『現代歴史学と教科書裁判』

1973年4月

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日ソ中立条約と教科書裁判


 

古屋 哲夫


はじめに

1 検定側の意図と方法
2 対ソ政策の転換
3 日ソ中立条約の締結過程
4 中立条約締結後の日ソ関係



1 検定側の意図と方法

 この教科書裁判で争われているのは、昭和41年度に家永三郎氏が申請した改訂検定に対する不合格処分であるが、この不合格処分はいずれも、昭和38年度検定において家永氏が教科書発行のための時間的余裕のないことなどを考慮して検定側の意見をうけいれて修正した記述を、もとにもどそうとする改訂個所に対してなされたものであった。その際検定側は、38年度検定にあたっての修正意見をそのまま不合格処分の理由として援用しているのであり、したがってこの裁判では、実質的には38年度の修正意見の当否が争われているわけである。

そこでまず、日ソ中立条約をめぐるこの間の経緯を示すために次の表をかかげておこう。

 

昭和38年度検定申請白表紙本
の記述  (上欄)

昭和38年度検定済教科書の記述
(中欄)

改定検定申請現行の記述
(下欄)

a

(256ページ本文)
1941年(昭和16年)4月、南進態勢を強化するため日本はソビエト連邦との間に日ソ中立条約を結んだ。

 

1941年(昭和16年)4月、南進態勢を強化するため日本はソビエト連邦の提案に応じて、日ソ中立条約を結んだ。

 

1941年(昭和16年)4月、南進態勢を強化するため、日本は日ソ中立条約を結んだ。

b

(右aの脚注)
@しかし日本は、6月にドイツ軍がソビエト連邦に侵入を開始すると、「関東軍特別大演習」の名目で大軍をソ連国境の近くに集中し、情勢が有利となったときにはシベリアに侵入できるように準備を進めた。

A日本は、6月にドイツ軍がソビエト連邦に侵入を開始すると、「関東軍特別大演習」の名目で大軍をソ連国境の近くに集中した。

A日本は、6月にドイツ軍がソビエト連邦に侵入を開始すると、「関東軍特別大演習」の名目で大軍をソ連国境の近くに集中した。

c

(257ページより本文)
これより先、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦3国の首脳は、1945年2月、クリミヤ半島のヤルタで会議を開き、日本とドイツの戦後の処理について取り決めたが、この会談に基づいて、ソビエト連邦は8月8日、日本に戦いを宣し、進撃を始めていた。
(上記の脚注)
Aヤルタ会談で、アメリカ・イギリスは、南樺太・千島をソ連の領土とすることに同意し、そのかわりソビエト連邦はドイツ降伏後3か月以内に対日開戦することが約束された。

 

これより先、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦3国の首脳は、1945年2月、クリミヤ半島のヤルタで会議を開き、日本とドイツの戦後の処理について取り決めたが、この会談に基づいて、ソビエト連邦は8月8日、日本に戦いを宣し、進撃を始めていた。
Aヤルタ会談で、アメリカ・イギリス・ソビエトの間で秘密協定が結ばれ、南樺太・千島をソ連の領土とすることに同意し、その代わりソビエト連邦はドイツ降伏後3か月以内に対日開戦することが約束された。この約束に基づいてソビエト連邦は日ソ中立条約の破棄を通告し、戦いを宣したのである。

 

これより先、アメリカ・イギリス・ソビエト連邦3国の首脳は、1945年2月、クリミヤ半島のヤルタで会議を開き、日本とドイツの戦後の処理について取り決めたが、この会談に基づいて、ソビエト連邦は8月8日、日本に戦いを宣し、進撃を始めていた。
Aヤルタ会談で、アメリカ・イギリス・ソビエトの間で秘密協定が結ばれ、南樺太・千島をソ連の領土とすることに同意し、その代わりソビエト連邦はドイツ降伏後3か月以内に対日開戦することが約束された。この約束に基づいてソビエト連邦は日ソ中立条約の破棄を通告し、戦いを宣したのである。

