岩波講座日本歴史20(第2次)近代7

1976年7月

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日 本 フ ァ シ ズ ム 論


 

古屋 哲夫


はじめに

1 ファシズム把握の歴史的枠組み
2 日本ファシズムの胎動
3 日本ファシズムの形成過程
4 日本ファシズムの政治構造
注釈


注釈

(1)

斉藤孝「ファシズムと大衆」(『現代の理論』第111号、1973年4月)。

(2)

共産主義を思想的外患とする見方についてはたとえば、原嘉道法相は、緊急勅令による治安維持法改正の理由を説明したなかで、共産党の組織は「思想的内乱罪とも謂ふべきもの」と断じたのにつづいて「而して此種の結社団体は国際的革命を目的と致しまする国外団体と気脈を通じまして、其頤使に甘んじ、金甌無欠の我が国体の崩壊を策画するものであります。斯る団体の行動は実に恐るべき、又悪むべき売国奴的のものでありまして、其危険なること刑法所定の外患罪に譲る所はありませぬ、是は即ち思想的外患罪と謂ふても宜しいのであります」と述べている。(1929年2月2日衆議院本会議、『現代史資料45、治安維持法』みすず書房、1973年、147頁)。

(3)

『支那革命外史』における北の思想については、古屋哲夫「北一輝論」(2)・(3)(『人文学報』38・39号、1974・1975年)参照。また「亜細亜モンロー主義」、「亜細亜の盟主」などの言葉が出てくる箇所としては、たとえば『北一輝著作集』第2巻、みすず書房、1959年、95、111頁、参照。

(4) 橋川文三編『大川周明集』、筑摩書房、1975年、12頁。
(5) 『北一輝著作集』第2巻(前掲)226頁。
(6)

猶存社と北との関係および猶存社の活動については、満川亀太郎「新愛国運動の諸士」(『解放』1923年5月号)および『三国干渉以後』平凡社、1935年、参照。

(7) 北における天皇制の捉え方の変化については、古屋哲夫「北一輝論」(1)・(2)(『人文学報』36・38号、1973・1974年)参照。
(8) 『日本文明史』1921年10月、大鐙閣、8―9頁。
(9) 『日本及日本人の道』社会教育研究所、1925年、19頁。
(10) 「維新日本の建設」(『月刊日本』第22号、1927年1月)。
(11) 「国民的理想の確立」(『月刊日本』第23号、1927年2月)。
(12) 「死ノ叫声」(『現代史資料4、国家主義運動(一)』みすず書房、1963年、所収)。
(13)

北と小川の関係については、『小川平吉関係文書1』みすず書房、1972年、608・618頁、および伊藤隆『昭和初期政治史研究』東京大学出版会、1969年、第9章など参照。

(14)

主なものとしては、1918年に大正赤心団、皇道義会、19年には関東国粋会、大日本国粋会、縦横倶楽部、21年には大和民労会、22年には赤化防止団などが結成されている。木下半治『日本国家主義運動史I』福村出版、1971年(1939年刊行本の復刻版)参照。

(15) 『小川平吉関係文書1』(前掲)618頁。
(16) これらのうち、国本社、青天会については、伊藤隆、前掲書、参照。
(17) 『小川平吉関係文書1』(前掲)618頁、参照。
(18) 岡村寧次「憶大川君」『新勢力』第3巻12号(大川周明特集号)、1958年11月。
(19)

『月刊日本』創刊号・第2号、1925年4月・5月。なお同前第2号の記事は、大学寮への改組については、「麹町区代官町旧本丸の一角を護国の聖域として大正十年以来有為なる青年を薫育し来つた社会教育研究所は、新学年より其の教育部を独立して大学寮と改称し」たと述ぺている。また上述の卒業式の来賓としては他に宮内大臣牧野伸顕が出席しており、社会教育研究所、大学寮が宮内省の支持を得ていたことを示している。しかし、この後間もなく、宮内省は、図書寮建設のため立ちのきを要求、25年中には大学寮は消滅している。(「大川周明訊問調書」『現代史資料5、国家主義運動(二)』686頁、参照)。

(20)

大川はさらに、満鉄社員としての活動から「別懇の間柄」となった軍人として、小磯国昭、岡村寧次、板垣征四郎、土肥原賢二、多田駿、河本大作、佐々木到一、重藤千秋などをあげている。(前掲『国家主義運動(二)』691頁)。

(21) 陸軍士官学校時代の西田については、芦沢紀之『二・二六事件の原点』(原書房、1974年)が詳しい。
(22)

