『日本議会史録』1

1991年2月

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帝国議会の成立 
−成立過程と制度の概要−



古屋 哲夫

表紙

1明治初年の議事制度
2議会と憲法をめぐって

3帝国議会の権限・組織・運営

1明治初年の議事制度
(1)明治維新と議会への関心
(2)公議所と集議員
(3)左院の議会制度案と民撰議院設立建白


1明治初年の議事制度



(1) 明治維新と議会への関心

 議会制度が日本で関心をもたれるようになったのは、ペリー来航以後の欧米諸国の進出に対して、どのように対抗していったらよいかという問題と関連したことであった。嘉永6(1853)年ペリーの艦隊が浦賀に乗り込んできたとき、老中阿部正弘は幕府独裁の伝統を破って諸大名の意見を求めるという措置に出たが、それはしだいに「公議輿論」という言葉を定着させるような方向に広がっていき、やがて知識人層や下級武士までもが、 政治的意見を掲げて動き出すこととなった。

  しかしどのようにして「公議輿論」を形成していくのかということになると、「藩」がまだ現実に力をもち、倒幕派にとっても自藩の実権を握ることから出発しなければならないという状況のもとでは、「藩」を単位として考えるほかはなかった。そしてそこに、洋書の翻訳や漢籍からの重訳や洋行者の見聞などによって、おぼろげながら伝えられ始めた欧米の議会制度に関する知識が重ね合わされてくると、幕府に代わる政治体制として、まず「藩」を基礎としながら諸勢力の統合する方法として「議会」がイメージされるようになるのであった。  

  たとえば、坂本龍馬の有名な覚書き「船中八策」には「上下議政所」の項目があるが、それをもとにした土佐・ 薩摩両藩の薩土盟約では、「議事院上下ヲ分チ、議事官ハ上公卿ヨリ下陪臣・庶民ニ至マテ正義純粋ノ者ヲ選挙シ、 尚且諸侯モ自ラ其職掌二因テ上院ノ任ニ充ツ」という形で二院制の構想が示されている。当時の土佐藩の戦略は、将軍徳川慶喜に対して、この議事院の議長になることを求めるという形で、幕府の解消を図ろうとするものであり、西周を顧問として同様な議院制を検討していた慶喜も、これに乗る形で、大政奉還を申し出たのであった。 この議院劇のなかに将軍家を温存するような構想には、倒幕派は強く反発し、鳥羽・伏見の戦いを起こして、武力討幕路線を確立することになるが、しかし幕府を排除した後の新政権に、諸藩の支持を獲得する方法としては、 やはり議院制的な発想に頼るほかはなかった。  

  慶応3年12月9日(太陽暦1868年1月3日)の、いわゆる「王政復古の大号令」によって、総裁・議定・ 参与の三職からなる新政府が樹立されたが、翌1月17日(2月10日)三職の下に神祇事務掛、内国事務掛、 外国事務掛、海陸軍務掛、会計事務掛、刑法事務掛、制度寮掛をおくと同時に、藩と新政府をつなぐものとして、 徴士・貢士の制度が設けられた。この制度は約半月後の2月3日(2月25日)に三職八局(総裁局を追加)に整備されるが、そこでの規定をみると、徴士とは政府の側が抜擢して中央の役職につけた藩士であり、貢士とは、 大藩三人・中藩二人・小藩一人の割合で藩から中央に差し出された藩士であった。そして貢士は「輿論公議ヲ執ルヲ旨」として「下ノ議事所」の議軍官となると規定された。「下ノ議事所」に対応するはずの「上ノ議事所」については何も述べられていないが、政府首脳や藩主たちの会議の場所と想定されでいたことと思われる。  

