1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

5ポーツマス講和条約
講和のための諸工作
ポーツマス会議
大陸経営の出発



5ポーツマス講和条約


講和のための諸工作



ローズベルトに斡旋を依頼


  日本海海戦から3日たった5月31日、小村外相は駐米高平公使に訓令を発し、ローズベルトに、日露講和につき友誼的斡旋を希望する旨申し入れるように命じた。その文面は日本の立場の苦しさを反映して、苦渋にみちたものであった。それはまず、日本海軍の大勝によってロシア政府が和平に傾くことは正当に予想され、また講和談判は両国が直接に交渉すべきものであるが、講和談判に入るためには、中立国の友誼的斡旋を必要とするだろうとの見解を述べ、ローズベルト大統領が「直接且全然一己ノ発意ニ依リ」両交戦国を接近させてくれることを希望した。

  「直接且全然一己ノ発意二依リ」とは、幹旋が日本政府の依頼によることを秘密にして、ローズベルトが自分の考えだけで講和斡旋に乗り出す、というかたちをとってもらいたいということであった。さらに、日本政府は斡旋の手続きや、他のどんな国と協議するかなどは大統領に一任するとしながら、和平問題については「直接間接共ニ露国ニ交渉スルノ意ナキコト」を付け加えた。それはローズベルトの斡旋による以外のルートでロシアに働きかけないという意味と、たとえ間接的にしろ、日本から先にロシアに講和について働きかける意思のないことを示したものであった。ロシアが先に講和を申し出てくれれば、日本は交渉において優位に立つことがでぎるのであり、日本政府がそれを強く望んでいたのは当然であったが、それがいつのことになるかわからない以上、次善の策として、どちらからも講和を申し出ない先に中立国の斡旋が始まるというかたちをとろうとしたのであった。

  ローズベルトは、この日本政府の希望をうけいれたが、同時に、これまで自分が和平に動いて きたのは今回の海戦の結果がどうなるかを憂慮したためであり、いまや日本の終局の勝利が疑いないものになった以上、自分個人としては、ここで講和が成立するか、また戦争が続くかについてえらぶところはないと述べた。ローズベルトは、日本が自分を頼らねばならない弱味をついて、日本の講和条件を制限しようとしたのであった。

  ローズベルトは続けて、日本の条件が償金を含まず、樺太の割譲だけに止まるなら講和の見込 みがあるとし、日本としても、なお戦争を続けて巨額の経費を支出するよりも、償金なしでも早く戦争をやめた方がよいだろうと述べた。

  高平公使との会談でこれだけクギをさしたローズベルトは、翌6月2日、ロシア大使カシニーと会談し、講和がロシアにとって得策ではないかと勧告した。カシニーは5月30日のロシア宮廷での軍事会議が続戦を決議しているし、自国の領土に全然侵入されていないのに講和することはむずかしいだろうとしながらも、ロシアから講和を言い出したら、日本は苛酷な条件をもち出すのではないかと講和への関心を示した。ローズベルトは日本の要求は知り得ていないが、そんな苛酷なものとは考えられない、しかし、若干の領土を割譲し、若干の償金を支払う覚悟は必要だろうと述べて、ロシアの方へもクギをさした。

  その翌3日になるとドイツ大使がローズベルトを訪れ、大統領が講和に尽くされることを希望 し、それを「黙従的」に援助したいというドイツ皇帝からの訓令を伝えた。ドイツ駐在のアメリカ大使からも、同じ日、ドイツ皇帝が、ロシアの革命連動の高まりを憂慮してロシア皇帝に一書を送り、日本が信頼しているアメリカ大統領に依頼して、穏当な講和を実現するよう勧告したと語ったことを報告してきた。

  こうなってくると、ローズベルトは主戦派のカシニー大使よりも、アメリカ大使から直接ロシア皇帝に提議させた方が、確実で有効だろうと考えた。彼は、6月5日、日露講和全権委員の直接の会合を勧告し、この会合をロシア皇帝が承諾するならば、そのことを秘密にしておいて、日本からも同様の承諾をとりつけるよう努力する、という大統領の意向を直接にロシア皇帝に通じるようアメリカ大使のメイヤーに命じた。



斡旋成功

  はたしてこのやり方は効果満点であった。翌6日、カシニーがもたらした返事は、ローズベルトの提案への賛否を明言せず、ただ日本の要求を探り出し、穏当にするための大統領の助力を求めただけのものだった。しかしそのつぎの7日にメイヤー大使からは、ロシア皇帝がローズベルトの提案を、絶対秘密にするとの条件で、受諾したとの電報が入った。皇帝は大使に、現在では日本軍はロシア領土に一歩も踏み入っていないが、樺太攻撃が近く開始されることは眼にみえている、その前に、両国全権の会合を行なうことが必要だと語ったといわれる。

