『帝国議会誌』第30巻

1977年12月

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第七一回帝国議会 貴族院・衆議院解説


 

古屋 哲夫

 

第七一回帝国議会 貴族院解説
第七一回帝国議会 衆議院解説

第七一回帝国議会 貴族院解説
中国国民党三中全会
日中関係の行き詰まり
近衛内閣の成立
盧溝橋事件の拡大
第七一回議会の召集
貴族院の状況

第七一回帝国議会 貴族院解説



中国国民党三中全会

  第70回議会最終日に、突如として衆議院を解散したことは、政党の政府攻撃を強め、林内閣の前途を極めて困難なものとしたが、しかし客観的に見れば、林内閣が直面していた最も重大な問題は、日中関係の行 き詰まりである筈であった。すでに前年(昭和11年7月の国民党二中全会(第5期中央執行委員会第2回全体会議)において、中央から独立性を保っていた西南政務委員会の撤廃に成功し、西南(広東・広西)地区の中央化をすすめてきた蒋介石政権が、国内統一のための次の課題として共産党討伐とともに、日本軍の圧力によってつくられた冀束政府・冀察政務委員会の解消、華北地区の中央化に取り組んでくることは明らかであった。

  1936(昭和11年)9月成都事件をきっかけとして全面的国交調整をめざして始められだ川越茂駐華大使・張群外交部長の会談が9月23日の第3次会談で早くも行き詰まってしまったのは、中国側が、塘沽協定及上海停戦協定の取消し、冀東政府の解消、華北自由飛行の停止、密輸停止及中国側取締りの自由、察東及綏遠北部における偽軍の解散などを要求したためであった(「第七〇回帝国議会貴族院解説」参照)。華北自由飛行とは、停戦状況監視のためと称する日本軍飛行機の活動を指し、密輸とは冀東地区で日本軍公認のもとに行われた中国関税制度を無視した貿易を指している(日本側は冀東特殊貿易と称した)。ともかく、こうした日本の華北工作の解消を求める要求が、親日派とみられる政治家が要職にあったこの時期の国民政府から正式に提起されたことは、それが中国側の最低限の要求として固まってきたことを示すものにほかならなかった。従って西安事件以後、国共合作の進展とともにこの要求がますます強まってくることは必然であった。そしてそのことは、林内閣成立直後、1937(昭和12)年2月15日より22日にわたって聞かれた中国国民党三中全会で現実のものとなっていた。

 

2月21日に決定された同会議の宣言文草案はまず「対外的には決して如何なる領土主権侵害の事実も容認せず、また決して如何なる領土主権侵害の協定にも調印せず、若し領土主権侵害の事実発生し、しかも政治的手段を尽すも尚効なく、国家民族の根本生存を危害する時は必ず最後的の犠牲の決心に出で、決して毫末も猶予するの余地はない」(「現代史資料・日中戦争(四)」、292頁)

と宣言し、ついで対日問題について、

 

「吾人の和平の希望が全く断絶せられざる以前に於ては、平等互恵及領土主権互尊の原則により漸次に解決を策し、冀東、察北の匪偽をしてその倚頼する所を喪はしめ、我華北行政及主権の障害を除去し、以て主権の完成を期すべし」(同前、262頁)

と述べている。

  翌日発表の正式宣言では傍線の部分が削除されていたが、いずれにせよ、この宣言が、領土主権の完成を対日交渉の最低限要求として貫徹しようとする強い決意を示すものであることは明らかであった。

  三中全会は同時に、赤禍根絶決議案を採択しているが、これは共産党を許容する4条件を提示した点に特色があった。4条件とは、(一)紅軍の解消による軍隊の統一、(二)ソビエト政府の解消による政権の統一、(三)三民主義と相容れない赤化宣伝の停止、(四)武装暴動・階級闘争の根本的停止であるが、これは実は、共産党側が国共合作実現のために自ら提起した4ヵ条の保障を うけいれたものにほかならなかった。中共中央はすでに2月10日付けの電報で、三中全会に対し内戦停止、一致抗日を訴えるとともに、国民党が抗日統一戦線の 方針を確立するならば、共産党は、(一)国民政府打倒のための武装暴動方針を全国的に停止する、(二)ソビエト政府と紅軍を中華民国持区政府・国民革命軍と改称し、南京中央政府と軍事委員会の直接指導を受ける、(三)持区政府の区域内では、普通選挙による徹底的な民主制度を実施する、(四)地主の土地没収政策を停止し、抗日民族統一戦線の共同綱領を断固実行する、この4ヵ条の実現を保証する旨宣言していたのであった。従って三中全会の赤禍根絶決議はその標題とは逆に、国民党が国共合作の方向に動いていることを示すものであった。そしてこのことは、日本の外務省や軍部にも明確に認識されていた。

  例えば参謀本部の「支那時局報第四号」(昭和12年 3月15日)は、共産党の妥協条件と赤禍根絶決議の条件とが「全然合致するものあり」と指摘し、「従て大会に於ける反共決議は内外欺陥、一時的糊塗政策にして、実際は表面共産党弾圧を標榜し若干其譲歩を求め、 裏面国民政府の面子を保ちつつ之と某程度の妥協を策せしと見るを至当とし、現に共産党に対する取締は以前に比し稍々緩和せられし如く、尚某情報に依れば大会秘密会議に於て1年間を試験期とし共産軍に陝西省の10数県を与へ月額90万円を支給するに決し、朱徳軍は既に国軍に改編せられたりとも言はれ」(同前、279頁)るとも述べていた。



日中関係の行き詰まり

 駐仏大使佐藤尚武が専任外相に就任したのは(3月3日)、中国側が三中全会宣言によって、日本に対する最低限要求を明示した直後のことであり、従って、日中関係がどう動くかは、次の日本の打つ手にかかっていた。佐藤外相が3月11日の衆議院本会議に於いて「本当ノ意味ノ危機、詰り戦争ノ勃発ト云フ意味ノ危機、日本ガ之ニ直面スルノモ、シナイノモ、私ハ日本自体ノ考へ如何ニ依ツテ決ルノデアルト云フ風ニ考へルノデアリマス。若シ自分ガ其意味ノ危機ヲ欲スルナラバ、危機ハ何時デモ参リマス、之ニ反シテ、日本ハ危機ヲ欲シナイ、サウ云フ危機ハ全然避ケテ行キタイ ト云フ気持デアルナラバ、私ハ日本ノ考ヘ一ツデ其危機ハ何時デモ避ケ得ルト確信致シマス」(「第七〇回帝国議会衆議院議事速記録」第20号)と述べたのは、こうした日中関係の現状を想いえがいてのことであったであろう。しかし軍部をふくめて、対中国政策の発想を転換させることは極めて困難な状況となっていた。

  もちろん華北分離工作の失敗はすでに前年には明らかとなっており、西安事件後の中国情勢の変化をふまえて、この年の初めからは軍部のなかからも、「北支分治工作」や冀東密貿易・華北自由飛行をやめるべきだとの動きは起こっていた(「第七〇回帝国議会貴族院解 説」参照)。しかし「華北の特殊化」という発想は容易に変らず、また軍部には、冀東政府・冀察政務委員会の「内面指導」という既成事実に執着する動きが強かった。従ってそうした情勢のなかでは、佐藤外相も「北支分治工作」の停止を正式決定とすることから手をつける以外にはなかった。そしてともかくも、4月16日の外務・大蔵・陸軍・海軍の4大臣会議に於いて、「北支の分治を図り若くは支那の内政を紊す虞あるが如き政治工作は之を行はず」(「対支実行策」・「現代史資料・日中戦争(一)」、400頁)との決定にこぎつけた。

