『帝国議会誌』第21巻

1977年3月

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第六六回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第六六回帝国議会 貴族院解説
第六六回帝国議会 衆議院解説

第六六回帝国議会 衆議院解説
もたつく政民連携運動
岡田内閣の成立
臨時議会問題と予算編成
陸軍パンフレット問題―附一一月事件―
政党の動向
第六六回議会の召集
衆議院の状況
爆弾動議

第六六回帝国議会 衆議院解説



もたつく政民連携運動

  第六五回議会が終わると、斉藤首相は、4月1日静岡県興津の坐漁荘に元老西園寺公望を訪問、元老からも激励を受けたと語り、引続き政権を担当する決意を示した。「西園寺詣でから帰って来た斎藤首相は『国防を中心とする重要予算、各種法律案も議会を通ったので、これから一年先までの政務の進行には差支なく着々これを実行に移して行けるんだ』と愈々これから が斉藤内閣の本舞台に入るような口吻」(東朝、4・3)であったと言う。しかし前議会で中島商相・鳩山文相の二大臣の辞職を余儀なくされた斉藤内閣は明らかに弱体化しつつあり、それはすぐさま後任文相選任の失敗という形であらわれてきた。

  鳩山辞職後、文相は首相自身が兼摂していたが、議会後には政友会から補充されるだろうと一般に予想されており、望月圭介・前田米蔵などが下馬評にあがっていた。政友会主流は内閣と絶縁する方向に動いてはいたが、しかし正面から対決する気力はなく、党代表としては入閣させないが、党員が個人として入閣するのには反対しないといった煮え切らない態度を示していた。そしてまたそのことは、内閣側に政党の動きを軽視する空気を生み出していたことであろう。斎藤首相は、はじめ商法学者としても知られた松本烝治商相を文相にまわし、そのあとを政友会から補充しようと考えていたが、松本に文相就任を断られると、高橋蔵相・山本内相の諒解を求めただけで、政友会員である大蔵政務次官堀切善兵衛に文相就任を交渉した(4月7日)。しかし堀切は大臣になるよりも、高橋蔵相をたすける現職に居る方が自分の本懐だとして、あっさり文相を断ったが、この交渉は政友会側を憤激させることになった。たとえ内交渉とは言え、鈴木総裁に何の断りもなく堀切次官に直接交渉するとは、党を無視するのも甚だしいと言うわけである。首相も結局、政友会との紛糾を避けるため専任文相の選任を暫く見合せることにしたが、政界では一大臣の補充にも失敗するようでは、内閣も末期的だと批評されるようになった。

  しかし憤激している筈の政友会からも、この末期的内閣を一気に打倒しようという動きは現れなかった。衆議院の絶対多数を握る政友会では、主流派のなかには倒閣に踏み切るべきだとの声もあったが、中心人物である鳩山一郎が政治献金問題を追求されて文相を辞職するという状況では意気上がらなかったばかりでなく、倒閣運動に乗り出せば党が分裂するという危機感に脅かされていた。当時の政友会には床次竹二郎派・ 久原房之肋派が反主流の立場に立ち、望月圭介・三土忠造ら旧政友系と呼ばれる一派が中間派を形成していたが、床次派・久原派はいずれも政民連携・政党合同などを唱えて民政党の主流・反主流派と連絡しており、これらの勢力は前議会末期の3月22日、128名の代議士(政友79名・民政49名)を結集して「政党連携懇談会」を結成するに至っていた。政友会反主流派と民政党とは、ファッショ的勢力の強まっている当時の状況では政党内閣の復活は無理だとみる点で共通しており、ファッショ排撃・憲政擁護を唱えて政党の地位を守ろうとする一方、挙国一致をスローガンにして政党間の連携・合同を行い、軍部・官僚勢力との抗争を避けながら政権の一角に食い込もうとする姿勢を示していた。

  これに対して政友会主流派は、ファッショ排撃では共通するものの、絶対多数を握る政友会を基礎にして鈴木総裁が首相の座につくことが憲政擁護の道だと考えており、政策的争点をつくり出して斉藤内閣をおいつめようとしていた。しかしそのためには絶対多数を確保することが前提となるのであり、反主流派の離反を防がねばならなかった。政友会主流が政民連携を唱えるのはこのような観点からであり、両党執行部を通さない連携運動を抑圧するとともに、両党連携によって鈴木内閣の可能性をより強めようとするものであった。

  前議会末期、前述した政友会反主流派・民政党による政党連携懇談会が形成される過程で、3月17日、政友会執行部は民政党に対して共同決議案の提出を申し入れ、政民連携運動に積極的姿勢を示した(3月22日、両党幹事長会談)。これに対して民政党は、斉藤内閣との抗争から鈴木内閣を狙うという方向に引き込まれるのを避けようとして逆に共同政務調査を提案し、議会後、この問題をめぐって両党の交渉が行われることになった。4月5日の幹事長会談で再開された連携交渉では、まず民政党側が共同調査の対象を「時局対策」に限定しようと主張したのに対して、政友側からは、両党ともすでに用意した政策があるのに今更共同調査でもあるまいという声があがり、結局可能な範囲で政策協定を結ぶということに落着いた。そして4月26日民政党から協定の対象とする問題として、@米穀対策の確立、A思想対策及び教育制度の改革、B行政・財政並びに税制の根本的整理という三項目が提示されたが、両党の財政政策の相違を考慮してBを除き、 @、Aについて10名づつの委員を出して検討することとした。しかしこの三項目とは、すでに4月10日の閣議で今後の重点政策として決定・発表されていた斉藤内閣の三大公約―1、財政・税制の整理刷新、2、教育の革新並びに思想対策の確立、3、農村対策 の樹立―と同じものにすぎず、政策によって政局を動かそうとする積極的姿勢はみられなかった。

  当時の新聞は、こうした政民連携運動を、「運動発生の根本原因が、政党戦線の防禦的意図に存するがために、時局指導の大乗的気魄に乏しい」と評し、また政策協定については「時宜に適する内外国策を如何にするか、また、その高所に立脚して、後継内閣をどうして組織するか、更にこの陣営をもって現内閣に対しいかなる態度をとるか等々の要点を掲ぐべきである」のに、「かような急所に少しの一致点もなく、レディ・ メイドの政策を木に竹をつぐやうにつなぎ合せようとする」ものにすぎず、従ってその前途は無条件に悲観的だと論じていた(東朝社説「政策協定の根本的矛盾」、4・28)。両政党もまた、この運動の発展にそれ程期待をかけているようにも見えなかったが、しかし、こ の政策協定を軸とする政民連携運動を進めることを正式に承認した。それは政治的地位を回復させるためのきめ手を見出せないままに、手探りをつづけている既成政党の姿を示すものであった。

  5月11日、両党政策委員の第一回会合が開かれ、「今回の政策協定は国家本位の立場より虚心坦懐小異を捨てて大同につき、互に研磨し相融和して政党の使命たる政策主義を発揮する趣旨であって、多年の情弊を解消し、国民が政党に繋げる希望を満し得ることと信ずる」(東朝、5・12)との声明を発表した。両党委員は次のような顔振れであった。

政友会=

山本条太郎・前田米蔵・島田俊雄・東武・山口義一・安藤正純・内田信也・砂田重政・岡田忠彦・若宮貞夫(幹事長)

民政党=

松田源治・桜内幸雄・俵孫一・川崎卓吉・小山松寿・増田義一・小川郷太郎・添田敬一郎・高田耘平・大麻唯男(幹事長)


  しかし、こうした委員会が出来たといっても、すぐさま身を入れた政策論議が進められたわけではなかった。5月30日と6月13日に政策委員の懇親会が開かれたうえで、6月29日になってやっと第二回の政策協定委員会にこぎつけているが、問題別に連絡委員を設け、米穀問題=島田・東(政友)、小山・高田(民政)、思想教育問題=安藤・岡田(政友)、添田・増田(民政)とすることを決めたにすぎなかった。この頃にはすでに政変がまじかに追っており、次期内閣の問題に関心が集中されていたが、民政党側は政策協定を政争に利用することに強く反対しており、政民連携運動が次の内閣の行方に影響力を持ち得ないことは明らかとなっていた。



岡田内閣の成立

 5月19日、帝人事件に関連して黒田大蔵次官が召喚、ついで起訴されるや、この事件の進展によって斉藤内閣が倒れることは必至だとする意見が支配的となり、政界の裏面ではさまざまな後継内閣運動が展開されるようになった(帝人事件については「第六六回帝国議会貴族院解説」参照)。前回の政変にくらべると平沼騏一郎の人気が下がり、宇垣一成・清浦奎吾らが有力候補として取沙汰されている点が特徴であった。枢密院副議長の地位にあった平沼は、これまでの慣例から言えば、5月3日の倉富勇三郎議長の辞任にあたり、副議長から議長に昇格する筈であったが、この慣例が破られて一木喜徳郎前官内大臣が議長に任命され、平沼が元老・宮廷グループに不評であることが明らかになり、次の首相に指名される可能性なしとみられたのであった。こうした情勢のなかで、政友会首脳部は、衆議院の絶対多数を制する同党鈴木総裁に組閣の大命が下ることを期待し、早々と5月下旬には、鈴木内閣以外の内閣には入閣しない、個人的に入閣する者は除名するとの方針を固めた(東朝、5・26)。つまり党内の統制を強化し、策動がましきことを避けながら、事態を静観しようというわけであった。しかし、政友会幹部の統制力も、この方針を貫きうるほど強力ではなくなっていた。当時政党の状況は次のように報ぜられている。

