1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

1ロシアの極東進出と日本
中国分割の進行
北清事変
朝鮮支配をめぐって
日英同盟の成立


1ロシアの極東進出と日本


中国分割の進行



ロシアの満州占領と日本の利害

 日本政府のなかで、ロシアとの戦争ということが真剣に考えられ始めたのは、じっさいに目貫戦争が始まる4年ほど前のことであった。1900年(明治33年)、中国で義和団が列強の利権奪取に反対してたちあがると、列強は共同で出兵、鎮圧したが、満州を占領したロシア軍だけは、そのまま満州にいすわってしまった。このロシアの満州占領をどうしてもやめさせようとするところから、日露戦争が始まるのである。1901年(明治34年)3月12日、ときの外相加藤高明は、伊藤博文首相に対して、閣議での討議を求めるため一つの意見書を提出した。加藤はロシアの満州政策に対して日本はどう出たらよいか、この点を早く決定しておきたいと考えたのであった。

  彼は、まず、ロシア軍が満州から撤退しないばかりでなく、ロシアは清国に秘密の条約(露清密約)を押しつけて満州を実質的に領土にしようとしている状況を指摘する。そして、このロシアの満州侵略への反対を列国に呼びかけてみたが、南阿戦争で疲れているイギリスをはじめ各国 とも抗議はするけれども、積極的に効果ある行動をとろうとしない、そこで日本政府としては、列国をたのみとしないで、ひとりでこの問題にあたるほかはないが、そのさいの大方針を決めておく必要にせまられている、というのが加藤の閣議請求の趣旨であった。

  さらに彼は、その方針はつぎの三つ以外にはあり得ないと強調した(『外交文書』34)。  

  第一は、ロシアの満州侵略に抗議し、ロシアがそれに応じないときには「直接ニ勝敗ヲ干戈ノ上ニ決スル事」、つまり日露戦争を開始することだとした。ではなぜ、ロシアの満州支配を戦争に訴えてまで阻止しなくてはならないのか。

  この疑問に彼はつぎのように答える。「抑モ露ノ満州占領ハ其モノ自身二於テ直接二我利益ト大衝突ヲ来サズ、然レドモ其結果露ノ勢カハ朝鮮半島ヲ支配シ延テ帝国ノ自衛上二危険ヲ及ボスノ恐レアリ」―ロシアの満州支配はさらに、朝鮮に拡大し、日本の「自衛」まで危うくなるというのである。当時まだ朝鮮を支配下におくのに手こずっており、満州まで手をのばすことを考えていなかった日本としては、ロシアの満州占領によって、直接に利益がおかされたとはいえない、しかし、ロシアの満州支配が確立されると、日本がその隣りの朝鮮を支配することが非常に困難になる―加藤の言わんとするのはこういうことであった。

  だから第二策として朝鮮占領論がとび出してくることになる。

  その第二策は、「露国ニ向ッテ平衡上且自衛上帝国ニ於テ適宜ノ手段ヲ執ルベキ事ヲ宣言シ韓国ニ関スル日露協商ヲ無視スルノ行為二出ヅル事」だと加藤はいう。

  日露協商というのは、1898年(明治31年)調印された、西・ローゼン協定を指しており、日露両国はこのなかで、韓国の独立を確認し、直接の内政干渉をしないと約束していた。

  そこで、この協定を無視することにはなるけれども、韓国は遅かれ早かれ独立を失う運命にあるのだから、「此際ニ於テ同国ヲ占領スルカ又ハ保護国トナスカ、其他適宜ノ方法ヲ以テ同国ヲ我勢カノ下ニ置」こうというのであった。しかしこれは協定違反でもあるし、場合によっては日露戟争になることも覚悟しなくてはならないことは加藤もみとめていた。

  ロシアが満州を占領するなら、こちらは朝鮮を占領して「平衡」を保つことが自衛上の措置だということになると、「自衛」といっても身にせまっている「急迫した」危険をはらいのけるというのとはだいぶ意味がちがっている。

  それだからこそ、第三策として「露国ノ行為ニ対シテハ一応ノ抗議カ、権利ノ留保二止メ後日ヲ俟チテ臨機ノ処置ヲ講ズルコト」が可能なのである。つまり、ロシアの満州占領が日本の自衛上危険だとしても、「其危害ノ迫リ来ルハ数年ノ後ナルカ数十年ノ後ナルカ予言シ難」いのだから、いますぐ、行動を起こさないというやり方もあり得るということになる。しかし加藤はこの第三策でゆくと、いざ行動を起こそうというときにはロシアの勢力が強固になっていてどうにもならないかもしれないし、また、戦争を覚悟して強硬な態度に出れば、列強の同情をうけていないロシアがひきさがることも考えられないではない。したがって国内から軟弱外交との非難をうけることはまぬがれないと付記している。加藤としては第三策は気乗りうすだったようである。