  しかし同時に決定された「北支指導方策」をみると、冀東政府と冀察政務委員会に対しては「軍閥的秕政を 清算して明朗なる地域を構成し」「安居楽業の模範地域たらしめ」る如く指導するというのであり、いいかえれば、この指導権は手放さないという決定がなされていた。しかもそのうえ、「南京政権に対する施策に依り同政権を して実質上北支の特殊的地位を確認し、進むで日満支提携共助の諸施策に協力せしむる様指導するものとす」 (同前、402頁)と述べ、この方策が南京政権を「北支の特殊的地位を確認」するよう指導し得るかの如き 幻想に立脚していることを明らかにしていた。すでにみたように、中国側が拒否しようとしているのは、「北支の特殊的地位」という発想そのものであり、この意味では三中全会宣言に真向から対決する性格を特つものと言えた。

  結局のところ、華北に於て日本がつくりあげた既成事実のうち、この方策が解決すべきものとしたのは、「冀東特殊貿易」と「北支自由飛行」だけであった。 しかしそれも無条件というわけではなかった。以後この両問題の具体的解決策が外・陸・海3省間で協議さ れているが、5月上旬には、「冀東特殊貿易」は南京政府が冀察政務委員会に月額100万元を補助するのとひきかえに廃止する。「北玄自由飛行」については、その廃止を「条件トシテ福岡上海間航空連絡ノ実現方開談シ、之ヲ端緒トシテ日満独航空連絡ニ関スル交渉ヲ開始ス」(外務省編「日本外交年表並主要文書」下巻、365頁)との方針が決定された。この方針によって交渉の成立する見込みはもはやなくなっていたが、ここでとくに問題なのは、南京より月額100万元が送られてきた場合、冀察政務委員会に特別会計をつくらせ「右金額ハ北支ニ於ケル経済開発及日支間ノ文化的経済的提携ノ為メニノミ使用ス」(同前)という構想がみられることであり、それは「特殊貿易」の廃止をも華北政権 に対する支配力の強化に役立たせようという姿勢を示すものであった。

  日中関係の出発点からの見直しを唱えたはずの佐藤外交が、現実にはこうしたレベルで低迷している間に、中国側の対日態度は急速に強化されつつあった。前記方針が決定された5月初句には、国民政府は中央軍を 「税警団」に改編して山東省に進出させ始めており、 実力を以てしても「特殊貿易」を阻止し、華北行政権を回収する気構えを示していた。5月10日付けの軍令部の「支那特報」は、「支那側は従来の日貨排斥と云ふが如き姑息なる手段を止め、一意全面的抗日意識の向上と対日軍備の強化に力を注ぎある為、当面の排日貨運動は著るしく緩和せられ」「表面必ずしも不祥大事件の勃発を見るが如き状態には非ざるも、裏面的には容易且早急には国交調整の実を挙げ得ざるが如き有様なり」(「現代史資料・日中戦争(四)」、312〜3頁)と指摘している。  

  1937(昭和12)年5月の段階では、日中関係の行き詰まりはジャーナリズムでも取りあげられる程明白になっていた。この頃から、日中関係の打開のために、リース・ロスの幣制改革の成功以来、中国への影響力を強めつつあるイギリスと提携すべきだとの論議が現れたことも、行き詰まりの深刻さを裏面から物語るものと言えた。例えば5月16日付け東京朝日新聞の社説は、国共合作の進展に注目しつつ、次のように述べている。  

 

 「日本としては、ソ連が多年手塩にかけた共産党を解散したやうな形式をととのへて、しかも実質的には国民党内にくひ入り、より広大なる活動区域を獲得し、討伐軍の鋒先を転じて、国民党を抗日共同戦線に引込んだ遣り口に注目すべきである。
 
  右の如き形勢であるから、日支国交調整問題でも、日本としてはソ支両国の関係がどこに落付くか、静かに見極めてから態度を決めても遅くはあるまい。 いなその方が却て安全であるやうに思ふ。さうしている間に、日本は日英協調の外廓をつくって、支那との交渉を円満に進める方がよいのではないか」


  いわば、中国の現状には手のつけようがないから、 イギリスとの協調で有利な立場を築きながら様子をみようというわけである。こうした考え方は外務省のなかにも広まっており、佐藤外相やその後任の広田外相も日英協調の方向を膜索していたとみられ、当時の外務省欧米局長東郷茂徳は、各方面の了解を得るために奔走したあげく、吉田茂駐英大使とバトラー英外務次官との会談の手筈にまでこぎつけたが、盧溝橋事件のため結局実現をみなかった、と回想している(「東郷茂徳外交手記」、114頁)。あるいはまた「外務省の百年」 には次のような記述もみられる。   

 

「広田外相の就任後間もなく、英国は駐英吉田茂大使を通じて、中国幣制維持のための共同経済援助を申入れてきた。広田外相がこの英国の申入れにいかに対処しようとしたかは明らかでないが、中国駐在の川越大使は、七月五日この際日本は『満州事変以来堅持し来れる対支根本方針の急転回』をなすことが必要であると意見具申をした。すなわち、日本は英国のイニシァティヴを承認して、対華借款に参加すべきで、従来日本が主張してきた、日中両国のことは両国かぎりで解決するという方式は、すでに問題外だというのである。換言すれば、昭和九年(一九三四)の天羽声明に象徴される日本の中国政策がまったく失敗に終わった現状を率直に認識しなければならないという注目すべき見解である。しかし時すでに遅く、この川越大使の意見電の発せられた二日後には、盧溝橋事件の勃発をみるにいたるのである」(下巻、275頁)


  ともあれ、日本外交陣は、日中関係の危機的状況を 打開する方策を見失ったまま、盧溝橋事件をむかえるのであり、このことがまた、事件の拡大を防ぎえない要因ともなるのであった。



近衛内閣の成立

  こうした日中関係の危機は、しかし、日本国内では充分認識されてはいなかった。とくに林内閣の場合には、政党の反省を求めると称して強行した無謀な解散の後始末をどうつけるかに当面の関心が集まっていた。総選挙にあたって、政府の側の新党工作も成功しなかった以上、政界の勢力分野に大きな変動が起こることは、初めから期待できなかった。  

  4月30日の総選挙の結果は、林内閣が反省を求めた民政・政友両党が計254名を当選させ、前回総選挙(昭11・2・20)の276名より後退したとはいえ、依然として絶対多数を維持していた。両党は選挙後には連携して倒閣をめざす態度を明らかにし、特別議会では内閣不信任案が可決されることは必至とみら れるに至った(詳しくは「第七一回帝国議会衆議院解説」参照)。5月3日閣議後の記者会見で林首相は「特別議会に臨んで各議員の言論を聴くまでは進退しない」(東朝、5・4)と居坐りの態度をとり、以後閣僚のなかからは再解散論がとび出すなど、表面は強気の姿勢を示していた。しかし3日の閣議では2、3の閣僚から総辞職論も主張されており、林首相も内実は政局打開への意欲を失っていた。

  例えば、5月2日木戸幸一は近衛文麿・河原田内相と会談しているが、その模様を「木戸幸一日記」は次のように記している。  

 

「近衛公より電話にて面会を求められたるを以て(懇親会を)中座し、八時に蜂竜に行き、同公と会ふ。席に河原田内相あり、其話によれば、本日四時林首相に面会したるに、首相は総選挙の結果、辞職の腹を決められ、後は近衛公の出馬を希望すと云ふにあり、然るに、近衛公には依然として出馬の意なし。依って余は今にして後図を策せず、只選挙の結果のみにて辞職するは無意義にあらずや、選挙の結果の各方面に与ふる影響、並に其れより生ずる各方面の動き等を静に見たる上にて進退を決するも遅からずと思ふ旨を述ぶ。内相も全く同意見とのことにて、直に総理を訪問に赴かる」(下巻、560頁)。