 

〔政友会〕 党の主流勢力の期待は、鈴木総裁を首班とし、政友・民政の協力を主体としたる挙国一致的内閣の実現にあり、もし不幸にして鈴木総裁に大命が降下せざる場合には如何なる後継内閣に対しても絶対反対の態度を持し、以て党の根本的更生をはかる以外に政友会の進むべき道はないといふ意見に一致している。この総裁系の方針に対して真正面から反対的行動をとっているのは久原糸で、同系は清浦伯を担いで大っぴらに運動して居り、……反鈴木系の主流たる床次系は、或ひは久原系と一脈を通じ或ひは民政党の一部と連絡を保って暗躍しているやうであるが、当の床次氏はどの方面の勧誘に対してもはっきりした態度を見せず、表面洞ケ峠をきめ込んでいる。……党の中立的存在としての旧政友系の意向は、鈴木総裁に組閣の大命が降ればそれに越したことはないが、若し宇垣総督とか清浦伯とかが後継首相の印綬を帯びた場合においても相当の礼を以て入閣援助を交渉し来るならば無下にこれを拒否すべきか否かは余程慎重な考慮を要するとなし、ただ問題は鈴木総裁を交渉相手とせず、所謂ごぼう抜きの作戦に出る場合に如何に対処すべきかについては、 旧政友系の中においても、その個人的立場や思惑により意見が岐れるのではないかと見られる。いづれにしても鈴木総裁が次期政権に見放された場合には党内は紛擾混乱を現出するものと見られている。

〔民政党〕 民政党は斉藤内閣が倒れても、今直に政党内閣の出現は政界四囲の情勢よりして全く望みなきものと観念し、政友会との連立内閣運動にも何等の関心も払っていない。党内においてもっとも注目すべきは民政党と古くより関係ある宇垣総督の擁立運動で、この動きは全体的に党内を支配しほとんど異論者なく、特に宇垣総督と特殊の関係を持つ富田幸次郎・俵孫一・小泉又次郎氏等を中心とする一派及び頼母木柱吉・川崎克氏等が積極的に宇垣擁立運動に奔走し、町田忠治・川崎卓吉氏等もまたこれに一脈の関係を保っているやうである。しかして宇垣内閣の実現性については党内ひとしく確信を抱いていたが、その後対軍部関係等よりして幾分懸念を持ち始めたものもあり、若し宇垣内閣の実現が困難ならばといふ意味で、第二段の策として清浦伯を推さんとする運動も行はれ、旧政友本党系特に桜内幸雄・小橋一太氏等が中心となり、旧憲政系では野村嘉六氏などもこれに加はっている……。

〔国民同盟〕 中野正剛氏の一派は従来の関係から軍首脳部と緊密なる諒解の下に平沼男擁立運動に熱中している。この間にあって山道襄一氏の一派は宇垣朝鮮総督擁立に一肌脱いでいる。安達総裁は清浦伯とは郷里を同じくし大先輩である関係から政治的立場は別として、清浦伯の出馬に対して……反対も出来ない事情にあるもののやうである(東朝、6・4)。


  しかしこの間、元老西園寺の周辺では、翌1935年に海軍軍縮会議の開かれることを考慮し、かつてロンドン条約をまとめるために奔走した予備海軍大将岡田啓介を次期首相に推挙する方向が固められつつあった。7月3日、斎藤内閣が総辞職すると、元老・重臣会議の結果にもとづいて、翌4日、岡田に組閣の大命が下された(この間の経緯については「第六六回帝国議会貴族院解説」参照)。

  岡田は早速、後藤文夫・河田烈を参謀として組閣に着手した。岡田はのちに回顧して、「自分が首班になって内閣を組織するには、どうすればいいか、わたしにはまるでわからん。斉藤さん(前首相)もその点では心配して、当時農相だった後藤文夫を組閣参謀にしたがよからう、と推薦してきた。原田(熊推)のほうでも、なれない仕事だから、といって拓務次官だった河田烈を同じく組閣参謀にすすめてきた」(「岡田啓介回顧録」、82〜3頁)と述べている。しかしこの2人―後藤は内務官僚出身でいわゆる新官僚の中心人物、 河田は大蔵官僚出身―を組閣参謀としたことは、対政党交渉のつまずきともあいまって、岡田内閣に最初から官僚的という印象を与えることになった。

  岡田は4日夜、鈴木政友・若槻民政両総裁の私邸を訪れて協力を求めたが、内閣の中軸は斉藤内閣を受けつぐ形とし、政党の意向とは関係なく、陸・海・外三相の留任を求め、また蔵相には高橋前蔵相の推薦した者をあてることとした。組閣2日目の5日には、蔵相に、帝人事件で逮捕された黒田次官のあとをついで、主計局長から大蔵次官に昇任したばかりの藤井真信を登用すること、法相には、東京控訴院長の小原直をあてることなどが決まった。また、組閣参謀の後藤文夫を内相、河田烈を内閣書記官長に予定した。そしてその残りのポストを、政党に割り振ろうというのであった。

  これに対して政党側では、民政党がまず岡田内閣援助の態度を明らかにした。すでに同党若槻総裁は前総理の一人として重臣会議に列しているが、その席で西園寺から「岡田の内閣を助けるという考えか」と問われ、「これは迷惑だと思ったけれども、すでに岡田内閣の成立に賛成したのであるから、これを助けないというわけには行かない。そこでもし党員が岡田内閣に反対するなら、私は総裁を辞すばかりだと覚悟をきめ、躊躇なく『援助します』と答えた」(「古風庵回顧録」、398頁)という。しかし党内からこの若槻の態度に対する異論は現れなかった。そこで岡田は若槻に対し、民政党から2名の入閣を求め、その1名を町田忠治とし、もう1名は若槻が選んでほしいと申し入れ、若肢は川崎卓吉を推したが、結局松田源治が入閣し、町田は商相、松田は文相ということに落着いている。

  一方政友会では、前述したように主流派は鈴木内閣以外の内閣には入閣しないとの態度を固めていたが、さらに、重要閣僚をいち早く決定したうえで、いわば組閣の第二段として政党と交渉するというやり方は、「政党軽視の仕打」だとする反発が強まってきた。岡田は政・民両党から2名ずつ入閣させて挙国一致の形をとろうとし、5日夕刻になって鈴木政友会総裁に対 し、逓相に床次竹二郎、農相に望月圭介をあてたいので、入閣を斡旋して欲しいと依頼すると同時に、床次・望月とも接触し始めた。しかし、望月はもはや大臣として働く意思はないとして直ちにこの交渉を断り、政友会も入閣拒絶論が大勢を占めた(7日朝、正式に拒絶回答)。岡田の組閣構想は暗礁に乗りあげた形となったが、この経緯については次のような政友会に同情的な批評も見られた。

  すなわち、東京朝日は7月7日の社説で、「副総理格に見られ、選挙と予算を握って事実上の内閣の中心をなすべき内務大蔵両大臣を政党外に先づ求めて、その残余部分について、位置と人とを指定して、政党から入閣を求めるということは、何としても、礼を尽したるものとは見られない……政策についても人選についても相談されずに、名指しに雇ひに来られて、党員を差出す政党があるべき筈でなく、手伝ひ人足の様に頼まれてゆく政党政治家はあってはならないのである」と論じていた。

  ともあれ、岡田としては、床次との交渉に期待をつなぐ他はなくなっていた。床次は入閣についての態度を保留しながら、有利な条件をかちとろうとし、岡田も結局、政友系の入閣者を2名から3名にふやすという床次の要求に妥協せざるを得なかった。そして7日夜に至ってようやく逓相床次のほか、農相山崎達之輔・ 鉄相内田信也という政友会からの入者が決定、翌8日親任式が行われたのであった(なお、留任者は、広田弘毅外相・林銑十郎陸相・大角ュ生海相の3名、拓相は岡田首相の兼任で出発した)。これに対し、政友会は入閣した3名を党議無視の理由により除名処分に付し、野党としての立場を明らかにした。しかし、30名内外とみられた床次系議員は当面政友会に留る方針をとったものの、五・一五事件以後次第に激化してきた政友会の派閥抗争は、この除名処分を契機にして、分裂の方向に発展してゆくのであり、政友会の野党としての活動も、こうした分裂の危機によって制約されることになるのであった。

  しかし岡田内閣も決して強力ではないことは、政務官人事のもたつきをみても明らかであった。政務官とは政務次官と各省参与官の総称であるが、このポストは政変の度毎に猟官運動の対象となっており、岡田内閣ではまず、総数24を党派別にどう割り振るかが問題となった。斉藤前内閣の場合には、政・民両党とも閣僚を送って協力していたため、政友12、民政8、 貴族院4の比率となっていたが、今回は政友会主流が野党にまわっているのだから、民政党の比率をふやせという声が出るのは当然であった。しかしどの程度民政党をふやすか、逆に言えば、政友会を除名されてまで協力してきた床次らの勢力にポストをいくつ与えるかが問題となった。最初民政党側は、民政10、政友系8、貴族院6と主張したが、政友系の閣僚を2名から3名にした実績を持つ床次が承知する筈はなく、結局17日の閣議に至ってようやく、政・民各9、貴族院6の比率が決定した。床次としては当初、自派以外 にも政務官のポストを与えて、政友会への影響力を強めようとしたが、比率の決定がおくれている間に、政友会主流派の統制が強化され、床次の策動の余地はなくなったとみられた。

