『日本議会史録』1

1991年2月

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帝国議会の成立 
−成立過程と制度の概要−



古屋 哲夫




表紙

2議会と憲法をめぐって
(1)元老院と地方官会議
(2)自由民権運動と憲法問題
(3)さまざまな憲法案と議会構想
(4)明治一四年の政変と憲法「欽定」路線の確立
(5)大日本帝国憲法の制定と帝国議会の発足


2議会と憲法をめぐって



(1)元老院と地方官会議

 議会と憲法の問題が政治的争点になったということは、以後の対立や妥協が、この問題をめぐって展開されるようになるということであった。征韓論争による政府の分裂、民撰議院設立建白の提出についで、明治7年2月には江藤新平の関与した佐賀の乱が起こり、4月には板垣退助が高知でやがて民権運動の拠点となる立志社を創立すると、中央では、台湾出兵をめぐって木戸孝允が参議を辞任するなど、政治の混乱が続いた。これに対して政府分裂に際して参議に昇任していた伊藤博文は、井上馨の協力を得て有力政治家間を斡旋し、翌8年1月から 2月にかけて、大久保利通・木戸孝允・板垣退助の3人が大阪に集まり、互いの宿舎を訪ねて会談を重ねることとなる(大阪会議)。そしてその結果、木戸・板垣が参議に復しているが(3月8日および12日)、それが政治改革についての合意を前提としていることは、その直後の17日、木戸・大久保・板垣・伊藤の四参議が政体取調委員に任命されたことからもうかがうことができる。  

  四参議はさっそく協議に入り、10日後の28日には、司法の最高機関として大審院をおき、立法に関しては元老院と地方言会議を開設し、全休として三権分立の方向をめざす改革案を作成しているが、このうち地方官会議はすでに左院によって具体化されていたものであった。5年8月に左院が、とりあえず府県の官員(参事または権参事)を召集して「国会議院」を開設する案を立てたことは前述したが、この地方官召集の構想は、征韓論分裂後の政府でも採用され、7年5月2日には地方官会議の構成および議事手続に関する規定として「議院憲法」  「議院規則」が太政官達五八号として布達されている。この会議は9月10日開会と予定されたが、台湾出兵のため、8月17日になって中止されたという(指原安三編『明治政史』『明治文化全集』第9巻 241、248頁)。しかし議院憲法・規則は若干の修正だけで実際の地方官会議に使用されているのであり、四参議の協議は、こうした既成の実績を取り入れることで短時日でまとまったのであった。  

  四参議の改革案は、4月14日になって次のような詔勅の形で発表された。 

 

「朕今誓文ノ意ヲ拡充シ茲二元老院ヲ設ケ以テ立法ノ源ヲ広メ、大審院ヲ置キ以テ審判ノ権ヲ鞏クシ、又地方官ヲ召集シ以テ民情ヲ通シ公益ヲ図リ、漸次二国家立憲ノ政体ヲ立テ、汝衆庶ト倶二其二頼ント欲ス」


  これは、「漸次二」という条件つきではあれ、「立憲ノ政体ヲ立テ」ることが、国家的目標として宣言されたこ とを意味した。民間でもこれより前、立志社が中心となって、全国的政治結社の組織が企てられ、8年2月22日各地の代表が大阪に集まり、「愛国社」が結成された。 実際には、参加者は北陸以西の有志に限られていたが、 そうした全国をめざす民間の政治運動が成立し、政治的関心が全国に浸透することが、立憲政体の前提となることは明らかであった。  

  6月20日より7月17日まで、木戸孝允を議長と し、各県令を召集して聞かれた地方官会議においても、道路堤防橋梁のこと、地方警察のこと、地方民会のこ と、貧民救助方法のこと、小学校設立及保護法のことなどについての意見が求められただけで、それが法案化されたわけではなかったが、会議の模様はようやく 起こってきた各地の新聞に報道され、地方の政治的関心を掘り起こす役割を果たしていた。この間、4月25日には元老院職制・元老院章程が布達され、議官の任命が行われている。  

  しかしこれらのことは、官民が一体となって立憲制確立の方向に動き始めたことを示しているわけではなかった。政府部内でも、まず元老院の権限をめぐって対立が始まっていた。元老院章程一条はその権限を「元老院ハ議法官ニシテ新法ノ設立旧法ノ改正ヲ議定シ及ヒ諸建白ヲ受納スル所ナリ」と規定していたが、議官側はこ れを不満として、5月31日には「議法官」を「立法官」と改め、また元老院の否決した議案は法律となしえず、 天皇といえどもそれを再議に付しうるだけとする改正案を決議したが、天皇の大権を制限するものだという木戸 孝允の反対によって、実現を阻止されてしまった。  

  また元老院章程八条には「各行政官二於テ既定ノ法令規則二違背スル処アレハ之ヲ推問シ其事由ヲ天皇陛下二具奏スルヲ得ル」という規定があり、これと先の建白受納権とを組み合わせると、元老院は行政官の非法についての建白を受理すれば、その調査に乗り出すことができることになるわけであったが、しかし元老院が実際にこ の「推問」の具体的制度化を始めると、政府部内では、これに反対する動きが強まった。この間、6月28日には反政府言論の弾圧を目的とした讒謗律・新聞紙条例が布告されており、政府は、行政権強化の方向に動きつつあった。そしてこれまで元老院の強化を主張してきた板垣退助が、さまざまな問題で孤立して10月27日に辞職すると、11月25日政府は新しい元老院章程を制定した。  