林首相が一応居坐りの決意を表明したのには、この木戸の進言もあずかっていたことであろう。また「陸軍大臣は『いま辞めると結局政党にお辞儀をすることになるから、いま辞めちやあ困る』と云ふし、寺内大将は再解散を主張している」(原田熊雄「西園寺公と政局」 第5巻、308頁)という考えは、林にも共通していた。 既成政党に挑戦した林としては、新党運動によって政界が再編成されるといった動きをみてやめたいという気持が強かったとみられる。大橋書記官長によれば「実際は総理としては退きたいが、後継者がなかなか見つ からないので、ただ無責任に抛り出すわけにも行かない。で、政民両党が元のままでは実は政府も非常に困るんだ。軍部あたりでは、まあ顔を洗って出直せ、と言はんばかりの勢である。結局内閣としては成立前に、林総理なんかがいろんな政党や官僚の連中と有馬の家あたりで会合した時の気持とおんなじで、別に既成政党を排斥してどうとか、或は政党を全然無視して行かうとかいふ気持は更にない、結局近衛を総裁にして新しい政党を作り、その揚句近衛内閣が出来れば大変満足なんだ、或は総理には近衛をし、広田に新党をやってもらふというやうなことも考へられないでもない、いかにもどうもまあ困って思案にくれている」(同前)というのが林の心境であったという。

  しかし、倒閣を叫ぶ政民両党の結束が崩れない以上、新党工作を始めることは困難であったし、といって見通しのない再選挙を強行するわけにもゆかず、結局林内閣の総辞職は時間の問題とみられた。そこで元老や内大臣の周辺では、後継首相についての協議が行われ、 次は健康を理由にして渋っている近衛を説得して引き出すという方向が固められていった。また4月には、政変にあたっては、内大臣が中心となり、重臣など必要を認める方面及び元老と協議のうえ、首相候補者を 天皇に奏上するという方式が決められていた(「木戸幸 一日記」下巻、559頁)。

  林首相も、5月28日政・民両党の議員・支部長ら500余名を集めた倒閣大懇親会が開かれるという情勢をみて、5月30日遂に辞職を決意、大橋書記官長を近衛のもとに送って、次のような意向を伝えた。  

 

「総選挙は以来、鋭意局面の打開に努力し来りしも、容易に所期の目的を達することを得ず、益々相剋の状態を深むる有様なるを以て、此の際総辞職の決意をなすの不得止に至れり、(中略)後継内閣の首班には、公爵(近衛)に御願ひするが最も可なりと思ふも、御健康等の声都合にて不可なれば、平沼(枢密院議長)、湯浅(内大臣)等の方々もあるも、是も御義務の関係上御出馬は困難と思はるるを以て、左すれば閣内より採りて、杉山陸相に組織せしむるを最も可なりと信ず。杉山は未だ首相の意図は全然知らざるも、大命とあれば御引受けすべし。此型にて後継内閣の組織を為し得れば、林首相の面目も立つものと云ふべく、政党の全面的反対も、要するに林個人に対するものにして、政策につき反対せるにあらざる故、差支なしと思はる云々。尚広田前首相の談に、海外に於ては、此内閣を将軍林の内閣と称し居るを以て、万一後継者が文言等より出るときは、恰も陸軍が政党に敗れたるが如き印象を与へ、支那の侮日等に一層拍車をかくることとなるべく、此点より見るときは、杉山将軍に組織せしむるを可とすべし云々」(「木戸幸一日記」下巻、565〜6頁)。


  つまり、近衛が出馬に消極的なのを見た林は、杉山内閣を実現させて、陸軍の立場を前面に押し出そうとしたのであった。林内閣は翌5月31日総辞職したが元老西園寺は現役軍人である杉山を首相にすることに真向から反対した。結局、「それはもう陸軍大臣を総理にすることはよくない。どうしでもこの場合近衛を出したらどうか。自分は今まで近衛を出すことは躊躇 しておったし、またなるべく出したくないと思っておったが、自分に御相談とならば、自分の信念に基づかない者に賛成するわけには行かん。やっぱり筋の立ったことで行かなければならないから、事情からいへば甚だ気の毒であるけれども、結局どうしても近衛よりほか適任者がないと思ふ」(「西園寺公と政局」第5巻、322〜3頁)という西園寺の意向によって、6月1日、天皇は近衛に組閣を命じた。すでに2・26事件直後に組閣の命をうけながらこれを辞退した経験をもつ近衛は、「もはや再び大命を拝辞するは臣下の道ではない」とし、早速貴族院議長官舎を組閣本部とし、河原田内相を参謀として組閣にとりかかった。

  まず近衛は軍の意向のままに、杉山陸相・米内海相の留任を決め、同時に陸軍の強く押す馬場^一元蔵相を入閣させることとした。馬場は広田内閣において革新財政を唱えて軍部の強い支持を得た反面、財界からは激しい反発を買っていた人物であり、この時も、馬場入閣のニュースには財界は強い警戒の色を示したし、また蔵相に留狂を求められた結城豊太郎は、馬場を嫌ってこの要請を断る有様であった。蔵相候補者としては次に、前正金銀行頭取児玉謙次があげられたが、児玉も軍の膨大な予算要求と、軍を背景とした馬場の存在を考慮して、入閣を拒絶した。蔵相は結局、大蔵次官賀屋興宣と決まったが、賀屋は商工大臣予定者と意見を交換するまで正式回答を保留するという慎重さであった。蔵相には賀屋とばぽ同年の吉野信次が登用さ れ、財政・経済政策は賀屋・吉野という官僚出身の若手閣僚によって担われることになり、このコンビによって「財政経済三原則」が打出されることになるのであった)」第71回帝国議会衆議院解説」参照)。その他農 林大臣には石黒忠篤が断ったため、近衛の古くからの友人で産業組合運動に力を入れていた(当時、産業組合中央金庫理事長)有馬頼寧をとり、司法大臣は平沼騏一郎直系の塩野季彦の留任、拓務大臣に大谷尊由、文部大臣に大阪府知事安井英二を入れた。  
  政党からは中島知久平(政友)を鉄道大臣、永非柳太郎(民政)を遵信大匝にとったが、林首相のように党籍離脱を求めはしなかったものの、斎藤・岡田・広田の場合とは異って、近衛は組閣にあたっても政党総裁を訪問して協力を求めようとはしなかった。従って、中島・永井を個人として引き抜いた形であり、政党側はこの点を不満としたが、近衛の人気に押された形で静観していた。書記官長風見章・法制局長官滝正雄も衆議院議員ではあったが、既成政党を批判して無所属であり、むしろ近衛の側近につくられていた昭和研究会のメンパーであった点が注目される。また、中島・永井・有馬らは近衛を担ぐ新党運動を画策しており、そうした意味では、この内閣の成立によって、政界再編成を推進しようとする勢力が表面化したともいうことができよう。近衛内閣の親任式が行われたのは6月4日であった。

