『帝国議会誌』第12巻

1976年6月

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第六一回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第六一回帝国議会 貴族院解説
第六一回帝国議会 衆議院解説

第六一回帝国議会 貴族院解説
上海事変
「満州国」建国
第六一回議会の召集
貴族院の状況

第六一回帝国議会 貴族院解説



上海事変

 第60回議会が解散されたのは1932(昭和7)年1月21日であり、次の第61回議会が開会されるのは3月20日であるが、この2ケ月の間には、日本の満州支配が抜きさしならない方向に進展してゆくことを示す数々の事件がおこっている。まず1月28日から3月3日にかけては、上海で日中両軍の激しい戦闘が行われているが、その間、満州では2月5日に日本軍がハルピンを占領、満州北部に進出して満州全体 を支配下におく意図をあらわにした。さらに2月29日、国際連盟理事会の決議(前年12月10日)にもとづいて派遣されたリットン調査団がアメリカを経由して東京に到着すると、翌3月1日には、同調査団の満州入りに先手を打って、奉天で「満州国建国宣言」が発表された。つまりこの両議会の間の時期は、国際世論を無視しても、「満州国」という傀儡政権をつくりあげる工作が進められた時期であり、上海事変もそのために国際都市・上海で事をおこし、国際的関心を満州からそらそうとする謀略からはじまったことであった。

  国内では第60回議会の休会あけ冒頭解散をめぐって政局が緊迫していた1月18日、上海では、寒中勤行のため団扇太鼓を打ち鳴らしながら通行していた5人の日本人日蓮宗僧侶が、突如として数十人の中国人に暴行され、3名が重傷を負い、うち1名が24日に死亡するという事件がおこっていた。この事件は関東軍の板垣征四郎参謀から依頼をうけた公使館付武官田中隆吉少佐が、無頼の中国人を買収しておこさせたものであり、関東軍が準備していたハルビン占領作戦(1月28日作戦開始)に国際的批判がおこるのを防ぐという意図をもつものとみられた。この謀略が軍中央部の諒解を得ていたとは考えられないが、これだけの事件を起こしさえすれば、満州事変以後の排日運動の高揚に悩まされている日本人居留民が騒ぎ出し、出兵の口実がつくられるであろうことは容易に予測されるところであった。

  翌日深夜(20日午前3時)には早速、日本人居留民の青年同志会員30名が中国人経営の工場を襲撃・放火するという報復行為にで、20日午後の居留民大会では、「不敬事件に次ぐに邦人傷害事件を以てし今や抗日暴状其極に達す、帝国政府は最後の肚を決め直ちに陸海軍を派遣し自衛権を発動して抗日運動の絶滅を 期すべし」(臼井勝美著「満州事変」151頁による)との決議が行われた。ここで「不敬事件」とは、上海の「民国日報」が「不幸にも爆殺失敗」として桜田門事件を報道したことを指しているのであるが、ともかくこの決議が、たんなる僧侶襲撃事件についての謝罪や賠償ではなく、軍事力により抗日運動そのものに一撃を加えることを要求している点に注目しておかなくてはならない。そして政府や軍部もこの線にのって動き出すことになるのであった。

  第60回議会が解散された1月21日、村井総領事は、呉鉄城上海市長に対して、(一)市長の謝罪、(二)加害者の処罰、(三)被害者への賠償、(四)各種抗日団体の即時解散という4項目の要求をつきつけたが、その重点が第4項にあり、またそれが中国側に容易にうけいれ難いものであることは明らかであった。上海の抗日救国会も国民党支部も呉市長が日本の要求に屈服することに反対した。しかし上海の日本人居留民保護を任務とする海軍側は、この機会を抗日運動絶滅に利用する方向に動き始め、23日には巡洋艦一隻、駆逐艦4隻、 24日には航空母艦登呂を上海に派遣し、この時点で上海には日本軍艦11隻、陸戦隊1300余名が集結、海軍陸戦隊の実力によっても抗日団体を解散させようとする姿勢を示した。こうした日本側の圧力のもとで、上海市政府の回答は27日にもたらされたが、その内容は第1項から第3項については受諾するが、第4項 については抗日救国会の解散を約束しただけで、全抗日団体の即時解散を要求する日本側からみれば不満足なものであった。これに対して村井総領事は同日夜、翌28日午後6時までに満足な回答が得られなければ、必要な手段をとると上海市側に通告、これによって日中両軍の武力衝突の危機に直面した共同租界当局は、28日午前、同日午後4時より戒厳令を施行することを決定した。

