『現代歴史学と教科書裁判』

1973年4月

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日ソ中立条約と教科書裁判


 

古屋 哲夫


はじめに

1 検定側の意図と方法
2 対ソ政策の転換
3 日ソ中立条約の締結過程
4 中立条約締結後の日ソ関係



4 中立条約締結後の日ソ関係

 歴研委員会からの依頼は、森鑑定書の批判ということであったが、検定側の論議の仕方がさまざまなので─そのことは検定側の主張の恣意性の表現であると思われるが─準備書面、証言をも合せて問題とし、また問題の把え方を検定側に対置しようとしたため、すでに与えられた紙数を超えてしまった。不手際をおわびする以外にない。したがって、関特演、対米英開戦後の日ソ関係などの問題は正面からとりあげる余裕がないので、問題点を指摘するにとどめておきたい。

 まず「関特演」について。

(1) 中村菊男証人が、「関特演」はとくにソ連を対象としたのではなく北でも南でも重慶でもどこでも攻撃できるように兵力を動員したものだが、内地は「場所が狭いので」満州にもっていったという珍説を述べているが、これには「開戦時(対米英)の陸軍地上兵力(航空兵力を除く)は、南方39万、支那62万に対し、対北方戦備として満鮮に控置している兵力は73万であった」(防衛庁戦史室『大本営陸軍部(3)』300ページ)との叙述を対置すれば十分であろう。
(2) 「日ソ両軍の戦力の大きな格差を縮めようとした」もので「完全な警備態勢に過ぎない」という森鑑定書の叙述は、何故独ソ開戦というこの時期に格差を縮めることが企画されたかを説明できない点致命的であろう。大きな戦力格差の存在は、本稿でも述べまた森鑑定書でも触れているようにこの数年前からすでに問題になっていたところである。しかも関特演の動員が「警備態勢」にしてはあまりにも大規模であり、ソ連側から日本の開戦行為であるとうけとられ先制攻撃をうけるおそれのあることを軍部自体認めているのである(『大本営陸軍部(2)』373-374ページ)。
(3) 森鑑定書の「開戦の決意なき準備陣」という主張についてであるが、この問題はやや複雑である。なるほど結果からみれば、対ソ開戦の決定はおこなわれなかったのだから、「開戦の決意なき準備陣」と言えなくはない。村尾証言や控訴審提出の検定側準備書面が援用している東京裁判でのパ−ル意見書はこの結果論である。


  しかし「関特演」が「開戦の決意」とまったく無関係にあり得たであろうか。村尾証言の言うように「独ソ戦争ノ推移帝国ノ為メ有利ニ進展セハ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北辺ノ安定ヲ確保ス」という「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」(41年7月2日御前会議決定)の文言が「要するにソ連に対しては当分手を出さないこと」を意味するなら、なんで「明治建軍以来最大の動員規模となった」(『大本営陸軍部(2)』327ページ)「関特演」が実施されたのかわからなくなる。したがって「帝国国策要綱」は村尾式に言えば「ソ連に対しては何時でも手を出せるようにする」と読まなければ意味をなさない。

  では何故「開戦決意」がおこなわれなかったかと言えば、「関特演」をもってしても特定の条件の下でなければ対ソ戦に勝利する見込みがなかったからである。対ソ開戦決意の条件としては、次の2つがあげられる。ひとつは極東ソ連軍が西送され総合戦力が半減するということである。軍部はこのような情勢が必ず来ると信じたからこそ「関特演」を実施したのではないか。もうひとつの条件は米英との関係である。「帝国国策要綱」は南部仏印進駐の強行をも決定し、そのため「対米英戦ヲ辞セス」としていた。したがって対ソ「武力行使ノ決定ニ際シテハ対英米戦争ノ基本態勢ノ保持ニ大ナル支障ナカラシム」ることが求められていた。しかし対ソ戦と対米英戦を同時に遂行する力はないのだから、実際には対米英戦の危機が切迫していないことが対ソ武力行使の条件となるわけである。また村尾証言の言うように「帝国国策要綱」が、対米関係に備えて南に圧力をかけることを主眼とし、北の問題は「付随的」という程度だったとすれば、「関特演」ほどの大動員がおこなわれるはずはない。

  こうみてくると「帝国国策要綱」は「条件付開戦決意」、「関特演」は「条件付開戦行為」であったことが明らかになる。森鑑定書の「従来の戦争は先ず開戦決意を行なってしかるのちに準備するのが常道である。開戦の決意なくして、準備した『関特演』は異常である」との叙述は、「関特演」がこのような「条件付開戦行為」であることを認めたものとしか考えられない。服部卓四郎が「開戦準備決意」という新語をつくり出したり(同前、326ページ)、参謀本部がおそくも8月10日までに「開戦決意」をするように要求したり(同前、371ページ)していることも、「関特演」の「条件付開戦行為」としての性格を物語っている。