  近衛首相は、同じ日「国際正義に基く真の平和と、社会正義に基く施策の実現に努めたい」と述べたが、内閣当面の課題は、前内閣から問題とされていた経済5ヵ年計画の検討と実施であり、そのためにはまず、企画庁総裁を決めねばならなかった。この計画は、参謀本部作戦部長石原莞爾が中心となってすでに陸軍案をまとめており、日満経済プロックの強化・生産力拡充により軍備の画期的増強をめざすものであったが、この厖大な計画の実現には輸出入の調整、資金の調達、物価の抑制など多くの問題の解決を必要とした。林内聞はこれらの問題を総合的に解決するために、内聞調査局を改組強化した企画庁を設けることとし、5月14日には、結城蔵相を総裁兼任として同庁を発足させたが、その後半月で内閣が倒れたため、実質的な開庁は近衛内閣の手に委ねられていた。

  ところで、近衛内閣組閣にあたってこの企画庁総裁の椅子が問題となったのは、5ヵ年計画の原案の作成者である陸軍が、馬場元蔵相を同庁総裁としようとしたためであった。当時の新聞は次のように伝えている。   

 

「近衛公は最初企画庁総裁に馬場氏を兼任せしむることに決していたが、同氏の入閣説と総裁就任説は相当財界その他各方面に衝動を与へた感があるので、公は四囲の情勢に鑑み再考することになった。即ち『軍部は企画庁を以て革新政策の立案の中心となし馬 場氏の兼任を最初から強く要求して組閣本部側も一応これに同意したが、賀屋新蔵相並に吉野新商相はこれに異論があり、両氏の中何れかの総裁就任を要望し閣内には早くも総裁問題を繞って対立の兆を現し始めたので近衛首相は事態を憂慮し、一旦白紙の 状態に戻し再考と決したものである」(東朝、6・4)。  


 こうした状況に苦慮した近衛は、結局、すでに総理の経験もあり、この内閣の事実上の副総理と目されていた広田外相をくどいて企画庁総裁兼任を承諾させ、ともかくも内閣の体制を整えたのであった。6月9日の閣議では、懸案の特別議会を会期2週間として召集することを、ついで15日の閣議は、総合的経済計画の樹立を急務とし、企画庁が関係諸機関の意向を統合調整して速かに成案を作成するという方針を決定した。 陸軍の5ヵ年計画案は遂に公式に国策のレベルに登場してきた。当時の新聞は、「近衛首相は右案を具体化する方法として企画庁に移し、陸軍の抱懐する経済発展に関する5ヵ年計画の大綱を企画庁に提案せしめ、満州国に於ける産業5ヵ年計画とも睨み合わせてここに日満一体の総合的具体案の作成を命ずることになった。然してこれが実現については政府として1日も早いことを望んでいるので、立案が順調に運べば一部分でも特別議会にも提案したい意気込みであるが、全般的施設は特別議会には間に合はないので通常議会提出を目標として具体化を急ぐことになった」(東朝、6・16付け夕刊)と伝えていた。しかしその約20日後には、盧溝橋事件の勃発によって、状況は根本的に変化することになるのであった。



盧溝橋事件の拡大


  近衛内閣成立ほぼ1ヵ月後の7月7日夜、北平(現在の北京)南方の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍に対して、10数発の小銃弾が打ちこまれるという事件が発生した。この日本車は前年5月の支那駐屯車の増強により、豊台に進出してきた部隊であったが、この増強自体が華北侵略体制の強化とみる中国側の抵抗を強める要因となっており、事件の背景をなすものであった。さらにさかのぼれば、支那駐屯軍(通称、天津軍)なるものが、1901(明治34)年の義和団事件議定書を根拠として駐留している軍隊であり、この軍隊を増強して華北工作を強行しようとする点に根本的な問題があったといえる。ともかく事件前には、情勢は次のように悪化していた。   

 

「昭和十二年六月、中国の対日空気が険悪であって、対日作戦の準備を急いでいるとの情報がしきりであった。石原作戦部長、武藤作戦課長は万一の場合を考慮して、作戦課の公平匡武少佐と井本熊男大尉に天津、張家口、包頭、大同、太原、石家荘、済南、 青島付近の地形を視察させ、公平少佐はさらに上海付近中支を視察して七月はじめに帰京した。当時支那官憲の視察妨害ははなはだしく、しばしば身の危険すら感じた。とくに盧溝橋に立って、宋哲元軍事顧問桜井徳太郎少佐の説明を受けつつ、地形一般を視察した際などは、まさに中国兵に検束されようとした。盧溝橋付近は文字通り日支両軍一触即発の間にあった」(防衛庁戦史室「大本営陸軍部(1)」、419頁)。  


 事件発生は夜中の10時半すぎであったが、兵隊1名が行方不明(間もなく帰隊)であったこともあり、豊台の大隊主力も深夜盧溝橋付近に進出して中国軍と対峙、翌朝には両軍が交戦する事態となり、以後も小ぜり合いが続いた。こうした状況のなかで駐屯軍橋本群参課長は不拡大方針をとり参謀本部もまた7月8日、「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クヘシ」(「現代史資料・日中戦争(2)」、3頁)と指示した。しかし陸軍部内が不拡大方針で統一されていたわけではなかった。一方で、事件を拡大することは、中国との全面戦争に引き込まれるとする不拡大鏡が主張される反面では、他方ではここで一撃を加えれば中国側を屈伏させ華北を満州国の緩衝地帯とすることができるとする一撃派の勢力も強かった。同じ参謀本部でも作戦部長石原莞爾少将が不拡大論をとるのに対して、作戦課長武藤章大佐は一撃派の中心人物とみられるといった有様であった。また関東軍は事件当初から強硬政策をとれとの意見を具申していた。7月10日作戦課は関東軍及び朝鮮軍からの応急派兵及び内地3個師団及航空兵団を出動させるとの出兵案を作成 しているが、この案は「これだけの兵力があれば、京津平地における処理はもとより、内蒙・チャハルの処理にも事欠かぬ」との判断を基礎とするとともに「平津、 内蒙を緩衝地帯としようとする武藤謀長の事件発生直後からの企図に基づくものであった」(「大本営陸軍部(1)」、435頁)といわれる。そして同じ日、蒋介石が中央直系軍を北上させつつあるとのニュースがはいると、石原作戦部長もこの派兵案に同意し、翌日の閣議で正式に決定され、同時に政府声明が発表されることになるのであった。  

  7月11日の東京朝日は「日支全面的衝突の危機!、中央4箇師・全飛行隊に、蒋介石追撃令を下す」との大見出しを掲げ、また翌12日の紙面は「計画的の武力抗日歴然、断乎・北支派兵に決定、政府、中外に重大声明」と報じ、十一日発表の政府声明全文を掲載した。この声明は一応「局面不拡大」の態度を打出してはいるものの、その論理は拡大の方向を持つ点で重大であった。その内容はまず、事件の責任はもっぱら中国側にあるとし、とくに9日に一旦停戦の話合いが成立したにもかかわらず、10日再び中国軍が攻撃に出たこと、同時に「頻に第一線の兵力を増加し更に西苑の部隊を南進せしめ中央軍に出動を命」じ、また南京政府には平和的交渉の誠意がみられないことなどをもって、「今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし」と断じた。そして「支那側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し及び今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障をなすこと」を要求し、「今日の閣議に於て重大決意を為し 北玄派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなすことに決せり」とつづく。それは問題を、第29軍(軍長末哲元)との現地交渉から、南京中央政府の「計画的武力抗日」体制の解体を「北支派兵」をもって強要するという方向に拡大することを意味していた。従ってその結論も「政府は今後共局面不拡大の為平和的折衝の望を捨てず支那側の速かなる反省によりて事態の円満なる解決を希望す」(東朝、7・12)というものであり、いいかえれば、「支那側の反省」がなければ平和的解決もありえないとする威嚇的態度を示したものとなっていた。近衛内閣も一撃派と同様、三中全会以後の中国側の抵抗体制の強化に眼をむけることなく、安易に中国の屈伏を想定していたといえよう。