 この表でみられるとおり、家永氏が改訂検定を申請して不合格とされたのは、aの部分で、「ソビエト連邦の提案に応じて」という一説を削除する点だけであるが、不合格の理由としては、実質的には表の上欄の記述に対する修正意見が問題となるわけである。この修正意見はa、b、c、の3ヵ所を関連させながら次のように述べている。

 

@「白表紙本本文の記述(aの上欄)についていえば、このままでは、たとえばソ連側が自国の利益のために日ソ中立条約の締結を希望し、これを提案した事実などには触れておらず、また、その脚注の記述(bの上欄)とあいまって、同条約がわが国のみの利益や都合によって締結されたものであるかのように受けとられ、当時の日ソ関係について一方的な誤った理解に導く恐れがある。」

A「前記白表紙本257頁本文およびその脚注の記述(cの上欄)についていえば、このままでは、ヤルタ会議で締結された協定が秘密協定であったことや、ソ連による日ソ中立条約の破棄などについては触れていないため、その後のソ連の対日参戦、わが国の戦争終結への経過等が正しく理解されず、当時の日ソ関係について誤った理解に導く恐れがある。」

B「前記白表紙本256頁の脚注(bの上欄)についていえば、『関東軍特別大演習』のようなソ連に対する開戦の決定がなく単なる兵力の増強に終わった戦略上の推移について、このように特筆することは、前記本文(aの上欄)の記述とあいまって、当時の緊迫した世界情勢に照らしわが国の行動についての適切な理解を妨げる恐れがあるばかりでなく、ソ連が現実に日ソ中立条約を破棄して満州に進撃した事実を書かないで前記のような『関東軍特別大演習』をとりあげることによって、当時の日ソ関係についての認識を誤り導く恐れのあるものであって、適切でない。」(検定側第一審準備書面)

 この修正意見の特徴は、「誤った理解に導く恐れ」とか「認識を誤り導く恐れ」とか述べるだけで、「どのような誤り」に導くことが予想されるかについて一言も述べていないことであろう。これでは予想される誤解を防ぐために、どのような記述が必要なのかについて、真面目に執筆者と討議することを初めから拒否しているとしか言いようがない。しかもそれでいて、検定側が希望する記述のあり方だけをちらつかせているのである。そしてその意見に沿って修正しなければ教科書としてみとめないというやり方が、どこからみたら「非権力的な作用」などと言えるのであろうか。

  修正意見の要求は、次の3つに要約される。(1)ソ連が自国の利益のために中立条約を提案した事実と、(2)ソ連が中立条約を破棄し、対日参戦・満州進撃を強行したことの2点を記述し、(3)「関特演」の記述の比重を低めること、の3点である。そしてこの要求をうけいれることによって、どのような(彼ら好みの言葉で言えば)教育的効果があがるのかについては一言も述べようとしない。たとえば@の部分について言えば、そこでの意見だけ読めば、条約というものは、双方の利害の一致した点で結ばれるはずなのだから、片方の事情だけ書いたのでは不十分だという趣旨のようにも見えるが、修正の結果は今度は他の一方の利害がより強調されることになっているのである。それはもはや、事実についての叙述の不十分を補うということではなく、異なった「評価」を押し付けることにほかならない。ではこの陰険にして官僚的なやり方で、検定側は日ソ関係についての如何なるイメージを生み出すことを企てているのであろうか。

  控訴審に最近提出された森克巳・林健太郎両氏の鑑定書は、この点についての検定側の意図をきわめてはっきりと代弁しているようにみえる。官僚よりは大学教授のほうが率直だということにもなろうか。両鑑定書はいずれも、日ソ中立条約の記述から「ソビエト連邦の提案に応じて」の部分を削除することは高等学校教科書として適切ではない、との結論を出しているが、まず森鑑定書の結びの部分に眼を向けてみよう。

 