  対ソ開戦決意がおこなわれなかったのは、前述の2つの条件が満たされなかったからで、「関特演」が対ソ開戦を意図しない動員だったからではない。すなわち、極東ソ連軍は日本軍部の期待したような減少をみせなかったし、南仏印進駐に対しては、米英の日本資産凍結、アメリカの対日石油禁輸という日本の予想以上の厳しい反撃が加えられたからである。8月9日には、年内対ソ武力行使中止の決定がなされた(同前、378ページ)。

(4) 検定側は異口同音に「関特演」は日ソ中立条約違反ではないと主張する。しかし同条約第1条は「両締約国ハ両国間ニ平和及ビ友好ノ関係ヲ維持シ、且ツ相互ニ他方締約国ノ領土ノ保全及ビ不可侵ヲ尊重スベキコトヲ約ス」と規定している。「条件付開戦行為」としての「関特演」が「領土ノ保全」や「不可侵」を尊重していないことは明らかではないだろうか。


  なお森鑑定書は、「8月4日豊田新任外相がソ連に日ソ中立条約遵守の申入れを行な」ったことをあげているが、この時にはすでに対ソ武力行使の条件がなくなっていたことに注意しておきたい。それ以前には日本側はソ連に対し中立条約を守るとの言明をおこなわないようにしている。たとえば、7月1日に大本営政府連絡会議で了解された外相のソ連大使への通告文は「日本政府ハ…同盟国(独伊)トノ間ニ相互信頼ノ精神ヲ維持シ且ツ同時ニ『ソ』聯邦トモ良好ナル関係ヲ継続スルカ如キ政策ヲ…矛盾ナシニ遵守シ得ルヤ否ヤハ主トシテ将来ニ於ケル事態ノ発展ニ係ルモノナルコトヲ敢テ附言スルノ必要ナカルヘシ」(『杉山メモ』上、253ページ)と述べているが、これは状勢如何では中立条約を破るとの通告にほかならない。

  また森鑑定書の言う豊田外相の申入れとは、「関特演」の威力を背景にソ連に新たな要求をおこなうことを目的とする「対『ソ』交渉要綱」にもとづいたものであるが、この要綱が8月1日に大本営政府連絡会議にかけられたときには、「『ソ』側ニ於テ中立条約ヲ厳守シ又極東ニ於テ脅威ヲ与ヘサル限リ帝国ハ日『ソ』中立条約ノ義務ヲ守ルヘキ旨ヲ明ニス」との項目について「外相之ヲ強ク主張セルモ全員反対ナリ」(同前、285ページ)という状態であった。それが8月4日の連絡会議になると一転して「中立条約ヲ守ルト云フテモ差支ナシ」(同前、287ページ)と決定されるのである。このとき実質的には対ソ武力行使の意図が放棄されたと言ってもよい。

  この間に何が起こったのかと言えば8月1日のアメリカの対日石油禁輸の決定である。「関特演」の意図を最も直接的に粉砕したのは、このアメリカの対日強硬政策であったと言える。

次に対米英開戦後の日ソ関係について。

  この点についての検定側の主張は、次のような森鑑定書の叙述に代表されていると思われる。すなわち森氏は、日ソ中立条約は「関特演」に影響されることなく存続し、日本がこれを守ってきたのに対してソ連は日ソ中立条約に違反して米英に対日参戦を約し、ついには中立条約を踏みにじって日本への宣戦を強行した、というのである。もし「関特演」を中立条約に違反しないと認めるなら、この主張も成り立つかもしれない。どの程度までの行為が中立条約違反となるかということは、国際法学の問題となりうるであろう。

  しかし歴史研究の立場から言えば、日ソ関係がどのように展開して中立条約破棄とうい結末を生み出したのか、という問題を最も重視しなければならない。

  日本の対米英開戦後の日ソ関係は、簡単に言えば、連合国形成に参加しようとするソ連と、中立条約を利用してこれを妨害しようとする日本との対抗関係として展開したと言える。

  まず開戦必至となった41年11月15日には、戦争下の対ソ政策を次のように決定されていた。

 

帝国ハ南方ニ対スル作戦間極力対『ソ』戦争ノ惹起ヲ防止スルニ努ム、独『ソ』両国ノ意嚮ニ依リテハ両国ヲ媾和セシメ『ソ』ヲ枢軸側ニ引キ入レ他方日蘇関係ヲ調整シツツ場合ニ依リテハ『ソ』聯ノ印度『イラン』方面進出ヲ助長スルコトヲ考慮ス(「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」、連絡会議決定『杉山メモ』上、524ページ)