  それは問題の「椎問」についての規定を削除し、建白受納権も立法に関する建泊だけに限定するとともに、元老院に提出する議案を「議決」を求めるものと「検視」を求めるものとに、内閣側で区分するという形で、元老院の権限の削減をねらったものであった。すなわち「検視」を求められた議案については、「元老院ニ於テ可否スルコトヲ要セス又修正ノ権ナシ」というのであり、「検視」とは結局、それが既定の法律に抵触することはないか、 その内部に矛盾や不備の点がないかを調べ、問題のある場合には、太政大臣に通告して修正を求めるというだけのことであり、内容についての審議権を奪うことを意味した。この制度は実際の運用でも大きな地位を占め、15年前半期までは、ほとんどの時期で検視議案が議定議案より多数であり、以後国会開設により元老院が廃止さ れる23年までは、議定議案のほうが多数になるとはいえ、平均すれば、検視議案もいぜん全休の三分の一を超 える数を占めていた(前掲稲田『明治憲法成立史』上巻 339頁による)。  

  また新元老院章程には「急施ヲ要スル事件元老院ノ検視ヲ経ルニ暇アラサル者ハ内閣ヨリ便宜布告シテ後二検視ニ付スルコトヲ得」との規定もあるが、この「便宜布告」をなしうる条件は曖昧であり、内閣が元老院が否決 した議案を「便宜布告」して法律にしてしまうというやり方もみられるようになった。  

  要するに元老院も結局、諮問機関的な地位にとどめられたわけであるが、このことは、憲法による立法権の確立を前提としなければ、近代的な議会制度をつくり出すことが困難なことを意味するものであった。政府の側も 漸次にとはいえ、立憲政体の樹立を約束している以上、元老院の立法権削減の代わりには、憲法制定の方向を示 すことが必要であった。  

  9年9月7日、元老院議長に対して国憲の起草を命ずる勅語が下され、翌日には柳原前光、福羽美静、中島信行、細川潤次郎の四議官が国憲取調委員に任命された。そして翌月には早くも「日本国憲按」の最初の草案が作成されているが(前掲稲田『明治憲法成立史』上巻 292〜298頁)、そこではまだ「帝国議会ハ元老院及ヒ其他ノ議会(地方官会議など)ヨリ成ル」と規定されただけで、「公選」による議会制度は取り上げられていなかった。この草案は政府には提出されなかったと思われるが、この時期から朝野の関心は、神風連から西南戦争に至る士族反乱に集中され、議会・憲法の問題は、しばらく中断されることになるのであった。



(2)自由民権運動と憲法問題

 西南戦争の終結によって、武力による政治闘争の条件は失われ、したがって、以後は言論によって政治を動かす機関としての「議会」への要求は、いっそう切実なものとなっていった。こうした要求を全国的に組織することをめざして、立志社は明治11年4月愛国社再興の方針を決め、各地に遊説貝を派遣した。8年の愛国社結成 に参加したのは、いわゆる不平士族が中心であり、以後の士族反乱にも多くの参加者を出し、愛国社は組織としての実態はなくなっていた。  

  11年9月11日、11県から46名の代表が集まり(後藤靖『自由民権』91頁)、大阪で愛国社再興大会が開かれた。出席者はまだ中部以西に限られていたが、こうした中央組織の成立自体、各地で政治的関心を高めつつある青年たちの活躍に支えられ、また彼らの組織化を促す力になるものであった。以後「民権結社」は全国的に拡大していっだと思われる。再興された愛国社は、大阪を本拠とし毎年3月と9月に大会を行うこと、参加資格を10名以上の同志を有する結社とすることなどを決め、結社を単位とする永続的組織をつくろうとしていた。そしてその決定 に従って翌12年3月27日には、18県21社から80余名が参加して、愛国社第二回大会が開催されている(前掲『自由党史』上巻 263頁)。 

  こうした自由民権運動の展開に対して、政府側は、地方官会議の開催から府県会の開設へという政策を打ち出 していた。11年4月10日に開院式が行われた第二回地方官会議は、翌日から5月2日まで日曜を除き正味20日にわたって、地方区画の改正、府県会規則、地方税規則の審議にあたった。これらの議案は、さらに元老院の議を経て、7月22日郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則として布告され、当時「三新法」と呼ばれた。 これによって、地方のレベルで、しかも限られた権限しか与えられなかったとはいえ、ともかくも公選制による議会が全国的に制度化されたことは重要であった。そして愛国社第二回大会が行われたで12年3月は、各地で最初の府県会議員選挙が行われているさなかであった。  

  府県会議員は郡または区を選挙区とし、満25歳以上の男子でその府県内に本籍を有して満3年以上居住し、 地租10円以上を納める者のうちから、郡または区ごとに5人以下を選挙することとされ(任期4年、2年ごと に半数改選)、選挙権は、満20歳以上でその郡区内に本籍を有し、地租5円以上を納める者に与えられた。こう した制限選挙によって構成された府県会は、権限の面でも基本的には「地方税ヲ以テ支弁スヘキ経費ノ予算及其徴収方法」と「地方税ヲ以テ施行スヘキ事件」を審議することに限られており、議案もすべて府知事・県令より 発せられることとされ発議権も与えられていなかった。  