  日本海海戦後のロシアは、講和を望みながら、なかなか自分から言い出せないだろうから、ロ ーズベルトを利用して引き出そうという日本側の作戦は図にあたった。

  6月9日、日露両国に駐在するアメリカ大・公使は、それぞれ両国政府を訪れ、講和交渉開始を勧告する同文の通牒を手渡した。両国がこれをうけいれたのは筋書どおりであり、日本政府は7月3日小村外相と高平駐米公使を全権に任命した。ロシア側は初め最古参外交官で駐仏大使のネドリフを主席全権とし、カシニーにかえて駐米大使に任命した前駐日公使ローゼソを、全権に決めたが、主席全権についてはその後、ネドリフが健康不良を理由に辞退し、ムラビエフ、イズヴォルスキーなどが候補にあがったが、結局7月14日ウィッテが任命されて落着した。みなロシアに不利な講和全権を敬遠し、開戦以来閑職に押しやられていたウィッテがふたたび引き出されたのであった。

  講和会議の場所についても、ローズベルトのロシア皇帝への提議では、ハルビン―奉天間の一地点とあり、これに対しロシア側はパリ、日本は清国の芝罘を主張したが、芝罘がだめならワシントンという日本側の提議がうけいれられた。しかし、ワシントンが酷暑の時季であることから、アメリカ側ではポーツマス軍港を指定し、いよいよ8月9日、会議場に予定された海軍工廠の一室で両国全権の最初の予備会議が開かれた。アメリカの正式の講和提議からちょうど2ヵ月がす ぎていた。



講和条件と最後の作戦


  この間、日本側はさまざまなかたちで、講和における優位を確保するための手を打っていた。講和条件については、6月30日の閣議で、すでに4月21日に決定されていた絶対的必要条件3項目、比較的必要条件4項目に加えて、講和委員の裁量にまかせるものとして、(一)極東におけるロシア海軍力を制限すること、(二)ウラジオストックの軍備を廃 して商港とすること、の二条件を付加することに決まった。また比較的必要条件の中の賠償は最高額を15億円とし、その範囲内で適当に定めることとされた。このうち、絶対的必要条件をうわ回る条件をより多く確保することが、講和を目前にした最後の作戦の目的となってきた。

  6月16日、山県参謀総長は以後の作戦方針を上奏したが、それはつぎの2項目からなっていた。「(一)我満州軍は既定の作戦方針に従い鋭意其実行を期するのみならず成し得れば雨期前に於て前面の敵を攻撃するを要す、(二)我満州軍の作戦と相協応し北韓方面より浦塩斯徳(ウラジオストック)を脅威し又樺太占領を実行すべし」

  このうち第一項は、雨期あけに予定されていた満州軍の前進を早めることであるが、攻勢をとるというだけで、最後の大決戦が考えられていたわけでなく、結局実行もされなかった。この作戦計画の中心は第二項であった。

  樺太の占領と韓国北部のロシア軍を追い出し、ウラジオ占領をめざす、という二つの作戦が、奉天会戦後、講和をめざす方向が決まって以来重要視されたことは前に述べたとおりであるし、じっさいにも3月31日には新設の第十三師団を樺太占領に向けるために動員し、弘前―敦質間に集中させる命令が下された。また韓国北部については、旅順陥落後ロシア軍はウラジオ防衛のための軍隊を増加し、奉天会戦後は韓国領内のロシア軍も増強されてくる形勢にあった。日本軍がロシア領内に踏み込んでいないのに反して、日本が戦後自由にしようとしている韓国にロシア軍がいたのでは、講和のさいにたいへんぐあいが悪い、ウラジオを攻略できないまでも、せめて韓国内のロシア軍だけは撃退しておかなければ、というのが大本営内部の強い意見になっていた。この方面の日本軍は後備部隊であり、武器も旧式の村田単発銃や青銅製の大砲などであり、守備に専念するという状態で元山付近に止まっていた。そこで4月10日、後備第二師団残留部隊を元山北方の城津に上陸させる計画をたて、さらにこの方面に使用するため、4月17日新設の第十四師団の動員が命令された。

  しかし、樺太作戦も北韓作戦も陸軍側の用意はできたものの、海軍側はバルチック艦隊に備えるため、他の作戦を好まず上陸軍護衛に同意しなかった。そのため、4月下旬、海軍の護衛なしで、後備第二師団を元山付近に上陸させただけでその他の作戦は延期されるという経過をたどっていた。



