『帝国議会誌』第21巻

1977年3月

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第六六回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第六六回帝国議会 貴族院解説
第六六回帝国議会 衆議院解説

第六六回帝国議会 貴族院解説
帝人事件と斉藤内閣総辞職
岡田内閣の成立
在満機構改革問題
海軍軍縮予備交渉
第六六回議会の召集
貴族院の状況

第六六回帝国議会 貴族院解説



帝人事件と斉藤内閣総辞職

 斉藤内閣は第六五回議会で右翼勢力の攻撃にゆさぶられ、会期中に中島商相・鳩山文相を辞職させねばならないという状況におい込まれており、その命運は尽きつつあるとみられた。斉藤首相は4月1日元老西園寺公望を訪問して居座りの姿勢を示したが、文相後任問題をめぐって政友会との関係を悪化させ(「第六六回帝国議会衆議院解説」参照)、その前途は次第に困難なものとなっていった。そしてこうした状況に加えて、帝人事件捜査の手が、政府高官にまで及ぶという決定的な打撃を蒙ることになるのであった。

  帝人事件とは、すでに第六五回議会において関直彦がとりあげたように、帝国人絹株の売買をめぐって多くの政・財界人や大蔵省高官が関与し、この間に背任、トク職などの不正行為が行われたとして追及された事件である。この問題は、昭和9年1月17日から時事新報が「番町会を暴く」との連載記事を掲げたこともあって、一般にも大きな関心を呼び起こしていたが(「第六五回帝国議会貴族院解説」参照)、つづいて関係者に対する三通の告発状が次々と出され、検察当局は同議会閉会とともに、強制捜査に踏み切っていった。まず4月5日、東京と大阪で帝国人絹・台湾銀行の事務所や関係者宅の一斉捜索が行われ、18日の第二回捜索以後4月中に、帝人社長高本復亨、台銀頭取島田茂、同理事柳田直吉、山叶証券取締役永野護、日華生命社長河合良成、富国徴兵保険支配人小林中、旭石油社長長崎英造らが拘引・収容された。

  この段階では捜査活動を記事にすることが禁じられており、一般国民には何も知らされていなかったが、消息通の間では、捜査の手が次第に政界に伸び、倒閣の方向に動き始めていることが感じられていた。4月16日、小山法相は、元老西園寺の政治秘書原田熊雄に対し、台湾銀行幹部には「明かに背任行為がある。まだいろんなことがはっきりしないけれども、ただ検事局が取調の必要上新聞に掲載することを禁止しているので、いろいろデマが飛んで、或は三土(鉄相)さんが怪しいとか、黒田(大蔵)次官がやられたとか、或は中島前商工大臣がどうだとかいふけれども、今日までの調べではなにも別に心配するやうなこともない」(「西園寺公と政局」第3巻、284頁)と語っているが、 実際にはその「デマ」の方向に事件は進展して行ったのであった。

  5月19日早朝、黒田英雄大蔵次官が召喚され、夕刻、市ケ谷刑務所に収容されたのにつづいて、21日にかけて、大蔵省特別銀行課長大野竜太・同省銀行検査官相田岩夫・前銀行検査官補志戸本次郎・銀行局長大久保偵次が次々に逮捕され、政局は大きな動揺に見舞 われることになった。斉藤首相は、事件の内容が明白にならぬうちは、軽々に責任をとることはできないと語り、取調べの進行を静観する姿勢を示したが、政変必至とみた新聞は、後継内閣をめぐる動向に関心を集中させていった。

  しかし捜査は容易には進展しなかった。6月12日になっても、斉藤首相は原田熊雄に対して「司法大臣の報告が非常に遅れている。これは実に困っているけ れども巳むを得まい」と語り、また小山法相は「物的証拠はどこにも見当らないので困っているが、自白は既に黒田も大久保もしている」との検察当局からの報告を伝える(同前、331頁)といった有様であった。 こうした捜査の停滞は、検察側が事件を被疑者の自白のみによって組み立てていることに起因していた。のちには、これらの自白は、検事の予断にもとづく誘導や強制、あるいは保釈を望む被疑者の迎合などによって作られたものだとして問題化するのであるが、しかし結局検察側は、自白のみを基礎にして、事件を拡大する方向に踏み切っていった。6月29日に至ってようやく、小山法相は首相に対し、事件の経過と共に、中島前商相・三土鉄相・鳩山前文相らにも取調べが及ぶ旨を報告した。そして斉藤首相は「事実は確証といふものが一つもないけれど、とにかく前大臣が、何等事実上の犯罪がないにしても検事局に召喚されたといふことは、総理の責任上忍びないといふ風な気持から、また一方、新聞等の今日までのすっかりつくり上げた空気に対して堪へられないといふやうなところから、その時直ちに辞意を決した」(同前、342頁)と言われる。そして7月3日の閣議を経て、同日遂に斉藤内閣は総辞職した。翌々7月5日、中島が、ついで7月21日三土が召喚され、9月13日、三土を起訴することで、この事件の捜査は終わった。

  ところで、この帝人事件は、1937年(昭和12)年12月16日に至り、証拠不十分ということではなく、「犯罪の事実が存在しない」という空前の判決によ って被告全員が無罪になるのであるが、その問題については、のちの第七三回議会解説で触れることにして、ここでは、事件の概要をみておくことにしたい。

  まずここで問題となる帝人株とは、1927年の金融恐慌によって帝人の親会社である鈴木商店が破産したとき、担保として台湾銀行の所有に帰したものであり、その後の未払込資本の払込み・増資等によって、台銀所有の帝人株は、同社株総数の過半数を制する22万余株に達し、台銀は重役を送って同社の経営の実権を掌握するに至っていた。しかし反面、鈴木商店破産の際には台銀自体も休業においこまれ、日銀の特別融資によってようやく危機を脱しているのであり(この台銀救済をめぐり若槻内閣→田中内閣の政変が起こっている。「第五五回帝国議会衆議院解説」参照)、この帝人株は特別融資の担保として、日銀に差し出されているという関係にあった。つまり台銀とすれば、日銀への債務(期限昭和12年)を弁済するために、いずれは帝人株を有利に買却しなくてはならない、という事情にあったわけである。

  ところで帝人は、当時日本最大の人絹会社であり、鈴木商店破産後も堅実な業績をあげていたが、とくに昭和7年以降は人絹に対する国内需要も輸出高も激増 し、昭和8年上半期には、資本に対する利益率は6割にも達した。そしてこうした状況は、帝人株への投資家の関心をかき立て、同株買受けをめざすさまざまな動きがあらおれることになった。昭和7年12月には、台銀と大阪の綿糸商・田村駒次郎との間に1万株(1株150円)の売買が成立している。そしてこうした情勢のなかで、永野護による帝人様大量買受け運動が開始されることになった。

  当時、証券会社「山叶」の経営者であった永野護は、人絹業の将来に注目し、株式買受け団を代表して帝人の役員となってその経営に参画しようとする野心に燃えていた。しかし、そのためには、(1)出資者を一つの買受け団にまとめること、(2)台銀の監督権を持つ大蔵省及び同株式の担保権者である日銀の諒解を得ること、が必要であると考えられた。永野は(1)に関しては、河合良成・小林中・長崎英造らの協力者を得て、生命保険会社と大阪の綿糸商を中心とした買受け団の組織に奔走し、(2)の諒解工作については、読売新聞社長正力 松太郎に依頼した。これをうけた正力は、かねて親交のあった鳩山一郎文相に働きかけ、鳩山は、関係方面に帝人株売却についての意向や交渉の進捗状況などを 問い合わせて、政・財界にこの取引きの成立を希望する空気の強いことをにおわせ、側面から交渉の促進をはかったとみられる。