  こうした制限された内容のものであっても、府県会が実際に発足したことは、次の段階としての国会開設への足場となることを期待されることになった。たとえばこ12年7月に千葉県の桜井静は「国会開設懇請協議案」を 朝野新聞に送る(『朝野新聞』明治12年7月24日掲載)と同時に、一万部を印刷して全国の府県会議員などに配布しているが、そこでは府県会の権限が「狭少」であることを批判し、全国の県会議員に連合して東京で一大会議を開き、国会開設の方法を議決して政府に働きかけることを提案するものであった。この提案には岡山県会が一致して賛意を表したのをはじめ、多くの反響がもたらされたが、愛国社の運動にも強い影響を及ぼすこととなった。

  12年11月7日に開会された愛国社第3回大会では、はじめて東北から福島・石陽社の河野広中が参加するなど、運動の拡大が示されると同時に、国会開設の請願を行うために各地各社より来年三月の大会に請願書案をもち寄る、という具体的運動方法が決定されたことは、画期的なことであった。請願への署名を求めることは、 運動の末端を押し広げる役割を果たした。13年3月17日開会の愛国社第4回大会には2府22県8万7千余人の代表114名が集まり(前掲『自由党史』 上巻272頁)、愛国社の名称を国会期成同盟と改めるとともに、国会開設の願望書を天皇に奉呈し、国会が開設されるまでは何年でも同盟を継続することなどを決めた国会期成同盟規約を採択し た。

  この規約はさらに、この願望が認められた際には、「国会憲法を制定す可き全国の代人を出す方法」や「国会憲法」そのものについても政府に建議することを規定し、開かるべき国会の内容の決定にも参画しようとするものであった。ここで「国会憲法」とは国会に関する基本法をさしていると思われるが、この要求が憲法そのものに向かって発展してゆくことは必然であった。  

  大会で決議された願望書は「国会を開設するの允可を上願する書」として、各地の総代97名の署名をつけて作成され、片岡健吉、河野広中が代表となって4月17日まず太政官に提出したが受理されず、ついで元老院におもむくと建白以外は受けつけないと断わられる有様となった。両人はさらに20余日にわたり奔走したが、事態を打開することはできず、結局「顛末書」を作成して各地の有志に配布することで終わっている。しかしこの報告は、むしろ各地の請願運動を刺激することとなり、12年12月から「13年12月までに出された国会開設建白と請願は、建白46件、請願12件の合計58件にも上」り、その「地域は34県にも及んでいる」(前掲後藤『自由民権』123〜124頁)という。この間政府は、4月5日集会条例を公布して、政治結社・屋内政治集会(屋外政治集会は禁止)を警察の許可制のもとにおき、結社間の『連結』を禁止して、取締りを強化したが、運動の高揚を抑えることはできなかった。

  13年11月10日、国会期成同盟第2回大会が、今度は東京で開かれ、名称を再び「大日本国会期成有志公会」と改めると同時に、来年10月1日に東京で大会を開くことを予定し、その際には「各組憲法見込案を持参研究す可し」と決議して、はじめて「憲法」問題を運動の課題として取り上げたのであった。それはすでに運動 のなかで、憲法への関心が高まり、さまざまなグループが、憲法草案をつくり始めていたことを反映するものであった。  

  こうした民権運動の動向に対しては、「漸次」立憲政体を樹立することを公約している政府側も内部に対立を抱 えながら対応せざるをえず、憲法問題はしだいに政局の焦点に押し上げられてゆくことになるのであった。



(3)さまざまな憲法案と議会構想

 憲法草案の起草に最初に着手したのが元老院であったことはすでに述べたが、その起草の過程で早くも政府との対立があらわれてきた。まず憲法起草を元老院に命じた勅語(9年9月7日)は「朕爰ニ我建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ以テ国憲ヲ定メントス」と述べて、(一)「我建国ノ体ニ基」づくこと、(二)「広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌」することというふたつの方針を示していたが、この両者をいかに総合するのか、とくに「建国ノ体」=「国体」をいかに理解するのか、というそもそもの出発点から、困難な問題に直面したといってもよか った。

  元老院側は、「国体」の問題としては「第一条、日本帝国ハ万世一系ノ皇統ヲ以テ之ヲ治ム」という条文をおくだけにとどめ、他の大部分は「海外各国ノ成法」=欧米の憲法を参考にするという第2の方針に従って起草を進めた。前述した9年10月の「日本国憲按」第1次草案に続いて、11年7月に第2次草案、13年7月に第3次草案がつくられているが、この間のもっとも大きな修正は、第2次草案で2院制の下院を公選による「代議士院」とし、第3次草案で法案は両院を通過しなければ法律となしえないことを明記する規定を加えるなど、立法権=議会に関する部分について行われており、国体・天皇に関する規定は、字句の修正などが加えられているにすぎなかった。元老院側のおもな関心が、立法権の問題に向けられていたことがわかる。しかし政府側では、元老院草案への批判を通じて、憲法における国体のイメージが形成されつつあったとみることができる。  

