『エリア教科事典』1日本歴史

1975年10月

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戦争と破局

古屋 哲夫


 

1揺れ動く日本
2満州事変と国際連盟脱退
3中国との全面戦争
4第2次世界大戦の開始と日本
5太平洋戦争

5太平洋戦争
緒戦の勝利
連合軍の反撃
戦争経済の崩壊
戦時下の国民生活
空襲の激化と原爆投下
終戦工作と降伏


5太平洋戦争

 

 3年8か月におよぶ太平洋戦争で、日本の有利な局面は最初の1年だけであった。アメリカを主力とする連合軍の反撃が始まると、日本は制海権・制空権を失い、日本本土もはげしい空襲にさらされた。軍需生産は急速に減退し、国民生活も窮乏化して戦争を継続する力を失い、ついに降伏した。



緒戦の勝利

 真珠湾攻撃とマレー沖の海戦で、アメリカ太平洋艦隊、イギリス東洋艦隊に大打撃をあたえ、制海・制空権をにぎった日本軍は、開戦半年にしてフィリピン・インドネシア・マレー半島・ミャンマー(ビルマ)の主要都市を占領した。1942(昭和17)年1月2日マニラ、2月15日シンガポールを占領、3月9日にはオランダ軍が降伏、バターン半島・コレヒドール島に拠って、はげしく抵抗していたアメリカ軍も、5月7日には降伏した。

 開戦当初の方針では、東南アジアの資源と日本本土をつなぐ主要な交通線を確保することが目標とされていたが、勝利によった軍部、とくに海軍は、さらに積極的な攻撃をくわだてるようになった。オーストラリア攻略は陸軍の反対でとりやめとなったが、アメリカとオーストラリアをしゃ断する作戦、防衛線をアリューシャンからミッドウェーを結ぶ線に拡大するための攻撃などが計画された。

 アメリカ軍は、イギリスを支援してヨーロッパでドイツを打倒することを第一目標とし、太平洋では、当面は守勢にまわることを予定していたが、しかし、日本軍が第二段の攻撃の対象とした地域は、アメリカ側にとってもゆずれない防衛線であり、日本軍の攻撃は、はやくもはげしい抵抗にぶつかった。

 1942年5月から、、日本軍はアメリカとオーストラリアのしゃ断作戦の第一歩として、ソロモン群島と東部ニューギニア上陸作戦を行うと、米軍も機動部隊をくり出して反撃し、5月8日には機動部隊どうしによる珊瑚海海戦を行われた史上最初の海戦であり、双方互角の戦いであった。

 つづいて6月初め、アリューシャンおよびミッドウェー攻略作戦が行われ、アリューシャンではキスカ島・アッツ島を占領して目的を達したが、ミッドウェーでは米機動部隊の待ち伏せを受け、空母4隻を失うという大損害を受けて敗退するに至った。これによって、日本の攻撃用空母は2隻を残すのみとなり、日米の海上兵力の優劣は逆転し、日本海軍は以後、積極的な攻勢をとれなくなった。



連合軍の反撃

 アメリカ軍にとって反撃の第一の目標は、ニューブリテン島のラバウルに航空基地を建設し、ニューギニア北東岸からソロモン群島にかけて布陣した日本軍を追いはらうことであった。この反撃は1942年8月、日本軍が飛行場の建設を進めていたガダルカナル島への上陸作戦によって口火が切られた。米上陸部隊が予想外の大部隊であることを知った日本側は、米軍の反撃をざせつさせるため、ガダルカナル奪回を最優先作戦とし、つぎつぎと増援部隊を投入していった。

 しかし、ラバエルから900キロもはなれたガダルカナル攻撃を、十分に援護することができず、日本輸送船団は大損害をこうむり、補給を断たれた日本軍は、飢餓状態でジャングルのなかをにげまわるありさまとなった。

 日本軍は、ようやく1943(昭和18)2月になってガダルカナルから撤退したが、この半年およぶ攻防戦で、多くの軍艦・船舶とともに1900機の飛行機と熟練搭乗員を失ったことは、大きな痛手であった。アメリカ・オーストラリア軍は抵抗力を失った日本兵を置き去りにして北上していった。北太平洋でも1943年5月にはアッツ島の日本軍は全滅し、キスカ島の守備隊は濃霧にまぎれて撤退するなど、アメリカ軍の反撃が始まっていた。

 日本軍がガダルカナルを撤退したころ、ヨーロッパでも戦局の転機がおとずれていた。1942年夏からのドイツ軍の大攻勢を、スターリングラードにはげしい市街戦でかろうじて持ちこたえたソ連軍は、11月になると逆にドイツ軍を完全に包囲し、ついに1943年1月末にこれを破った。ヒトラーはこの敗戦をばん回しようとし、最精鋭の機械化部隊を中心とする大兵力を集中して、1943年夏季攻勢を行ったが、ソ連軍の反撃の前に敗れ、以後どの戦線でも優勢を保つことができなくなった。

