界代表が顔をそろえているというだけのものになり、10月12日に新体制運動の帰結として、近衛首相を総裁として発足した大政翼賛会も、既成勢力の寄せ集めにすぎず、そこから強力な政治力が生まれるはずもなかった。

 大政翼賛会の性格については当初からはげしい論議がかわされたが、けっきょくのところ、政策立案などの機能をもたない政治協力機関として性格づけられることになった。やがて、太平洋戦争が始まると、産業・農業・言論など部分別組織としての各種の報告会や、地域的組織としての壮年団、末端の町内会・部落会・隣組などが大政翼賛会の下部組織に組みこまれ、大政翼賛会は国民全体をおおう単一の組織となった。これで国民生活のすみずみまで統制する統制組織はできあがったが、陸海軍や官僚組織相互の対立を克服して、一元的な戦争指導体制をつくりあげることは、最後までできなかった。



日独伊三国同盟

 国内の諸勢力を、新体制運動から大政翼賛会に至るコースのなかにとりこんだ近衛内閣は、思い切った対外政策を打ち出せる立場に立った。しかし、政策の主導権をにぎったのは、近衛内閣の推進力となった陸軍であった。陸軍は、新体制運動が展開されているころには、東南アジアの支配のために、アメリカとの開戦をさけながら、ドイツに荷担して「対英一戦」を試みるという構想をいだきつつあった。

 近衛内閣は、この陸軍の政策構想のうえに出発した。1940年7月26日に閣議が決定した「基本国策要綱」は、世界はいまや「歴史的一大転機」にさしかかっており、将来の世界は東亜(東アジア)・ソ連・ヨーロッパ・アメリカ州を支配する4大国家群によって構成されるにちがいないと「予見」した。

 そして、この予見のうえに立った松岡洋右外相は、日独伊の3国にソ連を加えた4国の友好関係をつくり、アメリカを孤立させてイギリスを打ちたおし、ヨーロッパとアジアをこの4国で支配するという構想を立てた。そしてこの構想が実現すれば、支援する勢力を失った蒋介石政権も屈服し、日中戦争をも解決することができるというのであった。すでに中国に対する戦争は、国外との連絡ルートを断ち切ることに重点が置かれるようになり、1940年9月には日本軍の北部仏印(現在のベトナムの北部)進駐が行われていた。

 松岡外相は、近衛内閣成立2か月後の1940年9月27日、日独伊三国同盟を締結した。この同盟は、独伊がヨーロッパの新秩序を建設し、日本が「大東亜」に新秩序を建設することをたがいに承認し協力すること、また、日独伊のいずれか1国が現在の戦争に参加していない国(ソ連を除外すると規定したから残るのはアメリカ)から攻撃された場合にhくぁ、あらゆる方法で協力する、という内容をもつものであった。「大東亜」とは、東亜新秩序の範囲とされた「日満華(日本・満州・中国)」に、東南アジアをふくめたものであった。



南進か北進か

 日独伊三国同盟を成立させた松岡外相は、さらにソ連を加えた4国の提携を実現するために、日本とソ連との友好関係を明確にするような協定を締結しようとした。そして翌1941年(昭和16)年3月から4月にかけて、ソ連・ドイツ・イタリアの3国訪問に旅立った。しかし、そのときすでに独ソ関係は悪化しつつあった。イギリスのかたい防備を前にして、イギリス本土上陸作戦を断念したヒトラーは、1940年12月18日には軍部に対して極秘のうちに対ソ戦準備を命じていた。したがって松岡と会談したヒトラーは、ソ連との提携の強化には興味を示さず、むしろ、日本がイギリスのアジア支配の拠点であるシンガポールを攻撃するよう、要求するようになっていた。

 しかし、自分の構想に固執した松岡は、ベルリンからの帰途再度モスクワをおとずれ、1941年4月13日、日ソ中立条約に調印した。

 日ソ中立条約によって北方のソ連との関係が安定すると、南方への進出が日本の対外交政策の中心となった。日本がナチス=ドイツとの結合を強めるにしたがって、アメリカは戦略物資の日本への輸出をきびしく制限するようになっており、日本としては、東南アジアの資源を獲得することが緊急の必要となっていた。そして蘭印(オランダ領インド、現在のインドネシア)からの物資の大量買付け交渉が失敗すると、武力による進出が唱えられるようになった。

 日ソ中立条約が調印されたころから、政府・軍部のあいだでは、南部仏印に進駐して軍事基地を獲得し、東南アジア侵攻の体制をつくることが必要であり、そのためには米英との戦争もやむをえない、との方針が固まってきた。このように南進政策から新たな戦争に突入する可能性が強まってきたところへ、独ソ開戦という新しい事態が起こり、日本の指導者たちをあわてさせることになった。

 1941年6月22日、ソ連攻勢を開始したドイツ軍が快調な進撃をみせると、日本では2か月前に調印されたばかりの日ソ中立条約を踏みにじってもソ連と開戦し、いっきょにソ連を打倒すべきだという主張が強まった。

 しかし、実際問題としてはノモンハン事件で証明ずみのように、ソ連軍事力は圧倒的優位にあり、極東ソ連軍が半減しなければ開戦できなかったが、ドイツの勝利を信ずる軍部は、そのような好機がくるものと考えていた。軍部は、南部仏印進駐の予定を変えないまま、関東軍特別大演習(関特演)の名目で、明治以来で最大規模の動員を行い、70万をこえる大軍を満州・朝鮮に配置して対ソ開戦の機会をうかがった。南部仏印進駐から対米英戦争の危険が生まれるとすれば、いっきょに米英ソ3大国との開戦も考えられるという緊迫した状況をむかえた。



日米交渉から開戦へ

 南方進出のためには、米英との戦争になってもやむをえないというものの、アメリカとの戦争はさけたいという考えは、政府や軍部のあいだにも強かった。1941(昭和16)年4月から公式に始められた日米交渉では、三国同盟と日中戦争の処理が中心の問題となった。

 ナチスと戦ういかなる国をも援助するとの態度を明らかにしていたアメリカは、三国同盟から日本を引きはなし、アメリカがドイツと戦うようになっても、日本がアメリカに参戦しないようにしようとした。また中国問題では、日本が中国大陸から撤兵し戦争を終わらせることを要求してきた。これに対して日本側では、まず三国同盟の問題をめぐって意見が分かれた。近衛首相は、三国同盟の参戦義務を放棄してもアメリカとの妥協の道を求めようとしたが、松岡外相は三国同盟にひびを入らせることに強く反対した。

 松岡が外相では日米交渉は進まないとみた近衛は、1941年7月いったん内閣総辞職を行い、豊田貞次郎海軍大将を外相とした第3次内閣を組織した。しかし、三国同盟問題より困難であったのは、日中戦争の処理について、中国からの全面撤兵を求めるアメリカとの合意に達することであった。軍部のあいだには、どうせ戦争になるなら、早く開戦したほうがよいとの意見が強まった。石油の貯蔵量が心配になってきたのである。

 1941年7月28日、日本軍が予定どおり南部仏印進駐を強行すると、日米関係は決定的に悪化した。アメリカは在米日本資産を凍結し、日本への石油の輸出を全面的に停止した。軍部は、これをきっかけに対ソ戦計画を中止し、対米英戦争の準備に集中していった。10月18日、陸軍大将東条英機は現役のまま首相の座についた。もはや、新たな戦争を回避するために、断固とした行動をとろうとする勢力は、存在していなかった。1941(昭和16)年12月8日, ハワイ真珠湾奇襲攻撃とマレー半島上陸作戦によって、日本は対米英戦争に突入していった。(古屋哲夫)

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