  こうした緊張の高まるなかで、上海市政府は遂に日本側の要求を全面受諾することを決定し、午後3時村井総領事に回答したが、海軍側は、租界周辺で臨戦態勢を強めていた第19路軍に一撃を加えるいう方針を強行しようとしていた。すなわち、共同租界の戒厳令にもとづき、各国軍及び義勇隊は午後5時頃にはあらかじめ定められていた地域に配備されたが、日本陸戦隊は何故かこの時間には出動しようとはせず、午後8時になって塩沢幸一司令官は、日本人が多数居住することを理由に租界外の閘北一帯に日本車を配備すると声明、中国軍の撤退を求めた。しかしこの声明が上海市政府公安局に達しだのは夜11時すぎであり、日本陸戦隊が配備に出動したのはこの直後のことであった。つまり日本車は、撤退要求に中国側が対応すがいとまがないうちに、いねば無警告同様にしかも深夜になって中国軍陣地に進出しようとしたのであり、明らかな挑発にぽかならなかった。

  中国側は当然にこれに応戦し、ここに上海事変の火蓋が切られた。翌29日朝からは空母より発進した日本海軍機による爆撃も加えられたが、中国車の抵抗も激しく日本陸戦隊はわずかばかり進出したにとどまった。同日夜には米英総領事のあっせんにより戦闘中止が協定されたが、実際には対峙した日中両軍の問で小規模の戦闘が続いた。日本側では政府をもふくめて、上海附近から中国軍を一掃し、中国軍の進出を許さない地域を設定することを、この軍事行動の目標とする態度を固めており、従って芳沢外相は、2月2日米英仏三国大使から提示された共同調停案にも同意しなかった。この日の閣議ではすでに上海への陸軍派兵の方針が決定されており、また海軍が次々と派遣した軍艦を第3艦隊に編制し野村吉三郎中将を司令官に任命したのもこの日であった(8日上海到着)。翌2月3日上海では塩沢司令官が増援陸戦隊を加えて新たな攻撃を 開始したが、5日に至っても中国軍陣地を突破することができず、陸軍部隊の増援なしには中国軍を撃破できないことが明らかとなっていた。

  2月7日、日本政府は上海への陸軍派遣を公表し、中国側の「悪辣深刻ナル排日運動」が事件の根本原因であると声明した。すでに前日佐世保を出航した混成第24旅団は、この日午後から上海上陸を開始しており、陸軍の主力となる第9師団も14日から16日にかけて上陸を完了した。そしてこの軍事力を背景とした植田謙吉第9師団長は、18日に至って、第19路軍長蔡廷カイに対し20日午前7時までに租界境界線か ら20キロ以遠に撤退することを要求する最後通牒を 発した。