以上のように、日ソ中立条約、『関特演』、ヤルタ会談、ポツダム宣言、ソ連の対日参戦という本件教科書の一連の日ソ関係の記述を通覧した場合、『関特演』の比重は軽く、高等学校教科書に特質しなければならないほどの意義をもってはいない。むしろそれよりも、日本がその切望した『不可侵条約』を引っ込め、ソ連に譲歩し、ソビエト連邦の提案に応じて、『日ソ中立条約』を結んだにもかかわらず、それを提案した提案国たるソ連が、米英と気脈を通じて自らこれを侵犯し、遂には終戦時にこれを破棄して対日参戦するにいたった事実こそ重大であり、これこそ特筆に価する。したがって『日ソ中立条約』締結当時のいきさつより、ヤルタ会談、ポツダム宣言と、ソ連が米英と接近し、次第に気脈を通じていき、遂には同条約を破棄して対日参戦するにいたった歴史的過程を高等学校生徒に理解させるためには、『ソビエト連邦の提案に応じて』の文句があったほうがよい。

 つまり、日ソ中立条約はソ連がみずから提案し日本に譲歩させてまで結んだものなのに、ソ連はみずから提案した条約を破ってまで米英と通謀し、忠実に条約を守っていた日本に戦争をしかけたのだ─この点こそ強調されなくてはならないというのである。

  もう1人の鑑定人林健太郎氏の鑑定書は、「ソ連が対手方の抵抗が弱いと見た時は容赦なく他国の領土を侵略する国であること」を強調した後に、次のように書いている。

 

家永氏や遠山氏(遠山茂樹氏の第一審での証言を指す─引用者)は、あたかもソ連が常に平和的で条約を遵守する国であったかの如く、そしてそれに対して日本が常に侵略的であり国際的不信義の国であったかの如き歴史像を画くことが歴史家の義務であるかの如き態度をとっている。しかしこれほど歴史の真実に反するものはない。
本鑑定人が、教科書においてことさらソ連の侵略性や国際的不信議を強調せよと云っているのではなく、また文部省もそのようなことを家永氏に要求したのではない。ただ家永氏の教科書があまりに史実と異なった自国に不公正な印象を生徒に与えようとしているが故にこそ、文部省はその是正を要求したものと解される。そしてそれは正しいものである。(傍点─引用者)

 林氏はおそらく、ソ連のことはなんでも擁護するという一時期のマルクス主義者を頭において書いているのであろう。しかし家永氏執筆の教科書を読んでみても、「私はもちろんソビエト連邦がしたことを無条件で全面的に支持するというようなばかげたことをどこにも書いておりません」という同氏の証言(第一審)をくつがえすような記述を見出すことはできない。とすれば、林氏の言い分は、教科書に記述されていない、その背後にある執筆者の思想まで検定の対象にしようとしているものと言わざるをえない。

  検定側の人々が反ソ的イデオロギーの持主であることは、以上の叙述から明らかであろう。しかし彼らが日ソ中立条約の問題にこのような形で固執しているのは、たんなる反ソ・イデオロギーによるのみではない。むしろ林氏の言う「自国に不公正な印象」という点が彼らにとってはより重大な問題であり、反ソ・イデオロギーは、日ソ中立条約の問題に関して、彼らの「自国に不公正な印象」をあおり立てる力になっているとみるべきであろう。そしてここでは、「自国に不公正な」という「印象」が、実質的な検定基準として強力に作用していたと考えられるのである。

  ではそこで「不公正な」とは何を指しているのか。検定側が、日ソ中立条約に関しては日本は一貫して「平和的」であり、「誠実」そのものであったと考えていることは、これまでの検討からも明らかであり、彼らはその点が明確にされていないのは「自国に不公正な印象」をあたえるものだといきり立っているのである。

  しかし検定側はここで、日ソ中立条約が第二次世界大戦史の一駒であることを故意に忘れようとしているようにみえる。日ソ中立条約は、とくに日本にとって、戦争遂行政策の不可欠の一環をなしていることに検定側は何故眼を向けようとしないのか。それは、侵略者として非難の的とされる第二次大戦における日本の行動のなかから、これだけは非難されないという部分だけを切り離して、侵略者としての印象をうすめようとする意図を示すものとしか言いようがない。彼らは「自国の」教科書であるからそうすべきだと言う積りかもしれない。しかし、まさに「自国の」教科書であるからこそ「自国において」侵略政策がどのようにして形成され、実現されていったのかを明らかにすることが中心的な課題とならねばならないのではないか。
  検定基準ともされる学習指導要領は、「史実を実証的・科学的に理解する能力を育て、史実をもとにして歴史の動向を考察する態度を養う」(傍点─引用者)という目標を立てている。「戦争」という全体的な「歴史の動向」から切り離して、部分的な「平和」を強調しようという検定側の態度は、この検定基準をさえ無視しているように思われるのである。