  以後具体的な人選に入っても、大蔵政務次官の銓衡をめぐって貴族院側と紛糾を起こすなど、「拙劣な人事行政」と評されたが、19日に至って、次のような顔振れが決定した。

省名 政務次官 参与官
外務 井阪豊光(政友) 松本忠雄(民政)
内務 大森佳一(公正) 橋本実斐(研究)
大蔵 矢吹省三(公正) 豊田収(政友)
陸軍 土岐章(研究) 石井三郎(政友)
海軍 堀田正恒(研究) 窪井義道(政友)
司法 原夫次郎(民政) 舟橋清賢(研究)
文部 添田敬一郎(民政) 山添儀重(民政)
農林 守屋栄夫(政友) 森肇(政友)
商工 勝正憲(民政) 高橋守平(民政)
逓信 青木精一(政友) 平野光雄(民政)
鉄道 樋口典常(政友) 兼田秀雄(政友)
拓務 田中武雄(民政) 手代木隆吉(民政)


 政友会は、政務官のポストについたこれら9名をも直ちに除名して、野党としての立場を明らかにしていた。



臨時議会問題と予算編成


 岡田内閣は、当初から陸軍の在満機構改革要求、海軍の軍縮問題についての強硬方針などによってゆれ動き、軍部の政治的発言力が一層強化されつつあることを示していた(これらの問題については「第六六回帝国議会貴族院解説」参照)。同時に国内では、繭価の暴落や冷害・旱害による大凶作といった事態に直面しており、 農村対策が政治問題化するのは避けられないところであった。もっともひどい凶作に見舞われた東北地方の状況は次のように報ぜられている。

 

 「県当局の最近調査によると、青森県は救済を必要とする農家は、総戸数八万七四三七戸のうち二万二四二三戸に及び、秋田県は飯米不足の町村四〇、その人口十五万人に上り、山形県は稲の作付総面積九万五九三〇町歩のうち、被害面積は実に九万〇八四二町歩に達し、満足な田は僅に五千町歩、庄内平野を擁して米産地を誇るこの県、本年の施米を必要とする戸数は恐らく三千戸を下るまいといふ。宮城県は農家総戸数約十万戸のうち四万戸は被害を受け欠食児童数は七五〇〇名乃至一万名に達しようと見られ、現に比較的被害少しと称される福島県においてすら、会津地方の三分作を筆頭に全県的の不作に加へ、繭安の打撃で農民対手の商人は深甚の痛手をうけ福島市内ですら有力商店の倒産続出を憂へられ、破産と紙一重の危い瀬戸際に立っていると観られている」(東朝、10・12)。


  すでに五・一五事件以後軍部と抗争する気力を失い、もっぱら国内問題、とくに農村対策を大きくとりあげることで、その政治的地位を維持しようとする方向に転じていた政党が、この問題に力を入れてくることは必至であった。とくに政友会の場合には、前議会における臨時米穀移入調節法案等米穀関係三法案の可決にあたって、「米穀の数量及び価格調節に関する現行制度の不備を根本的に改正せんがため速に審議会を開き、内地外地全部に通ずる統制計画を樹て臨時議会を召集してこれを提出すべし」との附帯決議を成立させており、これを根拠として、岡田内閣に臨時議会の早期召集を要求する態度を固めた。民間からも、業者団体である日本中央蚕糸会が、7月28日の評議会で養蚕恐慌対策のための臨時議会召集を求める陳情運動を起こすことを決定するといった動きもあらわれてきた。

  しかし岡田内閣は当初には、臨時議会召集について消極的であった。すでに前内閣時代にも、斉藤首相は前述した附帯決議に対して「決議ノ趣旨ヲ尊重シテ、成ルベク速ニ之ニ著手シテ実行致シタイ」と答えたものの、それは確定案が出来れば、臨時議会を召集するという意味で、必ず召集すると約束したものではないという態度をとっていた。岡田首相もこの態度をうけつぎ、8月25日、政友会から正式に臨時議会を召集するよう申し入れをうけた際にも、「農村対策、殊に米穀問題及び蚕糸問題等については鋭意攻究中である。臨時議会の問題については具体案を得たる上考慮すべし」(東朝、8・28夕刊)と答えるにとどまっている。 岡田内閣としては8月3日の閣議で、繭価対策として、(1)蚕繭共同保管助成金120万円、(2)桑園整理助成施設補助75万円、(3)桑園混作奨励金105万円、合計300万円の応急支出を決定しているが、この種の応急対策を行えば、臨時議会を召集する必要はないと考えていたようであった。

  ところが9月21日になると、室戸台風が大阪を直撃、関西地方を中心に大きな被害をうけることになり、9月28日、岡田内閣も、これまで問題となってきた 農村対策とこの災害対策とをとりあげて臨時議会を召集することに決定したのであった。この台風は、室戸岬で912ミリバールの勢力を示し(新記録)、3000名をこえる死者・行方不明者を出し、4万戸を全壊流失させたが、とくに午前8時すぎの始業時に多くの校舎が倒壊し、教員・生徒の死者750名を数えるに至っている。

  臨時議会は11月下旬に予定され、災害救済予算を中心にするとは言え、政友会の出方次第では一波瀾あ るかもしれないとみられた。当時の新聞は次のように書いている。

 

 「臨時議会において警戒を払ふべきは政友会の態度とその出様であって、政友会現在の政治的立場を考慮する時は、政友会総裁系は相当強く政府に肉薄して手傷を与へんとする態度に出で、或は政府の救済予算を不足として更に巨額なる経費の支出を迫るかもしれない。
 かかる際は民政党もその政党的立場から一概に政府を支持するものとも予想できず、殊に救済費が意外の巨額に上る時はそのあふりを受けて軍部予算の自然縮小の結果を見ることになるので、議会前後となれば政府、政友、民政、軍部各方面を繞って相当緊張せる場面が展開されないとも限らないとて警戒している」(東朝、9・28)


  つまり、臨時議会に提出される追加予算は、次年度以降に及ぶ復興事業計画をふまえて、その一部として出されるわけであり、従って、その規模が小さければ、 政友会から攻撃が加えられるであろうし、大きくすれば、次年度以降の軍部の予算要求と衝突するであろうというのであった。

  すでに8月に各省から提出された概算要求では新規要求の総額は12億円に達しており、その半ばに近い5億4千万円は陸・海軍からの要求であった。これに対 して藤井蔵相は、満州事変以後の赤字公債の累積は限界に達しており、公債漸減の方針によらなければ財政運営は行詰ると主張していた。従って、陸海軍の要求をどう抑えるかが問題となっているこの時期に、災害関係予算を追加しなければならないことは、財政当局にとって大きな痛手であった。大蔵省はまず、赤字公債を5億円台にとどめようという目標の下に、10月から概算要求の査定を始め、新規要求の承認額を4割弱に抑えるとともに、新たに増税を行って、歳入を少 しでも増加させようと計画した。この案は、軍事予算の撒布によって好景気に転じてきた軍需関連産業にねらいをつけたものであり、昭和5、6年にくらべて一定限度以上に収益が増加しているものに対して、特別利得税を課そうとするものであった。これによる増収は初年度3千万円、次年度4千万円という程度のものにすぎなかったが、赤字公債一本槍で来た満州事変後の財政に一つの転機をもたらすことになるのではないかとして注目された。

  しかし公債漸減主義を貫けるか否かは、各省、とくに陸・海軍省の新規要求をどの程度に抑え込むことが出来るかにかかっていた。11月5日、いわゆる予算閣議に提出された大蔵省の査定案(昭和10年度歳入歳 出概算)は、一般会計の規模を20億4200万円(昭和9年度予算より約一億円減)とし、うち新規要求承認額は4億5千万円、赤字公債は6億400万円の発行を見込んでいた。陸軍の要求2億4600万円は1億6600万円に、海軍の場合には2億9400万円を9500万円に削減されていた。この厳しい査定には各省とも不満であったがとくに陸・海軍は激しく反発 し、陸軍は8千万円、海軍は9千万円という大きな金額の復活を要求してきた。

  しかし藤井蔵相の立場から言えば、このうえにさら に災害関係予算があり(11月12日の大蔵省議で総額1億7500万円、うち9年度6900万円、10年度5600万円と査定)、これも赤字公債でまかなう以外にないのだから、公債漸減方針を実現するためには大幅な復活は認められないというわけであった(なお昭和9年度の赤字公債は、災害予算関係を除き8億1100万円)、これに対して軍部の側では、公債消化力が限度に来ているという藤井の説明を納得せず、例えば林陸相は「財源がないというけれども公債を増発すれば何んでもない、公債は昨年度以上には発行できぬとの説をなすものもあるけれども、今年は全然予期しなかった風水害といふものがあったのだからさう固苦しくはいへまいぢやないか」(東朝、11・10)などと述べていた。陸軍の場合には、極東ソ連軍の増強に対応するための強化が急務とされ、海軍では軍縮条約の期限切れが近づいていることが強調されていた。