大川・満川・鹿子木らの猶存社同人は、学生間にそのイデオロギーを浸透させることを試みており、1921年以後、日の会(21年、東大)、潮の会(21年、早大)、魂の会(22年、拓大)、東光会(23年、熊本五高)、双刃会(25年、立命大)などが組織されているが、この活動のなかでも、満川は『改造法案』普及に最も熱心であったと思われる。彼が指導した潮の会では成立以来「毎週一回北一輝氏の『日本改造法案大綱』を研究の中心として会合を開いた」といわれる(『月刊日本』創刊号)。

(23) 菅波三郎「昭和風雲私記」35(『南日本新聞』1964年10月2日号)。
(24)

上京した西田は大学寮寮監となり国防学および馬術師範を教えることが予定されていた(『月刊日本』第2号)。同時に彼は『月刊日本』第4号より第9号まで(25年7月―12月号)の編集に従事しているが、宮内省怪文書事件で牧野伸顕を擁護する大川周明と対立、行地社を去っていった。

(25) 末松太平『私の昭和史』みすず書房、1963年、24頁。
(26) 「天剣党規約」(前掲『国家主義運動(一)』)36頁。
(27) 稲葉正夫「永田鉄山と二葉会・一夕会」(永田鉄山刊行会編『秘録永田鉄山』芙蓉書房、1972年、434頁)。
(28) 同前、435頁。
(29) 『宇垣一成日記(1)』みすず書房、1968年、464頁、大正14年5月1日の条。
(30) 古屋哲夫「民衆動員政策の形成と展開」(『季刊現代史』第6号、現代史の会、1975年)参照。
(31) アメリカ議会図書館作成マイクロ・フィルム「陸海軍其他各省文書」R104、所収。
(32) 高橋正衛『昭和の軍閥』中央公論社、1969年、54頁、および『秘録永田鉄山』(前掲)435頁。
(33) 張作霖政権の問題については、野村浩一「満州事変直前の東三省問題」(日本国際政治学会編『日本外交史研究―日中関係の展開―』有斐閣、1961年、所収)参照。
(34)

金内良輔「北・大川・満川三先生」(『新勢力』前掲、大川周明特集号)、および都築七郎『右翼の歴史』翼書院、1969年、216―218頁。なお前者は「大正末年」後者は「大正15年12月24日」のこととし、出席者も後者では永田が意見を述べたことになっているが、前者は永田にふれていないなどの相異があるが、今のところ他に確認する資料はない。

(35) 『秘録永田鉄山』(前掲)438―440頁、高橋正衛、前掲書、68―69頁。
(36)

木戸日記研究会・日本近代史料研究会共編『鈴木貞一氏談話速記録(上)』40・266頁、1971年8月、および秦郁彦『軍ファシズム運動史』河出書房新社、1962年、34頁、参照。

(37) 大川周明「吾等の志業」(『月刊日本』第51号、1926年6月)。
(38)

「行地軍団と日本主義運動乃至無産派運動」(同前、第48号、1929年3月)、「誌友拡張の指針(一)」(同前、56号、1929年11月)による。なお、古屋哲夫「民衆動員政策の形成と展開」(前掲)参照。

(39) 横山泰「現代に処する国軍の使命」(『月刊日本』60号、1930年3月)。
(40)

神田徳造「在郷軍人諸君に告ぐ」(『月刊日本』61号、1930年4月)。なお、大岸は29年から30年にかけて、この雑誌の読者獲得につとめると共に、神田徳造名でこれ以外に「全日本的輪中意識」(54号、1929・9)、「我辺境問題の基調」(55号、29・10)、「良兵良民教育の徹底」(60号、30・3)、合せて4本の論稿をよせている。なお大岸のいう「輪中意識」については、松沢哲成・鈴木正節『二・二六と青年将校』三一書房、1974年、参照。

(41) 『月刊日本』58号、30年1月号。
(42) 石川龍星『日本愛国運動総覧』東京書房、1932年8月、163頁。
(43) ロンドン条約をめぐる諸勢力の動向については、伊藤隆、前掲書、参照。
(44)

西田の天剣党趣意書(27年7月)は、彼個人のパンフレットであり、そこにはなんらの党的結合も存在しなかったにも拘らず、独断で同志名簿を付したことによって強い反発を買い、青年将校たちは一時西田のもとから離れていった。たとえば末松太平は次のように書いている。「私は激越な文調や内容はともかくとして、『全国の同志左の如し』と名簿をつけて全国の連隊に配った西田税の軽薄さに失望した。たとえその同志というのが、大した意味のないものにしても、隠密であるぺき連判状まがいのものをガリ版ずりにしてくばる馬鹿があってよいものではない」(末松太平、前掲書、25頁)。

(45)