  しかし検定側は、教科書検定における彼らの意見は、特定の意図による歴史の歪曲ではなく、「史実」にもとづく公正な歴史把握を示すものだと主張するにちがいない。そこでわれわれは、日ソ中立条約をめぐる検定側の論議がどのような偏向を持っているのかを具体的に検討しなければならないのであるが、まず準備書面、証言、鑑定書などについて、その方法、問題のとりあげ方に注目してみよう。

  最初に現在進行中の控訴審における検定側の基本的な主張を示すものとして、昨年(1971年)6月25日に提出された検定側準備書面をとりあげることにする。

 

 被控訴人(家永氏を指す)は、遠山証言に基づき昭和6年から14年までの日ソ外交の特徴はソ連側が日本側に対して不可侵条約の締結を申し入れ、日本側は北進論を反映してこれを拒否するという点にあったこと、しかし昭和15年から同16年にかけて日本側の対ソ方針が転換し、昭和15年には日本側からソ連側に不可侵条約の申し入れが行われたこと、これに対しソ連側は北樺太の利権問題の解消等を条件にして交渉が難行したが折衝の末結局同16年4月13日ソ連側の反対提案にかかる中立条約が締結されたこと、これは北進論から南進論への転換の頂点に位置するものであることなどからみて『ソビエト連邦の提案に応じて』という一句を入れると史実に反映した記述となると主張している。
 
しかし、右の主張は、同条約締結の経緯の歴史的評価としてソビエト連邦の提案によるとみるべきでないというのであって、日ソ中立条約の締結の実際に照らして不正確であるというほかない。

 すなわち、日ソ中立条約の締結に至るまでには昭和6年のソ連の不可侵条約締結の申し入れ以来日ソ間に種々の交渉の経緯があるが、具体的には昭和15年の春ごろから日ソ間になんらかの協定を結ぶことが問題となってきた。そして昭和15年10月に日本側から日ソ不可侵条約の提案を行ったところ、ソ連側は北樺太の権利の解消などを主張してこれに応ぜず、同年11月にモロトフは不可侵条約よりも両国間の結合の度合のゆるい中立条約を提案した。しかし、この時は日本側の不可侵条約の思想とモロトフの提案する中立条約は本質的に違うためまとまらなかった。そこで、昭和16年4月に松岡外相はソ連を訪問して不可侵条約を結ぼうとしたが、ソ連側は先に提案したモロトフの中立条約案を堅持して譲らなかった。しかし、同年4月12日にスターリンと松岡外相の直接談判により急きょ中立条約が締結されるに至ったのである(証人村尾次郎・第二回速記録43-50ページ、証人中村菊男・速記録44-49ページ)。

  この中立条約は、日本側の要望もある程度加えられているが被控訴人もすでに認めているようにモロトフ提案を骨子とし、ソ連側の意向を強く反映したものである。モロトフとの交渉で松岡外相が一進一退を続け、条約成立の困難な状況にあったのに4月12日スターリンの裁量により急に情勢が展開して条約が締結されたということは、歴史上非常に特色のある事件であって、これを軽視することはできないことである。これは当時独ソの関係が微妙をきわめ、いつ何時戦争が起こるかも知れないという切迫した状況においてスターリンが急に決心して条約を結んだのであり、この間の状況を教科書上記述するとするならば、最終的に挿入された『ソ連の提案に応じて』の字句のある方が適切である。 (傍点─引用者)

 この主張の問題点はまず第1に、日ソ中立条約成立にいたる交渉過程を実質的に「昭和15年10月」から始まるものとして把え、それ以前の問題をできるだけ無視しようとしている点にみられる。この準備書面の基礎となっているのは、教科書検定官村尾次郎氏の第一審における証言であるが、この点に関する村尾証言は次のようなものであった。すなわち同氏は日ソ交渉過程を、(1)東郷大使による交渉(昭和15年7月)、(2)建川大使による交渉(昭和15年10月)、(3)松岡外相の訪ソによる条約締結(昭和16年4月)という「3つの段階」に分けるのであるが、しかしこの3段階を一貫した過程とは把えない。そして、中立条約案は第2段階を建川大使の不可侵条約提議に対する反対提案なのだから、「ソ連の提案に応じて」と書かねばならないというのである。