  しかし藤井蔵相も病身をおして頑張りつづけた。11月19日に予定されていた第二次予算閣議は、蔵相と軍部との調整がつかないままに延期され、床次逓相・ 町田商相などが調停役を買って出たが、藤井は災害予算まで含めて、昭和10年度の赤字公債を少なくとも7億円台におさえようとした。21日の第二次予算閣議に提出された大蔵省案は、陸・海軍合計2600万円、総計4100万円の復活を認めたにすぎず、予算編成は行詰り状態に達した。しかし臨時議会の召集は27日に追っており、災害予算確定の観点から言ってもこれ以上10年度予算の編成をのばせないとして岡田首相自ら調停に乗り出し、結局予算規模をあと5000万円拡大してそれを陸・海軍で折半するという政治的解決に落着くことになった。24日の閣議で決定された予算案は、一般会計総額21億9千余万円、公債発行額は7億5千万円に達し、かろうじて前年より数千万円を減ずることが出来た。同時に災害関係予算も次のように決定された。

総     額 2億1110円
昭和9年度 7060万円
昭和10年度 6510万円
昭和11年度以降 7540万円


  この昭和9年度分に、在満機構改革費等約30万円を加えたものが、第六六回臨時議会に追加予算として提出されることになったわけである。



陸軍パンフレット問題―附、一一月事件―


 岡田内閣において、陸軍が在満機構改革問題、予算問題などについて強硬な態度を示したのは、ようやく荒木陸相時代の観念的傾向から脱して、具体的な政策によって国策をりードしようとする方向に進みつつあることを示していた。その目標は強大な軍備と同時に、国家総動員体制をつくりあげることであった。そしてそのような陸軍の動向を示すものとして注目されたのが、10月1日に発行された陸軍省新聞班の「国防の本義とその強化の提唱」であった。陸軍省の新聞班・調査班はとくに満州事変以後多くのパンフレットを発行しているが、思想・経済にまで及ぶ主張の展開は、これがはじめてであり、以後「陸軍パンフレット」と言えば、この小冊子を指すようになった。

 「たたかひは創造の父、文化の母である」という書き出しで始まるこのパンフレットの目的は、武力戦本位の国防観を脱却し、平時から「国家の全活力を総合統制するにあらずんば、武力戦は愚か遂に国際競争其物の落伍者たるの外なき事」(みすず書房版、「現代史資料5、国家主義運動2」による)を国民に認識せしめようとするにあった。「『国防』は国家生成発展の基本的活力の作用である、従って国家の全活力を最大限度に発揚せしむる如く、国家及社会を組織し、運営する事が、国防国策の目でなければならぬ」というこの主張は、言いかえてみれば、政治・経済も思想・文化も「国防」に従属しなければならないということにほかならなくなる。そしてこの観点から、「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を菱除し、真に挙国一致の精神に統一すること」、「利己的個人主義的経済観念より脱却し、道義に基く全体的経済観念に覚醒し……都市と農村との相互依存と国民共存共栄の全体観に基き経済機構の改善、人口問題の解決等根本的の対策を講ずること」が要求されることになるのであった。

  陸軍が、思想問題や経済問題に介入してくること、特に経済機構の改変を要求してきたことは政界に大きなショックを与えた。10月3日の政友会総務会では次のような意見が交換されたという。

 

「一、陸軍のパンフレットが近代国防を論じてその本義を明かにしたのはよい、然れども現在の経済機構の変改を期して総て国家統制の一元に帰せんとするが如きに至っては遽に同意し難い。    

 一、陸軍が斯の如き重大意見を発表せんとするならぱ、当然閣議に諮って後になすべきで単独に之を発表したことは軽卒である。岡田首相は之に対して何等の責任を感ぜざるか。

 一、予算編成期であり且臨時議会準備中の今日に於て、陸軍が突如この如きパンフレットを発表した真意は那辺にあるか、何れにしても世人をして陸軍が所管以外の問題に干与し他の機関を圧迫するが如き惑を起さしめたことは遺憾である」(東朝、10・4)。


 林陸相は、5日の閣議で軍自らがこれを実行に移す考えは毛頭もっていないと弁明したが、陸軍がこうした方向に関係機関を動かして行こうとしていることは明らかであった。すでに昭和4年から資源局を軸として進めてきた総動員計画の作成も、この年の6月には最初の具体案である「応急総動員計画」をまとめあげ るまでに進捗していた。林もパンフレット問題に触れて「今後尚軍部としては経済動員・資金動員等の国民的動員計画の樹立も必要であると考へている。この点については更に陸軍からパンフレットを発行して国民の覚醒を促すことになるかも知れない」(東朝、10・5)と語っている。また陸軍では次の通常議会に防空法案を提出し、「市町村を主体として防空地方委員会を設置し、平時防空に関する施設や演習等をなさしめ、戦時には直に軍部の統制下に入れて有効なる活動をなさしめる」(同前、10・6)、つまり平時から軍の影響力を地方行政組織のなかに滲透させようとする方策をも準備しつつあった。

  こうした陸軍の活発な活動は、中央部が永田鉄山軍務局長を中心とする統制派によって固められたことの現れであり、裏面では皇道派との抗争が次第に激化しつつあった。統制派とは、荒木前陸相らの観念的傾向を是正して具体的な国策立案をすすめるとともに、隊付青年将校の国家革新運動をおさえ軍中央部の統制を確立してその政治力・発言力を強めようとしている 幕僚層を指している。永田が軍務局長に就任するのはこの年の3月であるが、前年(昭和8年)秋頃から、こうした幕僚層の動きは活発になっていた。11月16日には、武藤章・池田純久・片倉衷らの中央部幕僚達と村中孝次・磯部浅一・大蔵栄一らの青年将校のリーダーとの懇談会が聞かれているが、ここで幕僚達は、陸軍大臣以下の軍政管理者以外は断じて政治工作に関与すべきではなく、従って青年将校が白巳の政治的意見の実現を上司に迫るが如きことは許さるべきではないと主張し、話し合いは物別れに終わっている。このことは、統制派と呼ばれる勢力が形成され、それが青年将校運動の弾圧にのり出してきたことを物語っていた。さらにこの年の1月には片倉を座長とする少壮幕僚の研究会で「政治的非常事変勃発ニ処スル対策要綱」が作成されているが、この文書は、青年将校らのクー デターが起こった場合、それを鎮圧しながら政治的主 導権を握るための方策、そこで実現すべき革新政策などを列記したものであった。

  こうした幕僚層の上に、陸軍第一の逸材と言われた永田鉄山が軍務局長に就任したことは、統制派の力を 確固たるものとしたが、反面青年将校及び彼等を支援しようとする荒木貞夫・真崎甚三郎ら皇道派勢力との対立が深まることは必然であった。在満機構改革問題をめぐっても両派の抗争は激化していたようであり、例えば原田龍雄は「満州機構の問題で、引続き研究してみると、非常におかしなことは、どうかして倒閣の具に供さうとする一派があって、しきりに永田軍務局長や陸軍大臣を突っついているらしい。だんだん海軍方面やまた陸軍の一部の者の様子をきくと、やはり真崎大将がしきりに陸軍大臣を責めているらしい。悪く見ると一石二鳥で、つまり陸軍大臣を辞めさせると同時に内閣をも倒し、さうして今日の陸軍の中心勢力を また転換して、真崎・荒木の時代を実現したいといふ 気配が充分あることが看取された」(「西園寺公と政局」 第4巻、72頁)と述べている。

  こうしたなかで、臨時議会の召集も迫った11月20日、村中孝次・磯部浅一という青年将校運動のリーダーと陸軍士官学校生徒数名がクーデターを計画したとして逮捕されるという事件が起こった。11月事件と呼ばれるこの事件は、8月1日付けで士官学校の中隊長に就任したばかりの辻政信が、自分の生徒を村中らに接近させてクーデター計画を聞き出し、片倉衷・塚本誠(憲兵隊)らと共に、軍中央部に待ち込んだものであった。しかしこれに対して村中・磯部はこのク ーデター計画なるものは片倉・辻らのデッチ上げだと反論、逆に彼等を誣告罪で告訴して全面的に抗争する姿勢を明らかにした。

  統制派が、この事件によって、青年将校運動の徹底的弾圧を企てながら、皇道派の持永浅治東京憲兵隊長らに妨害されたことは、原田が「永田軍務局長に電話できいたところ『今度の不穏事件については、陸軍も徹底的にやるつもりだから……』といふことであり、また東京憲兵隊長はしきりに警視総監に『手を出さないでくれ』といっているが、しかし軍務局長は『外部からの応援も頼んで、殊に西田税とか北一輝とかいふ者をどうしても捕まへなければならん』と言っていた。さうして永田局長の話では、『結局は明るみに出して立派に措置する』といふ話であったところ、憲兵隊長はどうもこの西田とか北などを疵っているやうな傾きがあり……」(同前、133頁)と語っているところからもうかがうことが出来る。

  ともあれ、11月事件を契機として、皇道派は全面的な反撃に転ずるのであり、翌年の「粛軍に関する意見書」の配布、永田暗殺、さらに翌々年の2・26事件をひき起こしてゆくことになるのであった。