  交渉は、買受け団代表河合良成と台銀理事高木復亨(昭8・12、帝人社長となる)との間で進められ、昭和8年5月8日からは具体的な条件についての話合いが行われた。河合は最初20万株の買受けをねらったが、支払い条件等が折合わず、結局5月25日になって、10万株の売買及びその附帯条件について基本的合意が成立し、30日に正式に契約書が交された。契約条件は次のようなものであった。

(1)、

買受け団は帝人株一〇万株を一抹回一五円で台銀より買受け、其の受渡しは六月一〇日までに現金引換えで行う。但し、そのうち一株につき一円は、諸費用並びに手数料として河合の指定する仲介者(永野・村地久次郎―大阪側代表者・株屋―を指定)に割戻すこと。

(2)、

昭和八年上半期の配当は買受け団の所得とする。

 (3)、

本契約当事者は次の各項を認諾するものとする(附帯条件)
(イ) 帝人会社の経営は現任当事者に継続一任のこと、(ロ)昭和八年上半期配当は年一割五分(三分増)とすること、(ハ)株式受渡し後直ちに帝人株を東京・大阪両株式市場に建抹として上場する手続を執ること、(ニ)株式受渡し後直ちに帝人会社をして増資の手続を執らしめ、旧株式三株に対して新株式二株を割り当てること、(ホ)買受け団の推せんする重役入社については、取締役及び監査役各一名の範囲とし、台銀と協議決定すること、等。

 これらの条件は契約通り履行された。附帯条件も6月26日の帝人株主総会で実現し、同時に永野護が取締役に、河合良成が監査役に選任されているし、9月には株式上場も認可された。しかし、買受け人及び株数などは契約書通りではなく、そこに記載されていない小林中が個人で2000株、河合良成・水野護・長崎英造・小林中の4人が協同で関原憲治(河合の秘書)名儀をもって5000株の割当てをうけている。また割戻し金については、「河合はこの取引き成立によって、売買双方から、1株1円ずつ、合計20万円を手数料として出させ、正力松太郎に17万円、永野・・村地におのおの1万5000円を分配した(正力は藤田謙一に5万円、鳩山一郎に5万5000円を贈り、残りを念願だった読売新聞の経営資金につかった)」(大島太郎 「帝人事件」、我妻栄他編「日本政治裁判史録・昭和・後」、57頁)といわれる。

  ところで、検察当局がこの帝人株売買問題をとりあげたのは、第一にはその価格が不当に安く台湾銀行に損害を与えたとする背任容疑、第二には、この交渉をめぐって政府高官に賄賂がおくられたとする贈収賄容疑という二つの観点からであり、この第二の問題の捜査過程で三土前鉄相の偽証容疑という第三の問題が派生することになった。まず第一の問題では、売買契約の附帯条件である増配・増資が実現すれば株価が騰貴することは必然であり、帝人様は140円で売ることが出来た筈だ、また1株につき1円の割戻し金は支払う必要のないものであり、従って交渉を成立させた台銀及び買受け団幹部は共謀して台湾銀行に対し、株価の差順150万円及び割戻し金10万円計160万円 の損害を与えた、つまり背任罪が成立するというのが検察側の主張であった。

  第二の問題については、台銀及び買受け団幹部は売買契約の実現に関して、台銀の監督者である大蔵省幹部、株式上場の認可権を有する中島前商相らに協力を求め、その謝礼として取得した帝人株式の一部(前記関原名儀の5000株のうち1300株を利用)及び現金をおくった、またこの間、三土前鉄相は、永野護の帝人取締役就任をきらう台銀幹部の説得にあたり、その謝礼として前記帝人株の一部をうけとるとともに、中島の受領した帝人株を換金してやった、と検察側は認定したのであった。このうち三土の場合は、職務権限とは無関係で、収賄罪にあたらないものであったが、検察当局は、前記1300株の配分を確定するためその証言を求めた。しかし三土は、7月21日から9月 13日にかけての6回にわたる喚問に対して、一切を否認しつづけたため、遂に検察側は、三土を偽証罪で起訴することにより、自らの認定を貫こうとするに至ったのであった。そしてこの三土の断乎たる態度は、取調べの過程におけるさまざまな問題が伝えられたこととあいまって、検察当局の贈収賄罪捜査のやり方に疑惑の眼をむけさせることになった。

  第六六回議会開会時にはまだ帝人事件の予審は終結 していなかった(予審終結決定は12月27日)が、この議会で早くもこの事件が大きくとりあげられたのは、 こうした疑惑にもとづくものであった。まず11月30日から翌12月1日にかけて貴族院本会議で岩田宙造(勅選・同和会)がこの問題を取り上げて小原法相と論戦を展開し、ついで衆議院でも12月1日の本会議で浜田国松(政友会)による追求が行われている。両者とも、収賄側の政府高官が起訴されてから40日、 さらには数カ月もたってから贈賄側が起訴されているのは異常ではないか、政府高官の起訴をそれ程急いだのは何故か、被疑者中の多くのものに自殺のおそれがあるとの口実で革手錠をはめたり、逃亡や証拠湮滅のおそれがあるとも思われないのに長期にわたり勾留したのは、自白を強要するためだったのではないか、といった観点からの追求を行っているが、それはこうした強引なやり方が、検察側の政治的意図によるデッチ上げのあらわれではないかという疑いにもとずいていた。

  岩田は、帝人事件が「空ニ楼閣ヲ画イタヤウナ案件」であると指摘するとともに、拷問に等しい革手錠がかけられたのが、ちょうど斉藤内閣が進退をきめる6月下旬であったことに注意をうながしているし(貴族院速記録、第2号)、浜田はより直載に、「取急イデ勅裁ヲ経テ起訴致シタト云フコトハ、天下ノー角ニ斉藤内閣ノ倒閣ヲ熱心ニ図ルモノアリ、熱心ニ計画スルモノアリ、黒田大蔵次官ノ起訴ヲスレバ、ゲンニ内閣ノ責任ハ形式的ニ一応定ツテ、斉藤内閣ハ辞職スルデアラウ、故ニ不合理ナル収賄者ノ軽率ナル起訴ヲ致シタノデアルト云フ疑惑ガ天下ニアルノデアル」と述べ、また「今日ハ武力『ファッショ』ニ加フルニ法律『フ ァッショ』ト云フモノガアル」(衆議院速記録、第4号)とも叫んでいた。東京朝日も当時、12月1日号の社説「臨時議会の波瀾」において、「大蔵省事件は、政界廓清・綱紀振粛の空気を背景として起っている運動の、程度を越した進行とも考へられる。見方によれば、司法機関が、立法機関と行政機関に挑戦し、これを征伐せんとしたのである」との見方を提示している。

  第六五回議会で、帝人事件をとりあげ、斉藤内閣打倒を叫んでいた国民同盟や右翼勢力は、平沼内閣の実現をめざすものとみられていたが、そうした政界の動きとこの検察当局の動きとが関連していたかどうかは今のところ明らかになってはいない。しかし当時の警視総監藤沼庄平は、帝人事件は検事局が警視庁刑事局には関与させずに単独で手をつけたものであり、その背後には司法省行刑局長塩野孝彦らの倒閣の陰謀があったと次のように述べている。

  「内閣倒壊の陰謀の成功。塩野氏等がこれを策して成功したのです。為に斉藤内閣は倒れ、(のち)平沼内閣が成立し塩野氏は司法大臣になったのです。塩野氏が明糖事件に関する(大蔵省の)弱点を握って居る黒田検事を使嗾してやらせたのです。私の想像でなくこの方面に通暁する人たちの明言するところです。黒田検事はこれを長崎英造氏に語ったと聞きます。……の事件は明らかに検事ファッショです」(「私の一生」181〜4頁)。

