岩波講座日本歴史20(第2次)近代7

1976年7月

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日 本 フ ァ シ ズ ム 論


 

古屋 哲夫


はじめに

1 ファシズム把握の歴史的枠組み
2 日本ファシズムの胎動
3 日本ファシズムの形成過程
4 日本ファシズムの政治構造
注釈


3 日本ファシズムの形成過程

1 「満蒙」侵略とクーデター計画
2 「非常時」下の政治勢力
3 国体明徴運動期の問題性



3 日本ファシズムの形成過程



1 「満蒙」侵略とクーデター計画

 張作霖爆殺事件は、日本の「満蒙」支配を一層困難にすることによって、「満蒙の危機」という意識を生み出すという効果をもたらした。爆殺事件による反日感情の高まりを背景とした張学良は日本側の干渉をふり切って、28年12月には国民政府中央の権威に服することを明らかにする。情勢は「満蒙」の実質的領土化をめざす幕僚「革新」派の意図とは反対の方向に動いていた。29年7月、田中内閣をついで成立した浜口内閣では幣原外交が復活する。そして、この内閣の国際協調・軍備縮小政策と対決する運動の中から、ファッショ的方向が明確に打出されてくるのであった。金解禁政策のもとでの恐慌状態の深刻化が右翼勢力の危機感をもりあげる条件となっていたことは言うまでもない。

 浜口内閣を迎えて、軍部・右翼の動きは活発となっていった。まず幕僚「革新」派は、張作霖爆殺後の28年秋から、鈴木貞一(陸士22期)を介して、より若い将校たちの結合をうながし、石原莞爾、根本博、土橋勇逸、武藤章ら陸士21期から25期に至る将校たちを組織する。そして29年5月には、さきの陸士16―7期を中心とした二葉会とこの新しいグループとの合同の会合が開かれ、この会合を一夕会と命名すると同時に「(1)陸軍の人事を刷新して、諸政策を強く進めること、(2)満州問題の解決に重点を置き、(3)荒木、真崎、林の三将軍を護り立てながら、正しい陸軍を立て直す」ことという決議がなされたという(35)。この三将軍が選ばれた根拠は明らかでないが、おそらく、反長州閥という共通性の上に、国本社の有力メンバーであり大川周明、安岡正篤らとも関係をもつ荒木に典型的にみられるような、右翼革新的なイメージを重ね合わせた点にあったであろう。

 ともあれ、陸軍のなかにこうした指揮命令系統にとらわれない横断的結合が生れたこと自体未曾有のことであったが、さらにそのうえ「満州問題の解決」という政治目標がかかげられたことは、重大な政治的意味をもつものであつた。石原莞爾の関東軍参謀への就任は、こうした幕僚「革新」派の動向を示すものであったとみられる(36)。また29年8月には、岡村寧次大佐が陸軍省補任課長に、翌30年8月には永田鉄山大佐が陸軍省軍事課長に、重藤千秋大佐は参謀本部支那課長に就任する。つまり、浜口内閣の時期には、幕僚「革新」派は、陸軍中央部のなかに確固とした地位を築いたと言える。宇垣陸相の再登場をもってしても、もはや再度の軍縮は不可能であった。そして、さらにこの時期にはこうした軍内部の動向に呼応する形で、さまざまな勢力が活発に動き始めていた。

 28年末から29年4月にかけて、上海・北京・奉天を往復した大川周明は、帰国後ただちに、これまでの行地社は研究団体であったとし、今や研究から宣伝へ、実行へと踏み出さねばならないと叫ぶ(37)。そして5月から大川を中心とした行地社幹部の全国遊説が開始されるとともに、機関誌『月刊日本』は組織活動の拡大を訴えるようになった。そしてその際運動の目標として、政党政治の打破・「満蒙」独立国家建設・亜細亜における英米勢力の駆逐とソヴィエトの進止防遏などが掲げられ、また組織的には、現役軍人への働きかけと同時に、在郷軍人を民間運動の主力とすべきだとする方針が打出された(38)。同誌上にはまた、国軍は内外両面に対する「破邪顕正の剣」であり、「天皇の大権を護りて維新日本建設の実力たる、これ非常の現代に処する国軍の真正使命である(39)」とする主張も現れる。さらには、青年将校運動のリーダーの一人大岸頼好(筆名神田徳造)が、「国家総動員の機構の完備に就ては…・階級闘争の問題を 解決すること」が「緊急第一の条件」であり「これがためには取り敢ず『財閥並に政党』を根底から掃蕩(40)」しなくてはならないと訴えていた。