樺太を占領

 したがって、日本海海戦が大勝利に終ると、ふたたびこの二作戦実行が問題となったのはいうまでもない。海軍側もこんどは樺太作戦には同意せざるを得なかったが、北韓の羅津湾に新たな一軍を上陸させてウラジオまでうかがおうという作戦には賛成しなかった。海軍としては、ウラジオの鼻先にあたる羅津湾上陸作戦は、ロシア水雷艇の攻撃をうけるおそれが大きいし、また日本海軍が敷設した機雷が流れ出してくる危険も考えねばならないとしていた。海軍は日本海海戦の大勝利のあとでは、小さな支作戦のために貴重な艦艇を失いたくないと考えていたといわれる。

  山県参謀総長は6月16日の上奏にあたって、前記の作戦方針とともにとくに北韓方面作戦計画を提出し、当面は後備第二師団を鏡城付近まで進めること、その後の前進については、他日、海軍と協議のうえ決定すると述べていた。しかし同時に北韓作戦用に予定された新設第十四師団は、満州軍が最後の攻撃に出る場合を予想して、この方面に使用することに変更されており、「ウラジオを脅威し」というのも形容詞にすぎず、じっさいにはウラジオ攻撃の企ては放棄されたのであった。後備第二師団は休戦成立のぎりぎりまで前進を続けたが、なお、完全にロシア軍を韓国領内から追い出すことはできなかった。

  一方、樺太占領の方は6月18日、まず先遣部隊を南岸コルサコフ地方に上陸させ、ついで第十三師団主力を西岸中部のアレキサンドロフ付近に上陸させることに決定した。大体この島にはさしたる守備軍はなく、急に編成された義勇軍ていどであったから占領はかんたんであった。7月9日先遣部隊、24日主力部隊の上陸が成功すると、31日早くもロシア軍は降服し、樺太全島は日本軍の手中に帰した。この間、樺太攻撃の海軍参謀からは、このさいカムチャッカ半島占領を実行してはどうかとの意見が上申された。このことはすでに3月30日の作戦計画にも書き込まれていたし、この案の発案者である長岡参謀次長は全面的に賛成したが、満州視察中の山県参謀総長は、兵力の分割は好ましくないとして、許可しないという一幕もあった。長岡次長は、これを実行していれば、講和のさいにカムチャッカ撤兵の交換条件が要求できたのに、とくやしがっているが(『機密日露戦史』)、ともかく、講和会議開始までに樺太占領だけは間に合わせることができた。



イギリスの日英同盟強化案

 こうした軍事面での講和をめざす作戦と同時に、外交面では、日本が講和会議で要求する戦後の地位を、あらかじめ列強、とくにイギリスとアメリカにみとめさせておこうとする工作が進められていた。その一つは、すでに2月から話合いの糸口がついていた日英同盟の改訂であり、もう一つは桂・タフト協定となって実現された。

  日英交渉は2月以来中断されていたが、5月に入るとイギリス側の積極的提案によって新たな進展を示してきた。5月17日ランスダウン外相は、正式のものではないとしながらも、林公使に対してつぎのような提案を語った。その要点は現行の日英同盟では、一方の国が他方の国を軍事的に助けるのは、他方の国が2国以上の攻撃をうけた場合にかぎられているが、これを一方の国が一国からでもいわれなき攻撃をうけた場合には、他方の国がすぐ軍事力をもって援助、参戦するというぐあいに強化してはどうかというのであった。そしてその場合、イギリスは海軍で日本を援肋し、日本は陸軍でイギリスを援助することにしてはどうかと提案した。

  ランスダウンは続けて、しかし、イギリスはアフリカやヨーロッパの戦争に日本の援助を求めるつもりはない。ロシアはこの戦争が終れば日本に報復のため、海軍力の拡張をはかると公言している。日本がこれに対抗して海軍拡張をはかるには莫大な力を費さねばならないが、もし日本が戦う場合に全イギリス艦隊が来援することになれば、ロシアもこの企てをあきらめるだろう、しかしそのときは、ロシアはこんどはインドに向かって力をのばしてくるにちがいない、これに対しては日本陸軍が援助にかけつけることになれば、ロシアはこの企図も放棄せざるを得なくな るだろう、というのであった。

  この提案は、日本の韓国支配をみとめさせる以外には、現行条約をそのまま延長しようとしていた日本政府にとって予想外のものであったが、林公使はこの提案をうけいれることが、講和談判での立場を有利にするなどさまざまの利益があるとの意見を具申してきたし、小村外相もこの同盟強化の方向を受け入れるのが有利だと判断した。