  この日本側の強硬政策に対しては国際的批判が高まっており、国際連盟理事会の日中両国を除いた12理事国は、2月16日、「連盟規約第10条を無視して行はれたる連盟国領土の保全侵害及び其の政治的独立の毀損は決して連明国に依り有効且実効的とは認められない」との通牒を日本政府に送っていた。規約第10条とは「連回国は連盟各国の領土保全及び現在の政治的独立を尊重し且外部の侵略に対して之を擁護することを約す」と規定したものであり、12ヶ国通牒がこの条項を引用したことは、日本を侵略国と認定したことを意味していた。しかし20日の総選挙を目前にした犬養内閣は、柳条溝事件以来の軍事的勝利に歓呼しているマスコミや国民の前で軟弱な態度はとれないとし、19日の国際連盟理事会でも日本代表は、中国は組織ある国家とは言えず、事態の根本的責任は中国の混乱と無秩序にあると述べたてていた。同じ見解はさらに23日には12ヶ国通牒に対する政府声明として発表された。と言っても、ここで犬養内閣が国際連盟との正面からの対決に踏み切ったわけではなく、連盟理事会が中国の要請を採択して、3月3日に連盟臨時総会を召集するという状況のもとでは、上海での戦闘を出来るだけ早く収束させることも必要であった。 しかし陸軍部隊による攻撃も容易には進展しなかった。

  国内では総選挙が行われた2月20日、上海では午前7時30分から、第9師団・第24旅団による総攻撃が開始されたが翌日に至っても進展せず、22日には逆に反撃をうける有様であり、1箇所に攻撃を集中する作戦に変更した23〜25日の第2次攻撃も、いたずらに死傷者を増加させる結果に終わった。すでに第1次攻撃の失敗によって、兵力の増援なしに中国軍陣地を突破できないことが明らかになっており、政府は23日第11、第14の両師団派兵を決定、25日には白川義則大将が上海派遣軍司令官に任命された。 この頃になると、軍部も3月3日の国際連盟総会までに、戦闘を終わらせることが必要と考えるようになっ ており3月1日の増強部隊上陸とともに早速攻撃が開始された。そしてようやくにして中国軍を予定していた祖界境界線20キロ以遠に後退させると、日木軍は追撃をあきらめ、3月3日一方的に停戦を声明して、 かろうじて連盟総会に間に合わせたのであった。連盟総会では、日中両国に停戦に関する協議を開始すること、上海に利害の深い第3国にそれを援助することを 求める決議を行い、それを受諾する形で、停戦会議が開かれることになった。第61回議会は3月18日に召集され20日に開院式が行われているが、この間の19日には、停戦予備会談が妥結し、会期中の24日から本会議が開かれるに至っている。停戦協定が成立するのはこの議会後の5月5日のことであった。



「満州国」建国

 上海で植田師団長が最後通牒を発した2月18日、東京朝日は「新国家の母体先ず成る」との大見出しのもとに、奉天での五巨頭会談によって「満蒙」独立国家建設の方針と、それまでの臨時政権として「東北行政委員会」が組織されたことを報じた。朝日が五巨頭 と呼んだのは、すでに前年中に関東軍の支援のもとに、奉天・吉林・黒竜江各省の張学良政権からの独立を宣言していた臧武毅・煕洽・張景恵と、関東軍のハルビン占領(2月5日)後にはじめて日本に協力的態度を 示すようになった黒竜江省の実力者馬占山の4名に、奉天市長趙欣伯を加えた5名をさしている。しかし実質的には前4者が奉天に集まった所に意味があったと言ってよい。

  満州各地の有力者・小軍閥を張学良から引き離して日本に協力させるというのは、関東軍の最初からの計画であり、その占領地を拠点として次々に彼らに新地方政権樹立を宣言させていったのであったが、馬占山がなびいたのを機会に、関東軍はこれらの地方政権を 1つの国家にまとめあげる工作を急いでいた。2月18日、張景恵を委員長として成立した東北行政委員会は、国民党中央政府からの独立を宣言、以後新国家の形成が急ピッチで進められてゆくことになるが、それが実質的には関東軍の意のままに動かされていることは明らかであった。1週間後の25日には執政を元首とする政府組織法とともに、清朝最後の皇帝溥儀を執政にあてるという決定が伝えられたが、その溥儀はすでに前年11月10日、土肥原賢二大佐の策謀によって天津から連れ出され、旅順にかくまわれていた。