  この交渉の第1段階を実質的に無視する点に検定側のやり方の第1の特徴がみられる。しかし詳しくは後で述べることにするが、交渉過程は連続したものであり、第2段階で日本側の構想が変化してくるが、交渉はあくまで第1段階での一定の合意を前提としているのである。検定側はこの第1段階を無視することによって、次のような問題を切り捨ててしまうのである。すなわち第1段階において東郷大使の提案しているのは「中立条約」であり、この段階ですでにソ連側は中立条約を結ぶことについての原則的賛成と、ソ連側の条件を明らかにしている。そして建川提案に対するモロトフの逆提案とは、この第1段階でのソ連側の主張を条文化したものにすぎないということである。したがって、建川提案とは、東郷提案に対するソ連側の回答への逆提案という性格を持つのであり、モロトフの中立条約案はこれに対するソ連の態度が一貫していたことを示していることになる。つまり、この第1段階を実質的に切り捨てることで、「ソ連の提案に応じて」という検定側の主張は成り立っているのである。

  もっとも村尾証言では、東郷提案に対してソ連側が「日露戦争の敗戦条約をご破算にした上で、日ソ関係の改めての軍事条約を結びたい」(『家永・教科書裁判第二部証言篇6』322ページ)と回答したとし、第2段階の中立条約案と区別しているようにみえる。しかしこれは、不注意による誤認でなければ悪意あるウソである。ソ連側は軍事条約など求めたことはない。

  この点については、第一審における検定側証人中村菊男氏の証言も似たような性格をもっている。同氏は、日ソ中立条約締結の「直接的契機」は日独伊ソ4ヵ国同盟の構想であったとする。これは村尾証言が区分した第2段階で出てくる問題なのであるが、中村氏はこの観点で交渉過程全体を説明しようとするのである。すなわち、

 

ソ連の援蒋行為をいかにして停止させるか…(略)…そういったことから昭和15年春ごろから、やはり、このソ連との間に何らかの協定を結ぶべきではないかと不可侵条約を結ぶことが問題になっておったわけであります。そして、その当時、その前から日・独・伊三国の軍事同盟締結のことがいろいろ論議の対象にになり、直接の交渉もおこなわれておったわけでありますが、日本とドイツとの間に意見の相違があって、機が熟さなかったのであります。(傍点─引用者、同前331ページ)

 この証言は、全体としてあいまいな部分が多いが、引用した部分も第1段階の交渉が成立しなかったのは、四国同盟構想の「機が熟さなかった」からであるかのごとく読める。しかしここで言われている日独伊三国の交渉とは、1938─39年にわたっておこなわれたものであり、─詳しくはあとで触れるが─日本側の意図は、防共協定を反ソ軍事同盟に発展させることにあった。つまりこの時期の交渉はまだ四国同盟構想とは異質なのであり、日ソ交渉の第1段階はこの交渉の失敗を1つの前提としてはじめて開始されるわけであるが、そこでもまだ四国同盟構想が交渉の軸となっているわけではない。

  つまり中村氏は第2段階以後の問題で全体を説明するというやり方で、実質的に第1段階を切り捨てているのである。しかし中村氏のやりかたは、その上にもう1つ日本の対ソ政策の転換という問題を回避するねらいを持っているようにみえる。そしてこの点は検定側のやり方の第2の特徴としてあげることができるように思われる。

  周知のように、中立条約をめぐる日ソ交渉が開始される以前の日本の対ソ政策を特徴づけているのは、1936年締結の日独防共協定と、それを対ソ軍事同盟に強化するための38-39年にわたる日独交渉─中村氏が誤ったやり方でとりあげている─である。したがってこの日本の反ソ政策が転換されなくては、たとえソ連が何を望もうと中立条約など問題にならないことは自明のことではないか。しかも現実には、日本はこの政策転換をおこなったばかりでなく、まず中立条約を、次の村尾氏の言う第2段階ではよりいっそう政治的結合の度合いの高い不可侵条約を提議するに至っているのである。つまり日本の態度は、第1段階から第2段階に向けて、より積極的になっているのである。この日本側の積極性がなければ、中立条約などありえなかったはずであり、その積極性の内容を明らかにするためには、日本の反ソ政策の転換の方向とその発展を分析してみなければならないはずである。