北一輝の実弟北ヤ吉は、「浜口内閣の時のロンドン会議反対に一輝が奔走して、有馬大将、末次大将等をオダて、遂に統帥権千犯といふ政府に取っては不愉快な文句を発明した。日頃懇意な永井柳太郎が兄の所を訪ね、『北君、統帥権千犯などと軍人を煽てることはいはずに呉れ』と懇願すると、兄は即座に答へて『うん、トウスイケンなどといふ支那料理屋の名前はやめよう』と答へた」と回想している。(「小川平吉翁の回顧」『日本及日本人』第2巻3号、1951年3月)また海軍青年将校のリーダー藤井斉は「北―小笠原―東郷―侍従長、内閣打倒(勿論軍事参議官会議、枢府)不戦条約の場合と同様也」と報じている。(前掲『現代史資料4、国家主義運動(一)』52頁)。なお北は28年頃にはすでに平沼枢密院副議長とは「兄一輝は平沼と親交あり、平沼の謹直な点を高く買っていた」(北ヤ吉、同前)という関係にあった。

(46) 『現代史資料4、国家主義運動(一)』(前掲)53頁および『同23、国家主義運動(三)』みすず書房、1974年、258頁、参照。
(47) 桜会の名称がきまるのは2、3回の会合を重ねたあとであったと言う。高橋正衛、前掲書、74―77頁、参照。
(48) 当時、橋本の下でロシア班員であった小原重厚大尉(32期)が青年将校の桜会加入を勧誘していたという。(末松太平、前掲書、39頁)。
(49) 三月事件については、高橋正衛、前掲書、矢次一夫『昭和動乱私史』上巻、経済往来社、1971年など参照。
(50) 無産党側でこれに応じたのは赤松克麿であるが、彼と軍部との関係については矢次一夫、前掲書、参照。
(51) 角田順編『石原莞爾資料―国防論策編―』原書房、1971年、所収。
(52)

この「昭和六年四月策定ノ参謀本部情勢判断」は現在のところ部分的にしかわかっていない(『現代史資料7、満州事変』みすず書房、1964年、161頁、参照)。

(53) 中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房、1964年、85頁。
(54)

31年7、8月頃の陸士35期生(大岸の同期にあたる)決議、「青年将校を中心としたる国家改造運動の概況」(『西園寺公と政局』別巻、岩波書店、1956年、356頁)。

(55) 『石原莞爾資料』(前掲)78頁。
(56) 江口圭一『日本帝国主義史論』青木書店、1975年、第6章、参照。
(57) 外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻、国際連合協会、1950年(原書房、1966年、復刻)206頁。
(58) 国維会については、伊藤隆「『挙国一致』内閣期の政界再編成問題(一)」(『社会科学研究』第24巻1号、1972年)参照。
(59) 産業組合史刊行会編『産業組合発達史』第2巻、327頁。
(60)

後藤、矢次の両研究会については、伊藤隆「『挙国一致』内閣期の政界再編成問題(二)」(『社会科学研究』第25巻4号、1974年)、昭和同人会編『昭和研究会』経済往来社、1968年、矢次一夫、前掲書など参照。

(61) 内務省警保局編『国家主義運動の概要』426頁、1933年(原書房、1974年復刻)。
(62) 同前、435頁より重引。
(63) 「所謂『天皇機関説』を契機とする国体明徴運動」(前掲『国家主義運動(一)』)358頁。
(64)

同前、378頁。

(65) 『国家主義運動(二)』(前掲)277頁。
(66)

この時期における青年将校の意識を代表するものとしては、「現下青年将校の行くべき道」、「思想善導法案」(いずれも33年、前掲『国家主義運動(一)』所収)などをあげることができる。

(67) 「粛軍に関する意見書」(同前、617頁)。
(68) 竹山護夫「陸軍青年将校運動の展開と挫折(二)」(『史学雑誌』第78巻7号、1969年7月)による。
(69) 秦郁彦、前掲書、付録資料、および松沢哲成・鈴木正節、前掲書、115―119頁。
(70)

荒木・真崎攻撃の怪文書は「皇道維新の雄叫び」、「諫抗議録」(前掲『国家主義運動(一)』所収)のなかにもみられるが、北を直接に攻撃したものは34年1月中旬配布の「国家革新運動不純化の本尊・国賊北一輝」あたりから始まるようである。(藤井康栄「青年将校論ノートA」『不自由』〈同人誌〉第3号、1972年による)。

(71) 秦郁彦、前掲書、286―291頁。
(72) 『石原莞爾資料』(前掲)123頁。
(73) 日ソの軍事力の推移については防衛庁戦史室編『大本営陸軍部(1)』朝雲新聞社、1967年、398―400頁、参照。
(74) 『石原莞爾資料』(前掲)139頁。
(75) 同前、185頁。
(76) 秦郁彦、前掲書、368頁。