  3月1日、奉天の張景恵邸で「満州国建国宣言」が発表されたが、それは張軍閥の悪政ぶりを口を極めてののしると共に、「今ヤ何ノ幸ゾ、手ヲ隣師ニ階リテコノ醜類ヲ駆り積年軍閥蟠踞シ秕政萃聚セル地ヲ挙ケテー旦ニシテ之ヲ廓清ス」と述べ、日本との協力による軍閥支配からの解放として「建国」を意義づけようとするものであった。しかしこの論理は、「満州事変」を正当化するために、日本側が繰返し強調してきたものにほかならなかった。そして新国家の内実が目本の傀儡政権にすぎないこともすぐさま明らかとなった。

  溥儀の執政就任式は3月9日と予定され、3月6日旅順を出発した溥儀は、途中で湯崗子に2泊したのち、8日新国家の首部とされた長春に到着したが、この間湯崗子では、出向いてきた関東軍板垣参謀に1枚の文書に署名させられていた。それは3月10日付けの本庄関東軍司令官宛の書簡、つまり溥儀が執政就任直後に日本側に申し出たという形式のものであり、その内容は、(1)満州国は日本に国防及び治安維持を委託し、其の経費を負担する、(2)貴軍司令官の推せんによって、日本人を満州国参議及び中央・地方の官吏に任用し、その解 職にも貴司令官の同意を要件とすることとするという2点を中心とするものであった。それは政治・軍事の実権を日本、具体的には関東軍にあたえることを意味していた。逆に言えば「満州国」なるものは、日本の軍事力に支えられることなしには存続しえないものであった。日本側の調査によっても、この年1月から4月にかけて、12万にのぼる反日車が満州全域にわたって活動していた。

  こうした軍事力による「満州国」の創出が、日本に対する国際的な反発を強めることになるのは必然であった。3月3日に開会された国際連盟臨時総会は、翌4日上海事変の停戦と日本車の撤退に関する協議を開始するよう日中両国に勧告する決議を全会一致で可決 したのち、一般委員会での討議に移っていたが、3月 11日に再開された総会では、連盟規約又は不戦条約に反する手段で生み出された一切の状態、条約・協定などを承認しないとの原則が決議された。それは直接には「満州国」なるものを認めないということを意味していた。

  しかし日本側には、こうした国際的批判に耳をかたむけようとする動きはもはやみられなくなっていた。 第61回議会の貴族院をみても、志水小一郎(研究会・ 勅選)が「所謂満州ノ新国家問題ハ、満州民族ノ自覚・ 醍覚ニ基クモノデアッテ、之ヲ認メテ帝国軍人ノ動作ノ結果ト為スガ如キハ誣罔ノ甚ダシキモノダト考ヘマスガ、政府ノ御所見ハ抑々如何デアリマセウ」と質問すると、犬養首相は「国トシテハ今日之(満州国)ヲ別ニ助成シ、殊ニ成立タシテ行クト言フ動作ハ執ッテ居リマセヌ、彼自ラ民族自決ノ上デ成立ッテ居ル」(速記録第3号)と答えるといった、偽瞞的なやりとりが行われているにすぎなかった。



第六一回議会の召集

 上海事変のさなか、血盟団事件におびやかされながら行われた第18回総選挙は、政友会の圧倒的勝利に終わった(「第六一回帝国議会衆議院解説」参照)。総選挙後の特別議会は、憲法の規定では、解散の日より5ヶ月以内に召集しなければならないとされていたが、議 院法及び選挙法の規定から言うと、選挙後60日以上たたないと開くことができなかった。すなわち、選挙法では、当選人が当選承認の届出を行うべき期間を当選の告知を受けてから20日間と規定しており、法律上ではこの期間が経過しないと当選者が確定しないという仕組みになっていた。また議院法には、議会召集の詔書は、召集日の少なくとも40日以前に公布しなければならないとの規定があり、当選確定の日に召集詔書を公布したとしても、召集日は総選挙から60日以上経過しているという計算になるわけであった。しかし今回は満州事変・上海事変の出兵費を追加予算として提出する必要があり、総選挙後2ヶ月も待てないと して、特別議会ではなく、臨時議会を召集する方法がとられたのであった。