  このころ、越前藩士三岡八郎(由利公正)、土佐藩士福岡藤次(孝弟)らは、天皇と藩主諸侯との会盟によって新しい政治の方向を明らかにすることを構想していたが、それは福岡の会盟式案によれば、「天皇・総裁・議定・ 諸侯・列侯」が「上ノ議事所」において、「1.列侯会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」以下の盟約に署名することとなっていた。この構想は木戸孝允によって取り上げられ、木戸が「列侯会議ヲ興シ」を[広ク会議ヲ興シ」とするなどの修正を加えたものが、「五カ条ノ誓文」となった。そして3月14日(4月6日)、天皇が公卿諸公百官を率いてこの誓文を神明に誓うという儀式が行われたことは、新政府が「列侯会議」を否定し「上ノ議事所」 を不要とする方向に発展しつつあることを意味していた。しかし、藩(幕府直轄領には府県がおかれる)が存在する以上、それと中央を結びつけるものとしての議院制の発想は受け継がれ、貢士たちによる「下ノ議事所」は実際に発足し、徳川慶喜処分についての意見が求められている。しかしその意見は政府を拘束するものではなく、 議会制度の理解はまだ、その組織や権限にまで及ばず、ただ広く意見を求めるという点でしかとらえられていなかった。



(2)公議所と集議員

 「五カ条ノ誓文」発布の翌々月、閏4月21日(6月11日)またまた中央政府の機構が改正されたが、そこにもまだいちおうは、二院制的なものが残されていた。新しい機構を規定した「政体書」は、まず政治の「目的」として「五カ条ノ誓文」を掲げ、ついで政府機構全体には「太政官」という古代律令制の用語を復活させているが、同時に「太政官ノ権カヲ分ッテ立法行政司法ノ三権トス、則偏重ノ患無ラシムルナリ」として、欧米の三権分立の思想を取り入れようとする奇妙なものとなっていた。  「政体書」によれば、太政官は、議政官・行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官・司法官の七官に分かれ、 議政官が立法権、司法官が司法権、他の五官が行政権を担当するというのであるが、このうち行政官は行政関係の四官とは異なる組織をもち、議政官との関係も特殊である。すなわち、議政官は上局と下局からなり、上局は議定・参与・史官・筆生で、下局は議長のほかは先の貢士を議員として、また行政官は輔相・弁事・権弁事・史官・筆生によって構成されるのであるが、このうち、上局の議定が行政官の輔相を兼任し、行政官の弁事が下局 の議長を兼任するというのであるから、立法権と行政権の分離どころではなく、行政官は上局に従属し、下局は行政官に従属することになるのは必然であった。

  実際には、上局は内閣にあたり、行政官は各官と上局とを媒介する程度の役割となったようであり、9月19日(11月3日)になると、実情に合わせて議政官を行政官に合併し、議事制度については改めて、議事体裁取調所を設置するという措置がとられている。この間、貢士は公務人さらには公議人と改称されているが、「租税之章程」・「駅逓之章程」といった一般的な問題についての意見が、書面で求められているだけであり、これでは、広く会議を興すという誓文の趣旨を無視することになるという批判が強まってきたのであった。  

  こうした批判に対して、取調御用掛となった森有札、神田孝平らは12月には「公議所法則案」を作成して公議人に配布し、それに基づいて、翌明治2年3月7日(4月18日)には、公議所の開所式が行われた。「法則案」 をみると、「会議ハ律法ヲ定ムルヲ以テ、第一要務トス」との規定から始まって、毎月27の日に会議を開くとか、 最初の会で議案を受け取り次の会で評論を加え第三次の会で決をとり、五分の三以上で可決とするなど、三読会制に基づく議事規則に及んでおり、文面の上では議会制度に近づいたかのごとき印象を与えられるが、実際には、 行政権を拘束する力のない議事機関にすぎなかった。  

 公議所は、3月から6月にかけて18回の会議を行っているが、政府側から出されたのは、最初の「自諸侯至上士所置規則案」だけであり、そのほかは一般からの建白に基づくものも含めて、公議所側で作成した議案を審議・可決して行政官に提出しているが、行政官側がそれを法案化し実施するまでには至らなかった。もっとも「切腹禁止可然ノ議」「官吏兵隊之外帯刀ヲ廃スルハ随意タルヘキ事、官吏ト雖モ脇指ヲ廃スルハ随意タルヘキ事」などの議案が否決されてしまうというように、全休としてみれば公議人の保守性も明らかであった。