  この政府声明だけでも、外部からは日本が武力行使に踏み切ることを予告したものと受けとられたが、近衛内閣はさらに同日夜、各界代表を招いて協力を要請 し、対華政策についての挙国一致体制をつくりあげるという大げさな手を打っている。この7月11日の近衛首相の行動をみると、午前11時半〜午後1時半五相会議、午後2時〜午後3時40分緊急閣議(派兵方針及び声明文決定)、午後4時22分東京駅発、葉山御用邸で天皇に事変の経過とその対策につき奏上、8時48分東京駅着、ついで9時より首相官邸で言論界代表、9時半より貴衆両院代表、10時より財界代表と会見して協力を求めるという、まさに重大事態発生を思わせるものであった。

  しかしこの日現地では北平特務機関長松井太久郎大佐と第29軍代表張自忠との間に、午後8時、次のような解決条件が調印されていた。

「一、

第二九軍代表ハ日本軍ニ遺憾ノ意ヲ表シ且責任者ヲ処分シテ将来責任ヲ以テ再ヒ斯ノ如キ事件ノ惹起ヲ防止スルコトヲ声明ス

二、

中国軍ハ豊台駐屯日本軍ト接近シ過キ事件ヲ惹起シ易キヲ以テ蘆溝橋城廓及竜王廟ニ軍ヲ駐メス保安隊ヲ以テ其治安ヲ維持ス

三、

本事件ハ所謂藍衣社、共産党其他抗日系各種団体ノ指導ニ胚胎スルコト多キニ鑑ミ将来之カ対策ヲナシ且取締ヲ徹底ス」(朝日新聞社「太平洋戦争への道」資料編、256〜7頁)。  


 この協定調印のニュースにより、参謀本部は、関東軍より2個旅団、朝鮮軍より第20師団を派遣するにとどめて、内地師団の動員を延期することとした。しかしこの日の「夜半近く東京のラジオで『北京において停戦協定成立との報告に接したが、冀察政権従来の態度にかんがみ、はたして誠意に基づくものであるか信用ができない。おそらくは将来反古同然のものにならう、云々』と放送された。これは逆に、われが協定に対し誠意がないことを示したもので、陸軍省新聞班の強硬派が、上司の認可を受けることなく、勝手に原稿を書いて放送局に回したということであった」(「大本営陸軍部(1)」、440頁)という事件もおこり、現地での協定の細目についての交渉を妨害する結果をもた らしていた。

  陸軍中央部も7月23日には、現地協定を是認してその実行を監視することを決めたが、同時に「然レトモ支那側ニ於テ前項ノ解決条件ヲ無視シテ之ガ実行ニ誠意ヲ示ササル場合、或ハ南京政府ニシテ徒ニ中央軍ヲ北上セシメ攻撃ヲ企図スルカ如キ場合ニ於テハ断乎タル決意ニ出ツルモノトス」(同前、443頁)との一撃派の主張も並記されていた。そして15日にはこの「断乎ダル決意ニ出ツル」場合を想定して、第1期―「北平郊外ノ敵ヲ永定河以西ニ掃蕩スル」、第2期― 「現有兵カヲ以テ保定、任郊(保定東方約50粁)ノ線、増加兵カヲ以テ石家荘、徳県ノ線ニ進出シ中央軍トノ決戦ヲ予期ス」(同前、445頁)との作戦計画案も作成された。そして翌16日には、軍中央部は玄那駐屯軍 に対し、19日を履行期限として、最小限「(一)宋哲元ノ正式陳謝、(二)責任者ノ処罰ト共ニ第三七師長馮治安ノ罷免、(三)八宝山ノ部隊撤退、(四)七月十一日ノ解決条件ニ宋哲元ノ署名」(同前、488頁)という4項目を実行せしめよ、と指示した。これは現地交渉を指揮していた橋本群参謀長にとっては迷惑な話であり、橋本は「はっきり覚えて居りませんが『十九日と時日を 切ると云ふ事はいかん』と云ふのか、或は『交渉が纒りさうである』と云ふ電報かを打」(「日中戦争(2)」、329頁)ち返したという。しかし陸軍中央部では、19日をめどに内地師団動員実施を迫る動きが強まっており、新聞には「陸軍省十五日午後八時十分発表、北支の現勢に鑑み本十五日内地より一部の部隊を派遣することに決せらる」(東朝、7・16)との記事もみられた。事件の解決がおくれるとともに、石原作戦部長・石射猪太郎外務省東亜局長ら不拡大派の奔走にもかかわらず、日一日と一撃派の勢力が強まっていった。十七日の五相会議では軍の要求により、十九日に内地師団の動員を予定することが了承されたが、「石原第一部長は、動員は不拡大方針を放棄させる虞れがあるので、なるべく避けたいという考えで、この実施をおさえた」(「大本営陸軍部(1)」、453頁)という。しかしこの頃には中国政府中央の強硬な態度も明らかになりつつあった。

  7月16日、廬山では各界の指導者を集めた国策談話会(6月24日、蒋介石・汪兆銘連名で招請)が聞かれたが、17日には蒋介石が中国側の基本的態度について演説、この演説は19日に公表され、日本の新聞にも20日の朝刊に掲載された。蒋はこの演説で「(一)中国の国家主権を侵すが如き解決策は絶対にこれを拒否す、(二)冀察政権は南京政府の設置せるもので、これが不法なる改廃に応ぜず、(三)中央の任命による冀察の人事異動は外部の圧迫により行はるべきものにあらず、(四)二十九軍の原駐地に制限を加へることを許さず、以上の四点は日支衝突を避け東亜の平和を維持する最少限度の要求である、要するに中国は平和を求むるも、やむを得 ざれば戦ひを辞せず」(東朝、7・20)と叫んでいた。 まさに日中関係は決定的破局をむかえつつあった。そ して第71回議会が召集されたのは、このような時点 においてであった。



第七一回議会の召集


 第71回議会は、1937(昭和12)年6月11日公布の召集詔書により、7月23日に第20回総選挙にともなう特別会として召集されたが、この間に盧溝橋事件が勃発したため実質的には同事件経費の協賛を得るための臨時議会的な性格のものとなった。会期は14日問、7月25日に開院政が行われ、予定通り8 月7日に会期を終了している。

  なお、前述したように、貴族院議長近衛文麿が首相に就任したため、後任議長の選任が必要となり、その交渉は近衛首相自身によって行われた。近衛は最初、副議長松平頼寿(伯爵・研究会)の昇任を考えたが、松平はこれまでの慣行どおり、世襲議員であり選挙のない公侯爵議員より選任されることが望ましいとしてこれを固辞し、細川護立(侯爵・火曜会)を推薦した。しかし細川もまた健康を理由として議長就任を固辞したため、近衛は再び松平を説得、松平も遂にこれをうけいれたものであった。副議長には、佐々木行忠(侯爵・ 火曜会)が選任されたが、これは佐々木が「近衛公と肝胆相照らす仲であり、貴族院改革問題その他革新的意見において常に意気投合していた関係」(東朝、6・18)からとみられた。正副議長とも6月19日に勅任 されている。

  この議会における議長・副議長、全院・常任委員長、 国務大臣、政府委員および議員の会派別所属は次の通りであった。

議長   松平 頼寿(伯爵・研究会)
副議長   佐々木 行忠(侯爵・火曜会)
     
全院委員長   徳川 圀順(公爵・火曜会)
     