  もっとも犬養内閣は当初は緊急勅令による財政処分で出兵費をまかない、特別議会を召集する考えであったが、緊急勅令の審査にあたる枢密院から、選挙も終わったことだから臨時議会を開くべきだとの意向が示され、内閣もそれに従うことになったのであった。第61回議会召集の詔書は、召集日3月18日、会期5日間の臨時議会として3月5日に公布された。3月20日の開院式についで22日全院委員長・常任委員などの選挙を行い、23・24の2日間議案の審議を行って閉会している。この議会における議長・副議長・全院委員長・常任委員長・政府側委員の顔振れや、議員の会派別氏名は次の通りであった。

議長   徳川 家達(公爵・火曜会)
副議長   近衛 文麿(公爵・火曜会)
     
全院委員長   松平 頼寿(伯爵・研究会)
     
常任委員長 資格審査委員長 互選するに至らず閉会となる
  予算委員長 柳沢 保恵(伯爵・研究会)
  懲罰委員長 互選するに至らず閉会となる
  請願委員長 清岡 長言(子爵・研究会)
  決算委員長 互選するに至らず閉会となる
     
国務大臣 内閣総理大臣 犬養  毅
  外務大臣 芳沢 謙吉  
  内務大臣(兼任) 犬養  毅
  大蔵大臣 高橋 是清
  陸軍大臣 荒木 貞夫
  海軍大臣 大角 岑生
  司法大臣 鈴木 喜三郎
  文部大臣 鳩山 一郎
  農林大臣 山本 悌二郎
  商工大臣 前田 米蔵
  逓信大臣 三土 忠造
  鉄道大臣 床次 竹二郎
  拓務大臣 秦  豊助
     
政府委員(3・18発令) 内閣書記官長 森  恪
  法制局長官 島田 俊雄
  法制局参事官 黒崎 定三
  金森 徳次郎
  外務政務次官 岩城 隆徳
  外務参与官 高橋 熊次郎
  外務書記官 松宮  順
  内務政務次官 松野 鶴平
  内務参与官 藤井 達也
  大蔵政務次官 堀切 善兵衛
  大蔵参与官 太田 正孝
  大蔵省主計局長 藤井 真信
  大蔵省理財局長 富田 勇太郎
  大蔵書記官 川越 丈雄
  陸軍政務次官 若宮 貞夫
  陸軍参与官 土岐  章
  陸軍主計監 小野寺 長治郎
  陸軍少将 山岡 重厚
  陸軍一等主計正 大内 球三郎
  海軍政務次官 堀田 正恒
  海軍参与官 西村 茂生
  海軍主計中将 加藤 亮一
  海軍少将 豊田 貞次郎
  海軍主計大佐 荒木 彦弼
  司法政務次官 熊谷 直太
  司法参与官 名川 侃市
  文部政務次官 安藤 正純
  文部参与官 山下 谷次
  農林政務次官 砂田 重政
  農林参与官 今井 健彦
  商工政務次官 中島 知久平
  商工参与官 加藤 鐐五郎
  逓信政務次官 内田 信也
  逓信参与官 坂井 大輔
  逓信省経理局長 富安 謙次
  鉄道政務次官 若尾 璋八
  鉄道参与官 野田 俊作
  拓務政務次官 加藤 久米四郎
  拓務参与官 牧野 賎男
  拓務書記官 杉田 芳郎
  関東庁財務部長 西山 左内
     
政府委員追加(会期中発令) 外務省通商局長 武富 敏彦
  内務省警保局長 森岡 二朗
  大蔵省銀行局長 大久保 偵次
  鉄道省経理局長 工藤 義男
     
会派別所属議員氏名    
     
 開院式当日各会派所属議員数 研究会 149名
  公正会 68名
  交友倶楽部 41名
  同和会 41名
  火曜会 34名
  同成会 26名
  会派に属しない議員 44名
  403名
     