  検定側がいかにこの対ソ政策の転換と日本の対ソ交渉における積極性という問題を避けようとし、結果としてこの問題そのものを切り捨ててしまおうとしているかは、さきに引用した控訴審準備書面でも明らかであろう。そこでは「日本側の不可侵条約の思想とモロトフの提案する中立条約は本質的に違う」と述べながら、「日本側の不可侵条約の思想」については何も触れないですまそうとするのである。検定側の言い分は、中立条約はソ連側の思想によるものだから、「日本側の不可侵条約の思想」などを取りあげる必要はないと言うに等しい。

  しかし、日本側が条約に調印したことは、次善の策としての中立条約のなかで、不可侵条約のねらいをそれ相応に実現できるとみたからではないのか。検定側の「本質的に違う」という言い方を借りれば、条約の同じ文面の下で、日ソの異質な思想と要求とが相拮抗し、対立しているという点に、日ソ中立条約の締結より破棄に至る全過程の特色が存在していたということになるのではないのか。

  いったい、検定側は日ソ中立条約に調印した日本側の意図をどう説明する積りなのであろうか。次は森克巳鑑定書の一節である。

 

以上日ソ中立条約締結にいたる経緯を見てくれば、日ソ中立条約はソ連側の提案であることはもはや疑う余地がない。日本は自らの主張である不可侵条約を断念してソ連側が強硬に固執する中立条約の提案を受けいれたのであって、いってみれば、ソ連の思う壺にはめられたのである。

 つまり、日ソ中立条約のなかには、日本側の不可侵条約の思想はまったく生き残っていないということであり、検定側の論理を単純に徹底させるとこういうことになるのであろう。

  森鑑定書は全体としても、検定側の方法を徹底させている点で興味深い。まず第1の日ソ交渉の過程を切り縮めるという点では、村尾・中村両氏が交渉の第1段階のことにも触れた上で、それぞれのやり方でそれを切り捨てているのと違って、はじめから第2段階からしか問題をとりあげないのだから簡単である。また第2の日本の対ソ政策の転換や対ソ交渉における積極性の根拠などという問題も、日ソ関係を「国境紛争の件数」で時期区分するという特異な方法を持ち出してきて一気に切り捨ててしまうのである。

  すなわち、氏は、国境紛争の激減という点から日ソ中立条約を「両国国交上にエポックを画したもの」と評価すると同時に、満州事変から中立条約締結にいたる時期を1つの時期として区分し、その間の日ソ関係の変化を無視してしまうのである。それは、問題をいっそう狭い範囲にとじ込めただけで、「鑑定」などと呼べる性質のものではない。

  以上みたように検定側の日ソ中立条約の扱い方の特徴は、次の2点に要約することができる。第1には、日ソ中立条約の成立過程を自分たちの主張に都合のよい部分だけに切り縮めているということであり、第2には、日本が対ソ政策を転換して、対ソ国交調整に積極的になったという側面を避けて通ろうとしている点である。そしてこの2つのやり方からもたらされる効果は、日ソ中立条約の問題を、日本の戦争政策から切り離すということにほかならないであろう。

  すなわち、検定側が切り落とした第1段階の問題とは、日本の戦争政策が、東亜新秩序建設から、東南アジアをふくめた「大」東亜新秩序へと拡大されることに対応した問題であった。「南進論」とか「南進態勢」とかいった言葉で議論されている問題もこの点にかかわっている。また日ソ中立条約は日本の側からみれば、この「大東亜新秩序建設」のための1つの方策として追求されているのであり、そこから日本側の積極性も生まれているのである。

  以下、これらの点を中心にして、日ソ中立条約の交渉過程の問題点を検討しながら、検定側への批判を深めてゆくことにしたい。

2対ソ政策の転換へ