  ここにはまださきの松岡構想の影響が大きくみられるが、実際に戦争を開始してからは「日蘇間ノ静謐ヲ保持スルト共ニ蘇聯ト米英トノ連繋ノ強化ヲ阻止シ為シ得レハ之ヲ離間スルニ努ム」(42年1月10日連絡会議決定、同前、下、84ページ)というように、米英との結びつきを阻止することに重点がおかれるようになった。具体的にはソ連領に米英の軍事基地が設置されることがおそれられており、開戦以後日本側はしばしばこのような行為が中立条約違反であることをソ連に確認させている。戦局が有利な間は、日本の対ソ政策は現状を維持するに止まり、松岡構想も独ソ和平もかえりみられなかった。

  しかし、日本の敗勢が強まり、他方で連合国の形成が実質化するに従って、日本にとっては中立条約維持が死活問題に転ずるのに反して、日本から攻撃をうけるおそれのなくなったソ連にとっては、同条約は連合国への参加を拘束する足かせという機能しか持たなくなってゆくのは明らかであろう。

  そこで日本の対ソ政策は、中立条約維持のためにはソ連に何らかの代償を払うという方向に変化していくのであり、また独ソ和平のあっせんという構想を具体化しようと試みることになるのであった。前述した43年6月19日の北樺太利権解消の決定はその変化を示すものであったが、同じ頃には独ソ和平あっせん工作も試みられていた。日本側は43年9月、44年4月、9月の3回にわたり、ソ連に対して独ソ和平あっせんについての打診をおこなっているが、ソ連側はこれにまったく応じようとしなかった。ソ連がもはや決定的に連合国の側にく加わりつつあることは明らかであった。44年11月の革命記念日にはスターリンは日本を侵略国とみなすと演説する。

  ついで戦局がさらに悪化し、敗北が決定的となってくると、日本の対ソ政策は中立条約維持に止まらず積極的にソ連を連合国から引き離すために、より大きな代償を用意するという傾向を強めていた。44年9月の外務省案では、防共協定・三国協定の廃棄、満州・内蒙古におけるソ連の勢力範囲承認、南樺太・北千島の譲渡などの項目が現われてくる(原書房『敗戦の記録』171-172ページ)。この対ソ代償案は、ソ連の中立条約不延長通告(45年4月5日)がおこなわれた後の「対ソ交渉方針」(同年5月14日最高戦争指導会議構成員会議決定)にうけつがれている。「方針」はソ連の参戦を防止するのみでなく「戦争ノ終結ニ関シ我方ニ有利ナル仲介ヲ為サシムル」ための交渉を始めることを決めているが、「将来蘇聯カ米国ト対抗スルニ至ルヘキ関係上日本ニ相当ノ国際的地位ヲ保タシムルノ有利ナルヲ説キ、且又日蘇支三国団結シテ英米ニ当ルノ必要アルヲ説示シ、モッテ蘇聯ヲ前記諸目的ニ誘導スルニ努ム」(『日本外交年表並主要文章』下、612ページ)と述べているのは、日本の対ソ政策の到達点を示すものとして興味深い。

  これらの事実が示しているのは、対米英開戦後の日本の対ソ政策は、ただ単純に、中立条約を誠実に守ったというものではなく、中立条約を利用してソ連と米英をひきはなし、連合国の形成を阻止しようとするものにほかならなかったということである。

  私はここで、ソ連の中立条約違反について記述することに反対しているのではない。中立条約違反を記述する場合にも、連合国の形成と日ソ中立条約との対抗という観点が基本とならねばならないことを強調したいのである。そしてこのような観点を欠いた検定側の主張は、意識するとしないとにかかわらず、歴史叙述を狭い視野に限定し、通俗道徳的見方を押しつけるものと言わざるを得ないのである。

  以上、検定側があらゆる問題について、事実の関連を恣意的に切りとり、そのことによって、特定の意図や見方を押しつけていることを明らかにしてきたわけであるが、この恣意性は現在の検定制度から必然的に生まれてくるものであると考えられる。しかしその点に触れる余裕はないので、最後に検定の恣意性を示す一例として、この裁判で検定側が固執している「ソビエト連邦の提案に応じて」の趣旨が記述されているのは、好学社、三省堂(稲垣泰彦他)、実教出版、清水書院、自由書房、中京出版、帝国書院、二宮書店、日本書院、山川出版の10社の教科書のうち、日本書院ただ1社のもののみであることを付記してこの稿を終わりたい。