  ともあれ、スローモーと言われながら元老西園寺の強い支持によって、2年余にわたって続いてきた斉藤内閣も、ついにその命脈を断たれたのであった。



岡田内閣の成立


  5月19日、黒田大蔵次官が逮捕されると、政変必至とみた政界では、すぐさま、さまざまな後継内閣運動が展開され始めた。新聞の下馬評には、宇垣一成・ 清浦奎吾・平沼騏一郎・一木喜徳郎・鈴木喜三郎らの名前があがっていたが、満州事変以後、軍部・右翼の間に高まっていた平沼擁立の熱度は、このときには著 しく低下していた。この月の初め、5月3日に枢密院議長の更迭が行われたが、これまでの副議長(平沼)の昇格という慣例が破られ、一木前官内大臣が起用されて、元老西園寺の反平沼的態度が明白になったためであった。この時には、清浦・一木・平沼が候補にのぼっており、斎藤首相は、国本社などの右翼運動から手を引くことを条件に、平沼を昇格させることも考えたが、西園寺は「清浦は近来は大分たががゆるんで世間からは愚弄されて居る様な点もあり、ファッショの様なことを言ふかと思ふと憲法をやかましく云ったりするので、内閣が一つしっかりやらうと云ふ際には、矢張り憲法に明るい一木あたりが居る方がよいと思ふ。 平沼の昇任は是非防ぎたいものだね、条件等つけたとて、それは結局無駄で実行は出来はしない」(「木戸幸一日記」上巻、324頁)と語っている。

  こうした状況のなかで、平沼白身も一歩後退し、海軍軍縮条約改訂の問題もあることから、海軍の対外強硬派である加藤寛治大将を擁立する方向に転じていた。平沼は中川小十郎を介して「次の首相には加藤が適任だ」との意見を西園寺に通じ、また林陸相も、次は平沼でなければ加藤がよいという意見になっていた(「西園寺公と政局」第三巻、333・336頁)。

  しかし西園寺の周辺では、次第に加藤と対立的な立場にある穏健派の岡田啓介海軍大将を推そうとする方向が固まりつつあった。5月23日の木戸幸一(内大臣秘書官長)日記には「正午、原田男を住友に訪ひ、同伴、日光にて会食す。後継内閣の首班として岡田海軍大将は如何との話を為す。健康はよく、加藤一派を制し海軍部内の統制の為より見て、海軍々縮会議に臨む内閣としては最も可なるべし。政友会には比較的よきも、久原一派には悪しとのことなり」(「木戸日記」上巻、330頁)とある。また翌24日、斎藤首相は原田熊推に対して、内閣を持ちこたえることが難しいとの見通しのもとに、後継首相については「綱紀問題に疑念のない人」であると同時に「海軍の条約改訂の問題もあるから、これに対する準備として、相当に海軍に知識のある人でなければならん。いろいろ考えてみると、どうしても岡田大将が一番適当だと思ふから、この話を西園寺公にお伝えしておいてくれないか」(「西園寺公と政局」第三巻、314頁)と述べたと言われる。当時の下馬評の人物のなかで、宇垣一成については睦軍部内に強い反対があり、また、首相推薦権をもつ西園寺は、平沼・清浦・加藤寛治などは好ましくないし、鈴木政友会総裁も問題にならないと考えており、結局、斉藤内閣の実質的延長として岡田内閣を成立させようとする空気が強まっていったと言える。

  ところで西園寺は、一方では次の政変に際しては、後継首相を決定するための新たな慣行をつくり出そうとしていた。彼はかつては、自らの独自の決断で政党総裁を次々に首相に推挙し、いわゆる政党内閣時代を出現させたのであったが、五・一五事件で大養内閣が倒れた際にはこのやり方をあらため、東郷平八郎・ 上原勇作(海・陸の元帥)、山本権兵衛・清浦奎吾・若槻礼次郎・高橋是清(首相経験者)、倉富勇三郎(枢密院議長)、らの意見を求めた上で、首相候補者を斉藤実と決定したのであった。当時すでに80歳をこえていた西園寺は、自らの意に反する非立憲的に向かってゆく政治情勢にその老齢をもって対跳することは困難となると考え、首相経験者に、個人としての資格での枢密院議長と、内大臣とを加えた重臣会議で後継首相を決定してゆくという新たな慣行をつくろうとし、その旨天皇にも内奏していた。

  しかし実際に政変が近づいてみると、牧野伸顕内大臣がこの方式に異議を唱え始めた。この時には、山本権兵衛が死去(昭8・12・8)したため、首相経験者は高橋・清浦・若槻の3人と現職の斉藤だけとなっていたが、牧野は「まず第一に若槻前総理は政党の総裁であるから、相談の範囲に入れることは面白くない。また、斉藤総理は、なにもその時にお召しにならなくとも、後継内閣の相談はいつでもその前にできるぢやないか。それから高橋蔵相は結局(帝人)問題の中心の人であるから、今度は遠慮して何も言ふまい。それから清浦はまず準元老みたやうな形にして、相談の範囲に入れておきたい」と主張した。つまり前首相では清浦だけにするというわけである。これに対して木戸秘書官長は、清浦だけ残すよりも、今回は前首相はやめにして、元老と枢密院議長と内大臣の3人で相談されてはどうかという案を出した。西園寺は、清浦については「清浦一人を準元老にして参加させることは、害あって寧ろ益のないことである」と木戸の意見に賛成 したが、首相経験者の問題では、政党の総裁であろうが、現首相であろうが、当の問題の責任者であろうが、広く意見をきく方がよいと主張し、結局予定通りの方式でゆくことになった。

  7月3日、斉藤内閣の辞表が奉呈されると、翌4日、西園寺は上京・参内、重臣たちも参集して西溜間で元老・重臣会議が開かれた。会議の模様は次のようなものであったと伝えられる。

  「西園寺公より斉藤子に対し、貴君は最近迄政局を担当せられて居られたので最も事情に通じて居られるであろうが、御考は如何と問はる。斉藤子は、自分は云はば失敗したものである故とて発言を差控ふ。

一木男発言し、内外の情勢を説く。

 西園寺公より更に斉藤子に対し、御言葉ではあるが、今日は前総理大臣と言ふ訳でなく一腹の重臣と して御集りになったのであるから遠慮なく意見を述べらるる様にと発言を促されたので、斉藤子は、自分が政局を担当して未だ間に行ったことは必しも間違って居ったとは思ひません。今日の情勢より見るに、財界其他の方面について見ても従来の方針を余り変へない様にすることが肝要かと思ふ。その見地 よりして、若し岡田啓介海軍大将にして勇気があるならば同氏が最も適任と思はれる、只同氏が御引受け出来るや否やは自分も知らないところであるがと云はる。

 

  西園寺公は清浦伯に意見を求めらる。清浦伯は、結構ならん、宇垣氏等も適任ならんと思はるるが、 陸軍よりも海軍の反対が強いと聞いて居る。近衛公等も問題なるが、海外に居られては問題とならざるべし云々(近衛は昭9・5〜同・8、滞米)。