  2年6月17日(7月25日)版籍奉還が実施されると、7月8日(8月15日)の職員令によって、太政官の上に神祇官をおき、太政官には左右大臣・大納言を設けるなど復古調の強い政府機構がつくられることとなっ たが、公議所は「集議院」と改称されて引き継がれることとなった。その際議事の運営などは公議所のやり方が踏襲されているが、新しい集議院規則のなかには、「議案ハ太政官ヨリ下スヘシ」との一条があり、その権限は公議所より制限されたものとなったとみることもできる。また「府藩県トモ議員ハ正権大参事中ヨリ選出スヘキ事」 と規定されていた。  

  集議院も毎月27の日が会議日とされたが、年中開会されていたわけではなく、2年では8月27日(10月 2日)の初会合で、議具のなかから幹事12名が選出され、9月7日(10月11日)から12月2日(1月3日)にわたる会議の後、閉院が命ぜられた。翌3年には5月28日(6月26日)に開院され、主要な審議事項であった「藩制」が発布された9月10日(10月4日)に、「今般藩制被仰出侯ニ付、一同帰藩被仰付侯事」と して閉院が命ぜられている。「藩制」は、藩の職員・財政などを規制した法令であり、集議院で出されたさまざまな意見もある程度反映されていたが、その発布と同時に、藩では知事(藩主)につぐ要職である大参事の地位にいる議員たちに、帰藩して実施にあたることを求めたものであった。  

  集議院に提出された議案のなかでは、「藩制」のような法案の審議を求めるものよりも、「贋金対策」とか「陸海軍拡張方策」などのように、特定の問題についての意見を求める形のもののほうが多く、したがって集議院の答議も多くは、議員の意見を整理し、それに賛成の議員数をつけて列挙するという形式がとられていた。  

  要するに、集議院に至るまでの議事機関は、欧米の議会制度からヒントを得たにしても、その実態は「国民参政」の思想とはほど遠く、藩から施政についての参考意見を求めることによって、中央政府と藩との連絡を保つことを目的としたものにすぎなかった。



(3)左院の議会制度案と民撰議院設立建白

 明治4年7月14日(8月29日)、廃藩置県が断行され、藩もまた中央から任命された知事に掌握されるようになると、中央集権体制はいっそう強化された。7月29日(9月13日)に制定された新しい太政官職制によれば、太政大臣・納言・参議を中心とする正院が決定権を握り、その両翼に各省長官(卿)・次官(輔)で構成する行政機関としての右院と、正院が任命する議員からなる左院とが配されていた。  

  その左院がそれ以前の議事機関と決定的に異なるのは、もはや旧藩などの地方の代表を求めようとはせずに、 政府の官僚やその周辺の人々を議員としている点であった。したがって左院は、新知識を有する有能な人材を政府の側に確保する役割を果たすものでもあった。議長には参議の兼任として後藤象二郎(高知)が、副議長にははしめ江藤新平(佐賀)、江藤が司法卿に任命されると(5年4月)、伊地治正治(鹿児島)が任ぜられ、議員に は、高知・鹿児島出身者が多かった。  

  左院の業務は「諸立法ノ事ヲ議スルヲ掌ル」こととされたが、さらに5カ月後の12月27日(明治5年2月5日)に改正された左院事務章程は「凡一般ニ布告スル諸法律制度八本院之ヲ議スルヲ則トス」と規定し、その立法審議権を明確化した。その点では、左院の権限はそれまでの公議所や集議院より強化されているといえるが、 しかしその審議結果が決定力を与えられていないという点では、いままでと同じであった。すなわち、正院については「左右両院ノ奏事取捨ノ便宜、施行ノ緩急ハ本院ノ特権タリ」との規定があり、左院の議決をどう扱うかは、正院の「特権」であり、左院はそれを拘束できないことになっていた。  