韓国保護国化の承認を要求

 5月24日の閣議は、小村外相が提出したこの方向での日英同盟改訂の方針と本文六ヵ条、秘密協定三ヵ条の新同盟案を承認した。小村はこの中で、戦後ロシアの報復を抑えるには、講和条約でロシアの極東における軍備を制限できればそれにこしたことはないが、それはとうてい不可能であり、したがって日本自身の軍備拡張とこの日英同盟の強化とによって、ロシアの報復の余地をなくすることが必要なこと、戦勝の結果、列強の日本に対する警戒が高まり、日本が孤立するようなおそれを除くこと、などのためにこの新日英同盟が有効であると述べていた。

  日本海海戦の前日、5月26日に日本側の条約案がイギリス政府に通告されたが、本文では、 一方が正当の理由なくして攻撃をうけた場合には、他方がただちに協同戦闘に従事し、講和も合意のうえで行なうこと、援助の義務を「東亜及印度以東」にかぎること、ただし目下の日露戦争にはイギリスは中立を続けること、日本が韓国における政治、軍市、経済上の特殊利益を擁護するためにとる措置をイギリスは承認すること、秘密協定では、両国はいずれも極東において最大の海軍力を有する別国よりも優勢な海軍力を維持することに努めること、韓国に対して日本が保護権を確立するときは、イギリスは日本の処置を賛助することなどを規定した。

  これに対して6月10日、イギリス側は日本の韓国に対する権利に対応して、インド国境地方における、イギリスの特殊利益保護のための措置をみとめる条文を加えること、秘密協定をやめて交換公文とし、韓国にかんする規定は本文に含ませ、軍事援助にかんする規定をより具体的とすること、などの対案を出した。他国からの攻撃にかんする部分では、「正当な理由なくして」を 「挑発することなくして」となおされていた。

  イギリス側は、秘密協定は議会で質問されたときあいまいな答弁をすればその存在がわかってしまうし、否定の答弁をすれば、その効力を失わせてしまうとしていた。そして、秘密協定にかえる交換公文では、日本は戦時においてインドにあるイギリス軍隊と同ていどの軍隊を準備、維持すること、という規定を設けていた。これに対して日本側は、軍事問題の規定を海軍にかんする事項にかぎろうとし、結局最後には、交換公文もとりやめとなり、軍事的援助については両国陸海軍当局間で協定するという条文をおくに止まった。

  6月21日の日本側第二次案では、韓国問題につき、日本は「指導・監督及保護ノ措置」を とる権利があるとし、ただし、この措置が列国の商工業に対する機会均等主義と牴触しないことを要する、と規定したが、7月2日のイギリスの第二次案は、この日本の韓国における措置が商工業の機会均等主義だけでなく、「他国ノ条約上ノ権利」とも牴触してはならないという新しい制限を加えていた。小村外相が7月8日、横浜からポーツマスに向け出発するまでに、第二回日英同盟の骨子はこの問題を除いてほとんどできあがっていた。条約の仕上げは、小村不在中、外相兼任となった桂首相の手にゆだねられた。



第二回日英同盟


 イギリスが「他国の条約上の権利」の問題をもち出してきたのは、新しい日英同盟で日本の韓国保護権を承認し、日本が韓国保護国化を実行した場合、列強と韓国との既存の条約をめぐって、日本と紛争が起こることが予想され、はては軍事的衝突にまでいたる可能性もまったくないとはいえず、イギリスとしてはその紛争にまき込まれて、日本を軍事的にも援助するなどという事態になることを避けようとしたものであった。

  しかしこの条件は、日本にとって重大であった。韓国を保護国化し、韓国の外交を日本の手に収める場合、韓国と列強とのこれまでの条約と矛盾する部分が出てくることは当然であり、韓国または他の列強が韓国保護固化に抵抗する根拠を、日英同盟の条文が与えることになると考えられた。そこで日本政府は、この条件の削除を求めるとともに、たとえイギリスが心配するような事態が起こったとしても、日本はこの問題にかんしてはイギリスの援助を求めないと約束した。イギリスも、もはや日本の韓国支配そのものを妨げる意思はなかったので、この点を確認しただけで譲歩した。

  第二回日英同盟がロンドンで調印された8月12日、ポーツマスでは日露講和交渉の第二回正式会議が開かれ、ウィッテは日本側講和条件への回答書を提示していた。日本の講和条件の第一には、ロシアは、日本が韓国を「指導、保護、及び監理」するのを承認する旨の規定がかかげられ、ウィッテは「本条は異議を容るるの余地なし」と答えている。