  斉藤子発言し、宇垣氏は自分も結構と思ふが、林陸相の話によれば、陸軍の少壮将校の方面がやかましく抑ゆるに困ると云ふ状況で、海軍は左程とも思はず云々。

  西公は若槻男の意見を求めらる。若槻男は、自分は立場上個人を指して云々することは困るが、岡田氏は結構と思ふ云々。

  次いで西公は高橋氏に財政のこと等尋ねられしが、 自分は余り人を知らずとて、明瞭には発言せられず。

  西公は牧野内大臣に対し、あなたの職務上困らるるかも知れぬが御考へは如何とのことなりし故、内大臣は外交上米国との関係の極めて良好に展開せる点、軍部の動向等を述べ、岡田氏が内閣を組織する場合、軍部大臣が留任し得るやを最も懸念する旨を述ぶ。右に対し、斉藤子は特に方法を講ずれば留任すべし、前回林の留任せしは閑院官よりの御声がかりなりしが、今回も陛下より御言葉と云ふが如きことにあらず、右の如き方法にても執り得れば留任するならんと思ふ云々。

 西園寺公は大体皆さんの御意見も判りたるが、若槻さん、どうでせう、岡田氏を奏薦することはと尋ねられたるに、若槻氏は、自分の平素の主義方針よりすれば多数党の鈴木氏と云ふことにもなるが、それが或事情の為に無理なりとすれば、岡田氏にて結構なりと、明確に述ぶ。

  西園寺公は、それでは全員一致と云ふことで岡田氏を奏請することにせむと述べらる。終りに牧野内大臣より、此会合は中迄もなく、聖旨を体しての会合なれば一切他に洩さざることにしたしと注意を述べたるに、清浦伯は率先して之に同意せらる。右にて散会す」(「木戸幸一日記」上巻、343〜4頁)

 こうして7月4日午後、組閣の大命をうけた岡田啓介は、早速首相官邸を組閣本部として後藤文夫農相の来邸を求め、河田烈拓務次官(大蔵省出身、浜口内閣時代の主計局長)を内閣書記官長に内定、この2人を組閣参謀とした。岡田はまず、外務・陸海軍大臣の留任を求め、蔵相には高橋蔵相が推薦する人物をあてることとし、斉藤内閣の基本線を踏襲することを明らかにした。高橋は、帝人事件で黒田次官が逮捕された際に、主計局長から次官に昇格したばかりの藤井真信をさらに大臣に推し、蔵相に就任した藤井は記録破りの出世と評された。ついで帝人事件を考慮して、司法大臣には「鉄の如き意志と周到緻密の用意を以て事に処する点においては司法部の第一人者」(東朝、7・6)とみられていた東京控訴院長・小原直を起用、また組閣参謀の後藤文夫には内務大臣就任を求めた。

  この間、政友・民政両党にも閣内協力を求める交渉が行われたが、民政党は協力を約したものの、政友会は党員を入閣させない方針を決定、これに対して岡田は結局、政友会の有力者に個人的に入閣を交渉することにした。そして民政党から商工大臣に町田忠治、文部大臣に松田源治をとったのに加えて、政友会からも逓信大臣に床次竹二郎、農林大臣に山崎達之輔、鉄道大臣に内田信也が政友会を脱党して就任することになった。岡田内閣の親任式が行われたのは、7月8日になっており、残りの拓務大臣は岡田首相が兼任していた。



在満機構改革問題

 岡田首相の拓相兼任は、陸軍の在満機構改革の要求とからんでいた。新聞はこの点について、「軍部、外務省や関東軍方面では拓務省の存在を無用の長物視してわが対満政策の徹底には何うしても拓務省を廃止しなければならぬと力んでいるが岡田首相はともかくもこの問題の成行を重視して特に専任拓相を設置せず、首相兼摂といふ事で一時を糊塗する事になった」とみる。そして陸軍と拓務とは「特に関東軍提唱の満鉄改組問題以来(軍部)満州国関係の全経済機関に対し独裁的監督権を把握せんとする希望を有するに至って事毎に対立する事となった」(東朝、7・13)と解説していた。 この満鉄改組問題とは1933(昭和8)年10月に表面化したものであり、関東軍の主張は満鉄から附属地行政権と関連諸企業を切り離し、関東軍自身で掌握しようとするものであった。この案は、満鉄・拓務省の反対で実現しなかったが、34年に入ると、陸軍中央部がこの問題の解決に乗り出したのである。

  すなわち林陸相は、荒木前陸相の主張は抽象的観念論であって具体策に欠けるとし、34年3月の人事移動で永田鉄山を軍務局長に登用するとともに永田を主宰者とする国策審議機関を部内に設置する意向を示 した(東朝、3・19)。この陸軍の国策審議がどのような形で行われたか明らかでないが、林は「まず満州問題(満鉄改組案・特務部改編問題・日満経済ブロック問題等)の根本的な解決策を得ることを先決としてい る」(同前、4・10)と語っている。そして更に岡田内閣への留任に際しても、岡田に対し、満州問題を中心にした陸軍の国防国策を採用するよう要望していた。従って陸軍から提出される在満機構改革案の処理が岡田内閣の大問題となることは当初から予想された所であった。

  内閣成立の翌月、34年8月に入ると、次のような陸軍案が伝えられた。

一、

駐満大使の官制を改革して別途の機関とし、外務大臣の監督を直接総理大臣の監督下に移してこれに外交機関と行政機関の二機能を帯ばしめることとし、然して関東州の独立は日満両国の間に経済的絶縁体を置くに等しいからこれを右大使の権限とし、以て軍司令官・駐満大使の二位一体制を実現すること。

一、

今後わが対満政策の事務一切の処理は凡て内閣総理大臣の固有なる直裁事項とし、内閣内に対満事務局の如き一局を設けて従来の各省分割の事務を根本的に整理統一すること(東朝、8、2)。

 この案の主たるねらいは、従来の三位一体制を二位一体制に改めることにより、拓務省の対満州政策に対する発言権を排除しようとする点にあった。すなわちこれまで、「満州国」承認に際してとられた関東軍司令官が駐満大使と関東庁長官を兼ねるという体制が、三位一体制と呼ばれていたわけであるが、この下では、外務省→領事、拓務省→関東庁という命令・監督系統はそのまま生きのびていた。このうち外交面の問題は、 満州国の各部次長を日本人が握って政治を意のままに動かしている以上、形式的なものにすぎなくなっており、従って陸軍の関心は主として拓務省の権限を軍の手に吸収する点に向けられることになった

  陸軍側原案の特徴は次のように要約することができる。すなわち、(1)、関東州・満鉄附属他の行政権・警察権と、満鉄や重要産業部門に一業一社主義でつくら れつつある特殊会社の監督権は、駐満大使(=関東軍司令官)が一元的に掌握する、(2)、駐満大使の下に行 政事務局を置く一方、従来満州に対する監督権をもっていた関東長官を廃止し、関東州の行政権だけを持つ関東州知事を新設して前記行政事務局に従属させる、(3)、これにより駐満大使は大きな行政権を持ち、従来の大使と性格を異にするから、総理大臣直属とし、内 閣にはこれに対応する対満事務局を置く、(4)、日満経済ブロックを強化するため、条約により日満経済会議を設けること、などがその要点であった。このうち(1)、(2)は、関東軍が満州の治安及び経済統制を一元的に支配することを目的としており、行政事務局の構成についても、局長は必要に応じて関東軍参謀長が兼任する、警務部長は関東軍憲兵司令官、監理部長は関東軍交通監理部長が兼任することとされた。(3)の対満事務局は、対満政策を統一・一元化するための機関とされたが、 ここではこの機関を通じて、肥大化する関東軍の行政 権を軍中央部が統制することが意図されていた。すなわち、対満事務局の総裁又は次長の中、1名は現役武官をもってあて、事務官のなかにも現役武官を入れる ことが予定されており、これによって、対満事務局は実質的に陸軍の掌握下に置かれる筈であった。また(4)の日満経済会議は、こうした軍にりードされた対満事務局の政策を満州国側日本人官吏に諒解させることをねらったものと言えよう。つまり陸軍原案は、関東軍に満州の独政権を与えると共に、これを対満事務局と日満経済会議によって統制しようとするものであった。 この案は、陸軍省永田軍務局長の手許でつくられたものとみられた。