 このような志向が右翼勢力全体に共通するものとなっていたことは、この時期から、彼等の間に戦線統一と政党化への動きがあらわれることからもうかがうことが出来る。29年11月には、信州国民党(同年5月結党)を基礎として、日本国民党が結成されているが、その幹部には、執行委員長寺田稲次郎(北系)、書記長八幡博堂、書記次長鈴木善一(いずれも黒龍会系)、統制委員長西田税(北系)、中央常任委員津田光造、長野朗(大川系、行地社)と右翼各派が顔を揃えていた。ついで翌30年2月には、津久井龍雄(高畠素之系)、天野辰夫(上杉慎吉系)を中心とした愛国勤労党が結成される。さらに31年3月になると、津久井龍雄、鈴木善一が軸となって全日本愛国者協同闘争協議会(日協)が組織されている。

 これらの諸政党は、いずれも大衆的基盤のない小集団にすぎなかったが、ここでファシズムの方向が明確に打出されたという点で重要であった。たとえば、日本国民党の綱領宣言政綱(41)をみると、まず国内的には「腐敗大資本閥と亡国的政治勢力」・「ソヴェット・ロシアを祖国となす共産主義者及びその亜流たる社会民主主義者等々の非日本的、非国家的一団」を、国際的には「侵略的白色人種閥勢力」と「世界各国の共産主義化と彼等の所謂『日本爆破』を計画実践しつつあるソヴェット・ロシア」を打倒の対象だと宣言する。そして、「一国一家主義の建国精神に則り」「非国家的諸制度組織の徹底的改革」を行い、「国家生存権の国際的確立と有色人種の世界的解放を期す」という理想を掲げるのである。そこには「君民同治」という言葉もみえるが、全体としてみれば愛国勤労党綱領(42)に言う「一君万民君民一家」のスローガンに帰着するとみてさしつかえないであろう。ここには、ベルサイユ=ワシントン体制の打破によるアジア支配・反ソ反共主義・反政党=議会主義・国体イデオロギーによる国民の画一的再把握など、ファシズムの基本的諸特徴を見出すことができる。そしてこれらの右翼政党の実勢力は小さかったとは言え、彼等は軍部「革新」派(青年将校をも含めて)、政党官僚内部の反共=国体明徴派、教化運動派などさまざまな勢力との結びつきを持ち、したがってこれらの諸勢力にイデオロギー的影響を与え、ファッショ的雰囲気をつくり出すことになるのであった。しかし、ここにあらわれたファシズムへの志向が、実際にどのような形で、どこまで実現されるかは、現状打破の手がかりがどのような形でつくられるかにかかっていた。

 国際協調、軍縮、政党内閣主義をかかげる浜口内閣の成立に対抗して、ファッショ的性格をあらわし始めたこれら諸勢力は、次のロンドン条約批准反対運動のなかで勢力を拡大し、一拳に急進化することになる。この問題をめぐって激しい攻防が展開される(43)のは、30年4月の条約調印から枢密院審査委員会が批准案承認を決定する9月にかけての間であるが、この時期はまた、金解禁(30年1月実施)の下で世界大恐慌の影響をまともに受け、はっきりと恐慌状態があらわれてきた時期でもあった。したがって右翼の側にも労働者農民が立ちあがることへの期待がみられ、また橘孝三郎や井上日召らの農本主義者が、ファッショ的勢力のなかに加わってくるのも、こうした状況の下においてであった。さらに、西田税の天剣党事件以来分散してしまっていた(44)青年将校グループが再結集してくるのも、この過程においてであった。

 ロンドン条約への反対は、直接には補助艦艇保有量について最初の目標を達成できずにアメリカに譲歩したという点に向けられていたが、問題が政治的に重大化したのは、この譲歩を海軍軍令部の意向を無視したものとし、そこから統帥権干犯という論点が引き出されてからであった。この間には、すでに朴烈怪写真事件、不戦条約など天皇大権にかかわる問題をとり上げて政局をゆさぶりつづけてきた北一輝が、大きな役割を演じていたと思われる(45)が、逆に言えば、統帥権問題によって政局が重大化する程に、反共=国体明徴的雰囲気が政界のなかに浸透していたということでもあった。野党政友会はこの問題を倒閣に利用しようとしていた。

 浜口内閣は結局、西園寺公望・牧野伸顕ら元老重臣層の支持のもとに、海軍の長老岡田啓介の活動に助けられながら、ロンドン条約批准を実現してゆくのであるが、この過程で反対勢力は、元老・重臣・政党・財閥を明確な敵とみ、この敵を倒さないならば日本は亡国に至るほかはないとして、危機意識を煽り立てながらファッショ的性格を強めてゆくのであった。金解禁という金融資本的政策の下で、積極的な恐慌対策を打出しえないでいる浜口内閣の姿は、財閥の手先というイメージで捉えるのに好都合であった。また恐慌の波及による満鉄経営の悪化は、張作霖爆殺事件以後の「満蒙の危機」感を一層昂進させる要因にもなっていた。統帥権問題は、こうした敵を打倒し、状況を打開するきっかけとなりうると考えられたのであった。