研究会 黒田 長成
  蜂須賀 正韶
  大久保 利武
  林 博太郎
  堀田 正恒
  川村 鉄太郎
  樺山 愛輔
  奥平 昌恭
  小笠原 長幹
  柳沢 保恵
  柳原 義光
  松木 宗隆
  松平 頼寿
  二荒 芳徳
  児玉 秀雄
  酒井 忠克 
  酒井 忠正 
  黒木 三次
  溝口 直亮
  有馬 頼寧
  橋本 実斐
  伊集院 兼知
  伊東 二郎丸
  井上 匡四郎
  五辻 治仲
  今城 定政
  池田 政時
  石川 成秀
  岩城 隆徳
  八条 隆正
  花房 太郎
  西尾 忠方
  西大寺 吉光
  保科 正昭
  戸沢 正己
  豊岡 圭資
  渡辺 七郎
  渡辺 千冬
  片桐 貞央
  吉田 清風
  米津 政賢
  米倉 昌達
  高倉 永則
  滝脇 宏光
  立花 種忠
  冷泉 為男
  曽我 祐邦
  鍋島 直縄
  裏松 友光
  野村 益三
  大浦 兼一
  大久保 立
  大河内 輝耕
  櫛笥 隆督
  柳生 俊久
  藪  篤麿
  松平 直平
  松平 康春
  前田 利定
  牧野 忠篤
  牧野 一成
  舟橋 清賢
  藤谷 為寛
  井伊 直方
  青木 信光
  秋月 種英
  秋田 重季
  秋元 春朝
  綾小路 護
  清岡 長言
  三室戸 敬光
  白川 資長
  新庄 直知
  樋口 誠康
  東園 基光
  毛利 高範
  森  俊成
  織田 信恒
  土岐  章
  梅小路 定行
  梅園 篤彦
  三島 通陽
  植村 定治
  岡部 長景
  毛利 元恒
  加藤 泰通
  市来 乙彦
  馬場 ^一
  西野  元
  富谷 ヌ太郎
  若林 賚蔵
  勝田 主計
  金杉 英五郎
  内藤 久寛
  馬越 恭平
  藤山 雷太
  小松 謙次郎
  木場 貞長
  富田 光雄
  志水 小一郎
  坂西 利八郎
  大橋 新太郎
  山川 端夫
  太田 政弘
  塚本 清治
  岡崎 邦輔
  若尾 璋八
  大谷 尊由
  三井 清一郎
  山岡 万之助
  藤原 銀次郎
  八田 嘉明
  根津 嘉一郎
  潮 恵之助
  磯村 豊太郎
  大塚 惟精
  堀 啓次郎
  佐賀 石川 三郎
  長野 今井 五介
  宮城 伊沢 平左衛門
  新潟 五十嵐 甚造
  島根 糸原 武太郎
  千葉 浜口 儀兵衛
  和歌山 西本 健次郎
  群馬 本間 千代吉
  北海道 金子 元三郎
  石川 横山  章
  宮崎 高橋 源治郎
  東京 津村 重舎
  静岡 中村 円一郎
  高知 宇田 友四郎
  鳥取 奥田 亀造
  東京 山崎 亀吉
  長野 小林  暢
  岡山 佐々木 志賀二
  長崎 沢山 精八郎
  新潟 斉藤 喜十郎
  奈良 北村 宗四郎
  徳島 三木 与吉郎
  福井 森 広三郎
  大阪 森 平兵衛
  鹿児島 奥田 栄之進
  千葉 菅沢 重雄
  北海道 板谷 宮吉
  兵庫 八馬 兼介
  神奈川 上郎 清助
  京都 風間 八左衛門
  山梨 名取 忠愛
  栃木 見目  清
     