  結局この元老院草案は、政府側とくに岩倉具視、伊藤博文らの強い反対によって廃案とされ、元老院の起草作業そのものも打ち切られる(明治14年3月23日元老院国憲取調局閉鎖)のであるが、この際、岩倉、伊藤らが不満としたのは、元老院側が力を入れた議会制度に関する部分ではなく、国体・天皇に関する部分についてであった。伊藤は岩倉にあてて、元老院草案は各国憲法の「焼直シ」だけで「我国体人情」に注意を払わず、「欧州之制度模擬スルニ熱中シ将来之治安利害如何」を顧みていないと批判しているが(前掲稲田『明治憲法成立史』上巻 335頁)、批判の焦点は「立法ノ権ハ皇帝ト帝国議会トニ分ツ」という発想そのものに向けられていたと思われる。のちの実際の大日本帝国憲法5条の「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」という規定、つまり立法権を有するのは天皇であり、議会はその行使に協賛するだけだという規定と比べてみれば、立法権そのものを君民間に分割するという元老院案は、国体に反するものということになるわけであった。

 岩倉、伊藤らにとっては、統治の全権が「万世一系」の天皇にあるというのが「国体」であり、それを確立するのが「憲法」でなければならなかった。その観点からいえば、元老院案の「皇帝即位ノ礼ヲ行フニ方ツテハ両院集会ノ前ニ於テ国憲ヲ確守スルノ誓ヲ宣フ」とか、天皇の外交権に「国財ヲ費シ国境ヲ変スルカ如キ条約ハ両院ノ承認ヲ得ルニ非サレハ其力ヲ有セス」との制限をつけるとか、両院に「大臣参議諸省卿及長官」の職務にかかる罪を弾劾する権限を与えるなどの条項は、欧州憲法の焼直しとして排斥されることになるはずであった。そ して元老院草案でさえ不満とするならば、民権運動のなかから生み出されてくる憲法案は、より危険な思想を含むものと考えられたことであろう。  

  民権運動に参加した政治結社の憲法案としては、13年2月の筑前共愛会「大日本国憲法大略見込書」が最初のものとみられているが、おおまかにいえば、13年には人民の権利についての多くの論説が発表され、そのう えで14年になって憲法案(現在確認されているものでも、十数篇にのぼる)が作成されるようになっている。 またこの年には自由党、翌年には改進党が結成されて、議会をめざす政党の活動も始められることになるわけであるが、そうした党派の観点から14年の憲法案をみると、自由党系では立志社の「日本憲法見込案」、改進党系では交詢社の「私擬憲法案」、政府に近い立場のものとしては東京日日新聞に掲載(明治14年3月30日〜4月16日)され福地源一郎 起草と推定される「国憲意見」を代表的なものとみることができる(これらの条文についての以下の叙述は、家永三郎他編『明治前期の憲法構想』による)。  

  このうちでは、立志社の「見込案」がもっとも急進的であり、その基本的な特徴は国民の権利をきわめて広汎 に、しかも他の案におけるような法律の範囲内でといった限定をつけずに、無制約的に保障しようとする点にみ られた。したがってその反面で国民の代理者としての「国会」に強い権限を与え、それだけ「国帝」の権力は制限されたものになっていた。たとえば「国帝ハ行政長官タリ、別条国帝陸海軍ノ都督タリ」とされているが、「宣戦講和」に関してはただ「公布」するだけが「国帝」の仕事であり、実際の決定権は[宣戦講和(実)権ハ国会 之レヲ掌握ス(断決)」として「国会」に与えられており、さらに条約の締結全般にも「国会ノ議決」が必要とさ れた。国会は1院制(議員選挙については規定なし)であり、「国会ハ国民ニ代ツテ国事ヲ議定シ及ヒ国民安寧ヲ保全ス」「国会ハ帝位ヲ認定ス」といった規定からみれば、国会を国の最高機関としていたといわねばならないで あろう。

  これに対して交詢社の「私擬憲法案」の場合には、立志社案が触れていない議会と内閣との関係について「議院内閣制」を明確にしている点に特徴があった。議会は元老院と国会院からなる2院制であるが、「首相ハ天皇衆庶ノ望ニ依テ親シク之ヲ選任シ其他ノ宰相(大臣)ハ首相ノ推薦ニ依テ之ヲ命スヘシ」「内閣宰相タルモノハ元老議員若シクハ国会議員ニ限ルヘシ」との規定からいえば、首相は両院のどちらかの議員でなければならないのだ から、「衆庶ノ望」とは議院における多数の支持を意味するといえる。そしてさらに「内閣ノ意見立法両院ノ衆議 ト相合セサルトキハ或ハ内閣宰相其職ヲ辞シ或ハ天皇ノ特権ヲ以テ国会院ヲ解散スルモノトス」との規定を加えてみれば、この憲法案が議院内閣制を想定していることは明らかであろう。

  このほか、議会の権限については予算・法律の議決のほか「海関税ヲ更改スルノ条約ハ預メ之ヲ元老院国会院 ノ議ニ附スヘシ」という規定があり、また国会院には「内閣宰相其他行政及司法官吏ノ国事犯及職務上ノ過失ヲ弾劾スル」権限が与えられていた。さらに、この憲法案のもうひとつの特色として、元老院の一部に複選制ではあるが、公選議員を加えるとか、国会議員の選挙資格に地租5円以上の土地所有と並べて時価200円以上の家屋所有を加え、都市を独立選挙区にするなど、他に例のない規定がみられることだけを指摘しておきたい。  