 たとえば青年将校運動では、藤井斉、大岸頼好がともに30年4月、それぞれ「憂国慨言」、「兵火」第1号を配布して運動を開始、5月の段階で陸海青年将校の連絡が出来たことを報じた(46)。さらに大岸は6・7月頃の配布と推定される「兵火」第2号で、「統帥権問題を捉へて亡国階級の掃蕩」を有利に展開せしむぺきだと主張しているが、そこに「農民労働者の爆発」と「満蒙問題の激化」を背景とし、統帥権問題を直接のきっかけとする軍事クーデターの構想を読みとることができる。

 同じ頃、幕僚層のなかからもクーデターへの志向が動き始めた。30年夏に発足する橋本欣五郎中佐(陸士23期、参謀本部ロシア班長)を中心とした桜会(47)がそれである。この会は中佐以下の将校を対象とし、「国家改造を以て終局の目的とし之がため要すれば武力を行使するも辞せず」との目的をかかげた。この会はいわばすでに述べてきたような二葉会→一夕会の幕僚派と隊付青年将校グループとの中間にあり、むしろ青年将校層を積極的に吸収しようとする姿勢を示した(48)

 陸軍のなかにこうしたクーデターヘの動きが広まったのは、「情況の是以上の進展は軍旗を(決定的威力を)伴はざるに於ては最早全く行詰るの外はない」(前掲「兵火」第2号という認識にもとづくものであった。つまり、ファシズムの方向を打出した民間右翼には政治体制を転換させるだけの組織的実力はなく、権力諸機構のなかの反共=国体明徴派もその機構を離れては独自の力を持ちえないという情況のなかでは、危機感が高まるとそれだけ軍部の行動カヘの期待が高まり、軍部自体も自ら主役としての意識をもつようになるという関係が生じているのであった。そして、浜口首相が狙撃され(30年11月)、後継者の思惑によって民政党内は動揺し、31年春の第59議会での政府与党の困難が予想される(事実、この議会は幣原失言問題で混乱する)といった状況があらわれると、クーデターの気運は陸軍最上層部にまで及んだ。そしてのちに三月事件と呼ばれるようになるクーデターが企てられることになる。

 三月事件(49)の内容は未遂に終ったため、なお明らかでない部分が多いが、その大筋は、大川周明一派と桜会の橋本欣五郎、重藤千秋らが企画し、二宮治重参謀次長、杉山元陸軍次官、小磯国昭陸軍省軍務局長、建川美次参謀本部第二部長ら、省部の中枢メンバーをまき込んでいったものと思われる。計画の内容は無産政党をもふくむ(50)大衆デモと軍隊とで議会を包囲し、内閣総辞職を強要し、宇垣内閣を実現するというものであったが(3月20日実行の予定)、最終段階で宇垣が立たず、計画は失敗に終った。しかし、この事件は秘密裡に葬られ、クーデターヘの動きは再び十月事件を生みだすことになる。

 三月事件は、陸軍の最高首脳部がファシズムの方向に動き出したことを示すものではあったが、クーデターをそのための「唯一の方法」として選んだことを意味するものではなかった。この事件の経過からはそうした緊張感や周到な計画性をうかがうことは出来ない。同じ頃、関東軍では石原莞爾を中心とする「満州」占領計画が着々と進められていた。石原日記(51)によれば、31年1月17日、2月7日、同14日の3回にわたり満蒙統治計画研究会が開かれ、3月6日の条には「懸案概ネ解決」と記されている。また彼はこの間1月27日には東京からの情報について「大川一派トノ提携固ヨリ可ナルモ尤モ慎重ナル研究ヲ要ス」とも書き記していた。

 この時期にいわばファッショ化の主役の地位に押しあげられてきた陸軍のなかでは、クーデターと「満州」侵略という二つの方向がからみ合いながらあらわれているのであり、それがどのような形で実現されるかが、日本ファシズムの性格を決定することになるはずであった。