公正会 伊藤 安吉 
  伊藤 文吉
  伊江 朝助 
  今枝 直規
  今園 国貞
  岩倉 道倶
  池田 長康
  稲田 昌植
  井上 清純
  西 紳六郎
  東郷  安
  千秋 季隆
  長  基連
  渡辺 修二
  神山 郡昭
  金子 有道
  高木 喜寛
  高崎 弓彦
  辻  太郎
  鍋島 直明
  中島 久万吉
  野田 亀吉
  大井 成元
  大寺 純蔵
  小原 セン吉
  小畑 大太郎
  沖  貞男
  黒田 長和
  矢吹 省三
  松岡 均平
  船越 光之丞
  福原 俊丸
  藤村 義朗
  郷 誠之助
  近藤 滋弥
  寺島 敏三
  有地 藤三郎
  赤松 範一
  足立  豊
  坂本 俊篤
  阪谷 芳郎 
  佐藤 達次郎
  木越 安網
  紀  俊秀
  北河原 公平
  北大路 実信
  北島 貴孝
  斯波 忠三郎
  千田 嘉平
  関  義寿
  周布 兼道
  上村 従義
  長松 篤ヒ
  三須 精一
  深尾 隆太郎
  松尾 義夫
  井田 磐楠
  中村 謙一
  肝付 兼英
  平野 長祥
  園田 武彦
  松村 義一
  渡辺  汀
  原田 熊男
  大森 佳一
  菊地 武夫
  徳川 喜翰
  京都 田中 一馬
     
交友倶楽部 勅男 山本 達雄
  犬塚 勝太郎
  石渡 敏一
  橋本 圭三郎
  和田 彦次郎
  川村 竹治
  高橋 琢也
  竹越 与三郎
  中村 純九郎
  室田 義文
  大山 綱昌
  岡 喜七郎
  山之内 一次
  安楽 兼道
  佐藤 三吉
  水上 長次郎
  水野 錬太郎
  南  弘
  内田 重成
  大川 平三郎
  鵜沢 総明
  小久保 喜七
  桑山 鉄男
  長岡 隆一郎
  中川 小十郎
  栃内 啓次郎
  古島 一雄
  山口 林 平四郎
  青森 鳴海 周次郎
  福岡 太田 清蔵
  芳賀 茂元
  神奈川 小塩 八郎右衛門
  熊本 坂田  貞
  岡山 山上 岩二
  茨城 瀬谷 勇三郎
  滋賀 吉田 羊治郎
  山形 佐藤 信古
  福島 根本 祐太郎
  愛知 下出 民義
  埼玉 岩田 三史
  鹿児島 相良 安之助
     
同和会 勅男 弊原 喜重郎
  浅田 徳則
  大島 健一
  嘉納 治五郎
  真野 文二
  石塚 英蔵
  内田 嘉吉
  武富 時敏
  勅男 若槻 礼次郎
  森  賢吾
  原 保太郎
  藤田 四郎
  上山 満之進
  仁尾 惟茂
  阪本 ソ之助
  倉知 鉄吉
  川崎 卓吉
  安立 綱之
  川上 親晴
  田所 美治
  岡田 文次
  永田 秀次郎
  徳富 猪一郎
  服部 金太郎
  木村 清四郎
  稲畑 勝太郎
  赤池  濃
  野村 徳七
  関  直彦
  有吉 忠一
  本山 彦一
  織田  万
  阿部 房次郎
  岩田 宙造
  松浦 鎮次郎
  門野 幾之進
  静岡 尾崎 元次郎
  広島 松本 勝太郎
  三重 小林 嘉平治
  岩手 瀬川 弥右衛門
  大阪 佐々木 八十八
     