  この陸軍案のうち、二位一体制―関東長官を廃して関東州知事にする―の部分については、外務・拓務両省も承認したが、他の点についてはさまざまな異論があった。まず、外務では駐満大使を外務大臣の監督外に置くことに反対した。それでは植民地総督と同じことであり、「満州国」が独立国だという日本の建前を全く否定することになるではないかというわけであった。この点は永田軍務局長が強く主張していたようであり、原田熊雄は「どうも軍務局長だけがなは総理直属の特殊な大使といふことに固執している。参謀本部も関東軍の連中も皆外務省の案に賛成のやうであるけれども、陸軍省だけがどうもをかしな空気である」(「西園寺公と政局」第四巻、65頁)と書いている。し かしこの点は結局陸軍側が折れて、駐満大使の渉外事項については、外務大臣が命令監督権を有することとなった。

  これに対して拓務省側の反対は、より根本的な点に触れるものであり、軍部のめざす満州支配の独裁は、憲法の三権分立の精神に反するとし、産業経済関係の事項については拓務省が監督権を持つべきだと主張した。そして陸軍案反対の気運は、拓務省本省のみならず、むしろ関東庁官吏・警察官・現地居留民などの間で激化していった。しかし拓相を兼任している岡田首相も、拓務省側の現状維持的言い分を認めて陸軍案をつき崩すことは、困難であるとみた。そして9月14日の閣議に陸軍原案に外務省の意見によって修正を加えた形の在満機構改革案が提出された。

  閣議では、まず松田文相から、在満機構を陸軍が掌握するのなら、その責任は陸軍大臣が負ぶべきなのに、総理大臣が責任を負ぶことになっているのはどういうわけか、対満事務局の次長や局長に軍人をあてることは、軍人万能のきらいがある、などの意見が出され、また床次逓相も、軍中心の統制は満州の現状から言って止むを得ないとは思うが、いつまでも軍中心でゆくのは妥当でないなどと述べたが、結局閣議はこの案をそのまま承認することになった(東朝、9・15付夕刊 による)。

  陸軍案を骨子とする改革案が閣議で決定されたとのニュースが伝えられると、関東庁は騒然となり、職員・警察官全員の辞表をまとめ、代表者を上京させてこの決定をくつがえそうとする運動が始められた。また満鉄社員会も10月13日の評議員会で「今次閣議において決定せられたる在満機関が臨時暫定的のものたるを信じ速かに国法の精神たる軍事及び一般行政分離の状態に復帰せんことを望む」「満鉄の監督はその自主的地位を侵害すべからず」(東朝、10・14夕刊)との声明を採択した。反対運動のなかでとくに猛烈だっ たのは、警察官の運動であった。警察官は憲兵司令官の警務部長兼任に強く反対し、憲兵につかわれるくらいなら辞めた方がましだといきまき、代表者を次々と上京させた。拓務省本省でも、陸軍批判の声明を出そ うとする動きまであらわれた。この動きは、岡田柘相の説得で中止されたが、現地の反対運動は容易に鎮静しそうにもなかった。

  しかし陸軍側は改革案強行の姿勢を崩さず、10月15日に至ると、関東軍は幕僚談の形で、次のように反対運動を断乎排撃する声明を発した。

 

 「顧るに関東庁首脳部は拓務案成立危しと見るや全満警察署に対し拓務案支持の指令を発した。これ即ち執行官吏に過ぎざる下級警察官を政治運動に没頭せしめし動機にして今日関東庁職員が統制を失せることは真に当然の帰結といひ得るのである。爾来狂奔せる彼等はあるひは居留民に対し共鳴を強要しあるひは官憲の威を笠に着て拓務案の支持を求めあるひは言論を圧迫して関東州及び付属地において正しき言論は閉塞せるの状態である。(略)

  吾人は実に忍ぶべからざるを忍びつつ今日に至ったが、官紀を紊乱し言論を圧迫し政治的策動に没頭し、もって重要なる国策の遂行を妨害せんとするものに対しては最早静観的態度を抛ち、断乎として所信に向って邁進せんとするものである。これに対し依然妄動を継続するものあらば、敢然としてこれを排除するに躊躇するものではない」(東朝、10・16)。


 この間、松田文相らは妥協案作成にのり出したが、陸軍省首脳部は妥協の余地なしとしてこれをしりぞけた。こうした陸軍側の強硬な態度におされて、10月17日の臨時閣議は原案断行の方針を再確認、関東庁側の反対運動も次第に後退していった。なお、陸軍側は対満事務局の人事について、総裁は文官、次長は武官としたいと主張したが、政府側は行政官を指揮する次長は文官でなければならぬとして反対した。結局、当面陸相が総裁を兼任し、次長は文官を採用することとした。第六六回議会で機構改革のための予算が成立 し、12月26日には対満事務局等の新機構が発足した。またこの間、12月の陸軍定期異動で、関東軍司令官が菱刈隆大将から南次郎へ、参謀副長が岡村寧次少将から板垣征四郎少将にかわり(参謀長西尾寿造は留任)、従って南が新機構による初代の駐満大使ということになった。対満事務局総裁は林陸相の兼任、次長には大蔵省銀行局長の川越丈雄が登用され、関東局と呼ばれることになった駐満大使の行政事務局総長には、南の推薦により、社会局長官の経歴を持つ貴族院議員長岡隆一郎(勅選・交友倶楽部)が就任している。

  また、岡田首相は在満機構改革問題が一段落したところで、専任拓相をおくこととし、10月25日、児玉秀雄が拓相に任命された。児玉は貴族院研究会所属 (伯爵)、朝鮮総督府政務総監の経歴をかわれての登用であった。



海軍軍縮予備交渉


 林陸相が在満機構改革を留任の条件としたのに対して、大角海相は留任に際し、軍縮問題についての海軍の要求を実現するよう岡田首相に強く要望していた。これまで海軍軍縮は、ワシントン条約・ロンドン条約という二つの条約によって実現されていたのであるが、その有効期限は1936年12月31日までであり、35年には軍縮会議を開くことが条約に規定されていた。そしてこの時期に軍縮問題が大きくとりあげられるに至ったのは、来年の軍縮会議のための予備交渉が開始されたこと、有効期限の2年前、つまりこの年末 までに廃棄通告をしなければ、条約は自動的に延長されることになっていたことなどによるものであった。

  軍縮問題についての海軍の主張は、これまでの米・英・日の比率を5・5・3とするといった比率主義を排 して、平等主義による新たな軍備制限方式を確立せよというものであり、それにはまず、ワシントン・ロンドン両条約を廃棄しなければならないとするものであった。そして8月28日の岡田首相・大角海相・広田外相の三相会談で、ワシントン条約等を廃棄すること、ただしその通告の時期は年末までの間で外交上最善の時期を提えて行うことなどが合意された。比率主義に代わる制限方式としては、攻撃的艦種等を徹底的に縮減すると同時に、各国一律の保有トン数限度を設定し、その範囲内で自由に建艦するといったやり方が考えられていた。この方針は9月7日の閣議で正式に決定され、20日に渡英する海軍代表山本五十六少将に訓令としてさずけられた。