政党の動向

 岡田内閣の成立にあたって、政友会が床次・山崎・内田の3人の入閣者を除名したことは、政党の情勢に種々の影響を与えた。まず政友会では、久原派が岡田内閣絶対反対の態度をとって、これまで争ってきた鈴木総裁派と握手する。久原は、有力総裁候補の床次の離脱をみて、次期総裁をねらい始めたものとみられたが、ともかくこれで当面は、主流派の立場はやや安定したようにみえた。しかし与・野党に別れたはずの民 政党との関係はすっきりせず、総裁派の一部からは絶縁論が起こったものの、久原系・旧政友系は依然として連携を望んでおり、8月には、政変前からの政策協定交渉を続けることになった。といっても、「米穀専売と米穀統制の折衷案に傾く民政案と、米穀管理に重点を置く政友案の一致し難きこともさることながら、臨時議会開催を迫る政友会主流と反対を決定せる民政党との政治的態度はまさに対蹠的なものではないか」 (東朝、9・3社説)と評されるような状況のもとでは、両党とも政策協定にさしたる熱意はなくなっていた。

  しかし、官僚勢力の抬頭が一層顕著に感じられ、また軍部の政治関与がはっきりと強化されてきたこの時期には、政党間の連携関係をつくっておかなくては、政党はますます無視されてしまうのではないかという危惧感も支配的となってきた。そして臨時議会の召集が決定された9月末からは、これまで共同決議案や政策協定などの方式に固執してきた政友会総裁派も、ともかくも民政党との間に精神的連携をつくろうとする方向に転じた。10月19日鈴木総裁も旧政友系及び久原派を代表する山本条太郎・久原房之助らに連携運動を促進することを依頼し、10月22日には両氏の招待による政友会長老会議が聞かれて、連携問題が話し合われるに至っている。

  一方、民政党側も倒閣などを目標とすることには反対するが、立憲政治擁護などの抽象的スローガンで政友会と提携しておくことは必要だと考えており、また軍部の横暴、岡田内閣の弱体という印象が強まるに従って、政党連携論も広まりつつあるようであった。当時の民政党の情勢については「岡田内閣が如何にも弱々しい感じを政界各方面に与へている結果、与党の立場にある民政党内にも、岡田内閣の前途に対して全幅の信頼を持ち得ない空気が暗々裡に動いている。…… 殊に川崎・俵・頼母木・桜内・富田氏等が現内閣にあき足らぬ気持が、野党の立場にある政友会と一脈相通じている事は間違いないやうである」(東朝、10・26)とも報ぜられていた。ともあれ、政友会側の積極化によって、臨時議会にむけて、政民連携運動が再燃してゆくことになるのであった。

  こうしたなかで、政友会を離脱した床次らも自己の勢力を拡大し、あわよくば新党を樹立することをねらっており、まず、内閣に有力者を集めた国策審議会を設けることを提唱した。政友会鈴木総裁は早速「閣僚さえ送らなかった政友会が大臣の行ふべき国策審議に代表を送ることは筋が通らない」(東朝、8・24)と して絶対不参加の意思を明らかにしたが、旧政友系と呼ばれたグループはこれに好意的であり、審議会設置は政友会の再分裂をもたらす可能性をひめていた。また床次は国民同盟の安達謙蔵を拓務大臣とすることを 岡田首相に提議しており(「西園寺公と政局」第4巻、 83頁)、国民同盟の与党化、さらには新党への引込みの思惑をもって工作していたとみられる。

  発足当時は国家社会主義陣営の一角を形成するかにみえた国民同盟も、この時期になると、民政党へ復帰しようとする、一派の動きが活発となり、内部対立が激化していた。同党は8月17日突如として、国民同盟が岡田内閣支持に転向したとの噂を否定する声明を発表したが、その内情は次のように報ぜられた。

 

「党内には山道襄一氏等一派の民政党復帰を希望、計画するものがあり、過般来民政党及び床次一派にその交渉を続けていたが、民政党側は兎角気乗薄の態度を示すので最近はその立場に窮し何等かの打開策を求めていた。一方中野正剛氏等は山道氏等の方向に反し政友会の一派と結合して新党樹立に進まんとする意向があり、党内に二潮流とも称すべき潮流があって今日に及んで来たものである。然るに岡田内閣成立するや来議会の解散を考慮におく必要ありとするものがあって山道派の政治工作となり、山道氏が今回突如として国民同盟の政府支持への転向を放送するに至ったのであるが、国民同盟としては綱紀粛正、選挙革正等において政府のなす所を支援する意向はあるが、全面的に政府支持に転向する理由は発見し難いので、安達総裁の決裁を経てこれを声明書により否定した訳である」(東朝、8・18)。


 しかし、いずれにせよ、国民同盟が分裂することは時間の問題となっていた。

  ところで政民連携運動が新たな進展をみせ始めた矢先の10月30日、若槻民政党総裁が突如辞意を表明 し、党幹部をあわてさせた。若槻は「総裁に就任した際も、もともと積極的にこれを希望した訳でなく、殊に最近は政党総裁たると同時に国家の重臣の1人として政変のたびに首相たるべき者の奏薦の内議にあづかる地位にあり、総裁として政党を率いる身分に取ってはその間、種々の矛盾に逢着するので、遂に意を決して潔く総裁の地位を辞することに決した」(東朝、11・1 )とみられた。若槻は11月1日の総務会で、正式に辞意を表明したが、後任に擬せられた党長老の山本達雄や町田忠治商相らは固辞して受けそうになく、党幹部は若槻に留任を懇請した。しかし若槻の辞意が固いとみられるや、今度は後任総裁を町田にしぼり、若槻から町田をくどいてもらおうということになった。 若槻は11月5日、町田と会談したが、町田は総裁は私の天分ではないとして、若槻の懇請を拒絶した。党側では説得委員を設けたり、党幹部が次々と町田を訪れたりしたが、町田は頑として態度を変えず、結局9日に至って、当面は町田を総務会長とし、総務の合議制で党運営にあたることに決した。

  民政党総裁問題が一段落したところで、11月16日、政友会の久原房之助・山本条太郎は民政党を代表する富田幸次郎・頼母水桂吉と会談、政民連携を申し入れるとともに、その趣旨について「挙国一致内外の難局を打開するため虚心坦懐に精神的提携をなすの以外何等他意ない、現内閣に対し直に反対的行動に出で倒閣に進んで行くといふやうな考へは持っていない」 (東朝、11・17)と説明した。これに対し民政党も20日の総務会でこの申し出をうけいれることを決定、24日には前記4者は再び会談して、共同声明を発表すること、臨時議会中の適当な時期に両党議員全員による懇親会を開くことなどを申し合わせた。26日に発表された共同声明は、両党は「在来の感情その他の行懸りを清算し政権争奪勿論、偏狭なる党派的弊風を排し誠心誠意共に時艱の克服国難の打開に協力すべ きである」とし、連携の目的を「要するに挙国一致の基調の下に両党の協力によりて適正なる国策を研討樹立し以て国難を匡救し国民の疾苦を済はんとするに外 ならない」(東朝、11・27付夕刊)と述べていた。 また両党懇談会も29日に院内で聞かれている。

  政民連携の第一歩として、政友会は第66回議会において、これまで独占してきた委員長のポストのうち、全院委員長、決算・建議両委員長を民政党にゆずり、また会期中ので12月4日には、政友は山本・久原に島田俊雄を、民政は富田工程母木に桜内幸雄を加えた両党連携委員の会合も行われた。この会合では国策についての軍部の意向をただすため、陸軍の林陸相・荒木前陸相・南大将・真崎教育総監・杉山参謀次長、海軍の大角海相・加藤(寛治)軍事参議官・加藤(隆義)軍令部次長などに会見を申し込むことにしたが、軍部側では、軍の政治関与を排撃している筈の政党が、統帥部や軍政に関係ない将官にまで会見したいとは何事かと憤激し、この企ては結局実現しないままに終わった。

  しかし、政府に対する態度のちがいをそのままにした連携などは所詮成功する見込みのないものとも言えた。政友会は臨時議会においては藤井蔵相に攻撃を集中しようと手ぐすねひいており、その成り行きが連携運動に影響してくることは明らかであった。もっとも、議会召集日の11月27日、藤井蔵相が病状悪化のため辞職、高橋是漬が再出馬したことによって、政友会の意気は著しくそがれていた。政友会としては床次らの入閣者を除名したことから言えば、高橋を除名しなくてはならない筈であったが、この元老・重臣・財界に大きな信用をもち、しかも元総裁でもある大物政治家を除名することはしのびないとし、結局、別離の声明を発することで形をつけたが、議会で高橋を攻撃するのは、甚だやりにくくなっていた。しかし政友会にはなお政府に一撃を加えようとする気分も強く、結局一部幹部の独走により議場を混乱させるとともに、政民連携運動をも崩壊させてゆくことになるのであった。

  なお、臨時議会の召集までに、前記藤井蔵相のほか、河田書記官長が病気のため辞任、代わって10月20日、元社会局長官で新官僚の中心人物の1人とみられている吉田茂が任命された。また内閣成立以来、岡田首相が兼任していた拓務大臣のポストにも、在満機構 改革問題の見通しがついたのを機会に、10月25日、 朝鮮政務総監の経歴を持つ児玉秀雄が任命されている。