  この意見が閣議でどう論議されたかはいまのところ資料がない。3週問後の4月8日には、加藤がこの意見書を書く直接の原因となった露清密約について、ロシア側から正式に、密約の締結を中止した旨申入れがあったし、5月には、伊藤内閣が財政問題をめぐる閣内不統一で倒れ、加藤も外相の椅子を去ってしまったのだから、問題はこれ以上発展しなかったにちがいない。



「満韓交換論」

  しかし、この意見書は、日露戦争闘戦にいたる日本とロシアの敵対のあり方をよく示している。ロシアが満州を支配すると、日本が朝鮮を支配できなくなるから、戦争をかけても反対するというのは、満州と朝鮮の支配のしかたを争うということにほかならない。この当時には「満韓交換論」というテーマがよく論じられているが、それは、ロシアの満州進出を抑えるのは無理だから、ロシアの満州支配をみとめるかわりに、日本の朝鮮支配も ロシアにみとめてもらおうという考え方をさしていた。それはジャーナリズムのテーマだっただけではなく、さきにふれた西・ローゼソ協定の交渉のさい、日本政府はじっさいにこの方針による勢力範囲の分割をロシアに提議してことわられている。

  このように「満韓交換論」が真剣に考慮されたことは、ロシアが満州での地歩を着々と進めているのに、日本り朝鮮支配がちっとも進展していないという事態を反映するものであった。だから、ロシアがさらに軍隊で満州を占領し、領土化することになれば、日本の朝鮮支配は絶望だという危機感が生まれたのであった。

  朝鮮を支配することが、欧米列強に対抗するための最低の条件だという考えは、明治維新以来、日本の支配層に一貫したものであり、このため日清戦争にいたるさまざまの手が打たれてきたが、いずれも失敗に終っていたのである。しかしそのことはあとでまとめてふれることにして、ここでは、まずロシアの満州支配がもつ、もう一つの問題をみることにしよう。



中国分割の情勢

 それは、ロシアの満州占領が、中国からの列強の利権奪取競争の一環であり、それをさらに領土的分割にまで押し進める危険をはらむという点であった。 日本の側からいえば、こうした中国分割の情勢が進むことは、それだけ日本資本主義の中国への発展の余地がせばまるということであった。日清戦争の敗北で、清国がいっそう弱体になったこ とと、ロシア・ドイツ・フランスの日本に対する三国干渉が成功し、これらの国の清国に対する発言権が強まったことが、このような情勢を生み出すきっかけとなっていた。三国干渉は極東への進出を望むロシアが、日本に先に満州に進出されては不利とみて、ドイツ、フランスをさそったものであった。三国干渉の3年後の1898年(明治31年)には租借という形で中国沿岸に根拠地を獲得することが始められた。この3月6日、ドイツが清国に山東半島の膠州湾租借条約をみとめさせると、同じ月の27日には、ロシアが旅順、大連湾を租借した。三国干渉で日本からとりあげた場所をこんどはロシアが自分のものにしてしまった。これに対抗してイギリスも、6月9日に九竜半島、7月1日に威海衛の租借条約を成立させた。翌年11月16日には、フランスが広州湾を租借した。

  しかもこの派手な租借競争は、利権を奪い合う大きな抗争の一角をあらわしたにすぎなかった。 借款の貸付けによる金融的、政治的支配と、鉄道、鉱山などの利権獲得とを軸にした清国における列強の活動も、日清戦争ののち激化するばかりであった。そして列強相互の対立抗争が深まっていった。その対立の中心は、すでに中国経済に支配的な地位を得ていたイギリスに対して、ロシアが急迫な進出ぶりをみせ始めたところにあった。

  三国干渉に成功したロシアは、ついで、清国に対する金融的援助を申し入れた。その背後には フラソスの資本家がいた。三国干渉の翌々月、1895年(明治28年)6月には、ロシア政府保証のもとに、露仏共同の4億フランの対清借款(期限36ヵ年4分利付)が成立した。そしてま たこれ以後、清国に対する借款押しつけ競争が激化することにもなった。さらにこの対清借款での露仏共同は、3ヵ月後の9月には恒常的な共同―露清銀行の設立へと発展した。資本金600万ルーブル、その8分の5がフランス、8分の3がロシアの出資というこの銀行は、清国国庫業務へのくい込みをはじめ、鉄道を中心にあらゆる利権獲得活動を目的とした。