  予備交渉はロンドンにおいて、日本・アメリカ・イ ギリスの三国間で行われることになったが、円卓会議ではなく、日英・日米・米英という二国間会談をつみ重ねてゆく方式がとられた。日本側は松平駐英大使と山本少将を代表としてこの交渉に臨んだ。10月23日の日英会談、24日の日米会談で予備交渉の幕は切られたが、この会談で日本側は次のような日本案の大綱を提示している。

一、

列強は国防上の必要に基いた軍備平等の原則に同意すること

二、

現行比率を廃止しこれに代ふるに各国共通保有量の最大限度を定め、各国はその限度内において必要とする艦種を選んで制限の限度まで建造するの自由を保有すること

三、

攻撃的艦船を極度に縮減して攻撃的戦争を絶滅し各艦隊を防禦を基準とする艦隊に編成替へする事(東朝、10・24)


  この日本側の主張に対し、アメリカ側は、日本が現行条約で国防の安全が保てなくなったとする根拠は何かと問い、現行条約を維持しようとする姿勢を示した。 しかしアメリカにくらべるとイギリス側はより妥協的であり、26日の第二回会議につづいては、海軍関係者による専門委員会も開かれ、より具体的な話し合いが行われている。日本側はそこで戦艦・航空母艦などを攻撃的武器とし、その全廃又は徹底的に縮少すること、巡洋艦・潜水艦などは防禦的武器として、制限トン数内で自由に建造しうることなどを主張した。これに対してイギリス側は、ワシントン・ロンドン両条約の骨子は残したいとし、総トン数による制限ではなく艦種別に制限する方法によるべきだと反論、また具体的には航空母艦廃止に反対して、むしろ潜水艦を全廃ないし大縮減すべきではないかという意見を出していた。交渉はこの段階で、米英対日本の原則的対立が明らかとなり、決裂に至るかともみられたが、11月7日に第四回日英会談においてイギリス側は次のような新たな妥協案を提示してきた。

一、

日本政府の方式案と異った一定の形式で国家の体面(プレステージ)を尊重、帝国政府に原則上軍備の均等を認める。

二、

海軍力の制限方式を共通最大限一本槍とせず、総トン数主義に艦種別及び艦船数制限を加味した折衷案とする。

三、

攻撃的兵力、防禦的兵力の区別緩和を要求する(東朝、11・9付夕刊)。


  このイギリス案は、各国は艦艇保有量及び建艦計画につき事前に協議を遂げた後、これをそれぞれ自発的一方的宣言の形で声明する、つまり形式的には、平等の自主的軍備権を認める形をとりながら、実質的には、これまでの制限方式を修正しつつも維持してゆこうとするものとみられた。

  これに対して日本側は、「日本の兵力量平等の主張は単に形式上もしくは体面上の問題だけではなく、実質上の重大要求である。従って単に権利のみを容認して実質的には差等比率を継続するが如き妥協方式が日本に取り受諾し得ないものであることは自明の理である」(東朝、11・10)との強硬な態度を示したし、アメリカ側は、いかなる形でも日本に米英と均等な軍備を認めることはできないとして、イギリスの妥協的な動きに反対していた。

  結局のところ、この時の日本海軍の主張は、米英の海軍力を日本と同等にまで引下げ、日本の極東における軍事行動を抑制する力を失わしめようとするものであり、それが実現しなければ、軍縮条約には加入しないとするものであったと言えよう。そして日本がこの主張に固執する限り、軍縮条約が再締結される可能性 は見出し得なくなっていた。交渉はなお、決裂を避けて年末までつづけられたが、第六六回議会が召集される頃には、そこから何の成果も生まれそうにないことは明白となっていた。



第六六回議会の召集

 在満機構改革問題、海軍軍縮問題等でゆさぶられた 岡田内閣は、内政面では、農村不況の深刻化という事態に直面していた。この年には、東北地方の冷害に加えて、九州地方では旱害に見舞われており、さらに繭価の暴落によって養蚕地帯は大きな打撃を被っていた。これに対して政友会は農村対策を中心にした臨時議会の開会を要求していたが、岡田内閣は若干の救済費の臨時支出によって、通常議会までもちこたえようとした。しかしこうした事態に加えて9月21日、室戸台風が関西地方を直撃、死者・行方不明3000余名という大風水害に見舞われ、内閣も、臨時議会召集に踏み切らざるを得なくなった(「第六六回帝国議会衆議院解説」参照)。

  なお、この議会までの間に、内閣書記官長河田烈、 大蔵大臣藤井真信がいずれも病気で辞任、10月20日、書記官長に吉田茂(協調会常務理事)が、11月27日、大蔵大臣に高橋是清が任命されるに至っている。

  第六六回議会は、11月10日召集詔書が公布され、会期7日間(11・28〜12・4)の臨時議会として、11月27日に召集された。しかし衆議院において、いわゆる「爆弾動議」が提出されるなど紛糾がつづいたため、会期は12月5〜7日の3日間、さらに12月8日〜9日の2日間と二度にわたって延長され、通計12日を数えた。

  この議会における正・副議長、全院・常任委員長、政府委員、議員の会派別所属は次の通りであった。 なお、正・副議長は任期継続中であり、前議会と変わらない。

議 長   近衛 文麿(公爵・火曜会)
副議長   松平 頼寿(伯爵・研究会)
     
全院委員長   徳川 圀順(公爵・火曜会)
     
常任委員長 資格審査委員長 青木 信光(子爵・研究会)
  予算委員長 柳沢 保恵(伯爵・研究会)
  懲罰委員長 徳川 家達(公爵・火曜会)
  請願委員長 酒井 忠克(伯爵・研究会)
  決算委員長 鷹司 信輔(公爵・火曜会)
     
国務大臣 内閣総理大臣 岡田 啓介
  外務大臣 広田 弘毅
  内務大臣 後藤 文夫
  大蔵大臣 高橋 是清
    (11・27任命)
  陸軍大臣 林 銑十郎
  海軍大臣 大角 岑生
  司法大臣 小原 直
  文部大臣 松田 源治
  農林大臣 山崎 達之輔
  商工大臣 町田 忠治
  逓信大臣 床次 竹二郎
  鉄道大臣 内田 信也
  拓務大臣 児玉 秀雄
    (10・25任命)
     
政府委員(11・27発令) 内閣書記官長 吉田 茂
  法制局長官 金森 徳次郎
  法制局参事官 樋貝 詮三
  森山 鋭一
  外務政務次官 井阪 豊光
  外務参与官 松本 忠雄
  外務書記官 岡本 秀正
  内務政務次官 大森 佳一
  内務参与官 橋本 実斐
  内務省神社局長 石田 馨
  内務省地方局長 安井 英二
  内務省警保局長 唐沢 俊樹
  内務省土木局長 広瀬 久忠
  内務省衛生局長 岡田 文秀
  内務書記官 山崎 厳
  社会局長官 赤木 朝治
  大蔵政務次官 矢吹 省三
  大蔵参与官 豊田 牧
  大蔵省主計局長 賀屋 興宣
  大蔵省主税局長 中島 鉄平
  大蔵省理財局長 青木 一男
  大蔵省銀行局長 川越 丈雄
  大蔵書記官 入間野 武雄 
  山田 龍雄
  預金部長 荒井 誠一郎
  陸軍政務次官 土岐 章
  陸軍参与官 石井 三郎
  陸軍主計総監 平手 勘次郎
  陸軍少将 永田 鉄山
  陸軍一等主計正 大城戸 仁輔
  海軍政務次官 堀田 正恒
  海軍参与官 窪井 義道
  海軍主計中将 村上 春一
  海軍中将 吉田 義吾
  海軍主計大佐 石黒 利吉
  司法政務次官 原 夫次郎
  司法参与官 舟橋 清賢
  司法書記官 黒川 歩
  文部政務次官 添田 敬一郎
  文部参与官 山桝 儀重
  文部省専門学務局長 赤間 信義
  文部省普通学務局長 下村 寿一
  文部書記官 山川 建
  農林政務次官 守屋 栄夫
  農林参与官 森  肇
  農林省農務局長 小浜 八弥
  農林省山林局長 村上 龍太郎
  農林省水産局長 戸田 保忠
  農林省畜産局長 高橋 武美
  農林省蚕糸局長 井野 碩哉
  農林省米穀部長 荷見 安
  農林省経済更生部長 小平 権一
  農林省書記官 田渕 敬治
  商工政務次官 勝 正憲
  商工参与官 高橋 守平
  商工省商務局長 村瀬 直養
  商工省工務局長 竹内 可吉
  商工書記官 東  栄二
  逓信政務次官 青木 精一
  逓信参与官 平野 光雄
  逓信省経理局長 富安 謙次
  鉄道政務次官 樋口 典常
  鉄道参与官 兼田 秀雄
  鉄道省経理局長 工藤 義男
  拓務政務次官 桜井 兵五郎
  拓務参与官 佐藤 正
  拓務書記官 小河 正儀
  朝鮮総督府政務総監 今井田 清徳
  朝鮮総督府財務局長 林 繁蔵
     