第六六回議会の召集


 第66回議会は、11月10日公布の召集詔書により、会期7日間(11月28日〜12月4日)の臨時議会として、11月27日に召集されたが、後述するように、政友会の爆弾動議によって紛糾し、会期は2回にわたり、計5日間延長され、結局12月9日に終了 している。  

  この議会における正・副議長、全院・常任委員長、 国務大臣・政府委員、議員の党派別所属は、次の通りであった。

議 長   秋田  清(政友・徳島)
副議長   植原 悦二郎(政友・長野)
     
全院委員長   藤井 啓一(民政・山口)
     
常任委員長 予算委員長 島田 俊雄(政友・島根)
  決算委員長 池田 敬八(民政・三重)
  請願委員長 松実 喜代太(政友・北海道)
  懲罰委員長 磯部 尚(政友・東京)
  建義委員長 戸井 嘉作(民政・神奈川)
     
国務大臣 内閣総理大臣 岡田 啓介
  外務大臣 広田 弘毅
  内務大臣 後藤 文夫
  大蔵大臣 高橋 是清
    (11・27任命)
  陸軍大臣 林 銑十郎
  海軍大臣 大角 岑生
  司法大臣 小原 直
  文部大臣 松田 源治
  農林大臣 山崎 達之輔
  商工大臣 町田 忠治
  逓信大臣 床次 竹二郎
  鉄道大臣 内田 信也
  拓務大臣 児玉 秀雄
    (10・25任命)
     
政府委員(11・27発令) 内閣書記官長 吉田 茂
  法制局長官 金森 徳次郎
  法制局参事官 樋貝 詮三
  森山 鋭一
  外務政務次官 井阪 豊光
  外務参与官 松本 忠雄
  外務書記官 岡本 季正
  内務政務次官 大森 佳一
  内務参与官 橋本 実斐
  内務省神社局長 石田 馨
  内務省地方局長 安井 英二
  内務省警保局長 唐沢 俊樹
  内務省土木局長 広瀬 久忠
  内務省衛生局長 岡田 文秀
  内務書記官 山崎 厳
  社会局長官 赤木 朝治
  大蔵政務次官 矢吹 省三
  大蔵参与官 豊田 牧
  大蔵省主計局長 賀屋 興宣
  大蔵省主税局長 中島 鉄平
  大蔵省理財局長 青木 一男
  大蔵省銀行局長 川越 丈雄
  大蔵書記官 入間野 武雄 
  山田 龍雄
  預金部長 荒井 誠一郎
  陸軍政務次官 土岐 章
  陸軍参与官 石井 三郎
  陸軍主計総監 平手 勘次郎
  陸軍少将 永田 鉄山
  陸軍一等主計正 大城戸 仁輔
  海軍政務次官 堀田 正恒
  海軍参与官 窪井 義道
  海軍主計中将 村上 春一
  海軍中将 吉田 義吾
  海軍主計大佐 石黒 利吉
  司法政務次官 原 夫次郎
  司法参与官 舟橋 清賢
  司法書記官 黒川 渉
  文部政務次官 添田 敬一郎
  文部参与官 山桝 儀重
  文部省専門学務局長 赤間 信義
  文部省普通学務局長 下村 寿一
  文部書記官 山川 建
  農林政務次官 守屋 栄夫
  農林参与官 森  肇
  農林省農務局長 小浜 八弥
  農林省山林局長 村上 龍太郎
  農林省水産局長 戸田 保忠
  農林省畜産局長 高橋 武美
  農林省蚕糸局長 井野 碩哉
  農林省米穀部長 荷見 安
  農林省経済更生部長 小平 権一
  農林省書記官 田渕 敬治
  商工政務次官 勝 正憲
  商工参与官 高橋 守平
  商工省商務局長 村瀬 直養
  商工省工務局長 竹内 可吉
  商工書記官 東  栄二
  逓信政務次官 青木 精一
  逓信参与官 平野 光雄
  逓信省経理局長 富安 謙次
  鉄道政務次官 樋口 典常
  鉄道参与官 兼田 秀雄
  鉄道省経理局長 工藤 義男
  拓務政務次官 桜井 兵五郎
  拓務参与官 佐藤 正
  拓務書記官 小河 正儀
  朝鮮総督府政務総監 今井田 清徳
  朝鮮総督府財務局長 林 繁蔵
     
政府委員追加(会期中発令) 外務省通商局長 来栖 三郎
  商工省貿易局長 寺尾 進
  司法省刑事局長 木村 尚達
  鉄道省監督局長 前田 穣
  鉄道省運輸局長 新井 堯爾
  鉄道省建設局長 河原 直文
  鉄道省工務局長 平井 喜久松
  北海道庁長官 佐上 信一
  大蔵書記官 石渡 荘太郎
  内務書記官 松村 光麿
     
党派別所属議員氏名    
召集日各党派所属議員数 立憲政友会 264名
  立憲民政党 118名
  国民同盟 31名
  第一控室 27名
  欠員 26名
  466名
     
立憲政友会 東京 立川 太郎
  本多 義成
  犬養  健
  鳩山 一郎
  安藤 正純
  伊藤 仁太郎
  磯辺  尚
  国枝  拾次郎
  三上 英雄
  牧野 賎男
  前田 米蔵
  坂本 一角
  京都 鈴木 吉之助
  鷲野 米太郎
  中野 種一郎
  磯辺 清吉
  長田 桃蔵
  芦田  均
  水島 彦一郎
  大阪 板野 友造
  山本 芳治
  沼田 嘉一郎
  上田 孝吉
  青田 勝晴
  森田 政義
  岩崎 幸治郎
  山口 義一
  神奈川 野方 次郎
  川口 義久
  鈴木 喜三郎
  胎中 楠右衛門
  鈴木 英雄
  河野 一郎
  兵庫 砂田 重政
  中井 一夫
  蔭山 貞吉
  立川  平
  小林 絹治
  多木 久米次郎
  青木 雷三郎
  原 惣兵衛
  若宮 貞夫
  畑 七右衛門
  長崎 西岡 竹次郎
  向井 倭雄
  佐保 畢雄
  新潟 山本 悌二郎
  田辺 熊一
  松木  弘
  渡辺 幸太郎
  出塚 助衛
  加藤 知正
  高橋 金治郎
  山田 又司
  鈴木 義隆
  武田 徳三郎
  埼玉 高橋 泰雄
  宮崎  一
  横川 重次
  長島 隆二
  一瀬 一二
  出井 兵吉
  門田 新松
  群馬 中島 知久平
  増田 金作
  畑  桃作
  木暮 武太夫
  篠原 義政
  千葉 本多 貞次郎
  川島 正次郎
  鳩山 秀夫
  今井 健彦
  竹沢 太一
  小高 長三郎
  岩瀬  亮
  茨城 宮古 啓三郎
  葉梨 新五郎
  山崎  猛
  佐藤 洋之助
  栃木 船田  中
  坪山 徳弥
  松村 光三
  上野 基三
  奈良 岩本 武助
  福井 甚三
  三重 加藤 久米四郎
  伊坂 秀五郎
  堀川 美哉
  浜田 国松
  後藤  脩
  愛知 加藤 鐐五郎
  田中 善立
  瀬川 嘉助
  丹下 茂十郎
  山田 佐一
  田中 貞二
  小笠原 三九郎
  小林  リ
  大口 喜六
  近藤 寿市郎
  静岡 山口 忠五郎
  宮本 雄一郎
  深沢 豊太郎
  仁田 大八郎
  勝又 春一
  太田 正孝
  倉元 要一
  山梨 田辺 七六
  川手 甫雄
  大崎 清作
  竹内 友治郎
  滋賀 清水 銀蔵
  服部 岩吉
  仙波 久良
  岐阜 匹田 鋭吉
  大野 伴睦
  佐竹 直太郎
  楠  基道
  牧野 良三
  平井 信四郎
  長野 山本 慎平
  山本 荘一郎
  小川 平吉
  有馬 浅雄
  高橋  保
  植原 悦二郎
  宮城 宮沢 清作
  菅原  伝
  佐々木 家寿治
  星  廉平
  大石 倫治
  福島 堀切 善兵衛
  菅野 善右衛門
  八田 宗吉
  小島 智善
  助川 啓四郎
  中野 寅吉
  佐藤 庄太郎
  鈴木 辰三郎
  岩手 田子 一民
  八角 三郎
  志賀 和多利
  小野寺  章
  広瀬 為久
  青森 藤井 達也
  梅村  大
  工藤 十三雄
  山形 高橋 熊次郎
  戸田 虎雄
  熊谷 直太
  松岡 俊三
  秋田 杉本 国太郎
  鈴木 安孝
  小山田 義孝
  福井 熊谷 五右衛門
  山本 条太郎
  猪野毛 利栄
  石川 箸本 太吉
  青山 憲三
  益谷 秀次
  富山 石坂 豊一
  高見 之通
  島田 七郎右衛門
  土倉 宗明
  鳥取 矢野 晋也
  島根 島田 俊雄
  沖島 鎌三
  岡山 岡田 忠彦
  横山 泰造
  難波 清人
  大山 斐瑳麿
  久山 知之
  小谷 節夫
  星島 二郎
  則井 万寿雄
  広島 岸田 正記
  名川 侃市
  渡辺  伍
  望月 圭介
  宮沢  裕
  米田 規矩馬
  森田 福市
  山口 久原 房之助
  保良 浅之助
  庄  晋太郎
  西村 茂生
  児玉 右二
  和歌山 木本 主一郎
  玉置 吉之丞
  松山 常次郎
  世耕 弘一
  三尾 邦三
  徳島 紅露  昭
  生田 和平
  秋田  清
  伊藤 皆次郎
  香川 宮脇 長吉
  上原 平太郎
  山下 谷次
  三土 忠造
  愛媛 大本 貞太郎
  須之内 品吉
  森 昇三郎
  河上 哲太
  白城 定一
  山村 豊次郎
  高知 田村  実
  中谷  貞頼
  林  譲治
  依光 好秋
  福岡 原口 初太郎
  宮川 一貫
  吉田 鞆明
  実岡 半之助
  田尻 生五
  野田 俊作
  貝谷 真孜
  高倉  寛
  林田  操
  大分 金光 庸夫
  綾部 健太郎
  清瀬 規矩雄
  佐賀 田中 亮一
  石川 又八
  藤生 安太郎
  田口 文次
  熊本 木村 正義
  松野 鶴平
  村田 虎之助
  上塚  司
  三善 信房
  中野 猛雄
  宮崎 平島 敏夫
  渡辺 与七
  田尻 藤四郎
  水久保 甚作
  鹿児島 蔵園 三四郎
  井上 知治
  中村 嘉寿
  東郷  実
  天辰 正守
  寺田 市正
  金井 正夫
  津崎 尚武
  永田 良吉
  沖縄 金城 紀光
  花城 永渡
  崎山 嗣朝
  竹下 文隆
  北海道 寿原 英太郎
  丸山 浪弥
  岡田 伊太郎
  東  武
  林 路一
  田中 喜代松
  佐々木 平次郎
  林 儀作
  板谷 順助
  松実喜代太
  山本 市英
  松尾 孝之
  三井 徳宝
  尾崎 天風
  木下 成太郎
     