  翌96年(明治29年)ロシアは、東清鉄道敷設権を得て、中国人陸に対する第一歩を踏み出 した。すでに1891年(明治24年)からシベリア鉄道建設が進められていたが、東清鉄道はシベリア鉄道が黒竜江を迂回して大きな弧を描くのに対して、満州北部を貫いてチタとウラジオストックを直線でつなぐものであった。さらに、さきの旅順、大運租借にともなって、東清鉄道のハルビンから旅順にいたる鉄道利権を獲得した。そしてロシアはその完成に力を入れた。満州がロシアの勢力範囲に繰り込まれつつあることは確実であった。

  こうしたロシアの精力的な活動が、満州から中国全休に拡大することは明らかだと考えられた。 シベリア鉄道を推進したウィッテは、ヨーロッパと中国市場をつなぐ海上航路を支配するイギリスに対して、シベリア鉄道による陸のルートで競争をいどもうという遠大な夢を描いていた。イギリスは99年(明治32年)ロシアと鉄道協定を結び、ロシアの鉄道が南下するのを防ごうとし、その前年には、清国に揚子江沿岸の不割譲を約束させて、その勢力範囲を固めようとした。

  このような英露の対立を中心にしながら、中国全土は各国の勢力範囲に分割され始めていた。 租借は同時にその周辺の欽道や鉱山利権獲得の要求と結びついており、租借地を中心とする勢力範囲が形成され拡大されることでもあった。



「門戸開放」の意味

 「1899年(明治32年)12月20日、アメリカ国務長官ジョン・ヘイが、列強に対して中国における「門戸開放」を要求したことは、分割競争の激しさを裏面から物語っている。それは分割にたち遅れたアメリカが、中国市場からしめ出されることをおそれたものであり、中国に勢力範囲、利益範囲を設定し、あるいは設定しようとしている国々に対して、通商上の差別をしないようにと要求していた。いいかえれば、それは勢力範囲を設けること自体を非難したのではなく、その門を閉めて他国の経済活動をしめ出さないよ りにしてほしいということであった。

  「門戸開放」という言葉は、のちには政治的併合や軍事占領に反対する標語となったが、アメリカがこのとき「門戸開放」という中国政策を打ち出しだのは、97年のハワイ併合についで98―99年の米西戦争でフィリピンを占領、併合し、その植民地化に力をそがれていたからであった。その同じころ、99年にはイギリスは南阿戦争を始めていた。植民地の分割、再分割競争は世界的に、帝国主義時代の本格化をつげる激しさで進行しつつあった。しかしそれは、中国においてとくに、帝国主義列強相互のあいだに戦争の危機を生み出すという形で激化していた。



福建省不割譲を要求

  日本が、このような情勢のなかにどういう道を開いてゆくかは、はなはだ難しい課題であった。まず、欧米の帝国主義列強と同じ道をたどろう という膨脹主義が国内の世論の大勢を占めた。

  政府の当局者も、帝国主義という世界の大勢に遅れ、中国分割の分け前にありつけないことを おそれる点では、これらの世論と同様であった。まず最初に打った手は、台湾の対岸である福建省の不割譲を清岡に約束させることであった。清国は、1898年(明治31年)4月22日の交換公文で、福建省内のいかなる土地も、他国に与えたり貨したりしないことを約した。ここを日本の勢力範囲にしようという考えであった。このころの伊藤博文のメモの中には、「元老内議ノ大意」として、「列強協同若シ破綻ノ端ヲ啓キ、清国分割ノ止ムヲ得ザルニ至ラバ、我ハ福 建・浙江ニ立脚ノ地歩ヲ移スノ外ナシ」(平塚篤編『伊藤博文秘録』)と述べられている。

  しかし不割譲協定だけで勢力範囲ができるわけではない。鉄道、鉱山を中心にする経済活動がその内容にならなければ意味がなかった。不割譲協定は、他国の政治的、軍事的支配を防ぐものではあっても、経済活動、利権競争を封ずるものではない。このことは日本の政府も十分に認識していた。

  しかし、そのための資本がなかった。日本の資本主義は日清戦争後本格的な産業革命期に入ったばかりであり、ぞくぞくと起こる新企業にとって資本の欠乏が開題であった。国内に蓄積された資本が、海外市場をめざして資本輸出を強行しなければならないような事態はほとんど存在していなかった。むしろ経済界からは、資本輸出どころではなく、外資導入―資本の輸入を求める声の方が高かった。しかしそうだからといって、手をこまねいていては、日本が中国へ発展する余地はまったくなくなってしまうかもしれない。