常任委員長 資格審査委員長 柳原 義光(伯爵・研究会)
  予算委員長 林 博太郎(伯爵・研究会)
  懲罰委員長 大久保 利武(候爵・研究会)
  請願委員長 酒井 忠克(伯爵・研究会)
  決算委員長 東久世 秀雄(男爵・公正会)
     
国務大臣 内閣総理大臣 近衛 文麿
  外務大臣 広田 弘毅
  内務大臣 馬場 ^一
  大蔵大臣 賀屋 興宣
  陸軍大臣 杉山  元
  海軍大臣 米内 光政
  司法大臣 塩野 季彦
  文部大臣 安井 英二
  農林大臣 有馬 頼寧
  商工大臣 吉野 信次
  逓信大臣 永井 柳太郎
  鉄道大臣 中島 知久平
  拓務大臣 大谷 尊由
     
政府委員(7・24発令) 内閣書記官長 風見  章
  法制局長官 滝  正雄
  法制局参事官兼内閣恩給局長 樋貝 詮三
  法制局参事官 森山 鋭一
  企画庁次長 井野 碩哉
  資源局長官 松井 春生
  対満事務局次長 青木 一男
  情報委員会事務官 横溝 光暉
  関東局事務官 大塚 喜一
  外務政務次官 松本 忠雄
  外務参与官 船田  中
  外務省東亜局長 石射 猪太郎
  外務省通商局長 松嶋 鹿夫
  外務書記官 土田  豊
  内務政務次官 勝田 永吉
  内務参与官 木村 正義
  内務省警保局長 安倍 源基
  内務書記官 熊谷 憲一
  社会局長官 大村 清一
  大蔵政務次官 太田 正孝
  大蔵参与官 中村 三之丞
  大蔵省主計局長 谷口 恒二
  大蔵省主税局長 大矢 半次郎
  大蔵省理財局長 関原 忠三
  大蔵書記官 山田 鉄之助
  氏家  武
  陸軍政務次官 加藤 久米四郎
  陸軍参与官 比佐 昌平
  陸軍主計中将 平手 勘次郎
  陸軍少将 後宮  淳
  陸軍主計大佐 栗橋 保正
  海軍政務次官 一宮 房治郎
  海軍参与官 岸田 正記
  海軍主計中将 村上 春一
  海軍中将 豊田 副武
  海軍主計大佐 山本 丑之助
  司法政務次官 久山 知之
  司法参与官 藤田 若水
  司法省刑事局長 松阪 広政
  司法書記官 斎藤 直一
  文部政務次官 内ヶ崎 作三郎
  文部参与官 池崎 忠孝
  文部書記官 橋本 政実
  農林政務次官 高橋 守平
  農林参与官 助川 啓四郎
  農林省経済更生部長 小平 権一
  農林書記官 周東 英雄
  商工政務次官 木暮 武太夫
  商工参与官 佐藤 謙之輔
  商工省商務局長 新倉 利広
  商工省工務局長 小島 新一
  商工省鉱山局長 東  栄二
  商工書記官 波江野 繁
  燃料局長官 竹内 可吉
  貿易局長官 寺尾  進
  逓信政務次官 田島 勝太郎
  逓信参与官 犬養  健
  逓信省管船局長 小野  猛
  逓信省経理局長 手島  栄
  鉄道政務次官 田尻 生五
  鉄道参与官 金井 正夫
  鉄道経理局長 池井 啓次
  拓務政務次官 八角 三郎
  拓務参与官 伊礼  肇
  拓務書記官 副島  勝
  朝鮮総督府政務総監 大野 緑一郎
  朝鮮総督府財務局長 林  繁蔵
  台湾総督府総務長官 森岡 二朗
  台湾総督府財務局長 嶺田 丘造
  樺太庁長官 今村 武志
     
政府委員追加(会期中発令) 司法省民事局長 大森 洪太
  内閣東北局長 桑原 幹根
  内閣紀元二千六百年祝典事務局長 歌田 千勝 
  大蔵省銀行局長 入間野 武雄
  大蔵省為替局長 上山 英三
  大蔵書記官 尾関 将玄
  久保 文蔵
  文部省専門学務局長 山川  健
  文部省普通学務局長 藤野  恵
  教学局長官 菊池 豊三郎
  農林省農務局長 小浜 八弥
  農林省山林局長 原  辰二
  農林省水産局長 三宅 発士郎
  農林省米穀局長 荷見  安
  逓信省電気局長 大和田 悌二
  拓務省管理局長 棟居 俊一
  拓務省殖産局長 植場 鉄三 
  拓務省拓務局長 安井 誠一郎
  外務欧亜局長 東郷 茂徳
  外務省事務官 山形  清
  内務省神社局長 児玉 九一
  内務省地方局長 坂  千秋
  内務省土木局長 赤松 小寅
  内務省衛生局長 狭間  茂
  社会局部長 清水  玄
  陸軍輜重兵大佐 柴山 兼四郎
  文部省実業学務局長 小笠原 豊光
  文部省社会教育局長 田中 重之
  文部省図書局長 石井 忠純
  文部省宗教局長 松尾 長造
  教学局部長 阿原 謙蔵
  農林省畜産局長 細川 利寿
  農林省蚕糸局長 田渕 敬治
  馬政局長官 村上 竜太郎
  商工省保険局長 後藤 保清
  商工省統制局長 黒田 鴻五
  特許局長官 石井 銀弥
  逓信省郵務局長 進藤 誠一
  逓信省電務局長 藤川  靖
  逓信省工務局長 梶井  剛
  逓信省航空局長 小松  茂
  貯金局長 萩原 丈夫
  簡易保険局長 伊勢谷 次郎
  鉄道省監督局長 鈴木 清秀
  鉄道省運輸局長 山田 新十郎
  鉄道省建設局長 平山 復二郎
  鉄道省工務局長 阿曽沼  均
  大蔵書記官 山際 正道
  迫水 久常
  松隈 秀雄 
     
会派別所属議員氏名    
     
 開院式当日各会派所属議員数 研究会 163名
  公正会 66名
  火曜会 42名
  交友倶楽部 35名
  同和会 34名
  同成会 22名
  会派に属さない議員 50名
  412名
     