立憲民政党 東京 高橋 義次
  大神田 軍治
  駒井 重次
  中島 弥団次
  頼母木 桂吉
  真鍋 儀十
  鈴木 富士弥
  高木 正年
  斯波 貞吉
  佐藤  正
  八並 武治
  京都 中村 三之丞
  川橋 豊治郎
  福田 関次郎
  田中 祐四郎
  大阪 一松 定吉
  枡谷 寅吉
  竹田 儀一
  内藤 正剛
  中山 福蔵
  本田 弥市郎
  吉川 吉郎兵衛
  勝田 永吉
  松田 竹千代
  神奈川 戸井 嘉作
  三宅  磐
  小泉 又次郎
  岩切 重雄
  平川 松太郎
  兵庫 浜野 徹太郎
  中 亥歳男
  前田 房之助
  原 淳一郎
  田中 武雄
  斎藤 隆夫
  長崎 中村 不二男
  牧山 耕蔵
  新潟 山田 助作
  佐藤 与一
  原 吉郎
  増田 義一
  埼玉 松永 東
  高橋 守平
  群馬 飯塚 春太郎
  清水 留三郎
  木桧 三四郎
  千葉 多田 満長
  鵜沢 宇八
  土屋 清三郎
  茨城 豊田 豊吉
  中井川 浩
  栃木 高田 耘平
  岡田 喜久治
  奈良 八木 逸郎
  松尾 四郎
  三重 川崎 克
  松田 正一
  池田 敬八
  愛知 小山 松寿
  武富  済
  静岡 海野 数馬
  平野 光雄
  永田 善三郎
  滋賀 堤 康次郎
  青木 亮貫
  岐阜 清  寛
  長野 松本 忠雄
  小山 邦太郎
  百瀬  渡
  宮城 内ヶ崎 作三郎
  村松 久義
  福島 林 平馬
  比佐 昌平
  青森 工藤 鉄男
  山形 清水 徳太郎
  秋田 町田 忠治
  猪股 謙二郎
  福井 斎藤 直橘
  添田 敬一郎
  石川 永井 柳太郎
  桜井 兵五郎
  富山 野村 嘉六
  松村 謙三
  鳥取 山枡 儀重
  島根 桜内 幸雄
  木村 小左衛門
  原 夫次郎
  俵 孫一
  岡山 小川 郷太郎
  西村 丹治郎
  広島 荒川 五郎
  藤田 若水
  田中 貢
  作田 高太郎
  横山 金太郎
  山口 藤井 啓一
  沢本 与一
  徳島 谷原 公
  真鍋 勝
  香川 戸沢 民十郎
  矢野 庄太郎
  愛媛 武知 勇記
  村上 紋四郎
  高知 富田 幸次郎 
  川淵 洽馬
  福岡 田島 勝太郎 
  高野 喜六
  勝 正憲
  末松 偕一郎
  大分 松田 源治
  重松 重治
  佐賀 池田 秀雄
  熊本 大麻 唯男
  北海道 山本 厚三
  坂東 幸太郎
  大島 寅吉
  手代木 隆吉
     
国民同盟 東京 中村 継男
  兵庫 野田 文一郎
  清瀬 一郎
  長崎 中川 観秀
  中田 正輔
  新潟 大竹 貫一
  埼玉 野中 徹也
  茨城 風見  章
  栃木 栗原 彦三郎
  愛知 加藤 鯛一
  鈴木 正吾
  静岡 岸  衛
  井上 剛一
  山梨 福田 虎亀
  岐阜 古屋 慶隆
  長野 鷲沢 与四二
  戸田 由美
  岩手 高橋 寿太郎
  青森 菊池 良一
  山形 佐藤  啓
  佐藤 理吉
  鳥取 由谷 義治
  広島 山道 襄一
  和歌山 小山 谷蔵
  福岡 中野 正剛
  佐賀 森  峰一
  熊本 安達 謙蔵
  伊豆 富人
  深水  清
  沖縄 伊札  肇
  北海道 小池 仁郎
     
第一控室    
     
     〔社会大衆党〕 東京 安部 磯雄
  大阪 杉山 元治郎
  福岡 亀井 貫一郎
  小池 四郎
     〔無所属〕 東京 朴  春琴
  松谷 与二郎
  津雲 国利
  大阪 井阪 豊光
  長崎 森  肇
  群馬 青木 精一
  茨城 内田 信也
  石井 三郎
  飯村 五郎
  栃木 岡本 一巳
  奈良 江藤 源九郎
  三重 尾崎 行雄
  愛知 瀧  正雄
  静岡 春名 成章
  宮城 守屋 栄夫
  青森 兼田 秀雄
  山形 西方 利馬
  鳥取 豊田 収
  山口 窪井 義道
  福岡 山崎 達之輔
  樋口 典常
  大分 塩月 学
  鹿児島 床次 竹二郎


 なお、この議会では、会期中の議員の移動はなかった。



衆議院の状況


 この議会には、災害・凶作救済のための昭和9年度追加予算案のほか、4件の関係法律案が提出されたにすぎなかったが、災害・凶作問題以外にも前議会以後、帝人事件・在満機構改革問題・陸軍パンフレット・海軍軍縮予備交渉など、多くの問題が起こっており、11月30日・12月1日・2日の3日間にわたった一般質問でも、これらの問題が次々ととりあげられてい た。

  まず帝人事件については、12月1日の本会議で浜田国松が問題とし、つづいて、5日には名川侃市(政友)による緊急質問が行われているが、まだこの時には予審も終結しておらず、本格的論戦は次の議会以後に持ち越された感が強かった。また在満機構問題は、山本悌二郎・安藤正純(いずれも政友)らがとりあげているが、満州支配のあり方という根本問題を避け、関東庁から拓務省に及んだ軍部案反対の動向を、官紀紊乱・内閣不統一といった観点から追及するに止まっており、政党の軍部に対する弱腰がはっきり現れていた。

  といっても、一方では軍部の横暴に対する不満も強まっており、ワシントン条約の廃棄を督促する山本悌二郎の演説や、パンフレット問題で陸軍を激励する中野正剛(国民同盟)の演説も行われてはいたが、反面、安藤正純は陸軍パンフレットから独裁政治の生み出されるおそれのあることを指摘していたし、また財政問題については各論者とも、昭和10年度予算の編成における国防費と産業費の不均衡という問題を一斉にとりあげていた。

  もっとも、インフレによる積極政策論を基調としている政友会の場合には、軍部の要求の大部分が容れられて、陸・海軍以外の各省、とくに農村対策に関する諸経費が大削減を蒙ったことに強い不満を向けながらも、軍事費の膨脹にメスを入れようとはせず、公債漸減主義によって予算規模を締めてゆこうとする藤井財政の基本方針を攻撃するというやり方に傾いていた。例えば山本悌二郎が、農村対策予算が惨めな有様となっている原因について、「予算漸減主義トカ、或ハ公債漸減主義トカ言フガ如キ偏狭ナル主義ヲ立テテ、総テノ政策ヲ此中ニ盛り込マウトスルカラ、其処ニ無理ガ出来ルノデアリマス」と述べ、財政のあり方については、「是ダケハ必ズ悠ニ施設シナケレバナラヌト言フ此政策、国策ヲ予メ定メテ、サウシテ然ル後ニ之ニ要スル所ノ経費ノ賄ヒヲ、当局即チ財務当局ニ向ツテ調達セルト言フノガ、即チ総理大臣ノ当然ノ役目デアルノデアリマス」(速記録第3号)といった主張を展開するのが、政友会の基本的な論法となっていた。