  次の東京日日新聞の「国憲意見」が政府系とみなされるのは、この新聞が政府御用を標榜した新聞であったためであるか、その内容は、先の元老院の「国憲按」よりも民権限に近いものであったといえるかもしれない。この「意見」は条文化された憲法案ではなく、憲法に盛り込むべき主要な内容とそれについての説明という形式を とっているが、最初に緒言をおいて「国約憲法」の立場を強調している点が注目される。「国約憲法」とはこの当時の用語で「君民の約束による憲法」という意味に使われており、輿論を重視し、具体的なイメージとしては、 国民代表会議で決議した憲法案を天皇が裁可するという形が想定される場合もあったようであり、民権派の大多数はこの立場をとっていたと思われる。  「国憲意見」はまず、「国憲」とは「国約憲法」のことだとし、今日国憲を制定しなければならないのは、「国会ヲ興起」して国家の「柱石ヲ固」めねばならないためだとその目的を明確にする。そして君権独裁=帝勅憲法、 共和政治=民議憲法に対して、君民同治=国約憲法を対置している。その一方では「皇統ハ神種ナリ我日本国ノ 帝位ハ天照大御神ノ御子孫ノミ天日継ニ立セ給フベキ事」として万世一系を絶対視しているが、他方では内閣大臣は「天皇ニ代り国民ニ対シテ其責ニ任ズベキ事」とし、大臣に対して天皇の意思と輿論とが異なる場合には「飽クマデモ諫諍シ奉リ」輿論の立場を貫くことを求めていた。したがって天皇に対してもまた「輿論ニ違背スルノ 大臣ハ寵遇信任ノ人タリトモ之ヲ退ケ給フベキコト立憲政体ノ最要訣ナリト云フベシ」として輿論を尊重することを求めるものであった。この点についての制度的保証については何も述べられていないが、実際問題としては議院内閣制を慣行化することが考えられていたのではあるまいか。

 議会については、上院、下院の2院制であり、上院に各府県より選出した議員1名ずつを加えること、選挙権は金額を問わず地租を払う者に与えることなどが特色であった。この点について「地租十円乃至五円以上ナドト制限センハ頗ル国民参政ノ権理ヲ妨害スル」ものだと述べられているが、同様の観点から下院の大臣の弾劾権に 関しても「若シ大臣ニ失職ノ罪犯過失アルヲ知ルモ之ヲ糺弾シ之ヲ責罰スルノ権威ナクバ国民ノ参政権ハ其結局ニ於テ遂ニ有名無実ノ形迹二陥ルベシ」と強調されていた。  

  このように異なった党派的立場から出されてきた憲法草案は、それぞれに異なった内容をもちながらも、自由民権運動の発展を背景として、全体としては、実際に制定された大日本帝国憲法よりもはるかに民主的な方向で、 国会開設を期待する雰囲気をつくり出していたといえる。そして政府のなかからも、これに呼応する動きが出てくるのであった。



(4)明治一四年の政変と憲法「欽定」路線の確立

 ところで、右大臣岩倉具視らが元老院「国憲按」を廃案に追い込んだのは、議会・憲法問題への政府独自の対応策が模索されていたこととも関連していた。すでに明治回12年12月には、参議山県有朋から、民会への過渡として、府県会より徳識のある者を選んで特選議会を設置する構想が出されているが、岩倉はこれを機として各参議に意見の提出を求め、また翌13年2月28日には、三条太政大臣、有栖川宮左大臣との間で「国体ニ基キ憲法ヲ速カニ確立」する方針をとることについて協議している。しかしそれを具体化するとなると、まず政府部内で推進の核をつくることから始めねばならなかった。

 各参議からは、13年から14年にかけて意見書が提出されているが、その多くは国会開設に消極的であり、 とくに早期開設には反対であった。すなわち黒田清隆は、国会開設は時期尚早であり、法制を整備し教育を改良 し産業を振興してからで遅くないとし、山田顕義は人民に特定の範囲で参政権を与え、憲法を仮定して4、5年間元老院と地方官会議で試み、その後に憲法を確定し特命をもって布告すべしとした。また井上馨は将来の下院 に対抗するに足る上院を確立してから、民法、憲法を制定し国会開設に至るという順序を想定した。伊藤博文も 同様に上院の確立を前提とし、華士族を将来の上院の基盤とすることを主張しているが、同時に「聖裁ヨリ断シ天下ノ方向ヲ定ムルヲ請フ事」を提議している点が特徴的であった。  

  13 年12月1日に提出されたこの意見書は伊藤の意を受けて、太政官大書記官井上毅が起草したものである が、伊藤は井上に対し、そのなかに「憲法ヲ起草シ、民撰議院ヲ開設スルノ時期、其方法等ヲ定ムルハ、一ニ聖裁ニ在ルト云コトヲ勅書ヲ以テ公示シ、人民ヲシテ其方嚮帰着スル所ヲ知ラシメ度ト申意ヲ加ヘ」るよう指示していた(井上毅傅記編纂委員会編 『井上毅傅・史料篇・第五』 21頁)。つまり憲法起草、民撰議院設立に関する決定権が天皇にあるということを、天皇自身が「勅書」によって宣言するという形式をとり、それによって、国約憲法論などいっさいの論議を封じてしまうことを意図するものであった。実際の事態もこの方向に進むことになるのであり、そのことは、憲法制定の主導権を伊藤博文が掌握することを意味した。  