 同じころ、北アフリカを制圧した米英軍の進攻を前にして、イタリアでは反ムッソリーニのクーデターが起こり、バドリオ新政権は9月8日降伏し、枢軸陣営の一角がくずれた。1944年6月に北フランス上陸作戦を実行に移した連合軍は、8月にはパリを占領し、西部戦線の4倍のドイツ軍との戦いを続けてきたソ連軍も全ソ連領土を回復した。もはやドイツの敗北は時間の問題となったが、同じころ日本の軍事力も崩壊しつつあった。

 1944年7月、アメリカ軍はサイパン島を占領し、東条内閣は総辞職して小磯国昭が首相となったが、戦局を立て直す手だてはなくなっていた。10月にはアメリカ軍はフィリピンに上陸し、またサイパンの基地から飛び立ったB29は、11月24日の東京空襲をはじめとして、日本全土に対して本格的空襲を加えはじめた。翌1945年5月、ドイツが降伏したときには、極東のアメリカ軍はすでに沖縄を攻撃しているさなかであった。4月1日のアメリカ軍上陸以来、2か月にわたって続けられた日本軍の抵抗も、6月23日には終わりをつげた。第二次世界大戦は、最後の局面をむかえていた。



戦争経済の崩壊

 ガダルカナル攻防戦は、日本の軍需生産にも決定的な悪影響をおよぼした。中国大陸や東南アジアの資源にたよって戦争を遂行しようという構想からいえば、資源の輸送のための船舶を確保することが、戦争をささえる柱となるはずであった。当初の計画では、第一段階の作戦が終了したところで、軍隊輸送のために使われた船を、物資輸送用に転換するという形で計画のつじつまを合わせていた。
ところが、赤道のさらに南のニューギニア・ソロモン戦線を死守しようとすると、補給のためにぼう大な輸送力が必要となり、さらにそのうえに戦闘による損害が加わってきた。すでに1942年末には、軍需生産の資材を確保するという見地からも、ガダルカナル奪回作戦を続けるわけにはいかなくなっていた。

 船の減少によって資材の入荷が激変するにしたがって、いっそう経済統制は強められ、できるだけ民間の需要を切りつめ、いっさいを軍需生産に集中する政策がとられるようになった。1943年3月には、鉄鋼・石炭・軽金属・航空機・造船が超重点5大産業に指定され、6月からは、平和産業部門の工場や労働力を重点産業にふりむけるための企業整備が強力に推進されていった。さらに11月には、統制の一元化のために企画院と商工省を統合して軍需省がつくられ、軍需会社を指定して資材・資金・労働力を優先的にわり当てる方式がとられた。しかし、鉄鋼など基礎資材の生産は1943年をピークとして急減し、1945年にはいると開戦時の半分にまで落ちた。

 軍需生産を困難にしたもう一つの原因は、労働力、とくに熟練した労働者の減少であった。太平洋戦争開戦時に241万人であった現役軍人は、敗戦時には719万人と増加していたが、そのことは、それだけ各産業の中心となっていた労働者や農民が減少することを意味していた。政府は強制的な徴用、中学生以上の勤労動員、さらには朝鮮人・中国人の強制連行などによって、この穴をうめようとしたが、むりやり動員された労働者は勤労意欲も技術水準も低く、生産低下に拍車をかけた。



戦時下の国民生活

 太平洋戦争が始まると、国民の自由はいっそうせばめられていった。集会・結社・出版などはいっそう強くとりしまられるようになり、単に政府に反対しないというだけでは許されず、戦争遂行に積極的に協力しなければ「非国民」とみなされるようになった。

 しかし、「聖戦完遂」「撃ちてしやまむ」などといった勇ましい掛け声のもとで、国民は深刻な物不足になやまされるようになった。衣食住のうち、最初に苦しくなったのは衣料であった。日中全面戦争開始の翌年から綿花の輸入を制限するため、国産パルプを原料としたスフを衣料の中心とする政策がとられたが、さらに戦争が激化すると、繊維産業そのものが縮小され、点数切符制という配給制度が実施されることになった。これは、たとえば背広50点、ワンピース15点、セーター20点、手袋5点といったぐあいに、衣料の品目別点数を定め、国民1人の年間消費量を年で100点、農村部で80点に制限するものであった。これでいくと、背広と外とうを1着ずつつくると、そのほかに1年間に手ぬぐい1本も買えないということになった。しかし、実際には買いたくても品物がなく、切符のほうが余るというありさまであった。

 食糧も1941年4月の六大都市から始まった割当配給制が、翌年3月には全国的に実施されるようになり、米の消費量は1人1日2合3勺(330g)に制限された。この配給量は、それまでの日本人の消費量より2割ほど少ないとされているが、それも労働力や農具の不足で農業生産が減退し、東南アジアからの外米輸送が困難になるにしたがって維持できなくなっていった。1942年から米のかわりに小麦粉・いも類・めん類、さらには満州産の大豆・とうもろこし・こうりゃん、ついには油をしぼったあとの大豆かすまで、配給されるようになった。そして最後には、異常な凶作になる見通しがはっきりした1945年7月からは、これまで名目的には守ってきた2合3勺の配給が、2号1勺に削減された。