政府委員追加(会期中発令) 外務省通商局長 来栖 三郎
  商工省貿易局長 寺尾 進
  司法省刑事局長 木村 尚達
  鉄道省監督局長 前田 穣
  鉄道省運輸局長 新井 堯爾
  鉄道省建設局長 河原 直文
  鉄道省工務局長 平井 喜久松
  北海道庁長官 佐上 信一
  大蔵書記官 石渡 荘太郎
  内務書記官 松村 光麿
  商工省鉱山局長 福田 康雄
     
会派別所属議員氏名    
     
 開院式当日各会派所属議員数 研 究 会 156名
  公 正 会 66名
  火 曜 会 41名
  交友倶楽部 38名
  同 和 会 32名
  同 成 会 23名
  会派に属しない議員 55名
  411名
     
研究会 大久保利武
  黒田 長成
  林 博太郎
  橋本 実斐
  堀田 正恒
  小笠原長幹
  川村鉄太郎
  樺山 愛輔
  黒木 三次
  柳原 義光
  柳沢 保恵
  松平 頼寿
  松木 宗隆
  二荒 芳徳
  後藤 一蔵
  児玉 秀雄
  有馬 頼寧
  酒井 忠克
  酒井 忠正
  溝口 直亮
  井伊 直方
  岩城 隆徳
  伊東 二郎丸
  井上 勝純
  井上匡四郎
  今城 定政
  池田 政時
  伊集院兼知
  浜尾 四郎
  西大路吉光
  西尾 忠方
  西四辻公堯
  保科 正昭
  豊岡 圭資
  戸沢 正己
  土岐  章
  富小路隆直
  大岡 忠綱
  大河内輝耕
  大久保 立
  岡部 長景
  織田 信恒
  渡辺 千冬
  加藤 泰通
  片桐 貞央
  米倉 昌達
  米津 政賢
  吉田 清風
  立花 種忠
  立見 豊丸
  高橋 是賢
  高木 正得
  冷泉 為勇
  曽我 祐邦
  鍋島 直縄
  裏松 友光
  梅園 篤彦
  梅小路定行
  植村 家治
  野村 益三
  藪  篤麿
  前田 利定
  松平 忠寿
  松平 直平
  松平 康春
  松平 保男
  蒔田 広城
  牧野 忠篤
  舟橋 清賢
  近衛 秀麿
  青木 信光
  綾小路 護
  秋月 種英
  秋元 春朝
  秋田 重季
  安藤 信昭
  実吉 純郎
  清岡 長言
  水無瀬 忠政
  三室戸 敬光
  三島 通陽
  白川 資長
  新庄 直知
  毛利 元恒
  仙石 正敬
  松平 乗統
  市来 乙彦
  磯村 豊太郎
  今井 五介
  馬場 ^一
  八田 嘉明
  坂西 利八郎
  西野  元
  堀 啓次郎
  堀切 善次郎
  富谷 ヌ太郎
  大橋 新太郎
  大谷 尊由
  太田 政弘
  大塚 惟精
  岡崎 邦輔
  若林 賚蔵
  金杉 英五郎
  根津 嘉一郎
  内藤 久寛
  潮  恵之助
  山岡 万之助
  山川 端夫
  藤原 銀次郎
  藤山 雷太
  木場 貞長
  三井 清一郎
  宮田 光雄
  勝田 主計
  関屋 貞三郎
  松村 真一郎
  藤沼 庄平
  黒崎 定三
  有賀 光豊
  宮尾 舜治
  島根 糸原 武太郎
  北海道 板谷 宮吉
  佐賀 石川 三郎
  千葉 浜口 儀兵衛
  長崎 橋本 辰二郎
  和歌山 西本 健次郎
  東京 細田 安兵衛
  福井 飛嶋 文吉
  福島 金城 通
  北海道 金子 元三郎
  神奈川 上郎 清助
  京都 風間 八左衛門
  新潟 高島 順作
  東京 津村 重舎
  山梨 名取 忠愛
  愛媛 仲田 伝之コウ
  静岡 中村 円一郎
  熊本 長野 忠次
  岐阜 上松 泰造
  高知 野村 茂久馬
  京都 大沢 徳太郎
  栃木 久保 市三郎
  鹿児島 久米田 新太郎
  熊本 山隈 康
  鳥取 米原 章三
  兵庫 松岡 潤吉
  愛知 松沢 清次郎
  埼玉 松本 真平
  宮城 佐藤 亀八郎
  徳島 三木 与吉郎
  新潟 白勢 春三
  沖縄 平尾 喜三郎
  大阪 森  平兵衛
  静岡 鈴木 幸作
  鹿児島 上野 喜左衛門
     
公正会 岩村 一木
  岩倉 道倶
  伊藤 一郎
  伊藤 文吉
  井田 磐楠
  稲田 昌植
  井上 清純
  今園 国貞
  今枝 直規
  伊江 朝助
  原田 熊雄
  橋元 正輝
  本多 政樹
  東郷  安
  徳川 喜翰
  長  基連
  小畑 大太郎
  大井 成元
  大蔵 公望
  大寺 純蔵
  大森 佳一
  沖  貞男
  渡辺 汀
  渡辺 修二
  加藤 成之
  金子 有道
  郷 誠之助
  高橋 弓彦
  高木 喜寛
  園田 武彦
  辻  太郎
  鍋島 直明
  中村 謙一
  黒田 長和
  山根 健男
  矢吹 省三
  松岡 均平
  松尾 義夫
  松平 外与麿
  深尾 隆太郎
  福原 俊丸
  近藤 滋弥
  有地 藤三郎
  赤松 範一
  足立  豊
  浅田 良逸
  佐藤 達次郎
  安場 保健
  阪谷 芳郎
  坂本 俊篤
  紀  俊秀
  北大路 実信
  北河原 公平
  北島 貴孝
  菊池 武夫
  肝付 兼英
  三須 精一
  四条 隆英
  東久世 秀雄
  関  義寿
  千田 嘉平
  千秋 季隆
  周布 兼道
  杉渓 由言
  安保 清種
  松村 義一
     