  このほかでは、大木喬任が記紀神話に基づく天皇のあり方を万邦無比の国体とし、国体に適合した帝憲及び政体を欽定して、国会開設の時期を公示すべしと主張しているが、参議のなかで大隈重信だけが、まったく異なる意見を提出して、他の大臣、参議たちを驚かすことになるのであった。

  14年3月に提出された大隈の意見書(前掲 『明治前期の憲法構想』 130〜136頁)は、国会(この意見書では「国議院」)の早期開設と、政党内閣制の樹立を主張する点で、他の参議たちの意見とまったく趣を異にしていた。まず彼は、人心の進歩に法制の改進が遅れてはならないとし、盛んな請願運動の展開をもって国会開設の時機は熟したとみる。そしてすみやかに「宸裁ヲ以テ憲法ヲ制定セラレ」「国議員ヲ召集セラレン事」を求めたが、彼がそこで提示したのは、「本年ヲ以テ憲法ヲ制定セラレ、十五年首若ク八本年末ニ於テ之(議院開立)ヲ公布シ、十五年末ニ議員ヲ召集シ、十六年首ヲ以テ始メテ開立ノ期」とするという、急速度の展開であった。それは、国会開設の準備期間でさえいつまで続くかわからないような他の参議の意見に比べれば、革命的とさえいえるものであった。  

  そして国会開設の時期を決定、公表すれば、1年か1年半のうちに政党が形成されてくるという見通しのもとに、政党内閣制が立憲政治の中軸でなければならないと主張したのであった。すなわち立憲政治は輿論による政治であるが、輿論があらわれる場所は国会であり、輿論とは議員過半数の願望にほかならず、したがってその過半数を掌握する政党の首領が政権につくべきだとする、つまり「立憲ノ政ハ政党ノ政ナリ、政党ノ争ハ主義ノ争ナリ、故二其主義国民過半数ノ保持スル所ト為レハ其政党政柄ヲ得ヘク、之二反レハ政柄ヲ失フヘシ」というものであった。  

  この考え方はすでに述べた交詢社の「私擬憲法案」と共通するものであり、元老院国憲按をさえも廃案としていた岩倉、伊藤らにとって、大隈の意見は政府部内から民権運動に通謀するものとみなされるようになった。これに対して岩倉は、すでにその懐刀となっていた井上毅にその対策の作成を命じ、井上は、イギリスの制度を模範にする大隈の意見に対して、プロイセン(ドイツ)の制度に依拠して対抗するという構想を立てた。そして外務省法律顧問のドイツ人ヘルマン・ロェスレル(Her. mann Roesler)の教示を得つつ、14年6月には、次々と意見書を岩倉に提出している。岩倉はこの井上の意見に基づき、大隈を排除して伊藤博文を憲法制定の中心に据える方針を固め、7月6日には、三条、有楢川宮両大臣に憲法に関する意見書を提出し、天皇への上奏をも求めたが、そこには井上毅の起草になる、憲法の内容となる重要項目を列挙した「大綱領」が付されていた(岩倉公薯蹟保存会編『岩倉公実記』 下巻 717〜718頁)。

  それはまず、憲法制定は天皇による「欽定」の方式 によるべきこと、「帝位継承法」は別の「皇室ノ憲則」  (「皇室典範」となる)で規定し憲法には記載しないこととしたのについで、「天皇ハ……ノ権ヲ有スル事」という形式で、「陸海軍ヲ統率スルノ権」「宣戦講和及外国締約ノ権」「貨幣ヲ鋳造スルノ権」「大臣以下文武重官任免ノ権」「位階勲章及貴号等授与ノ権」「恩赦ノ権」 「議院開閉及解散ノ権」の7項目があげられている。そのうち「貨幣鋳造権」以外は、のちのいわゆる「天皇大権」の内容をなすものであるが、この「大綱領」全体が18項であることを考えると、この案が天皇大権の確立に主目的をおいていることをうかがうことができる。  

  議会に関しては「一、立法ノ権ヲ分ツ為ニ元老院民撰院ヲ設クル事、一、元老院ハ特撰議員ト華士族中ノ公撰議員トヲ以テ組織スル事」「民撰議院ノ議員撰挙法ハ財産ノ制限ヲ用ウル事」「歳計ノ予算政府ト議院ト協同ヲ得サルトキハ総テ前年度ノ予算ニ依り施行スル事」という4項目が掲げられた。このうち、士族を権力のひとつの支柱にしようというのは岩倉の持論であり、伊藤の意見書にもみえるところであったが、実際の士族は、10年の秩祿処分(家縁の金祿公債化)以後、急速に社会的階級としての実体を失っており、「士族中ノ公撰議員」は実現しなかったが、その他の2院制、制限選挙、予算不成立の際の前年度予算の施行などは、大日本帝国憲法のなかに制度化されている。このほか、一、大臣ハ天皇ニ対シ重キ責任アル事」「法律命令ニ大臣署名ノ事」「議院ノ権限ニ関スル事」「裁判所ノ権限ニ関スル事」が憲法に記載すべき事項として加えられているが、全休としてみれ ば、「大綱領」はすでにのちの実際の憲法の大枠をつくり出していたということができる。  