2 「非常時」下の政治勢力

 三月事件のクーデターは未遂に終りはしたが、この事件は軍部が政府の意向如何にかかわらず、その望む所を実現するという強硬な態度を固めたことを示すものであった。翌4月、若槻内閣が成立するが、幣原外交と井上財政を堅持しようとする点では浜口内閣の延長であった(陸相は宇垣一成から南次郎となる)。これに対して陸軍側が実力を以て幣原の国際協調路線を爆破する決意を固めたことは、同じ4月、参謀本部で決定された昭和6年度「情勢判断(52)」によって明らかであった。この「判断」は「満蒙問題」を中心に構成されており、「満蒙」侵略を親日政権樹立・独立国建設・領土化という3段階にわけ、その第1段階すなわち張学良政権に代る傀儡政権を立て、中国政府の主権を名目だけのものにしてしまうための方策を実施すべき時期だというのであった。この判断は建川参謀本部第二部長の下で作成されたが、その際この作業に参加した橋本欣五郎は、「建川矛に意見をもとむ、矛はただちに満州に事変を惹起したるのち、政府において追従せざるにおいては軍をもって『クーデター』を決行すれば満州問題の遂行易々たるを論」じ、「判断」の結論部分に「政府において軍の意見にしたがわざる場合は断然たる処置にいずるの覚悟を要す(53)」との一文をつけ加えさせたという。

 この「情勢判断」が陸軍の正式決定となったことは、幕僚「革新」派によって軍全体が動かされ始めたことを示していると同時に、彼等の言うクーデターが「満蒙」侵略路線を確立するためのものとして位置づけられてきたことを物語るものであった。つまり、ここでのクーデターとは、北の『改造法案』に述べられているような国家社会の全面にわたる改造を行うためのものでもなく、「満蒙」侵略路線を国策の中心に捉えることだけをめざしたものと言ってもよい。 三月事件にしろ、つづいて企図された十月事件にしろ、軍人内閣を実現するというだけで何ら具体的な改革案が用意されていないのはこのことを裏書きするものであったと考えられる。そしてそのことはまた、料亭で飲酒して大言壮語する行動様式と合せて、青年将校からは権力欲のあらわれと反発されることにもなるのであった。

 しかし、31年6月中村大尉事件、7月万宝山事件があいついでおこり、国民の関心が強硬政策の方向に煽り立てられるという状況の下では、青年将校や右翼グループも「満蒙」侵略=クーデター路線に結集して行った。全日本愛国者協同闘争協議会の機関紙『興民新聞』第6号(31・8・1)が「満州問題の激化を国内改造の動力に導け!!」とのスローガンをかかげたのも、こうした動きを示すものであった。同時にこの頃から青年将校たちは「昭和維新ノ振輿カハ吾等中少尉ニアリ(54)」との意識をもちはじめており、8月26日には「郷詩会」の名目のもとに、陸海軍青年将校4・50名と西田税、井上日召、橘孝三郎らが会合し、このグループは全体として十月事件に参加してゆくことになる。十月事件は9月18日に開始された「満州」侵略に呼応することをめざしたクーデター計画であり、建川美次、橋本欣五郎らが中心になり、閣議を襲撃して首相以下の閣僚を暗殺、荒木貞夫を首相とする内閣をつくろうとしたものであった。この計画は金衛連帯よりの兵力動員など二・二六事件の先駆をなすものであったが、10月17日橋本らが検束され失敗に終わっている。

 十月事件は幕僚「革新」派のクーデター計画としては最後のものとなるが、このことは彼等が「満蒙」侵略路線の確立をもって満足し、以後はこの路線を軸として総動員体制を漸進的に確立する方向に転じたことを意味していた。事態はまさしく石原莞爾の次のような構想の方向に動いていたと言える。石原は31年5月の「満蒙問題私見」のなかで次のように書いていた。「我国ノ現状ハ戦争二当り挙国一致ヲ望ミ難キヲ憂慮セシムルニ十分ナリ、為ニ先ツ国内ノ改造ヲ第一トスルハー見極メテ合理的ナルカ如キモ所謂内部改造亦挙国一致之ヲ行フコト至難ニシテ政治的安定ハ相当年月ヲ要スル恐尠カラス……若シ戦争計画確立シ資本家ヲシテ我勝利ヲ信セシメ得ル時ハ現在政権ヲ駆リ積極的方針ヲ執ラシムルコト決シテ不可能ニアラス、殊二戦争初期ニ於ケル軍事的成功ハ民心ヲ沸騰団結セシムルコトハ歴史ノ示ス所ナリ……我国情ハ寧ロ速二国家ヲ駆リテ対外発展二突進セシメ途中状況ニヨリ国内ノ改造ヲ断行スルヲ適当トス(55)」と。つまり彼は戦勝による民心の沸騰こそが情勢転換の手段としてクーデターよりも確実だと判断したのであった。