  とすれば、日本資本主義の未来のために、政府自身が乗り出さねばならないということになる。 しかし政府の方も財政に余裕がないというありさまであった。日清戦争が終るとすぐさま、つぎの戦争のための軍備拡張が大規模に行なわれていた。海軍も陸軍も倍加させようという計画が強行されたばかりでなく、軍需工業発展のためには、基礎部門から政府の手で確立しなくてはならなくなっていた。1901年(明治34年)開業の官営八幡製鉄所によって、日本の鉄鋼業が確立の第一歩を踏み出したことは改めて説くまでもあるまい。そしてこれらの財政支出の増大は、 当然、増税となって国民の肩に背負わされていくし、地租増徴をめぐる激しい対立にみられるように、国内の政治的安定を弱める要因ともなった。



利権の獲得をめざして

 しかし、こうした困難の中にあっても、1902年(明治35年)10月2日の閣議は、479万円の「清韓事業経営費」を決定した。韓国での事業に140万円、清国での事業に339万円という内訳であり、そのうち最大のものは、日清銀行設立のための300万円であった。この費用支出の前提として述べられているつぎのような情勢認識は、この時期の一般的な考え方を示すものとして、引用しておく価値があろう。「商工的活動ト国外起業ノ競争ハ近時国際関係上ノー大特象ニシテ其発動極東ニ於テ最モ著シトナス、試ニ数年以来欧米諸邦ガ東亜大陸就中清国ニ於テ企画スル所ヲ見ルニ或ハ鉱山ニ或ハ鉄道ニ或ハ内地水路ノ利用ニ其他各種ノ方面ニ於テ各其利権ノ拡張ニ熱中シ鋭意経営敢テ或ハ及バザランヲ恐ル、然ルニ僅ニ一葦水ヲ隔テ利害関係亦最モ緊切ナル帝国ノ此等地方ニ於ケル施設ヲ顧ルニ未ダ多ク見ルベキモノアラズ之レ朝野ノ頗ル遺憾トスル所ナリ」(『外交文書』35)

  そして、「列国競争ノ間ニ立チテ対清経営ヲ全フセントスルガ如キハ到底英米ト均シク民間資本家ノ独カニ依頼スル能ハザルハ勿論独仏以上ノ助カヲ政府ヨリ与フルニアラザレバ成効ヲ期スベカラズ」とし、清国での利権活動の中心として「日清銀行」設立を推進しようというのである。 資本金2000万円、そのうち政府出資600万円というのがその構想であり、明治36年度予算で出資金の半額300万円の支出が決定された。この銀行案は結局実現しなかったが、政府の助力を強調しながら、政府の出資が3分の1にも満たないところに財政上の苦しさがうかがわれる。

  また、さきの不割譲協定の対象となった福建に対しては、鉱山、鉄道、水路などの調査費9万円かかかげられていたにすぎなかった。これでは勢力範囲確立の道は容易ではない。じっさいにも、1912年(大正元年)に外務省でつくられた「支那に関する外交政策の綱領」では、福建省に日本が特殊の利害関係をもつことを清国にみとめさせたとはいえ「未ダ具体的ニ我利権トシテ同省ニ樹立セラレタルモノナク、勢カノ扶植ニ於テ頗ル欠如セリ」とし、「強テ福建ニ於テ利権扶殖ニ関スル事功ノ急ヲ求ムルモ共助ナカルベク」と実質的には利権拡大の努力を放棄してしまっていた(外務省編『日本外交年表並主要文書』上)。

  つまり、この福建問題は、日本が利権獲得競争に遅れまいとあせりながら、しかしじっさいの資本力ではとうてい欧米列強に対抗できなかったことを示しているわけである。そうなってくると残されているのは、軍事力による利権の奪取、さらには領土の拡大という方法以外にない。小村寿太郎は外相になった直後の意見書で、利権を獲得し、事あるときには、その保護の名目で出兵することが必要だとしているが(外務省編『小村外交史』)、そうした軍事的な力を計算に入れなければ、日本は列国の勢力範囲確立の競争にたちうちできそうにもなかった。

  しかし他方では、列強が軍事力による中国分割に乗り出すという事態が起こってしまうと、既得権益も少なく、軍事力の面でも列強のあいだにはさまって日本がどれだけの分け前がとれるか自信がもてなかった。しかもそのあいだに朝鮮の支配を進めるということになればなおさらである。

  こうした観点からでてくる当面の政策は、中国分割の進行をなるべく遅らせ、日本の立場を有利にする時間の余裕をかせごうとする方向であり、したがって他国の軍事侵略に反対することが必要であった。

  この時期の日本外交がつねに「門戸開放」「領土保全」をかかげだのは、こうした日本の弱味を意識していたためにほかならなかった。ロシアの満州占領への反対も、さきにみた朝鮮支配と の関係のほかに、このような中国分割と日本の力との関係から割り出されたものであったし、そのかぎりでは、米英両国の支持を期待できる条件ともなっていた。

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