1966年8月

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日露戦争


古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

 


はしがき


 日露戦争は、日本の近代の決定的な曲り角であった。帝制ロシアの南下におびえ、せめて朝鮮だけでも支配したいと望んでいた日本は、この戦争によって、一躍朝鮮と満州に植民地をもつことになった。日露戦争によって朝鮮が日本の植民地になって以来、アジアの情勢は、中国をどう分け取りするかという列強相互の争いと、これに反抗する中国の民族運動、革命運動の発展というモメントを中心にして決定づけられてゆく。

  日本にとってもまた、植民地支配をどうするかという開題が、以後の歴史をもっとも基本的に制約してゆくことになる。この問題を除いてはなにごとも解決できなくなったといってよい。とくに満州問題は、日本の植民地問題の中核にすえられた。満州を失えば、朝鮮をも失うにちがいないという意識は、日露戦争直後からすでに支配的となった。朝鮮の民族的な抵抗に悩まされ続けた日本の支配層は、朝鮮を植民地として確保するためにも、満州支配を強め、拡大しなければならないと考えた。

  「二十万の将兵の血でかちとった満州を失うな」というスローガンが、ことあるごとに繰り返され、この衝動的な叫びは、政治における合理的判断を妨げ続ける。

  また、戦争下の占領地軍政をひきついでゆくという出発点のあり方と、資本力による利権獲得競争では欧米列強におよばないという日本資本主義の弱さとは、日本の植民地支配において軍事的支配を中軸にすえることになった。がんらい、明治憲法体制の「統帥権の独立」によって、政府から独立の地位を得ていた軍部は、植民地支配の中軸を握ることによって、さらにその力を強めてゆく。中国の地方軍閥と結び、中国の革命連動に対抗しようとする軍部の陰謀が、日露戦争の勝利を基礎とし、起点としてうずまいてゆき、政治全体の合理性と統一性を破壊し、ついには現地軍部の陰謀が「統帥権の独立」のルートを逆流して、満州事変を起こし、ファシズムをみちびいたことは周知のところであろう。

  歴史はとかく、人の心を感動や憤激のうずまく感情の世界へとさそい、イデオローグたちは、歴史を大衆操作のために利用することを好む。第二次大戦で敗れるまで、奉天占領の日が陸軍記念日とされ、日本海海戦の日が海軍記念日とされたように、日露戦争は近代日本の「栄光」のシンボルであった。

  明治維新100年を目前にし、高度成長をなし終えた現在の日本にあって、過去の「栄光」への郷愁の心が起こるのも、ある意味では自然であるかもしれない。しかし歴史とはしょせんすぎ去ったものであり、すぎ去った「栄光」への「熱狂」をさそうのは反動のさそいにほかならないであろう。醍めた心をもって歴史をみ、われわれ自身の中にある「すぎ去ったもの」、現在を拘束している歴史の力を確認することが、歴史をふりかえることの意味というべきではあるまいか。

  戦後20年、日露戦争が語られ、ふりかえられること少なくして終ったのは歴史研究の分野でも同様であった。したがって、維新100年の決定的大事件として、ふたたび日露戦争が語られ始めた現在でも、この戦争を全体としてとらえた書物はわれわれの身近にはほとんどみあたらない。戦争を語ることは戦闘を語ることと同じではない。

  この本では、日露戦争を理解するために必要な基本的な事実と基本的な問題点をできるだけ読 みやすいかたちで提供することをめざした。もちろん戦争は複雑であり、戦争を全体として叙述することはきわめてむずかしい。この小著のなかに書き込めなかった事実や問題も多いし、わたしの勉強不足の事柄も多い。しかし少なくとも、この本に書き込んだ事実について考えて頂くこ とが、日露戦争をふりかえる出発点になりうるだろうと信じている。そしてそれが日本の近代を理解するための手がかりになりえたとすれば、わたしにとって望外の幸せというべきであろう。

  最後に、この本を書くにあたって、多くの方々、とくに国立国会図書館憲政資料室の方々にいろいろな意味でお世話になったことを記して、感謝の気持をあらわしておきたい。   
  1966年7月

古屋哲夫


1ロシアの極東進出と日本