研究会 大久保 利武
  黒田 長成
  林 博太郎
  橋本 実斐
  堀田 正恒
  川村 鉄太郎
  樺山 愛輔
  副島 道正
  黒木 三次
  柳原 義光
  松平 頼寿
  松木 宗隆
  二荒 芳徳
  後藤 一蔵
  児玉 秀雄
  有馬 頼寧
  酒井 忠克
  酒井 忠正
  溝口 直亮
  山田 秀夫
  岩城 隆徳
  伊東 二郎丸
  井上 勝純
  井上 匡四郎
  今城 定政
  池田 政時
  伊集院 兼知
  西大路 吉光
  西尾 忠方
  西四辻 公堯
  保科 正昭
  豊岡 圭資
  戸沢 正己
  土岐  章
  富小路 隆直
  大岡 忠綱
  大河内 輝耕
  大久保  立
  岡部 長景
  織田 信恒
  渡辺 千冬
  加藤 泰通
  片桐 貞英
  米田 国臣
  米津 政賢
  吉田 清風
  立花 種忠
  立見 豊丸
  高橋 是賢
  高木 正得
  冷泉 為男
  曽我 祐邦
  鍋島 直縄
  裏松 友光
  梅園 篤彦
  梅小路 定行
  植村 家治
  野村 益三
  藪  篤麿
  前田 利定
  松平 忠寿
  松平 直平
  松平 康春
  松平 保男
  蒔田 広城
  増山 正興
  舟橋 清賢 
  青木 信光
  綾小路  護
  秋月 種英
  秋元 春朝
  秋田 重季
  安藤 信昭
  実吉 純郎
  清岡 長言
  水無瀬 忠政
  三室戸 敬光
  三島 通陽
  白川 資長
  新庄 直知
  毛利 元恒
  松平 乗統
  京極 高修
  谷  儀一
  八条 隆正
  市来 乙彦
  磯村 豊太郎
  今井 五介
  馬場 ^一
  八田 嘉明
  坂西 利八郎
  西野  元
  堀  啓次郎
  堀切 善次郎
  大橋 新太郎
  大谷 尊由
  太田 政弘
  大塚 惟精
  小倉 正恒
  若林 賚蔵
  金杉 英五郎
  根津 嘉一郎
  内藤 久寛
  潮  恵之輔
  山岡 万之助
  山川 端夫
  藤原 銀次郎
  藤山 雷太
  木場 貞長
  三井 清一郎
  宮田 光雄
  勝田 主計
  関谷 貞三郎
  松村 真一郎
  藤沼 庄平
  黒崎 定三
  有賀 光豊
  松本  学
  遠藤 柳作
  今井田 清徳
  大橋 八郎
  白根 竹介
  林  頼三郎
  下村  宏
  深井 英五
  伍堂 卓雄
  結城 豊太郎
  島根 糸原 武太郎
  北海道 板谷 宮吉
  佐賀 石川 三郎
  千葉 浜口 儀兵衛
  長崎 橋本 辰二郎
  和歌山 西本 健次郎
  東京 細田 安兵衛
  福井 山田 仙之助
  福岡 大藪 守治
  福島 金成  通
  北海道 金子 元三郎
  神奈川 上郎 精助
  京都 風間 八左衛門
  新潟 高島 順作
  東京 小野 耕一
  山梨 名取 忠愛
  愛媛 仲田 伝之(長+公)
  静岡 中村 円一郎
  熊本 長野 忠次
  岐阜 上松 泰造
  高知 野村 茂久馬
  京都 大沢 徳太郎
  栃木 久保 市三郎
  鹿児島 久米田新太郎
  熊本 山隈  康
  鳥取 米原 章三
  兵庫 松岡 潤吉
  埼玉 松本 真平
  宮城 氏家 清吉
  徳島 三木 与吉郎
  新潟 白勢 春三
  沖縄 平尾 喜三郎
  大阪 森 平兵衛
  静岡 鈴木 幸作
  鹿児島 上野 喜左衛門
  兵庫 滝川 儀作
     
公正会 岩村 一木
  岩倉 道倶
  伊藤 一郎
  伊藤 文吉
  井田 磐楠
  稲田 昌植
  井上 清純
  今園 国貞
  今枝 直規
  伊江 朝助
  原田 熊雄
  橋元 正輝
  本多 政樹
  東郷  安
  徳川 喜翰
  長  基連
  小畑 大太郎
  大井 成元
  大蔵 公望
  大森 佳一
  奥田 剛郎
  沖  貞男
  渡辺  汀
  渡辺 修二
  加藤 成之
  金子 有道
  郷  誠之助
  高崎 弓彦
  高木 喜寛
  園田 武彦
  辻  太郎
  鍋島 直明
  中村 謙一
  黒田 長和
  山根 健男
  矢吹 省三
  松岡 均平
  松尾 義夫
  松平 外与麿
  深尾 隆太郎
  福原 俊丸
  近藤 滋弥
  有地 藤三郎
  赤松 範一
  足立  豊
  浅田 良逸
  佐藤 達次郎
  安場 保健
  阪谷 芳郎
  坂本 俊篤
  紀  俊秀
  北島 貴孝
  菊池 武夫
  肝付 兼英
  三須 精一
  東久世 秀雄
  関  義寿
  千田 嘉平
  千秋 季隆
  周布 兼道
  杉渓 由言
  安保 清種
  松田 正之
  飯田 精太郎
  前田  勇
  松村 義一
     
火曜会 伊藤 博精
  一条 実孝
  徳川 家達
  徳川 圀順
  鷹司 信輔
  九条 通秀
  山県 有道
  近衛 文麿
  三条 公輝
  島津 忠重
  島津 忠承
  岩倉 具栄
  池田 仲博
  細川 護立
  徳川 頼貞
  徳川 義親
  大隈 信常
  鍋島 直映
  中山 輔親
  中御門 経恭
  野津 鎮之助
  蜂須賀  正
  山内 豊景
  山階 芳麿
  前田 利為
  松平 康昌
  久我 通顕
  西郷 従徳
  西郷 吉之助
  佐竹 義春
  佐々木 行忠
  木戸 幸一
  菊亭 公長
  四条 隆愛
  広幡 忠隆
  小村 捷治
  池田 宣政
  東郷  彪
  井上 三郎
  筑波 藤麿
  伊達 宗彰
  浅野 長之
  勅男 山本 達雄
  犬塚 勝太郎
  橋本 圭三郎
  岡  喜七郎
  若尾 璋八
  和田 彦次郎
  川村 竹治
  芳沢 謙吉
  竹越 与三郎
  長岡 隆一郎
  中川 小十郎
  中村 純九郎
  室田 義文
  内田 重成
  鵜沢 総明
  小久保 喜七
  古島 一雄
  佐藤 三吉
  水野 錬太郎
  鈴木 喜三郎
  出光 佐三
  宮崎 岩崎 清行
  山口 林  平四郎
  香川 大西 虎之助
  滋賀 吉田 羊治郎
  埼玉 田中 徳兵衛
  青森 宗野 勇作
  岡山 山上 岩二
  茨城 青木 歳次郎
  千葉 三橋  弥
  広島 水野 甚次郎
  群馬 渋沢 金蔵
  愛知 下出 民義
  大分 久恒 貞雄
  秋田 辻  兵吉
     
同和会 勅男 若槻 礼次郎
  勅男 幣原 喜重郎
  岩田 宙造
  稲畑 勝太郎
  徳富 猪一郎
  大島 健一
  岡田 文次
  織田  万
  門野 幾之進
  各務 鎌吉
  嘉納 治五郎
  田所 美治
  永田 秀次郎
  野村 徳七
  倉知 鉄吉
  松浦 鎮次郎
  真野 文二
  江口 定条
  有吉 忠一
  赤池  濃
  安立 綱之
  光永 星郎
  土方 久徴
  仁井田 益太郎
  辜  顕栄
  宇佐美 勝夫
  佐藤 鉄太郎
  松井  茂
  小幡 酉吉
  小野寺 長治郎
  広島 松本 勝太郎
  三重 小林 嘉平治
  大阪 佐々木 八十八
  山形 三浦 新七
     
同成会 伊沢 多喜男
  加藤 政之助
  川上 親晴
  高田 早苗
  武富 時敏
  塚本 清治
  次田 大三郎
  丸山 鶴吉
  青木 周三
  菊池 恭三
  三宅  秀
  柴田 善三郎
  菅原 通敬
  中川 健蔵
  富山 金岡又左衛門
  茨城 大和田 健三郎
  奈良 山本 米三
  長野 小坂 順造
  岡山 坂野 鉄次郎
  福島 油井 徳蔵
  神奈川 平沼 亮三
  長野 武井 覚太郎
     