 石原の判断は的確であった。新聞は戦勝のニュースを求めて競争し(56)、戦場の写真に大きな紙面が割かれたし、新聞社の主催するニュース映画と講演の会が全国的に展開されていった。発足したばかりのラジオをふくめてマス・メディアの民衆動員力の大きさが実証されたとも言える状況であった。在郷軍人会、青年団などがこれに呼応して献金・慰問の運動を起し、上海事変での肉弾三勇士は歌に芝居に爆発的ブームをまきおこした。既成政党のなかでは、社会政策や選挙権拡張などを最も強く要求していた民政党安達(謙蔵)派が政友会久原(房之助)派と組んで親軍的な協力内閣運動に転じ、無産政党陣営では社会民衆党がいちはやく「満州事変」支持の態度を明らかにした。全国労農大衆党の主流派は、「帝国主義戦争反対」の立場を守ろうとしたが党内は戦争支持派もあらわれて混乱して行った。幣原外交路線は一挙に崩壊し、31年12月に成立した犬養政友会内閣は金解禁政策を放棄し、金本位制を停止して軍需インフレ政策への道を開いた。またこの内閣で荒木貞夫が陸相の座についたことは、いわゆる「革新」派が陸軍全体を掌握したことを示していた。陸軍部内は青年将校まで含めて荒木陸相の手腕に期待した。

 31年9月18日の柳条溝事件から32年3月1日の「満州国建国宣言」に至るまで半年の間に、政治の方向は大きく転回させられていった。まさに軍事的成功が「満蒙」侵略路線を確立するクーデターの役割を果したのであった。しかし、これによって一挙にファッショ体制ができあがったわけではなかった。荒木に期待をかける陸軍側の態度を不満とする海軍青年将校と井上日召一派は、血盟団事件(32年2・3月)から五・一五事件へと蹶起する。そしてさらに33年7月にはこの流れをついで神兵隊事件が起っている。 五・一五事件は護憲三派内閣以来の政党内閣時代に終止符を打った点で、たしかにファッショ化過程の一つの画期をつくり出したと言える。つまり、この事件を契機として、政党の力が低下するのに反比例して、新官僚と呼ばれる軍部に同調的な官僚グループの政治的力が増大してゆくという新しい事態が展開し始めるのであった。いわば政党は政策決定の主導権を軍部に奪われ、官僚勢力の非政党的組織運動によってその基盤を奪われるという形で没落してゆくことになるのであった。そして「非常時」の呼号が、国民にこうした変化をうけいれさせてゆく心理的基盤を用意すものであったことは言うまでもない。

 「非常時」という言葉は、五・一五事件直後の第六二臨時議会の施政方針演説で、斎藤首相が「現下の時局は、世人がこれを称するに『非常時』の形容詞をもってしまするほど重大であると考へます」と述べて以来、一つの流行語となっているが、その内容は大恐慌―とくに農村恐慌―によるさまざまの混乱と、国際的孤立という内外からくる緊張感をあらわそうとしたものであった。33年3月には斎藤内閣は国際連盟脱退にふみ切り、この頃から海軍軍縮条約の期限の切れる「一九三五・六年の危機」説が喧伝され始める。こうした事態は「満州」占領を堅持することによって必然的に起こってくるものであり、陸軍は「満州」支配の全権を実質的に掌握することによって国策の基本線を決定する勢力にのしあがったのであった。「満州」における関東軍を中心とした独裁政治と統制経済とは、「日満一体化」のスローガンを媒介として日本のファッショ化を促進する役割を果したと言える。32年8月27日の閣議で決定された「時局処理方針」は「帝国独自ノ立場ニ於テ満蒙経略ノ実行二遇進スルヲ以テ……帝国外交ノ枢軸タラシムルコト」を決定したものであったが、そのことによって国際関係が悪化し「勢ノ赴ク所、聯盟側ヨリ又ハ列国共同シテ帝国ニ対シ重大ナル現実ノ圧迫ヲ加フル力如キ事態」の発生を想定しなければならず、したがって「政府ハ斯ノ如キ場合ニ備フル為早キ二及ンテ軍備ノ充実、非常時経済及国家総動員二付テモ充分二考慮ヲ加へ断乎タル決意ト周到ナル用意ヲ以テ今後ノ事態ヲ処理(57)」しなければならないということになるのであった。