  左院の議事については記録が残されておらず、その内容は明らかでないが、このような規定からいって、立法諮問機関にとどまったものと考えることができる。なお集議院は、左院発足後もしばらくは、一般からの建白書受理の窓口として残されており、正式に廃止されたのは、6年6月25日(6年より太陽暦)になってからであった。  

  ところで、左院の活動で注目しなくてはならないのは、個々の議案の審議よりも、ここで本格的な議会制度についての検討が始められたことであった。まず5年5月19日(6月24日)、左院正副議長の名をもって、「広 ク下ノ衆議ヲ採ル」ために「下議院」を設け「全国ノ代議士ヲ集メ人民ニ代テ事ヲ議セシメ上下同治ノ政ヲ施」 すことが必要だとする意見書が正院に提出された。当時参議として正院にいた板垣退勤らはこの提案を支持し、 正院はすぐさま5月22日(6月27日)、「府県代人ヲ以テ議員ニ充テ集議ヲ興」す方針を立てたいので、その規則を取り調べるよう左院に指示した。  

  これに対して左院が8月に提出した案は、「国会議院」を東京に設け、今年(5年)はとりあえず各府県の参事・ 権参事のうち1人を召集して10月に開院し、議院を立てる方法を評議させる、そのうえで明年から公選の議員により、年1回、3か月の会期で開院するというものであった。それは「公選」議員による議会案としてははじめてのものであったが、しかしそこに付されている案は、「府県下農工商ノ財産アリテ事務ヲモ可ナリ心得シ者100人或ハ200人」で選挙組をつくり、そこから議員1人を選出するというものであり、「公選」といっても、有権者をきわめて狭い範囲に限定したものであった。  

  この議院案はさらに検討されて、オランダ法を基礎として選挙・被選挙権から議事手続に至るまで、「明治6年 1月乃至5月頃」起草されたと推定(稲田正次『明治憲法成立史』上巻 128頁)される120条に及ぶ「国会議院規則」が作成されているが、こうした方向が政治制度の根本を規定する憲法の問題に行きつくのは当然であった。この「規則」にも「国会議院ノ可否ヲ経ルニアラサレハー切ノ律法太政官ヨリ之ヲ布告セシムルヲ得ス」との規定があるが、この立法権の独立という近代議会制の原則を実現するためには、国家権力全休の構成を決定しておくことが必要となるはずであった。  

  そしてそのことが当時においても意識されていたことは、6年6月24日に改正された左院事務章程が、「本院 ノ事務ハ会議及国憲民法ノ編纂或ハ命ニ応シテ法奏ヲ草スルコトヲ掌ル所ナリ」として「国憲」の編纂をその事務に加えたことからもうかがうことができる。しかしその直後から、中央政府の内部対立は激化しており10月には征韓論をめぐって、西郷隆盛、板垣退勤、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の五参議が下野するという大政変が起こり、情勢は一変することとなった。板垣、後藤らは、イギリスから帰朝した小室信夫、古沢滋と協議し、 江藤、副島の賛成を得て、7年1月17日「民撰議院設立建白書」を提出、これが翌日の日新真事誌に掲載されたところから、大きな反響を呼び起こし、多くの新聞・雑誌で華々しい論争が展開されることとなった。

  「建白」は、大久保利通を中心とする分裂後の政府を「有司専制」と批判し、人民をして「開化の域に進まし」 め、「天下を維持振起するの道、唯民撰議院を立て而天下の公議を張るに在る而已」(板垣退助監修『自由党史』上巻岩波文庫版 91〜92頁)として「民撰議院」を対置したのであった。それはやがて、「専制」打破のための「国会開設」を主張する自由民権運動に発展していくことになるのであり、議会・憲法問題は、その内容をめぐって最大の政治的争点に押し上げら れていくことになるのであった。7年2月12日、左院事務章程が再び全面改正され、「本院ハ議政官ニシテ正院 ノ補佐トナリ其垂問ノ事ヲ議スル所ナリ」として、編纂や起草の権限を否定され、諮問機関として規定され直されたことは、このような情勢の変化を反映するものであったと思われる。

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