火曜会 伊藤 博精
  一条 実孝
  徳川 家達
  徳川 圀順
  徳大寺 公弘
  鷹司 信輔
  九条 道実
  山県 有道
  近衛 文麿
  三条 公輝
  島津 忠重
  池田 仲博
  細川 護立
  徳川 頼貞
  徳川 義親
  大隈 信常
  鍋島 直映
  中山 輔親
  中御門 経恭
  野津 鎮助
  久邇 邦久
  山内 豊景
  山階 芳麿
  前田 利為
  松平 康昌
  久我 常通
  西郷 従徳
  嵯峨 公勝
  佐竹 義春
  佐々木 行忠
  木戸 幸一
  菊亭 公長
  四条 隆愛
  広幡 忠隆
     
同成会 伊沢 多喜男
  高田 早苗
  鍋島 桂次郎
  江木  翼
  三宅  秀
  菅原 通敬
  菊地 恭三
  青木 周三
  渡辺 千代三郎
  加藤 政之助
  片岡 直温
  藤沢 幾之輔
  丸山 鶴吉
  次田 大次郎
  愛知 磯貝  浩
  福島 橋本 万右衛門
  茨城 浜平 右衛門
  兵庫 田村 新吉
  富山 高広 次平
  秋田 土田 万助
  岐阜 長尾 元太郎
  沖縄 大城 兼義
  愛媛 八木 春樹
  埼玉 斉藤 善八
  熊本 沢田 喜彦
  大分 平田 吉胤
     
会派に属さない議員 雍仁 親王
  宜仁 親王
  載仁 親王
  邦芳 王
  博恭 王
  博義 王
  武彦 王
  恒憲 王
  朝融 王
  守正 王
  多嘉 王
  鳩彦 王
  稔彦 王
  恒徳 王
  春仁 王
  永久 王
  西園寺 公望
  毛利 元昭
  大山  柏
  浅野 長勲
  小松 輝久
  醍醐 忠重
  井上 三郎
  勅男 松井 慶四郎
  勅伯 内田 康哉
  福永 吉之助
  渡辺  暢
  樺山 資英
  松本 烝治
  二上 兵治
  新渡戸 稲造
  末延 道成
  藤田 謙一
  佐竹 三吾
  村山 龍平
  後藤 文夫
  各務 謙吉
  土方  寧
  岸  清一  
  上田 万年
  田中 館愛橘
  小野塚 喜平次
  藤沢 利喜太郎
  香川 大西 虎之助

なお、この議会の会期中に、会派に属していなかった岸清一が公正会に入り、また大城兼義が同成会から交友倶楽部に移っている。
ている。



貴族院の状況

  この議会の冒頭、施政方針演説の前に「陸海軍将士ニ対スル決議」が全会一致で可決されているように、貴族院も満州事変・上海事変を支持し、むしろより強硬な政策を要求しようという空気に支配されていた。従って政府から提出された満州事変費についての追加予算 案、事変費支弁のための公債発行に関する法律案、緊急勅令による事変費支出の事後承諾案などは、ほとんど論議もなく可決されている。事変関係以外では、金輸出再禁止の緊急勅令についての事後承諾案があったが、満州事変で赤字財政になっている状況のもとで、金本位制を維持するのが困難なことは明らかであり、異議なく可決された。

  政府提出の議案には賛成するという方針をとった野党派議員は、さきの桜田門事件(「第六〇回帝国議会貴族院解説」参照)、血盟団事件についての政府、とくに内相の責任を追及しようとした。政府側もこの点については、中橋徳五郎内相が病気で議会に出られそうにないという問題もあって対策に苦慮したが、結局、中橋内相があっさり辞表を提出し、3月16日犬養首相が内相を兼任して議会をのり切ることにした(「第六一回帝国議会衆議院解説」参照)。議会では、3月23日の本会議で大河内輝耕(研究会・子爵)が桜田門事件をとりあげ、24日には松村義一(公正会・勅選)が血盟団事件をめぐって帝都の治安維持問題の質問を行っているが、すでに中橋内相が辞任していることもあり、政治問題化するには至らなかった。

(古屋哲夫)


第六一回帝国議会 衆議院解説