 こうした軍の要求する総動員体制をつくりあげるためには、恐慌状態を克服しながら、同時に国民を組織化してゆくことが必要であった。32年度追加予算から急増する軍事予算は主として装備の改善に投入され、それをテコとして軍需関連産業から景気は回復に向いつつあったが、農業部門ではまだ深刻な恐慌状態がつづいており、組織化政策は経済更生運動として農村から着手されて行った。そしてこの運動を指導したのが、新官僚グループを代表する形で農相に就任した後藤文夫であった。内務官僚出身(1922年警保局長)の後藤は青年団運動のリーダーの一人であつたが、32年1月結成された国維会(58)(安岡正篇の金鶏学院を基礎とした高級官僚―とくに内務―グループ)の理事にもなっており、こうした政党から離れて形成されてきた官僚勢力の中心人物であった。

 農村経済更生運動の特徴は、町村レベルに有力者を網羅した委員会を設置して更生計画を樹立させ、その統制下に農民を部落単位に組織し、日常生活の相互規制によって、負債整理と農家経済の再建をはかろうとした点にあった。つまりそこでは部落単位の組織化が運動の眼目とされているのであり、したがって運動の支柱として産業組合の拡大が企てられる場合にも、部落農事実行組合を産業組合の末端に位置づけるという新しい政策が打出されたのであった。言いかえれば経済更生運動は、「隣保共助」の関係を基礎にし、町村役場・学校・産業組合・農会を四本柱としたうえで、さらにその上に青年団・在郷軍人会などの「たが」をはめる形で構想されたのであった。たとえば、32年11月に決定された「農山漁村経済更生計画樹立方針」はこの点を次のように述べていた。「経済更生計画の実行に当りては、農山漁家は協力一致し、自奮更生、隣保共助の精神に基き、其の効果の徹底を期せざるべからず、之が為には、学校及青年団、婦人会、教化団体、在郷軍人会等の教育教化の機関は能く産業経済の各種機関と連絡し、精神作興の任に当たるべきものとす(59)」と。つまりここでは、天皇崇拝⇔祖先崇拝⇔私的欲望の抑制⇔消費生活の簡素化という循環構造をもった生活意識や行動様式をつくり出すことがめざされていると言ってよい。この意識構造を更に強化し、「滅私奉公」の方向に動員する点に日本ファシズムの特徴があるのであり、その意味で農村更生運動は、官僚層がファッショ的組織化の方向に動き出したことを示すものとして注目しなければならないであろう。

 もちろん、農村更生運動は直接にファッショ的支配をめざしたものではなかったし、官僚層が軍の指令によって動いていたわけでもなかった。軍部と官僚との関係はまだ、「満州国育成」→総動員体制の確立という課題をめぐる大まかな対応関係にすぎなかった。それは一面から言えば政治的主導権を握ったかにみえた陸軍も、実は「満州」の軍事支配から生ずる諸結果を他の政治勢力に押しつけることができたにとどまり、総動員体制を確立してゆくための具体的な政策を用意していたわけではなかった。全陸軍の輿望を担って登場した荒木陸相も、「皇道精神」のかけ声のみ高く政策立案の力に欠けることは、33年10月の五相会議、11月の内政会議で露呈されることになり、この頃から荒木の人気は急速に後退していった。こうした政策的空白を埋めることを意図して登場するのが「新官僚」であり、陸軍部内で言えば統制派と呼ばれた勢力であった。

 前述の国維会についで、33年10月には、のちに昭和研究会に発展してゆく後藤隆之助を中心とした国策研究会が発足しているし、また同じ頃には、同年春から陸軍の池田純久少佐と矢次一夫の間ではじまっていた国策樹立の話し合いから、矢次を中心とした国策研究会が準備されつつあった。これらの研究会(60)はいずれも官僚と学者を中心としたものであり、後者の場合には、34年3月永田鉄山の陸軍省軍務局長就任によって陸軍の主流となる、いわゆる統制派の形成とも関連していたとみられる。ともあれ、こうした国策樹立への動きが競合してあらわれると共に、右翼勢力による自由主義・個人主義への攻撃が激化するという形でファッショ化が進展してゆくことになるのであった。


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3 国体明徴運動期の問題性

 「満州事変」前にすでにファッショ的方向を明らかにしていた民間右翼勢力は、「事変」後には無産運動よりの転向派をも加えて、日本主義・国家社会主義の政治勢力をつくりあげていった。31年から32年にかけて、大日本生産党(黒龍会系)、神武会(大川系)、日本国家社会党(旧社民・赤松克麿ら)、新日本国民同盟(旧社民・下中弥三郎ら)、新日本建設同盟(旧労農大衆・松谷与二郎ら)などが結成され、また協力内閣運動を提唱して失敗した安達謙蔵・中野正剛らも民政党を脱党し国民同盟を結成(32年9月)してこの陣営に加わって行った。これらの諸団体はそれぞれに「革新」政策を発表しているが、それは大まかにみれば、統制経済の実現を軸とするものであり、「満州」の軍事支配を基礎とした日満経済ブロック建設の方向に参画することをねらっていたと言える。