火曜会 伊藤 博精
  一条 実孝
  徳川 家達
  徳川 圀順
  徳大寺公弘
  鷹司 信輔
  九条 道実
  山県 有道
  近衛 文麿
  三条 公輝
  島津 忠重
  島津 忠承
  岩倉 具栄
  池田 仲博
  細川 護立
  徳川 頼貞
  徳川 義親
  大隈 信常
  鍋島 直映
  中山 輔親
  中御門 経恭
  野津 鎮之助
  久邇 邦久
  蜂須賀 正
  山内 豊景
  山階 芳麿
  前田 利為
  松平 康昌
  久我 常通
  西郷 従徳
  嵯峨 公勝
  佐竹 義春
  佐々木 行忠
  木戸 幸一
  菊亭 公長
  四条 隆愛
  広幡 忠隆
  小村 捷治
  池田 宣政
  東郷 彪
  井上 三郎
     
交友倶楽部 勅 男 山本 達雄
  犬塚勝太郎
  橋本圭三郎
  大川平三郎
  岡 喜七郎
  若尾 璋八
  和田 彦次郎
  川村 竹治
  芳沢 謙吉
  高橋 琢也
  竹越 与三郎
  長岡 隆一郎
  中川 小十郎
  中村 純九郎
  室田 義文
  内田 重成
  鵜沢 総明
  桑山 鉄男
  小久保 喜七
  古島 一雄
  佐藤 三吉
  水上 長次郎
  水野 錬太郎
  南    弘
  宮崎 岩崎 清行
  山口 林 平四郎
  香川 大西 虎之助
  福岡 太田 清蔵
  滋賀 吉田 羊治郎
  埼玉 田中 徳兵衛
  青森 宇野 勇作
  岡山 山上 岩二
  茨城 青木 歳次郎
  千葉 三橋 弥
  広島 水野 甚次郎
  群馬 渋沢 金蔵
  愛知 下出 民義
  大分 久恒 貞雄
     
同和会 勅 男 若槻 礼次郎
  勅 男 弊原 喜重郎
  岩田 宙造
  稲畑 勝太郎
  原 保太郎
  徳富 猪一郎
  大島 健一
  岡田 文次
  織田  万
  川崎 卓吉
  門野 幾之進
  各務 鎌吉
  嘉納 治五郎
  上山 満之進
  田所 美治
  永田 秀次郎
  野村 徳七
  倉知 鉄吉
  松浦 鎮次郎
  真野 文二
  江口 定条
  阿部 房次郎
  有吉 忠一
  赤池  濃
  安立 綱之
  光永 星郎
  土方 久徴
  仁井田 益太郎
  辜 顕栄
  広島 松本 勝太郎
  三重 小林 嘉平治
  大阪 佐々木 八十八
     
同成会 伊沢 多喜男
  渡辺 千代三郎
  加藤 政之助
  川上 親晴
  高田 早苗
  武富 時敏
  塚本 清治
  次田 大三郎
  丸山 鶴吉
  青木 周三
  菊池 恭三
  三宅  秀
  柴田善三郎
  菅原 通敬
  富山 金岡又左衛門
  兵庫 田村 新吉
  茨城 大和田健三郎
  奈良 山本 米三
  長野 小坂 順造
  岡山 坂野鉄次郎
  福島 油井 徳蔵
  神奈川 平沼 亮三
  長野 武井覚太郎
     
会派に属しない議員 雍仁親王
  宜仁親王
  載仁親王
  博恭王
  博義王
  博英王
  武彦王
  恒憲王
  朝融王
  守正王
  多嘉王
  鳩彦王
  孚彦王
  稔彦王
  永久王
  恒徳王
  春仁王
  正彦王
  大山柏
  西園寺 公望
  毛利 元昭
  朴 泳孝
  醍醐 忠重
  小松 輝久
  浅野 長勲
  中島 久万吉
  勅 伯 内田 康哉
  勅 男 松井 慶四郎
  渡辺  暢
  樺山 資英
  田沢 義鋪
  黒田 英雄
  松本 烝治
  藤田 謙一
  二上 兵治
  福永 吉之助
  後藤 文夫
  美濃部 達吉
  土方  寧
  小山 松吉
  小幡 酉吉
  宇佐美 勝夫
  松井 茂
  佐藤 鉄太郎
  河田 烈
  関  一
  松本 学
  小野塚 喜平治
  田中 館愛橘
  三上 参次
  長岡 半太郎
  福岡 大藪 守治
  秋田 辻 兵吉
  山形 三浦 新七
  岩手 瀬川 弥右衛門


 なお会期中に、松田正之(男爵・公正会)が補欠選挙で当選・任命され、また会派に属さなかった松本学が研究会に入ったため、会期終了日には、研究会が156名から157名に、公正会が66名から67名に増え、会派に属さない議員が55名から54名に減じた。



貴族院の状況

 この議会に提出された議案は、追加予算案と数件の関連法律案のみであったが、衆議院における政友会の審議引延しのため、議案の貴族院への送付はおくれた。当初予定された12月4日までの会期の間には、議案は全く上程されず、11月30日、12月1日、同4日の3回にわたって、首相・外相の演説及び国務大臣への質問演説が行われたにすぎなかった。このなかでは、さきに述べたように岩田宙造の帝人事件をめぐる小原法相との激しい論争が世の注目をあびたが、それ以外では、朝鮮統治に経験をもつ松井茂(勅選・無会派)の在満機構改革問題に関する質問に関心が寄せられた程度であった。

  松井は、憲兵司令官のもとに文官の警官を従属させるのは「時代錯誤ノ甚シイモノ」とし、現に軍部が中心になって統制している満州において、何故新たに憲兵司令官をして警官を指揮せしむる必要があるのか、1日も速かに文治的警察に復せしむべきではないかと問うた。これに対して岡田首相は、新機構は治安維持のため必要であるが「満州ノ治安ガモツト能ク維持サレルヤウニナリマシタナレバ、直ニ是ハ当り前ノ警察制度ニ持ツテ行クノデアリマス」(速記録第3号)と答えるにとどまっている。

  会期が延長となったで1月5日の本会議に、はじめて衆議院から送付された都市計画法改正案・風水害ニ因ル被害者ニ対スル租税ノ減免猶予等ニ関スル法律案の2件が上程された。前者は災害復興のために土地区画整理手続の特例を認めたもの、後者は被害者に対する第三種所得税・個人営業収益税の減免に関する法案であり、いずれも翌日の本会議で可決成立した。

  ついで7日午前の本会議には、凶作地ニ対スル政府所有米穀ノ臨時交付ニ関スル法律案が上程された。これは主として東北地方の救済を目的とするものであり、昭和9年度産米が平年作の半分以下で冬季に応急土木事業の施行困難(雪などのため)な市町村に対し、50万石以内の政府所有米を交付する、ただしこの交付を うけた市町村は5年以内に同量の米穀を備荒貯蓄の目的をもって貯蔵しなければならないと規定していた。 政府側はこれを応急・恒久にわたる一石二鳥の策だと説明している。同法案は、午後の委員会密議につづいて夕刻の本会議で可決・成立した。

  7日の衆議院本会議で可決され、8日から貴族院での審議が始められたが、問題の追加予算案は、対満事務局新設費6万円等も含まれてはいたが、その他はすべて農村救済・災害復旧のための経費であった。政府はこれらの事業は長期にわたるものであり、総額2億1100余万円と算定したが、そのうち昭和9年度追加予算として7060万円を計上したものであった。 またこの財源は殆んど公債によることが予定され、従って同時に、赤字公債発行法案の限度額引上げための改正法律案が提出されている。これらの案件も貴族院では原案通り可決され、12月9日会期を終了したが、 ともかく衆議院における政友会のかけひきに引き廻され、政府の議会運営の不手際が目立った議会であった。

 (古屋哲夫)

               
第六六回帝国議会 衆議院解説