  そしてこうした憲法構想は、続いて起こった開拓使官有物払下げ事件における大隈排除の動きと結びつきなが ら、一挙に政府の方針に押し上げられていくことになるのであった。開拓使は2年7月北海道間柘のために設置された官庁であり、種々の事業を経営してきたが、財政整理のため開拓使を廃止して県をおき、その事業も民間 に払い下げることになった。払下げの決定は14年7月28日の閣議で行われたが、1000万円以上を費やした諸事業を38万7000余円、しかも無利子30年賦で薩派の政商に払い下げるという内容が明らかになると、 諸新聞はいっせいにこの問題を取り上げ、多くの演説会が開かれて、政府攻撃の世論は急速に盛り上がっていった。この動きは、8月9月と拡大していくことになるが、そのなかでは、交詢社系政客の動きが目立っていた。 そしてそこからその背後に大隈があるとする大隈陰謀説がささやかれ、薩長両派の参議たちは、大隈追放をめざ して結束することになった。  

  彼らにとって大隈追放とは、たんに大隈の参議の地位を罷免するだけでなく、彼の憲法構想を排除して、岩倉、 伊藤、井上毅らの間でつくられてきた憲法制定路線を確立するものでなくてはならなかった。そしてそのためには、払下げを中止して、世論に譲歩する代わりに大隈を罷免し、同時に詔勅によって、憲法・国会問題に関する方針を明示して、民権運動などの策動を封ずる、という策が立てられていった。そして10月11日、東北巡幸より帰還した明治天皇のもとに、三条、有栖川宮、岩倉三大臣のほか、伊藤博文、山県有朋、井上馨、山田顕義  (以上長州出身)、黒田清隆、寺島宗則、西郷従道(以上薩摩出身)の薩長7参議が集まり、開拓使官有物払下げ の中止と、大隈参議の罷免を決定するという一種のクーデターが遂行された。この事件は「明治一四年の政変」 と呼ばれる。  

  その翌日10月12日、伊藤博文、井上毅らによって用意された国会開設に関する詔勅が発表された。それはまず「明治二十三年ヲ期シ議員ヲ召シ国会ヲ開」くことを宣言した点で衝撃的であったが、同時に続けて「今在廷臣僚ニ命シ仮スニ時日ヲ以テシ経画ノ責二当ラシム、其組織権限ニ至ラハ朕親ラ衷ヲ裁シ時ニ及テ公布スル所 アラントス」と述べて、国会の「組織権限」を規定する憲法は天皇自ら裁定し公布すること、すなわち欽定憲法の方式によることを明らかにしたのであった。そしてさらに「若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ争ヒ事変ヲ煽シ国安ヲ害スルアラハ処スルニ国典ヲ以テスヘシ」として、この方式に対する批判を威圧的態度で禁じているのは、詔勅としては異例のことであった。  

  この直後に成立する自由党も、この翌年3月に、下野した大隈派を中心に結成される改進党も、この憲法「欽定」路線に有効な闘争を展開することはできなかった。改進党結成直前の15年3月3日、明治天皇は伊藤博文 に憲法制定準備のため、欧州各国の調査を命じ、伊藤は、3月14日、伊東巳代治、河島醇、吉田正春、平田東助、西園寺公望などの随員を従えてヨーロッパに向け出発していった。井上毅は日本にとどまって、ロェスレルを顧問としたこれまでの調査を続けることとなった。23年の国会開設に向けてこうした具体的な準備が始められたことは、批判を封ずる効果をもつことにもなった。



(5)大日本帝国憲法の制定と帝国議会の発足

 
明治16(1883)年8月、欧州における憲法調査から帰国した伊藤博文は、憲法の前提となる諸制度を具体化させていった。まず翌17年7月7日制定の華族令によって、伊藤がかねて主張していた五爵位制(公・侯・伯・子・男)が実現される。それは従来の華族(公卿および旧藩主)のみならず、国家に勲功ある者は士族、平民にかかわらず華族に列し爵位を与えて(新華族)皇室の藩屏とすると同時に、下院に対抗する上院の基礎を固めようとするものであった。士族を重視してこの案に反対していた岩倉は、前年7月20日に死去している。華族令によってこのとき100名が新たに華族に列せられているが、出身別にみると薩摩29名、長州23名と薩長両藩出身者が過半数を占めているのが注目される。

  ついで18年12月22日には、太政官制度を廃止して内閣制度がおかれることになった。これにより太政大臣、左右大臣に華族皇族をあて、その下に各省卿をおいた従来の制度に代わって、各省の長を大臣とし、その大臣で構成する内閣の決定に天皇の裁可を求めることになるわけであり、これにより大臣が天皇を輔弼するという、 のちの憲法の建て前が可能となることになった。同時に伊藤博文を初代の総理大臣とする内閣が成立しているが、 閣僚の顔ぶれをみると、薩長各四、土佐一、旧幕臣一の割合であり、まさに薩長藩閥内閣にほかならなかった。 これまで太政大臣の地位を占めてきた三条実美は、新設の内大臣に転じた。

  内閣制度を発足させた伊藤は、翌19年から井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎を委員として、憲法の起草作業を開始した。伊藤の主宰のもとで行われたこの作業のなかで、最終的には憲法と皇室典範は井上毅、議院法と貴族院令は伊東巳代治、衆議院議員選拳法は金子堅太郎が起草にあたったといわれる。草案は修正に修正を重ね、21年4月27日になって、伊藤から最終草案が天皇に捧呈された(前掲稲田『明治憲法成立史』下巻 411頁)。  