 しかし、「満州事変」後の状況においても、これらの勢力は政策立案過程に具体的に介入するだけの力を持ちえず、いわゆる重要国策の決定権は軍部・官僚に握られていった。したがってこれらの勢力の活動は自由主義・個人主義的傾向に攻撃を加え、ファッショ的雰囲気をもりあげる役割を担うという方向に展開されてゆくことになった。彼等の陣営において、次第に資本主義批判が弱まり、日本主義の主張が強まってくるのはこうした彼等の役割に見合うものであったということができる。たとえば、33年に入ると赤松克麿らが資本主義でも社会主義でもない日本主義の立場に立つのだと主張し、国家社会党から分裂していったのもこのような動向を示すものであった。

 しかし日本主義とはどのような体制をめざしているのかという点になるとはなはだあいまいであった。当時の官憲側の調査も「右翼革新団体の最高指導精神が『日本主義』である事は明白にして疑なき所であるが、然らば『日本主義とは何ぞや』の問題となると、諸家各々その立場々々に於て各人各様の説をなし未だ一定した日本主義の定義を見出し難い(61)」と認めざるを得ない有様であった。そしてこのことは、日本主義が何か具体的政策路線を生み出すような原理を意味するものではなく、津久井龍雄が次のように述べているように、「日本国家」と離れた主体性の存在を否定、解体し、国民を「滅私奉公」においたててゆく「攻撃」にほかならないことを示すものであった。津久井は言う。「日本主義は、抽象的にあるひは時空を超越して、国家一般を対象とせずして、日本国家を独自の統一的生命体として把握する。日本国家が三千年の間に亙って綴り成し、織り成して来た所の歴史的伝統の中に、国家としての生命、民族としての具体性を酌み取る、そして、その生命、理想の発揚を以て自己の全使命と感ずる(62)。」それはすでにみたような、大川周明の「日本人の道」の延長上にあるものと言ってよいであろう。

 こうした日本主義の具体的姿は国体擁護連合会の活動にみることができる。同連合会は治安維持法違反者を出した司法部の糾弾を目的として、32年12月、大日本生産党、原理日本社、神武会、建国会など30余団体をあつめて結成されたものであるが、35年には80団体をこえるに至っている。その活動は共産主義排撃から出発しているが、33年には佐野学、鍋山貞親の転向を機として共産主義者の大量転向現象がおこるという状況のなかで、その鋒先は自由主義・個人主義的傾向に向けられるようになって行った。33年には、京大滝川教授の刑法理論、商相中島久万吉の「足利尊氏論」に集中攻撃があびせられているが、この頃から原理日本社の蓑田胸喜は、美濃部達吉の天皇機関説に攻撃の的をしぼりつつあった。そしてこの機関説問題を軸として右翼運動全体が結集して行くことになる。35年1月下旬、国体擁護連合会が蓑田が起草した「美濃部達吉博士、末弘厳太郎博士の国憲紊乱思想に就いて」と題するパンフレットを配布すると「其の影響効果は蓑田胸喜自身も予想外とする程大なるものがあった(63)」という。35年2月18日、貴族院本会議で菊池武夫議員が機関説攻撃演説を行うと、同25日の本会議では勅選議員の地位にあった美濃部自身が一身上の弁明の形でこれに反論、この論戦を機とし、在郷軍人組織が動き出すことによって、機関説排撃を叫ぶ国体明徴運動が激しい勢いでもりあがってゆくことになる。そしてこの運動のリーダーたちは、問題をたんなる憲法学説の範囲をこえる反自由主義・反個人主義の運動と捉えており、たとえば今泉定助は「美濃部氏の根本思想は第一が独立なる個人が単位であって、その個人が相互に精神的又は物質的の交渉を有する生活を社会生活なりと為す個人主義思想、第二は人間の意志は本来無制限に自由なもので法に依って規律せらるると為す自由主義思想」であり、この「個人主義と自由主義とが一切の誤謬錯覚の根源(64)」であると主張していたのである。

 この国体明徴運動はたしかに国体イデオロギーを支配的地位に押しあげ、以後のファッショ化過程の基盤を用意したものであった。岡田内閣は二度にわたる国体明徴声明(35年8月3日および10月15日)を発して、天皇機関説が国体に反することを認め、政党はこの運動に乗ることで、ファッショ的潮流のなかでの自らの地位を確保しようとした。自由主義的・個人主義的言論は急速に影をひそめて行った。同時にまたこの運動は、すでに前節でみたような軍部・官僚の連携を一層強化し、その政治的力を高めるという結果をもたらした。岡田内閣を国体明徴声明の方向に動かして行ったのは軍部であったし、第二次声明発表を機として在郷軍人組織をおさえ、運動全体を鎮静させていったのも軍部であった。