  新しい日英同盟は、この日本の韓国植民地化をみとめ、日英両国が韓国とインドというそれぞ れの植民地を守るために、協力を強めることを約束した点で、旧同盟と決定的に異なっていた。以後、相互の植民地支配をみとめ合うことが、日本の外交にとっても、列強との協調の基本にな ってゆくのであった。そしてこのときすでに、アメリカとの同様の協定―桂・タフト協定が成立していた。



桂・タフト協定

 7月下旬、アメリカ陸軍長官タフトが、フィリピソ視察の途中、来日するや、日本政府はアメリカの親日感を強めようと大歓迎をもって迎えたが、同時に桂首相兼外相は、7月27日タフトと会談し、両者はつぎのような諒解に達した。(一)フィリピンをアメリカのような親日的な国に統治してもらうことは日本にとっても利益であり、日本はフィリピンに対していかなる侵略的意図をももたない、(二)極東の全般的平和の維持にとっては、日本、アメリカ、イギリス三国政府の相互諒解を達成することが、最善であり、事実上唯一の手段である、(三)アメリカは、日本が韓国に保護権を確立することが、日露戦争の論理的帰結であり、極東の平和に直接に貢献するとみとめる、というのであった。つまりここでは、フィリピンと韓国に対する両国の植民地的支配の承認がとり交されているのであり、この時期の日本政府が、この桂・タフト協定と第二回日英同盟による植民地支配の相互承認を軸として、戦後の国際的地位を確保する構想であったことが示されている。したがって、韓国支配については、講和会議でロシアに対してぞん分に主張できる体制がつくりあげられたということでもあった。



戦艦ポチョムキンの反乱


 さて、日本側のこのような、講和をめざす諸工作に対してロシア側ではなんら積極的な動きを示さなかった。のちにウイッテは、講和の動きが始まって以後、ロシア軍が満州で攻撃に出て講和会議でのロシア全権を助けようとしなかったことを非難 しているが、逆にクロパトキンは、満州での攻撃準備が進んでいるというのに、ウイッテが早々に講和をまとめてしまったと不満を述べている。

  しかし、この時期のロシアにとっては、戦争よりも革命を抑えることの方が重大問題になっていた。ドイツ皇帝が心配したように、革命運動が急速に高まっていた。4月にはロンドンでレーニンのひきいるボルシェビキ派の社会民主党第三回大会が開かれ、プロレタリアートのヘゲモニーのもとに全人民の武装蜂起へという方針が決定されたし、5月にはイヴァノヴォ・ヴォズネセンスクで繊維労働者7万名の大ストライキが行なわれ、最初の労働者代表ソビエトがつくられた。6月には、ロッジで数千人の労働者が軍隊と衝突し、石を投げて3日にわたる市街戦を行なったが、軍隊の方にも動揺があらわれてきた。

  ヨーロッパ・ロシアから満州に送られてきた増援軍の中にも革命思想が広まっていたといわれるが、陸軍よりも高い知的水準を要求される海軍において、抑圧への不満がいっそう高まっていた。そしてそれは6月14日戦艦「ポチョムキン」の反乱となってあらわれかた。赤旗をかかげ、乗組員委員会が指揮をとる「ポチョムキン」に対して、黒海艦隊は拿捕または撃沈を命ぜられて攻撃に向かったが、これらの艦艇の水兵たちにも蜂起の動きがみられ、黒海艦隊も追撃をあきらめざるを得なかった。

  「ポチョムキン」の反乱は自然発生的であり、陸上の労働者との協力などの準備もなく、反乱11日目に石炭と食料がなくなって、ルーマニアのコンスタンツァ港にはいって武装解除されたが、この事件は、帝判ロシアの危機を象徴的に示したものであった。革命の波はさらに10月の鉄道ゼネスト、12月のモスクワ蜂起へとつらなってゆく。

  ロシア皇帝は、ウィッテを講和全権に任命するにあたって、1コペックの償金も、1インチの領土も割くのを欲しないと述べたといわれるが、そうした強硬な態度も足もとからゆらいでいたのであり、10月には皇帝自身ぺチェルゴーフに身をかくし、いつでも海外へ亡命できる準備をする破目に追い込まれてゆくのである。またロシアが頼っていたフランスの金融資本家たちも、戦争継続のための外債には応じない態度を示していた。

ロシア側でも戦争続行の条件は急速に失われつつあった。

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