  この草案の審議のために4月30日公布の枢密院官制によって、新たに天皇の諮詢機関として枢密院が設立さ れ、伊藤博文はその議長に転じた(後任の総理大臣は黒田清隆)。起草にあたった井上毅は枢密院書記官長、伊東と金子は書記官に任ぜられている。枢密院は「憲法及憲法ニ附属スル法律ノ解釈」や「予算其他会計上ノ疑義ニ 関スル争議」、憲法や憲法付属の法律の改正案、重要な勅令や条約、その他天皇から諮詢された事項の審議にあた り、意見を上奏することが職務とされた。「憲法ニ附属スル法律」とは、たとえば「衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依り公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス」(35条)というように、憲法の条文のなかに登場する法律であり、した がって衆議院議員選拳法を改正しようとすると、議会に提出する前に、枢密院の審査を受けねばならないことになった。

 枢密院の構成は、大臣が職務上顧問官たるの地位を有するものとされたほか、議長・副議長各一名、顧問官12名以上、書記官長1名、書記官数名であり、憲法案等の審議にあたったのは、次のようなメンバーであり、薩長土肥四藩出身者がほとんどであった。

 

議長 伊藤博文(長)、副議長 寺島宗則(薩)、顧問官 大木喬任(肥)、東久世通禧(公卿)、川村純義(薩)、 吉井友実(薩)、品川弥二郎(長)、勝安房(幕臣)、河野敏鎌(土)、副島種臣(肥)、福岡孝弟(土)、佐佐木 高行(土)、佐野常民(肥)、土方久元(土)、元田永孚(肥後)、吉田清成(薩)、鳥尾小弥太(長)、野村靖(長) 枢密院は21年5月8日の開院式で発足し、次のような順序で、憲法と関連法令案の審議を行っている。
皇室典範 第一審会議 21年5月25日─6月15日、再審会議 22年1月18日 憲法 第一審会議 21年6月18日─7月13日、再審会議 22年1月16日、第三審会議 同1月29日─31日  
議院法 第一審会議 21年9月17日─10月31日、再審会議 22年1月17日、2月5日  
衆議院議員選挙法 第一審会議 21年11月26日─12月17日、再審会議 22年1月17日  
貴族院令 第一審会議 21年12月13日─17日、再審会議 22年1月17日


  こうした枢密院の審議を経て、22年2月11日、官報号外によって、大日本帝国憲法、議院法、衆議院議員選挙法、貴族院令が公布されたが、皇室典範は、皇室の法として国民に対する公布の手続はとられなかった。なお枢密院に憲法審議の参考資料として提出された「憲法説明」は、その後修正が加えられ22年4月に伊藤博文の著書『憲法義解』として版権を国家学会に寄贈され出版に付された。この著書は、憲法の起草者による公式の解釈書として、以後ことあるごとに引用されるようになっている。  

  憲法の施行によって、いよいよ翌年には議会が開かれることになり、23年に入るとまず貴族院関係では、6月10日多額納税議員の互選、7月10日には伯子男爵議員の互選、9月29目、10月1日、10月24日の 3回にわたる合計61名の勅選議員の任命が行われ、この間7月1日に第1回の衆議院議員選挙法が施行されている。

  議会開設の直接的な準備はこうした形で進行したが、同時にそれと並行して多くの重要な法律が公布されていることに注目しておかなくてはならない。法律には年ごとに番号が付されているが、22年の法律が三四号までであるのに対して、23年には元老院の廃止される10月までで、106号と3倍以上に達しており、重要なも のとして次のようなものをあげることができる(名称が条例、規則でも法的性格は法律である)。

 

二月 裁判所構成法、 水道条例  
三月 作業会計法、 官設鉄道会計法
四月 民法財産編財産取得編債権担保編証拠編、 民事訴訟法、 商法  
五月 府県制郡制  
六月 官吏恩給法、 軍人恩給法、 水利組合条例  
七月 執達吏規則、 集会及政社法
八月 郵便貯金条例、 判事懲戒法、 軌道条例、 銀行条例、 貯蓄銀行条例  
九月 屯田兵土地給与規則、 税関法、 商業会議所条例、 間接国税犯則者処分法
十月 府県税徴収法、 地方学事通則、 非訟事件手続法、 法例、 民法財産取得編人事編  


 これを憲法草案の審議が始まる21年までさかのぼってみると、21年には市制町村制、22年には国民皆兵原則を確立した徴兵令改正、会計法、国税徴収法、会計検査院法、土地収用法、国税滞納者処分法などが制定さ れている。こうしてみると政府側は議会開設前に法体系を整備し、いわば身軽な姿で議会に臨もうとしていたということができよう。次の第一章でみられるように、初期議会では、予算案を中心として論議や抗争が展開されることになるが、そこには、政府から重要法案が提出されないという事情も反映されていた。

  ともあれこうした体制を整えたうえで、10月10日、「朕帝国憲法第七条及第四十一条ニ依り本年11月25日ヲ以テ帝国議会ヲ東京ニ召集ス」という召集詔書が公布された。ついで10月20日の詔勅で元老院の閉院が命ぜられ、これで議会開設の準備が完成することになった。  
  以下、帝国議会を理解するための参考として、その組織や権限・運営方法などについて、現在の国会に比べて特色あると思われる点について解説しておきたい。

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