 すでにこの前年34年10月、陸軍省新聞班は「国防の本義と其強化の提唱」を発表、国策形成の側面においても、軍が主導権をとろうとする姿勢をあらわにしていた。このパンフレットは、「政略、思想、武力、経済の諸部門」にわたる「国防要素をば国防目的の為に組織運営する政策(65)」としての「国防国策」を確立し強化することを提唱したものであり、見方をかえて言えば、すでにはじまっていた官僚勢力との提携の方向を示したものとも言えた。そして国体明徴運動が展開されているさなかの35年5月、国策の調査立案のための機関として内閣調査局が発足する。軍部と新官僚とを中心に組織されたこの部局は、37年10月には資源局と合して企画院となり、総動員計画の立案機関に成長してゆくものであった。

 さらに斎藤内閣の農相から岡田内閣の内相に転じていた後藤文夫は、この調査局発足に呼応して同じ5月、「選挙粛正委員会令」を制定、選挙粛正運動にのりだしてきた。選挙の腐敗を如何にして防止するかという問題は、28年の第1回普選の実施以来たえず取り上げられてきた問題であり、浜口内閣で選挙革正審議会が設置されてからは、選挙法改正問題としてくり返し論議されてきたところであったが、今回の運動はまさに国体明徴運動と同一の性格を有する点で、これまでの動きとは異っていた。そこでは、「選挙報国」といったスローガンが出され、実際の運動のなかでは、選挙民の神社における宣誓式という形式の普及がはかられているように、選挙を国民の権利としてではなしに国家に対する義務の履行として意識させ、挙国一致を実現する国家的行事たらしめようとする方向が指向されていたのであった。そしてそのために府県および市町村レベルに運動の推進のための選挙粛正委員会をおき、末端では部落懇談会に全選挙民を組織するというやり方がとられた。この部落を末端とする組織化の構想は、すでに農村更生運動の場合にあらわれていたものであるが、この場合には、より画一的な組織化と全体主義的な意識の注入がめざされているのであり、ファッショ的方向はより明確となっていたと言える。この運動はのちの42年翼賛選挙で採用された「出たい人より出したい人へ」という標語が示しているように、選挙を政策の選択ではなしに、国家に奉仕する適任者の推薦として性格づけてゆくことになるのであり、そのことは政党が政策決定過程から排除されてゆくことと表裏の関係をなすものであった。

 こうみてくると国体明徴運動の時期には、日本ファシズムの姿がほぼ明確になりつつあったと言うことができる。すなわち、まず政治の基本方向の決定は軍部がリードする形で行われ、そこでは軍事的観点が基軸とされる。次にそのための調査・計画・施策等は官僚が分担する。さらにこうした、いわゆる「国防国家」化への抵抗を威圧し屈服させることによって国民全体を同調的雰囲気におい込んでゆくのが民間右翼の役割りとなった。そして国民は相互規制、相互監視の可能な小集団に組織されるのであるが、こうした組織化を推進し、そこに「報国」意識を流し込む機能が在郷軍人会・青年団、さらにはこの時期から組織化が進められてくる壮年団などに期待されるのであった。また国体明徴運動の過程においてすでに、政党はこうした国民の同調性を代表し、議会は挙国一致を確認することによって国民の同調性を安定させ強化するという、ファッショ体制への政党と議会のくみこまれ方があらわになっていた。

 もちろん、この時期にこうした形でファッショ体制が確立したというのではない。たとえば、国民の隣保的組織化はいまだ農村で実現し始めたばかりであり、都市では防護団の結成や町会整備の問題がとりあげられ、職場組織に関してはのちに産報運動の推進者となる石川島自彊組合などの日本主義運動が拡がってはいたが、こうした分野での画一的組織化が本格的に着手されたわけではなかった。しかし、国体明徴運動が勝利したあとでは、上述したような諸動向を阻止しようとする勢力はみあたらなくなっており、その意味でファッショ体制の基礎がつくり出されたと言うことができよう。

 そこでの状況は、「満州」支配の確保=アジアの盟主=総動員体制の構築という課題と、この課題の遂行における軍部の主導性を承認した諸勢力が、既成の政治経済的諸機構を根本的に否定することなく、ファッショ化におけるそれぞれに異る役割や機能を分担しながら結合し連動している、という形に図式化することができる。しかし、そこにはまだファッショ化の統一指導部というべきものは存在せず、したがってまた、ファッショ化がどこまで徹底して推進されるのかも明らかではなかった。

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