  これに対して民政党の場合には、浜口内閣以来の健全財政主義が基調となっており、この考え方から行けば、農村救済予算をふやすためには軍事予算を削除する以外にないという結論に導かれる筈であった。例えば中島弥団次(民政)は、「兎モ角六千万円ダケ藤井君 ガ前年度ニ比シ公債ヲ減スコトガ出来マシタコトハ大功績デアル」と藤井財政を評価し、さらに救済予算の財源について「軍部ニ於キマシテ少シ遠慮シテ戴イタナラバ、五千万円ヤー億円ノ金ハ直グ出来ル。……陸海軍共ニ最小限度ノ国防費デアルト申サレマセウケレドモ、相当ニ是ハ伸縮カガアルト私ハ見テ居ル」(速記録第4号)と述べ、軍部大臣の反省を促すとともに、軍部の残飯で満足しているような内務大臣・農林大臣らの弱腰を批判したのであった。

  林陸相はこの指摘には直接には答えなかったが、杉山元治郎(社大党)が中島の質問を引き合いに出して再度この点をただしだのに対しては、「此農村方面ノ予算ニハ十分ノカヲ加フルコトヲ希望ハ致シテ居リマスケレドモ、併シソレガ為ニ国防ニミスミス欠陥ノ出来ルコト見テ居リナガラ、国防費ヲ其方ニ割クト言フコトハ、国防当局ト致シマシテハ洵ニ困難デアリマス」 (速記録第5号)と述べて、軍事予算の削減に応ずる意思のないことを明らかにした。政党側が、この軍部の強硬な態度をつき崩してゆく力を失っているという状況のもとでは、公債漸減→健全財政路線の実現は困難となることが予想され、高橋蔵相も予算総会では、公債漸減主義に固執しないという態度を明らかにしていた。

  ともあれ、政友会のインフレ論は、軍部との衝突を避けながら、無責任な政府いじめを行うのには便利であり、12月2日から始まった予算総会では、政友会は審議の引き延し作戦を展開してきた。予算総会第1日目の形勢は「政友会側の反政府的態度が意外に強硬であるに反し、政府側は岡田首相の拙劣なる答弁の続出によってその弱点を暴露したので、議事道行上にも政府側の意向は殆ど無視されて、完全に政友会に引廻されるといふ有様である」(東朝、12・3)と報ぜられ、早くも会期延長は必至とみられた。



爆弾動議

 当初予定された会期の終了するこ12月4日に至って、政府は7日まで3日間会期を延長することとした。衆議院の審議はなお停滞していたものの、1日も早い災害予算の成立を望む地方からの声も強まっており、4日には民政党から政友会に対し、審議促進も提議された。政友側も5日には質問を終わらせ、何らかの決議を付して予算案を通させることになるであろうと観測された。

  ところが、この5日の予算総会において、午後10時半、小池四郎(社大党)の質問が終わるや、東武委員(政友会総務)は、突如として次のような爆弾的緊急動議を提出した。

 

「政府ハ国防産業両全ノ趣旨ニ鑑ミ、災害対策、匡救事業善後策及ビ地方自治体窮乏打開ノ為メ、現ニ審議中ノ昭和九年度追加予算案並ニ既ニ廟議決定セル昭和十年度予算案ノ外、昭和九年度及十年度ヲ通ジ、少クモー億八千万円見当ノ歳出ヲ追加計上シ、 第六十七議会ノ劈頭ニコレヲ提案スベキモノト認ム。右ニ対シ、政府ノ明確ナル言明アル迄、本委員会ノ審議ヲ休憩スベシ」(「第六六回帝国議会衆議院予算委員会議録」第5回)

この動議は民政党の反対を押し切って政友会の多数によって可決され、局面は俄然急転回することとなった。

  政府側は直ちに臨時閣議を開いたが、政友会がこのような巨額の予算計上を押しつけてくるならば、議会を解散して一戦を交えるほかはないとの強硬意見が強 く、6日朝の閣議では、岡田首相が予算委員会で必要な施設については考慮する旨の、金額に触れない言明を行い、政友会が納得しない場合には解散を断行するとの方針が決定された。また民政党はこの動議を政民連携の精神に反するものと非難し、6日に予定されていた両党連携委員の会合を拒絶、国民同盟も災害救済問題を党略の犠牲に供したるものとして政友会を攻撃した。しかし、当の政友会に於ても、この動議は主流派の一部幹部だけの策謀によるものであるとし、政府の強硬な態度が伝えられるにつれて、党内は大きく動揺することになった。

  6日の予算総会は、午後2時すぎになってようやく聞かれたが、岡田首相が、災害対策等につき、今後実情に即し真に必要なる施設に関し考慮する旨の言明を行うや、島田俊雄委員長は各派の態度を決定する必要ありとして、直ちに休憩を宣言した。政友会はつづいて総務会を聞いたが、ともかく解散を回避したいとする空気は強く、結局総裁の裁定に一任することとし、夕刻からの代議士会もこれを承認した。翌7日朝行われた鈴木総裁の裁定は、昨日の岡田首相の言明は趣旨不明確であり、今一応政府の明確な回答を求めることなしには予算審議を続行することは出来ない、というものであった。それは一見強硬のようにもみえるが、政友会はすでに政府の強い態度の前に屈服して戦意なく、つまりは今一度首相の言明を求めたところで妥協してしまうという方針にほかならなかった。

  7日午後1時半に再開された予算総会では、まず島田委員長が、さきの、実情に即して必要なる施設を為すという岡田首相の言明のうち、「実情」とは政府が独自で単独に認定するのか、そうではなくて「国民全体ノ此問題ニ対シテ要望スル所、又本議会ニ於ケル院内ノ空気ニ鑑ミ、更ニ本予算委員会連日ニ互ル各議員 ノ発言ノ中ニ現ハレタル、此政府予算ニ関シテ要求シテ居ル所、是等ノ点ヲ参酌」して認定するのか、とただした。そして岡田から「立憲政治ノ真髄ハ民意ノ暢達ニ在ルノデアリマス……民意ヲ無視シテ政治ハナイノデアリマス」「私ハ茲(議場)ニ現ハレマシタ言論モ無論考究致シマス、サウシテ今後実際ニ当ツテ見テ、真ニ必要ナル施設ハ誠心誠意考慮シタイト思ツテ居リマス」との言明を得ると、更に将来の施設について、金額などの腹案を持っているかと問うた。

  これに対しては岡田は、「現ニ提出シ、又ハ提出セントスル予算(既定の昭和10年度予算を指す)デヤッテ行カウト思ッテ居ルノデアリマスカラ、腹案ハ有ツテ居リマセヌ」と答えたが、島田はこれらの首相の言明を、「政府ハ、現ニ腹案ヲ有ツテ金額ノ見積等ヲ為スノ程度ニハ達シテ居ラヌケレドモ、将来内外ノ実情ニ鑑ミ、必要ナルモノニ付テハ、此院ノ内外、此委員会ニ現レタル言論、ソレ等ヲ考慮ノ中ニ入レテ、施設スル」という意味に諒解されると解釈した。これに続 いて大口喜六委員(政友)は、政府の誠意が認められるとして質問打切りの動議を提出、予算案はようやく委員会を通過し(「第六六回帝国議会衆議院予算委員会議録」第7回による)、同日夜の衆議院本会議で可決されて貴族院に送付された。予算通過の形勢を確認した政府側は9日まで更に2日間の会期延長をはかった。

  この爆弾動議をめぐる紛糾は、政友会の内部対立を いよいよ激化させるきっかけとなるのであるが、政友会の主流派幹部がこうした作戦に出たのは、岡田内閣を脆弱内閣とみくびり、政友会がゆさぶりをかければ、1億円位の追加予算は出すだろう、そうすれば政友会が農村を救ったという看板も立つし、その脆弱ぶりを露呈した岡田内閣の倒れる時期も早まるだろうという一石二鳥の思惑からであったとみられる。従って政府が解散も辞さないという予想外の強腰をみせると、あわてて妥協をはかり、島田委員長が岡田首相の答弁をつなぎ合せて、あたかも政府がこの爆弾動議をも考慮して追加予算を準備するかのような勝手な解釈を示し、それをうけいれる形で事態を収拾したのであった。岡田首帽の言明は、必要がある場合には追加予算を出すことを考慮するというにすぎないものであったが、しかしこの政友会側の解釈を否定しなかったことは、次の議会に問題を待ち越す桔果となっていた。

  この議会に提出されたのは、昭和9年度追加予算案のほか、都市計画法改正案(災害地の区画整理の特例を 規定)・風水害ニ因ル披害者ニ対スル租税ノ減免猶予ニ関スル法律家・凶作地ニ対スル政府所有米穀ノ臨時交付ニ関スル法律案・昭和9年度公債発行ニ関スル件改正案(赤字公債の発行限度の拡張)の4件であり、いずれも、政府原案通り可決成立した

古屋哲夫