空襲の激化と原爆投下

 物不足によって窮乏化していった国民生活は、最後にははげしい空襲によって壊滅的打撃を受けることになった。1944年11月、サイパン基地のB29によって始められた日本本土空襲は、最初は航空機工場をはじめ各種軍需工場を対象としていたが、しだいに都市の密集家屋にじゅうたん爆撃を加えるようになった。1945年3月9日、4月14日、5月25日の3回にわたる大空襲を受けた東京では、関東大震災の2倍の被害を出した。全国206都市のうち98市が攻撃され、福井市の96%を最高に、平均焼失率4割の被害を受けた。

 1944年から空襲を予想した疎開政策がとられたが、移住先や職業を保証しないで疎開を求められても国民は動きようがなく、強制的に行なわれた学童集団疎開以外には、あまり効果をあげることができなかった。人々は空襲や家や職場を失って、やむなく疎開しはじめたのであった。

 もはや国民生活が崩壊状態におちいっていた1945年8月6日、今度は原子爆弾が広島に、ついで8月9日には長崎に投下された。この2発の原爆によって、約40万人の生命がうばわれたと推定されており、死をまぬがれた多くの人々も、その後生涯にわたって放射線障害による原爆症になやまされるという悲惨な状態につきおとされることになった。アメリカが最初の原爆実験に成功したのは、広島に投下する20日ばかり前の7月16日のことであり、完成された原爆がすぐさま使用されたのは、ソ連の対日参戦とかかわる問題であった。

 アメリカは圧倒的に優勢な軍事力を示したとはいえ、中国大陸に100万の日本軍が残っているという状態では、日本を最終的に屈服させるためには、ソ連の対日参戦が必要だと考えていた。そこで1945年2月、ヤルタで開かれたルーズベルト・チャーチル・スターリンの3首脳会談で、ソ連はドイツ降伏後の2〜3か月後、日本との戦争に参加するかわりに、戦後は日露戦争で失った権益と千島列島を獲得するというヤルタ協定が結ばれた。

 しかし、原爆実験の成功を知ったアメリカ首脳部は、この新しい爆弾の威力によれば、ソ連の協力を得なくても、日本を屈服させることができるかもしれない、と考えるようになった。アメリカの原爆使用に対抗してソ連も、対日参戦を早めたとみられ、日本降伏の過程ではやくも米ソ対立が芽を出していた。



終戦工作と降伏

 沖縄戦の敗北が時間の問題とみられ、ドイツの降伏が伝えられた1945年5月になると、表面では本土決戦をさけんでいた日本の指導者も、戦争をなんとか収拾したいと考えるようになった。そこで考えられたのは、ソ連に仲介をたのんで、できるだけ有利な条件で戦争を終わらせるということであった。

 ソ連は4月5日に、翌年期限のくる日ソ中立条約を延長しないと通告してきていたが、日本の指導者たちは、ソ連に思いきって利権をあたえれば、ソ連を米英から引きはなすことができるかもしれないと考えていた。そして、ソ連がなかなか話しににりそうもないとみると、7月になって、天皇の親書を持った近衛文麿を特使として派遣したいとソ連に申し入れたしかしスターリンはこの申し入れにこたえることなく、ポツダムに旅立っていった。

 7月17日から8月2日まで東ドイツのポツダムで開かれた米英ソ3首脳会談は、ドイツの戦後処理に関する協定とともに、日本に関する宣言を作成した。まだ日本に参戦していなかったソ連を除き、蒋介石の承認を得て米英中3国の宣言として発表されたポツダム宣言は、日本の早期降伏をうながしたものであった。そこには軍隊の解散、軍国主義の排除、戦争犯罪人の処罰、日本領土の本州・四国・九州・北海道および小諸島への局限、民主主義的秩序の確立などの目標が示され、この目標が実現されるまで、連合軍が日本を占領することを宣言していた。

 ポツダム宣言に続いてアメリカが原爆を投下すると、8月9日、ソ連も日本に参戦し、もはやポツダム宣言受諾以外の方法で、戦争を終わらせる見込みはなくなった。8月9日深夜から10日未明にかけて行われた御前会議は、ポツダム宣言が天皇の地位の変更の要求をふくんでいないとの了解のもとに、同宣言を受諾することに決定した。

 そしてアメリカから、「天皇及び日本政治の権限は連合国最高司令官の制限のもとにおかれる」と天皇の存在を認めることを暗示した回答を受けると、8月14日ふたたび開かれた御前会議はポツダム宣言の無条件受諾を決定した。8月15日正午、終戦を告げる天皇の声がラジオから流れた。日本の指導層は、天皇制を維持し、そのもとで、連合国の占領をたえしのぼうと考えていた。 (古屋哲夫)

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