会派に属さない議員 雍仁 親王
  宣仁 親王
  崇仁 親王
  載仁 親王
  博恭 王
  博義 王
  武彦 王
  恒憲 王
  朝融 王
  守正 王
  多嘉 王
  鳩彦 王
  孚彦 王
  稔彦 王
  永久 王
  恒徳 王
  春仁 王
  盛厚 王
  大山  柏
  西園寺 公望
  毛利 元昭
  徳大寺 実厚
  朴  泳孝
  醍醐 忠重
  小松 輝久
  華頂 博信
  嵯峨 公勝
  中島 久万吉
  勅男 松井 慶四郎
  渡辺  暢
  樺山 資英
  田沢 義鋪
  黒田 英雄
  松本 烝治
  二上 兵治
  福永 吉之助
  後藤 文夫
  土方  寧
  小山 松吉
  河田  烈
  平生 釟三郎
  出渕 勝次
  小原  直
  吉田  茂
  弘田 弘毅
  小野塚 喜平次
  田中 館愛橘
  三上 参次
  長岡 半太郎
  岩手 瀬川 弥右衛門


 なお、会期中の異動は、これまで会派に属さなかった嵯峨公勝が火曜会に入会したことのみである。



貴族院の状況

 この議会が召集された7月23日の夜、陸軍省は華北の状況を次のように発表した。   

 

「支那駐屯軍よりの報告によれば『今回の北支事変に関し冀察側に於ては責任者の謝罪、処罰の外今次事変の原因は所謂藍衣社、共産党其他の抗日系各種団体の指導に胚胎する所多きに鑑み将来之が対策取締りを徹底することを協定せり。即ち冀察側は之が 実行の為七月十九日文書に依り左記事項を自発的に申出たり。
一、日支国交を阻害する人物を排す。
二、共産党は徹底的に弾圧す。
三、排日的各種機関、諸団体及各種運動並之が原因と目さるべき排日教育の取締りをなす。
又別に冀察側は今回日本車と衝突したるは主として第三十七師に属するものなれば、将来双方の間に意外の事件発生を避くる為同師を北平より他へ移駐する旨通告し来り昨二十二日午後五時以降列車により逐次南方へ移動中なり』と、駐屯軍は目下之が実行を厳重に監視中なり」(東朝、7・24)。  


 この頃には、蒋介石も現地協定を黙認するのではないかという希望的観測も行われていたが、中国軍の北平周辺からの移動がすすまないうちに、7月25日廊坊事件、翌日広安門事件が発生、遂に日本車の全面攻撃が開始されることになった。

  廊坊は北平・天津のぼぼ中間にあたる地点であり、ここで軍用電信線が切断されたため、約1個中隊の日本車が修理に向かったが、25日夜、中国軍の攻撃をうけるという事件が起こった。そして周囲の優勢な中国軍に包囲されるという状況となったため、駐屯車司令部は翌26日早朝、関東軍より来援中の飛行機をもって爆撃を加えるとともに、今や平和的解決から「断乎膺懲」に転ずべきだとする意見を中央に具申、参謀本部も26日、「所要ニ応シ武力行使ヲ為スコト」を認め、27日には留保されていた内地3個師団の動員も実施されることになった。「殉教者のように見えた不拡大主義者石原少将もついに匙をなげた。26日午前1 時第1部長室(寝台を持ち込んでいた)から、軍事課長室に寝とまりしていた田中大佐に、せき込みながら電話で『もう内地師団を動員するほかない。遷延は一切の破滅だ、至急処置してくれ』という、まことに悲憤の廊坊事件であった」(「大本営陸軍部(1)」、455頁)。  

  7月26日午後3時、支那駐屯車は第29車に対し28日正午を期限として北平周辺からの撤退を要求する以後通牒を発したが、この夜、居留民保護のため北平城内に入ろうとした日本車が広安門の中国軍から攻撃されるという事件も起こり、緊張は一層高まっていった。

  この議会で政府の施政方針演説が行われたのは、内地師団動員が発令された7月27日であったが、翌28日からは日本車の総攻撃が開始され、翌日には、ほぼ永定河以北の北平・天津地区を占領した。29日参謀本部は「平津地方ノ支那軍ヲ撃破シテ同地方ノ安定ヲ図ル、作戦地域ハ概ネ保定独流鎮ノ線以北トス」(「日中戦争(2)」、25頁)との作戦方針を決定しているが、8月中旬以後内地師団の到着を待って保定付近で中国中央車に一撃を加え、軍事行動を収束するきっかけをつかみたいというのが、この方針の意図するところであった。しかし、一歩戦争に踏み込んだ以上、長期持久戦に引き込まれてゆくことは必然であった。 この議会は、こうした日中戦争の開始という状況の なかで審議が行われたため全く平穏であった。貴族院はまず、「陸海軍将兵二対スル感謝決議案」を満場一致で可決して戦争政策支持の態度を明らかにし、蘆溝橋事件以後の経過についても杉山陸相の説明をきくだけで、対中国政策に触れた質問も全くなされなかった。 のみならず追加予算・法律案などについても、本会議では殆んど討論なしに可決されていることは、以下の速記録にみられるとおりである。  

 この議会に提出された案件は、大まかに言えば(一)前議会で未成立に終わった法案、(二)財政経済三原則に関連して新たに作成された法案、(三)「北支事件」経費に関する予算案・法律案に大別できる。まず(一)では人造石油製造事業法案、帝国燃料興業株式会社法案、製鉄事業法案、軍機保護法改正案、貿易組合法案、工業組合法改正案、百貨店法案などが提案され、いずれも成立しているが、前議会で未成立法案のうち電力国家管理法案、農地法案、国民健康保健法案などは今議会には提出されなかった。このうち健保法案は、近衛内閣が成立早々に保健社会省(厚生省として実現)の新設をきめ、そのための予算が追加予算として提出されたこともあって成立が期待されたが、前議会で医師会などの運動により問題化した医療利用組合代行規定の修正をめぐり、馬場内相と有馬農相とが対立、結局提案が断念されたものであった。

  (二)の中心は、賀屋蔵相・吉野商相のコンビで新たに立案された産金法案であった。すでに広田内閣で大軍拡案がつくられて以来、輸入が激増し国際収支の赤字が問題化しており、この年3月から赤字補てんのための金の現送が行われたが、37年度も輸入増加がつづ き上半期だけでも国際収支は6億4千万円余の赤字となっていた。こうした状況のなかで、生産力拡充政策を実現するためには、輸人力の確保が前提となるわけであった。この法案はそのための一つの方法として、 国内産金の増加とその政府への集中によって対外決済力を強化しようとするものであり、産金を精製の過程から政府の監督下におき、探鉱・選鉱場や精錬場の設置などに奨励金を交付し、また必要な機械の輸入税を免除するなどの措置を規定したものであった。

  (三)の「北支事件費」としては、政府はまず、盧溝橋事件以来の経費として9千600余万円の追加予算を提出したが、7月28日の総攻撃開始で事態が新たな局面にはいったため、4億1千900余万円にのぼる第2次追加予算を提出するに至っている。第1次の予算の財源は公債によることとし、そのために政府は「北支事件ニ関スル経費支弁ノ為公債発行ニ関スル法律案」を緊急議決することを要求、貴衆両院とも読会を省略 し、討論なしに可決している。第2次予算もその大部分は公債によったが、一部は増税によることとされ、「北支事件特別税法案」が提出された。これはとりあえず1年限りの特別税とし、5種の特別税により、昭和回12年度6千600余万円、昭和13年度3千400余万円、計1億100余万円の税収をはかろうとするものであった。  

  なお、この議会に提出された法律案は、政府提出35件、衆議院議員発議15件であり、そのうち、政府提出34件、議員発議1件が可決されている。政府提出法案で成立しなかったのは陪審法改正案のみであっ た。    

(古屋哲夫)

第七一回帝国議会 衆議院解説